−−−−−−−−−−−端島・崎戸島、抗夫の脱走−−−−−−−−−−−−−−−

 端島や崎戸島では、朝鮮人抗夫の命懸けの脱走が絶えなかったことが、
「死者への手紙−海底炭鉱の朝鮮人
坑夫たち」林えいだい(明石書店)
のいろいろな人の証言で分かる。「坑内で死ぬくらいなら……」と脱走し、たまた
ま生き延びることのできた人の炭鉱労働についての証言は、まさに奴隷労働以上のものである。人間地獄といわ
れた圧制から逃れるために、わざと自分の足や手の指を坑内ヨキで切り落とし病院に入ろうとしたり、あえて傷害
や殺人を犯す者もあったという。下記は、聞き取り調査の一部である。戦時中の出来事とはいえ、日本人の為した
ことであり、まだ100年も経っていない歴史的事実であることが信じられない気がする。

リンチ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・・・
 端島炭鉱に来て五ヶ月目、同じ部屋の者が二人、急に姿を消した。朝鮮人の外勤がきたので、どうしたのかとた
ずねると知らないと答えた。
 そのうち捕まえられて、事務所へ連れ戻された。坑木を筏に組んで逃亡しているところを監視人に発見され、船
で追われたということが分かった。それからリンチが始まった。
 「アイゴー、アイゴー、助けてください!」
 殴りつける音と悲鳴が、部屋まで聞こえてきた。暗い部屋の中でその声を聞くと、両手で耳を塞がないと自分の
ほうが気が狂いそうになる。金さんは出勤時間になるとそっと寮を出た。
 翌朝、昇坑してくると、前日の二人はどうなったのかと、同室の仲間にたずねた。
 「こっそり見に行ったんだが、半殺しにして海の中に投げ込んだよ。生きているかも知れないのに、可哀そうなこ
とをした」
 二人の布団が、部屋の中に二つ並んだままだった。塔路炭鉱で同じ炭住にいた二人で、女房と子どもたちの姿
が思い出された。
 冬の海を、泳いで渡るのは無謀過ぎる。泳ぎ達者な漁師であっても、空腹の状態では無理なことだった。空間が
ない狭い島の環境と息詰まるような坑内労働で、正常な人間でも精神状態がおかしくなる。圧制の中で生活してい
ると、それだけ自由への憧れは強い。
 逃亡に失敗すると、みんなの前で見せしめのリンチが始まる。それだけひどいリンチが行われても、何処の部屋
の誰がいなくなったと聞いた。(逃亡が続いたということ)外勤の動きを見ていると、すぐに誰かが逃亡したことがわ
かった。寮から逃亡する者が増えるにつれて、外勤の圧制は常軌を逸してひどくなった。
 地下足袋の配給が途絶えがちなると、金さんは栄養補給の道がなくなった。
(地下足袋を食糧と交換していたのである)
 「働いたお金を渡してください」
 「お前、何をいうとるんだ。こんな島の中で金を使うようなところはなか」
 「じゃ、家族へ送ってくれてるんですか?」
 「差し引いた賃金の70パーセントは送りよる。後は貯金だ。お前たちに金を渡すとすぐ逃げるからな、半
島は油断も何もあったもんじゃなか」
 そう答えているのは、朝鮮人の外勤だった。
 食事と布団代を差し引いた残りから、70パーセントをサハリンの家族へ送っていると勤労課の外勤はいった。金
さんは、姜道時さんと同様、敗戦を知らなかった。知らされなかったのだ。
 ・・・・

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 著者(林えいだい氏)が「死者への手紙」を出し、返事のあった遺族を訪ね歩いて、聞き取り調査をしたところ、戦
後四十数年経過しているにもかかわらず、一部の人を除いては遺骨さえ帰っていず、未だに生死も分からない人
たちもいたという。下記の証言が事実ではないかと思われるのである。

証言−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
「戦争中は事故が多い。火葬は中ノ島でしたが、戦争が激しくなるとそれどころじゃなくなる。重傷者が病院に運
ばれてきて亡くなると、外勤の労務が引き取りにくる。それから先はどうしたか、分院の者は知らない」

                                               (端島炭鉱分院助手 金圭沢)

証言−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「死体を海に流してしまえば、魚の餌になるだけ。遺骨も何も見たことはなか。死ぬと海に捨ててしまったからね。
この端島に同胞の遺骨なんかあるわけがなか。海に捨てるのも多かと。所帯持ちの場合は、家族がアパートに住
んどるから、そうはいきませんたい。みんながやかましかもんで捨てきりやせん。
 吉田の朝鮮飯場の独身者は、ほとんどみよりがなかもんで、遺体は海に捨てて処分した。
 うちの主人の兄が吉田飯場にいて、同胞が死ぬと海に捨てるといつも話しとった。坑内事故で死ぬとゲージから
上がってきて、すぐに吉田飯場の勘場がやってきて、処分するんだと。独り者は可哀そうなものよ。朝鮮にゃ親兄弟
もおろうに……。そこの端島にお寺があったのに、朝鮮人の遺骨は全然なかでっしょうが、それが証拠ですたい」
                                                                             (姜時点)


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軍の関与と命令−戦犯の供述−−−−−−−−−−−−−−

  「支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ、特ニ兵員は浮浪者多ク其存在ノ確認セラレアルモノ少ナキヲ以テ、
仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」

 これは、1933年に出された陸軍歩兵学校の「対支那軍戦闘法のノ研究」の「捕虜ノ処置」の項目の一文である。
また、
 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ
適当ナラズ 」

 これは、1937年8月5日、陸軍省から各支那駐屯軍へ送られ、後に派遣された各軍もこれに従うところの「今
次事変ニ関スル交戦法規ノ適用ニ関スル件」と題された通牒の中の一文であり、「戦利品、俘虜等ノ名称」は使
うなと指示しているのである。
 日本軍は日中戦争をあくまでも「事変」として、この戦争に国際法を適応しないと決め、「俘虜収容所」を設置し
た後も、中国人捕虜を法の外に置き、差別感や蔑視感を拡大再生産しつつ、虐殺・虐待・酷使を繰り返したので
ある。
 下記は1956年に中国の日本人戦犯裁判で有罪判決を受けた9名と不起訴になった高級副官1名の「筆供述
書」をまとめた「
侵略の証言−中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から抜粋
したものである。慰安婦問題における軍の関与や「三光作戦」の命令を具体的に示している公文書である。

陸軍第百十七師団師団長 陸軍中将 鈴木啓久 筆供述書より−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 
歩兵第六十七聯隊長の時の罪行
 (2)九月、私は師団長熊谷中将の実施せる宣城侵略作戦に参加しました時、宣城西方約40粁付近に於いて、
   抗日国民党軍の旁系軍約50名家屋内に退避せるを発見致しまして、私は第一大隊長角田少佐に毒ガス攻
   撃を命じ其の全員を惨殺致しました。

 (9)私は、巣県於いて慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して之れを設置せしめ、中国人民及朝鮮人
   民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました。

 (10)7月下旬、日本財閥三井と南京に蟠居せる日本侵略軍司令官西尾大将の直接隷下にある陸軍貨物廠とが
   結合して、巣県附近に於ける米を掠奪のため来たりしとき、私は之を援助し集荷に助力し約100噸の米を掠
   奪せしめました。

 第二十七歩兵団長の時の罪行
 (10)11月、私は「某部落が八路軍と通謀して居る」との報告を受くるや直ちに「其の村落を徹底的に剔抉を行ひ
   粛正すべし」との命令を副官松原順一郎をして第一聯隊長田浦竹治に伝達せしめたる結果、田浦は当時私 
   の部署下にありました騎兵隊と結合して?県潘家載荘の中国人民の農民1280名を或いは銃殺し、或いは刺
   殺し、或いは斬殺し、又は生埋めをなす等の野蛮な方法を以て集団屠殺し尽し、部落全戸800を焼却し尽し
   主食千斤、被服多数を又家畜約40車約40輛を悉く掠奪し尽したのであります。
    此の惨事は当時第一聯隊長田浦より「多数の中国人民を殺害せり」との報告を副官松原より受け、又騎兵
   隊よりは騎兵隊の壕掘開担任地の現場に於て同隊の中隊長鈴木某(大尉)より「騎兵隊は多数の中国平和
   人民を殺害せる為中国人民逃亡しありて工事の為めの労工不足し工事進捗しあらず」との報告を受けながら
   私は通常にあるものの如く考え何等意に介せず其の儘に放置してしまったのであります。
 
  

