-NO285~292

--------------岡田酉次主計将校と阿片・麻薬問題---------------

「日中戦争裏方記」岡田酉次著(東洋経済新報社)
は、日中戦争当時、蒋介石と対立した中国国民党親日派の汪兆銘を支援し、汪政権を樹立させた立役者、影佐貞昭の「梅機関」(影佐機関)に配属され、様々な重要任務を遂行した主計将校の回想録である。彼は、汪兆銘南京国民政府の財政顧問兼軍事顧問でもあった。

 汪兆銘南京国民政府を支えた著者は、自序で
「この敗戦により、まったく気の毒な立場に立たされたのが、戦争中わが国と行をともにした親日中国側同志達の身の上である。かれらの多くは、いずれも立派な愛国者であって、自国を愛し東亜の平和を望むゆえにこそ、勇敢に立ち上がって日本と手を握った人びとである。」と書いている。そして「たまたま私は、日中戦争前より中国にあって、その風土や歴史、習慣等を身につけていたためか、その所為自ら郷に入りては郷に従うの掟にはまり、勢い中国要人らの信頼をうけ、その後長期の中国勤務となって行ったのであったが、この間私のかいまみた彼らの信念や言動を、一方的ではあろうがこれをここに書きとどめ、その後継者にもこれを伝えることができれば、すでに世を去った中国人同志達へのはなむけとなるかもしれない。─── これがまた、あえてここに禿筆を執ったゆえんでもある。」と書いていることから、戦後も、日中戦争当時の親日派中国人に対しては、深い思いを抱き続けていたことが分かる。また、淡々と書いている裏方としての任務遂行の記述からも、「自分は、日本と汪南京政府のために精一杯努力した」という思いが伝わってくる。それだけに、日本軍の戦争犯罪に関わるような部分については、あまり踏む込んで書いてはいないが戦史資料として貴重である思う。

 
軍の判断で阿片をペルシャから輸入した事実や、国際法違反に問われることを避けるために、無国籍の船を仕立てたという関係者の証言、「里見機関」設立の経緯、また、汪南京政府を支えるために、当時、阿片配給やそれによって得られる収入を一手に握っていた盛文頤(セイブンイ)と接触していた事実などが確認できる。同書から阿片・麻薬問題と関わる部分を抜粋する。
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                           Ⅴ 汪兆銘中央政府の頃

 30 税収源を握る2人の阿片淫者

 阿片の効用などについては、私の理解し得るところではないが、その吸烟による中毒患者ともなると、人生まことに悲惨の極みといった様相を示す。彼らはしばしばモヒ常習者に転落して行路病者の仲間入りをしたり、または支離滅裂の症状を呈して常人の生活から離れて行く者が多いようだ。私は戦前中国に勤務中、古い型の中国人富豪の家庭を訪れ、かかる淫者に際会した経験がある。彼ら吸烟常習者の話を聞くと、吸烟によって彼らは陶然となり、雲の中を浮遊する体の快感に浸るという。
 維新・中央両政府を通して最も大切な財政の収入源を握った2人までが、たまたまこの阿片常習者だった。統税局の
刟式群局長と、祐華塩公司社長で宏済善堂を創設して阿片の配給と阿片収入とを一手に握っていた盛文頤とがこれである。統税局の刟局長については、その誘い出しから局の育成まですでに述べたので、ここでは後者盛文頤の出馬の経緯から述べてみよう。

 盛文頤は盛宣懐の甥に当たり、その叔父盛宣懐は清朝末期大臣をも勤め、日本財界と提携して大冶鉄山を興し、八幡製鉄等に鉄鉱を供給したことで日本人にも親しまれている。この盛宣懐の直系の人物が終戦後、以前関係のあった会社の後援で東京芝公園に「留園」という中国料理の殿堂を経営していることは、戦後の日中間に生まれた一つのエピソードであろう。こんな系列で育ち知日派でもあった盛文頤は、里見甫の呼びかけに応じて出馬し、日本人にとってまことに厄介な阿片関係の仕事を引き受けたのである。現地で特務部が阿片に手を出しかけたとの情報が流れると、当時参謀本部で謀略関係を担当していた
影佐大佐は、特務部にこの仕事から手を引かせるため、東亜同文書院出身で中国人に友人の多い里見に命じて中国側の適格者を物色させ、その候補にあがったのが彼である。

 当時戦争の影響で占領地区内は阿片の欠乏がはなはだしく、その供給対策を求める要請が官民双方から特務部に殺到していた。時たまたま華北方面でも同様の事情が発生し、華北政務委員会を代表して王克敏からも公文書をもって一括購入の上これを配給するようにとの要請が特務部へきていた。そこで同部では、中央に連絡して合法的配給制度に必要な専門的要員の派遣を依頼するとともに、藤田某(さきに柳条溝爆破事件に所要の資金を供給した民間人。今井少将著『昭和の謀略』による)と在上海有力某商社にその輸入方策の検討を依頼することとなり、私はその折衝に当たった。そして間もなく日本郵船上海支店の倉庫に荷物が入ってきた。担当者の説明によると、国際条約上の問題もあって、無国籍の船を仕立ててペルシャに阿片を手配していたとの話であった。

 開戦の頃から陸軍武官府にあって諸工作に当たっていた
楠本大佐を訪れて、当時の思い出をともに話し合ってみたが、同氏は「阿片もまた自分の責任で手がけた工作の一つである。先輩からは幾度も前例を挙げてこれには手を付けぬよう注意されていたが、大同市政府蘇錫文市長からの、たび重なる懇望をことわり切れず、公明正大に処理すれば、疑惑の目で見られることもあるまいと考え、貴官(著者)の協力を願ったわけだ。市長の要請によると、開戦後間もなく上海の阿片ははなはだしく不足して価格も高騰し、黄浦江の沿岸には香港から来る阿片密売のジャンクが密集して治安面からも問題が多発し、混乱を招いた。市政府だけではこれに施す術もないというのである。そこで上海派遣軍高級参謀の長勇大佐と協議したところ、華北政務委員会からも同様の申し出がきていたので、その揚陸許可証を使うことにして輸入に踏み切った。その頃ちょうど里見甫が来訪して、阿片の仕事に軍が手を出すことは適当でないから里見に任せてくれと申し出た。話し合っ てみると、里見は陸軍本省とも関係のあることがわかったので、一銭一厘までを詳細に規定した書類を作って、里見とその関係する中国人に引き継がせて、その後私は一切関係しなかった」と述べた。里見はこの仕事を盛文頤に託したわけであるが、この両人とも今は世になく、両人合作の経過などを知るすべもないが、その後汪南京政府も成立し、私は経済顧問の立場でしばしば盛文頤との間に折衝をもった。

 阿片吸烟者の常として、盛の生活は昼夜の関係が転倒して面会時間が午前3、4時となり、ホトホト閉口させられた。そのうえ話しがときどき誇大妄想的となり、思惟にも混乱を伴うばいいが少なくなかった。この施行混乱の一例とみるべきか、汪政府成立後辻政信大佐(戦後参議院議員)に周仏海財政部長暗殺の計画ありとの情報が彼から出て、中国側要人達を騒がせるような場面が展開した。当時周部長からこの相談を受けた金雄白は、著作の中でこれを次のように紹介している。…

 ・・・(以下略)

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日本軍の経済謀略 偽札工作-------------------

15年戦争の最中、漸減政策を装いつつ、裏では、軍とつながりのある人間に、大量の阿片や麻薬の売買をやらせ、そこから得られる収益の多くを機密費として不正に利用していたことは、明らかに日本の国家犯罪であった。また、今回取り上げる偽札の利用も、関係者が「とにかくこの仕事は問題が問題だけに、研究所内においてさえ極秘中の極秘たらしめる必要があり、工場を別棟にするなど苦労はつきなかった」といっていることからも分かるように、自国民にさえ知られてはならない犯罪行為であった。偽札の流通工作を担当したのは、岡田芳正中佐を機関長とする「松機関」であったが、実行役は、軍の嘱託の阪田誠盛であったという。彼は、当時上海を中心とする暗黒街を支配していた秘密結社「青幣(チンパン)」の幹部の娘と結婚して協力をとりつけ、青幣の首領、杜月笙の家に「松機関」の本部を置いていたというのである。ところが、「日中戦争裏方記」(東洋経済新報社)の著者岡田酉次は、そうした偽札工作の犯罪性には言及することなく、淡々と諸事実を書き連ねている。下記はその一部抜粋であるが、元陸軍登戸研究所所員、伴繁雄の著「陸軍登戸研究所の真実」(芙蓉書房出版)の「対支経済謀略としての偽札工作」と矛盾しない。
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                            Ⅴ 汪兆銘中央政府の頃

