-NO279~284-

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「阿片王」里見甫(里見機関)と関東軍軍事機密費------------

 里見甫は、満州事変勃発直後、関東軍第4課の嘱託辞令を受け、密命を帯びて、半官的な「聯合」と民間経営の「電通」を合併させるために動いた人物である。そして「一国一通信社」というメディア統合に力を発揮し、満蒙通信社(後の満州国通信社・略称国通)を設立させた。それは満州にとどまらず、その後、日本国内の通信統制に発展していったという。そうした里見甫の新聞記者、国通時代の活動が「続 現代史資料ー12ー阿片問題」岡田芳政・多田井喜生・高橋正衛編(みすず書房)付録「里見甫のこと」と題して、伊達宗嗣名で、詳しく紹介されている。
 しかしここでは、敢えてその部分をカットして、彼のもう一つの活動、すなわち阿片工作に関わる部分のみを抜粋する。戦中「大陸新報」の社長をつとめ、里見甫と親しく、戦後自民党代議士となった福家俊一の証言によると、「里見は、上海の阿片の総元締めだった。その莫大な阿片のあがりが関東軍の軍事機密費として使われた。関東軍が一株、満州国政府が一株、甘粕が一株という形でもっていた」という。
(「阿片王ー満州の夜と霧」(新潮文庫)の著者佐野眞一は、関係者をしらみつぶしに当たり、里見甫はもちろん、「里見甫のこと」の著者「伊達宗嗣」についても、里見の晩年の秘書的存在だった人物でるが、伊達順之介の息子(伊達一族の末裔)ではなく、本名は「伊達弘視(ダテヒロミ)」であると、その素性を明らかにしている。)
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                                 里見甫のこと
                                                             伊達宗嗣
     はじめに

 わが国の阿片問題について語るとき、避けて通ることのできないのが、「里見機関」(宏済善堂)の存在である。主宰者の里見甫(リーチェンプ)(東亜同文書院13期=大正5年6月25日卒業 昭和40年3月21日歿、享年68歳)は、戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として、巣鴨拘置所に収容されたが、何故か無罪放免になった。その理由について里見は、「供述調書を読んだ米国の情報関係者が、利用価値があるとみて釈放してくれたのではないか」と、多くを語るのを避けていたが、ロッキード事件で公然化した米国流の「司法取引」が行われたのかも知れない。
 法廷に提出されたのは、供述調書の一部で、阿片取引の収益金の具体的な用途、とくに軍の情報謀略工作関係については、大部分が隠蔽されたと、里見は語っている。


 後年、ベトナム戦争当時、米国がベトナム半島の山岳民族(阿片栽培が唯一の現金収入)に対し情報工作を展開するに当たって、里見機関の阿片工作のやり方が流用され、グリーンベレーの送り込みには成功したものの、反面、米軍内部に大量の阿片吸引患者の発生を余儀なくされ、本国送還による戦力低下とともに、米国内における阿片吸引患者の激増をみたことは、関係者の知るところであり、阿片の持つ危険な両面性を遺憾なく物語っている。

 里見が阿片謀略工作に手を染めたのは、参謀本部支那課長であった影佐貞昭大佐が初代の参謀本部第8課長(謀略担当)になったとき(昭和12年11月)影佐に懇望されたことによるもので、昭和12年から終戦までの8年間にすぎない。それも軍が阿片取引に深入りするのを心配された天皇が、しばしば侍従武官に「どうなっているのか?」と御下問になるので、里見に旨を含め、軍の隠れミノとするため発足させたもので、侍従武官を務めた塩沢清宣中将(陸士26期)が、里見の没後筆者に詳細に説明してくれた。

 里見と軍の関係については後述するが、この間の消息を伝える意味慎重な撰文が、里見の墓誌銘に刻まれている。

  「凡俗に堕ちて、凡俗を超え
  名利を追って 名利を絶つ
  流れに従って 波を揚げ
  其の逝く処を知らず」

 撰文は里見の後輩で、新聞記者時代から陰に陽に里見を見守ってきた大矢信彦(東亜同文書院16期=大正8年6月29日卒業)。書は1期先輩の清水董三(東亜同文書院12期=大正4年6月27日卒業)の筆になる。墓誌は元満州国熱河禁烟総局長から経済部次長、国務院総務庁次長になった古海忠之(戦後、中国戦犯として撫順収容所で18年間服役し、帰国後、岸信介元総理の世話で東京卸売りセンター所長)が


  「……昭和7年満州で新聞聯合社専務理事岩永裕吉、総支配人古野伊之助の協力を得て国通を設立した。時に37歳。支那事変の拡大とともに大本営参謀影佐貞昭の懇望により上海に移り大陸経営に参画、国策の遂行に当たった。……」

と記している。
 阿片工作については直接触れていないが、「大陸経営」とは汪兆銘政権、国策とは宏済善堂の経営つまり阿片工作の遂行であったことは、指摘しておかねばなるまい。ちなみに「里見家之墓」の五文字は、岸元総理の書いたものである。墓地は千葉県市川市の里見公園を見下ろす安国山総寧寺の境内にある。


     新聞記者・国通時代 ・・・(略)

     里見機関

 当時阿片市場として最大なのが上海であった。阿片の最大供給国はは英国で、インド阿片を持ち込んでいた。わが国の三井、三菱両財閥もペルシャ阿片の確保に鎬を削り、上海租界の運搬は専ら青幇(清幇)の手に委ねられ、その販路を牛耳っていた。
 大使館付武官補佐官で上海陸軍特務部の楠本実隆大佐(陸士24期)が、販路の確保を里見に持ちかけたが、その背景には影佐の特命があった。当時塩沢大佐は経済課長で上海後方建設の主任で、中支那新興会社の創立に当たり、満鉄から人間と事務所を調達、日本国内からは鉄道省、日銀など各機関から若手キャリア組を出向させた。佐藤栄作元総理はこの時、鉄道省から派遣されている。中支那新興会社は海軍と提携し、子会社として鉱山会社を現物出資の資本金100万円で発足した、維新政府設立第1号の鉄鉱会社が2000万円で発足した。当時上海だけは陸海軍武官府を構成、他の各地とは異なり陸海の協力は密で、海軍は津田静枝中将がその任に当たっていた。

 これら上海後方建設の合弁会社が続々と設立されるにつれ、既存の維新政府財源では予算がなくなり、次第に阿片の収益金に目をつけるようになり、その責任者として里見に白羽の矢を向けたのである。

 軍の信頼が厚く「滅死奉公(滅私奉公?)」の念に燃えていた(塩沢の評価)里見に、謀略の元締めである影佐第8課長が特命を下したわけで、ナショナルエージェンシーの確立、ハルビン工作に手腕を発揮した里見に阿片工作でも、軍の期待が賭けられていた。
 阿片工作の対象として期待した青幇のボス杜月笙は巧みに上海から重慶に逃れた。里見との出会いはなかったのである。国民政府の参議少将の肩書きを持つ杜月笙としては、莫大な阿片の独占権を目の前にしながら、里見の手を振り切った。替って上海租界に入った大物が盛宣懐である。武漢大冶の漢冶萍公司の総経理である盛は維新政府の鉄鉱会社に大冶の鉄鉱石を供給、維新政府は利ザヤを稼いで八幡製鉄(現新日鉄)に売るという形である。盛は阿片癮者で、里見の手から阿片を供給され、ここに奇妙な実業家と虚業の結び付が生まれている。

