-NO261~270
---------霧社事件後 密かに「保護蕃(投降してきた蜂起蕃)」を処刑---------

  霧社事件が、日本の台湾統治政策(特に山地原住民に対する理蕃政策)によって、あらゆる権限を与えられた現地駐在所の巡査の多くが、山地原住民の生活を無視し、人間扱いすることなく、様々な命令を発したために引き起こされたことは、山地原住民の訴えはもちろん、当時拓務省が派遣した生駒管理局長による調査報告書(政府極秘文書)によっても明らかである。にもかかわらず、理蕃警察と台湾軍は何ら法的手続きを経ることなく討伐隊を組織し、圧倒的な武力(毒ガスも使用)を用いて「敵蕃(蜂起した山地原住民)」の皆殺し討伐を敢行するとともに、敵蕃の首に賞金をかけて「味方蕃(蜂起しなかった山地原住民)」を利用し討伐に協力させた。
 さらに、味方蕃を嗾けて第二霧社事件を引き起こし、「敵蕃」幼老男女216人の命を奪ったことは、小島源治巡査の告白により明らかである。
 また、「ハヤクコウサンスルモノハコロサナイ」などと投降を呼びかけておきながら、投降してきた敵蕃壮丁を、密かに処刑した事実も明らかにされている。これらは、山地原住民の側からみれば、まさに悪魔の如き所業である。
 明治31年在台の官民有志が「蕃人」に関する研究のために「蕃情研究会」を設けたが、同組織を主催した持地氏は「生蕃は社会学上から見ると人間なれども国際法から見れば動物の如きなり」と語ったと言う。そうした歪んだ日本人の考え方によって、台湾の山地原住民が繰り返し残酷な仕打ちを受けたことを忘れてはならないと思う。 
 「回生録」の一部は訳者の解説・修正文にしたが、その他は「霧社緋桜の狂い咲き-虐殺事件生き残りの証言」ピホワリス(高 永清)著-加藤 実編訳(教文館)からそのまま抜粋した。(密かに処刑された山地原住民の人数が(30)と下段の「回生録」で異なっている理由不明)
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(30)日本官憲の仇憤感尚止まず
日本官憲は暗にタウツア社の者を扇動して 多数の 第二ム社事件を起こして 多数の無辜の人々を殺傷したにも不拘 尚 仇憤心止まず知らぬ振りをして昭和五年10月27日の兇行嫌疑者を調したパーラン社のローバオクルフが石川源六巡査部長に提供した密告 樺沢警部補の甘いい(ママ)誘導等に依って 次々と犯罪人の名簿が出来た 昭和6年10月15日 帰順式をやると詐って 川中島の成年男女みんな埔里まで連れて行き 婦女は2台のバスに乗せて埔里の街中をアチコチ走らせて観光と言った
成年男子は警察課の集会場に入れて坐はらせた 警戒の網が周囲にはられた すなわち着剣に実弾を入れ込んだ巡査が周囲をげん重に囲んだ 脱走を未然に防止するためであったと思ふ


先ず三輪警務部長が一場の訓示があった 彼曰く 「お前達は敵だった(反乱人)が 今日帰順式を行ふ 今日からは 又善良な大日本帝国国民となれる 只今名前を呼ぶから呼ばれた人は立て」と指示した 私達は静聴して坐ってゐた
次々と32人(如後頁)が呼ばれた 一人呼ぶ毎に2人の巡査が両側に依って腕をつかまへて留置場(拘留所)に入れた 同じ日同じ時間 にパーラン社でも家長会と青年会を併せて開会すると云ってパーラン社 カッツク社 タナカン社の成年男子をム社分室前の集会場に呼んだ ところが何もない分室主任高井九平の一場の訓示があった後 之又次々と名前を呼んで 16人留置場に入れた(後頁列名)


埔里でもム社でも入れられた人々の衣服は直ぐ脱いで 在場の代表人に渡して持たして帰へした 官吏曰く「留置された者はまだ少し用件がある 用件終り次第すぐ環へす」と 併し二度と此の世の人となって来なかった。只ピホサッポ一人だけ 埔里の死刑場からすきを見て丸はだかで故郷まで逃げて帰へったが 逮捕すべく官憲は待ってゐたし 又部落民にも捕まえて出すことを厳命してゐたので、家まで帰へることが出来ず 山の中で1ヶ月くらい生活した後 糧食拾いのためロルツオケダンと云ふ水田で糧食を探してゐるのを万大の人に見付けられて 逃げようとしたところを銃殺された
 
尚同じ日に(10月15日)万大のサッポカハをも逮捕の名簿に入れてゐたのを 万大駐在所勤務の日本人友人(サッポカハは万大駐在所勤務の台中州警手であった)から山へ行くことをすすめられて 不在にしてゐたために逮捕することが出来ず 後日逮捕する予定のところ彼サッポは其のまま事情を知って 永久に山から出て来なかった 官憲の指令に依って 捕へて役所(ム社分室)に差出すやうに探したところが万大蕃は既に川中島の帰順式 パーラン社 カッツク社 タカナン社の家長会 青年会のニュースを聞いていたので 反対に山へ行ってサッポカハの糧食をだまって提供して行った数ヶ月后 いよいよ見込みがないと知った彼サッポカハの親戚は 山の中の自殺をススメた サッポは 19年式修正村田銃の引金に足指をかけて引弾自殺をとげた
万大蕃人は自殺死体の発見を政府に報告して 事の成行きを約束した
 

(31)サッポカハ其の人
サッポカハは昭和5年10月27日 政府(駐在所)の傭(ママ)人であり乍ら 真先に運動場に来て歓迎門の下で州嘱託菅野政衛の首を切て頭を地上に落とした人であり 帰へて知らぬふりでまじめに勤務してゐた 其の中に 同僚日人の中に友誼に深い人に出会って 昭和6年10月15日に逮捕されることを1日前に知らされたので 15日山へ待避して不在をした。友情に深い同僚日人も知らぬふりをして 上官に不在と報告したと云ふ


(32)逮捕された人々は何故一人も帰へって来ないム社で逮捕した16人は 夜になって闇の中に埔里の警察課留置場に押送された法律裁判もないで殺害された 食べさせる御飯を倹約したのか 或は仇の意味で殺したのか はっきりしない 後で私は乙種巡査1年をやったその机(機)会に 川中島駐在所の須知簿と云ふ最高机(機)密の帳簿を見ることが出来て 私は何げなしに読んで見た そうしたら中の記載は 川中島の歴史とか頭目 勢力者 不良青壮年等人の人となりや色々と重要なことが書いてあった
中でも 埔里で逮捕された32人のことも書いてあった 皆 同じくない日に腸炎とかマラリア 肺炎で何時獄死したと書いてあったが  事実はそうではない 埔里の梅仔脚と言ふ処に 日本人の共同墓地があった 其の付近に水田を持ってゐた平地人のお話に聞くと 約1週間通行止めの命令があった と


異常なことだから 夜になると黙って其の付近をうろついて歩いた 其の時 墓地の中で オ母さんと叫ぶ異様な泣き声もきこえた 棒で人が人を打ってゐる音もきこえたから 其のまましずかに戻ったと云ふ 
それは日本人が 10月27日兇行の疑いがあると云ふ恨みで 日本刀で音が出ないように屠殺行動に付せられたものであると考へられるそれをうち(ママ)付ける本当の証拠が次の様であった。
須知簿の記載は皆儘造(思いの儘の捏造)であり騙しにしかすぎない