 40 旧法幣の偽造による経済謀略


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 この頃華中の金融市場ではなお旧法幣が流通しており、別に派遣軍は軍票を発行して支払手段としていた。軍はこの軍票で現地軍の需要ををまかなうのはもとより、内地産業が華中方面に期待している中国物資も調達したが、物資によっては軍票の流通地域外から入手する必要があって、これの支払に要する外貨や旧法幣の入手に困った。そこで、山本大尉(山本憲三主計大尉)は従来の研究を基礎に、偽法幣を発行して華中で試用する件を起案して、上司の決裁を求めたのである。

 この案では、中国の旧法幣(中央、中国、交通および農民の四発券銀行券)を対象として、まず使用紙質や印刷法の技術的検討を試み、しかるのちにこの偽紙幣をもって敵側奥地物資を引き出すとともに、このルートを利用して敵側の諸情報をも取得しようとする企画である。山本大尉はまずこの案を参謀本部の
渡支那課長および影佐第8課長を経て陸軍省軍事課岩畔豪雄大佐(死亡)へ提出した。当時陸軍では、陸軍技術研究所を新設して作戦上極秘の技術研究を広くとり上げていたので、同研究所内の一部でも同一の構想がすでに取り上げられていた。岩畔大佐はこの双方の案を比較してみたところ、山本案が一歩進んでいると認め、彼を招致して二人でとくと話し合った。その結果、特に山本の熱意にもほだされて、彼はこれの実施を決意したのであった。すなわち岩畔は「君の計画は非常に面白いと思うが、君はこの専門外の仕事に情熱を打ち込んで行く決意ありや。君がいかにこの仕事に熱を入れ上げ、これを成功させたとしても、君の軍人としての出世の途にはならないと思うが、どうか」などと問いかけたところ、山本は「是非打ち込んでやってみたい」と答えたのである。

 やがて山本は昭和14年7月、登戸の第9陸軍科学研究所の課長に転任して専心この課題の研究に取り組んだ。先般、この山本を訪れてみると、「立案の責任もあって引き受けたものの、経理部将校としてこの方面の技術がわかるわけでもなかったが、ものの順序としてまず民間の製紙会社に働きかけて紙幣用紙の基本的研究に取り組んだ。中でも紙幣に使われる紙にスカシを入れる技術については随分閉口もした。内地でこの面の研究を進める一方、現地部隊にも要請して法幣四銀行発行の現物を取り寄せ、いろいろと分析に取りかかった」という。

 既述のごとく中国では、昭和10年秋英国の援助で幣制改革を断行し、前記4つの銀行に法幣の発行権を認めていたのであったが、所要紙幣の印刷は英国のウォーターロおよびトーマスの2印刷会社、または米国のバンクノート印刷会社等に請負印刷させていることも判明した。山本はいう。「研究の進捗に伴い、大蔵省印刷局からも印刷技術者の応援を得ることとなり、民間印刷会社からも機械を借り上げ、また製紙会社からは技術者の援助を受け、とりあえず5元と10元の法幣を試作するところまで漕ぎつけてやたらに喜んだものの、試作品を英米印刷品に比べてみると、英国型のスカシがむつかしく、米国製のものは印刷面に特質があって、偽造の容易ならざることを痛感した」と。

 この頃私は現地にあって、この成り行きに関心を寄せていたが、たまたま統税局の新田高博顧問から最近流通している法幣の中に、紙幣の番号や記号に時々不審を抱かせらるるもののあることを報告され、その場ではトボケてすませたことがある。このことを山本に話してみると、「御説のとおり紙幣の番号や記号にも随分苦労した。偽造である以上、流通界には同一記号同一番号の紙幣が2枚生ずることは当然であり、そのうえ記号番号の標示文字は偽造防止のため特殊の技巧が必要なのである。また大量流通が始まると、梱包法から包装用紙、カガリ糸に至るまで発行銀行別に研究しなければならない。また銭荘等を利用するためには中古紙幣も混ぜ合わせなければならないが、流通過程で自然発生する中古紙幣を工場で生産することは容易のわざではない。とにかくこの仕事は、問題が問題だけに、研究所内においてさえ極秘中の極秘たらしめる必要があり、工場を別棟にするなど苦労はつきなかった」と語った。

 やっとこの仕事に目鼻がつくまでに早くも2カ年が経過し、とてもそろばんにはなかなか乗らなかったようであるが、山本は「でも世の中には鬼もいれば神もあるのたとえ通り、かれこれと苦心する間に、太平洋上でドイツ潜水艦が拿捕した米艦の積荷の中に未完成の中国法幣が大量に発見された。どうした関係からか、これの売り込みを日本に持ち込んできた。もちろん日本がこれを買い取るわけもなく、まわりまわって上海の陸軍貨物廠に保管されているというニュースが入った。奇蹟と言えば奇蹟であった。早速これを引き取って利用したのであえるが、このことは単に紙幣の量的効果のみにとどまらず、その後の製作技術上にも多大の貢献をもたらした」という。

 上海陸軍貨物廠に多量の新しい法幣が保管されているとの情報は、当時総軍司令部参謀部に勤務していた石光栄主計中佐(広島証券会長)が山本の耳に入れたものであった。私はこのことを知り早速石光を訪ねてみた。同氏は大学卒業後経理部将校となった人で、私の親友でもある。石光いわく「自分は総軍経理部員で参謀部第3課員も兼務していたが、上海貨物廠(廠長浅野忠道)を視察した際、厳重に衛兵を配置した倉庫の中に多量の法幣が保管されていることがわかった。額面で10数億元だっと記憶する。現品は中国銀行名で揚子江法幣と略称される小形のもので、ただ発行銀行の総裁印だけが押捺されていない。浅野貨物廠長は、外国貨幣の押収品として所定の法規に従い大蔵省と協議処理すべきものだと主張して現地処分に応じてくれない。自分は、この荷物は総裁印の押捺なき一種の印刷物に過ぎないという見解にたって総軍参謀部川本芳太郎大佐に電話連絡したうえ、松機関(現地偽法幣工作機関)の所管に移させたことを記憶している。これは恐らく重慶仕向けのものが、南方の軍隊に押収され、これが上海貨物廠に移送されたものと思う」と。

 この話によると、前述ドイツ潜水艦による押収品云々とは別の物件であったかも知れない。私はついでに「松機関」の当時の活動状況等を石光に聞いてみた。石光は「当時松機関を主管していたのは上海陸軍部(部長川本芳太郎大佐)で、岡田芳政中佐もこれに関係し、民間人では坂田誠盛がその実務を掌握していた。坂田は、中国人関係の特殊工作で活躍した里見甫や海軍側では対重慶工作をやったといわれる児玉誉士夫等とともに、大いにその功績をうたわれた人士のようだ。坂田は杜月笙の子分徐釆丞と組んで、重慶との間の物資交流のための公司を設立した。この公司にはその後、楠本実隆からの連絡により、寧波方面の製塩業者代表や長崎医大出身の黄医師等もこれに参加した。彼らは各地に銭荘を新設して偽法幣を巧みに流通させるなど、この方面の仕事で大いに活動した。陸軍貨物廠にあった未完成の法幣印刷物も、額面価格の70%と評価して坂田氏配下の公司に交付したが、この印刷物に総裁印をうまく押捺して流通面に出すまでには、危険や苦労も相当多かったものの、動き出すとかなりの成果を挙げたのではあるまいか」と述べた。

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 いうまでもなく偽造紙幣の発行目的は、これを敵地区に放出して敵物資を取得するを第一義とし、さらには敵側法幣のインフレ傾向にも拍車をかけ、時には偽造紙幣が適地で発見されて法幣への不信感を引き起こさせる等、敵側戦時経済を幾分でも混乱させようというものであった。そこでこれらの成果につき、所見を山本に求めると、「対敵取引の仕事は自分の仕事というよりも上海陸軍部所属の松機関が担当していた。陸軍部は職業柄、敵側との物資交流の路線に乗っけて重慶情報を入手することを一任務としていたから、上海政財界の有力者で暗黒街にも顔のきく杜月笙の子分徐釆丞と組んで、民生、祐生の2商社を設立してこの仕事に当たらせたのである」と。

 ・・・(以下略)

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岡田酉次主計将校 南京攻略の回想----------------