 陸軍第五十九師団師団長 陸軍中将 藤田 茂 筆供述書より−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 犯罪事実
 (六)俘虜殺害の教育指示。私は1月中旬将校全員昼食後張良村で次の如く談話し教育しました。「兵を戦場に慣
    れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年
    兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならな
    い」「此には銃殺より刺殺が効果的である」此の教育は私の当時最も大なる誤れる感念で此感念が終始私が
    厳重なる中国人民に対する罪行を犯した基因の一をなしたるものであります。
 
 陸軍第五十九師団高級副官 廣瀬三郎 筆供述書より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 
 六 山東省駐屯時五十九師団高級副官時代の罪悪
   17 済南に於ける一部後方施設監督時の罪行
   イ ・・・
     星倶楽部は日本軍将兵専用の中国人妓舘でありまして其経営は済南中国人妓舘組合長に委託し建物は日
    本軍が済南占領時中国人より押収掠奪せるものを利用内部を改造し使用せしめ従業員の食糧日用品等は日
    本軍酒保より廉価にて供給又医療は日本軍に於いて負担する という名目の下に欺瞞し廉価に日本軍将兵が
    佚楽し得るの具に供したもので妓女は約30名1名1日平均20名多き日は30名の日本軍将兵を相手にせしめ
    ました年歯十七才乃至二十才の若き中国女性の多くを侵畧者の肉慾の対象たらしめ又其過労による疾病損耗
    を生せしむるの大罪悪を犯しました病人は経営者たる組合長か自己組合妓舘の妓女と交代せしめてゐたので
    その数は判りませんでした

   ハ 日本軍河南作戦進捗に伴ひ1944年6月頃第十二軍より妓女を前線に送られたき旨の依頼要求がありまし
    た日本人料理組合は当時日本人妓女か著しく減少し此要求に応し難き旨回答がありましたで済南朝鮮人の料
    理組合に依頼し派遣后の妓女の補充に付便宜を与ふることを条件として承諾せしめ朝鮮人妓女約30名を危険
    多き第一線に近い鄭州に派遣(約3ヶ月)するの罪悪を犯しました僥倖にして此間妓女の損害は1名もありませ
    んでした。


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軍の関与と命令−戦犯の供述−NO2−−−−−−−−−−−−−−

 下記は、中国侵略の実像を関係者本人の認罪のかたちで明らかにしているもので、中国戦犯裁判の法廷に提出され
た供述書の一部である(1998年『世界』誌上ではじめて公表された)。敗戦前後中国や朝鮮でソ連軍の捕虜となりシベ
リアに抑留された後、1950年7月に中国に移監され、1950年代半ば中国戦犯管理所において書かれたものである。
周恩来が直接指揮を執ったといわれる計画的な戦犯対策に基づいて、師団、部隊、憲兵、警察、司法などに所属した
者がグループをつくり、いろいろな立場で当時を語り合い、事実を確認し合った上で書かれたこの自筆供述書は、中国
人被害者や遺族の告訴状、目撃者の証言、現地調査等との整合性も確認されており、日本軍の戦争犯罪を明らかに
する史料として、極めて重要なものであると思う。慰安所設置や経営に対する軍の関与、強制労働や住民虐殺に関わ
る証言など数多く含まれているが、そのごく一部を抜粋した。
(「侵略の証言−中国における日本人戦犯自筆供述書」
新井利男・藤原彰編(岩波書店)
より)

 陸軍第五十九師団歩兵第五十四旅団長 陸軍少将 長島 勤 筆供述書より−−−−−−−−−−−−−
  
 
 三、第二次中国侵略第五十九師団歩兵第五十四旅団長 
 3 蟠居地における状況
  (1)1942年7月私の指揮下にありて?蕪県に蟠居中、110大隊長は?蕪県九頂山附近の討伐を行った時、八路軍を
   免したことを居民が八路軍に内通したことと推断し報復の目的を以て瓦斯弾(クシャミ性)3発を歩兵砲で発射し、
   平和人民老幼15名を殺害しました。

  (2)其の他1942年4月より1945年7月の間に於て各大隊(45大隊は1942年4月−1943年6月間師団直轄期間
   を除く)は私の指揮下にありて所謂警備の任務を以て治安維持のため担任地域に蟠居中、抗日軍及び平和人
   民に相当大なる損害を与へ、且二十余回の討伐にて合計1300余名の抗日軍人と600余名の平和人民を殺害
   し、抗日軍人と平和人民1000余名を逮捕しました。又大多数の人民を強制して長大なる遮断壕の構築、望楼の
   修建其他兵器、弾薬、糧食等の軍需品を運搬せしめ3年来これ等の強制労役は五十万工日以上の中国人民を
   奴役しました。


 陸軍第三十九師団 師団長 陸軍中将 佐々眞之助 筆供述書より−−−−−−−−−−−−−−−
 
21・・・
   師団湖北省駐屯間当陽には、日本人経営の慰安所が従前より設けられ、日本軍隊の慰安に供せられて居まし
  た。師団は之が経営を支援しました。当慰安所には中国婦人十数名が日本帝国主義の侵略戦争に依り生活苦に
  陥り、強制的に収容せられ、賤業に服して居たのでありました。宣昌、荊門にも同様の慰安所があったと思われま
  す。之等侵略日本軍隊が強制的に中国婦人を陵辱した重大な罪悪であります。之等罪行は私の発した命令に基
  づくものにて私の重大な責任であることを認罪します。
 
 22師団が湖北省駐屯間、当陽に春屋と称する日本人経営の料理屋がありました。春屋は1942年頃、荊門にて料理
  屋を経営中に第三十九師団司令部が荊門から当陽に移駐した時随行し、当陽に開店したものであります。師団の
  支援の下に経営し日本将兵の慰安に供して居たものでありました。春屋の主人は師団御用商人であったので、各部
  隊需要に応じ野菜等を師団の威力を背景に利用して、中国人民より安価に収買して各部隊に供給し、中国人民より
  利益を搾取し、又阿片商人なりし由なるを以て入手した阿片を其吸飲者なる中国人に其悪癖を利用して高価に密売
  して莫大な利益を奪取して居た悪徳商人であったと思われるが、師団は此行為を黙認して居た訳であります。之等
  莫大な収益の分前として、春屋は日本軍将兵の慰安費を低廉ならしめて居たと認められます。即ち師団将兵は春屋
  を通じて中国人民より搾取した利益に依り慰安しつつ中国侵略戦争を実行して居たのであろります。此等罪行は私
  が認可したことであり私の責任であることを認罪します。
   

満州国憲兵訓練処処長 少将 齋藤美夫 筆供述書より −−−−−−−−−−−−−−−−−−
 抗日聯軍・朝鮮游撃隊への工作
 二、人民鎮圧に対する方針
 (一)略
 (二)1937年11月初旬、新京北・南憲兵分隊、及偽首都警察庁の「厳重処分」に附すべき中国人約30名を隊附き
    西田憲兵少佐に指揮せしめ、偽首都警察庁押送用バス2台に分乗せしめ、憲兵偽警察官40名を以て護衛し、偽
    新京東北方約20吉米の刑場にに押送途中被護送游撃隊員1名が手錠を装したるまま警察官拳銃を奪い、警察
    官を即座に射撃し、其場に斃し離脱を計りました。西田少佐は後部車両にありましたが、急遽全車を停止せしめ、
    憲兵警察官を指揮し、又最寄部落より自衛団を集めて遂にこの勇敢なる游撃隊員其他全員約30名を射殺し、引
    揚の上其顛末を報告しました。私は西田少佐が臨機応変の処置を講じたことに対し賞詞を与えました。本件は被
    押送者が受刑の直前、必死の最後的反抗闘争を敢行し、成功すると否とに拘ず日帝に対する憎しみを以て死の
    直前迄完闘したその精神は、誠に尊きものでありました。而して指揮官西田少佐は反抗を鎮圧することを理由と
    して無武装の被押送者を全部射撃屠殺致しました。私は隊長として西田以下を指揮し、この屠殺を実行せしめた
    のであります。しかも当時西田に対して賞詞を与えております。私の罪行は最も厳重であります。茲に衷心認罪
    致します。


 [石井部隊・討伐検挙・「厳重処分」]
 (四)1938年1月26日、関憲警五八号をもって石井細菌化学部隊と関係のある憲兵隊司令部命令を受領しました。
    私は、石井部隊が憲兵隊より引渡す人員を其細菌化学試験に充当するものなるを察知しました。私は右命令に
    基づき処置を取りましたが、当時如何なる手続きを経て何名の人員を石井部隊に引渡したるや等、其具体的情
    況を記憶致しませんため、ここに其供述をなし得ませぬことは誠に申訳なき次第であります。細菌化学試験に充
    つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したことについては、1938年新京憲兵隊附として在職した憲兵少佐橘
    武夫が1948年ハバロフスク国際裁判法廷に証人として証言したることにより、之れを確認する次第であります。
    細菌化学試験に関する前記命令に基づいて、私は新京憲兵隊長として之れに対する措置を実行したに相違なく、
    従って私は石井細菌化学部隊の試験工作に封幇助協力して国際法規に違反し非人道極まる罪行を犯したること
    につき、茲に謹んで認罪する次第であ
ります。
    