(32)尊敬する井上伊之助公医
当時眉原に井上伊之助と云ふ公医が居た 少坡趾(ビッコ)の人であったとおぼいてゐる 恐らく子供の時小児麻痺に患ったのかも知らない
 後にマレッパやアチコチのヘンピな処に勤務して 困ってゐる病人を助けた 私の妻オビンタダオがタッキスナウイの遺児アウイダッキスを産む時も 井上伊之助公医が眉原から川中島へ急ぎ足で来て 接生助産(取り上げ)をして下さったと云ふてゐる 私はまだタウツアの小島源治宅に寄食してゐたから分からない


 或る日 私は台湾の図書館で書籍をあさって読んでゐたら 突然 井上伊之助の故事(お話)が出てゐた 私は詳しく読んだ 只今 脳溢血のために頭も悪くなり おぼへも悪くなったので おぼへてゐない 記事に依れば 井上伊之助公医の父は 昔に巡査(ママ)として台湾の蕃人討伐に従事してゐるうちに 蕃人から殺されたと 彼は子供でお母さんと日本に置かれてゐた 此のニュースを耳にした彼は 台湾に人を殺すような野蕃な行為をする人がゐるとは びっくりした。

 是非共は 是正しないといかないと思って 自らキリスト教の信者になって台湾に渡り 伝道の力で野蛮人を開明にみちびきたいと思った ところが官憲は 神教(神道)以外の伝道を許可しなかった 思案に困った彼は 医術を習得して病気をなほす一方 うらで伝道したいと考へた 自ら山の中を撰んだが 矢張り官憲は許さない 仕方なく まじめに病気をなほす意味で山に勤務した 私が川中島に移住し時や 10月15日は まだ眉原に務めてゐた
 15日以后 何日かしてから 彼は警察課に出頭を課長から電話で会議に呼び出された 参加の結果は 皆警察のお偉いお方ばかりであった 会議を主催してゐる偉い人が 井上公医に向かって口を開いた「留置してゐる蕃人30余人を殺したいが 手前に人の薬はないか」と 彼はビックリして返事した「私は人を助ける為に台湾に来たのだ 殺す為に来たのではない」と言って 即坐に退席したと その功労と良心が戦後数年になってから やうやく追認されて 老死后勲五等を追賞されたと書いてあった 
之から追察すると 毒殺の計画は成功しないで 日本刀の首切りで殺したものと思ふ 何ちらが野蕃か私には判らない 大東亜戦争で川中島の青年も多数徴用されて 南方綫(線)で戦死した 人的資源に困った時 自分の考へることだけで自由に自分のよいようにしてゐる日本人 今尚 戦争に川中島の青年を徴用した 全く先知後(覚)に欠けてゐる(先見の明もなければ後で悔いて覚ることもできない)と見てよい 

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回生録  第壱冊・第二冊

◎抗日戦争は如何様の状況で進行し、何の様に結束したか?

5 日憲
(日本官憲の略?)は復仇に対して止まるところをしらない、第二次事件(第二霧社事件)製造して又吾々同胞216人
  の貴い生命を奪った、川中島(清流)へ移住させて後内密的に10月27日に日人(日本人)を殺害した人々を調べ上げて
  翌6年(民国20年)10月15日帰順式を理由に吾々を川中島より埔里へ連れて行き一場の訓示を終へて又次の人々を逮
  捕して永遠に帰へさなかっ
  た。


 ・・・(32人の社別 姓名 性別 推定年齢 備註は省略)

  霧社に於ては同日を利用してパーラン社頭目ワリスブニに対して家長会及青年会を召開すべく属下の壮丁を全部霧社分
  室に帯同すべく厳命を下した。ワリスブニは何の疑いもなく命に従ってパーラン社(トンタナ チェッカー フーナツ)タナカン
  社、カアツック社壮丁を午前9時霧社分室に連れて行った、計らずも此の事は日警(日本警察?)の陥阱でった。会議当
  場以上の18名は逐一検呼の下に逮捕された、後日18名は埔里に送られて処刑されたと漢民族の口述より社会に流布さ
  れた、処刑の場所は現在の電台中継所(梅仔脚共同墓地)と専らの噂である。
  日警方面に於ては、判刑の上拘留所で病死したと言ってゐるが当時拘留所犯粮食供給人の話に依ると、まさに虚構の詭
  弁である。


 ・・・(同様に18人の社別 姓名 性別 推定年齢 備註は省略)

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霧社敵蕃討伐、「科学的攻撃法を顧慮せられたし!」-----------

1、霧社事件で毒ガス弾が使われたという確証を求めて、様々な文書に当たり、現地に入って被害関係者に取材し、毒ガス弾
  の製造に当たったという工員をつぶさに訪ねて歩き、台湾飛行第八連隊第一中隊に配属されて霧社事件の鎮圧に出動し
  たという軍関係者にまで話しを聞いて書かれた本がある。それは「悪夢の遺産 毒ガス戦の果てに ヒロシマ~台湾~中
  国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)
である。読み終えたとき”「敵」も「味方」も傷つけて”という言葉に深く同感せ
  ざるを得なかった。まさにその通りであると思う。その中から、台湾軍司令官と陸軍大臣(副官)のやりとりの部分を抜粋す
  る。
2、また、「現代史資料(22)台湾2」編者山辺健太郎(みすす書房)から「台湾秘話 霧社の反乱・民衆側の証言」林えいだい
  (新評論
)で取り上げられている”毒ガスを使用した「敵蕃(山地原住民)」討伐に関わる文書”を抜粋する。文書の中の敵
  兜(鉄兜)は防毒マスクのことであろうという。効果のなかった爆撃に関して「外部に対する発表は禁ずるものとす」などと
  いう文書や「敵蕃人」に取られた機関銃や小銃にかんする文書なども、当時の状況をよく物語るものとして、追加抜粋した。

3、さらに、下段は毒ガス使用を非難追求する台湾民衆党の動きに関する警務局の文書(「霧社蕃人騒擾事件経過」)の中の
  一部である。同じく「現代史資料22 台湾2」からの抜粋であるが、毒ガスの使用が、かなり広く話題になっていたことが分か
  る。

1「悪夢の遺産」から------------------------------------------
                          第一章 毒ガス戦の幕開け

 (1) 台湾・霧社事件

 「暗号ヲ以テセラレ度」


 ・・・
 そういって、彼は(春山明哲-国会図書館勤務)ガリ版刷りの紙を出した。
「これが研究会で発表したレジュメです。霧社事件の陣中日誌や憲兵隊の電文などから、毒ガス使用に関係した記述を抜き出したものがこちらです」
 そこには毒ガスをめぐる当時のやりとりが、A4用紙4,5枚にわたって、細かい字でびっしりと書き込まれていた。
 こうした記録から、催涙ガスと青酸ガスが使われたことまでは確認できるという。
「ただ致死性の糜爛ガスが使われたかどうかは不明なのです。ちょっとここの所を見てください」

  「申請
    反徒ノ退避地区ハ断崖ヲ有スル森林地帯ナルニ鑑ミ、
糜爛性投下弾及山砲弾ヲ使シ(ママ)度至急其交付ヲ希望ス」 
    <昭和5年11月3日陸軍大臣宛 台湾軍司令官発>(「霧社事件関係書類綴」)