 また軍は昭和12年秋の大場鎮の戦闘で、日本軍の損害が大きく、攻めあぐんだすえ、里見に対策を求めた。里見は伝手(ツテ)を求めてフランス租界で敵将と極秘裏に会見、折衝の結果、支那軍総退却の合意を取りつけたが、約束が実行されるかどうかに一抹の不安を持った軍当局は、その代償金の金額前渡しを、ニセ札で行なおうと主張したが、里見は烈火の如く怒り、「日本の武士道いずくにありや」と責め、真札を贈って信義を守った。敵将も里見との約束を守って、打合せ通りの日時に合図の号砲を発射し、これに応じて開始された日本軍の総攻撃と同時に、敵は全線にわたる総退却にうつり、前日まで寸土も許さなかった大場鎮の堅塁は、大した犠牲もなく陥落した。(新聞通信調査会報1965年5月号「里見甫さんのあれこれ」佐々木健児=元同盟通信記者)
 これなど里見機関の真骨頂を示すもので、日本内地で大場鎮陥落の提灯行列が行われた戦闘の裏面史である。


 阿片の収益は主として軍の特務機関工作に使われたが、日本が設立した傀儡政府=蒙疆政府、華北政府、維新政府などいずれも阿片の収益で赤字を補填する形になっており、大東亜聖戦を呼号した軍の在り方が疑われる所以でもあるが、戦争末期、中国民衆が上海でわが国の阿片工作機関である宏済善堂に対する攻撃を始め出してから、阿片の収益は次第に低下、里見機関のカネは軍関係者によってむしり取られてゆく。軍関係者だけでなく、政治家もコネを頼って里見機関のカネを狙い、昭和17年4月の翼賛選挙では岸も元総理(当時商工大臣)が500万円(当時)の資金調達を依頼したことは有名な話になった。新聞ゴロも里見が新聞記者をやっていた関係上セビリにゆく者が多く、里見機関はこれら悪性日本人の資金供給源となっていたことは否めない。したがって里見は中国民衆の抗議を潮時とみて地下に潜伏、上海の表面から消えた。終戦引揚までその消息は杳としてわからなかった。

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日本の阿片政策と日本非難の国際世論---------------
阿片問題の前に
 またしても、あなたは「なぜ日本ばかり批判するのですか?」との批判をいただいた。でも、私は日本を批判しているのではなく、過去の歴史的事実を素直に認め、そこから出発したいだけである。
 敗戦が濃厚になると、日本が組織をあげて軍関係の文書の焼却や様々な証拠物件の湮滅に力を注いだことはよく知られている。にもかかわらず、そうした事実を伏せ、隠蔽された歴史的事実について、何も調べたり研究したりすることなく歴史を語ろうとする動きを、私は座視できない。
 「子供たちが日本人としての自信と責任を持つことのできるような教科書をつくる」という主張に異論はないが、そのために歴史の一面だけをみたり、真実を隠したりしてはならないと思うのである。

 また、先頃、「日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」と公言したり「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党」などと主張する田母神俊雄なる人物が、航空自衛官の最高位の(第29代)航空幕僚長であった現実に衝撃を受けた。地道な調査や事実の検証、科学的分析などに基づいて築き上げられてきた史論を無視して、目先の利益のために歴史を詐るような人間が、航空自衛官の責任ある地位にあったことに驚くとともに、正しい歴史認識の重要性を思い知らされたのである。そこで日本の過去の”あやまち”に目をつぶり、先の戦争を正当化するような動きに抗して、あまり知られていない歴史的事実などをも詳しく学びながら、様々な書籍からその重要部分を抜粋し、アップロードすることにしたのである。

阿片問題について
 いちはやく、国家の財源確保のために阿片を利用したのはイギリスであり、イギリスが持ち込む大量の阿片の流入を阻止しようとした清国との間に、「アヘン戦争」(1840年)が勃発したことは、世界史を学んだ日本人には常識となっている。そして、アヘン戦争に勝利したイギリスが、南京条約によって香港の割譲や軍費の賠償、その他様々な利権を得たことが、理不尽極まりない帝国主義的行為であったことを否定する者は、もはやいないだろうと思う。
 その後、中国におけるアヘンの使用が拡大していった結果、いろいろな社会問題が発生し、1900年代に入ると阿片問題に対する国際的な取り組みを求める声が高まっていく。そして、万国阿片委員会( International Opium Commission ) が開催され、1912年にオランダのハーグにおいて「ハーグ阿片条約」が調印されるに至るのである。
 ところが、日本が財源確保のために阿片を利用するようになるのは、この国際条約調印後のことである。したがって、イギリスとはちがい、日本の場合は、国際条約違反のかたちで阿片を利用せざるを得なかったために、表向きには「漸禁政策」をかかげつつ、裏で大量の阿片取り引きをしたのである。それは、特務機関などを利用して巧妙に行われた。したがって、阿片に関する公文書などは、表向きのもの以外はほとんど残されていない。だから、日本人の多くは「アヘン戦争」は知っていても、日本の「阿片政策」については、ほとんど知らないというのが実態ではないかと思う。

 下記は、阿片問題に関して、日本が世界各国の非難の的になっていたと論じている部分を「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)から抜粋したものである。下段は、同書の「外務省関係電報および文書」の28に入っているものであるが、日本の阿片取り引きがアフリカにまで手をのばしつつあったことが「”アフリカ”ヨ用心セヨ」で分かる。
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解説より(xxxi~xxxii)

 
・・・
 日本は1930(昭和5)年以後、先進国の中で唯一の”阿片の悪者”の国とされていた。ジュネーブにある国際聯盟の阿片委員会では、中国を筆頭とする、英、仏などから常時非難されている国であった。また東京裁判の里見甫を裁いた法廷に提出された多くの検察側の証拠文書には、満州事変前の1936年5月9日付「在上海アメリカ財務官の報告」をはじめ、アメリカ大使館、在済南アメリカ領事の報告など詳細をきわめた日本の中国での阿片政策の実情がのべられている。坂田組の活動や、「大北京の『ヘロイン』業の『親分』としての二人の支那人」の報告(1941年3月19日附上海駐在アメリカ財務官報告)には、劉と常という二人の親分の所行を説明し、さらに「日本領事警察ハ『ヘロイン』商売ヲナス日本人又ハ朝鮮人ヲ保護スルト云ハレテイマス……」と、2人の親分と日本領事館の関連までのべている。


 日本はジュネーブの国際聯盟により、また中国ではアメリカなどの外交官から調査、監視を受けていた。在中国のアメリカ大使館などの阿片に関する報告は、アメリカの新聞で報道された。このような状況で日本の外交官は、任地が中国なら、まさに国策に従って中国での阿片確保の任務を遂行し、任地がアメリカになると、アメリカを始めとする国際世論の日本非難の防遏(ボウアツ)に懸命にならざるを得ない。しかしなんといっても、国策遂行に従事する在外各地の公使、総領事、領事の活動は、はじめて知ることのできる事実である。