三 人民鎮圧に関する具体的事項
(二)1939年初頭より海拉爾日本軍陣地構築に関し、労働作業、生活管理不良の為、中国人労働者に多数の病死者
   を出しました。この陣地構築労働者は、防諜の見致より現地住民を避け、遠く熱河省方面より募集しきたりしもの
   であります。地下構築作業が主であったため、温度湿度が身体に合はず、且つ給与管理が不適当であった為、
   爆発的に呼吸器疾患或いは伝染病が多発したのであります。海拉爾憲兵隊は防諜警備上現場に出動勤務し、労
   働者に酷烈なる監視を加え、病者の外、健康者に対しては更に苛酷なる取扱を実施しました。私は警務部長として
   現地憲兵の陣地構築警戒監視に関する命令指示を致しました。其関係においてこの事件に重大なる責任を負う次
   第であります。



−−−−−−−−−−−−捕虜刺突訓練と決めつけ攻撃−−−−−−−−−−−−−

 陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて
次の如く談話し、教育したというものである。
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には
初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」
 「此には銃殺より刺殺が効果的である」


 上記のような訓練が常態化していたと思われるが、当時初年兵として実際に中国人の捕虜刺突を命ぜられた土屋芳
雄氏(後に憲兵となる)の証言を
聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)から抜粋する。

鬼になる洗礼
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 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場か
らさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や
中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男
たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示
した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)
が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地からきた
ばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。
どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だ
ナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。
 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立
ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀
を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来
ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷
つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何
人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土
屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられ
た。 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。

・・・
「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった
刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもし
ていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。
 目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、
後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の
言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手
の目もそうだった。
 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・

独立守備隊の対ゲリラ戦−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
・・・
 7月7日のある日、鄭家屯のそばの大林駅の近くで、鉄道が爆破された。「それ!」と、土屋らは鄭家屯から現場に向
かった。すぐ近くまでたどり着いた時、関東軍の飛行機五機が飛んできて、大林駅近くの中国人たちの集落に爆弾を
投下した。八十戸ほどの集落は、爆発音と共に砂煙上げ、約四十戸の民家は完全に崩壊した。爆撃といっても、当時
は操縦席から迫撃砲弾を手で投げつける程度のものだった。住民にとっては、たまったものではない。土屋たちの部
隊の隊長が、関東軍に鉄道爆破の連絡をしたことによって飛来した爆撃機だが、その八十戸の集落が鉄道爆破と関
係あるかどうかは全く不明だった。むしろ、何の関係もなかったのではないか。いわば、盲爆であった。
・・・

・・・
 二日間の行動で一人の抗日軍も捕らえることができなかった。大隊長は怒った。三日目に、配下の四個中隊の約
四百人を鄭家屯に集結させ、鉄板で覆われた装甲列車や天井のない貨物列車などを編成して出発した。土屋たちに
目的地は知らされていなかった。出発して間もなく、列車は停止した。鄭家屯駅の北、約八キロの小高い丘だった。
大隊長は、列車から見える約二キロ先の百五十戸ほどの集落を攻撃目標と指示した。「あそこは抗日軍の巣だ」とい
うことだろう。むだ足二日間で、くたくたになっていた土屋たちにとってはどうでもいいことだった。貨車の上から迫撃砲
や重機関銃、擲弾筒などの武器が、その集落をにらみ、「撃て!」で、一斉にジャガジャガ撃った。
 土屋は、その時、重機関銃分隊に配置されていた。土屋はもっぱら弾運びや雑用だった。まず、迫撃砲弾が集落で
爆発すると、住民らは逃げ惑った。そこへ、重機関銃が火を噴いた。ダ、ダ、ダ、ダッ…。土屋の分隊の重機関銃は一
気に二千五百発を発射し、銃身が赤く焼けたほどだった。一時間ほどで攻撃は終わり、再び鄭家屯へ戻った。まったく
の撃ち放しだった。大隊長は「抗日軍の本拠地を殲滅し、戦果は…」と、関東軍に報告したのだろう。その集落が抗日
軍の本拠地でないことは、逃げ惑う農民たちを見れば一目でわかったし、何よりも、反撃の弾が、ただの一発も飛ん
でこなかった。

・・・

−−−−−−−−−−−−関東憲兵隊 憲兵の拷問−−−−−−−−−−−−−

 下記は、中国人が「日本鬼子(日本の鬼め!)」と罵倒するような行為を繰り返したという満州関東憲兵隊の元憲兵、
土屋芳雄氏の体験をまとめた
聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)からの抜粋である。彼は満
州で十年以上憲兵として過ごした自分をふり返り
「中国では人間ではなく鬼だった。再びあのような侵略戦争を繰り返
してはならない」
という。まさに「人間ではなかった」憲兵の加害証言である。中国人に脅迫されて自白させられたので
はなく、朝日新聞山形支局員奥山郁郎、貴志友彦両氏に語った自身の体験である。

拷問の手ほどき−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・・・
 土地のものではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日
分子なら大手柄だ。「オレが張った網にかかった」のである。名前を張文達といった。三十三歳の近くの農村の農民で、
「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろ
う。貫禄からみて班長級だな」と、土屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な
功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それで先輩格の伍長に取
り調べを頼んだ。
・・・

・・・
 まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで、殴りつけろ、という。土屋の頭
に浮かんだのは、「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀でもいいではないか」という思い
だった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ。土屋と同僚の上等兵とで、こん棒を振り回し
た。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。
 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒の
ような形だ。この棒に両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだか
ら、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき、脂汗をにじませてきた。
だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけ
た。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は、「今日はもういい、明日は必
ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。
・・・

・・・
 二日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテ探して持ってきていた。これをストーブで焼け、
という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、
背中をむき出しにした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と土屋は思った。ところが違った。伍長
はいきなり背中に押しつけた。ジューッいう音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時
に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長
は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。
・・・

・・・拷問はさらに続いた。逮捕して二日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思
う。それが三日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水を入れた大きな
やかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため、息ができず男は口をパクパクさせて水をどん
どん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって水を吐かせろ。そし
て、また注ぎ込め」という。
・・・

・・・
 三日目は水責めで終わり、四日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を三本持ってこい」と、伍長がいい、軍馬手
に三角柱になるように削らせた。三本並べ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。男はズボンを脱がせ素肌で
ある。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。そ
の上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚の二人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッ
と音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいい
か「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。
 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を四、五本求めてきた。こ
の針を男の手の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知
っていたが、自分はやることになるとは思いもしなかった。ためらっていると、ほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。
やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は右
手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力
で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに伍長も加わった。だが刺さらな
い。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとすると、
針をつ土屋の指のほうが痛くなってきた。
 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすく
むような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達、三十三歳、近
くの農村から買い物に来ただけ」ということ以外、何の自白も得られなかった。班長格のの軍曹は、すでに男を抗日分子
としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在な肝心なことは何一つ聞き出せな
かった。かといって拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどう
づるのか、土屋にはわからなかった。
 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛
けがあった。針の拷問から二日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵十五師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、
男を連れていった。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋も見た。



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満ソ国境紛争処理要綱とノモンハン事件−−−−−−−−−−−

 先ず、ノモンハン事件に関わる関東軍司令部下達の『満ソ国境紛争処理要綱』第三項と第四項を抜粋したい。こんな
『処理要綱』を作成する関東軍作戦課、また、それを下達する関東軍司令部、さらには、「大本営からは、関東軍にたい
し国境を明示したことはない。関東軍にまかせていた」という参謀本部作戦課長稲田正純の無責任な言葉、驚くほかは
ない。これでは、戦争になって当然あると思われる。
 
第三項  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「国境線の明瞭なる地点に於いては、我より進んで彼を侵さざる如く厳に自戒すると共に、彼の越境を認めたる時は、
周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用い之を急襲殲滅す。
 右の目的を達成する為一時的に『ソ』領に侵入し又は『ソ』兵を満領内に誘致滞留せしむることを得」