 台湾軍司令官から東京の陸軍大臣へあてられたその電文の内容は、糜爛性投下弾、つまりマスタードガスを至急送れというものだった。
「この申請にたいする返事が、これなんですが、……」
春山さんの指先を目で追いながら、私はハッとした。


   「糜爛性弾薬ノ使用ハ対外的其他ノ関係上詮議セラレス将来瓦斯弾ニ関スル事項ハ暗号ヲ以テセラレ度
   (昭和5年11月5日台湾軍参謀長宛 副官発)(同前)


「つまり糜爛性ガスについては国際問題になるから、この先は暗号でやりとりしようといっているわけですね」
春山さんは大きくうなずいた。


「現代史資料(22)台湾2」から---------------------------------------
                           23 反乱の状態
 ・・・
 第175号 
  昭和5年11月2日午後2時20分受
                                                台中州知事
総督宛  
      軍隊よりの報告左の通御参考迄
一、戦闘に依る死傷者は悉くそれを運び去るを蕃人の風習とするを以て一日迄の托送及彼我射撃による敵の損害は詳細不明
   なるも目撃するもののみにても尠くも70~80名を下らざるが如し。
二、2日敵蕃に対し焼討を行ふ企図を有するも焼討攻撃爆撃等を以てしては地形上不徹底の虞れあるを以て 
エーテエテリツ
   ホスゲン等を以てする科学的攻撃法をも顧慮せられたし。

三、
敵兜(鉄兜)500、擲弾筒、甲手榴弾又は其の代用品800、照明弾至急送られたし、為し得れば歩兵約一大隊(鉄兜共)増
   員望む。
四、司令部主計の配慮を乞ふ


第482号
    11月18日午後6時25分受
                                                桂警部
総務局長宛
  川西部隊は「タウツア」及「トロック」蕃人を率ゐ18日午前9時10分霧社を出発、正午石井部隊に到着せり。午後3時軍隊
 の攻撃終りたる以て同部隊は隊を二に分ち一隊は巡査5、警手9,公医1、「タウツア」蕃159名を部隊長これを率ゐ、石田
 部隊の前方森林地帯内の偵察に向ひ、他の一隊は巡査部長1,巡査5、警手16、「トロック」蕃人136名を香坂巡査部長
 引率、「マヘボ社」安達大隊占領地を出発し敵蕃の岩窟付近に接近し、催涙弾の効果を確かむべく同方面に向へり。
                                                          以上


第486号(11月18日午後11時50分受)、
                                                台中州知事 
総督宛  
       軍隊の情報
一、飛行隊は午前8時飛行を開始し、マヘボ渓の敵蕃に対し低空冒険飛行を敢行し多数の爆弾をマヘボ渓敵の根拠地に対し
  投下せり。午後は緑弾(甲一弾)の射撃効力を減殺するを虞れ飛行を禁止せしむ。
二、砲兵隊は早朝よりマヘボ渓谷岩窟に対し榴弾を猛射し、渓谷為に濛々たり。正午より約1時間
緑弾(甲一弾)百発を渓谷
  に向ひ集中し、其の威力を渓谷内に充満せしめたるに、第4岩窟付近に泣声を聞きたるのみにて現在地より之を探知し得
  ざるを以て蕃人を使用し之を偵察せしむ。右偵察の為タウツア、トロック蕃約300名を午後2時頃マヘボ渓に進入せしめた
  るに、其の状況左の如し。

(1)其の蕃人は安達大隊占領地前方稜線より敵の根拠地たる岩窟(第4岩窟ならん)に近付きたるに、岩窟前にある敵の歩哨
  発砲と共に敵蕃数名(人員明瞭な  らず)設備せる掩堡に拠り交戦せり。
(2)両蕃中勇敢なる者更に近付きたるに、臭気甚しく且涙を催したるにより渓水を飲みたるに其の効力を失ひたるにより更に猛
  烈なるものに非ざれば効力無しといふ。如此敵は歩哨を配置し直ちに応戦するを以て、蕃人のみにては攻撃不可能なれば
  軍隊を更に前方に進められたしといふ。(軍隊を進めることは殊に引継当時なる関係上不可能にして、又山砲射撃に両岸に
  妨げられ命中せず、依て歩兵を使用することとせり、又旧松井大隊より接近不可能なるものの如し。)
三、午後2時頃緑弾射撃終了後、焼夷弾約10発を森林に向け射撃せるも全く其の効無きを以て、将来に於て之が使用を中止
  することとせり。
四、飛行隊は21日頃計画により撤退する如く命令せり。



第675号(11月26日午後6時40分受)
                                              台中州知事
総督宛
     軍隊の情報
  本日午前9時半より同11時迄の間に於てマヘボ渓左岸及元安達大隊占領地上方密林に対し飛行機より焼夷弾12発を投
 下せり。其の状況左の如し。
                       記
 投下と同時に白煙300程上り約30分発火し居るも延焼せず。効果大ならず。(
外部に対する発表は禁ずるものとす。


11月24日午前11時24分受
                                               坂口警視
警務局長宛
  軍隊に於ては撤退をひかへ曩に
敵蕃人に取られたる機関銃並に小銃の奪還に焦慮し、憲兵分隊長自ら最前線にて警察
 に対して内密に捕虜蕃人を操縦し居るも到底見込なき模様。



号外(昭和5年11月27日午後9時受)
                                               坂口警視
警務局長宛
  予て陸軍より依頼を受けたる機関銃発見に出て向へたる石田部隊の捕虜蕃丁4名蕃婦1名は27日午後4時該銃1挺を蕃
 称リヒンカヲタツセル(岩窟の淵)より拾得、石田部隊に帰来せり。



号外昭和5年11月27日午後10時20分受
                                               台中州知事
総督宛
               機関銃に関する件
  11月27日石田部隊所在地滞留し居る憲兵は捕虜蕃人アウイパワン、同ワビコワン、同タダオパワン、同タワンキグイ、同
 マヘンモーナ及憲兵隊通訳ワイスバタン、同パラハカコンの7名をして午前6時出発せしめ、蕃称リジンガオタツセル岩窟の
 淵にモーナの長男のタダオモーナが投入せる機関銃1台を拾得、午後4時石田部隊に着するや
人目を避けて憲兵隊の小屋
 に該銃を納めたり



11月28日午前1時40分受
                                               坂口警視
警務局長宛
  27日マヘボ岩窟の淵より捕虜蕃人の持帰りたる機関銃は11年式1418号なり



号外(11月30日午前9時受)
                                             霧社森田理蕃課長
警務局長殿
  軍隊に於て敵に奪われたる残一挺の機関銃捜査の為石田部隊にある憲兵3人は司令官の命令なりとて之が捜索、提供
 の
懸賞金的金数を捕虜蕃人に示し、或は蕃人蕃婦を集めて夜半迄飲酒する等今後警察に於ける捕虜の収容上支障なき
 やを保せず、注意を与え居れり。御参考迄。


3「現代史資料(22)台湾2」から---------------------------------------
                           霧社蕃人騒擾事件経過
                                                          警務局
5 原因に対する憶説、風評の
第2 左傾分子の策動
(ハ)台湾民衆党の策動
  台湾民衆党は、11月5日内閣総理大臣、拓務大臣、陸軍大臣宛左の如き無根の電報を発送せり(本電報は通信部に於
 て、公安に害あるものとして差し止め
 たりと)。
  「今回蕃人に対し
国際間に使用禁止せる毒瓦斯を以て攻撃せり、非人道の行為なり、    台湾民衆党」
 本件は一時新聞紙に誤報せられたるを根拠として軽率にも此の挙に出てたるものなり。


