-NO271~278

---------------中国戦線における毒ガス戦 加害証言---------------

 台湾の霧社事件で初めて実戦使用された毒ガス兵器は、その後陸軍によって次々に制式化(兵器として正式に採用すること)された。それを受けて、大久野島での生産体制が確立され、日中戦争の勃発以降は、多くの労災事故や健康被害を伴いつつ大量生産体制に入ったのである。そして、中国戦線を中心として、当初は密かに使用されていた毒ガス兵器が、その後形勢不利な状況に陥ると大量に使用されるようになっていった。下記は、その中国戦線における加害証言を
「日本軍の中国侵略と毒ガス兵器」歩平著ー山辺悠喜子・宮崎教四郎監訳(明石書店)から抜粋したものである。
---------------------------------------------------
                               第9章 戦犯の証言

 「中国帰還者連絡会」


 ・・・
 藤田茂は武家の生まれで、子どもの頃から武士道精神の薫陶と軍国主義的教育を受けて育ち、戦中は中国を侵略し、中国人民を殺戮する鬼となり、残酷非常で眉ねも動かさずに人を殺し、「鬼将軍」の異名をとった。1945年に日本が投降すると、藤田茂は武勲赫久たる天皇の寵児から一転、中国人民の囚われ人となった。撫順戦犯管理所において、当初は毎日陸軍の軍服を着用し天皇を遙拝して、狂信的な武士道精神を見せつけていたが、学習と反省を通じ、特に中国人民が米国に反抗し朝鮮戦争に勝利したことに多大な感銘を受け、1954年8月、自らの罪を認める自白書をしたためる。

 「私は幼少時より高級指揮官師団長となるまで、40年にわたり、日本帝国主義軍の機構の中で、教育を受け、また部下に対して教育、命令、指導を行い、日本帝国主義のために戦い、一切を捧げてきました。
 戦争が終結した後も私は、侵略戦争の罪悪、とくに日本帝国主義の罪悪についての認識がありませんでした。
 戦犯管理所の助けによって、私ははじめて夢から醒めたのです。ここで、私は過去の過ちを心の底から悔い、中国人民の目の前で頭をたれ、徹底的に罪を認めることを決心したのです……。
 高級指揮官の身分により、私の命令の下……殺害した中国人民の数は総計約1万名……私の犯した罪の中でも最も重いものは、兵士の精神を鍛錬する目的で捕虜を刺し殺したことです」。


 戦争の性質を知ることによって、自己の罪をしりことに彼は自分の姉の一家が広島の原爆で亡くなったことを知って、軍国主義こそが凡ての悲惨さを生み出す源であることを強く思い知った。このとき、藤田茂は過去の自己を徹底的に否定することを終え、真理を求める旅をはじめたのである。
 1956年6月、藤田茂は沈陽特別軍事法廷において裁判を受け、懲役18年の判決を下された。
 裁判官にコメントを求められると、藤田は感激してこう答えた

 「私の罪に照らせば、1万人の藤田茂を殺して当然なのです。凶悪な日本帝国主義が私を人食う野獣に変え、私の前半生の天にも恥じる罪を作りました。中国政府は私を教育し真理に目覚めさせ、私に新しい命をくれました。この厳粛な中国人民の正義の法廷において誓います。私の後半生を断固、反戦と平和事業のために捧げます」。

 彼の言葉に偽りはなく、帰国すると「中帰連」の先頭に立ち、戦争の非を暴き、日中友好を促すために多くの仕事をした
。……
 ・・・

---------------------------------------------------
 
戦犯たちの戦後50年

 ・・・
 
絵鳩さんは朗読を終えると、自分の証言を付け加えた。以下はその証言である。

 「1942年5月から1945年6月のあいだ、私の大隊本部は山東省の新泰県というところにありました。毒ガスにについて詳しくはないのですが、討伐に行くときには必ず防毒マスクの携行を義務づけられていましたし、さらにどのような作戦でも、必ず砲兵中隊はあか筒とみどり筒を携行しておりました。1943年3月、私たちは新泰県から数キロ離れた羊流店という部落に、討伐に行きました。そこには抗日軍がいて、私たちの大隊は討伐隊を編成して、夜間に出発し、夜明け前に村を包囲しました。隊長の命令で私たちは村に向けて毒ガス弾を発射し、村から飛び出してきた抗日軍に向かって射撃しました。そのとき使ったのがあか筒だったかみどり筒だったか定かではないのですが、毒ガスを使うのはいつものことでした。
 私は初年兵教育を佐倉で受けましたけれども、そのときわれわれの訓練項目のなかには毒ガスの教育が組み込まれていたのです。それは各自に防毒マスクが支給され、どのように毒ガス筒を使うのか、どのように防毒マスクを使うのかを教えられました


 絵鳩さんの話が終わるとすぐ、隣の金井貞直さん(旧姓田村)が立ち上がった。前に出ているなかで彼は比較的健康そうで若く見えたが、すでに76歳であった。彼は中国で戦犯として再教育を受けていた1954年10月8日、毒ガス使用について次の証言を行った。

 「1942年7月中旬、第59師団54旅団独立歩兵第110大隊(兵力約330名)は山東省萊蕪県旧寨鎭西北の九頂山山麓の村落に侵攻しましたが、八路軍とは戦火を交えることはできず、村人を虐殺しました。私は大隊長、藤崎秀一中佐の命令により、歩兵砲中隊長、手塚好雄中尉とともに連帯の砲兵小隊にくしゃみ性ガス弾3発を発射するよう命じました。弾は村の中央の民家に命中し、老人、婦人あわせて15名を殺害しました」

 
彼は以上の証言をくり返した後、確信に満ちた口調で、次のように語った。

 「日本軍はこれまで窮地に陥ったとき、もしくは撤退時にしか毒ガスは使わないといってきましたが、それはまったくちがいます。1942年、私が第59師団に編入され中国に赴いた当時、八路軍のいる村を包囲してから毒ガス筒を発射していました。これは明らかに国際法に違反する犯罪です。私は現在、化学兵器を使った行為をひどく恥じ、後悔し、申し訳なく思っています」


 金井さんが発言していたとき、隣に座っていた銀髪の金子安次さんは落ち着かない様子だった。はたして、金井さんの話が終わるか終わらないうちに金子さんは立ち上がると、まず、自分が山東省新泰で参加討伐戦で毒ガスを使った経緯を話し出した。

 「1941年10月中旬、44大隊は新泰県の某村に侵入しました。第2中隊、有森元治大尉の指揮で催涙性毒ガスを放って攻撃をかけ、八路軍の兵士30名および民衆120名を惨殺しました。私はガス弾1個を放ち、わら山に火をつけ、村に火事を起こしました。同時に歩兵銃で、村から逃げ出してきた3名の農民を銃殺しました。火が収まると、村に侵入し、農民5名が井戸に身を隠すのを見つけ、上等兵の鈴木松太郎とともに60キロくらいある石と、さらに手榴弾を井戸に投げ込み、彼らを惨殺しました。

 そのときの進攻は今でも私の記憶に残っています。私は杉という老兵と一緒に一軒農家に踏み込み、1人の女性がいるのを見つけました。杉は強姦しようとしましたが、その女性が必死に抵抗したため、怒って軍刀でその女性の頭をかち割り、その死体を外の井戸に投げ込むのを私に手伝わせたのです。そのとき、4歳ぐらいのこどもが『媽媽(マーマー)(お母さん、お母さん)』と泣き叫びながら、椅子を井戸のところにもって来て、見る間に井戸に飛び込んだのです。杉は井戸に手榴弾を投げ込みました。このときの悲惨な情景は一生忘れません。