「日中戦争裏方記」(東洋経済新報社)の著者岡田酉次は、自らを「裏方」と位置づけ、主計将校としての仕事に徹したようである。下記の文からも、そのことが分かる。それだけに、彼が「…この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならではの思いを深くした。…」、と記している事実を見逃すことができない。南京大虐殺当時の日本軍の状況の一端を示していると思うのである。

 また、当時南京にあった彼が、「…あるいは世論を騒がせたあの日本武士道にもあるまじき南京虐殺につながって行ったのかもしれない。…」と記述した事実からも、比較的冷静に戦況をながめていた彼の無念の思いが伝わってくる。松井大将の乗馬姿の南京入城写真を見ながら、松井石根大将の心中に思いを馳せている部分は、まさに南京大虐殺に対する彼自身の思いなのであろうと思う。
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                             Ⅱ 日中開戦の初期

15 裏方さん南京攻略に参加


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 しかるに、たまたま11月5日杭州湾に上陸した第10軍(柳川兵団)では、同19日朝全力を挙げて南京に向かって進撃するよう隷下各部隊に発令していた。そこで参謀本部でも、種々検討勘案のうえ、従来上海派遣軍に示されていた作戦地域の最前線蘇州・嘉興の線を改めて撤廃する旨の指令を出したのである。このことは政略的には従来の事件不拡大方針の変更であり、その放棄にも通じた。そこで中支那派遣軍でも、勇躍競って首都南京の攻略に向かって堂々進撃したのである。蘇州・嘉興の線を突破して兵を進めることは、きわめて重大な問題である。ちょっと考えてみても、この処置は明らかに事件の不拡大という基本方針から逸脱するが、一歩譲って考えたとしても、首都南京を攻略せんとする限りどうしてもこれを全面和平のチャンスとしてとらえなければなるまい。攻撃開始前からあらかじめ和平への見通しをつけておくか、少なくとも所要の政治工作が作戦に呼応して進められ、政戦両略の間で呼吸が合わなければ、無二の戦機を逸するだけでなく長期戦の泥沼に足を入れる懸念も大きいからである。これについては、松井石根派遣軍司令官が以前から、敗走する中国軍に追尾して南京城への追撃に移りたい旨の意見を具申しており、中央では陸軍省や参謀本部を中心に種々討議されていたのも当然である。

 討議の中枢参謀本部では不拡大方針の放棄を極度に重視し、多田参謀本部次長は強く消極論を主張したが、石原将軍の後任下村定作戦部長は追撃積極論を唱え、いわば2派に分かれて激論の末ついに積極論が採決されてしまったのである。私など派遣軍特務部にあっても、何とか作戦に応ずべく政治工作に手を打ったが、作戦は予想以上に迅速に進み、遂にタイミングが間に合わなかったのは千載の痛恨事であった。

 この首都南京攻略は単に和平へのチャンスとなり得なかったのみならず、不幸、一部に起こった一般住民に対する大虐殺のニュースが中国世論をかきたて、対日国際情勢を悪化せしめる結果となったのである。

 私は、この作戦には経済・金融担当のスタッフ原田運治(東洋経済出身)等を同道、朝香宮軍司令部に加わって南京に向かった。南京入城のうえはいち早く南京市内政府系金融諸機関を接収すること、新しく占領都市で放出される軍票の実状を調査する任務についた。すでに述べたごとく、柳川兵団が杭州に上陸した11月5日以来、中支派遣の全部隊は日銀券に代えて軍票を専用するよう決められていたのであるから、首都南京に多数の部隊が集中する際の軍票放出の適否は、今後の軍票対策に至大の影響を及ぼすと判断したからである。

 ちょうど南京陥落の前日の夕刻、私は朝香宮軍司令部とともに南京東方の温泉街湯山に宿営したが、以下その夜突発した戦況の思い出を一、二つづってみよう。

 当時華中方面に派遣されていた諸部隊の最高司令部として、従来のそれであった上海派遣軍司令部の上に新しく中支那派遣軍司令部が設置され、その司令官として松井石根大将が引き続きこれにあたり、上海派遣軍と第10軍(柳川兵団)とをあわせ指揮することとなり、空席となった上海派遣軍司令官には別に朝香宮鳩彦王中将が着任した。この夜同司令部は、かなりの戦災を受けている一温泉旅館の建物に陣取ったが、黄昏ともなる頃司令部の衛兵所に一騒動が持ち上がった。

 三方面からする日本軍の挟撃にあい、逃げ道を失い湯山に迷い込んできた敵の小部隊が司令部の西北方に現れ、たまたま陣地構築で右往左往する日本兵を認めて、司令部に機関銃撃を加えてきたのである。特に当軍司令官は新たに着任したばかりの朝香宮殿下とあって、副官のあわてようもまた格別である。もちろん司令部には騎馬衛兵が若干いるのであるが、進んでこれを撃退するだけの兵力ではない。副官は隷下砲兵隊の援助を求めようとしたが近傍にはいないらしく、結局近くで布陣していた高射砲を引張り出し、対空ならぬ水平の方向に発砲させてとにかく敵部隊を沈黙させた。この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならではの思いを深くした。おそらく伝来家宝の日本刀や高価を払って仕込んできた腰の軍刀がうづいていたのであろう。いずれにしても戦場の夢ははかなかった。

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 前進につれて通路の両側には死屍累々として目を覆わしめるものがあり、やっと城壁から逃れ出た中国兵士達──眼前で降伏する者あるいは捕虜となって後送される者あり、また小広場では数珠つなぎのまま互いに身を寄せ合って茫然自失している敗残兵があるなど──を至るところで見かけたが、その中には少数の女性さえまじっているのに気づいた。死に直面する人間の心理は格別で、かかる凄絶な情況における興奮は心理状態を一層激化させて、あるいは世論を騒がせたあの日本武士道にもあるまじき南京虐殺につながって行ったのかもしれない。

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 市内掃討の一段落とともに南京入城式が行われるというので、私も特務部員として乗馬姿で一世一代の入場式に参列できるものと心待ちにしたが、南京攻略前後における蒋政権側の動向など諸情勢報告のため急遽帰国することとなり、まことに心残りであった。後日松井大将の乗馬姿の入城写真を見、また将軍から戴いた入城詩の揮毫(口絵に掲出)を見るにつけ、この入城式こそは、同将軍にとっても一世一代の盛事となったに違いないと思うのである。アジアを憂え中国を愛していた彼ほどの将軍隷下部隊から、あのいまわしい南京虐殺事件が発生したとすると死んでも死にきれない心の痛みがあったろうと痛恨に堪えない。

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万宝山事件-----------------------

満州事変には「前奏曲」といわれる2つの事件があった。中村大尉事件とこの万宝山事件である。その前には、墳墓発掘事件があり、吉林省政府の抗議によって吉林総領事館の長岡副領事が吉林を去っている。ここでは、「外交官の一生」石射猪太郎(中公文庫)から、万宝山事件の部分を抜粋するが、書き出しの「続いて起きたのが…」は、万宝山事件が、この墳墓発掘事件に続いたことをあらわしている。
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                               吉林総領事時代

万宝山事件──非はわれにあり

 続いて起きたのが万宝山事件である。長春の西北数里の万宝山に、長春在住の朝鮮人達が水田経営の目的で、中国人から広面積のの借地をしたのに端を発したのである。借地契約そのものの合法性にも疑問があったが、朝鮮人達がその開墾した水田に引水すべく伊通河に至る一里の間に無断で水溝を掘り、伊通河に勝手に堰を設けんとするにいたって、長春県長が干渉し、巡警隊を繰り出して現地を押え、朝鮮人を追い払おうとした。訴えを聞いた長春領事館は警察隊を派して現地保護と出たので両々対峙の形勢が出現された。長春田代領事と長春県長との間に折衝を重ねたが、折り合いがつかず、問題はついに吉林省政府と私とに移ってきた。


 長春領事館のとった現地保護的措置は、日本側新聞の指示を受け、なかんずく田代領事の朝鮮での名声は英雄的になった。現地では殺傷がなかったのに、朝鮮各地では在留中国人に対して報復的大虐殺が行われた。

 私の見るところでは、非は現地朝鮮人側にあった。無断で他人の所有地に水路を開設するさえあるのに、河流を勝手に堰止めるのは、どこの国の法律でも是認するはずがない。しかし、もう引っ込みがつかなくなった長春領事の立場を、覆すことは許されない。私はある日のごときは坐り込み戦術をとって、9時間もぶっ通しで交渉員に折衝したこともあったが、先方は飽くまで頑強だ。省政府側は借地権は否認しないが、河水の堰止めは認められないという態度を堅持した。