 また58電は楠本実隆大佐、根本博大佐(のち中将、この時は北支那方面軍特務部総務課長)の行動が、外務大臣に報告されている。このように外務電は所管外交事項のみならず、陸軍がいかに阿片に関与していたかを示し、一方イランの阿片輸入をめぐり、あくまで利益追求に徹する三井物産、三菱商事の”商人ぶり”と(52,55電)あいまって、阿片の入手、確保に日本が官も民も、うって一丸となって狂奔していたかがうかがえる。
 第2部25の打合会議で、「本年1000箱手ニ入レタルモアト見込ナシ、イラン、アト500箱ノミシカ輸出シエナイ」云々とあるが、(309頁)この間の消息は外交電の166,167,170が示している。
 興亜院や中国の各連絡部という阿片政策の第一線に従事する官庁と外務省が連動して、日本史上未曾有の量の阿片を取り扱った時代を物語る資料である。

 ・・・(以下略)
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                          外務省関係電報および文書

28(p506)

 国際的疑惑ノ焦点ニ立ツ日本ノ「麻薬」取引ニ就テ
   聯盟総会ニ於テ頒布サレタ怪文書
                              内務省衛生局  保見吉亮
 寿府ニ於テ、排日的色彩濃厚ナリト定評ノアルブランコ氏経営ノアンチ、オピウム、インフホーメーション、ビューローニ於テ作成ノ上昨秋ノ国際聯盟総会ニ出席ノ各国代表部ニ配ラレタト云フ「支那ニ於ケル麻薬ノ実状ヲ語ル」トデモ云フ小冊子ガ最近外務省ヨリ送付サレタ、小冊子ノ内容ハ4ツノ項目即チ
1、支那ニ於ケル麻薬ノ害毒
2、日本人ノ薬品貿易ガ北支那ヲ蠧毒ス
3、上海ニ於ケル英国阿片結社ノ反響
4、”アフリカ”ヨ用心セヨ
ヨリ成テ居リ


 ・・・
 (4) 結論
  △「新シイ教示ニ就テ」
支那人ハ平和ヲ好ム国民デアル、彼等ノ国民性ハ外来者ヲ容易ク受入レ、ソシテ智識ヲ求ムル性質カラ外国人ノ教ヲ速ニ採用スル、之ガ何故斯カル行商人ガ彼等ヲ害毒吸煙ニ転向セシムル事ガ成功シタルカノ理由デアル

北支ノ殆ンド全部ノヘロインハ天津、青島ヲ経、大連ヨリ密輸セラレタ、最モ信ゼラレル報告ニ依レバ日本人ハ数所ノ工場ヲ大連ニ置キ毎月支那ヘ数百万ダラーニ相当スルヘロインヲ販売シツツアリト云フ、ヘロインハ阿片ヨリ作用ハ劇烈デ一度習癖ヅケラレタ人間ハ之ヲ停止セシムルコトハ甚ダ困難デアル、小生ハ幾多ノ本薬品ノ癮者カラ聞イタ所デハヘロインヲ使用シテ5年以上生キタ人ノアルヲ聞キシコトガナイ、私ノ遭ツタ之等ノ不幸ナ人々ハ総ベテ其習慣ヲ日本人及鮮人ニ教示サレ、供給ハ全部日本人又ハ鮮人ヨリ得タルトノコトデアル、彼等ハ何レモ若シ逃レ得レバ是レヲ止メタイトノ切実ナル願ヲ持ツテヰル、或ル吸煙所デハ親子2人デ此ノニッポンノ毒ヲ吸ツテヰルノヲ見タ、天津ニ於テ小生ハ或ル男ガ13歳ノ児童ニヘロイン煙草ヲ吸ハセテ居ルノヲ見タ、各階級各職業ノ婦人及ビ子供ガ此吸烟所ノ観客トナル、小生ハ幾多ノ美シイ、イイナリヲシタ15歳前後ノ支那娘ガヘロインヲ吸ツテ居ルノヲ見タ、彼等ハ一月前習癖ニ陥ツタコトヲ小生ニ述ベタ
彼等ハ何レモ青ク神経質デアツタ、内2人ノ女子ハ近々2時間以内ニヘロイン3瓦(グラム)以上ヲ使用セリ


  △「”アフリカ”ヨ用心セヨ」
1924-1925ゼネバ阿片会議ニ於テ日本代表杉村(陽太郎)氏ハ若シ日本ガ古来外国ニ征服サレナカツタ亜細亜ニ於ケル唯一国ナリトセバ之ハ日本ガ阿片吸煙及麻薬摂取ヲ絶対シナタツタ為デアルト声明シタ、本声明ハ日本ハ麻薬ガ政治上危険デアルコトヲ知ツテヰタコトヲ示スモノデアル、東洋ニ於ケル日本ノ政策ハ日本ガ致命的武器ノ利用法ヲ知ツテ居ル証左デアル、台湾、朝鮮、満州国ノ専売法ハ日本ノ力ニヨツテ出来タモノデアル、支那人ハ組織的ニ日本人ニ害ハレツツアリ

今ヤ日本ハアフリカニ目ヲ注ギツツアル事ガ報ゼラレル、次ノ一文ハ1933年9月21日ノロンドンデリー、ヘラルドカラ抜載サレタモノデアル
「日本ハアフリカニ足場ヲ獲得、移民之ヲ以テ来潮セン」(東京金曜日発)日本ハ移民地トシ新市場トシテアフリカニ於ケル独立国タル最後ノ大帝国タルアビシニア(エチオピア)ニ土地ヲ獲タ、1年前日本ノ使節ガ日本人ノハケ口ヲ求メ彼等ノ貨物ノ為メ、新市場ヲオクベクアビシニアニ行ツタ、今日ニ於イテハ日本ノ新聞該使節ノ成功ニ就キ詳細ヲ報告シテヰル

此ニュースハ英国、仏国及ビ伊太利ヲ心配サセルデアラウ、アビシニアハ前記三国ガ有スル広大ナル権益間ノ緩衝地帯デアリ且同国内ニ於テモ之等三国ハ各広大ナル勢力範囲ヲ有シテ居ルカラデアル、

日本ハ今ヤ之等ノ三ケ国ニ向ツテ挑戦シタ、日本使節ハエチオピア帝国大皇帝ラス・タハリ(ハレイ・セラシュ1世)陛下ヨリ綿ノ栽培ニ適セル豊穣ナ土地160万エーカー払下ノ許可ヲ得タト伝ヘラル、ノミナラズ日本ハエチオピアニ於テ罌粟栽培ノ独占権ヲ獲タトノ事デアル、右ノ土地ニ日本人ヲ送ルタメ移民機関ヲ作ラントシツツアリテ間モナク日本人ノ群ガ西ニ移動スルデアラウ、日本人ノ商人ハ其生産物ノ為メニ新市場ヲ開クニ困難ヲ感ゼズ、即チ日本人商人ハ官憲護送ノ下ニ国内ニ其ノ商品ヲ売リ廻リ重ネテ次ノ注文ヲ取リツツアル         ー(完)