 私はいつもいうのですけれども、子どもたちは戦争のことをなにも知らない。知ろうともしない。たとえば私たちの帰還者連絡会で出した侵略戦争を批判した本もたくさんあるんです。その本を読めといってもなかなか読んでくれない。『お父さん、これを読んだら怖くて飯が食えないよ』と途中で投げ出してしまう。私は、若い人が戦争のおそろしさを知り、戦争の事実を知って、戦争が起こることを防いでほしい。それが戦争をやった私たちのやらねばならない任務であると思います」

 
多くの人が金子さんの発言に共鳴したのだろう。場内に拍手が起こった。……。

------------
日本国内における毒ガス兵器の廃棄や投棄----------------

 日本の毒ガス兵器は、その多くが中国戦線で実戦使用された。当然のことながら、多数の死者や被毒被害者を出した。そればかりでなく、日本国内でも多くの生産労働者や保管・輸送関係者などを被害者にした。そして、戦後66年になろうとする今なお、中国には大量の毒ガス兵器の遺棄弾があり、その処理をめぐって難しい問題に直面している。ここでは、日本国内における毒ガス兵器の廃棄や投棄の状況に関する部分を「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)から抜粋する。
----------------------------------------------------
                        Ⅹ 敗戦・免責・遺棄・投棄

秘密裏の廃棄・投棄

 日本は、1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。ついで、15日には天皇の「玉音放送」が行われ、国民に降伏の事実が告げられた。しかし連合軍の先遣部隊が厚木に進駐するのは28日で、マッカーサー連合国軍最高司令官が到着するのは30日であった。日本各地に部隊が進駐するのはもっと後で、2週間以上最長6週間が経過する間に日本軍の文書・記録は戦争犯罪の追及をおそれて焼却され、また、多くの毒ガス兵器も密かに廃棄・投棄された。この廃棄・投棄は、文書・記録の焼却と同様、陸軍中央の指示にもとづいて行われたと思われる。代表的なものをみてみよう。

 青森県の海軍大湊警備府には、60キログラムイペリット投下弾が2000発または3000発あったという。これは8月20日から23日にかけて陸奥湾に投棄されたが、宇垣完爾元警備府長官は、これは17,8日頃海軍省軍需局送られてきたもので、「わからないように投棄処分せよ」と指示されたと語っている。陸軍習志野学校にあったイペリットとルイサイトの缶約6トンは、8月17日から20日にかけて、晒粉で消毒し埋設された。青酸ボンベ2,3本は夜間に放散された。横須賀海軍軍需部にあった嘔吐性・催涙性砲弾用型薬缶3万個は、海中に投棄されたと推定された。相模海軍工廠平塚分所には青酸入りサイダー瓶が約1万本あったが、コンクリート塔に投げつけたところ発火したのでこの方法で速やかに処分された。静岡県の陸軍三方原教導飛行団(航空化学戦学校)には、イペリット・ルイサイト缶4,5個、またはイペリット缶約80個(16トン)・ルイサイト缶約20個(約2トン)があったが、これらは8月16日、7日頃、浜名湖北部に投棄された。大阪では、8月20日頃、堺市の輜重隊がイペリットとルイサイトの入ったドラム缶十数個を大阪府長野村(現河内長野市)の池に運んできて投棄し、一部を岸辺と松林に埋めた。福岡県の曽根製造所には敗戦時、各種ガス弾4403発(または1万5561発)が残っていた。また、小沢敏雄曽根製造所元所員らの証言によれば、敗戦時、投下ガス弾約1000発、万単位の砲弾、毒ガス液入100リットルドラム缶3,40本があったが、九州総監部の指示により、20日前後の3日間に苅田港沖・門司区東部沖に投棄した。ホスゲンと青酸が入った投下弾は藍島沖に投棄したという。


 連合国軍による廃棄・投棄

 しかし、すべての毒ガス弾薬が秘密裏に廃棄・投棄されたわけではない。とくに相当大量に備蓄されていた所では、廃棄・投棄ができず連合軍に押収された。
 1945年10月、アメリカ陸軍第8軍化学戦部は第1海軍航空廠(瀬谷)で60キログラムイペリット爆弾8000発を見つけた。また、敗戦時の相模海軍工廠などにあった残存毒ガス量は268,4トン(または333トン)であった。これらは、1946年4月、第一騎兵師団の化学将校、W・E・ウィリアムソン少佐の指揮で、日本の漁船70隻に積みこまれ、銚子沖に投棄された。投棄された場所は水深250から300メートルの浅海で、ボタンエビ、ミズダコ、アンコウなどの豊かな漁場だった。山口県大嶺炭鉱の廃坑には、毒ガス砲弾(糜爛性ガス・嘔吐性ガス)83974発があった。これはアメリカ軍の指導で12月前後に宇部沖に投棄された。海軍第2航空廠(大分)関係では、イペリット爆弾2351発または3811発が米軍に引き渡され、別府湾に投棄された。大分県の国鉄久大線旧宮原トンネルにはイペリット鉄甕1800個(90トン)が保管されていたが、米軍の指導で豊後水道に投棄されたという情報もある。

 最大の備蓄基地は、大久野島周辺でその量は陸軍のものだけで3253トンあった。この廃棄・投棄作業はウィリアムソン少佐の指揮でイギリス連邦軍が行った。実際の作業は帝人の請負となり、作業員が募集された。全従事者は8月17日には846人に達した。彼らは多くの作業をガスマスクも防毒衣も着けずに行った。こうして、多くが被毒し、後に激しい喘息を伴う慢性気管支炎に苦しむことになった。その数は307名に達した。また、1名が糜爛性ガスを吸い込んで死亡した。

 イペリット・ルイサイトを戦車揚陸艇LST814号へ船積みする作業は7月14日から開始されたが、「船内は忽ちにして毒臭に満ち」、困難を極めた。大型タンクに入っているイペリット・ルイサイトは真空輸送管で送り込まれたが、29日には台風が大久野島を襲い、814号が座礁し、パイプが破壊されたため、船首と岸壁が糜爛性ガスによって汚染され、90名の作業員が被毒した。ウィリアムソン少佐も被毒した。814号は8月12日、北緯32度37分、東経134度13分の地点(土佐沖、室戸岬の南約100キロ)で、爆破され沈没した。

 ・・・

 残りの60キログラムイペリット投下弾(海軍)8000発以上、150キログラム缶入糜爛性ガス400トンなど総重量1800トンの毒ガスは、貨物船、新屯丸に船積みされ、10月に北緯32度30分・東経134度10分の地点で(土佐沖、LST814号海没の近く)で、手作業により海中に投棄された。海が荒れたために、すべてのものを投棄するのに、22日もかかった。
 嘔吐性ガスと催涙ガスは、大久野島にあるトンネル(地下壕)へ埋設された。これら毒ガス剤と漏れ始めている催涙ガス手榴弾は9月2日までに地下壕に埋められた。ついで、地下壕正面にコンクリート製の大きな囲い堰を作り、80トンずつの塩水と漂白剤をまぜた液(スラリー)を作って地下壕に流し込んだ。その後地下壕入口を封鎖した。埋没された量は嘔吐性ガス筒(あか筒)65万6553本に達した。こうして廃棄されたが、嘔吐性ガスに含まれる有毒な砒素はそのまま大量に地下壕内に残留することとなった。