 だから伊通河からの引水を断念して、井戸掘さくに成功すれば問題は自然に片づくので、私はたびたび田代領事と協議して井戸掘さくと、貯水工事の計画を練ったが、実現の見込みが立たなかった。地下水の有無が疑問であり、仮にあったとしても水量が疑問であったからだ。

 一方万宝山現地では、双方の警察隊が日夜対峙を続けた。長くそのままにしてはおけない。私は省政府に交渉して、双方同時に警察隊を引き、問題の解決を後日の交渉に待つことにした。五分五分の引き分けとなって、現場の確執は解けたが、問題はその後の交渉においても未解決残り、やがて満州事変が来た。1931(昭和6)年夏の出来事であった。


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柳条溝事件直後の吉林省政府独立の真相--------------

柳条溝事件直後に、吉林省政府が国民政府からの独立を宣言する。それがどんなものであったのか、「外交官の一生」石射猪太郎(中公文庫)が明らかにしている。著者石射猪太郎は、当時吉林省総領事であり、職責上、懸命に筋を通そうと努力したことが分かる。また、その文章からは、日本軍の武力を背景とした理不尽な所業に対する怒りが伝わってくる。ピストル・ポイントの独立宣言だったというのである。
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                                 吉林総領事時代

ピストル・ポイントの独立宣言

 9月22日の夜、熙参謀長が私を来訪した。日本軍が吉林軍の武装を解除すると言い出した。直接それを実行されると、屈辱を感じて吉林軍中には抵抗する部隊がでるかも知れない。ついては武装解除は、省政府自身の手で穏やかに実行したい。師団長に願ってみてほしいとの懇請である。

 私はすぐ師団長を往訪して熙参謀長の願意を伝えると、師団長は直接会って話をつけたいといい、会見の時日を翌日午後3時と指定した。
 翌23日定刻前に、熙参謀長が施交渉員と通訳をつれてまず私を来訪した。私は一行をつれて名古屋館に行き、師団副官の案内で2階の一室に通った。師団長と師団参謀長とを中心に、数人の参謀達が待ち受けていた。儀礼が済んで座が定まると、師団長が
この会談は軍事的なものであるから、外交官は席をはずしてもらいたいという。そこで私と施交渉員は別室に引き取った。

 会談が思ったより長びくので、様子を見に行ってみると、会談の室はドアが固く閉じられ、廊下に数人の将校が、銘々抜身の拳銃を提げて立っている。何故の物々しさか不思議に思いながら、私は別室に戻った。そのうちに話がついたと見えて熙参謀長と通訳官が降りて来て、あたふたと自動車で帰った。施交渉員がこれに続いた。話がついたものと思ってそのまま私も領事館に引き取った。

 間もなく張秘書から情報が届いた。今日の会談で、熙参謀長は吉林省の即時独立宣言を師団長から要求された。居並んだ参謀連から「独立宣言か死か」と拳銃を突き付けられての強要なので、熙参謀長は絶体絶命これを承諾した。ただし、吉林軍の武装解除は省政府の手に委ねられた、という情報である。会談中廊下の抜身の拳銃がピンと私の頭に来た。

 時すでに日本政府の事件不拡大方針が宣言され、その方針に則して対処せよ、との訓令が、私に達していた。私は、吉林省独立宣言の強要を看過できないと思った。
 その夜私は師団長を名古屋館に訪問した。師団長は日本間で和服に寛いで、師団参謀長の上野良丞大佐を相手に一杯やっていた。
 私はすぐに口を切った。吉林省を独立させる工作は中国への内政干渉として、由々しい問題を引き起こすであろう。内面の強要工作をいかに厳密にしようとも、間もなく世間に周知して、日本政府の対外的立場を不利ならしむるは必然である。事件を満鉄沿線に局限して、早急に局面を収拾せんとする政府の方針に破綻を来す因ともなるであろう。私の職責上この独立工作について再考を求めざるを得ない、と申し入れた。


 多門師団長は静かに耳を傾けた後、貴官のお話しはよく了解できるが、自分の関する限り再考の余地はない、すべて関東軍司令部の命令に出ずるところであるから、再考は軍司令部に向かって求められるより他ないであろう。しかし貴官は、独立工作は軍人どもがやったもので、自分は関知しなかったことだとして黙過されては如何といった。私は私の職責がそれを許さないと応酬したが、話は物別れにに終わった。
 事態を詳説した私の報告電が、その夜本省と奉天総領事とに走った。


 多門師団長は、チャップリンの名映画「担え銃(ショールダーアームス)」に出てくる小男のドイツ士官を思わせる矮人だった。この時以後たびたびの会談で得た私の印象では、物ごしが軟らかで智略に富む老練な将軍であった。将軍が一小隊長として日露戦争を戦った記録『弾雨をくぐりて』も、かつて私の愛読した好著であった。軍隊では実戦の経歴が重んじられるので、部下の連隊長達は将軍に推服しているという噂であった。多門師団長は、この後、馬占山軍と嫩江で戦った。
 吉林省政府は熙治氏を省長とし、9月28日、国民政府から独立を宣言した。いわゆる拳銃口(ピストルポイント)の独立で、
東三省独立の先駆をなしたのである。

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大陸政策の一環「万宝山事件」の詳細----------------

 万宝山事件に関しては、当時吉林総領事であった石射猪太郎が、その著書
「外交官の一生」(中公文庫)「非はわれにあり」と書いている。また、「借地契約そのものの合法性にも疑問があった」とも書いている。にも拘わらず、彼は日本の立場を擁護して苦闘したのである。そこで、「万宝山事件」とはどのような事件であったのか、さらに、その詳細を調べるために「万宝山事件研究」朴永錫(第一書房)を手にした。そして、「万宝山事件の経緯」と題された文章から、地域の所在について書いた部分のみをカットして抜粋した(下 記)。
 著者朴永錫(パクヨンスウ)は高麗大学大学院史学科卒の韓国の歴史学者である。当時の日本・韓国・中国の三国を幅広く研究し、万宝山事件の事実経過はもちろん、歴史的背景や事件後の中国人襲撃事件とその事態収拾の状況、中国における排日運動と日中間外交交渉などについて、様々な事実を明らかにしつつ考察している。なかでも、万宝山事件が韓国内における「中国人襲撃事件」へと発展したのは、関東軍を背景とする関係機関の情報操作の結果である、という指摘は見逃すことができない。次の課題としたい。
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                            第二章 万宝山事件の経緯

第一節 万宝山地域の土地商租権問題


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 事件発生の原因は、長春に居住する郝永徳が日本側と密かに結託して個人的に長農稲田公司を設立した後、1931年4月16日に、伊通河東側の三姓堡官荒屯一帯を蕭翰林等の12戸と10年期限契約を締結したことから始まる。「地主蕭翰林張鴻賓等12人与郝永徳所訂租地契約」の最後の第13項には「此契約於県政府批准日発生効力如県政府不准仍作無効」と明記されていたのであるが、このような条項があったにも拘わらずそれを履行せず、郝永徳はこの地を更に「郝永徳与鮮人李昇薫等9人所訂転租契約」を結んで韓農188名を呼び寄せたのであった。

 かくして、韓人は到着するするや否や用水路の掘削工事に取りかかったのであり、伊通河を塞き止めて水路を設けたのである。従って中国人の抗議が矢継ぎ早に起こり、中国の警察も現地から去るよう屡々通告したが、応じなかった。
 更に工事場の中間地帯は中国人地主の孫永清等41戸の所有地であったが、郝永徳と韓農たちは開墾地の中国人地主の諒解も得ずに、20余里の水路と中国人の土地40余晌を掘り返してしまった。このことから事件は漸次加熱し始めたのである。


 この時、長農稲田公司経理の郝永徳が租地契約の第13項に明示された長春県政府の許可を得ずして更に転租したのは、或る陰謀から故意にしたものと考えられる。それは長農稲田公司なるものが、日本の帝国主義的大陸侵略の一環として、日本の資本を密かに滲透させる為に利用して作った御用会社であったからである。その裏付けとして次の如き、中国国民党吉林省党務指導委員会からの、8月14日付の万宝山事件調査報告書第2項を挙げることが出来る。

 秘密情報によると日本人は伊通河に大水路17個所を作り、沿道に稲田1,000晌から2,000晌の水田耕作を経営する土地を確保し て、韓農2,3万名を収容せんとしている。又南満路を延長して馬家哨口に至らしめ、大倉庫を作り糧穀を買収備蓄して、日本領事館と 警察の支部を設置せんとする陰謀から、極秘裡に詳細なる測量まで終えた。次に伊通河の堤を築き水路を掘るのは、彼等の意図した工事 の一つに過ぎない。かくして長農稲田公司を中国人の郝永徳をして設立せしめて、「長」は長春、「農」は農安という意味で、長農稲田公司と呼ぶことになった。