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日中戦争の秘密兵器=麻薬-----------------

 「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)の中に、「人物往来」(昭和40年9月号)で取り上げられた山内三郎の「麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器」という論文が、一部カットしたかたちで掲載されている。そして、筆者の山内三郎についてヘロインを製造した製薬会社の社長で、一時期ヘロイン患者であった人物であると紹介されている。国策としての日本の麻薬政策や戦争とのかかわりの実態を赤裸々に暴いている元製造業者の貴重な論文である。第一章から印象深い項目を抜粋する。
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                          麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器ー

                                                山内三郎(元南満州製薬KK社長)
第1章 日・支麻薬外交

  麻薬の金城湯池・シナ 
─ 略 

  優秀な日本製ヘロイン
 ─ 略

  爆撃機で運びこむ
 支那大陸における日本人のヘロイン製造人たちは、甘い蜜に群がる蟻のようにその数を増やしていった。満鉄総裁が彼等の商いを奨励し、関東軍がそれを保護助成した。あたかもそのやり方は、かつてイギリスが阿片を片手にトルコ、ペルシャ、インドを無血で東進したごとく、日本はヘロインをもって、支那大陸侵略の野望を充たさんとしたのである。 

 満州を拠点として、やがて日本のヘロイン勢力は、北支から中支、南支へと伸びていった。蒋介石政権は、ヘロインを含む麻薬の一切を禁止したのだったが、麻薬業者から吸いあげる利益が、大きな政府の財源となったことで、却って公許の吸烟所を設置したりして、とても根絶やしにするだけの熱をもたなかった。

 それまで支那の秘密結社である青幇、紅幇、洪幇などの主たる財源は阿片であり、なかでも青幇
(チンパン)は、大幹部の蘇嘉才、張粛林、杜月笙などが大阿片商人であったから、彼等のもつ勢力に対して、蒋の国民政府がいかに麻薬の粛正を計っても無駄といわなければならなかったのである。杜月笙など、大阿片商人でありながら国民政府の最高顧問格で、軍事委員長をも兼ねていたのだから、その複雑さが想像できようというものだ。

 日本人の現地でのヘロイン生産に併行して内地の大日本製薬、星製薬などの製品は、支那各地の政商を通じて盛んに売りこまれた。一般には陸軍のやり方は、日本人のヘロイン商人を保護して、彼等からのリベートによって○○機関、××機関の機密費を賄う方法をとっていたが、海軍などは有名な児玉機関などのように、直接ヘロインによる利益によって莫大な軍事費を蓄積していくのだった。

 中支から南支といった遠距離のヘロイン輸送は、内地から爆撃機などによって大量が運ばれている。大手の製薬会社は、夜を日についでヘロイン製造に熱を入れ、原料の阿片などは、印度洋を不自由な船で送ってくるのではとても間に合わず、国内でケシの栽培が奨励された。
 ケシは、水田の裏作として植えられ、北海道や樺太では、ケシを栽培するための開墾が進められた。


 支那大陸での日本のヘロイン商売は、先述した2つの大きな目的をもった国策として、大正の中期から、ついに太平洋戦争で日本が、敗れるまで続けられた。とくに日本軍が仏印に進駐し、やがてタイ、ビルマなどを掌中に入れた昭和17、8年頃には、阿片の入手経路は東南アジアの各地に及び、内地で生産される阿片に加えて、支那に売られるヘロインの量は非常な増加をみたのだった。

 冀東防共地区 ─ 略

 悲鳴をあげた蒋介石
 <145字略す>
 世界から総スカンを食った満州<国>であったから、国際聯盟には無論加入しておらず、そのため、万国阿片会議に出席する義務ももっていなかった。だから、公然と阿片吸烟所が満州各地に設けられていたのである。
 満州建国の3年前、昭和4年に、私は青島に渡り、ヘロイン製造の技師として働いたが、建国後、昭和8年10月には大連に移り、ここでヘロイン製造にのり出し、翌9年には大連市小崗子に資本金5万円の”南満州製薬会社”を創設した。
 表てむきは医薬品エーテルの製造で、原料のアルコールは三菱系の満州酒醸から手に入れていた。実際には、ヘロイン製造は工場内で行なわれず、3人一組の作業員が十数組に分かれて、現地に転在するリンゴ園の中でこっそりと進められたのである。
 3人一組になるのは、ヘロインの結晶を濾過するのに用いるハンド・ポンプを動かす係、エーテル運びなどの雑役、それに結晶づくりの3つの仕事の分担があったからだ。


 一組の生産高は一昼夜でおよそ10キロ。年間約500~1000万円の利益が上がり、人件費から、役人との接渉費、その他種々のリベートなどがまかなわれたのである。
 リベートの主なものは原料(粗製のモルヒネ)を運んでくれる者、それを保護してくれる将校、憲兵などに支払われた。たまには取締り当局の網にかかることがあって、私たちが出頭したときなどに、憲兵が官憲に手をまわしておいてくれるのである。そのため、日頃から彼等と親しくしておく必要があったし、それに使うための渉外費を出すだけの儲けは充分にあったのであった。


 ヘロインは驚くほどよく売れた。阿片吸烟所はもちろん、一般の家庭内でも公然と吸烟は行われた。
 当局の取締りもあくまで一応のもので、それほど徹底したものはなかった。街の売春婦の館とか、料理屋の一室とか、風呂屋の奥の部屋などで、合図をすればたちまち吸烟の準備がなされたのである。

 街に氾濫しているヘロインは、いつどこででも手にいれることができたし、もし満州人と腹を割って話し合いたいという段になれば、まずヘロインか阿片の一服が交換されるのであった。
 街角にごろごろしている苦力
(クーリー)なども、煙草の先端に白粉を附着させて一服するのである。その魔性はともかく、なぜあれほど支那・満州の民衆にヘロインや阿片が流行したのであろう。安定を欠いた。他民族に侵され、国威を恢復した例しがなかった。満州なども、王道楽土、五族協和が叫ばれながらも、実際は日本軍閥の沃野となったに過ぎなかった。夢がなく、希望がないところに麻薬ははびこっていくのである。
 蒋介石政府は、日本と満州国からのヘロインの密輸が年々増加していくのに悲鳴をあげて、国際聯盟や万国阿片会議に提訴を続けるのであったが、実際に開かれた阿片会議などでは、日本はいつも、のらりくらりと受け流すばかりであった。


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日中戦争の秘密兵器=麻薬  NO2----------------

 前回に続き「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)「麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器」(山内三郎)「第2章 ヘロイン戦争」から「ヘロイン 戦闘機に化ける」「アメリカのいやがらせ」と題された部分を抜粋する。「ヘロイン 戦闘機に化ける」では、日中戦争が、麻薬で得られた利益によって支えられていた事実が分かる。
 また、「アメリカのいやがらせ」は、アメリカ国際聯盟阿片会議委員であったF・T・メリールの論文の要約であり、この論文で、万国阿片会議や国際聯盟阿片会議の概略と、当時日本がそれらの会議の意向に沿わず、非難の的になっていたことが分かる。
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第2章 ヘロイン戦争