 その後、糜爛性ガス貯蔵タンクの底に残った沈殿物約50トンと催涙棒2820箱・催涙筒1980箱の焼却、工場地帯一帯の焼却とサラシ粉による徐染などが行われ、1947年5月27日、ようやく全作業が終了した。

-----------
海外における旧日本軍毒ガス兵器の遺棄や投棄-------------

 敗戦前後に、旧日本軍が遺棄したり投棄したりした毒ガス兵器については、戦後日本国内では、「忘れさられていた」ともいえる状況にあった。しかし、1990年に中国が「旧日本軍が残したものなので日本側に責任がある」と毒ガス兵器の廃棄処理を要求し、1992年の化学兵器禁止条約のなかに、遺棄国廃棄条項が盛りこまれたことで、再び大きな問題となった。下記は、国際条約違反の毒ガス兵器の遺棄・投棄にかんする部分を「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)から、また、実際に毒ガス兵器の廃棄・投棄の作業に関わった軍属の証言を「日本軍の毒ガス戦 迫られる遺棄弾処理」小原博人他(日中出版)から抜粋したものである。

「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)---------------------------------
                           Ⅹ 敗戦・免責・遺棄・投棄

 3 中国での毒ガスの遺棄

 海外での毒ガスの遺棄

 1944年に、対米英戦用の毒ガス弾薬の基地として指定されたマニラ・シンガポール・トラック島・上海・青島・大連には相当数の毒ガスが集積されていた。海外の日本軍は毒ガスを連合軍に引き渡すことなく事前に投棄しようとした。これらの集積基地はすべて海に接しているので、敗戦前後に近くの海に投棄されたと推測される。また、投棄は現地軍の独断でできることではないので、陸軍中央からの指示が出されたと思われる。

 マニラでは、毒ガス弾薬はアメリカ軍の進攻が予想される1944年10月にコレヒドールに移されたが、それを海没したいという要望が第4航空軍(またはマニラ航空補給廠)から出されていたことはすでにみたとおりである(第Ⅶ章)。戦後、マニラやコレヒドールで日本軍の毒ガスが発見されたという情報はないので、アメリカ軍進攻前にマニラ湾に投棄されたのであろう。1945年8月24日、スラウェシ(セレベス島)マカッサルにいた海軍第23特別根拠地隊は、ガスマスクを含む「あらゆる化学戦資材の痕跡を廃絶すべし」という指示を出している。


 中国ではどうだっただろうか。毒ガスの配備は関東軍と支那派遣軍がもっとも充実していた。とくに。関東軍は、実験・演習、一部討伐戦などを除いてほとんど毒ガスを使用しなかったので、大量に残っていた。これらはソ連参戦・日本降伏の直後に、海・河・地中・古井戸などに投棄されるか、その余裕がない場合弾薬庫に遺棄された。たとえば、吉林省敦化にいた第16野戦兵器廠は、黒龍江省石頭に集積した弾薬爆破のため8月11日に兵士3名を派遣している。この兵士たちは15日から「化学戦弾薬だけ埋没を開始したが、武装解除迄完了しなかった」という。また、敦化の大橋、沙河沿、秋梨溝、大山、馬鹿溝、林勝などではソ連軍の進撃が急なため毒ガス弾薬を処分する余裕がなく、大量の毒ガス弾を弾薬庫に遺棄していったという。

 支那派遣軍は、国民政府軍により武装解除されるまでの期間に海・河・地中・古井戸などに投棄した。たとえば、第11軍直轄自動車第34連帯のある将校は、8月20日、湖南省湘潭県滴水埠で停戦命令を聞いたが、このとき地区司令部から一切の書類焼却とともに、毒ガスの秘密裡の処理を命じられ、湘江に毒ガス弾入りの箱、20個余りをすてた、とのべている。その後、日本は海外に遺棄した毒ガスのことを忘れていった。


「日本軍の毒ガス戦 迫られる遺棄弾処理」小原博人他(日中出版)-----------------------

                          Ⅱ 遺棄された毒ガス弾

1 遺棄化学兵器による傷害事件


 敗戦まぎわに旧日本軍が毒ガス弾を廃棄

 日本軍がどのように毒ガスを遺棄したか、数少ない証言がある。チチハル郊外の第516部隊(関東軍化学部)の軍属だった人(宮城県在住)が毒ガス戦研究者の1人、糟川良谷さんに語ったものだ。


 「ソ連が怒とうのように進撃してきた1945年8月13日、上官から貯蔵庫の毒ガス弾を郊外の大河・嫩江に捨てるよう命令された。当日朝から中国人作業員を使役し木箱入りの砲弾をトラックに積み込んだ。私レベルでもきい弾だと知っていた。ばれないようにするのだなと。橋の上からドカドカ放り込んだ。一刻も早く片付けたい一心で地元の人々への迷惑なんて考えもしなかった。弾の数は覚えていないがトラックで2往復した」。

 また69年秋、東京・新宿で開かれた市民による毒ガス展(毒ガス展実行委員会主催)で、東京北区の元兵士は「敗戦時、湖南省・湘潭の南滴水埠にトラックいっぱいのきい弾を捨てた」と証言した。元兵士は第11軍隷下の自動車第34連帯に属していた。「毒ガスは迫撃砲弾だった。一つの木箱に5,6個入っていた・木箱ごと捨てた。自分の部隊がガス弾を使ったことはなかった」。このような水中投棄はかなりおこなわれたようだ。


----------------
続く旧日本軍毒ガス遺棄弾の被害----------------

 中国のみならず、日本でも旧日本軍の毒ガス遺棄弾による被害が出ていることを「化学兵器犯罪」常石敬一(講談社現代新書)は取り上げている。そして、遺棄弾の調査と処理を急ぐべきだという。まったくその通りだと思う。関係者は高齢化しているが、今ならまだ遺棄した場所や投棄した場所が分かるかも知れない。毒ガス兵器の廃棄や投棄、遺棄について文書を残したとは思えないだけに、急がないと分からなくなってしまう。これ以上被害者を出さないようにするために、また、戦後の日本が真に民主的な平和国家に生まれ変わったことを示し、信頼を取り戻すために、毒ガス遺棄弾の調査と処理を急いでもらいたいと思う。
----------------------------------------------------
                               第1章 化学兵器の今

1 旧日本軍の毒ガスの亡霊がが出てきた

 日本での井戸水汚染
 2003年に入って、旧日本軍の毒ガスによる人への被害がいくつか表面化した。ひとつは4月になって明らかとなった、茨城県神栖(カミス)町で起きた1歳7ヶ月の男児を含む数十人の井戸水のヒ素汚染による健康被害だ。被害者達が飲んでいた井戸水の汚染は環境基準の450倍だった。原因は、毒ガスであるくしゃみ剤が地中で分解して、その成分が地下水を汚染したものと考えられる。
 もうひとつは、 8月になって中国チチハルの工事現場で掘り出されたびらん剤による死傷者の発生だ。こちらは死者1人を含め40人ほどが被害を受けた。
 茨城県の被害について日本政府はその原因が旧軍の毒ガス、くしゃみ剤によるものであることをほぼ認め、被害者の救済に乗り出した。 くしゃみ剤による被害であることが確実であると認められた人には、国から医療補助をするため、「医療手帳」を交付している。同年9月初めの段階で61人が手帳の交付を受け、それ以外に150人程が被害を訴え、手帳の交付を求めている。
 被害が表面化した時に、脳性マヒを疑われた1歳7ヶ月のの男児は、歩けず言葉を発することがなかった。歩けないというのは、ヒ素中毒によって神経を圧迫され、関節に痛みやしびれを感じていたためではないか、と思われた。5月にその子の母親から直接うかがったところでは、転居2ヶ月頃から嘔吐し、また咳き込むようになった、ということだった。
 7月になり新聞に「男児が歩いた」という見出しが躍った。井戸水をやめ、水道水にしてから4ヶ月目のことだった。これは単にヒ素で汚染されていない水に切り替えただけではなく、体内のヒ素を体外に出す特別な治療法(キレート療法)の効果とあいまっての朗報だった。
 