 ・・・

第3 流言蜚語

 (ハ)民衆党幹部蒋渭水の常備車夫林宝財は11月4日午前10時30分蒋渭水宅前掲示場に霧社事件に関する新聞記事を
    訳載したる掲示を見るべく蝟集したる群衆に対し
「飛行機より毒瓦斯を投下するは不都合なり、新聞紙に発表を禁ずるも
    己に我が中国人も知り諸外国人も知悉せり、何れ国際問題となるべし」
と無根の流言を放ち検束せらる。

 ・・・

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霧社事件 日本軍の毒ガス実戦使用開始--------------

第1次世界停戦でドイツ軍は大量の塩素ガスを使用した。およそ5000人の死者を出したという連合軍のイギリス・フランスは防毒マスクなどの装備を開発する一方で、同じように塩素ガスを毒ガス兵器として開発し使用した。それがエスカーレートし、2年あまり後にはドイツ軍が糜爛性猛毒ガスの「イペリット」を開発し使用した。1917年のことである。その1年あまり後には、イギリス・フランス両軍も防毒マスクでは防御困難なイペリットガスを開発し、実戦で使用している。その結果100万人をこえる死傷者を出したのである。第1次世界大戦終結後、これを教訓とし、化学兵器の使用を抑制しようと、1925年、戦争における毒ガスや生物兵器などの使用禁止を定めたジュネーブ議定書(正式名称「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」) が調印された。

 しかしながら、日本では1929年、瀬戸内海の大久野島で兵器製造所が建設され開所式が行われている。密かに戦時国際法違反の毒ガス製造が始まったのである。そして翌年、実験段階にあった毒ガスが台湾において実戦使用された。当時台湾はすでに日本の統治下にあったため、国際連盟に訴えがあったけれども「国内問題」として調査がなされることはなかったようである。「悪夢の遺産 毒ガス
戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)
からの抜粋である。
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               第1章 毒ガス戦の幕開け

(3)毒ガス戦の暗い闇

 毒ガス使用は実験

 Kさん
(霧社事件鎮圧に出動した台湾飛行第8連隊第1中隊整備班長)の話しを聞いてから、霧社を訪れてからずっと抱いてきた謎が解けたように思えた。それはタイヤル族との戦いで日本軍は圧倒的優位な立場にあったにもかかわらず、なぜ毒ガスを使ったのかという点である。ジャングル地帯でのゲリラ戦に不慣れだった日本軍は、地形的な問題で、化学的攻撃方法=毒ガスを使う必要があった。そのことは当時の記録でも裏付けられていた。
 だが、私は、それだけの理由ではないとも考えていた。霧社での毒ガス使用は実験ではなかったのか。タイヤル族をモルモット代わりにしたのではないか。取材を通じて、そうした疑惑がだんだん大きくなっていったのである。


 「毒ガスを使ったと知って驚きましたか」という問いかけに、「別に驚きませんよ。当然くらいに思っとりました」とKさん。当時、日本軍の化学兵器が実用段階にあったことは常識だった、とかれは語った。
「私が兵隊にいく前だから、昭和3年ですよね。その頃には瀬戸内海の大久野島で毒ガスを作っていることは、たいていの者が知っていましたよ。さっきもいいましたが、日本のスパイに対する警戒がどれくらい甘かったか、ということですね。昭和4年では、もう台湾の飛行8連隊の連隊被服庫のなかに、ガスマスクがありました。みんなで、これが毒ガスのマスクじゃいうて、被ってね、これからこう……(ガスマスクをかぶる動作)。ガスマスクがありましたよ」


 日本軍の毒ガス研究・開発の歴史を調べてみると、確かに1927(昭和2)年には、すでに87式防毒面が制式化(軍が正式に採用したことを意味する)されていた。また、その翌年の夏には、台湾北部の新竹で、糜爛性のイペリットを使った毒ガス演習も行われている。(厚生省引揚援護局資料室 『本邦化学兵器技術史年表』)

 霧社事件の鎮圧で、唐突に毒ガス兵器が登場したわけではなく、実戦で使う準備が整い、使用の機会を待ち構えていたとき、霧社事件が起こった。そんなふうに考えられるのである。
 当時の記録にもこうした見方を裏付ける意見が記されている。そのひとつが台湾総督府警務局がまとめた霧社事件についての報告書にある「某官吏」の言葉だ。


 「霧社事件に軍隊の出動を見たるが僻地なる蕃地のこととて気候等の変化あり、且つ給与等行き届かざる為め出動部隊に対しては誠に気の毒なり。然れ共軍隊に執りては平素新兵器を執り幾多の訓練を重ねられ演習のみにては実際の効を知ることは能はざりしも、今回は現実に其の効果を試練せらるることにて誠に生きたる好試練なり」(前掲書『現代史資料22台湾』666ページ)

 新兵器の訓練をいくら重ねても、演習では実際の効果を知ることはできないが、霧社では現実にその効果を試すことができ、生きた好試練だった、というわけである。
 同じ記録には、「元蕃務警視加来倉太」という人の、「軍隊は此の機会に於て新兵器の実際的試験為さんとするが主たる目的なるべし」(同前644ページ)という意見も収録されていた。

 実験であったとの視点から日本軍の記録を読み直せば、いろいろな事実が浮かび上がってくる。
 毒ガスとともに新兵器とされた焼夷弾について、「焼夷弾ハ霧社事件ノ為態々試作セラレタルモノニシテ、効果大ナルモノノ如ク候故、是非共使用セラレ度意見ニ候」(日誌。11月10日)という、参謀長からの前線への電報。その使用の指導と効果を調べるために、陸軍科学研究所の担当者が現地入りしたこと。また、毒ガス弾についても「瓦斯弾(青酸及催涙弾)ノ効果試験ヲ為ス予定ナリ」という電文もあった。私はそれまで糜爛性ガスの使用についてばかりに気を奪われ、これらの電文が何を意味するのかを、深く考えていなかった。

 霧社事件鎮圧の指導にあたった服部兵次郎台湾軍参謀陸軍歩兵大佐は、「各方面とも特殊の地形特殊の対手だけに珍しい研究や経験が出来た用(ママ)であります」と記していた。毒ガス弾や焼夷弾だけでなく、第1次ハーグ条約で禁止されていたダムダム弾も、試験的に使われた。(戴国煇『台湾霧社事件──研究と資料』553ペ-ジ)
 
 実験目的で使用されたなら、必ず、その効果についての報告書が存在するはずだ。
 私は春山さんにアドバイスを求めた。ところが意外な事実を知らされた。
 霧社事件の『陣中日誌』の内容には、「戦闘詳報」と「機密作戦日誌」という二つの記録の存在が明らかにされている。これらの史料には、毒ガス使用の実態や効果について詳しく記されている可能性が高い。にも関わらず、どんなに探しても発見できないというのだ。
 私の頭には台湾大学の許教授がいった「日本側の証拠」という言葉がチラついて離れなかった。ふたつの史料の行方がわからないことが不可解に思えたのだ。


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毒ガスの島-地図から消された島-大久野島-------------