  ヘロイン 戦闘機に化ける

 日本人のヘロイン製造業者に対しての日本軍、とくに憲兵隊から渡された”安導権”は、彼等にとって全く何にも変えがたい宝であったといえるだろう。その保護がなければいかに支那・満州の官憲が弱腰であったからといって、あれほど安全な商売をやっていけるはずはなかった。
 ヘロイン商売で上がる利益を何らかの形で軍に還元することを考えた彼等は、直接現金を寄附するかわりに、さかんに飛行機を買ってこれを献納した。陸軍の戦闘機の献納者名簿にはヘロイン屋の名が数多く記されてあった。戦闘機1機が5万円という時代であったが、5万円の金は人間一生寝て暮らせるだけの金額でもあった。そんな大金を、ぽんと軍のために投げ出すのはヘロイン屋をおいてなかったし、彼等にはそうするだけの理由が充分あったのである。もとはといえば、陸軍が稼がせてくれた金であった。


 献納者は正装で献納式に参加した。彼等に整列する部隊の前で讃辞が送られ、表彰状を受けるのであった。そして、”われらこそ国策に沿って、軍のために、日本のために働くものである”という大義名分を得て、さらにヘロイン商売に熱を入れるのだった。

 軍人の中には、部隊将兵の慰安という名目で、直接ヘロイン屋のところへやって来て、寄附を申し付けるチャッカリ屋もいた。こうして狐と狸は手と手をとり合って支那大陸に魔手を伸ばしていったのである。


 [以下140字略す]
 日本人がヘロイン商売をする場合は、原料であるモルヒネ・バーゼを手に入れる製造人と、その製造人から規程の工賃をもらって、モヒ・バーゼにアセチルを加えて、薄桃色のジ・アセチル・モルヒネを作る”チル屋”と、さらに塩酸ヘロインを作る”結晶屋”、製造販売部である”大卸し”、そして”仲卸し”までを受け持つことになる。製品はそれから先、”小卸し”を経て”零売人”から消費者へと受けつがれるが、”小卸し”から先の販路はすべて朝鮮人の仕事となっていた。
 したがって”製造人”から”仲卸し”にいたるまでの日本人が担当するすべての部門に伴う「危険」は、日本の軍部によって面倒がみられたわけである。
 先ほど述べたように、私は大連の小崗子で、結晶づくりをやっていたが、私の場合、製品は主に奉天の”大卸し”に運搬した。
 ヘロインの白粉を運搬するには、支那官憲の目を逃れるために、まず大連市内の名のあるデパートから缶入りの「焼のり」を買って来て、これを運搬人たちの馴れた技術(実際それは特殊技術といってもよいほど巧妙であった)で中味をヘロインと入れ替え、奉天に搬入するのである

 だから、運搬人の家庭には「焼のり」が氾濫した。女や子供は「焼のり」ばかりを食わされるハメとなり、一流デパート製の高価な「焼のり」は最低のおかずになり下がってしまった。泣く子供に「焼のり」を食べさせるぞ!と脅かしたぐらいである。

 最後に”零売人”に納められたヘロインは、表面はタバコ屋の店構えをもった吸烟所や、一般家庭の吸烟者に売り捌かれた。それらはいうまでもなく、すべて中国人であった。”零売人”は消費者が粉といえば粉、注射といえば注射でその求めるものを与えてやるのであった。そして、”製造人”から”零売人”にいたるまでいずれの部分に手入れがあったとしても、手入れを食ったものは、誰からそれを手に入れたか、また、何処にそれをもっていくのかを絶対に口にすることはなかった。秘密を守ることが、ヘロイン関係業者に与えられた最大の掟であったからである。

 日本軍への、彼等(主に製造人)からの献納飛行機にしたところで、決して献納者がヘロインで儲けた金で飛行機を購入したなどということは、誰の口の端にものぼらなかったのであった。

夕日と拳銃と麻薬 ─ 略

匪賊の出没するところ…… ─ 略

「天下の国土を求む」 ─ 略

アメリカのいやがらせ
 <以下999字略す>
 さて、日本の軍部、とくに満州に本部をおく関東軍の支那大陸に対する軍政の側面に、麻薬売買人庇護政策があるということで、国民政
府は再三に渡って万国阿片会議だとか国際聯盟に提訴を続けていたが、ここでアメリカ国際聯盟阿片会議委員であったF・T・メリールの
論文要約を紹介しよう。
 メリール委員は、支那政府から渡された日本の阿片謀略に関する資料をもとに、以下の論文を作成したものである。

 『アヘン問題は最初米国の提唱によって1909年(明治42年)日米支独その他列国委員を上海に招集し、アヘン煙吸烟禍に関する事項討議の目的をもって開かれた。
 ついで1911年、各委員をヘーグに招集して会議を開き1912年の国際アヘン条約の締結を見た。だが、各国の批准を得るに至らず、条約は空文に等しかった。その後1913年─1914年と再度ヘーグで会議をもち、条約の実施時期を1914年12月31日と定めた。だがこれも、米国、支那、両国以外の国の批准が得られないまま欧州第1次大戦の勃発となり中断となった。

 
 1919年(大正8年)大戦の平和条約の締結せらるるや、右条約中にアヘン煙禁禍に関する条約の挿入が(共同提唱)され、第290条第1項前段においてアヘン条約に関する事項を規定し、締結国は本条約実施後12ヶ月以内に右の条約実施に、必要なる国内法を制定すべきことを規約した。(中略)

 支那人の大多数はアヘン喫煙に強い執着力を有しているが、その責任は英国にある。
 英国は19世紀の中葉を通じて通商帝国主義の野望から支那のアヘン奨励を保護した。それによって過去50年というもの、支那は、自国用に多量のアヘンを栽培し、保護して来た上に、トルコ、インド、およびイラン諸国からこれを輸入した。
 支那の下層民は、生活程度がすこぶる低く、かつ非常な圧制に苦しめられている。そこでアヘンに慰めを求めることになり、やがては習癖となって悲しむべき状態に至っている。かれらは無教育で、出世の望みも明日の生活の保証もなく、西欧人が当然と考える娯楽でも、支那民衆の99パーセントまではこれを享有することができない。

 支那人は祖先崇拝の民で、子孫を残すということを非常に大事に思っている。そうしてアヘンは媚薬であると考えて、これを多量に用いると子孫を増加し得ると考える迷信も手伝って、これに親しみ、支那人のアヘン喫煙者はいまや1500万から5000万人の間にあるといわれている
 この数から推論すると1人が1カ年に約400匁のアヘンを必要とすることになる。1906年ごろには、全支那のアヘン愛好者は、全国民の3割から4割といわれ、アヘン供給の少ない場所では、もっぱらモルヒネ、ヘロインによってまかなわれていた。(中略)
 1936年5月25日から6月5日までの間に開かれた第21回国際聯盟阿片委員会では、支那委員の提出した諸報告の検討が行なわれた。それによると、支那における1935年中のアヘン禁止法の違反者で、死刑に処せられたものは964人、没収されたアヘン36977ポンド、モルヒネ439オンス、ヘロイン1760オンスであった。(中略)


