-NO293~300
------------近衛の上奏「戦争終結の御勇断を…」と天皇の拒否-----------

下記は、近衛が昭和20年2月14日に拝謁し、天皇に戦争終結の「御勇断」を迫った上奏の全文である。
「細川日記」細川護貞=著(中公文庫)の3月4日の記述の中にある。天皇がこれを受け入れ、戦争終結を決断していれば、300万人を超える戦争犠牲者が出ることはなかった。3月10日の東京大空襲をはじめとする多くの都市無差別爆撃も、沖縄戦も、広島・長崎の原爆投下も、シベリア抑留も、満州に於ける民間人の犠牲も、戦地に於ける大勢の日本兵の餓死や病死もなかったのではないかと悔やまれるのである。

 
天皇が、この上奏を斥けたのはもう一度戦果をあげてからでないと…」という理由によってであったが、もう一度戦果をあげてから交渉に臨もうとする考え方は、当初、近衛周辺にもあったようである。ただ、戦争終結を進言した近衛も、「国体護持の立場よりすれば…」と言っていることから分かるように、日本国民の犠牲を考慮して進言したのではなかったのであり、そのことはしっかり理解しておく必要があると思う。国民の犠牲ではなく、「国体護持」が問題だったのである。
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昭和20年3月

3月4日
 昨3日、湯河原に公(近衛)を訪問。例のモロトフと佐藤と会見の電報を手交。内容は我より中立条約延期の意志を確めたるに対し、モロトフは逃げを打ちて明答せず、単に現状の維持を確約するのみ。又太平洋問題調査会の報告には、我皇室に対し極端なる論を為せるもの多くありたり。公は是を一読し、「どうも段々悪化して来た」と嘆ぜられたり。相客もありたるを以て匆々辞去。
 去る28日公より託せられたる上奏案を此処に写す。是は高松宮殿下の御覧に供する為なり。

   昭和20年2月14日拝謁上奏
 敗戦(この敗戦の言葉は言上の時危機と改められたりと)は遺憾ながら最早必至なりと存候。
 敗戦は我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日迄の所国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)。随つて敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしと存候。

 国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。
 つらつら思ふに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。
 即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我国民はソ連の意図を的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存候。

 ソ連が、窮極に於て世界赤化政策を捨てざる事は、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座候。ソ連は欧州に於て、其周辺諸国にはソビエト的政権を、爾余の諸国には少なくも親ソ容共政権を樹立せんとて、着々其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。


 ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座候。波蘭
(ポーランド)に対しては、予めソ連内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押し切り候。羅馬尼(ルマニア)勃牙利(ブルガリア)芬蘭(フィンランド)に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒトラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビィエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。イランに対しては石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要いたし候。

 瑞西(スイス)がソ連との国交開始を提議せるに対し、ソ連は瑞西政府を以て親枢軸的なりとて一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。
 米英占領下の仏蘭西
(フランス)白耳義(ベルギー)和蘭(オランダ)に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり。而して是等武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座候。

 独乙に対しては波蘭に於けると同じく、已に準備せる自由独乙委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは英米に取り、今は頭痛の種なりと存ぜられ候。
 ソ連はかくの如く欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居り候。ソ連の此の意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコウより来れる岡野(野坂参三)を中心に、日本開放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊と連携、日本に呼びかけ居り候。


 かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ連はやがて日本の内政にも干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候。(即ち、共産党公認、共産主義者入閣──ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く──治安維持法及び防共協定の廃止等々)
 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。

 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。皇族方の中にも此の主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候

 職業軍人の大部分は、中以下の家庭の出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
 抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事、今や明瞭なりと存候。満州事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名な事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。
 是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取り巻く、一部官僚及び民間有志(これを右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。


 此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖は,、此の間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を探り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。

 昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢いを加へつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を扇動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
 一方に於て、徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。


 以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存候。
 戦局の前途に付き、何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。随って、国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。


 戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志此の一味と饗応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従って戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さへ一掃さるれば、便乗の官僚並びに右翼、左翼の民間分子も声を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故に、其の本を絶てば枝葉は自ら枯るるものと存候。

 尚これは少々希望的観測かは知れず候へ共、もし是等一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来英米及び重慶の目標は日本軍閥打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼等としても戦争継続に付き考慮する様になりはせずやと思はれ候。それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の立て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。   以上  (公自筆和紙8枚)


 右上奏の時3点の御質問ありたることは、2月16日に記したるも念の為。一つは「梅津は、米国は我皇室を抹殺する意図なりと云ひ居るも、自分は疑問に思ふ」と仰せられ、二つは「陸海軍共敵を台湾沖に誘導するを得ば是に大損害を与へ得るを以て、其の後終結に向ふもよしと思ふ」由仰せられ、此の点極めて淡々と軍の上奏を御聴被遊様拝察したりと公の談なり。又木戸内府も「軍があんなことを申し上げるから困る」と云ひ居られし由。三には、軍の粛正につき、杉山は戦争を終結する時は、軍内部が動揺するから、自分が元帥になりて押さへると申し上げたる由にて、公は、元帥の肩書きでは押さへられまいと申し上げ、内府も笑ひたる由。而して「誰を以て粛軍するがよいかはわからぬ」と仰せあり、「三笠宮は阿南と云ふが」と仰せありたりと。公は是に対し、小畑、石原、宇垣等がある由、答へられたりと

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憲兵と東条独裁体制---------------------

憲兵は、本来、軍人・軍属を対象とし、軍隊内部の非行・問題行動を摘発・監視することによって、軍の秩序や規律を維持するのが任務である。しかしながら、軍の勢力が台頭し、軍が政治権力を振るい始める満州事変前後から、憲兵はその司法警察権を行使して、任務の対象を軍隊外部へ広げていったようである。
 「細川日記」(中公文庫)の著者細川護貞も、その「あとがき」で「…然し、その後、発表された当時の多くの人の日記や記録を見ると、どれもこれも大なり小なりに群盲象を撫でるの類であることを悟った。それもその筈で、これだけ大きな、且つ複雑な事件を、すべて把握していた者は恐らく生きた人間には居なかったであろうと思うようになった。しかも、私などの場合でも、誰が同志で、誰が敵かは、容易に判断しかねたのであった。うかつに話が出来ないというのが当時の実情であった。更に悪いことには、吾々の周辺には常に憲兵の目が光っていた。一歩誤れば、私自身が拘引されることは勿論、累を多くの人々に及ぼさぬとも限らない。このような情勢下では、人の心も正常たらんとしても、知らず知らずの内に歪みを免れないものである。私の考えが偏ったとしても、又、敵視すべからざる人を敵視したとしても、それはそれなりに止むを得なかったと思っている」と書いている。戦時体制が強化されるにつれて、憲兵の任務の範囲や権限が拡大され、組織が強化されるとともに、東条がその政敵や反対者の行動を封殺するため、憲兵を暴力手段として私的に利用した結果であろうと思われる。

 「東条は、関東軍憲兵隊長の時に覚えた憲兵の味が忘れられず、政治問題が起こると、常に憲兵の威力をもって解決しようとする悪癖があった」とか「東条は、憲兵万能の権力主義者であった」などと指摘したのは、元関東軍参謀田中隆吉であるが、東条が陸軍大臣や総理大臣であった時、憲兵が不当に権力を行使し、あたかも思想犯を取り締まる秘密警察のごとき活動を展開した事実をみるとうなずける。ここでは、「細川日記」細川護貞(中公文庫)から、憲兵に関わる記述のいくつかを抜粋する。忘れてはならない先の大戦の一面であると思う。
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5月15日