 これで見ても日本帝国主義が、爾後の関東軍をはじめとする日本人の食糧を現地調達する為に、長春から農安までの大規模農場を開拓する陰謀が介在していたことが分かる。
 しかし韓農の立場から見ると原租地者が第三者に再商租したことになるが、この第2契約者である韓農としては、その実施に於いて長春県政丁の承認を必要とする規定はなかったのである。従って、県政庁からは中国人の郝永徳が許可を得て韓農に転租すれば良かったので、一切韓農にはその責任がないものとみなければならない筈である。しかし中国側は郝永徳が韓農と転租契約を締結したけれども、原租地契約も県政庁の許可を得ていないので無効であり、転租契約を結ぶ権利がない郝永徳が韓農と締結した転租契約は、当然無効であると主張している。


 そして中国側は郝永徳が故意になしたことで、既に日本の帝国主義者と内通して事前に謀議したものとみたのである。又ここで中国公安署側が韓農の水路工事を中止させながら、転租契約者の中でも、李錫昶をその主謀人物と看做したところをみると、李錫昶等の韓国人も、その陰謀に主動的な役割を果たしたものといえよう。李錫昶が関連しているとみられるのは、日本帝国主義の資本が中国人郝永徳と同時に韓国人とも結託したかも知れないが、大部分の韓農たちは稲栽培にのみ利用されたものと推察することができるからである。
 
 一方、この万宝山地方での韓中両民族農民の衝突は、日本帝国主義の大陸侵略上に於いての土地商租権の問題に帰結するものでもあった。郝永徳は中国人地主蕭翰林、張鴻賓等の12名と租地契約を結んだのであるが、その租地契約の第13項には、「この契約は県政庁の批准の日から効力が発生する。若し県政庁の許可を得られない場合は無効である」という但し書き付いている。しかるに郝永徳は県政庁の許可を得ていない租地契約を以て、再度在満韓人の李昇薫等の9名と転租契約を締結したのであった。だから、韓農たちを取り囲む日中間の土地商租権の紛争は、ここに於いても尖鋭化されることになった。

 特に東三省当局や南京政府としては、排日運動が、即ち在満韓人への圧迫と追放及び土地の外国人への貸与を国土盗売法によって処断することだと考えていたのである。このような時に、郝永徳が日本帝国主義と結託して張春県政庁の許可を得ずして、転租契約を結んだということは、中国側としては大変なる違法行為であった訳である。しからば先ず租地契約上の13項目を対象にした日中間の是非を究明することによって、転租契約が成立するか否かに就いて検討することにしよう。

 リットン報告書によると、郝永徳は、本租地契約が張春県長の許可を得ることによって有効であるにも拘わらず、許可を得ずして韓農たちと転租契約を結んだという。だから転租契約は無効だといえるが、租地の契約自体は中国人同士の約束だともいえる。郝永徳と韓国人との転租契約には、別途の但し書きが付いていなかった。即ち、原商租者が第3者に再商租したことになっているのである。この第2契約者はその締結に於いて、官憲の承認を必要とする規定はないのである。

 一方、中国側では、長春市政籌備処長が遼寧吉林政府の主席及び吉林省政府の報告によって発表されたところによると、租地の契約を県政庁の許可を得ずして転地契約をしたという。中国側の外交文書には、租地の契約は長春県長の許可を得ていないから無効であるとの主張に反して、満州青年同盟の長春支部長の小沢開策の現地の真相報告によると、許可を得ているとのことであった。即ち、伊通河流域は水田の適地にして万宝山一帯の東支線一間堡の付近は、10年前から在満韓人、又は、日本の大倉組等の日本人の間で、調査及び計画がなされたが1931年までその実現をみるに至らなかった。しかし、その理由は資金の事情もあったが、灌漑用の水路等がその主な原因であったといえる。その所へ中国人郝永徳が沈宣達(韓国に帰化した中国人)、それから、姜直順等と親しい間柄であったので、1926年、一間堡に3人は共同投資して農場経営を目論んだが、容易ならず失敗している。その後万宝山の水田開発計画を立て1931年、吉林省政府と万宝山第3区公安局から正式に許可を得たということになっている。
 
 以上の如く中国側に於いては県長の許可を得ていないから無効であるとの主張に対し、日本側に於いては正式に許可を得たと主張しているのである。しかるに第3者の立場で調査したリットン報告書には、許可を得ていないことになっている。従って総合的な検討を加える時、許可を得ていないという中国側の主張が客観的に妥当視されるものと考えられる。

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万宝山事件の情報操作と韓国内中国人襲撃事件------------

 「万宝山事件研究」(第一書房)の著者「朴永錫(パクヨンスウ)」は、同書の中で、満州事変の導火線が万宝山事件である、と言われていることについて、間接的な導火線ではあっても、直接的な導火線とはならなかったと断定している。日本の軍部は、万宝山事件をきっかけに、中国における軍事行動を画策したが、韓中両国の冷静な対応によって、事態が予想以上に速やかに収拾され、事件が拡大発展することがなかったからである。
 当初、日本領事館の情報をそのまま号外で発行した朝鮮日報などの言論機関も、その後事件の真相把握を訴え、事態収拾の必要性を繰り返し、諸団体が華僑たちの慰問や保護救済に動いたのである。中国側もそれを受け、「このたびの事件に際して、われわれに懇篤なる慰問と救恤の金品を贈られた朝鮮の諸団体と同胞各位に、一々拝眉謝礼申し上げられないので先ず、東亜日報の紙上を通じて衷心からなる感謝の意を伝達してくれることを切望します。1931年7月29日  朝鮮京城中華商会 代表 宮鶴汀 司徒紹 周慎九  東亜日報座下」なる文章を届けるなど、事態収拾に努めたのである。
 「朴永錫(パクヨンスウ)」は、万宝山事件をきっかけとして韓国内で発生した華僑襲撃事件が、拡大発展して中国東北地方における韓国人襲撃事件にいたれば、日本はある意味で、合法的に軍事行動を取り得たのであり、柳条溝事件をでっち上げる必要はなかったというのである。
 下記は、事件発生の経緯や事態収拾の動き、それに、当時の、日本国内における事件に関わる講演会の講演内容要旨(下段)の一部抜粋であるが、講演内容要旨は、まさに著者「朴永錫(パクヨンスウ)」の指摘が、正しいことを裏付けるような内容である。
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                      第3章 万宝山事件による朝鮮の中国人排斥事件

第1節 韓国人の中国人襲撃

 万宝山事件がその真相とは異なり、朝鮮に間違って伝えられた経緯は次の如くである。
 実際、万宝山事件は従来の中国東北地方に於いて屡々発生した韓中農民間の紛争と同じものであった。人命の被害こそなかったが、同地方への侵略の口実を求めていた日本の関東軍では、この事件を利用して、長春の領事館に指令を下して、多くの韓国農民が被害を受けたものの如く朝鮮に報道させたのである。これに従って日本領事館では、朝鮮日報の当地支局長の金利三に虚偽の情報を流したのである。金利三は日本領事館の情報をそのまま信じて、現地にも行かず、本社に送電してしまった。


 当時の朝鮮日報社では、金利三が送電した内容をそのまま号外として発表してしまった訳であるが、その理由は、1930年当地に於いて金佐鎮(民族系列の武装独立運動者)が暗殺された時、金利三の情報が極めて正確、且つ迅速であったので好評を博していたからである。彼に対する信望が厚かったので、その情報をそのまま号外として発行したのである。

 それに1925年頃から中国の東北地方では韓国人を日本の帝国主義的侵略の走狗と看做して、韓国人に対する追い出しが益々激しくなると共に、韓中農民間の衝突も屡々であったので、金利三の送電内容を検討する余地もなく号外として発行してしまったのである。
 朝鮮日報の万宝山事件に関する号外の見出しは、


 「中国官民800余名と、200同胞衝突負傷 駐在中国警官隊との交戦急報により、長春日本駐屯軍 出動準備 三姓堡に風雲漸急」
 「対峙した日・中官憲1時間余交戦 中国騎馬隊600名出動 急迫した同胞の安危」
 「撤退要求拒絶 機関銃隊増派」
 「戦闘準備中」