第四項−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 国境線明確ならざる地域に於いては、防衛司令官に於いて自主的に国境線を認定して之を第一線部隊に明示し、無
用の紛糾惹起を防止すると共に第一線の任務達成を容易ならしむ。
 而て右地域内に於いては必要以外の行動を為さざると共に苟くも行動の要ある場合に於いては、至厳なる警戒と周
到なる部署を以てし、万一衝突せば兵力の多寡ならびに国境の如何に拘わらず必勝を期す」



 次に
「ノモンハンの夏」半藤一利(文春文庫)より、ノモンハンというところについて書かれた部分や事件のきっかけとな
る部分を抜粋する。
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 ノモンハンとは小さな集落の名である。原義はラマ僧の役職名であるという。最高位の活きぼとけをフトフクといい、ノモ
ンハンはそのつぎに位置した位である。その地に有名なラマ僧の貴人の墓があったことから、地名になったものとされて
いる。
 そのむかしには、ノモンハンとは蒙古語で平和という意味であるとしきりにいわれていた。それはどうやら間違いである
ようであるが、このへんをホロンバイルといい、広さはざっと九州ぐらいで一望千里、無人の、広漠とした砂丘と草原が海
のように広がっている。ひざの高さに草が茂っているだけで、山もなく、一本の樹もなく、なだらかな起伏が大波のように
ゆっくりとつづき、四方の稜線は地平線で雲と接している。羊の群れを追う蒙古人が牧草をもとめてそこを行き来する、牧
歌的な、まことに平和そのものの草原地帯ということから、そういわれてきたらしい。
 とくに夏のノモンハン周辺は草の丈が高く、牧草としても上等で、放牧の蒙古人が落ちあう憩いの場所でもあった。そこ
の井戸の水は動物にも貴重この上ない真水である。
 実は、この水が問題なのである。ホロンバイルには、その名の起こりでもあるホロン湖とボイル(バイル)湖をはじめいく
つかの湖沼あるが、そのほとんどが塩水。たいしてハルハ河と、その支流のホルステン河は透明な真水であり、馬や羊
にのませるためにもその真水はありがたかった。
 ところが、満州国が成立していらい、ハルハ河が国境線とされ、ノモンハン付近は満州国領内に組み入れられた。ノモ
ンハンの国境警察分駐所には、警士五名が配置され、満州国側がきびしく目を光らせた。そのことを認めない外蒙古側
は「失地回復」の意味もあり、しばしば家畜をおって、ハルハ河を越えて進出した。このとき少数の外蒙古軍が護衛につ
いてきた。満州国軍からみればこれは「越境」となる。

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 さらに、実際にノモンハンの地に行ってきたという
西牟田靖氏の「僕の見た大日本帝国」(情報センター出版局)から抜
粋する。
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日本では「事件」と事の大きさを矮小化しているが、「飛行機や戦車が参加した世界で初めての大規模な立体戦争」と
斎さんが語るとおり、中国では「ノモンハン戦争」モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ばれていて、それは、日ソが蒙古と
満州の国境線をめぐって戦火を交えたまぎれもない戦争だったことを示している。五月から九月という短い期間の「限定
戦争」だったが、それは終戦時の日本の悲劇的な結末をすでに示唆したものだった。
 当時このあたりの国境ははっきりと定まっていなかったという。遊牧民の土地だから国境を定めてしまうこと自体に無
理があると思うのだが、双方の国の主張が対立していた。満州国(日本)はノモンハンよりもモンゴルよ寄りのハルハ河
を国境とし、モンゴルはハルハ河を越えたノモンハン付近までを領土とみなしていた。 モンゴル軍がハルハ河を「越境」
したのを満州国軍が攻撃したのが武力衝突のきっかけだった。



−−−−−−−−−−−ノモンハン事件 帰還捕虜の処遇−−−−−−−−−−−−−−−

 18000人もの戦死者を出したといわれるノモンハンの戦闘は、1939年9月15日にモスクワで停戦協定が成立し、
翌16日に戦闘が中止された。そして、停戦後捕虜の交換が行われたが、問題はその帰還捕虜の処遇である
。「聞き
書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)
より抜粋する。

ノモンハン事件と日本人捕虜−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・・・
 もっとも、『日本憲兵正史』には、「停戦協定後…… 第一回の捕虜交換は9月17日に、日本側から97名、ソ連側
から88名を出して交換した。また、昭和15年4月27日には、日本側から2名を返し、ソ連側から204名を受領してい
る」とある。
 捕虜だった日本兵の大半は負傷していたため、吉林省新站陸軍病院などに入院したが、満州里からの輸送の間に
憲兵が、列車に乗り込んだ。チチハル憲兵隊からもそのために派遣された。土屋は行かなかったが、派遣された目的
は、「捕虜だった兵たちの言動を見張れ」ということだった。「赤い国、ソ連の捕虜だったのだから、赤化教育を受けた
に違いない。スパイにでも仕立てられたのがいたら摘発しろ」という含みだった。お国のためと、力量的には無謀とも
いえるノモンハン事件の戦場で倒れ、ようやく戻った兵たちを迎えたのは、こうした仕打ちだった。
 「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過禍の汚名を残すことなかれ」という戦陣訓は、ノモンハン事件より二年後の
昭和16年(1941年)一月のの示達だから、この当時は、この考え方にしばられることはなかったのではないか。だが、
敵前逃亡については死刑などの厳罰を科していたが、投降罪や俘虜罪はなかった。だが、当時の土屋も「捕虜になっ
たらおしまい」と思っていたように、軍内の空気は「戦陣訓」を先取りしたものに近かった。だから、帰還捕虜は冷酷な扱
いを受けた。
 入院先のベッド周辺にまで憲兵が衛生兵の腕章をして入り込んでいた、という記録もある。それに、病院内で略式軍
法会議が行われ、帰還捕虜は、一週間の重営倉などの刑罰を受けた。その上、何とか帰国できても、ロシアの捕虜だ
った男として、特高刑事の再三の訪問を受けねばならない兵もいた、という。
 しかし、将校たちは、さらに悲惨だった。彼らは、病院では個室に入院していたが、個室での略式軍法会議の後、ほと
んどがピストルで自殺している。土屋は、捕虜だった将校には、自決をすすめ、ピストルをベッドの下に入れた、という話
を聞いている。
 『一億人の昭和史』毎日新聞社編(毎日新聞社)には、ノモンハン事件当時、野戦重砲第一連隊 本部付の兵長で、
帰還捕虜だった人が「航空少佐らもみな刑法を受け、憲兵から『貴様など、すでに本にまで出て、立派な戦死者だ』と責
められ、自殺せよとの命令で、病院で短銃自殺を遂げた」と書いている。この人自身、好んで捕虜になったのではない。
部隊が進退きわまって、同僚と互いにノドを突き合って倒れていたのを捕らえられたのだ、という。
 刑事がまとわりつこうが、帰郷できたのは幸運だったかもしれない。土屋は「これは聞いた話」と、伝聞を強調しなが
ら、こんな話をした。それは消えた帰還捕虜の話だ。将校の大半は病院で自決させられたが、問題は兵たちだ。二回、
三回目に戻された合わせて700人近い兵について、土屋はハルビンの南、背陰河までは列車で送られてきたと聞いた。
だが、その後の彼らの消息はまったく聞かない。どこへ行ってしまったのか。当時、だれもが「まさか」と思いながら、首
をひねった、という。全員が無事帰郷できていれば、もちろん、それにこしたことはない。しかし、土屋は、大半が”わが
精鋭がその威武に……”と歌われた関東軍の恥、とばかりに何らかの処分をされたのではないか、と今も疑っている。
 そして声を潜めた。もう一つ伝聞がある。ソ連兵の捕虜についてだ。戦況から、日本兵側が圧倒的に多いのは理解で
きるが、交換されたソ連兵の捕虜が少な過ぎる。「石井細菌部隊の地下に、間違いなくソ連兵らしい捕虜がいっぱい入
っているのを見た」ときいた。それで、少なかったのか、と土屋が納得したのは、上山市に帰った後である。この話をして
くれたのは、石井四郎部隊に所属し、後に南方に転戦、帰国した知り合いの元日本兵だ。?