 去る12日、常田健次郎氏の招きにより、岡崎鶴家にて松下幸之助、木舎幾三郎及び水谷川男
(水谷川忠麿男爵)と会食。その席上水谷川男の話に、東京は再び憲兵政治始まり、既に大達前内相は挙げられ、原田熊雄男(原田熊雄男爵)は4度尋問を受けたりと。是如何なる方面の意図なるか。梅津か阿南か、要するに末期的現象なり。或いは独の降伏によりて、「軍」が神経過敏となりたるか。

 ・・・(以下略)
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5月24日

 去る16日上京。18日午前、富田氏
(第2次・第3次近衛内閣書記官長)を平塚に訪問す。平塚駅より徒歩にて向ふ途中、酒井中将に邂逅、中将も亦富田氏を訪問さるる由同行す。案内を請へば既に先客あり、河相達夫氏なり。4人昼食を共にしつつ種々時局談あり。河相氏は、公の蹶起を促す由を説き、公側近者、殊に小畑、石原、両中将の和解を説き、且つ自信ありと述ぶ。河相氏先づ暇を告げ、酒井氏之に続く。余は残つて吉田茂氏等の事件を聞く。

 憲兵に挙げられたるは、吉田茂、殖田俊吉、馬場恒吾、岩淵辰雄等の諸氏にして、原田男は自邸にて4日間の取調べを受け、且つ家宅捜索を受け、樺山愛輔伯も亦家宅捜索を受けたりと。その主謀は東京憲兵隊の高坂某にして、東条系に属し居り、目的とする所は、是等諸氏を尋問することにより、和平運動の証拠を発見し、ひいて近衛公を陥入れんとしたるものの如く、原田男に対しても近衛公の上奏文の内容をしきりと問ひ訊し、又小畑中将も一二尋問せられたるも、その際も、しきりに上記の内容をさぐらんとせり。然し乍ら、和平運動なるもの存在せず、且つ何等証拠となるべき物品の発見なかりし為、単に吉田茂氏軍誹謗の罪に陥入んとしつつあり。又憲兵隊内部の事情を見るに、高坂某は東条との連係あり、且つ軍の内部にも、一部近衛系を弾圧すべしとの気風あるを以て、自己の利益の為此の挙に出でたるものの如きも、その上層方面に意外の反響を呼びたると、何等実跡なかりし為、却つて窮境にあるものの如し。即ち吉田氏の尋問に対する態度の立派なるを賞揚する等のことあり。

 又近衛公はこのことの起こりて後数日、木戸内大臣を訪問「憲兵がしきりと上奏文の内容を求めつつあるも、如何なる意図を以て斯の如き挙に出るや、余は理解し難きを以て、阿南陸相と会見し、事の理非を問ひ質さん意向なり。余は重臣として、御上の御召しにより、率直に自己の所見を申し上げたるまでにて、その時何の御咎めもなかりしが、今憲兵によりて、その内容を調べらるるいはれなし。かくては重臣としての責を尽す能はざるを以て、此の際位階勲等一切を、拝辞する決心なり」と語りたる所、内府は、直接阿南と会ふ前に、内府が阿南と話をなすべきを以て、一応思ひ止まられたしとなだめられたりと。原田男は病中なればとて、4日間憲兵泊まり込みて取調を為したり。


 ・・・(以下略)
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6月11日

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 今日午後、高村警察局長を大阪府庁に訪問、その話に、議会は多少もめ居ること。又大阪の陸軍の司令官は、「此の際食糧が全国的に不足し、且つ本土は戦場となる由、老幼者及び病弱者は皆殺す必要あり、是等と日本とが心中することは出来ぬ」との暴論を為し居たりと。又過日の空襲の際、梅田の憲兵司令は、一老婦人が空襲中窃盗を為したりとの嫌疑を以て此の婦人を駅の黒板下に繋ぎ、黒板にその由を印したりと。又この憲兵は、昨日の日曜に映画館の前に列をつくり居たる者を捉へ、強制労働を為さしめ、而して営業用のパンをパン屋より強制買上げを為し、是等労働を為したる者に分ち与へたりと。その為パン屋は営業不可能となりたる由。何れも非常識なる男なり。
 空襲後の輿論調査は、挙げて軍への不信と怨嗟の声なるも、是亦彼等自らが作りたる結果なり。又大阪にても、和平運動(実は軍誹謗)を取締まる由。
 

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憲兵(独立統帥権行使者)の「伝家の宝刀」-------------

軍隊内部の秩序や規律を維持することが任務の憲兵が、なぜ,、民間人に対して「泣く子も黙る」といわれるほどの権力を持ち得たのか。特に東条が陸軍大臣や首相在任中、憲兵の権限が絶大であったのはなぜなのか。「続・現代史資料(6)軍事警察ー憲兵と軍法会議」(みすず書房)の資料解説に、その「答」ともいえる貴重な証言がある。
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資料解説

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 陸軍大臣・宇垣一成の述べた「軍事警察の主眼」「憲兵活動ノ日常ノ執務ノ基礎」の実務を担う憲兵はどう自覚していたか。日中戦争下、歩兵上等兵から憲兵上等兵になり憲兵曹長〔下士官の最上位〕で終戦をむかえた井上源吉氏は次のように記している。

 憲兵は1人1人が個々に陸軍大臣に直属し、他兵科とはその制度において一線を画していた。憲兵伍長以上はすべて陸軍司法警察官という身分をもち、独立して捜査権を執行する権限をあたえられていた。したがって、、軍隊としての統制上の階級はあるものの、司法警察官という権限においては、将校下士官を問わずすべて同格ということになっていた。また憲兵は、必要ならば陸軍のみならず海軍にまで捜査権を行使することができた。戦時中は内務省警察や外務省に属する領事警察にいたるまで指揮下に入れ、対戦国の国民にまで警察権を執行した。もちろんこのように絶大な権力をもつ兵力を無制限に増強することは、弾圧政策に利用されたり、あるいは革命の原動力となる危険が潜在していた。そのため昭和12年の前半までは日本全軍の憲兵兵力は999名以内と定員を制限されていたのである。

 陸軍大臣に直属した憲兵は、さきに紹介した明治33年の通達のたてまえなどは日中戦争の時代になると完全に吹きとんでいた。さらに、軍隊内ではどうであったか。これを『戦地憲兵』でみてみると──。

 昭和13年4月7日、徐州会戦に参加、上海に帰還した百一師団、それは「前線帰りの将兵は、軍規がみだれ気があらく行動が粗暴で、何かにつけて住民とのあいだでいざこざをおこした」が、師団の先陣として帰還した大隊は、「中国人豪商の邸宅を無断で占領し、大隊本部として使用しようとした。」これを「中止されるための使者として」派遣された井上憲兵上等兵と大隊長とのやりとりを紹介する。