 中国で死者が出る
 8月になって中国から、チチハルの工事現場からびらん剤が掘り出され、数十人が被害を受けている、というニュースが飛び込んできた。
 この事件について日本の外務省は8月12日に1回目の外務省報道官談話、「黒龍江省チチハル市における毒ガス事故について」を発表し、「8月4日に黒龍江省チチハル市において発生した毒ガス事故は、その後の調査の結果、旧日本軍の遺棄化学兵器によるものであることが判明した」としている。さらに中国政府からの通報として、「チチハル市の建築現場において掘り出されたドラム缶から漏れ出た液体により、建築作業員が頭痛・嘔吐等の症状をきたし、29人が入院し、そのうち3人が重体」という事実を明らかにした。

 
 さらに8月22日には新たな外務報道官談話が出され、「22日午前、中国外交部よりわが方在中国大使館に対し、今回の事故の被害者のうち1名が、21日午後8時55分に死亡した旨の通報があった」ことが明らかにされた。この時点までに被害者総数は、亡くなった人も含めて、43人になっていた。10月になって日本政府はこれら被害者に対して合計3億円程度を支出することを決定した。日中国交正常化時に、中国は賠償請求権を放棄しているため、3億円は見舞金として支払うようだが、それは日本政府の理屈であり、中国側がそうした理解をするかどうかはおぼつかない。その内訳は遺族や中毒患者への見舞金、患者の入院費、現地の医療チームに対する支援金などとなっている。なお今回発見されたびらん剤とそれが入っていたドラム缶の処理は今後日本政府がやることになり、3億円にはその無毒化処理費用は含まれていない。

 ・・・(以下略)

---------------------------------------------------
                             第5章 毒ガスの明日

 日本がなすべきこと

 ハルバレイの67万発の処理を早めることも重要だが、それ以上に早急に行うべきことがある。日本は第3章で見たように、戦争中東南アジアおよび太平洋戦線にあか弾を中心に文書上判明しているだけで27万発の毒ガス砲弾を配備していた。これまでのところ、被害の報告はない。しかし今後もないかどうかは分からない。被害が発生してからでは遅い。また中国でも今後チチハルのような事態を繰り返さないための方策を日本は取る必要がある。


 日本はこれらの地域について、敗戦時の毒ガス配備の状況を調査することが求められている。そして得られた情報をそれら各国に提供する必要がある。筆者が調べた限りでは、1944年以降の公文書が公開されていないのか、それとも廃棄されてしまったのか、閲覧できない。自国の戦争中の兵器の配備状況が、その国の公文書で確認できないなどということがありうるのだろうか。しかし日本とはそうした歴史に無頓着な国なのかもしれない。もしそうだとすれば国際的にはみっともないことだ。米国その他の公文書館を調べ、日本軍の敗戦時の状況を詳しく調査すべきだろう。

 配備状況をつかんだうえで次になすべきことは、敗戦時に、毒ガス使用は国際条約違反であることを認識して、毒ガス弾を埋めたり池や沼に投棄したりした人の証言を得ることだ。ここに遺棄したなどということは公文書には出てこない。証言を得るためには、お国の為に毒ガスを遺棄したという責任を感じている元兵士が証言しやすい環境を作る、すなわちもうしゃべっても良いのだと思ってもらうことだ。それには政府が毒ガス使用は秘密ではないことを示すことだ。それは日本が各種の毒ガスを使ったことを明確に認めることだ。政府には、戦前の日本が老いた元兵士たちにかけた「秘密保持」という呪縛を解く義務がある。呪縛からの解放だけは早期に実現してもらいたい。
 そうした調査および証言に基づいて、日本が毒ガスの所在調査を進めることは、アジア諸国の信頼をかちとる道となるだろう。またそれが悲劇を繰り返さないために必要なことだ


-------------
戦争期の日本の国家犯罪”阿片政策”-----------------

「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)の著者は、「日本の阿片政策」というテーマで研究を進めるかたわら、ケシ栽培農家を訪ねたり、自身で、ケシの乙種研究栽培者の許可を得て、ケシの栽培にも取り組んだようである。そして、日本の阿片政策をケシ栽培の側面からも追及している。日本のケシ栽培の普及に力を尽くし、「阿片王」といわれたニ反長音蔵(ニタンチョウオトゾウ)についても、彼のケシ栽培や阿片生産に関する著書の内容にまで踏み込んで分析・考察したり、また、新たな情報を得るべく彼の遺族を訪ねたりして、ほとんど知られていない数々の事実を明らかにしている。
 さらに著者は、名古屋商工会議所図書館で、佐藤弘編『大東亜の特種資源』(大東亜株式会社、1943年9月)という貴重な書物を発見し、その内容の一部を取り上げて、考察を加えつつ紹介している。『大東亜の特種資源』によると、明治以来の日本のモルヒネ輸入量は、戦争によって急増し、1920年に最高を記録するが、モルヒネの国産化に成功すると、輸入量は急速に減少し、1930年を最後に輸入は終わる。そして、一転、日本は世界有数のモルヒネ生産国へとのし上がっていったのである。
 1935(昭和10)年には、モルヒネ製造量が世界第4位となり、ヘロインでは世界第1位の製造量になっていたという。1934(昭和9)年のヘロイン生産量は、世界生産の5割近かったというから恐れ入る。技術が進歩し、阿片からモルヒネやヘロインが抽出されるようになると、阿片を吸煙する方法から、モヒ丸(モヒガン)といわれる丸薬や注射による利用が広まり、中毒者の心身の荒廃スピードが、一層早まって、数年で死にいたるケースが多かったといわれているのである。おまけに、丸薬や注射は阿片吸煙よりずっと簡単で、比較的値段も安く、中国の人々に急速に広がっていったようである。日本の阿片政策は、収益目当ての許されない政策であったが、戦後もそうした事実がきちんと明らかにされていない現実を、とても残念に思う。
 日本の歴史には、隠蔽された事実が多々あるが、それらを明らかにする貴重な研究の一つだと思う。同書の中から、日本の阿片政策の問題点についてまとめている部分を抜粋する。
--------------------------------------------------
                           第1章 国際関係の中での位置づけ

 国家ぐるみの犯罪

 阿片・モルヒネ類の生産配布などの仕事(いわゆる阿片政策)は、国内では、内務省(ただし、1938年1月以降は新設の厚生省に移管)が担当した。また、外地では、台湾総督府や朝鮮総督府などの植民地官庁が、阿片政策にかかわった。さたには、後になると、興亜院や大東亜などの官庁も、この仕事に加わった。この他、軍部も、この問題に深くかかわっていた。これらの官庁や組織は、みな国家組織である。国家組織が、長年にわたって、阿片モルヒネ類を大量に生産し、それを密輸出していた。