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 捕虜の人数については、諸説あるようなのだが、
「ノモンハンの夏」半藤一利(文春文庫)には、戦死、戦傷、戦病、生
死不明や帰還捕虜について、下記のように書かれている。
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 これら連隊長クラスの悲劇をみれば、大隊長、中隊長、小隊長そして下士官・兵のおびただしい犠牲については改
めて書くまでもないであろう。いかに救いようのない死闘があったか、これまで、明らかにされている第六軍軍医部調
整の資料では、第二次ノモンハン事件にかんして、出動人員58925人、うち戦死7720人、戦傷8664人、戦病
2363人、生死不明1021人、計19768人となっている。正しくは、第一次事件の損耗、安岡支隊および航空部隊の
損耗、満州国軍の損耗もこれに加えなければならない。さらにいえば帰還後の捕虜となったものの処分も。
・・・
 
 昭和41年10月12日、靖国神社でノモンハン事変戦没者の慰霊祭が行われたとき、翌日の新聞は戦没者を18000
人と報道している。


・・・
 ソ連軍の死傷者も、最近の秘密指定解除によって、惨たる数字が公開されている。戦死6831人、行方不明1143
人、戦傷15251人、戦病701人、これに外蒙軍の戦傷者を加えると、全損耗は24492人となるという。圧倒的な戦力
をもちながらソ蒙軍はこれだけの犠牲をださねばならなかった。

・・・
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 そして、上記生死不明の1021人や帰還捕虜について、下記の説明がある。
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・・・
 ノモンハン事件の損耗については、もうひとつ重要なことに、日本兵の捕虜の問題がある。生死不明の1021人(うち
将校19人)という数字のうしろにこれが秘められている。捕虜交換で帰ってきた146名を差し引くと、八百余人が行方
不明となる。すべて捕虜というわけにはいかないが、かなり多数の捕虜がいたとみられよう。後のソ連側の発表は567
人ということであるが、これもかならずしも正確とはいえないようである。
・・・

・・・
 帰ってきた捕虜の処分について当時、新京憲兵隊公主嶺分隊所属であった林次郎憲兵上等兵の、凄惨というべき証
言がある。
「(停戦して)半月も過ぎたころ、関東軍司令部から将校を長とする特設軍法会議が乗りこんできて、非公開で、主に将
校が裁判に付された。午前10時から午後4時ごろまでで終わった。その場に居あわせた憲兵の話では、裁判官は終了
後、将校には拳銃を与え、何もいわずにさっと引き揚げたという。/その直後、憲兵といえども将校室に近寄ることを禁ず
との命令が出、間もなくケン銃の発射音がひびいた。自決だった」(『ノモンハンの死闘』)

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 将校については、どの証言も内容が似ているが、その他の将兵の帰還捕虜はいったいどうなったのであろうか。数も
はっきりせず証言そのものがほとんどない。「赤化教育を受け、スパイに仕立てられているのではないか」と疑われてい
た帰還捕虜が、もし無罪放免ということであれば、何らかのかたちで憲兵や特高にマークされていたはずであり、様々な
証言があって当然である。放置できない謎であると思う。知っている人がいるのであれば教えてほしいとも思う。


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ノモンハン事件と司馬遼太郎−−−−−−−−−−−−−−−−

 1943年12月、司馬遼太郎は大阪外国語学校(現大阪外国語大学)蒙古語学科在学中に学生徴兵猶予停止を受け
て仮卒業となり、学徒出陣している。そして、兵庫県加古川の戦車第19連隊に入り、翌年4月には満州で陸軍戦車学
校に入学、12月には見習仕官として牡丹江の戦車第一連隊に配属されている。ところが、この戦車第一連隊は、「ノモ
ンハン事件」で惨憺たる打撃を受けて還ってきた戦車部隊で、同僚となった兵隊たちから「ノモンハン事件」の戦いの詳
細を聞かされたのである。そして、戦後司馬遼太郎は「ノモンハン事件」を書こうと関係者を訪ね歩き、資料を集めたので
あるが、謎めいた言葉を残して断筆する。下記は、
『ノモンハン隠された「戦争」』NHK出版(鎌倉英也)からの抜粋であ
る。
 上記著者が、司馬遼太郎の死を悼む特集番組編成の関係で、司馬遼太郎の書斎を訪れた際、蒐集資料整理を長年
担当してきた伊藤久美子さんと交わした会話である。
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「なんですか?それ」 
「『ノモンハン事件』っていうのがあったでしょ。あれを書きたかったんですって。それでずいぶん資料も集めたし、聞き取
り調査もしたんだけど全部ここに押し込んであるのよ。もう書かないから目に見えないところにしまっといてくれって言わ
れてね。そのくせ、何でもとっておくと手狭になっちゃうでしょう。私が『あれはもう処分していいですか?』って聞くと、決
まって『捨てちゃ困るんだ。とっといてくれ』」って言ってね。それが、このダンボール箱なんだけど……」

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 次は、著者が妻福田みどりさんにインタビューした際のことばである。
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「取材から帰ってくるでしょう。『面白かった?』って聞くのね。すると『ふん』とか言うだけでね。あとから日をおいて『つま
らなかった』とか『あんなやつ』とか、いろいろいってましたよ」

・・・

「「出版社の方なんかに書くってお約束もしていたんですけれど、だんだんもういつ書くかわからないってことになってし
まって…… それで、今でもはっきり覚えていますけれど、編集の方が『ノモンハン、よろしくお願いします』って言ったと
きに、こう言ったんです。『ノモンハン書いたら、俺、死んじゃうよ』。皆、ハッとして黙ってしまいました」

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 次は、「ノモンハンの夏」の著者半藤一利氏が、文藝春秋の専務取締役であったときに、司馬遼太郎に「ノモンハン事
件」の執筆を迫ったのであるが、司馬遼太郎が半藤一利氏に語った断筆の理由が下記である。 
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 調べていけばいくほど空しくなってきましてね。世界に冠たる帝国といい気になって、夜郎自大となった昭和の軍人を、
つまりは日本そのものを、きちんと描くには莫大なエネルギーを要します。昭和12年に日中戦争が起こって、どろ沼化
し、その間にノモンハンの大敗北があり、そしてノモンハンの敗戦からわずか2年で太平洋戦争をやる国です。合理的な
きちんと統治能力をもった国なら、そんな愚かなことをやるはずがない。これもまたこの国のかたちのひとつと言えます
が、上手に焚きつけられたからって、よし承知したという具合にはいきません(笑)淋しい話になりましたね。      
                             (『プレジデント』96年9月号半藤一利「司馬遼太郎とノモンハン事件」)

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 司馬遼太郎が書かなかったから、「それなら自分で…」と半藤一利氏が思ったかどうかは分からないが、彼が「ノモン
ハンの夏」のあとがきに書いている文が、何か司馬遼太郎の思いを引き継いでいるようで印象に残ったので抜粋する。
「ノモンハンの夏」半藤一利(文春文庫)
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 ・・・
 戦後少したって元陸軍大佐の辻政信氏とはじめて面談したとき、この『微笑』の青年が二重写しとなって頭に浮かん
だ。眼光炯々,荒法師をおもわせる相貌と本文中に書いたが、笑うとその笑顔は驚くほど無邪気な、なんの疑いをも抱
きたくなくなるようなそれとなった。
 横光の小説のけがれのない微笑をもつ青年は発狂死した。まともな日常のおのれに帰れば、殺人兵器を完成させよ
うとしていたことは神経的に耐えられない。精神を平衡に保とうにも保たれない。ふつうの人間とは、おそらくそういうも
のであろう。戦後の辻参謀は狂いもしなければ死にもしなかった。いや、戦犯から逃れるための逃亡生活が終わると『潜
行三千里』ほかのベストセラーをつぎつぎとものし、立候補して国家の選良となっていた。議員会館の一室ではじめて
対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」が、背広姿でふわふわとした
ソファに坐っているのを眼前に見るの想いを抱いたものであった。
 大袈裟なことをいうと「ノモンハン事件」をいつの日にかまとめてみようと思ったのは、その日のことである。この凄惨な
戦闘をとおして、日本人離れした「悪」が思うように支配した事実をきちんと書き残しておかねばならないと。
 それからもう何十年もたった。この間、多くの書を読みつぎながらぽつぽつと調べてきた。そうしているうちに、いまさら
の如くに、もっと底が深くて幅のある、けた外れに大きい「絶対悪」が二十世紀前半を動かしていることに、いやでも気づ
かせられた。かれらにあっては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているものが人間であり、他を犠
牲にする資格があり、この精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばならないのである。それほど見
事な「悪」をかれらは歴史に刻印している。おぞけをふるうほかのないような日本陸軍の作戦参謀たちも、かれらからみ
ると赤子のように可愛い連中ということになろうか。およそ何のために戦ったのかわからないノモンハン事件は、これら非
人間的な悪の巨人たちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人びとが死に、あっさりと収束した。そ
のことを書かなければいまさら筆をとることの意味はない。ただしそれがうまくいったかどうか。

・・・

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ノモンハン事件 満州国軍と興安軍の損耗 −−−−−−−−−−−−