 応対に出た大隊副官は、私が階級の低い上等兵であるためか、最初から傲慢な態度で、私の申し入れをぜんぜん相手にはしなかった。そこへ出てきた大隊長は、「おいこら憲兵上等兵、なにをくだらんことをいっとるか、この町はもともとわれわれが占領した町だ、われわれがどこを使おうと貴様の指図は受けん。帰って分隊長にいっておけ」とどなった。
 私はやむなく最後の切り札である伝家の宝刀を抜くことにした「気をつけ! 陸軍憲兵上等兵井上源吉はただいまから天皇陛下の命により大島大隊に対しこの家屋の明け渡しを命令する」とやってしまった。彼は「俺は陸軍少佐だぞ。貴様、上等兵のぶんざいで俺に命令するのか」と反論したものの、状況の不利をさとったのか急に態度をあらため「明日、さっそく憲兵隊へあいさつに行く、分隊長によろしくいっておいてくれ」といった。

 ここにはいくつかの問題が示されている。上等兵と大隊長・少佐との軍隊の階級差、それに伴う権限の実感は、体験した者には説明の要はないが、表現できないほど大きかった。しいて現在にあてはめれば、官庁の受付氏と局の総務課長との差、それでも精神的抑圧感は決定的に異なる。軍隊で上等兵が大隊長に直接口がきけるのは、当番兵に任命された時ぐらいである。にもかかわらず右のような階級差を超えた行動を憲兵上等兵がとれたのも、憲兵は陸軍大臣に直属していると解釈可能な「陸軍省官制」の規定、さらに大事なのは、憲兵実務の法的根拠である「憲兵令」が勅令で公布されていること、そして大隊長にも、ここから発出する統帥権への絶対服従が矢張り心の中にあったことである。軍隊内における憲兵の権限の強さを、これほど具体的に物語るものはない。と同時に、「天皇陛下の命により」と発言して上等兵が少佐を屈伏させうる憲兵は、板倉憲兵大尉が指摘するように「〔上官への〕絶対服従関係を引用して刑責を免るる事は憲兵たる職責上断じて許されない」のであり、各憲兵は個人、個人が結果責任を負わねばならぬ独立した統帥権の行使者であったのである。したがって、ある状況や雰囲気に、まして条例など法に仮託した免責されえない存在だったことである。

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 …軍の秩序を維持し、軍人軍属の非違を糺すため設置された軍事警察は、最終の段階では全く反対の機能をいとなむ場合が少なくなかった。

 ・・・(以下略)
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 参考
 「憲兵令  第一条 憲兵ハ陸軍大臣ノ管轄ニ属シ主トシテ軍事警察ヲ掌リ兼テ行政警察、司法警察ヲ掌ル」

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沖縄における日本軍の蛮行(「細川日記」)-------------

 「細川日記」は、もともと昭和28年2月に、磯部書房から『情報天皇に達せず』という標題で出版されたものであることが「あとがき」に記されている。東条が独裁体制を敷いて情報を統制したため、近衛が、細川護貞に各方面から情報を集めて高松宮に報告する任務を与えたことを考えると、磯部氏による『情報天皇に達せず』の標題の方が、内容を暗示して理解しやすいのであるが、世間の耳目を聳動させることを避けたい著者の思いによって、再出版の際に、「細川日記」としたようである。
 下記は、細川護貞が、沖縄の日本軍の蛮行について、高村秘書官(近衛前首相秘書官)から得た情報を記述している部分である。高村秘書官は、直接沖縄に赴き、視察してきたことを話しているので、その事実は疑いようがないが、沖縄戦の始まる前から、下記のような蛮行があったということに驚かざるを得ない。この少し前までは、東条憲兵が絶大な権力を振るっていたのである。政府や軍の中枢にも知られていたそうした蛮行を、なぜ取り締まることができなかったのか、と思う。軍隊内部の秩序や規律を維持すべき憲兵が、本来の任務を果し得る状況になく、憲兵制度が正常に機能しなくなっていた、ととらえるべきなのかも知れない。また、当時の日本軍や政府関係者が、沖縄住民の惨状を知りながら、その対策に動くことがなかった。忘れてはならないと思う。「細川日記 下」細川護貞(中公文庫)からの抜粋である。
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昭和19年12月8日

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 7日、午前1時半一機来襲。警戒、空襲警報発令。此の日高村氏より此の一二日危険なる由注意あり。午後、平塚に富田氏を訪問、高村氏の話として、琉球に於ける我軍は、軍紀弛緩し、民家に入りて物をとり、婦女を陵辱する等のことありと。是支那にありたる部隊なりと。此の内閣は余命幾何もなき由、各方面の意見なりと。又木戸内府に対する非難、更迭の時近衛公を此の地位に据えては如何等々の話あり。氏との談話中、加瀬外務秘書官荻窪に来り、ゲッペルスが大島に対し、独ソ和平の斡旋を依頼したりとの話ありたりと。5時辞去。
 6時鎌倉駅にて警報に逢ふ。是亦一二機 時余にして解除。


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昭和19年12月16日

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 昨15日、高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島午前7時より4時まで連続空襲せられ、如何なる僻村も皆爆撃、機銃掃射を受けたり。而して人口60万、軍隊15万程ありて、初めは軍に対し皆好意を懐き居りしも、空襲の時は一機飛立ちたるのみにて、他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず。又4時に那覇立退命令出で、25里先の山中に避難命ぜられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有様にて、今に到るまでそのままの有様なりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は陵辱せらるる等、恰も占領地に在るが如き振舞ひにて、軍紀は全く乱れ居れり。

 指揮官は長某にて、張鼓峰の時の男なり。彼は県に対し、我々は作戦に従ひ戦をするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべし、と広言し居る由。島は大半南に人口集り居り、退去を命ぜられたる地方は未開の地にて、自活不可能なりと。而も着のみ着のままにて、未だに内地よりも補給すること能はず、舟と云ふ舟は全部撃沈せられ居りと。来襲敵機は1000機、島民は極度の恐怖に襲はれ居り、未だ山中穴居を為すもの等ありと。又最近の軍の動向は、レイテに於ても全く自信なく、高村氏が、「クリスマスプレゼントになりますか」と問ひたる所、「敵も、さう考へて居るでせう」と答へたる由。又内地を各軍管区に分け、夫々の司令官が知事を兼ねるが如き方法をとらんとしつつあり。又海岸線には防備なく、全部山岳地帯に立てこもる積もりの如しと。那覇にても敵に上陸を許し、然る後之を撃つ作戦にて、山に陣地あり、竹の戦車など作りありたりと。
 

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憲兵 疑わしきは 拷問-------------------