 即ち、中国の東北地方では中国人たちによって韓国農民が、莫大なる被害を蒙っており、相当に危急なる状況が展開されているものの如く報道されると、これを見た国内の韓国人たちは、華僑を迫害した。
 かくして、韓国内に於ける華僑の襲撃事件は、7月2日の仁川をはじめとして7月10日までを絶頂に、全国的に拡大したのである。その迫害の内容は中国人の殺害、家屋の破壊、財産の奪取等で、襲撃された中国人たちは本国に帰還するか又は集団的に避難退避するしかなかった。被害が甚だしかった所は仁川とソウル、平壌等の大都市で、その中でも平壌が最も甚だしかった。又地方別に見ると南韓よりも北韓の方が甚だしかった。しかるに、このような現象は、大体に於いて北韓が、中国の東北地方と隣接していて事件を同地方に拡大させるのに有利であったので、日本帝国主義がそのように誘導した為であると言われている。


 即ち、韓国で迫害を受けた中国人たちが、帰国して報復するのに、地域的に東北地方が最も有利であったからである。仁川や鎖南浦でも迫害が甚だしかったのは、やはり中国へ帰り易い所であったからと言われている。

 又朝鮮総督府に於いては、華僑の襲撃事件を鎮定するよりも、中国人を帰国するように周旋したのである。
 日本帝国主義が陰謀した通りに、中国の東北地方に於いて韓国人に対する報復事態が発生するようになった。即ち、奉天の教育会館で平壌から避難した華僑たちが、朝鮮での華僑襲撃事件を訴えて、これに対する報復として在満韓人をそのままにしては置けないと主張したところから、事態は極めて危急を告げることになったのである。この事態に直面した牧師の白水燁と東亜日報記者の徐範錫は、中国人の有志である遼寧国民外交協会主席の譚王伙、閻宝衡、蘇上達、王化一等を訪問して、1931年7月7日付の東亜日報に掲載された「2千万同胞に告げます。民族的な利害を考えて空虚なる宣伝にのるな」という社説を読んで聞かせながら、彼等を説得、今般の事態は日本帝国主義の陰謀によって、でっちあげられたものであることを明らかにしたのである。又彼等は奉天省長の臧式毅にこの事実を知らせて、奉天省管内の中国人たちに韓人に対する報復行為を執らないようにさせることによって、韓国人と中国人との衝突の事態を防止するのに努力したのであった。


 ・・・(以下略)

第2節

 韓国における万宝山事件への報復として中国人排斥事件が起こり、中国人に対する殺害、家屋の破壊、財産の略奪等の騒乱状態が展開されたのであった。斯様な事態収拾の責任は朝鮮総督府にあったにも拘わらず、彼等は事態を収拾するどころか、却って助長して多くの中国人を帰国させることによって、中国東北地方での報復事態を誘発させようと努力していたのである。事実、当時の状況を見ると日本人たちが韓服に変装して竹槍を持ち、韓国の不良青少年たちを扇動して、華僑たちを襲撃したこともあった。朝鮮総督府当局の態度がこうであったから、事態の収拾は韓国人自身の手によって行うより外なく、言論機関の東亜、中外、時代日報、それから社会団体及び及び民間有志たちの努力によって収拾することになった。


 先ず朝鮮日報では、7月2日と3日の号外が事態を誘発する結果を招いたことを知ると、即時に1931年7月4日の社説「心痛なる在満同胞の運命、綿密を要する呼応対策」で、在満同胞の擁護は在朝鮮中国人の安全を考慮することが、その正常化の一方便であることに留意しなければならないとし、中国人に対する襲撃は穏当でないと警告説得したのである。最初から慎重な態度を執っていた東亜日報では、万宝山事件と韓国での華僑襲撃事件を報道しながらも、事件の真相を把握して慎重に対処することを促した。

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 東亜日報と朝鮮日報は事態収拾の為に、事件の真相とその影響を国民に説得したのであった。それに中国の吉林では独立運動の志士たち(主に万宝山事件討究委員会の委員たち)が、万宝山事件の真相と日本帝国主義の陰謀及び朝鮮に於ける中国人排斥事件が在満韓人に及ぼす影響を知らせる為に、極秘裡に国内へ朴一波を派遣潜入させたので、事件の真相が一層明確になり、新聞等も自信を持って事態の収拾に乗り出したのである。
 一方、韓国の民族指導者たち及び社会団体も事態の収拾に乗り出したが、その内容は、大体華僑襲撃の中止を訴え、避難民の救済と華僑たちの生活の安全回復、万宝山事件の真相把握と在満同胞の擁護の為の対策等を講究するものであった。


 ・・・
 
 7月11日には朝鮮各界連絡協議会の名義で、今度の事件は韓国人全体の意思ではないことを、国の内外に発表すると共に、今後の韓中両民族の親善を取り戻す為の努力として、韓国人の真意を中国国民に伝える為に、声明書の全文を南京の国民党中央通信社に打電したのであった。その声明書の全文は次の如くである。

     声明書

 各団体に所属するわれわれ一同は、今般の万宝山事件の導火線として、仁川、京城、平壌等の地に発生した中国民に対する不祥事に対して、誠心誠意深く遺憾の意を表し併せ、この不祥事を発生せしめたものが決して朝鮮民族全体の意思ではないことを声明する。
 歴史的、地理的、文化的、経済的に最も密接なる関係を持つ槿域、漢土の両民族は、現在に於いても将来に於いても最も親密なる友誼を維持して、互いに扶掖する必要がある境遇に処していることをわれわれは確信するところであり、今般の全国的なる不祥事が却って両民族の親善を意識的に増進し且つ企図する契機になることを信ずる。又中国の国民は必ずわれわれ朝鮮民族の真意を了解して、今般の不祥事の記憶までも快く忘れるのみならず、在満百万朝鮮人に対する本来の疑惑と見通し得なかった誤解までも捨てて、両民族の友誼を遮る要因を一掃する雅量と好意を抱いてくれるものと信じ、延いては満州在住朝鮮人同胞の問題を合理的に解決する契機になることを懇望する次第である。最後にわれわれはわれわれが最も好意を抱く善隣の友が1日も早く前日の如く各々斯業に安んじ、幸福で繁栄ある生活を営まれることを祝願する。
 南京国民党   中央通信社    貴下


 貴社を通じて全中国民衆に告げます。われわれは朝鮮各地で発生した不祥事に対し、心からなる遺憾の意を表します。この事件は決して朝鮮民族の真正なる意思を代表するものではありません。将来に於いて両民族は一層親密の度を加え、満州の朝鮮人の困境を解決するに於いて相互協力することを切望します。これを国民政府、国民党、各新聞社等に伝えて下さい。
                                朝鮮京城各界連合協議会


 一方、京城各界連絡会は7月16日、全国で一番甚だしい被害を蒙った平壌の華僑たちを慰問している。……
 ・・・
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           第5章 万宝山事件と韓国における中国人排斥事件が日本に及ぼした影響

第1節 日本帝国主義の大陸侵略に於ける前衛団体の活動


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 これら団体の万宝山事件と韓国に於ける中国人排斥事件に対する日本国内での講演、声明、決議文等には、彼等が侵略の推進過程に於いて国民の関心を惹く為に努力した跡が歴然と現れている。その中で幾つかの団体が主宰した講演会を先ず検討する。

 東亜振興会の主催で7月18日、東京の上野公園の自治会館に於いて、満鮮問題国民大会が開かれ、講師には、菊池武夫(退役陸軍中将、男爵、対外同志会幹部)、朴春琴(親日朝鮮人、代議士、相愛会副会長)、石塚忠(日蒙貿易協会理事長)、佐竹令信(満州青年連盟代表)、遠藤寿儼(退役将官)金健中(東亜保民会理事)、佐藤清勝(退役陸軍中将)、飯野吉三郎(大日本精神団総裁)等が名を連ねた。このの時の司会者が橘富士松(振興会主幹)であり、内藤順太郎(対外同志会幹事)を主席に推戴して、西山陽造が、大会開催の経過報告を行った。即ち、中国の東北地方に於いて中国の官憲たちが韓国人を圧迫した為に万宝山事件が起きたのであり、又同事件が原因で韓国に於ける中国人の排斥事件が発生したのである。しかるに日本の政府当局はこれに対する事前の対策を講究しなかったので、日本国民が団結して東洋の平和と難局を打開する為の対策を樹立せんがために大会を開くことになった旨を報告したのである。