 ノモンハン事件は中国では「ノモンハン戦争」と呼ばれ、モンゴルやロシア(ソ連)では「ハルハ河戦争」と呼ばれている
ということであが、双方から13万以上の兵員、1000両以上の戦車や装甲車、800機以上の戦闘機が集結された戦い
であり、下記のような損耗があったということであれば、日本のノモンハン「事件」という呼び方には疑問の残る、あまりに
も本格的な戦いである。

 ノモンハン事件の損耗については、日本側は公式に22000人と認めている。しかし、ソ連の歴史記録上では日本軍
の全損耗を61000人と述べてきた。ワルターノフ(ソ連戦史研究所研究部長)は、それは国防人民委員部の指示やイ
デオロギー的宣伝であろうというが、それでも、彼は公文書の調査の結果38000人程度という。日本側の公式発表と
は大きな差がある。問題はその差である。日本軍とともに戦った満州国軍と興安軍の損耗が、日本側公式発表には全
く含まれておらず、ワルターノフ氏の調査には含まれれているために、大きな差があるとすれば、日本側公式発表は修
正する必要があるのではないかと思う。さらなる調査研究が待たれるわけであるが、幸いノモンハン事件に関しては、日
本とソ連(ロシア)およびモンゴルのノモンハン事件敵味方三者の会合が繰り返されており、様々な問題解明の努力が
続けられている。下記は
「ノモンハン・ハルハ河戦争」国際学術シンポジウム全記録・国際学術シンポジウム実行委員
会編・代表田中克彦(原書房
)からの抜粋である。

 
ノモンハン戦の損耗−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ワルターノフ大佐が事前に提出した損耗問題に関するトーキングペーパーは、ウランバートルシンポジウムで、日本側
が求めた回答としての調査報告である。
 ソ蒙軍の損耗は、ノモンハン戦直後のタス発表によると、戦死300〜400人、負傷900人であった。ところが1960年
代に突然戦死者9284人という政治的発表が行われた。このため現在は日本側の論説とか、百科事典に至るまで、こ
の数字をソ蒙軍の損耗として正式にとりあげている。
 その後1980年に入って、ソ連側は戦死傷者数1万7千余人と発表、ウランバートル・シンポでも約18000人と発表し
た。ワルターノフ大佐は、今回その細部を発表し、ソ蒙軍の損耗を戦死3281人、戦傷15386人、行方不明154人、捕
虜94人、全損耗は18815人、モンゴル軍の損耗は戦死165人、負傷401人、計566人、したがって、全損耗は
19384人と発表した。この数字には、日本側で計算する戦病死は加算されていない。
 ワルターノフ大佐の実動日本軍総兵力と損耗については、過去にソ連が発表した61000人がイデオロギー的宣伝で
あることを認めている。しかし今回同大佐が公文書館資料などから計算した結果、正確な確定はできないとして、だいた
い38000人程度をあげている。
 これは、日本側が発表している(第6軍軍医部)の第2次ノモンハン事件の17405人(戦病死を除く)と比べると、依然
として二倍以上の開きがある。
 しかし、これについては、われわれも重大な問題を認めなければならない。つまり関東軍は満州国の防衛を目的として
戦ったはずであるが、その考え方の中に、満州領域を守るという考えはあっても、満州国民を守るという考えがまったくな
かったことだ。その端的な現れが、満州国軍、興安軍など同盟国、どちらかといえば、日本軍のために戦わされた異民
族の損耗については、無関係という態度と無計算を続けていることである。
 南京虐殺問題もそうであるが、異民族に関する損耗計算を無視することによって、数的により大きな疑惑を招くというこ
とは反省すべきであろう。
 しかし、それにしても、ソ連軍が敵兵力を過大に評価し、敵損耗を過大に評価するという伝統的傾向については、より
相互的な研究を必要とする。
 念のため、ソ連の戦車と装甲車の損耗については、ノモンハン全期間をい通じて、戦車175両、装甲車数143両、計
318両と別資料で発表されている。  (牛島康允)  
    


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ノモンハン 一等兵の記録−−−−−−−−−−−−−−−−

 下記は、東大卒でありながら、軍隊内での昇進を拒み、ノモンハン戦の停戦間際に例外的に上等兵に進級させられた
兵士の戦争の記録である。大学卒業後の徴兵検査で「乙種合格」といわれ「やれやれこれで兵隊にとられなくてすむ」と
思ったという一日本人が、召集令状で招集され、ノモンハンで戦い、九死に一生を得て生還するまでの貴重な戦争の記
録である。様々な場面での迷いや自分なりの判断、思ったことや感じたことがそのまま正直に語られており、「冨長 信」
という一人の兵士の「ノモンハン」がとてもよく伝わってくる。副題の「個人にとって戦争とは何か」を考えさせられる一冊
であるが、今回も特に戦争における問題として確認したいところを何か所か抜粋したい。 
 「ノモンハン孤立兵の遺書
ー個人にとって戦争とは何か」冨長信(農産漁村文化協会:人間選書)


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 下記は、筆者がハイラルに駐屯していたときのことである。 
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・・・ 
 私の立哨場所は、弾薬庫敷地内にさらに鉄条網の柵で囲われた、かなり広い範囲の場所だったので、二人が配置さ
れ、交代で一人が入り口の近くで立哨し、一人が柵内を動哨することになっていた。私と組んだ兵は小松君という同期
兵で、背の高いのんびりとした男であった。
 柵内は入り口正面が広場になっていて、その広場の右側と正面奥に建物があり、正面奥の建物の裏側にもちょっとし
た広場があった。これらの建物に何が収納されていたかは知らなかったが、この柵内の要所要所を巡回するのに約20
分はかかった。私は最初は何も気がつかなかったが、小松君が巡回して戻って来ると、「裏の広場は気味がわるいの
う」と言った。よく聞くと竿に生首が吊り下げられているということであった。次のときに巡回してみてそれが事実であるこ
とを知り、それ以後の巡回のときは気味わるい気持ちがした。しかしこの光景は、田畑の害鳥おどしに鳥の死体を竿に
吊しているのとあまり変わらないように思えた。これは害鳥おどしとまったく同じ目的で、弾薬庫に作業に来る満人労務
者に対する見せしめのものだったのかもしれない。それは満人労務者のおどおどした態度からも察せられもした。とに
かく私たちは、ハルビン駐屯以来、満人の人格を認めないように、何かにつけ自然と慣らされてしまっていたので、こん
な想像もしたのかもしれない。

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 上記の文から、国境紛争が満州人の立場からのものでないことがよくわかる。下記の文は、そうしたことと関わる戦争
目的についてのものである。
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・・・
 ハイラルを出発して戦場に向かう道中から敵飛行機の姿はよく見かけたが、味方飛行機にはまれにしかお目にかかれ
なかった。敵飛行機はときにはわれわれを銃撃したり、ときにはわれわれに対し謀略ビラを散布して行ったりした。私は
そのビラを拾ったこともあったが、それには蒙古文字で書かれた満軍の蒙古人兵に対するものがあったり、日本語のも
のがあったりした。将校らは「そんなものを拾って読んではいかん」とわれわれをいましめたので、熟読はしなかったが、
内容は「君たちは日本の軍閥や資本家たちにだまされて戦場にかり出されているのだ。君たちの家族は君たちの無事
生還だけを望んでいる。すみやかに銃を捨てて故郷に帰れ」というような、当時の左翼活動家のアジビラと同じような文
体のものや、「私はソ蒙軍に投降したが、とても優遇されている。君たちも無駄に命を落とすことなく、投降することをす
すめる。旧○○部隊△△上等兵」というようなものであった。
 当時の国内事情からして、銃を捨てて帰郷することや敵に投降することは考えられないことで、なんでこんな馬鹿げた
ビラを散布するのかと敵の無知ぶりを笑いさえした。しかし、今になってよく考えてみると、私の心のどこかには「なんの
ために戦争をしなければならないのか」という疑念がなきにしもあらずであった。このビラに書かれていることは、私の心
に戦争に対する疑問をいくらか思い起こさせる刺激にはなったかもしれない。戦う兵がその戦いの目的にいくらかでも疑
問をもてば、わずかであっても戦う意欲が減少させられるのは当然のことで、このビラもまったく馬鹿げたものとは言い
切れないのかもしれない。こんなことを考えていると、戦争というものは、誰からも支持される目的をもったものでなけれ
ば、その力が発揮されないことを改めて感じるようになった。