 一方、1912年のハーグ阿片条約以来、一連の国際条約で阿片類の密輸出は公には禁止されていた。だから、前述のような、日本の行為は明らかに国際条約に違反していた。それに、国家組織が密接に関与していたのであるから、日本の阿片政策は、国際条約に背いた、いわば「国家ぐるみの犯罪」というべきものであった。
 ・・・(以下略)


国際条約を結ぶ意味

 国際条約を締結し、阿片類の密輸出をしないことを、日本は国際的に約束する。しかも、たった一回限りではなく、きちんとした条約だけでも、少なくとも、4回も、ほぼ同じ趣旨の内容を国際的にくり返し約束している。従って、阿片類を中国などに密輸することは、明らかに国際条約違反であった。日本が阿片類の密輸出をしていることが暴露され、公に追及されれば、日本が国際的に激しく非難されることは目に見えていた。この件で、日本は申し開きは許されなかった。国際条約を結ぶということは、本来、それだけの厳しさを締結国に求めていた。そのことを、当時の日本の為政者は十分に理解していた。

 だから、国際条約に違反するような阿片政策を進めるべきではないという、いわば良識派も、日本の為政者の中にいたはずである。彼らは、万一、阿片類の密輸出がばれた場合に受ける、ダメージの大きさを考慮し、国際条約に違反する阿片政策をやめるように主張したことだろう。しかし、結果的には、そういった良識派の主張は退けられてしまい、実際には、国際条約違反を承知の上で、日本は前述のような阿片政策を進めてしまう。


阿片の収益の大きさに目がくらむ

 日本が財政的に余裕があれば、国際条約を締結した以上、それを遵守し、阿片類の密輸のような汚い仕事に、手を染めたくなかったはずである。しかし、当時の日本の財政基盤は脆弱であった。富国強兵をめざす日本の当局者にとって、たとえ、汚いものであっても、阿片政策がもたらす金を、無視することは不可能であった。
 しかも、その額は、生半可なものではなかった。裏の世界においてであっても、それは財政の基幹部分を形成するといっても、決して言い過ぎとはならなかった。阿片政策の収益が、もし、とりたてていうほど大きくなければ、ばれた時の非難が恐くて、きっと、やめたことであろう。

 万一、ばれた場合、国際世論から激しく非難・攻撃される危険性と、続けた時の収益の大きさを天秤にかける。後者が大きかった。前者の危険性もたしかに無視しえなかったが、しかし、後者によって得られる収益の大きさは、なお、それを補ってあまりあると判断された。結局、阿片の収益の莫大さに目がくらんで、日本は後者を選択する。
 こうして日本の当局者は、国際条約違反は百も承知で、阿片類を大量に密輸出する方針を、敢えて捨てなかった。ばれて国際的な非難を浴びる危険性は十分、承知しているが、なお、国際条約違反(=非合法)で、かつ、非道徳的な汚い道を選んでしまう。いってみれば、背に腹は替えられなかったということであろうか。実力以上に背伸びして、国際社会の中に出ていった無理が、ここにも現れていた。



関係資料をひたすら隠す

 こうして、日本は前述のような阿片政策を敢えて採ることになる。しかし、それが国際条約に違反した、本質的に非合法なものであることを、日本の為政者はよく承知していた。彼らにとって、それは、まさに人の目にさらしてはいけない恥部であった。
 そこで国際世論をはばかるため、阿片関係の資料は意識的、かつ、組織的に隠滅させられた。それは徹底していた。阿片モルヒネ問題で、日本が国際条約に背いた行為をしていることを、諸外国に知られてはいけなかったからである。阿片に関する事項は、極力、隠された。それは、諸外国に対してというだけでなく、国民の目からも隠された。
 まず、阿片関係の統計資料は、なるべく出さないようにされた。従来、主に国際聯盟に提出するために、内地だけでなく、支配する植民地まで含んだ阿片関係の包括的な統計が、内務省によって刊行されていた。しかし、この統計も、1928年を最後にして、以後、刊行されていない(ただ、地方レベルや植民地のものは、もっと後までわかるが)。また検閲によって、新聞などのマスコミが、阿片・モルヒネに関することを報道することは、ほぼ全面的に禁止された。戦前軍事関係を除けば、阿片に関する事項に対して、報道管制が最も厳しかったといっても、まず、さしつかえなかろう。それだけ、為政者は阿片問題には気を使っていたのである。



 肝心の日本の阿片政策は知られていない

 こうして、戦前、日本が行った阿片政策は、闇から闇へ葬り去られ、これまで、広く国民の目にふれる機会はあまりなかった。だから、国民は、戦前、日本が国際条約に背いて、中国などに阿片類を密輸出していたことをほとんど知らない。また、それと関連して、内地でも、和歌山県や大阪府で、大規模にケシが栽培されていたことさえ、一般にはほとんど知られていない。
 現状では、阿片の輸出というと、日本国民は、おそらく、イギリスがインド産の阿片を中国に持ち込んだことを、すぐに思い出すことであろう。すなわち、18世紀末から、イギリスは、中国の茶を本国に、本国の綿製品をインドに、インド産の阿片を中国に運ぶ、いわゆる三角貿易を行う。それがやがて阿片戦争につながってゆく。──こういったイギリスの当時の阿片政策のことは、高等学校の世界史できちんと教えられている。だから、それはいわば国民的な歴史認識の段階に達している。
 しかし、肝心の日本の阿片政策については、これまでほとんど知られていない。戦前、日本が推進した阿片政策は、これまで述べてきたように、客観的にいって、イギリスのそれよりも、はるかに大規模であり、かつ、影響はもっと深刻であった。にもかかわらず、日本国民は、日本が行った阿片政策について、ほとんど知らない。

 ・・・(以下略)


私の失敗──厚生省は戦前から存続

 ・・・
 戦時体制下、阿片政策を推進してきた厚生省の責任は重い。それ以前に担当した内務省とともに、当然、厚生省もまた、その責任追及からのがれられない。ところが、後述するように、戦後の東京裁判で、内務省も厚生省も、阿片政策を担当した責任をうまくのがれる。彼らが行った阿片政策は、不問に付され、結果的に免罪される。
 このこともあって、阿片政策を担当したことに対して、彼らはなにも反省していない。だから、自分たちが行ってきた阿片政策に関する資料を全く公表していない。まず、旧内務省の場合である。戦後になって、旧内務省の官僚は大霞会という団体を組織する。彼らが編纂した大霞会編『内務省史』(原書房、1980年)は、全体で4000ページにも及ぶ浩瀚(コウカン)な書物である。しかし、阿片に関しては、たった2ページ、それも法律の制定について記しているだけである。これでは、内務省が担当していた阿片政策は、その片鱗さえもわからない。
 厚生省も何回か自分たちの歴史をまとめている(厚生省20年史編集委員会編『厚生省20年史』1960年。厚生省五〇年史編集委員会編『厚生省五〇年史』1988年)。しかし、これらの書物もまた、阿片政策のことをまともに扱ってはいない。
 このように、阿片に関する事項は、「とにかく隠す、表に出さない」という戦前の方針が、戦後にまで、そのまま、続いている。だから、日本の阿片政策の中でも、基幹部分を占めていた内務省や厚生省の資料は、今日に至っても、全く公表されていない。今後、こういった資料の公開を求めてゆく運動が必要である。