 その趣意書は事前に管轄の上野警察署に提出すると共に、更に一通を外務省亜細亜局長の谷正之に、一通を中国公使館へもそれぞれ提出している。この日の参会者は約650名程度で、会社員が約40%、学生が約30%、その他労働者が約30%で場内の雰囲気は相当に緊張したものであった。会議の進行途中金岡淳(韓国人)の緊急動議で決議文が作成されることになり、その決議文は橘富士松が20日に外務省に提出している。その決議文の要旨は現内閣の軟弱外交(幣原外交)が日本の威信を失墜させ劣等の地位に転落させたのみならず、日本の建国以来の歴史に汚点を残したので、われわれは憂国の衷情から自決することを期すると決議したのである。講師たちの講演の要旨は、

 1、菊池武夫──中国人たちは日韓併合以来韓国人が日本臣民になったことを嫉視して、中国の東北地方から韓国人を追放した結果として派生したのが、万宝山事件である。現政権が政権維持にのみ没頭した為、外務当局は中国の東北地方問題に対して何等の対策も講究しなかったし、又中国政府の外交は欺瞞外交で一貫して来た。しかるに現日本政府は中国の東北地方の問題を解決する能力のない軟弱外交である。
 2、朴春琴──現在世間の人たちが朝鮮人と呼ぶのは内地(日本)人を四国人、九州人等と区別するのと同じことである。日韓併合以来朝鮮人は日本人と何等の差別もなく同等になった。そして日本人(内地人)も内鮮融和を主張してその実現を期している。現在中国の東北地方に居住する韓国人約30万が中国に帰化しようとしているのは、臨時便法としてやむを得ないものである。今度の両事件に対して外務省が賠償金を中国側に支払う用意であるという説があるが、その原因を勘案すると寧ろ中国政府から賠償を取らねばならないことである。
 3、石塚忠──現在日本の内閣は自分たちの政権争奪のみを目的に外交を行って来たので、大凡に於いて軟弱であるのは事実である。又韓国人たちが中国の東北地方に於いて多くの迫害を蒙る等、日本帝国の威信が失墜していることも事実である。今日本の二大政党は勿論、政治を論ずる者は大いに反省して日本帝国の進路を図る前に、人口問題と食糧問題の二つを解決する為に、満蒙に進出して、確固たる満蒙政策の樹立に邁進しなければならない。


いうものであった。
 この外に佐竹令信、遠藤寿儼、金健中、佐藤清勝、飯野吉三郎等の演説もあったが、その内容は大同小異である。
……
 ・・・(以下略) 

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東条英機 独裁体制と陸軍機密費----------------

 「細川日記」(中公文庫)の著者は細川護貞であるが、細川護貞が当時の戦局等の諸情報を集めるために要職にある多くの人物に接触し、それを日記に書き留めたのには訳がある。首相となった東条英機が、独裁体制を敷いて情報を統制したため、戦局についての正確な報告が天皇に伝わらない、と危機感を抱いた近衛文麿前首相が、天皇の弟・高松宮を通して天皇に情報を伝えようと考え、秘書官であった細川護貞に、各方面から情報を収集して高松宮に報告する任務を与えたからである。近衛文麿が細川護貞に与えた任務によって、この「細川日記」が生まれたといえる。したがって、随所で東条を論難しているが、その中からいくつかを抜粋する。

 それらは、戦局の悪化に対する責任追及や見通しの甘い作戦指導にたいする批判に止まらない。敵対者を召集して激戦地に赴任させたり、予備役に編入して活躍の機会を奪ったりしたこと、また、憲兵や特高警察を重用し、敵対者に圧力を加えたりしたこと、さらには、莫大な軍事機密費を利用しての関係者への物品供与等々であるが、下記は、それらに触れている部分である。「細川日記」細川護貞=著 (中公文庫)からの抜粋である。(但し、公とは近衛公のことであり、御上とは天皇のことである)
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昭和19年2月7日

 午後4時、富田氏訪問。例の報告を受く。

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 尚将軍(酒井中将)の話によれば、マーシャルは既に殆ど陥落、ブーゲンビル島は、3月迄の食糧を残すのみにて、玉砕すべきや否や協議中、ニューギニア亦2師全滅、更に救援の1師危し。ラバウルは補給の道なし。北千島には連日敵機飛来し投弾す。いづれ3月ともなれば上陸されん。又小笠原も本州も殆ど防備なければ、万一来ることあらば上陸されん。将軍は、最早万策尽きたと云はれたりと。富田氏は伊藤氏の話を引き、米国人は日本人を獣と見るを以て、或は毒ガスを使用するかも知れず、又天皇制を破壊するかも知れずと。富田氏と雑談し、昨年8月氏と軽井沢に於て話し合いたることが、はからずも今日現実に出来したるは、誠に残念なり。是と云ふも東条の責任なり。唯今日是を替へる方法も困難、且よしんばクーデターを為すも、御上(天皇)の御信任ある限り、クーデターは成功せざるかも知れず、現実の問題として、もう少し事態が悪化せざる限り、東条を退くるは不可能なるやも知れずと語り合へり。酒井中将は、かく迄なりたる上は、国体を維持するだけで充分なりとも云はれたりと。誠に悲しむべき事態なり。而も此の実情を、天聴に達する道なし。御上の聡明を蔽ひ奉り、国家をして滅亡の淵に立たしむ、彼等東条の輩、軍部は車裂きにするも尚足らざる也。
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昭和19年2月16日

 午後高松宮邸伺候。
 殿下の御帰邸御遅かりし由にて、十数分控室に御待ち申し上ぐ。今日言上申し上げたることは、2月7日の酒井中将の報告と、軍部内に於ける皇動派と統制派との、歴史的背景に就いて申し上げ、若し今日政変を為すとせば、皇道派を起用せらるる以外に道なきことを申し上ぐ。又第3には、万一此の戦が不利となりたる場合につき、殿下の御考慮を願ひ上げ、特に我国皇室の御維持については、特に御考慮願ひ度き由言上したり。殊に此の第3の問題につきては、今日迄の敵国の言論は、我皇室に言及し居る者は極めて少なきも、而しその故に安心するは早計にして、兎も角凡ゆる場合につき研究するを必要と考ふる由申し上ぐ。

 殿下は、「自分は今日の事態を以て、未だ絶望はし居らざるも、所謂絶対国防圏(小笠原よりトラック島を経て、ニューギニア西部の亀の頭の如き個所に到る線)を侵される場合は、負けと断ずるをはばからず。然れども此の如き認識は、東条を初め首脳部には、少なくも現在はなく、従つて海軍(恐らく課長級)としては、此の認識を持たしむる様努力し居る次第なり。又その時期については、マーシャルで敵は我方の手の中を見たらうから、3月の初めから4月にかけてのことだと思ふ。殊に千島並びに北海道に対しては、上陸作戦に出るであらう」との仰せなりき。余は、「古より、勝敗は兵家の常と申す諺も有之、勿論勝つことは望ましきことの第1なれど、勝つべき道が失はれたる場合は、一刻も早く、余力の充分ある中に鋒を収むるが宜敷様考へます。国家の生命の如きは永遠なるものにて、僅々一度の敗北の為、冷静なる判断を失ひて、国家を亡絶せしむるに到るが如きは、大なる誤りかとも考へます。然し乍ら今日一般には、日本本土をアッツ、キスカの如く焦土として、玉砕すべしとの議論横行致し居りまするも、夫は我国民の覚悟としては当然なること乍ら、指導者としては、永遠のことを考ふべきものと存じます」と申し上げたるに対し、殿下は、「玉砕と云ふ如きは、云ふ可くして実行不可能なり。足腰立たざるまで戦ふ如きは愚の骨頂にて、若し万一絶対国防圏を突破せらるることあらば、速かに休戦する、即ち成るべくよい負け方を考へねばならぬ」と仰せあり。東条初め戦争責任者は、恐らく最後迄政権に取りつき、責任を回避せんと努力すべく、その為かかる場合に於ても、非常に不利なる立場に立到るべきは明かにて、何卒此の絶対国防圏の考を国民にまで徹底せしめ、政府のズルズルベッタリの責任回避策を封ずる様致し度く存じます」と言上、殿下も、「自分も夫れをやりたいと思ってゐる」との御言葉あり、尚、「若し万一、皇室に累を及す如きことあれば、皇族の1人が、御上の御身替わりになればよいと思ふ」と仰せあり、粛然居住ひを正したる次第なりき。余は更に話題を転じ、「然し乍ら、此のまま敗北致すは誠に口惜しく、未だ今日に於ても、回復の希望なきにしも非ずと存じます。唯夫れには、東条内閣にては、不可能と存じますが」と申し上げたるに、前回と同様の御議論あり。「一体誰が出ればよいのか。又時期が間に合はんではないか」等の御言葉あり。又更に、「抑も国民が此の重大なる秋に当つて、自覚が足らん様に思ふがどうか」と御下問あり。余は、「夫は恐れ乍ら誤れる御観察と存じます。国民は事態を全く存じて居りません。仰せの如く此の非常の秋に当つて、呑気なるは事実でございますが、夫は知らざるが故に呑気なるわけにて、知らしむれば必ず粉骨砕身、御奉公申すと存じます。御仰せの通り、東条初め事態を楽観致し居る有様なるを以て、況や国民が楽観致すは当然と存じます」と奉答す。又辞去せんとして、マーシャル方面に御奮戦の音羽侯爵の御安否伺いたるに、「全く消息が絶えて居るからわからぬが、何万人と云ふ国民が死んで居る時に、皇族の1人が戦死されたることは、御本人及び御遺族に対しては御気の毒だが、善いことだと思ふ」と仰せありたり。誠に今日の御話には、恐れ多きことのみ多かりき。9時退下
 