 「ある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)は、『朝日新聞』山形版に183回にわたって連載された「聞き書き 憲兵・土屋芳雄 半生の記録」を支局員だった奥山郁郎、貴志友彦の両氏がまとめたものである。これを読むと、軍の秩序や規律を維持するのが主な任務であるはずの憲兵が、あたかも関東軍の拷問係の如く、頻繁に拷問を繰り返していたことがわかる。
 下記は、憲兵となって初めて、「拷問の手ほどき」を受けた時の様子を土屋元憲兵が詳しく語っている部分の抜粋である。下記の「張文達」の他にも、「チチハル鉄道列車司令の鞠という30歳ぐらいの男」(拷問数日後死亡)、「王柱華という中学校の教師」、「通ソ・スパイ張恵民」(自白したにも拘わらず、裁判なしに銃殺)、「黄野萍と崔瑞麟」(ハルビン憲兵隊へ-731部隊送りと思われる)、「聶」、「王鴻恩」(拷問がもとで後に死亡)、「候」、「田維民」、「王育人」(後に死刑)、「劉家棟」(満州国警察幹部)などを土屋元憲兵自らが拷問した事実、および、その理由が同書の記述中にある。
 拷問そのものの残虐性もさることながら、法に忠実であるべき憲兵の、あたかも拷問が任務であるかの如き日常や、疑わしい人間は躊躇なく拷問するという姿勢に驚かざるを得ない。土屋元憲兵が入営した時から数えて、直接間接に殺したのは328人、逮捕し、拷問にかけ、獄につないだのは、1917人であったという。
 憲兵隊だけではなく、前線の部隊や、警察組織などでも拷問があったことを考えると、15年戦争中にいったい何人の中国人が拷問の犠牲になったのかと心が痛む。嘘であってほしいとは思うが、殺された被害者の遺族や拷問された当人から告訴状をとり、関東軍司令部や憲兵隊司令部から押収された書類などとつき合わせて調べられた上、撫順戦犯管理所での認罪運動を通して総括されたものであれば、否定しようがない。
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                           憲兵の12年
拷問の手ほどき

 平陽鎮には関東軍はいなかったが、満州国軍歩兵15団の一個中隊が分駐し、国境線の分屯地に食糧などの補給をしていた。治安は悪くなかった。だが、満州事変後、関東軍に追われて散ったはずの抗日分子や、国境を越えてくるスパイがいないとも限らない。憲兵になって初めて外へ出た土屋は、そんな連中を捕まえ、早く手柄を立てたかった。しかし、反日ビラやポスターが出るわけでもない。果たして抗日分子がいるのかどうかさえわからない。実際雲をつかむような思いだった。


 土屋は一計を巡らした。この街を牛耳っているとみた商工会の組織する自警団を手足に使うことだ。彼らを自分の目や耳にすれば、何倍もの力になる。通訳を通じ自警団長に話をつけた。「街に怪しい者が入ってきたら、その都度、自分に連絡しろ。みんなにも伝えろ」。この団長は、何の抵抗もなく了解した。いわば自分の同胞を売るということであり、土屋は半信半疑でもあった。それが一週間もすると、見事にかかった。

 「怪しい男がいるから早く来てください」と、自警団長ともう1人の団員が伝えてきた。土屋は、同僚の上等兵と一緒に駆け付けた。街の中の洗濯屋にみかけない男がいる、という。土屋はピストルを手に店内に入った。男はいた。30歳ぐらいの中国人で、頑丈そうだった。縛り上げて連行した。
 土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った網にかかった」のである。名前は張文達といった。33歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」と、土屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それで先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。


 その伍長は、言葉からいって東北人ではなかった。ほおがこけ、目が鋭かった。憲兵歴2,3年ではなかった。ハルビンは分隊所属だったのでよく知らない。土屋らが中国人を連行しておきながら戸惑っている様子を見て、「よし、オレがやる」と乗り出してきた。「お前たちも手伝え。オレが教育してやるから」。目が異様に光り、拷問の手ほどきが始まった。

 まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ」。土屋と同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。

 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも1時間、2時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき、脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は10キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、といい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。

 土屋たちは、男を棒からおろしてやると、にわか仕立ての留置場にした一番奥の部屋に連れて行き、柱に縛りつけた。奥の部屋にしたのは、逃亡を防ぐのと、訪ねてくる一般の中国人に男の姿を見せたくなかったからだろう。この日の拷問が終わり土屋はホッとした半面、「あれだけ痛めつけられたのに吐かないのは、抗日分子の中でも相当の大物ではないか」という気持ちがわいた。それは、自分の捕らえた男への一種の期待感であった。

 2日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しににした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と土屋は思った。ところが違った。伍長は、いきなり背中に押しつけた。ジューという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテ使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。狂気の世界だった。「これは何だ」。土屋は、男にとって伍長と同じ立場であるのに、「この伍長は鬼だ。そうでなければ、こんなむごいことはできまい」と思った。コテを焼け、といわれれば黙々と従ったが、心中では、顔をしかめていた。できることなら、その場から逃げ出したかった。同僚の上等兵も同じ思いだったろう。押し黙ったままだ。軍馬手らは、部屋のすみで言葉もない。

 班長格の曹長や伍長のすぐ上の軍曹が、時折、拷問部屋をのぞいては、「まだ吐かないか。ずぶといやつだ」といって、すぐ引っ込んだ。「拷問をよせ」とか、「むちゃをするな」といった言葉は一言もなかった。ヒゲを八の字にした「ジンタン軍曹」で、偉そうなのは見せかけだけだが、これも功名心だけは一人前だった。地元の人間でない、というだけで捕らえた中国人であるのに、その日のうちに、憲兵隊に「抗日分子一人を検挙、取り調べ中」と報告していた。男の自白を待つのは土屋や伍長ばかりではなかった。「拷問をやめろ」などというわけがない。

 拷問はさらに続いた。逮捕して2日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが3日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水をいれた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって、水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。
 この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。それでも、伍長は「やれ!」という。土屋は、「もうやめては……」と何度も言おうと思った。相手の男を哀れというよりも、拷問をさせられる自分自身がつらかった。しかし言わない。言えば、この弱虫野郎! それでも憲兵か」と、伍長が怒鳴るのは目に見えていた。「止めさせたい」と思う心とは裏腹に、土屋もしたたかだった。この水責めが、自白を迫る上で最も効き目があることを直感的にかぎとっていた。以後、自分の取り調べには、しっかりとこの水責めを採り入れ、効果をあげることになる。それは後で触れる。


 3日目は水責めで終わり、4日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を3本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。3本並べ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚の2人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。

 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を4,5本求めてきた。この針を男の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっているとほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに、伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとする、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。

 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達、33歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ意外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。

 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から2日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵15師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋もみた。

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北満進出のための軍の謀略 甘粕と和田--------------

 下記は、「満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの」太田尚樹(講談社)から、柳条湖事件直後の2つの謀略に関する部分を抜粋したものである。一つは、アナーキスト大杉栄を殺害したとして世に知られることになった元憲兵大尉甘粕正彦によるものであり、もう一つは、奉天特務機関に出入りしていたという予備中尉和田勁のものである。まさに、目的のために手段を選ばない理不尽な所業であると思う。

 同書は、甘粕事件についても詳述しているが、大杉栄と当時の妻伊藤野枝、および、甥の橘宗一を殺害したのは、甘粕ではなかったということである。ロシア革命後の新興ソ連に脅威を感じていた軍は、関東大震災の混乱に乗じて社会主義者を虐殺したり検挙したりしていたが、大杉栄も、憲兵隊上層部か陸軍上層部のいずれかの命令によって、検挙・拘束・殺害されたものであり、大勢の憲兵から殴る蹴るの暴行を受けて殺されたというのである。一緒に殺されてしまった当時6歳の大杉の甥・橘宗一が米国籍を持っていたため、米国大使館の抗議を受けて、その罪を、大杉を連行した甘粕一人に引き受けさせたというのが真相のようである。甘粕も、天皇を頂点に戴く日本軍の汚名を代わって引き受け、真相は誰にも語ることがなかったのである。
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                          14 満州事変勃発