1929年(昭和4年)5月19日、 広島県竹原市忠海町から沖合いおよそ3キロメートルの瀬戸内海に浮かぶ大久野島で「陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所」の開所式が行われた。極秘の毒ガス製造基地のスタートである。そして、大久野島での毒ガスの製造は、様々な悲劇を生んだ。それは兵器として使われたための悲劇に止まらなかった。

 毒ガスを作るための原料産出鉱山労働者などを「砒素中毒」にした。また原料の「亜砒酸」の輸送にあたった海運業者も、砒素中毒の症状に苦しんでいる。もちろん、大久野島で直接毒ガスの製造に当たった工員はもとより、大久野島で働いた人のほとんどが何らかのかたちで被毒し、生涯苦しむこととなったことはいうまでもない。また、大久野島で製造された毒ガスや化学兵器を荷造りしたり、発送したり、保管したりした旧広島陸軍兵器補給廠忠海分廠の関係者も被毒している。さらに、大久野島で製造された毒ガスを砲弾や爆弾に装填する作業をしていた北九州市の「東京第2陸軍造兵廠曽根製造所」の関係者も毒ガスに汚染され、同じように毒ガスのために慢性気管支炎などで生涯苦しむことになった。戦後毒ガスの廃棄にあたった帝人三原工場の従業員までもが被毒したという。作業中の様々な事故による死者も、関係各所で発生した。広島大学医学部第二内科研究室には被毒者の医療データが集められているという。「毒ガス島からの告発 隠されてきたヒロシマ」辰巳知司(日本評論社)によると、1991年度時点でその数は6589人である。また、慢性気管支炎とともに、被毒者を苦しめるもう一つの病に「がん」がある。被毒者の発がん率は異常に高いのである。

 中国では、毒ガスの遺棄弾による被害が跡を絶たず、今なお、多くの問題を抱えて、遺棄弾に悩まされ続けているのである。

 したがって毒ガス兵器の製造は、関係者の多くを生涯苦しめる悲劇を生んだだけではなく、現在なお新しい悲劇を生み出し続けていることを忘れてはならないと思う。日本が毒ガスの製造を開始した当時、すでにジュネーブ議定書が調印され毒ガス兵器や生物兵器の使用は禁止されていた。国際法違反を承知で製造が始まったといえる。製造は当然極秘裏に進められた。大久野島の工員は、毒ガス工場について、家族を含めて一切口外しないことを誓約させられていたし、憲兵の監視も厳しく、大久野島をのぞむ忠海の海岸線を走る呉線の列車内では、海側のよろい戸を閉め、見ることさえ許されなかったという。そうした極秘の製造と敗戦前後の証拠の隠滅は、戦後の毒ガス被害者の救済にも様々な困難を残すことになった。

 下記は「毒ガスの島 大久野島悪夢の痕跡」中国新聞社(阿座上俊英・岩崎誠・北村浩司)から、毒ガス製造の概要を記述した部分のみを抜粋したものである。
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                              第1章 悪夢の痕跡

旧日本軍と毒ガス 日中戦争から生産量が急増

 大久野島で製造したのは5種類の毒ガス。びらん性のイペリット(きい1号)とルイサイト(きい2号)、くしゃみ性のジフェニール・シアンアルシン(あか1号)、青酸ガス(ちゃ1号)、催涙性の塩化アセトフェノン(みどり1号)で、1931-37年までに陸軍が相次いで制式化(兵器として認定)した。
 中でも「毒ガスの王様」と呼ばれたイペリットについては、ドイツ式製法の「甲」、フランス式の「乙」に加え、ソ連や中国東北部など寒冷地での毒ガス戦に備えた不凍性の「丙」も、独自に開発された。

 中央大学商学部吉見義明教授(日本現代史)は、旧日本軍の毒ガスについて海外資料などから研究を続けている。米国で入手した終戦直後の米太平洋陸軍参謀第2部の報告書などを分析し、大久野島での毒ガス生産量の全容を初めて突き止め、94年夏、専門誌「戦争責任研究」で発表した。

 それによると、敗戦時までの毒ガスの総生産量は6616トン。日中戦争が始まる37年から急増し、41年には総生産量の4分の1に当たる1579トンに達した。日中戦争で最も多く実戦使用されたジフェニール・シアンアルシンは、日中戦争開戦翌年の38年、実に前年の10倍に当たる310トンを製造を製造。大久野島ではこうした毒ガスを使った13種類の化学兵器も製造しており、中国に大量に持ち込まれた「あか筒」の生産は265万発になることも分かった。これを含め、陸軍の毒ガス弾の総量は739万発にのぼっていた。


 毒ガスを日本が最初に使ったのは、30年、台湾の先住民たちが起こした暴動「霧社事件」の鎮圧の際と言われる。やがて大久野島での毒ガス製造の本格化に伴い、陸軍の毒ガス戦に向けた組織づくりも進んだ。33年には化学戦教育にあたる「習志野学校」が発足、死者も出た危険な演習で養成された約1万人の化学将校、下士官たちは、日中戦争での毒ガス実戦の中心になった。

 39年には中国東北部を支配した関東軍に516部隊と呼ばれる化学部隊が設けられ、細菌戦を展開する731部隊などとともに、大久野島から送られた毒ガスの人体実験を中国人に対し行った、とされている。
  
 国内でも毒ガス戦の準備は進められ、各地の陸軍部隊にも配備された。市民の防毒訓練も広島市、呉市などでひんぱんに実施された。戦争末期には陸軍は各地の師団司令部に「制毒隊」を組織、米軍が上陸した際の「本土決戦」の毒ガス戦に備えた。第5師団司令部のあった広島市中区の広島城にも極秘に制毒隊が設置されていた。当時の制毒隊長だった広島市中区の元会社役員富田実さん(75)は「被爆直前まで、長門市の仙崎港米軍を迎え撃つ作戦を練った」と証言する。

 大久野島で、終戦までこうした毒ガスの製造を支えたのは、一般工員や徴用工、忠海中、忠海高等女学校などの動員学徒、女子挺身隊員たちだった。
 その総数は判明しただけで約6600人。工場の稼働率の高まりとともに、島に林立する毒ガス工場群は屋外の窓ガラスまで原料の亜砒酸などで白く曇り、島の松も茶色く枯れた。風の弱い雨天には、島全体が有毒な排煙に包まれ、劣悪な労働条件は多くの毒ガス障害者を生み出していった。


 終戦後、大久野島で毒ガスの処理に当たった英連邦軍が、島とその周辺で確認した毒ガスの原液は3600トン余り。総生産量から差し引いた約3000トンが、戦地に送られたとみられる。中国政府が92年に国連へ提出した報告書では、中国に残る毒ガス遺棄弾は約200万発、毒性化学物質は約100トンにのぼり、ほとんど手つかずのまま遺棄されて、現在に至っている。

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大久野島 毒ガス工場へ「青紙」の徴用令状-------------