・・・
 私たちはノロ高地の陣地確保を任としていたが、八月一日になって敵から攻撃をしかけられたので、その夜、私たちの
部隊はこれを迎え撃つべく出撃して行った。私は休養を命じられていたのでこの戦闘には参加せず、軽装で出撃して行
った部隊の者が陣地に残していった装具類を監視する任務を与えられた。この任務で陣地に残ったのは、私と大隊長
の馬当番兵だった新山一等兵とであった。任務を与えられたとはいえ、赤痢患者の私は何もできずに、ただ壕内でじっ
と寝ているだけで、新山一等兵が私の世話をはじめ何もかもしてくれた。
 出撃部隊は敵の猛攻を防いでいたが、被害もかなり多かったようであった。その夜も重傷者が一人衛生兵に運ばれて
来て、私の近くの壕に収容された。新山一等兵が聞いてきたところによると、腹部に銃弾を受けたのだが、戦闘中なので
何の処置もできないのだということであった。その兵は一晩中苦しみの声を発し、その苦しみのもっていきどころのないま
まに、「なんのためにこんな戦争をしなければならないのか」と叫び、衛生兵から「何を言うか」とたしなめられたりしてい
たが、夜明けを待たずに苦しみの連続のうちに息を引き取った。

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 ここで、本書の「あとがき」(解説)を書いておられる一橋大学田中克彦教授のノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シン
ポジウムでの発言を挿入しておきたい。少し極端とも思えるが、基本的には正しい発言であると思う。
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・・・
 ノモンハン戦争で戦ったことについても、先ほど参戦者の方々から報告があったが、そのこと自体は非常に立派です
ばらしいと思う。日本の軍人として戦った意志を否定するつもりはないが、精神の中は空っぽだったのではなかろうか?
自分たちが何のための戦争をやっているか参戦者はご存じなかったのではないか。これに対して、ソ連兵は自分たちが
何のために戦っているかをよく知っていたことが、さきほどのワルターノフ報告でも裏付けられている。ソ連兵は少なくと
も日本軍国主義に侵略されているモンゴル民族の国家を守るのだという意識があった。スターリンはいざ知らず、前線
のソ連兵は兄弟である同盟国のために命を捨てた。しかし日本の兵隊は満州国を守るのだという意識すらなく、死んで
いった。何という違いだろうか。
 それから日本は二言目には「東洋の平和を共産主義の侵略から守る」と言いながら、共産主義の支配下にあってそ
れと戦っているモンゴル民族を理解しないで戦争をやったことは、研究すればするほど残念で、私がこのようなシンポ
ジウムをやりたかった理由はそのためであった。

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 下記は、筆者が捕虜殺害の命令について自問する場面である。
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 私たちが残敵を求めて進んでいると、逃げ損じた敵兵が上半身を裸にされ、荒縄でしばられ、第一線の兵に連れ去ら
れている姿を見た。敵というものに対する感情よりも、自分がもしあのような姿になったときのことが想像されて、しめつ
けられるような想いをした。そしてしばらく行くと、銃声とともにあの敵兵から発せられたと思われる断末魔の悲鳴が聞こ
えた。「なぜ殺さなければならないか」という気持ちと同時に、もし自分が指揮者から「殺せ」と命じられたときに、自分は
命令に従うことができるだろうかという疑問も生まれた。さらに、そんな疑問が生まれるようでは、やはり一人前の兵とは
言われないのかもしれないと思ったりした。

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 筆者は詳しいことは何も書いていないが、下記は書類焼却に関する部分である。あらゆる戦場で同じようなことがあっ
たであろうことを記憶に残しておきたい。逃れることのできない「死」の命令と証拠の隠滅でもある。
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・・・
 その夕刻、小隊長は本部に集合を命ぜられ 、その集合から帰ってくると、兵を三〜四名ずつ集めては小声で、戦況
は楽観が許されなくなっていること、この陣地は一人でも生きている限り守り抜かねばならないこと、持参している書類
はすべて焼き捨てることなどの部隊長の命令を伝えてまわった。そして私も、「今度はもう日本軍人として、昨日のよう
には後退できず、この陣地と命運をともにせねばならぬ」と覚悟ともつかず、あきらめともつかず、悲壮な思いに浸って、
夜の闇の中でわずかな紙類焼却し、明日をまった。

  
 
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中国戦線従軍記より−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 
「中国戦線従軍記」藤原彰(大月書店)より、何カ所か抜粋したい。まず、歴史的に前例のない割合の餓死者を出した
日本軍兵士の死没者数についてである。
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 昨2001年5月に、私は『飢え死にした英霊たち』という題の本を出した。この本では、第2次世界大戦における日本軍
人の戦没者230万人の過半数が戦死ではなく戦病死であること、それもその大部分が補給途絶による戦争栄養失調
症が原因の、ひろい意味での餓死であることを、各戦線にわたって検証した。そして、大量餓死をもたらしたものは、補
給を軽視し作戦を優先するという日本軍の特性と、食糧はなくとも気力で戦えという精神主義にあったことを論じたのが、
この本の趣旨であった。

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 餓死が6割とか7割、あるいはまた8割以上という説などもあるが、いずれにしてもあらゆる戦場で補給なき戦いを強
いられ、歴史的に例のないような大量の餓死者を出したことは間違いのない事実である。日本軍兵士の戦場の記録に
は、必ずといっていいほど食べるものに窮した事実が出てくる。住民を敵に回わさざるを得ない供出の強制や掠奪・強
奪は当たり前で、そうしたことさえできない状況に追い込まれた事実も数多く報告されている。「死の島」と呼ばれたニュ
ーギニアやミンダナオ島をはじめとするフィリピンの島々、小笠原の父島などで発生した日本軍兵士の人肉食事件は、
長期間にわたるそうした異常事態の中で発生したことを忘れてはならないと思う。それは、公然と「敵弾適食で戦え」と
いう大本営や参謀本部の問題なのだとも思う。
 下記は第二十七師団支那駐屯歩兵第三連隊や中隊の具体的な数である。
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・・・
 1944年4月から敗戦後帰国するまでの「大陸縦断作戦」間における聯隊の死没者1647名のうち、戦死509名、
31%、戦傷死84名、5%、戦病死1038名、63%、その他(不慮死、不詳など)16名、1%である。すなわち戦死者の
2倍以上の戦病死者を出しているのである。なお私の第三中隊は中隊長として戦病死者をなるべく出さぬよう努力した
つもりだが、それでも戦死36名、47%、戦傷死六名、8%、戦病死35名、45%となっている。ガダルカナルやニュー
ギニアと違って人口稠密で物資の豊富な中国戦線では、餓死者など生じなかったと思われがちである。だが、大陸打
通作戦の実態は、補給の途絶から給養が悪化して多数の戦争栄養失調症を発生させ、戦病死者すなわち広義の餓
死者を出していたのである。

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 また、「長台関の悲劇」の中で、凍死者を出した事実も報告されている。その一部を抜粋する。
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・・・
 5月15日の早朝から、一晩の休養をとった中隊は、本道に戻って行軍に移った。進むにしたがって、道路は昨夜の
雨による泥と、人馬にかき乱されたぬかるみで、歩きにくくなっていた。そしてさらに異臭が鼻をつきはじめた。馬や騾
馬の死体が、泥のなかに横たわっているのである。そのなかに放棄された車も見えだした。とても本道を歩けないほど
の凄惨な光景があらわれだしたのである。これが長台関の悲劇の、翌日の現場だった。
 炎天下の行軍を避けて夜行軍をおこなっていた師団は、淮河の唯一の渡河点である長台関を前にして、それまでの
三縦隊が一本にまとまったため、ひどい行進縦隊をおこした。しかも昼間の炎熱とはまるで逆の烈しい氷雨に打たれた
のである。雨はしだいに豪雨となり、一寸先もみえない真暗闇となってしまった。泥が膝を没する道路の周囲は、これも
歩行を許さない水田である。このため行軍は行きづまり、雨に打たれて凍死する者も出てきた。各部隊はバラバラにな
り、沿道の部落に難を避けるものがつづいた。悲惨なのは山砲や歩兵砲などの馬部隊で、馬や大砲を見捨てることが
できず、泥の道路で立ち止まって、一夜を明かす以外になく、多数の犠牲者を出したのであった。
 日中は炎熱で日射病が出るほどなのに夜の豪雨とぬかるみで凍死者を出すという、五月の中国大陸で、考えられな
いような事故がおこったのである。後の調査では、師団の凍死者は166名、聯隊は47名の犠牲者を出した。