 甘粕ハルピンに現わる

 ”討ち入り”に間に合うようにと、甘粕は大急ぎで東京からハルピンに舞い戻ってきた。奉天郊外の実行部隊の別働隊として、甘粕はこの地で待機することがあらかじめ決められていたからである。その甘粕が柳条湖事件勃発の知らせを受けたのは、9月18日深夜のことだった。「いよいよ始まったな」と思いながら時計を見ると、満鉄線が爆破されてから、1時間が経っていた。
 だがそれまでハルピン特務機関長を務めていた沢田茂に代わり、この年8月1日付で赴任してきた百武晴吉中佐は、沢田以上に慎重な男だった。
「まだ勝手な行動は許さんぞ。奉天からの指示を待つのだ。あちらの進展状況に目処さえつけば必ず君の活躍するときがくる」と言って、百武は甘粕をたしなめた。板垣、石原からゴー・サインが出れば、直ちに奉天特務機関長の土肥原から知らせがくる手はずになっていたのである。
 21日深夜、甘粕が動き出した。そのとき、ハルピン特務機関員宮崎繁三郎の妻は、「パン、パン、パーン」という発射音につづいて、窓ガラスの砕ける音を聞いた。驚いて宿舎の窓のカーテンの陰からそっと見下ろすと、2人の男がピストルを乱射している。1人は間違いなく甘粕だが、もう1人の方は甘粕に影のようについて回っている、人相の良くない例の男のはずだった。


 あらかじめ夫から甘粕の行動を聞かされていた宮崎の妻が「あんなやり方でいいのですか。捕まったら支那語が解るわけじゃなし、日本人だとすぐ分かっちゃいますね」と、心配そうに夫の顔を振り返った。だが、宮崎の方は落ち着いたものだった。
「そのときは自爆する覚悟さ。甘粕は命がけだからね。もっとも、ポケットには張学良の軍隊の密使であることをうかがわせるような、支那語で書かれた手紙でも入っているだろうよ」とは言ったものの、彼の心情を思うと、なんとも哀れであった。


 南満を抑えた勢いで、一気に北満に進出しようと関東軍が躍起になっていたハルピン出兵の口実作りは、このときからはじまっていた。夜な夜な、何者かが出没して在ハルピン日本領事館にピストルを乱射したり、爆弾を投げ込み、日本人商店に手榴弾が放り込まれる。あるときには、ナンバープレートのない車の窓から、歩いている日本人が狙撃を受けたこともあった。

 直ちに現地の日本字新聞は、「居留日本人4千人の命危うし」と書き立て、内地の新聞も大きな活字を紙面に躍らせた。朝日新聞も9月23日から連日のように、「ハルピンの在留民突如危機に陥る。各所に爆弾投下さる」「ハルピン急迫せば在留民は引き揚げ 閣議で方針決定」「ハルピン危機迫り 現地保護を請求」と、現地の切羽詰まった状況を伝えている。

 このときの甘粕は中国製の手投げ弾を使い、いつも身につけているピストルも、モーゼルである。服装も苦力や、ときには便衣隊に変装していたから、簡単には見破られないはずだった。


 ときを同じくして、ハルピン総領事館も動き出した。大橋忠一総領事は百武特務機関長と前後して、「日本人居留民の生命財産保護のため出兵求む」という文案を、東京の本省に打電する手はずになっている。計画はトントン拍子に進んでいるかのように見えた。
 ところが、宣伝に関しては、相手の方が一枚も二枚もうわ手だった。漢字新聞に「ハルピン領事館の爆破は、玄関先に小爆弾を破裂させただけのもので、被害は皆無。爆破された日本人家屋にいたっては、いずれも空屋ばかりで、人災は一切無し。これらはすべて日本軍による侵略のための見えすいた謀略で、ハルピンはきわめて平穏」とすっぱ抜かれてしまった。これで、甘粕の謀略は頓挫する。


 だが、近年で出てきた資料の中には、ハルピンだけでなく、事変勃発直前の吉林でも同じような騒動が起きていたが、明らかに甘粕の主導だったことを窺わせるものがいくつかある。吉林で起きた騒動に関東軍を出動させれば、奉天がガラ空きになることを口実に、林銑十郎率いる朝鮮軍を満州に入れる計画だったのである。

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危うく難を逃れた満鉄事務所

 一方そのころ、奉天の東拓ビルに置かれたばかりの軍司令部では、板垣と石原が、やきもきしながらハルピンの情勢を見守っていた。奉天占領に気をよくしたものの、ハルピンの危機を口実に、朝鮮軍や内地からの増援部隊を速やかに投入しないことには、いたずらに時間だけが過ぎてゆき、張作霖事件の二の舞になってしまうからである。

 ちょうどそのとき、奉天特務機関に出入りしている和田勁という予備中尉がやってきて、「甘粕ではダメですよ。私に任せてください」と、板垣の前で大見得を切った。土肥原賢二にいわれたのか、あるいは自ら買って出たのか分からないが、和田は「もっとでかい餌をまかないと、大魚はかかりませんよ」と、胸を張った。

 次の日の午後、この豪傑は一人の手下を連れてハルピンに乗り込んできた。早速、名古屋ホテルに甘粕を呼び出すと、和田は「奉天では急いでいるんだ。まあ、ここはオレに任せろ」と言って、小柄な甘粕を見下ろした。当然、甘粕の方は面白くない。あの土肥原機関長が和田を送り込んできたと思うと、よけいにムッとする。それでも「満州にはこの手の男が大勢いるとは聞いていたが、一体この男は何をしでかすのだろう」という、興味の方が優先した。


 それから直ぐに和田は表の通りに出て行ったが、後を追った日本人の手下が、大事そうに抱えた小型のトランクが、甘粕は妙に気になった。間もなく和田だけが戻って来ると、甘粕の手を引っ張るようにして、ホテルの三階に上がってきた。
「よく見ていろよ。満鉄事務所が吹っ飛ぶから」


 和田はこともなげにそう言ってから、窓の外に目をやって、悪戯っぽく笑った。
 驚いたのは甘粕である。あそこには、日頃世話になっている事務所長の宇佐見寛爾をはじめ、満鉄ハルピン支社に勤める数百人の社員がいる。事変直前に内地へ金策に行って失敗して帰ってきた甘粕を見ると、金の用途も尋ねずに、大連の本社に掛け合って、都合してくれたのも宇佐見だったし、昨夜も一緒に飲んだばかりだったのである。


 その宇佐見だけでも助けなければと焦った甘粕は、部屋に飛んで帰るなり、事務所長のデスクに電話を入れた。
「いま板垣参謀が、火急の用事で見えていますから、至急来てください。大至急です、大至急!」

 いつも沈着で、ときどきニヒルな笑いを浮かべるだけの甘粕のひどく慌てた様子に、宇佐見は取るものも取りあえず、小走りにやってきた。
 しかし、板垣大佐などどこにもいない。甘粕はバツが悪そうに頭を掻いているばかりだし、傍らにいる見慣れない和田というふてぶてしい男も、窓の外に目をやったまま動こうとしない。
「いったい、どうしたっていうんだね。君らの悪戯に付き合っているほど、ボクは暇人ではないんだ」