毒ガスが制式化(軍が兵器として正式に採用を決定)されると、大久野島の毒ガス工場は大量生産体制に入る。
 制式化された毒ガスは、その種類によって「きい1号」(イペリット)「きい2号」(ルイサイト)「あか1号」(ジフェニール・シアンアルシン)「ちゃ1号」(青酸ガス)「みどり1号」(塩化アセトフェノン)などの秘匿名でよばれ、砲弾などにもこれらの色の帯をつけて、その内容物が識別できるようになっていた。
 イペリットは「毒ガスの王様」として知られ、ベルギーのイーペルでドイツ軍が最初に使用したためこの名がついたという。からしのようなにおいがあることからマスタードガスの別名をもつものである。
 ルイサイトは第1次大戦中にアメリカで開発され、研究にあたったルイス大佐の名をとってルイサイトと呼ばれるようになったが、「死の露」と恐れられた毒ガスである。
 「ちゃ」の青酸ガスは日本軍が、後期に最も研究に重点を置いた毒ガスで、対戦車用にガラス容器に入れて使われた。それは「ちゃ」を入れた「瓶」の「ちゃ瓶」を縮めて「ちび」と呼ばた。
 「あか」はくしゃみ性ないし嘔吐性の毒ガスで中国の戦場で多用されたものである。
 「みどり」は現在もデモ隊などに対して使われる催涙ガスである。
 ここでは「毒ガス島からの告発ー隠されてきたヒロシマ」辰巳知司(日本評論社)から、「青紙」の徴用令状を受けり、毒ガスのにおいが漂う大久野島の工場の中で危険な作業に取り組んだ徴用工の証言の部分を抜粋する。
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Ⅰ 大久野島

 第2章 毒ガス工場最盛期

 青紙の青春

 24時間態勢で毒ガスの生産が続いた大久野島で、工員らはどんな思いで生産に従事し、人生にどう影響したのか、希望入所ではなく国家総動員法の徴用令状により、ほとんどが16-17歳という未成年のまま、強制的に大久野島行かされた徴用者。「赤紙」といわれた軍隊への召集令状に相応する徴用令状「青紙」を受けとり、大久野島行きを命令されたことに対する恨みは、後遺症の進行とともに深まる。「徴用工は大久野島では消耗品同然だった」「徴用名簿をつくった人間がわかれば、いまでも告訴してやりたい」元徴用者からは、こうした怒りの言葉が飛び出す。元徴用者3人に、大久野島での青春とその後を聞いた。


▽上田春海さん(69)=広島市安佐北区=

 ・・・(略)

▽小野政男さん(70)=広島市中区十日市町=

 「大久野島での徴用期間となった1年半の間、ずっとルイサイト工場で働いた。工場から屋外に出たら、からし臭とも何とも表現しがたいルイサイト特有のにおいがしたため、調べてみると、工場内で帽子にルイサイトがわずかに付着したことがわかったことがある。すぐに医務室に行ったが、『手当はできない。手当ができるようでは兵器ではない』と軍医にいわれた。2時間後、頭痛がはじまり、三日三晩にわたり七転八倒した。かなづちで頭を殴られ続けているような痛みだった。綿の帽子に浸透したルイサイトが、ほんのちょっとだけ頭に触れただけなのに、こんな激しい痛みに襲われ、初めて自分がつくっている毒ガスの恐ろしさを知った。
 当時、悪いものをつくっているんだな、という意識はあった。毒ガスが国際法違反ということも知っていた。
 私たち徴用工だけでなく、希望して入った一般工員も自由に辞めることができなかった。半強制的な労働だったと思う。徴用工は寮生活だったが、一般工員も長く休むと憲兵が家を訪ねることもあった。
 大久野島で働いた後、軍隊に行ったが、とにかく体が疲れやすくなっていた。戦後、気管支や臓器もやられ、坂をのぼるのもしんどかった。そこで無理をした人間は大勢、死んでしまった。体は言えんぐらい悪い。
 戦中、写真屋で働いていた際に徴用され、戦後も写真館の仕事を続けた。」


▽山崎一男さん(69)=広島市南区北大河町=

 「入所して1週間、軍事訓練を受けた後、『あか筒』に配属され、箱詰め作業をした。作業部屋に入っただけでも目やのどが痛んだ。
 徴用者のなかに一人だけ妻帯者がいた。この人がある日、故意に裁断機で小指を切り落とした。軍法会議にかけられたまま消息はわからずいまでも気がかりだ。
 あの頃は、命ぜられるまま国のために毒ガスをつくった。日本軍を勝利に導くものと信じていた。いまから思うと、一枚の青紙で人生がすっかり変わってしまった。
 当時、楽しみといえば、仕事帰りに忠海にあったうどん屋で食べること。育ちざかりだったので、与えられた食事だけでは足りなかった。軍事将棋に『毒ガス』と書かれた駒があったね。」


 こうして大久野島でつくられた毒ガスは、砲弾類以外の「あか筒」「みどり筒」「みどり棒」などは島内で充てん作業が行われた後、戦地へ送られ、弾丸などへのてん実が必要な「きい」などの砲弾類用の毒ガスは、てん実工場の福岡県・曽根兵器製造所へ50キロ、100キロの鉄製専用容器などを使って運ばれた後、戦地へ送られた。また「きい」「ちゃ」などの毒ガスが、原液のまま直接中国へ送られることもあり、輸送には鉄道と船が使

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曽根製造所 毒ガス充填施設元工員の証言--------------

 曽根製造所で、砲弾に毒ガスを充填するなどの作業をした元工員たちは、「今、自分が日々苦しんでいる病気や、かつての同僚たちの死が、毒ガスと結びついているとは、想像もしなかった」という。そして、「何もいわなかった私たちも落度があるが、国も私たちに何も教えてくれなかった」というのである。
 忠海(大久野島で働いた人たち)では、みんな医療手帳をもらっていると聞いて驚き、補償を要求すると、厚生省の担当者は「曽根製造所で毒ガスを扱っていたという記録はありません」と拒否し、3つの証拠が必要であるとされたという。まず曽根製造所で確かに毒ガスを充填したという「歴史的証拠」。二つ目は曽根製造所で働いていたという「雇用関係を示す証拠」。三つ目は毒ガス障害についての「医学的証拠」である。
 本来これは国が調べるべきことだろうと思うが、国が調べないので、関係者は救済制度の適用を受けるまで、大変な苦労を強いられたのである。証拠隠滅をはかり、戦争責任を回避しようとした旧軍関係者の姿勢が、戦後に受け継がれた結果ではないかと考えざるを得ない。「悪夢の遺産 毒ガス戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)からの抜粋である。
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                      第3章 もうひとつの毒ガス工場

 (1)忘れられた毒ガス障害者

 44年目の証言

 「私たちは国の恥になることはいってはならないという風潮のなかで、戦後を生きてきました。でも、大久野島の工員たちが医療手当がもらえて、私たちがもらえないのはおかしい。このまま黙っていては運動はできません。」(朝日新聞西日本本社版1989年8月13日)

 1989年の夏、北九州市小倉南区にあった兵器工場で働いていた男女300人が、国に補償を求めて互助組織を発足させた。戦時中旧陸軍の毒ガス充填施設であった東京第2陸軍造兵廠曽根製造所(以下、曽根製造所)の従業員たちである。
 戦後44年目にして、初めて名乗りをあげた彼らの行動は、歴史の闇に埋もれようとしていた「もうひとつの毒ガス工場」の存在を再び浮かびあがらせることになった。


 曽根製造所。それは旧陸軍の毒ガス戦遂行のために、なくてはならない施設だった。
 1937年10月、日中戦争が始まった年に開設され、終戦までに約150万発もの毒ガス弾が製造された。大久野島で製造された毒ガスのほとんどが、関門海峡を渡って運び込まれ、加農砲、軽迫撃砲、野砲、山砲などの砲弾に充填された。製造された膨大な数の毒ガス弾は、旧日本軍の制式兵器として海を越え、前線に送られていったのである。