 ・・・(以下略) 

--------------
日本の麻薬取扱業者とモルヒネ蔓延の状況-------------

 日本は、15年戦争の時期に国策として中国で大量の阿片を販売した。その目的は2つである。一つは、もちろん戦争に必要な財源の確保であり、植民地政策の財源確保であった。日本の阿片政策は、阿片の専売制を伴っていたので、阿片の販売によって、容易に財源確保ができたのである。さらに、軍部は阿片の専売事業を請け負った民間業者から莫大な裏金を受け取っていたといわれている。清朝末期よりかなり効果をあげていた中国の禁煙政策の前にたちはだかり、大量に阿片を売りまくることによって資金を得た日本は、麻薬政策の面でも、中国の敵であったといえる。
 中国における阿片販売のもう一つの目的については、「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)では、直接的には論じられていないが、中国で麻薬中毒者を増やして、中国の抗戦力を麻痺させるという目的があったという。下記は、そうした阿片政策の実態が読み取れる部分を、同書から抜粋したものである。
----------------------------------------------------
                               第4章 モルヒネ問題

恥知らずな禁制薬取扱業者

 次の史料は、中国で禁製品、即ち、麻薬の密売に従事していた日本人のことを述べている。彼らは、他国の者もやっているというのを口実に、中国人の被る甚大な害毒に目をつむり、禁制品の麻薬を密売し、不正な利益をあげていた。自分だけが儲かりさえすれば、あとはどうなってもよいという、情けない日本人の姿がそこにある。彼らこそ、エコノミック・アニマルと呼ばれる現代の日本人の源流である。このように、恥知らずな日本人のモルヒネ密売人が、当時、中国に多く集まっていた。


 「青島(チンタオ)から済南(サイナン)に行く列車中の出来事である。禁制薬取扱いによって巨富をなしたという評判のある某が昂然として語るを聞けば、
 『一体全体、領事館あたりでは日本人の人口増加をどう見て居るのであろう。海外に出て働いて居る吾々は一粒の米と雖も母国の厄介になって居ないのである。いわば海外発展の魁(サキガケ)である。それに領事館の禁制品取扱者に対する取締の徹底ぶりはどうであらう。
 支那の役人の取締もこんなに苛酷ではない。見あたり次第、容赦なく退去処分で内地に送還して終う。生計を奪われた彼等が内地に帰って、やがて凡ゆる方面に流す害毒を考へて見るがよい。彼等が取扱わなくても、欧米人は口に人道を唱えながら、大規模に取扱って居るではないか。支那の国民を毒するのは結局、同じことである』
 亜片モルヒネ取扱に関する某の話は縷々として尽きないが、此の短い言葉の内に『自分さへよければ、人はどうでもよい。人もするのだ。自分もしなければ損だ』といふ現代世相の現れを、痛感せずには居られなかった。」(菊地酉治「支那に対する阿片の害毒防止運動」論文に対する「編輯子」による前書き、『同仁』、2巻5号、1928年5月、7頁)



一連のトラブル

 醜い日本人が大挙して中国に渡り、恥知らずにも人道に背いたモルヒネの密売に従事したのであるから、当然、中国側の怒りを買い、其の結果、トラブルが頻発した。一連のトラブル(おそらく、それは氷山の一角に過ぎないであろうが!)を、前述の菊地酉治は次のように紹介している。

 「十数年前には北清方面に於て、有名な日本人モヒ密売店乱入事件を起し、又、 満州及び天津、済南等は巨額の毒物を輸入してゐる事実、昨年の済南事件に於て虐殺せられたる者は殆どモヒ丸(モヒガン)密造者であった。
 又、山西省石家荘事件、保定府密売日本人銃殺事件、一昨冬、大連に於る液 体モヒ事件、或は熱河、ハルピン、大連等のモヒ製造工場事件、某製薬会社の山東省阿片専売事件等は、悉く国際的に知られて居る顕著なる事実である。其 他、薬業者のみにても、数知れぬ密輸事件を惹起して常に暗い影を投げている」 (菊地酉治「支那阿片問題の一考察」『支那』20巻12号、1929年12月、61頁)


 ・・・
 ここで、菊地酉治は、およそ10件にのぼる事件の、ほとんどその名前をあげて いるだけであって、残念ながら、これらの事件の詳しい内容にまで立ち入って紹 介してはいない。…。
 なお、菊池酉治のあげている事件の中で、興味があるのは、済南事件(1928 年)に関する一節である。軍人として、たまたま、同事件に際会した佐々木到一も 次 のように同趣旨のことを述べているからである。すなわち


 「それを聞かずして居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老荘男女16人が惨死体となってあらわれたのである。(中略)
我が軍の激昂はその極に達した。これでは、もはや、容赦はいらないのである。もっとも、右の遭難者は、わが方から言えば、引揚げの勧告を無視して現場に止まったものであって、その多くが、モヒ、ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたもの、と思われる節が多かったのである。」佐々木到一『ある軍人の自伝』、1963年、普通社、181頁)


 2つの史料は、済南事件で「虐殺せられたる者は殆どモヒ丸密造者」であったことを一致して指摘している。おそらく、当時においては、このことは、世間にかなり広く知られていたのではなかろうか。


モルヒネの蔓延の状況

 以上のような経緯から、モルヒネが中国社会に急速に蔓延してゆく。その状況の一端を、満州の場合を例として、少し見てゆく。すなわち、すでに1909年の段階で、モルヒネは相当、広範に広がっていた。例えば、営口(エイコウ)の近郊の牛家屯(ギュウカトン)一帯で、モルヒネ中毒者を20余名、捕まえている(『盛京時報』1909年9月22日)。
 また、西豊(セイホウ)県はとりわけモルヒネの害が多かった所のようであるが、城内だけで、モルヒネを扱う店が20軒あった。一軒で、毎日、3元から7、8元のモルヒネを売ったから、全体ではおよそ120元にもなった(『盛京時報』1915年3月29日)。
 モルヒネ中毒者は、モルヒネを入手するために、例外なく、財産を使い果たし、乞食同然の哀れな境遇に陥る。そして、中毒がひどくなれば、まず、必ず死んだ。彼らには、住む家もなく、路傍で暮らしていたから、多くの場合、気の毒なことに、行き倒れの形で息たえた。さらに満州のように、冬期の寒気が厳しい所では、往々にして、彼らは凍死した。例えば、1915年の満州でいえば、営口では5日間に200余名が凍死する。みなモルヒネ中毒者であって、あまりに死者が多っかったので、慈善堂が用意しておいた棺が不足してしまう。
 また、奉天(ホウテン)ではモルヒネ中毒者が多く行き倒れる。彼らを埋葬する棺が毎日、7、8から十数個にのぼった(『盛京時報』1915年1月23日、及び同年4月24日)。
 ある史料は、彼らが寒気のために凍死したのではなく、実はモルヒネで死んだと述べているが(『盛京時報』1915年2月3日)その通りであった。阿片では、まず死なないのに、モルヒネでは必ず死ぬ。───これが、後者の恐ろしい所であった。


 モルヒネ中毒者の数

 恨みを呑んで死んでいったモルヒネ中毒者は、中国全体では、おびただしい数にのぼるであろう。しかし、残念ながら、モルヒネ中毒による死者の全国的な統計は存在しない。菊地酉治は、次のように、モルヒネ中毒者の数を阿片中毒者の約半数と見ている。