 
 いつも温和な宇佐見が、そう言っていらだちを見せた。
 そこへ、手下が駆け込んでくるなり、「大将、時限装置が故障でダメです」と言って、情けなそうな顔付きで和田を見つめた。さすがにすまなそうな顔付きをして、和田が事の顛末を話すと、宇佐見は青くなって怒りだした。
「バカッ……」
すんでのところで、あの世に送り込まれるところだったから、怒るのも無理はなかった。
 この事実はほとんどの満鉄社員の間に知れることになった。当然のことながら、彼は恐ろしさに震え上がり、それが収まると、こんどは怒りに震えたという。


 和田という男のように、中尉でお払い箱になって満州に流れてきたような男がやる謀略などは、こんな程度なのかもしれない。甘粕はそう突き放して考えてみるものの、自分が今やっていることも、決して褒められたものではない。
「それに、オレがハルピンでピストルを乱射したり、手投げ弾を放り込んだことも、相手側にすっぱ抜かれて失敗に終わってしまったではないか。あれはなまじ日本人に危害を加えることをためらったからだ。これからは和田のように、物事をもっと割り切って取り掛からなければならないのかもしれない」

 ・・・(以下略)

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謀略 阿片の組織的売買------------------

 「満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの」太田尚樹(講談社)は、江口圭一や倉橋正直などの著書、断片的に語られる関係者の証言などを総合し、15年戦争当時の阿片取り引きをA、B、C、3つのタイプにわけて、下記のようにまとめている。戦争相手である、国民党蒋介石軍にも売りつけ、利益を分け与えていたということには、驚かざるを得ない。また、元憲兵大尉の甘粕のみならず、戦後、日本の総理大臣になる岸も、阿片と無関係ではなかったようである。呆れるばかりである。
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               21 謀略という名の哀しきロマンティズム──曠野に咲き誇るケシの花

  阿片の流通組織

 甘粕、岸を筆頭に「妙な会」が関わっていた阿片の流れを知る上で、流通の構造を書いておかなければならない。。大まかには3つに分類できるが、まず、Aタイプは、熱河省などのケシの栽培農家を取り仕切っている組織から、満州国政府専売局が買い上げる。それを阿片煙膏に精製してから、法外な価格で、満州国内の阿片吸引所や愛飲者に売りつける。

 この場合、栽培農家は不安定な商取引は避けたがるので、契約作付方式としたが、これによって、よそ者が入り込むのを防止できる効果もあった。さらに生産者側は不安定な通貨よりも、綿布、食料品、豚油(ラード)などの物品と交換を望んだので、現物取引になった。物資の調達、運輸はもちろん、総合商社満鉄の仕事である。 

 満州国政府は、専売局を通じて専売制にしてあるから、第3者が入り込めない。上海駐在の三井物産社員たちの間では、「熱河の阿片は、満州国政府と関東軍の背後にいる甘粕がヒモだから、熱河阿片に手を出したら命はない」と囁かれていたのは、そのためである。
 同時に政府は、禁煙総局を作って表向きは阿片を禁止しているから、価格が吊り上がる。今日でも、暴力団が麻薬を資金源にしているのは、厳しい取り締まりによって支えられていると言ってよい。麻薬が自由に売買できれば、彼らは手を出すことはないわけである。なんのことはない。満州国政府は、禁止と販売の双方を、同時進行させていたのである。


 そして生産地の警備、満州国内にはほかの地域から持ち込ませないための監視と、用心棒として存在するのが関東軍ということになる。このAタイプで注目すべきことは、支那事変が始まると、販売先が満州国内に限らず、日本軍占領下の中国にも深く浸透し、さらに甘粕が腐心したように、蒋介石軍にも食い込んでいたことだった。
 「もちろん岸は、そのころから蒋介石と通じていたはずです。それは甘粕が国民党側に軍資金として、阿片の上がりの一部を提供していたからです。蒋介石は、自国の国民を阿片漬けにして得た金を受け取るのには抵抗があったはずですが、目の前の八路軍と、さらに日本軍とも対峙しなければならないのですから背に腹は替えられなかったのです」
 戦前、上海の三井物産支店にいた元社員は、そう語っている。


 ところで戦前の中国共産党と、戦後の新中国。岸の政治イデオロギーからすれば、共産主義は同じ「だが」の中にある近接した思想ではあっても、持論にしている産業立国論は、農業に活路を求める中国共産党のそれとは、遠い存在であった。戦後も共産党一党支配の新中国に対して、きっぱりと一線を画した岸は総理時代に、高等学校以来、満州でも付き合いのあった伊藤武雄たちから、盛んに日中貿易、日中国交正常化を持ちかけられたが、腰を上げようとしなかった。
 さらに総理を辞めてからも、台湾ロビーストとして君臨した岸だが、蒋介石との深い信頼関係は、並のものではなかったといわれる。甘粕を通して両者の間に築かれた絆とする見方が、的外れではないことを物語っている。


 では甘粕は、一連の阿片の流れの中で、何処に位置していたのか。まず生産者から買い上げる位置に里見甫がいて、彼と買い主の満州国政府との間に、甘粕がいた。甘粕の場合は、さらに政府と消費者の間にもいちしていて、複数のダミー会社を通して、取引していたといわれる。ダミー会社はフィルターの役割になるが、岸が口癖の「水は濾過して飲め」は、神道の儀式「禊」の美意識に通じる。水は清濁併せて呑むべからず。濁水も濾過すれば、清水になるという論法である。
 そして、政府側の窓口のトップは古海忠之で、組織上は、さらにその上に、岸がいたわけである。


 次にBタイプは、外国から阿片を輸入して、上海、香港ルートで売り捌く。これにはイギリスが深く関わっていて、インドから駆逐艦や、ときには巡洋艦まで使い、上海で陸揚げする。軍艦だから臨検を受けることもなく、堂々と持ち込むことができたのである。
 ここでは里見甫が要の位置にいて、その背後にいたのが甘粕、という図式になっていたといわれる。結果的に、莫大なおこぼれが、満州国に入ることになる。
 上海を拠点にした阿片ルートは、華僑の多い南方と繋がっているが、南に伸びていた甘粕機関の活動と、無縁ではあり得ない。つまり甘粕の活動域の中心は、満州の外では、上海だったことになる。
 これには注目すべきエピソードがある。昭和16年のあるとき、岸が上海に遊びにやって来た。この年の1月、商工次官の岸は、小林一三商工相と喧嘩別れして、浪人中の身だったときである。元々この2人は、バリバリの国家統制論者の岸と、片や根っからの自由主義経済人の小林であるから、衝突するのは時間の問題、と見られていたらしい。それはともかく、この年の秋に東条内閣の商工相に就任するまでは、珍しく暇だった時期である。


 さて、上海に現れた岸が、満州国で部下だった長瀬敏のところにふらっと立ち寄ってみると、早速その日のうちに英国のサッスン財閥から電話がかかってきた。「ミスター・キシをぜひ招待したいから、連絡を取って欲しい」という伝言である。ユダヤ系英国人の初代サッスンは、1840年の阿片戦争後、中国におけるインド産阿片の専売権を掌握してから急成長を遂げた財閥で、香港上海銀行も同家が設立したものだった。
 現在、中山東一路20号にある、緑の三角屋根が特徴の和平飯店(北楼)は、英国名サッスン・ハウスだが、1928年に建設以来、同財閥の根拠地になっていた。さらに、上海にある同家の邸宅は、邸内に18ホールのゴルフ場まである、広大なものだったという。
 ところで、阿片で財を成してきた財閥が会いたがったミスター岸だが、彼の足取りまで把握していた情報収集能力もさることながら、両者の接点が何であったかは、推測する方が野暮というものであろう。