 曽根製造所には最大時、約1000人の従業員が働いていたという。毒ガス弾の製造に関わった多くの人が、戦後も後遺症に苦しみ続けることになった。大久野島と同じ状況が、ここでも起こっていたのである。
 歩くだけで肩で息をする、体がだるくてたまらない、いつも何かが咽喉につまったよう、咳が止まらなくて苦しい……。
 結成されたばかりの「曽根毒ガス障害者互助会」の会合で、会員たちが堰を切ったように健康の悩みをぶちまけた。気管支炎など呼吸器系の病気や、肺、心臓などを患う人が多く、工員仲間が次々と亡くなっていくことに、不安と恐れを抱いていた。

 「曽根製造所にいたころは、みんな若かったし、ガスがどのくらい危ないか知らなかった。戦後工員たちが上司に会っても、しゃべっちゃいけんよ、しゃべっちゃいけんよ、と言われていた。今になってみればそれがかえっていけなかったんですね」
 会員の吉岡多鶴子さんはそう語っている。(同前)
 大久野島の毒ガス障害者たちが、戦後早い時期に国への補償を求めて立ち上がったのに比べ、曽根の障害者たちはあまりにも対照的だった。
 なぜ彼らは44年も沈黙を守り続けていたのか。国からなんの補償もないまま、見捨てられたも同然の長い歳月をどんな気持ちで過ごしてきたのか。戦時中彼らは曽根製造所でどのような仕事をしていたのか。
 いくつもの疑問を抱いて、私は現地を訪ねたのだった。


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中国戦線における日本軍の毒ガス戦--------------

「未決の戦争責任」粟屋憲太郎(柏書房)によると、日本軍の中国戦線における大規模な毒ガス使用は、下記の北支那方面軍の晋南粛正戦からのようである。その後、中支那派遣軍も徐州会戦・安慶作戦、武漢作戦などであか筒あか弾を多用している(武漢作戦については下段に追加あり)。1939年以降も修水渡河作戦、新墻河渡河作戦、奉新附近の戦闘、大洲鎮附近の戦闘などで毒ガス攻撃をしており、華南における翁英作戦では、最初のきい剤(イペリット)の使用が確認できるという。さらに、宣昌攻防戦での日本軍によるイペリット使用は、当時すでに国際的にも知られていたという。それは、形勢が不利になると、苦境を脱するために徐々に毒ガス兵器に頼るようになり、毒ガス兵器使用を秘匿するという配慮が影を潜めて、イペリットなどの糜爛性ガスを頻繁に使用するようになっていったことを物語っていると思われる。

 旧軍関係者その他に、日本軍の中国戦線における毒ガス使用を否定する動きがあるが、下記の毒ガス使用を秘匿しようとした軍の意図と重なって見える。しかし、この毒ガス使用の作戦命令が、天皇の裁可を得て発せられており、下記の命令も大陸指(大本営陸軍部指示)である事実を忘れてはならないと思う。当初は、知られてはならない作戦だったのである。また、これらの毒ガス戦は、著者が米国立公文書館にある国際検察局文書の中から見つけ出した陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」などを中心とする日本側公文書によって裏付けされていることも重要である。
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                              Ⅴ 毒ガス作戦の真実

 中国戦線での毒ガス作戦


 ・・・
 こうして、38年4月11日、閑院宮参謀総長から寺内寿一北支那方面軍司令官・蓮沼蕃駐蒙兵団司令官に対し、占拠領域の確保安定に関して次のような命令(大陸指110号)が出された。

 「左記範囲ニ於テあか筒軽迫撃砲用あか弾ヲ使用スルコトヲ得
  (1)使用目的 山地帯ニ蟠居スル敵匪ノ掃蕩戦ニ使用ス
  (2)使用地域 山西省及之ニ隣接スル山地地方
  (3)使用法 
 勉メテ煙ニ混用シ厳ニ瓦斯使用ノ事実ヲ秘匿シ其痕跡ヲ残ササ
          ル如ク注意スルヲ要ス」
(大陸指綴」2巻)

 こうして、あか剤の最初の大規模使用の戦場として山西省を中心とする奥地が撰ばれたことになるが、交付された資材は、北支那方面軍に、軽迫撃砲用あか弾15000発・あか筒4万本、駐蒙兵団にあか筒1万本であった。
 駐蒙兵団は、6月中に第26師団が行った綏遠省東南地区(清水河、和林格爾附近)の戦闘であか筒の使用を準備したが、「状況之ニ適セサリシ為」使用を中止した(駐蒙軍参謀長「発煙筒使用ニ関スル報告提出ノ件」1938年7月14日)。


 他方、北支那方面軍司令官は4月21日、「方軍作命甲第293号」において香月清司第1軍司令官にたいし参謀総長の命令を伝達し、岡部直三郎参謀長はあか弾・あか筒の「集結使用」を指示した(「第1軍機密作戦日誌」、以下これによる)。これをうけて第1軍司令官は5月3日、「特殊資材使用ニ伴フ秘密保持ニ関スル指示」を交付した。この文書で注目される点は毒ガス使用の企図、使用した証跡などを徹底して秘匿するために次のような指示をしていることである。
  
 すなわち、(1)ガス資材の筒・収容箱の標記を予め削除すること、(2)使用後のあか筒は蒐集して持ち帰ること、(3)教育には印刷物を使わず、被教育者以外の立入りを禁止し、修得事項の口外を禁止すること、(4)使用の場合「使用地域ノ敵ヲ為シ得ル限リ殲滅シ以テ之カ証跡ヲ残ササル如ク勉ム」ること、(5)住民の居住地域や外部との交通の便利な地点での使用を避けること、(6)毒ガス資材を「敵手ニ委セサルヲ期す」こと、(7)資材の運搬に現地住民や傭役車馬を利用しないこと、(8)毒ガスを使用したとの敵側の宣伝に対しては毒煙でなく単なる煙であると宣明すること、などである。

 国際法を意識し、いかに使用事実を秘匿するかに注意を集中している有様がよくうかがえる。このような指示は、その後の毒ガス戦でもくりかえしだされることになる。


晋南粛正戦
 1938年5月23日北支那方面軍は、徐州作戦の支作戦での毒ガス使用を決意し、第1軍に対しあか弾・あか筒の使用を許可し、これをうけて第1軍は109師団にその使用を許可し、実戦使用の段階に入った。ところが、この間に第20師団が候馬鎮・曲沃方面で中国軍の頑強な抵抗をうけ、臨汾・新絳が危機に陥る中で、27日、第1軍は第20師団にまずあか弾の使用を許可した。しかし、危機的状況が続いたために、6月15日、新任の梅津美治郎第1軍司令官は川岸文三郎第20師団長に対し、「一軍作命甲第263号」であか筒の使用をも許可し、飯田祥二郎参謀長は「主力ノ攻撃ニ際シ急襲的ニ之ヲ使用スル」よう命令した。こうして、毒ガスは晋南粛正戦で大規模に使用されることになる。第20師団には第1~第4特種指導班と迫撃第3大隊が配属されたが、「例証集」戦例11によれば18000本の中あか筒が準備されたという

 そして万全の準備を整えた後、7月6日払暁から、曲沃南方、絳県北方高地帯の中国軍に対し、大規模なガス攻撃が行われた。第20師団の報告(第1報)によれば、その状況は次のとおりであった。