 日本は国内に強力な警察を有し、内地にはアヘンの脅威なるものは全然存在しない。日本が支那と満州における、アヘン密売抑圧に進展を示さないのは信じられない。支那人は、日本人が支那民族を堕落せしむる目的でアヘン麻薬の密売を助成すると非難するが、国際聯盟のアヘン委員会は、日本の努力のいかんでは、満州国および北支のアヘン麻薬抑圧も不可能ではあるまいと信じている。
 1936年6月アヘン委員会の第21回会議で、同会は日本にアヘンとアヘン剤のの製造売買禁止と、これに対する刑罰の重課を勧告した。支那の利益保護と東亜における文化の指導者たる立場から、日本が真剣になって北支と満州におけるアヘンの根絶に努力せんことを切望してやまない」


第3章 麻薬亡国時代 ─ 略
第4章 戦後の麻薬 ─ 略

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田中隆吉尋問調書-阿片・麻薬売買と軍事機密費-----------

田中隆吉という人物は、関東軍参謀や陸軍省兵務課長・同局長など、長く軍の要職にあり、自身様々な謀略工作に直接関わった軍人である。そのため、極秘情報も含めて、重要な日本軍の情報の多くをつかんでいた。その田中隆吉が、東京裁判の法廷では、検察側証人として、大勢の戦争責任者を告発し、検察活動に協力したのである。「日本のユダ」といわれる所以である。
 しかしながら、彼の陳述は、戦争の事実を解明するためにきわめて貴重であり、歴史的資料として価値あるものであると思う。

 彼は自身の著書「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)の中で、「元来機密費なるものは、その使途には、何らの制限がないのみならず、会計検査の適用も受けない。従ってもし責任者がその用途を誤るときはいかなる罪悪をも犯し得るのである。満州事変以来陸軍の機密費が、軍閥政治を謳歌しこれに迎合する政治家、思想団体などにバラ撒かれたのは、私の知れる範囲だけでも相当の額に上る。近衛、平沼、阿部内閣等でも、内閣機密費の相当額を陸軍が負担していたことも事実である。これらの内閣が陸軍の横車に対し、敢然と戦い得なかったのは私は全くこの機密費に原因していると信じている。これらの内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。また陸軍の支持を受くる間は陸軍と一体であったから、この機密費の力は間接的に陸軍を支持する結果を生んでいた。軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを拒み得ない。東条内閣に至っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた。東条氏が総理大臣と陸軍大臣と内務大臣を兼ねたとき、土産として内務省に持参した機密費は百万円であった。…」などと、軍の機密費が日本の針路を左右した事実を明らかにしている。そして、その多額の機密費が阿片・麻薬売買から生み出されたことを、下記の陳述は物語っているのである。「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編 岡田良之助訳(大月書店)の阿片・麻薬問題にかかわる尋問部分の一部抜粋である。
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                             田中隆吉に対する尋問(第3回)

 日 時 1946年2月25日10時30分~12時  13時45分~17時20分
 場 所 日本 東京 明治ビル
 出席者 田中隆吉
     ウイリアム・T・ホーナディ中佐 尋問官  J・K・サノ 通訳   インジバー
     グ・ナイデン 速記者


 ・・・
  問 戦闘が終わったのちに、占領地域で麻薬の使用を拡大しようとしたのは、どのような目的からでしょうか。私の質問の意味は、それが、攻撃前に進出のための武器として使用されたということではなく、中国側代表が国際聯盟に告発したこと、つまり、日本軍が占領地域において中国人民の心身を弱らせ、彼らをより柔順にし、抵抗をやめさせたうえで、占領地域の人民を撲滅するために麻薬の使用を奨励していたという意味です。そのことをどう思いますか。

  答 支那側によるその見解は、正しいものであります。と言うのは、日本軍がそのような結果を得ることを意図したかどうかはともかく、彼らは、占領地域ではかなり自由に麻薬売買にかかわってきたのであり、その結果だったからです。われわれは、占領地域における日本人の麻薬売買の結果から判断して、支那側がそういう見方をするのを非難するわけにはいきません。あなたが言及された支那人の撲滅は、人びとがその売買に携わるかぎりでは、実際のところ、二次的に考えられたことでした。彼らが真っ先に考えたことは、金を儲けることでした。それだけのことであります。大東亜戦争の終結近くになって、日本政府は麻薬売買による収益のありがたさを評価しだしたように思われます。そのようなことは、私が兵務局の職を退いたのちに起こったのであり、私は、それについて、それこそ徹底的に調査すべきであると真剣に主張します。

  問 それでは、1942年以後、中国における阿片売買ならびに、それによる収益については、東京の政府から以前にもまして直接の指揮監督があったという意味でしょうか。

  答 そうであります。私が職を辞したあと、東条内閣は、南京政府に対して3億円の借款、つまり、汪精衛政府に対して借款を与えましたが、その金は実際には、彼らのもとには届けられませんでした。その代わりに、私の推察によれば、里見体制の時期に麻薬売買によってその組織の手中に蓄積された利益が、前述の借款を与えるために使用されたのであります。児玉誉士夫は、まだ権力を握っていなかったと思います。借款に充当されたといわれる3億円は、確かいずれも戦犯容疑者である青木一男と阿部信行との間で分配されました。たぶん、阿部は、病気のため、巣鴨プリズンに入っていません。(ホーナディ大佐のメモーこれら両人はプリズンに収監されている。)それから、石渡荘太郎。これらが、前述の金を分け合った人物として私のもとに報告された名前であります。実を言えば、青木は、われわれが無条件降伏した当時、横浜正金銀行から多額の預金を引き出しました。そのような次第で、今次戦争の終結間近に、阿片がらみの金がどのような役割を果たしたかがご想像いただけます。

  問 その3億円は中国における阿片売買によるものであったという意味ですか。

  答 それが結論です。


  問 将軍、その情報源はどこか、教えていただけますか。

  答 私個人の情報提供者から聞きました。そのうちいつかまた私が来たとき、その人物をあたなに紹介しましょう。彼は、その話をしてくれるでしょう。


  問 それはありがたい。将軍、中国における阿片・麻薬売買による利益が、定期的に横浜正金銀行に預け入れられていたかどうか知っていますか。

  答 そのような資金は、いくつかの銀行、例えば台湾銀行や横浜正金銀行に分散されたものと思いますが、しかし、それは、私の憶測であります。かつて東条が陸軍大臣であった当時、天皇裕仁は、多数の日本軍人がなぜ上海の銀行にこれほど預金をもっているのか、という質問をされました。東条は、事情調査のため、直接に日本から憲兵を派遣しました。調査の結果、それらは、個々の官吏がもっている預金ではなく、支那政府に引き渡されたと推測される資金ではあるが、特務機関の名義で保有されていることが判明しました。そのようなわけで、それらの資金も、麻薬売買の結果として蓄えられた金であるというのが、私の推論です。東条はこれについてすべてのことを知っているはずです。この事件は、私が兵務局を退職する直前に起こりました。


  問 あなたが兵務局の職から退かれたのは、昭和何年でしたか。

  答 昭和15年、つまり、1940年の終わりに近いころ〔1942年9月〕でした。私は、この問題を追及しませんでした。前述の行為は、官吏個人の利己的動機のために行なわれたものではなかったからであります。