 もう一つのCタイプは、満州国や関東軍とは一応関係なく、蒙疆地区から日本軍が買い上げ、これを占領地の中国人に売ることになる。売り捌くのは、大陸浪人や「支那ゴロ」といわれた連中だった。このことは、前線の向こう側、つまり中国側にも、販売ルートが通じていたことを意味する。しかも、日本側から相手側上層部に秘密裏に、あるときは公然と、献金される仕組みである。
 日中戦争といっても、阿片を通して双方が繋がっていて、さらに日本側から莫大な軍資金が相手側に渡されていたという、奇妙な関係が成立していたことになる。「結果的に、支那事変があそこまで長期化し、拡大してしまったのは、阿片が原因だった」とする見方があるのは、そのためである。


 その蒙疆地区といえば、日本の占領地区ではあっても、もともと中国本土一郭である。「東条兵団の蒙疆作戦は、阿片栽培地の確保にあった」と一部で言われているが、「大陸は阿片で明け、阿片で暮れた」という指摘は、あながち的外れとは言えない。英国が仕掛けた阿片戦争の後遺症は、健在だったのである。

 だが岸と阿片の関わりについていえば「岸個人がやったのではなく、満州国が為さしめたこと」という論法が、一応成りたつことになる。
 だが甘粕の場合は、阿片と関わるどころか、元締めであることは満州国政府や関東軍の中では、公然の秘密であった。関わりをもった人間たちの証言を待つまでもなく、満州国政府自体が阿片に関わり、絶対権力を持つ、関東軍の軍資金だったからである。
 それまで阿片の専売は、満州国政府内の財政部の管轄下にあったものを、民政部に移したあたりから不透明さを増してくる。民政部はのちに厚生部と名称が変わったが、民間の阿片吸引所閉鎖したり、中毒患者の治癒にも関わる部署だった。その一方で、専売もするという矛盾を抱えていたことになるが、表に出せない流通部門を、甘粕は任されていたのである。この組織替えに、総務庁次長という要にいる、岸の存在に着目しないわけにはいかない。


 そこで、岸の部下として満州国政府の総務庁主計処長、日本流に言えば主計局長をしていた古海忠之の登場と相成るが、その古海は、戦後、政治家岸信介にまつわりつく記者たちに、「君たちはふたこと目には阿片阿片と騒ぐが、満州の阿片は、甘粕も岸さんも関係ない。阿片については、支那や満州で一手にやっていた里見という男がいた。これは私の阿片の相棒だ。阿片は私と里見が仕切っていたので、いま言ったように、甘粕も岸さんもまったく関係ないんだよ」と言っていた。

 ソ連と中国の撫順戦犯監獄に18年も抑留されて帰ってきた古海が、帰国後もとことん面倒見てくれた岸をかばうのは、むしろ当然だった。しかも古海が日本の土を踏んだのは、岸が総理の座を降りて3年しか経っていないときで、まだ政治活動を盛んにやっていた時期だった。古海が甘粕をかばったのは、岸・甘粕の関係を知らない人はいなかったのだから、これも当然のことになる。甘粕をかばわなければ、岸をかばったことにならないからである。


 結局、岸を直接知る人たちは、彼が満州で何をしたか、とくに甘粕との深い関わりを知ってはいるが、古海のように否定したり、或いは「それは言えない」と証言を拒んできたのは、最後まで岸の面倒見がよく、みんな何らかの形で、世話になっていたからである。
 しかも岸は、その生涯を終える90歳まで意気軒昂で、政界に財界に影響力を持ちつづけた。したがって岸の存命中、彼らは真実を語る機会がなかったし、多くは岸より先に鬼籍に入ってしまった。関係者がいみじくも言っているように、「墓場まで持って行く」が、その通りになったのである。


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甘粕事件とゴー・ストップ事件 軍部(憲兵)の動き ------------

 1881年(明治14年)に公布された「憲兵条例」の第1条に、「凡憲兵ハ陸軍兵科ノ一部ニ位シ巡按検察ノ事ヲ掌リ軍人ノ非違ヲ視察シ行政警察及ビ司法警察ノ事ヲ兼ネ内務海軍司法ノ三省ニ兼隷シテ国内ノ安寧ヲ掌ル其ノ戦時若クハ事変ノ際ニ於ケル服従ノ方法ハ別ニ之ヲ定ム」(「続現代史資料6ー軍事警察」)とある。陸軍の一組織であるが、任務を遂行に当たっては、内務省、海軍省、司法省の3省に隷属したのである。ところが、この第1条は1889年(明治22年)勅令第43号で改正され、「憲兵ハ陸軍兵ノ一ニシテ陸軍大臣ノ管轄ニ属シ軍事警察、行政警察、司法警察ヲ掌ル其ノ戦時若クハ事変ニ際シ特ニ要スル服務ハ別ニ之ヲ定ム」とされた。陸軍大臣の管轄下に入ったのである。そして、軍事警察として、軍の秩序や規律を維持する任務が軽視され、行政警察、司法警察としての権限を利用して、憲兵が一般国民を監視し、弾圧する権力組織へと変貌していったといえる。すなわち、軍部の意図に逆らう組織や団体、個人を取り締まり、軍人や軍部の不正に対する批判や非難から軍人や軍部を守る組織になっていったのである。下記の2つの事件は、そのことを象徴していると思う。

 一つは甘粕事件である。「甘粕大尉」角田房子(ちくま文庫)によると、実は、無政府主義者大杉栄とその妻伊藤野枝、および甥の橘宗一を殺害したのは、憲兵大尉甘粕正彦個人であるとは考えられないという。確証に到らなかったが、「甘粕の意思による殺人ではなかった、という説を裏付ける傍証、心証は数え切れない程集まった」とのことである。下記はその中の一つであるが、だとすれば、それは憲兵組織もしくは軍部の犯罪ということになる。そう考えると、確かに出所後の甘粕の行動や満州での活躍がよく理解できるのである。

 もう一つは、警察組織と憲兵組織(軍部)の争いとなったゴー・ストップ事件である。交通整理中の警察官による注意に従わず、「巡査ナリシヤガッテ生意気ナ事ヌカスナ」とか「ナンダイ僕ラノ取締ハ憲兵ガスルンダ、オ前ラノ云フ事ヲ聞ケルカイ」(続現代史資料6ー軍事警察「関係者の聴取書」)などと反抗的態度を示し、注意を無視した軍人に対する警察官の連行・説諭の権限を、軍は認めず、「建軍の本義」などを根拠に、その優越性を主張し、逆に警察側に軍人を派出所に連行した行為などについて陳謝させたのである。 その根拠は、軍が公表した文書の中に読み取れる。
 第4師団 井関隆昌参謀長の大阪府警察本部長宛文書に「現役軍人(招集中ノ在郷軍人ヲ含ム以下同ジ)ノ非違行為ニ対スル説諭ハ軍部自体ニ於テ行フベキモノニシテ警察官吏ガ説諭ノ目的ヲ以テ現役軍人ヲ派出所ニ連行スルハ職務執行ノ範囲ヲ超ヘタルモノト認ム」とあり、また警察首脳の「軍隊が 陛下の軍隊なら警察官も 陛下の警察官で此の点は同じだ」との主張に対し、第4師団司令部公表の文書には「素より8千万の吾が同胞は悉く 陛下の赤子たらざるものなきも、警察官首脳者の此の言は、吾が国民の諒得しある皇国独特の建軍の本義と警察制度の間には根本的差異の存することを無視せる甚だしき暴言なり」(続現代史資料6ー軍事警察「ゴー・ストップ事件」)とある。警察官に自らの交通規則違反を注意された軍人(中村一等兵)の反抗的態度は、実はこうした軍の優越性の考え方から出てきたものであろうことは、誰にでも理解できることである。このころすでに軍人は特権的地位を得ており、したがって、軍部があらゆることに絶大な権力を振るうようになってきていたということであろう。ゴー・ストップ事件については、全て「続現代史資料 6ー軍事警察」からの抜粋である。
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7 満州国建国