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昭和19年3月13日

 午後5時、華族会館にて近衛公と面談。今夕7時高松宮邸へ伺候すべきにより、意見をたゝく。別して意見なし。
 7時、高松宮邸伺候、直に拝謁。例の酒井中将の報告を申し上げ、万一我が国が最悪の情勢に陥入りたる場合、如何なる方法によりて、此れより脱出すべきかにつき、先づ宮殿下を内閣の首班に奉戴せんとする説あり、又臣下の者を以てせんとするものあり、何れも一長一短あれど、要は軍部殊に陸軍にして、若し万一中途半端なる方策をとる場合は、効果は却つて逆となることもあるべきこと。而して今日の軍指導者に対する不信は、国の内外を問わざるを以て、全然別派を以て代置せざるべからず。而して別派とは所謂皇道派にして、人物としては、柳川、小畑あること。然れども此の皇道派に対しては、恐れ乍ら、従来とも御上の御覚え宜しからざる様、洩れ承り居るも、此の点拝聞するを得ば幸ひなること。又然らば所謂最悪の事態とは如何なる時期かと云へば、酒井氏によれば、既に今日その時期にして、一日も早く政治的解決を為すべきを云ふも、前回拝謁の時の御言葉には、トラックの線破れたる時との仰せなりしも、先般の敵の攻撃は如何なる程度に解釈すべきか。更に今日がその時期とせば、東条内閣を打倒せざるべからざるずも、東条自身は勿論、四囲の情勢は、是が更迭とは凡そ隔りたるものあり。従つて
政界の事情に通ずるものは、殆ど皆非合法のテロ以外に方法なしと申し居れり。唯一つ御上より御言葉を給はれば、最も円滑に更迭を為し得ること明瞭なれど、かかる政界の情勢を言上すべき方法なきこと、等を言上す
 ・・・(以下略)
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昭和19年5月10日

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 又、「是は友人から聞きました話でございますが、上海辺りでは支那人が日本人と交際しますのは、結局、『お前は日本人らしくないから附き合ふのだ』と云ふことを申すと云ふことでありますが、この日本人らしいと云ふ考へ方は、無理なことを言つたり、乱暴をしたり、要するに国際社会に於て為す可からざる粗野なことをすると云ふ考へ方であつて、大陸に渡つた多くの軍人、殊に憲兵や民間人の中にもさうした者は非常に多く、従つて外人の目には、夫れが日本人であると思はれて居ると思はねばなりません。謂はば日本人全体の教養と申しますか、常識と申しますか、さう云つたものが欠けて居ると云ふことが、我国運の現状に大きな影響があつたと存じます」と言上せるも、殿下(高松宮)は、「憲兵は全く困つたものだ。最近は数も多くなるし、将校が逆に脅迫されると云ふ様なこともあつて、軍隊指揮の上からも重大な問題だ。夫れから徴兵と云ふことが、個人に対して懲罰と同様に行はれると云ふことで、是は重大なことだと思ふ」と仰せありたり。余は粛軍と云ふことを申し上げたる手前、柳川、小畑等の抱懐する方向と人事と、又その難易の度につきて言上、又柳川、小畑、酒井各将軍の性格等についても言上、殊に柳川中将が斯くなる上は唯ひたすら己を虚しうし、御上の仰せを畏むのみだと申して居りました、と言上す。殿下は「自分も全くさうだと思ふ」と仰せあり。ノートを御取り遊ばさる。かくて10時前退下。
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昭和19年9月11日

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 又氏(富田氏)は某支那浪人の仲介により、田中隆吉中将より面会を再三申し込まれ、去る31日面会されたる所、田中氏は、彼が東条に4ヶ条の忠告を──東条とは満州に於て下僚たることありしを以て、東条の性格を知悉しあり、即ち衆人の面前にては、東条はすぐ威丈高になる癖ある男なれば、個人的に密かに面会したりと──発したるに東条は全然意見を異にすることを述べ、更に考え置く様にとのことなりしも、彼の考ふるには東条と云ふ男は反対の意見の男を、必ず殺す男なれば、自らの身辺も危しと思ひ急に早発性狂気の真似をなし、千葉病院に入院、少尉の軍医にその診断書を書かしめ、遂に予備役編入せられたり。然るに今にして考ふるに、戦争は最早負けなり。而して近々陸海軍自らが手を挙げる時期となるを以て、其時近公は出でゝ時局を収拾せらるる必要あり。然れども今公が和平を云々することは、身辺危険なるを以て、出来るだけ強硬論を主張せらるべしと。誠実の意面上に顕れたりと。11時より3時迄会見し、帰途平塚駅にて将校演習より帰途の十数名の将校が、酒気を帯びたるに会し、中の知り合いを叱して、此の時局もわきまへず、白昼より酒を呑むとは何事だと大声一喝し、「自分の如きは早くやめてよかった。今に軍服等着られなくなる時がきますよ」と云ひたりと。又田中氏は次の陸相として、板垣氏を推し居たりと。
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昭和19年10月1日

 5時、海軍懇談会あり、矢牧大佐、伏下大佐、中山中佐、佐々、湯川、矢部氏等出席。中山中佐は、飛機の生産が昨年暮れより低下し居り、予定のカーブは2月頃より急に上昇すべかりしも、凡ゆる方面の努力に不拘、生産低下するは不思議なりと云ひ居れり。其他雑談にて9時散会。

 尚余は旅行中にて知らざりしも、松前重義氏は東条の為一兵卒として招集せられ、去る7月東条内閣退陣後2日に発令、熊本に入営せりと。初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に招集したるなりと。海軍の計算によれば、斯くの如く
一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる招集をしたる者72人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり。

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昭和19年10月15日

 去る13日午後4時、富田氏を訪ね、前日公に尋ねたる元老設置の件を話し、何とかして東条を重臣と為さざるよう努力せらるることを依頼す。

 5時半、寺田甚吉氏邸に近衛公、野村大将、酒井中将、富田氏と共に招かれ、食後種々の談話あり、公は対ソ接近の危険を説き、重光も同意見なるも、東郷はむしろ親ソ論者なりと云はれたる所、野村大将は、戦後は何れにせよ赤化せざるを得ざるを以て、親ソも亦一つの政策なりと云ひ、「今日我が邦ぐらゐ共産主義の徹底せる国家なし」とて笑はれたり。尤も此の調子は、事皇室のこととは離れての意味なる様思はれたり。

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 14日午前9時、吉田茂氏の永田町の邸に行く。此日松野鶴平氏の招きにて、近衛公、鳩山氏、吉田氏等と共に深川に海の猟に行く。風強き為海産組合長佐野某宅にて雑談、帰途吉田邸に公、鳩山氏と立寄り雑談の際、白根宮内次官は東条礼讃を為し居る由鳩山に語り、一体に宮内省奥向に東条礼讃あるは、附け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話出で、例へば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官夫々のイニシアル入りの万年筆等も交りありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈り物ある由。鳩山氏は東条の持てる金は16億円なりと云ひたる所、公は、夫れは支那に於てさう云ひ居れり、主として阿片の密売による利益なりと。共謀者の名前迄あげられたり。余も何かの会合で、10億の政治資金を持てりと聞けり。過日の海軍懇談会の折も、昨今の東条の金遣ひの荒きことを矢牧大佐語られたり。或いは多少の誇張もあらんも、多額の金を持参し居るならん。夜金子家を問うての雑談中、故伯の病革る頃、日々百人前の寿司と、おびただしき菓子、薬品等を、東条より届けたりと。鳩山氏は、「斯の如き有様なれば東条復活の危険多し」と云はれたり。
  

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