  問 それは、特務機関の機密費を得るためだったのですか。

  答 私は、必要に応じて彼らが支那政府に金を引き渡すことができるようにするため、前述の方法で金が蓄えられたのだと、むしろそう考えています。
  

  問 先日、あなたは、里見の名は甫(ハジメ)であると言いました。それで間違いありませんか。

  答 はい。


  問 ところで、私は、ウールワース大佐が、彼の名前に関連して京都のほか、内務省についてもメモを作成したことを知っています。それが何についてであったか、覚えていますか。

  答 彼は軍人ではないので〔彼のことを〕知るのに最も手っ取り早い方法は、内務省を利用することだ、とたぶん申したのであります。

  問 そこに行けば、彼の所在と、彼の活動がどのようなものであったかを突き止めれらるということですか。

  答 住所に関するかぎりは、内務省で教えてもらえます。

  問 さらにまた、阿片売買に関連して、あなたは、北京に駐在した塩沢〔清宣〕将軍に言及しました。先日、あなたが供述したその所見は、どのようなものだったのですか。


  答 北支での麻薬売買に関する政策は大東亜省連絡事務所〔大使館事務所〕の前身である北京の興亜院〔華北〕連絡部によって統制されていました。その部局の長官〔心得〕が、この塩沢でした。彼は、東条大将の一番のお気に入りの子分でした。彼は里見の大の親友でもありました。塩沢は、北京から東条へしばしば資金を送っていました。戦争中であったため、上海地域で使用された阿片は、その量のすべてが北支から供給され、そのようにして、当然、多額の金が塩沢の手元に蓄えられました。塩沢のもとで、専田盛寿少将という私の友人が働いていました。彼は私に、塩沢は、しばしば飛行機を使って東条のもとに金を送った、と語り、そのことでひどく腹を立てていました。それが原因で専田は、興亜院の職を辞することを余儀なくされました。昨年9月に大阪で私が専田に会ったとき、彼は私に再び同じ話をして不満を表明しました。そのようなわけで、私は、里見と塩沢は、阿片売買において互いに協力していたとの結論に達したのであります。東条内閣が倒壊したさいに塩沢もまた、興亜院から追い出され、どこかの師団長〔第119師団長〕に任ぜられました。復員省を通じて探せば、彼の現在の所在を突き止めることができるはずであります

 問 それから、専田の所在もですか。

 答 専田盛寿も、復員省を通じて追跡できるでしょう。

 問 それで、彼の陸軍での階級は少将でしたか。

 答 現在は少将で、当時は大佐でした。

 問 塩沢の名のほうは何といいましたか


 答 塩沢清宣、現在は中将です。当時は少将でした。大東亜戦争が勃発すると、ペルシャおよびトルコからの阿片の海上輸送が止まってしまったため、北支からの阿片がきわめて重要な要因となり、その結果、北支からの阿片の価格が上昇しました。トルコ産およびペルシャ産の阿片が入って来なくなると、上海地域への阿片供給のほとんどすべてが、北支からのものになりました。終戦に近いころは、里見が売買〔部門〕の最高の地位にあったのではなく、児玉誉士夫という人物が担当していました。したがって、里見と並行してこの児玉誉士夫を調べなければ、阿片売買の全容を明らかにすることはできません。私は、私が聞いたこと、をあなたにお話しているにすぎません。

 問 どのような情報筋からですか。

 答 その情報は、どちらかと言えば風聞として私の耳に入ったものであります。児玉の数百万円は、そのような筋からのものです。

 問 さてそれでは、退出する前に、時刻が遅くなりましたが、今夜お尋ねしておくべき質問が一つあります。先日、あなたは、興亜院が阿片組織についての情報をたくさんもっているであろう、と供述されました。ここに楠本〔実隆〕少将に関するカードがありますが、それには、アメリカ総領事バトリックからの1940年の報告に基づき、興亜院の楠本と津田〔静枝〕提督が、実際に宏済善堂ならびに上海の専売組織全体を指揮監督していたと書かれています。それは長い話になりますか。そうであれば、後日それを取り上げることにしましょう。

 答 わたしはその事情を詳しく知っております。

 答 話が長くなりますか。そうであれば、後日に回しましょう。


 答 それに関しては、すでに退役(ママ)していた楠本中将と津田提督が麻薬売買について、里見に全面的な援助を与えたということ以外は、あまりお話しすることはありません。そのお陰で彼は大成功したのです。彼らがどのような方法で彼を援助したかは知りません。津田提督の所在については、海軍復員省〔第2復員省〕をつうじて知ることができます。楠本の所在は、陸軍復員省〔第1復員省〕をつうじて知ることができるでしょう。楠本は、おそらく、今も外地にいるでしょう。津田静枝提督は、東京にいると思います。

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田中隆吉尋問調書と阿片・麻薬問題 NO2---------------

阿片・麻薬問題に関する田中隆吉の陳述は、第3回の尋問で集中的になされている。田中隆吉は、ホーナディ尋問官を驚かせるほど、阿片・麻薬問題に関する知識を有していた。それは、彼が関東軍参謀という立場にあったことや、内蒙工作の推進者であり、「綏遠省のアヘン収入を押さえること」を主たる目的とした綏遠事件の主謀者だったことなどによる。しかしながら、彼は自分自身の阿片・麻薬問題とのかかわりについてはまったく語っていない。事前にアメリカ側関係者と取り引きがあったのか、自分自身の阿片・麻薬問題との関わりについてはまったく触れることなく、他人のそれとの関わりについては、知り得た事実をすべて語ろうとするかのごとき姿勢で、問われていないことまで、いろいろな局面で進んで語っている。その一部を「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編 岡田良之助訳(大月書店)から抜粋する。
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第1回尋問 1946年2月19日 
        尋問官 ウィリアム・T・ホーナディ中佐
 (p16~p17)

 ・・・
 
  問 満州事変のことで土肥原将軍は、満州事変直前の2年間、自分は日本で歩兵〔第30〕連隊を指揮していて、中国にはいなかった、と私に言っていますが。

  答 そうです。と言うのは。土肥原将軍は宇垣大将の側近にいて、宇垣は彼を国内から出さなかったからです。宇垣大将は、常備軍兵力の削減による軍備制限を唱えましたが、土肥原将軍は、宇垣との結びつきゆえに、当時の現役軍人からは快く思われていませんでした。土肥原将軍が陸軍部内で信望を得ることができなかった別の理由は、彼が、いささか利己的かつ自己中心的だと思われ、その結果、大目に見てもらえなかったことにあります。さらに別の理由は、たぶん、彼が長年にわたり支那で暮らし、同地で豪奢な生活を送っていたということ、さらにまた特務機関には常に多額の資金があったので、当然ながら、ある程度の妬みを招いたということもあります。

  問 それは機密費だったのですね。

  答 そうです。

  問 それで、特務機関は、この資金の使途を、通常の経路、つまり大蔵省をつうじて明らかにしなくてもよかったのですね。

  答 彼は彼が適当と考えればどのような方法であろうと、その資金からどれほどの額でも使用することができました。彼に求められていたのは、明細の記載されていない簡単な領収書をもらっておくことだけで、しかも、そのような領収書も、しばしば偽造することが可能でした。過去にそのような事実があったゆえに、特務機関のほとんどすべての指導者は、厳しい批判を免れませんでした。