 「例えば阿片癮者千万人ありとすれば、半数500万人がモルヒネ中毒者であります。」(前掲、菊地酉治等『阿片問題の研究』、22頁)


 ただ、両者の割合は地域によって相当の差があったようで、満州国の場合、1938年現在で、阿片中毒者645,007人に対し、モルヒネ中毒者は28,164人という数字を発表している。しかし、モルヒネ中毒者は比較的短期日で死んでゆくので、ある一時点をとって両者の数を比較しても、あまり意味がないかもしれない。両者の割合を知るための、一応の目やすとして、この数字を紹介しておく。
 以上のように、モルヒネが蔓延していった結果、20世紀の中国の阿片問題は、同時にモルヒネ問題でもあったということを、ここで強調しておきたい。


---------------
朝鮮における巧妙な阿片・モルヒネ政策---------------

 「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)によると、東京帝国大学法学部を卒業し、戦後韓国の有力な政治家となった金俊淵(シュンエン)という人物が「朝鮮モルヒネ問題」(1921年6月)で、阿片の利用は厳重に取り締まっておきながら、それより禁断症状がすさまじいモルヒネの注射を事実上野放しにしている日本の政策の矛盾を告発していた。偶然、金俊淵の「朝鮮モルヒネ問題」という史料を発見したという著者は、その告発を糸口にして、朝鮮における日本の巧妙な植民地支配のからくりを解明している。そして、戦前・戦中の日本の阿片政策について、日本国民の歴史認識は空白になっていると、訴えている。その結論部分を抜粋する。
----------------------------------------------------
                             第6章 朝鮮モルヒネ問題

法律上、モルヒネの摂取は野放し

 前章で、朝鮮人に伝統的な阿片吸煙の習慣がないことから、日本側が、朝鮮半島で大規模にケシを栽培し、朝鮮を原料阿片の生産地にしたことを述べた。ところが、日本側は、これだけでは満足しなかった。朝鮮の人々を利用し、彼らからもっともっと多額の利益を吸い出そうとする。それが、朝鮮人の間にモルヒネを広範にばらまき、彼らの多くをモルヒネ中毒者にしたてあげることであった。
 偶然、金俊淵(シュンエン)の「朝鮮モルヒネ問題」という史料を発見したことから、私はようやく、このことに気づかされたのである。この史料は古い文章なので、やや読みにくいかもしれない。しかし、それは極めて重要なことを指摘しているので、煩を厭わず、敢えて少し長く引用する。



金俊淵「朝鮮モルヒネ問題」

 朝鮮には今、モルヒネ中毒者が非常に多い。或る医者の確信する所に依れば、京畿道以南丈でも其の数1万を超ゆべし、との事である。モルヒネは阿片から精製したものであって之を注射するのである。其の作用は阿片烟吸食と少しも違いはない。要するに、今、朝鮮にモルヒネ中毒者が1万人以上もいると云ふことは阿片烟常習吸食者が1万人以上もゐると云うことである。


 支那は阿片烟の為めに最も苦しんでゐる国であることは誰しも知る所である。支那は其の為に阿片戦争をやった。乍併(シカシナガラ)、今に至るまで此の阿片烟の病苦より支那を救ふことができない。阿片烟は支那民族の向上発展に対する一大障碍をなすものである。其の病毒が今や黒い手を延べて朝鮮を攫(ツカ)んでいる。
(中略)
 故に差し当たり問題になるのは法律上よりの矯正である。
 朝鮮刑事令に依って朝鮮にも日本の刑法が行われることになってゐる。然るに刑法中の阿片烟に関する罪を見ると、実に峻厳を極めてゐる。即ち、阿片烟を輸入、製造、又は販売し、若しくは販売の目的を以て之を所持したる者は6月以上7年以下の懲役に処し、阿片烟を吸食したる者は3年以下の懲役に処すとし、其他、詳細なる規定を置き、此等の未遂罪をも罰することになっている。
 そして、又、大正3年9月21日の朝鮮総督府訓令第51号は、云々の者ある時は刑法の正条に照し、毫も仮借することなく、これを検挙して其の罪を断ずべきを明言している。
 乍併(シカシナガラ)、モルヒネ注射に関しては全く阿片烟吸食と同等の弊害を認めてゐるにも拘はらず、何等(ナンラ)特別の立法手段を執らなかったのである。即ち、大正3年10月、朝鮮総督府警務総監部訓令第49号には

 『……客月21日朝鮮総督府訓令第51号ニ依リ阿片吸食ハ自今、絶対的禁遏(キンアツ)ノ措置ヲ執ルベキコトト相成候ニ付テハ、一層、周密ノ注意ヲ払ヒ、以テ阿片烟吸食ノ弊風ヲ絶滅セザルベカラズ。
 然ルニ、「モルヒネ」、「コカイン」ノ注射ハ阿片烟吸食ニ代ハルベキ方法ニシテ、其ノ害毒ヲ人身ニ及ボスコト、阿片烟吸食ト敢テ軒輊(ケンチ)アルナシ。而シテ、従来、密ニ其ノ注射ヲ行フ者、少カラザルヲ以テ、阿片烟吸食、禁遏(キンアツ)ノ結果ハ自然、該注射ニ転ズルノ虞(オソレ)ナシトセズ云々』

 と云って、モルヒネ注射の弊害及其の軈(ヤガ)て朝鮮の社会を来り襲ふべきを明瞭に看取してゐるのである。
 そして、其の取締法としては、僅かに薬品及薬品営業取締令第7条の励行を示してゐる丈である。それに依ると、猥りにモルヒネを販売授与したる者には3月以下の禁錮、又は5百円以下の罰金の制裁がある丈である。
 そして、モルヒネを注射した者はどうかと云ふに、朝鮮の法令には之を罰する規定を存してゐないのである。
 強いて求めば、警察犯処罰規則第1条32号の運用にでも待つべきか? 即ち、警察官署に於て、特に指示、若くは命令したる事項に違反したる者は拘留、又は科料に処すべきことになってゐるのである。
 以上の事実に依って、同一の社会悪に対しての法律上の制裁に餘りの懸隔あることを認め得ることと思ふ。即ち、阿片烟を猥りに販売授与したる者は6月以上7年以下の懲役、モルヒネを猥りに販売授与したる者は3月以下の禁錮、又は5百円以下の罰金、阿片烟を吸食したる者は3年以下の懲役、モルヒネを注射したる者は無罰と云ふ事実を見るのである。

 
 そして、モルヒネ中毒者は現に1万人以上もゐるのである。そして、モルヒネ注射は阿片烟吸食に比して非常に簡便なのである。
  『ローマ法に依ってローマ法の上に』、『現代に依て現代の上に』と云ふ言葉を以て、朝鮮の当局者に逼るのは、或いは無理であろう。併(シカ)し乍(ナガ)ら、少くとも今、現に切迫してゐる此のモルヒネ問題に対して、積極的立法手段に出ることを要求するは、何人も不当とは考へまい。朝鮮の当局者は、マサカ、其の取締を寛大にして仁政を誇らんとするのではあるまい。」(法学士、金俊淵「朝鮮モルヒネ問題」、『中央法律新報』1巻9号、1921年[大正10年]6月、7~8頁)