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 次に、現代歴史研究者として名高い藤原彰氏は、陸軍官学校を卒業して第二十七師団支那駐屯歩兵第三連隊に所
属し小隊長や中隊長としてあちこちの戦闘に参加したとのことであるが、中学五年を四年一学期で修了し、本来の予科
二カ年を一カ年で修了、隊付け教育半年を四ヶ月で、さらには伍長や軍曹は各一ヶ月、士官学校本科二カ年を一年
三ヶ月で修了して卒業したため、実際に戦場に臨んだ際には役に立たなかったことが少なくなかったという。満十九歳
と三ヶ月で少尉である。特に問題だと思うことは、国際戦時法などが省略されたため、適切な捕虜の扱いに関する問題
意識などもほとんど持ち合わせないで従軍していることである。こうした無茶な将校の育成も大本営や参謀本部の問
題であると思う。そうしたことが、下記のような現地住民対する配慮を欠いた差別的処遇や人権侵害さらには虐殺とな
って現れたのではないかと思う。 
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・・・
 景和鎮での第三中隊の日常は、分散配置の小駐屯隊としては規則正しいといえた。起床、点呼、食事、消灯などは
規則正しくおこなわれ、内地の兵営のように喇叭で合図をしていた。日課としては銃剣術が熱心におこなわれていて、
実弾射撃も頻繁におこなわれていた。戦地の特権で、内地の部隊よりは実弾が自由になるからだったろう。ただし内地
のように設備の整った射撃場があるわけではなく、街の外の畑に標的を立てて実弾を発射していた。農民にとっては、
非常に危険な行動で、日本軍の傍若無人ぶりのあらわれだったといえよう。私は射撃をするというので、はじめて立ち
会ったとき、兵舎を出てすぐの街外れの畑でいきなり実弾を発射したのにびっくりした。一般人家へ危険が及ぶことへ
の配慮がまったくないのに驚いたのである。このような民衆への差別感はこれからもくりかえされ、しだいに麻痺してい
くようになった。

・・・

 八路軍側は(日本軍の)自転車隊への対策として部落周辺に壕を掘り、部落の間は坑道でつなぎ、連絡壕に段差を
設けて自転車の通行を妨害するなど、さまざまな対抗策を講じていた。日本軍支配下の治安地区と八路軍が支配し
ている解放区の境界あたりの部落民は、八路軍がくると壕を掘らされ、日本軍がくるとそれを埋めさせられた。
 あるとき山崎中隊長は、新しく壕が掘られていた部落で、住民を集めて壕の中に代表者の男性をすわらせ、壕を掘
った罪で射殺すると通訳に言わせた。それが本気だとわかると、集められた老幼婦女子がいっせいに号泣して生命乞
いをした。壕を掘るのも埋めるのも強制されてのことで、部落民にとってさぞ災難だったろう。

・・・

 中国に赴任して八路軍と戦うまで、私は中国共産党についても、農民の状態についても、何の知識もなかった。そも
そもこの戦争は、皇威になびかぬ暴戻支那を鷹懲するためのものだと、教えられたことを、そのまま信じていた。そして、
中国の民衆を天皇の仁慈に浴させるものだと思い込んでいたのである。しかし、戦場に到着して早々に体験した現実
は、部落を焼いたり、農民を殺したり、およそ民衆の愛護とか天皇の仁慈とかいう美辞麗句とは縁遠いものばかりで、
何かおかしいと、しだいに感じはじめていた。その疑問は、勇猛な指揮官だと讃えられている上官にじかに接すること
で、いっそうふくらんだ。
 分屯地に赴任してしまうと、聯隊長や大隊長に出会うのは、討伐の途中だけである。その際の幹部の印象は、それ
ぞれに強烈だった。聯隊長山本募大佐は、のちにビルマ戦線の歩兵団長として勇名を馳せた人で、剛毅果断という評
判が高かった。ある部落で、部落民が八路軍に通謀している疑いがあるという理由で、聯隊長自身が大声で「燼滅!」
と命じたのを聞いた。それが「焼き尽くしてしまえ」という意味であることがわかって、驚いた。聯隊長じきじきの命令で、
兵たちははりきって一軒一軒に火をつけて廻りはじめた。部落に残っていた一人の老婆が、兵の足にすがりついて放
火をやめるように懇願したが、それを蹴倒して作業を続けている。それを見て、こういうことでよいのだろうかという疑問
を感じた。


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中国戦線従軍記よりーNO2−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前回と同じ
「中国戦線従軍記」藤原彰(大月書店)より、日本軍の作戦上の問題部分を抜粋したい。
湘桂作戦はじまる−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
・・・
武昌からトラック輸送となった聯隊は、翌5月28日崇陽を経て桂口市に着いた。ここではじめて、これからの任務が
道路構築であることを知らされた。大作戦参加というので勇みたって、満州からはるばる駈けつけてきたのに、その任
務が道路構築だと聞かされて、がっかりしたのはじじつである。
 自動車輸送が終わった後、5月31日ごろから、通城・平江間に割り当てられた自動車道路の補修作業に取りかか
った。自動車道路といっても、この地域は何回も日本軍の進攻作戦にさらされており、道路は中国軍によって徹底的
に破壊されていた。図上に記号はあるものの、まったく原型を留めていない個所が多く、道路そのものが水田に化し
てしまった部分もあった。山地が多いのにくわえて、平地の部分は水田と湿地で、いったん雨が降れば流れはたちま
ち氾濫して道路はぬかるみと化し、どうやって自動車を通すのか途方に暮れるありさまであった。
 軍は師団の作業力に期待していたそうだが、われわれ歩兵部隊には何の土木器材もない。各兵の個人装備の円匙
(スコップ)と十字鍬(小型の鍬)は、個人用の壕を掘るためのものだが、これ以外に器材はもっていない。周辺の農家
から徴発してきた農具の鍬やモッコを使うのだが、作業の進展は知れたものだった。それでも、各中隊に区間を割り当
てて競争させるので、苦心の末どうにか道路らしい形を作り上げたが、兵の苦労はひと通りのものではなかった。

・・・


 五ヶ月前、ぬかるみのなかで苦闘しながら、歩兵部隊に自動車道路を構築しろという命令を出す軍の認識不足を怨ん
だのであった。そういえば、水田のなかで泥まみれになっているわれわれの現場を、一人の参謀も軍の当事者たちも
訪れてはこなかった。実情は後方の司令部に伝わっていなかったのである。いまここの毎日餓死者を出している野戦
病院の悲惨な実情を、作戦参謀は知っているのだろうか。少なくともだれかは、第一線の視察にくるべきだろうと思った。
それとともに兵の大半が栄養失調に倒れるのは、兵本人の責任ではなくて、補給を十分におこなわない軍の責任であ
ること、そのような補給の困難さを承知していながら、作戦を計画し、実行したものこそすべての責任があることを悟る
べきだと思った。
 さらに、この作戦は、はたして何のために始められたのか、そのことについても疑問をもつようになった。はるばる関東
軍から増援されたわが師団は、湖南省辺境のこんな山のなかで、作戦開始後半年以上たっても先の見込みもなく苦戦
している。大陸縦断路の打通も、国民政府の打倒も、米空軍基地の覆滅、しずれの目的もいつ果たせるかわからない。
太平洋の戦局はいよいよ不利で、作戦開始後の六月にはマリアナ諸島を失った。ヨーロッパでも六月には、連合軍によ
るノルマンディー上陸が成功し、ドイツの運命も定まった様子である。作戦目的についても、戦争の将来についても、暗
い予想しかできなかった。自分の未来もいつどこかで死ぬ以外ないと予想せざるを得ないのである。
 入院は、いろいろなことを考えさせる機会になったのである。とくに野戦病院の実態について考えさせられた。このまま
ではまるで戦傷病者の墓場である。栄養失調でつぎつぎと死んでいくのを、手をこまねいて見ているだけなのである。前
に野戦病院の護衛にあたったときも思ったのだが、病院というのは一地に定着してこそその機能を発揮できるので、移動
の手段、機動力をもっていない。そして何よりも一般の部隊のような戦闘力をもっていないから、自力で食糧を徴発する
力に乏しいということになる。だから茶陵の場合のように、わが軍が敵に包囲されて補給が完全に途絶しているとき、野戦
病院のような部隊には薬品や食糧の補給について特別の措置を講じなければ、機能不全に陥ることは目に見えている
のである。こうした状況に置かれた軍医や衛生兵も気の毒だが、ここで無残に死んでいく入院患者たちの無念さは察す
るに余りがある。

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 日本軍は、あちこちの戦場で、敵兵だけではなく老幼婦女子までも見境なく殺害したという。そして、その人間の命を
軽んじる姿勢は大本営や参謀本部、作戦課など日本軍中枢の姿勢の現れではないかと思う。日本軍兵士の「使い捨
て」や「見殺し」が至る所で発生しているのである。少なくとも日本軍兵士の損耗をいくらかでも減らそうとすれば、現地
の実情を踏まえて作戦を立てることは常識であるはずだが、上記のように現地視察などは行われず、隊を率いるもの
の考えも確認さえされていないのである。
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