  問 特務機関がもっていたそのような機密費の主たる出所の一つは、阿片や麻薬の販売だったのですね。

  答 満州事変以前は、機密費は、主として政府から供給されていました。満州事変以後、とりわけ支那事変以後は、そして、それにもましてとくに大東亜戦争以後は、たった今あなたが言及されたような活動が実際に行われました。私は、兵務局長を務めていたころ、彼らのなかの何人かを、そのような活動をしたがゆえに処罰しなければなりませんでした。調書に書かれているいることは事実であると確信しております。私は、主として、あなたのお考えを裏付けるために以上の供述を行っていることになります。


  ・・・
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第7回尋問  1946年3月16日  
         尋問官 ジョン・F・ハメル少佐 
 (p85~p86)

  ・・・

  問 東条は、関東軍憲兵隊司令官在任中に、麻薬取引にかかわりましたか。

  答 彼は、何らのかかわりももっていませんでした。

  問 彼は、取引にかかわった人たちに保護を与えましたか。

  答 与えました。

  問 どのようにしてですか。

  答 最近、満州で自殺した甘粕正彦を支援することによってです。

  問 東条は、どのように彼を支援したのですか。


  答 甘粕は、苦力(クーリ)を満州に送り込む組織を動かしていました。また同時に、甘粕は、阿片を扱う満州専売局に密接な関係をもっていました。この満州専売局は、甘粕の団体ともきわめて密接でした。そのような理由で、甘粕は、終戦時まで東条の政治参謀長の役を務めました。また、彼〔東条〕を支援するために多額の金を提供することもしました。

  問 東条は、甘粕がこれらの活動にかかわっていることを、知っていたのですか。

  答 彼がそれを知るのを妨げるような事実は何も思いつきません。直接にであれ間接にであれ、彼が阿片売買にかかわるようになったのは、東条が陸軍大臣になったあとであります。東条夫人は、もって生まれた資質によりまるで政治家みたいでした。東条夫人は、甘粕に対して非常に好意的でした。甘粕が彼にどのような援助を与えているかについては、おそらく、東条夫人のほうがよく知っていました。


  ・・・ 
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第15回尋問  1946年3月23日  
          尋問官 ジョン・F・ハメル少佐
  (p165~p166)

  ・・・  

  問 彼(畑俊六)は、1938年2月に松井に代わって中支那派遣軍司令官になりましたか。

  答 はい、なりました。彼は、上海に行きました。

  問 彼は、その時以後、翌年〔1938年12月〕後任者に交代してもらうまで支那事変と戦争を続けてきたのですか。

  答 そうです。彼は、上海駐在中、原田熊吉中将の進言により上海で阿片専売制度を発足させました。

  問 どのような経緯でそれを発足させたのですか。

  答 当時、原田将軍は、畑大将の指揮下にあった特務部の政務〔特務〕部長でした。この阿片専売計画は、もともと里見甫によって発案されたものであります。


  問 里見は、その計画を実行したのですか。それとも、その発案者だったのですか。

  答 里見こそが原田に勧告を提示した人物であり、原田がこれに修正を加えたのち畑大将に提示し、次に畑大将を介して日本の内閣にそれを承認してもらい、最終的に内閣に計画を採択してもらったのであります。里見は、その専売計画を実行するよう、畑大将によって任命されたのです。


  問 阿片専売による収益はだれが受け取ったのですか。

  答 阿片専売の利益は、傀儡南京政府、日本陸軍および里見の間で三等分されました。

  問 日本陸軍とは、それは、畑の指揮下にある軍隊のことですか。それとも、日本陸軍全体のことですか。

  答 その金は、特務部が受け取ったのですから、畑の指揮下にある軍隊がそれを使ったものと考えるのが妥当であります。

  問 その金の一部は、東京の軍部に渡ったのですか。

  答 そうです。

  問 それは、日本政府が関東軍に対する資金調達のためにつかったのですか。

  答 事実として、阿片売買による利益は、満州国政府の国庫に入り、そのうえで今度は関東軍のために使われました。

  問 それは、満州での阿片取引のことですか。

  答 私としては、その点についてのはっきりした情報はもっていません。と言うのも、阿片取引に関する指揮監督はすべて、上海から行われていたからです。したがって、里見と難波を調べれば、必要な情報を得ることができます。


  ・・・

---------------------------------------------------
第16回尋問  1946年3月25日  
          尋問官 ジョン・F・ハメル少佐 
 (p174~p175)

  ・・・

  問 彼(有末精三)は、中国駐在中に阿片取引に従事しましたか。

  答 従事したと思います。

  問 彼は、それとどのような関係があったか知っていますか。

  答 彼は、北京で浪人たちを指揮監督しました。

  問 彼は、華北政府の日本人顧問だったのですか。

  答 彼は、あるいは日本政府代表であったかもしれません。しかし、彼は、北京地域を管理し、間違いなく、阿片の売人と多分関係がありました。

  問 彼について、ほかに何か知っていますか。


  答 東京に戻って来たあと、彼は、特別なことは何もしませんでした。彼は、ドイツが勝つものと、停戦の日までずっとそう信じていたと思います。彼の評判は大変悪くなり、有末の言うことの逆に考えておけば間違いなかろう、と言われるほどでした。

  問 彼の評判は、なぜそんなに悪かったのですか。

  答 彼は、余計なことをやたらに言いすぎるために、評判をすっかり落としたのです。

  問 ほかに何かありますか。

  答 例えば、彼は、イタリアとドイツが勝ものと信じていました。有末とムッソリーニは、とても親しい友人同士でした。


  ・・・

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第20回尋問  1946年4月1日  
       尋問官 ジョン・F・ハメル少佐
             ジェイムズ・J・ロビンソン(米海軍大尉) 
 (p199~p200)

  ・・・

  問 将軍、あなたは、設置の話が出ていた大東亜省の前身である大興亜院の職員がだれであったか知っていますか。

  答 設置の話が出ていた大東亜省の前身である大興亜院は、次の人物に率いられていました。

    初代総裁〔総務長官〕は柳川平助、第2代総裁は鈴木貞一、第3代総裁は及川源七でした。
    大東亜大臣は、就任順に青木一男、重光葵、東郷茂徳、でした。

  問 興亜院の職員のなかには、阿片取引にかかわった者がいましたか。

  答 興亜院の鈴木貞一のもとで働いていた毛利英於莵です。現在、そういった連中は結束を強めつつあり、彼らは、それはたんなる投機的事業であり、今次戦争の原因とは何の関係もなかった、と公言しています。それに答えて私は、満州および支那における阿片取引は、人道に対する犯罪であったと非難する記事を新聞に投稿しました。毛利英於莵は、東京にいるはずで、彼から、支那における阿片取引に関する内部の実行計画についてさらに詳しく話してもらえます。この人物は、阿片売買についてだれよりも多くの情報を提供できるはずです。彼は里見と難波のごく親しい友人です。


 ・・・


 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 

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