巧妙な仕組み

 要するに日本側は、朝鮮における阿片・モルヒネ政策において、2回にわたって、朝鮮人を利用する。すなわち、第1回はケシ栽培=原料阿片の生産者として、第2回はモルヒネの消費者としてである。
 この仕組みは極めて巧妙である。1回目は阿片、2回目はモルヒネと分けてあることが、ミソである。これが2回とも、同じ阿片を使っていたのでは、これほど、うまくゆかなかったであろう。というのは、朝鮮の人々に阿片を生産させ、かつ、彼らを阿片の消費者にしたてあげたのでは、前述の「猫と鰹節」のたとえで説明したように、生産者が生産した阿片を消費者に非合法に売るのを阻止するのに、多大な経費と人員が必要となり、採算が合わなくなる恐れがあったからである。その点、生産=阿片と、消費=モルヒネと分けたことで、そういった恐れはなくなる。阿片の密売を厳禁することで、モルヒネ中毒者が非合法に阿片を入手することを巧妙に防いでいるからである


 日本の植民地当局は朝鮮の農民には強制的にケシを栽培させる。彼らが生産した原料阿片がモルヒネに加工されることで、同じ朝鮮民族の同胞の生命と財産を奪うのに使われる。こうしたシステムを作りあげることで、日本側は、日本国内の資源を何も使うことなく、朝鮮から莫大な利益を得ることができた。なんと、巧妙な政策ではないか!
 以上の考察で、金俊淵が告発していた、法律上、朝鮮でモルヒネが野放しにされていた理由が解明できたのではなかろうか。


--------------
海南島でアヘン生産-日本の密かな国策-------------

 15年戦争の時期、日本は国策として中国を中心に大量のアヘンを販売し、それによって得られた莫大な資金を、謀略工作や軍の財源にしたといわれている。しかし、アヘンは当時すでに国際条約によって禁止されていた。そのため、アヘン政策に関わる日本の関係機関の内部文書や資料はほとんどないという。ところが、「証言 日中アヘン戦争」の編者(江口圭一)は、蒙疆(モウキョウ)政権の経済部次長をしていた人物の旧蔵書中に日本のアヘン政策に関わる内部文書を発見し、それらをもとに『日中アヘン戦争』を著した。そして、それがきっかけとなり、当時、実際にアヘン政策に関わった人物の証言を得ることができたのである。下記は「証言 日中アヘン戦争」江口圭一(編)及川勝三/丹羽郁也(岩波ブックレットNO.215)の中の会話の一部である。
 証言者(及川勝三)に、当時の内閣総理大臣を上回る月給1000円を約 束した里見甫(里見機関)のアヘン資金は、ノンフィクション作家「佐野眞一」氏によると、甘粕正彦を通じて東条に流れていたとのことである。
---------------------------------------------------
                              海南島でアヘンを生産する

江口 ふたたび及川さんのお話を聞かせてもらいます。
 今、丹羽さんのお話にありましたようなイランから密輸されてきたアヘンを上海で受け取って、その処分にあたっていたのは里見甫という人物です。里見は東亜同文書院の出身で、中国で新聞記者生活を送り、満州事変が起こると、関東軍の宣伝工作を担当し、その後天津で新聞を創刊しました。
 なお、及川さんといっしょに蒙彊で清査制度の立案にあたった森春雄も東亜同文書院出ですが、東亜同文書院というのは、近衛文麿の父親の篤麿が1901(明治34)年に上海に開設した学校で、日中の「同文同種」と「支那保全」をスローガンに、中国大陸で活躍する人材を育てるのを目的としていました。実は、私の勤めている愛知大学は、敗戦で引き揚げてきた東亜同文書院の教授・学生らが中心となって創立した大学なんですよ。


及川 ほおー、これは驚きました。愛知大学は東亜同文書院の後身なんですか。

江口 はあ、そうなんです。それで現在も中国との学術交流を熱心にやり、語学研修に学生を派遣したりしています。ところで里見は、日中戦争が起こりますと、1938(昭和13)年初めから中支那派遣軍特務部の指示を受けて、上海でイラン産アヘンの輸入と販売にあたるようになります。また里見は、日本が華中の傀儡政権として南京に作った中華民国維新政府のアヘン分配機関──39年6月に組織された
宏済善堂の副董事長(フクトウジチョウ)に任命されます。董事長は欠員でしたから、里見が事実上の理事長でした。及川さん、この里見機関から声がかかったんですか。

及川 先ほど申しましたように、蒙疆政権のアヘン政策が私の考えにあわなくなったんで、1940年6月張家口を離れて、北京に来ておったんです。そしたら41年3月に、以前満州国時代の旧知で里見機関に移ってきていた幸田武夫から、ぜひ上海にきてほしいという電報が来た。
 どんな用件かわからんまま上海に行って、里見機関を訪ねたんです。ガーデンブリッジのブロードウェイマンションの12階だったか、13階だったか、2部屋使ってましたな。里見甫ともはじめて会いまして、それで話というのは、日本は39年2月に海南島を「浮沈空母」として占領したんだが、治安が悪く、治安維持のために金(カネ)がいる、しかしにほんから金が来ないので、ひとつアヘンを生産して金を作ろうと考えた、現地で陸海外の三省会議が開かれ、その指令で福田万作を代表とする福田組が海南島に乗り込み、ケシ栽培にかかったが、完全に失敗してしまい、引き揚げてしまった、福田組には、アヘンの専門家は1人もいなかった、やはりこれはアヘン生産の経験者を呼んでこなくっちゃいかんというわけで、あんたに白羽の矢をたてた、ぜひ行ってくれんか、というんです。
 私は蒙疆にはもう嫌気がさしてたんで、条件次第ならと、ちょっと色気をみせたら、
里見が、蒙疆政権では月給はいくらもらってたと聞くんで、480円だといったら、里見はじゃ1000円でどうだ、ただし全部渡すと酒飲んだりして使ってしまうから、半分は奥さんのほうへ渡すというんです。

江口 たまげましたねえ、これは。1940年の内閣総理大臣の月俸が800円、国務大臣が567円、東京都知事が445円なんですから。蒙疆の月給がすでに都知事以上なんで、1000円というのはすごいですねえ。

及川 それで話が決まって、蒙疆から里見機関へ移ったんです。福田組が撤退したあと、41年2月に海南島の陸海外三省会議の指令で、あらたに厚生公司(コンス)というのがつくられていまして、海南島の海口(カイコウ)の新華路(シンカロ)にあった。それの東京事務所は芝区新桜田町におかれてました。そして、陸軍をケンカして中佐でやめた高畠義彦という人が厚生公司の責任者でした。
 私はまず広東(広州)へ行って、広東のアヘンの大ボスの陳旺欉(チンオウソウ)という中国人に会いまして、海南島のアヘン事情についていろいろ聞いて、海南島でのケシ栽培について率直な意見を求めました。国民政府の時代に海南島でケシ栽培を試みたものがいろいろいたが、ことごとく失敗したとのことで、これは並大抵ではいかんということがわかり、今後の援助を頼んで、4月21日に海南島に渡ったんです。そしたら、すぐに東京へ出てこいという電報が来たんで、4月29日に海軍の軍用機に便乗させてもらって上京したんです。
  歌舞伎座の裏の東京事務所で高畠さんに会ったんですが、アヘンをどうしても作ってくれ、一切まかせる。
資金は25万円出す、それ以上は出せん、という直截簡明な話でした。それから海軍省へ連れいかれまして、これが今度の農場責任者だといって紹介されたりしました。それで8月に海南島へふたたび渉りました。
 ・・・(以下略)

 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 

記事一覧表へリンク 


inserted by FC2 system