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 右翼の運動家・松林亮(マコト)は、出航したばかりの船上から大連の埠頭を眺めて、あの甘粕が──と、またも回想にひきこまれた。彼は5人の満州人回教徒を連れて、日本へ向うところだった。
 松林はロンドン条約(1930年、海軍軍縮条約)反対の運動に加わったため、満州事変の時は獄中にいた。出獄後、多くの同志がいる満州に渡り種々の運動に奔走するうち、回教徒の集団と知り合った。満州の回教徒は中国人のほか白系露人など多くの人種を含み、軽視されてはいたが、一つの勢力に違いなかった。彼らは建国直前に開いた大会で、「国体、政体のいかんを問わず、新国家の出現に賛意を表す」と決議し、その後も、”親日的”な態度をとり続けていた。だが、松林は、回教徒が日本について全く無知であることを知り、日本の実態を教える必要を痛感した。しかし、彼らを日本に連れて行く費用を捻出するあてはなかった。


 思いもかけず、松林の友人が、その費用にと大金を届けてくれた。甘粕が簡単に出してくれたという。甘粕は松林に会おうともせず、この計画の内容を調べもしなかった。
 あの甘粕が──という松林の思いの背景は、大正12年の関東大震災である。朝鮮人や”主義者”についての流言が乱れ飛ぶ中で、松林とその友人・小室敬次郎は「この際、大杉をやっつけよう」と決意した。”国家の安泰のため”である。2人の決意を聞いた”右翼の大物”五百木良三”は、先ず福田戒厳司令官に相談せよ、と紹介状を書いた。五百木と福田とは親しい仲であった。


 殺人を計画中の松林と小室を逮捕すべき立場にある福田戒厳司令官だが、このとき彼は常識では考えられない次のような発言をしたという。
「民間人がやってはだめだ。必ずバレる。こちらでやるから、まあ、まかせておけ」
 松林は──このドサクサの時、民間人ならやれるが、軍人が手を下せばそれこそバレるだろう──と思ったが、福田に逆らうこともできず、不本意ながらそのまま帰った。9月24日、号外で大杉殺害事件を知った松林は やったな──と、福田の言葉を思い浮かべた。


 この松林の話を私に語ったのは今井武夫である。今井の紹介で私は、すでに老境の松林にあった。松林は「裁判では、甘粕個人の考えで大杉を殺したことになっているが福田戒厳司令官の線からの命令でやったに決まっている。私はそれを疑ったことはない」と語った。
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                              五(三)ゴース・トップ事件

現役軍人交通規則違反事件 関係署書

一 事件ノ概要

1 事件関係者(主タルモノ)
   曾根崎警察署詰      交通係  巡査 戸田 忠夫(当27年)
   歩兵第8連隊第6中隊  陸軍歩兵一等兵 中村 政一(当23年)

2 事故発生ノ日時 場所
  1、昭和8年6月17日午前11時30分頃
  2、大阪市北区天神橋筋6丁目交差点付近

3 事故発生ノ原因
  前記日時場所ニ於テ前記中村一等兵ガ交通規則ニ違反シ、戸田巡査之ニ注 意ヲ与ヘタルモ之ニ応ゼザル為、附近天神
  橋筋6丁目巡査派  出所ニ連行説 諭ヲ加ヘントシタルニ端ヲ発シタルモノナリ
 
4 事実ノ概要(現場の見取り図と括弧書き略)
  軍隊関係ノ取調不能ナルヲ以テ全面的調査ヲナス能ハザルモ調査ノ結果ヲ総 合スルニ

 (1)当日午前11時過中村一等兵ガ東淀川区長柄橋方面ヨリ来ル市電ニ乗車スベク天六交叉点北東側停留所ニ於テ電車ヲ
   待テ居タルモ、同方面ヨリノ電車一時中絶セル為都島方面ヨリ来ル電車ニ乗車セントシテ該場所ヲ離レ停留所ニ向フ途
   中、北側歩道上ヲ通行スベカリシニモ不拘、北側車道上ヲ東ニ向ツテ進ミ通称10丁目筋交叉点ニ向ヒ進行シタルヲ以
   テ、同所ニ於テ交通整理ニ従事中ノ交通係戸田忠夫巡査ハ中村一等兵ノ反則行為ヲ制止スベク「メガホン」ヲ以テ注意
   シタルモ該兵士ハ之ヲ知ラザルモノノ如ク依然トシテ車道上ヲ通行シ来リ、更ニ停止信号提出中ノ通称10丁目筋交叉
   点ヲ南側ニ横断セントシタルヲ以テ更ニ注意ヲナシタルトコロ、中村一等兵ハ之ニ対シ軍人ハ一般警察官ノ取締ニ服セ
   ザル旨ヲ繰返シ、反抗的態度ニ出デタル為、同巡査ハ直ニ停止ヲ命ジ説諭ノ為附近ナル曾根崎警察署天神橋筋6丁
   目派出所ニ連行セントシタリ、而モ中村一等兵ハ之ヲ肯ゼズ、其ノ儘立チ去ラントシタルヲ以テ遂ニ戸田巡査ハ実力ヲ
   以テ中村一等兵ヲ派出所ニ連行シタリ

 (2)派出所ニ連行ノ後、説諭ヲナサントシタルモ同所公廨ニハ同所勤務員2名アリ、且民衆蝟集シ来リ説諭ノ場所トシテ適
   当ナラザルヲ以テ、同所内休憩室横空地ニ於テ戸田巡査ヨリ先刻来ノ不都合ヲ詰リ、中村一等兵亦之ニ応酬シ遂ニ双
   方共殴打暴行ニ及ビ、遂ニ別紙記載ノ負傷ヲナシタル外、戸田巡査ノ夏衣ヲ損傷シ左袖章ヲ脱落スルニ至リタルモノナ
   リ

 (3) カクスルコト暫時稍々冷静ニ返ルヤ同派出所詰高井巡査入リ来リ兵士ニ対シ懇篤説諭ヲ為シタル結果、兵士モ自己
   ノ非ヲ認メ将来 注意スベキ旨ヲ誓ヒテ立皈ラントセリ

 (4) 然ルニコレヨリ先一民衆ヨリ兵士ト警察官ト格闘中ナル旨大手前憲兵分隊ニ電話セル者アリ、同隊小西上等兵同派
   出所ニ急行午後1時前、将ニ立皈ラントセル中村一等兵ヲ同派出所ヨリ同隊ニ連行シタルモノナリ


 ・・・(以下略)

 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 

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