 「第20師団ハ7月6日払暁ヨリノ攻撃ニ当リ其ノ部隊正面ニ於テ儀門村及北楽村各南方高地ノ線ニ4・5千米ニ亘リ6・7千筒ノ特種発煙筒ヲ使用セリ、尚時風北北東1米70、煙ハ克ク低迷ス、最初敵ハ発煙開始ノ信号弾ヲ見テ盛ンニ射撃ヲ開始スルモ煙ノ到達ト共ニ射撃ヲ全ク中止ス
 歩兵部隊ハ直ニ南下環及南樊鎮ノ線ヲ奪取シ更ニ其ノ南方地区ニ向ヒ前進シツツアリ、但シ煙ノ一部(一割以下ナラン)ハ風向及風速ノ動揺ニ依リ我カ方ニモ流来シ一部防毒面ヲ装着スルヲ要セリ」


 ここでの「特種発煙筒」とは、毒ガスのあか筒をさす秘匿保持のための用語である。
 これは「例証集」戦例11に収録されている曲沃附近の戦闘の記述と一致する。これによれば、あか筒の放射数は約7000本で、第1線部隊はほとんど損害なく、一挙に約3粁を突破したが、北董村附近では「毒煙逆流シ成果ノ利用十分ナラザリシ部隊アリ」ともいう。

 しかし、ガス攻撃はこれだけに止まらなかった。翌7日の第20師団の報告(第2報)によれば、「曲沃南方地区ニ於テハ7日未明東韓村ヨリ南吉ニ亘リ約3粁ノ正面ニ亘リ約3千箇ノ特種発煙筒ヲ使用シ煙ハ澮河ニ沿ウ地区ヲ西方ニ流動シ次テ風向ノ変化ニ依リ曲沃西方高地脚ヲ流セル若干ノ煙ハ澮河北岸ニモ流来セリ、曲沃南方澮河北岸ノ敵ハ6日夜盛ニ射撃セルモ朝迄ニハ退却セルモノノ如シ」という状況であった。
 こうして、この戦闘では2日間に約1万本のあか筒が使用されたのである。第20師団は迫撃を続行し、運城を占領して晋南粛正戦は終了した。

 ・・・(以下略)

追加-「毒ガスの島-大久野島悪夢の傷跡」(中国新聞社)より-------------------------

 吉見教
授は84年、日中戦争の「武漢攻略戦」(38年 )で少なくとも375回の毒ガス使用を裏付ける資料を米国議会図書館作成のマイクロフィルムから発見。その後も宣昌攻防戦(41年)などでの日本による猛毒のイペリット大量使用を分析した米軍の極秘文書や、終戦後に大久野島の毒ガス処理を行った英連邦軍の報告書などを次々と発掘してきた。


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中国戦線 日本軍の毒ガス攻撃-宜昌攻防戦-------------

 国民党政府が臨時首都を置いた重慶をにらむ要衝の宜昌(重慶爆撃の中継基地)は、日本軍第13師団が守備していたが、主力部隊が湖南省長沙への攻撃で手薄になったところへ、守備する日本軍に数倍する大兵力で、国民政府軍が奪回の攻撃に出た。1941年10月のことである。
 宜昌の周囲60余りの拠点を占領され、完全に包囲されて危機的状況に陥った第13師団の師団本部は、「通常弾とともに、ありったけのガス弾を撃て」と隷下の部隊に命じ、何とか危機を脱したのである。それに関連する記述が、例証集(ワシントンの米国立公文書館にある国際検察局文書のなかから粟屋憲太郎教授が発見した陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」)に残されているという。
 下記は、その宜昌攻防戦に関係する部分と、米国記者の証言の部分を『隠されてきた「ヒロシマ」毒ガス島からの告発』辰巳知司著(日本評論社)から抜粋したものである。
 中国の紀学仁教授によると、攻撃主力の2つの師団だけで1600人以上が被毒し、うち600人が死んだとのことである。防毒マスクなどの防護器材がなかったために、あと一歩のところで撤退を余儀なくされたという。
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                               第2章 宜昌攻防戦
 米国記者の証言

 日本軍の毒ガス戦のなかで、最大規模といわれる戦闘のひとつに1941(昭和16)年に起きた宜昌攻防戦がある。
 湖北省・宜昌は、揚子江で結ばれた華中の都市武漢と国民党政府が臨時首都を於いた重慶の中間点にある要衝で、揚子江沿いの港を中心に市街地が広がり、揚子江を背に三方が丘陵で囲まれた町である。現在では揚子江下りの観光名所「三峡」の大渓谷を形成する大巴山脈の入り口としても知られている。
 藤原彰・元一橋大学教授の『昭和天皇の15年戦争』(青木書店、1991年)によると、日本軍は大本営の命令により、1940(昭和15)年6月中旬、宜昌を占領し、その後、重慶に対する大規模な戦略爆撃の計画が持ち上がると、昭和天皇の意向もあり、重慶爆撃の中継地点として宜昌を再占領し、以降、陸軍第13師団が駐留した。
 宜昌の市街地近くで大規模な毒ガス戦が実施されたのは、第13師団の主力部隊が湖南省長沙への攻撃に加わり、宜昌が手薄になったところへ、中国国民党第6戦区が反転攻勢に出たことがきっかけであった。


 例証集でも、この戦闘について「きい弾及あか弾ヲ稍々大規模ニ使用シ優勢ナル敵ノ包囲攻撃ヲ頓挫セシメタル例」として取り上げ、戦闘のもようを生々しく伝えている。それによると、毒ガス戦は10月7日から11日まで実施されきい弾1000発、あか弾1500発が使われた。例証集では実施年は書かれていないが、別の資料や証言により1941(昭和16)年の出来事であることは間違いない。気象は、10月7日から9日までは晴れ、北西の風1メートル、10日、11日は曇り、北東の風1.5メートル。この毒ガス戦の結果、「敵ノ攻撃企図ヲ挫折シタルノミナラズ密偵報其ノ他諸情報ヲ総合スルニ瓦斯ノ効果ハ大ナリシモノノ如シと、効果が極めて大きかったことを記している。
 例証集はさらに、この戦闘からの教訓として ①毒ガスと通常火力の併用が肝要 ②遠距離にきい弾、近距離にあか弾を使用すると効果的──の2点を挙げた。


 このように、例証集では宜昌での毒ガス戦を成功例として伝えているが、日本軍の戦闘が成功し、規模が大きくなればなるほど、犠牲も増大する。宜昌の毒ガス戦を、攻撃された側から、第3国の立場で取材・証言していた人がいた。米国INS(インターナショナル・ニュースサービス)通信社のJ・ベルデン記者である。

 ・・・

 そしてベルデン記者は10月12日、野戦病院で毒ガスによって殺されたという2人の死体を見たもようを証言している。体は茶色、赤色、黒色の斑点で覆われている、皮膚組織は破壊されているように見えた。外傷はなかった。
 翌日の10月13日、ベルデン記者は司令部で被毒した2人の中国人兵士と会った。以下は証言記録の原文翻訳である。


 「2人とも身体に非常に悪い火ぶくれの徴候がでていた。火ぶくれのいくつかは、手のつめぐらいの大きさで、他のいくつかはテニス・ボール大だった。いくつかは、皮膚がピンと張った状態でふくれあがって硬くなっており、いくつかは、身体からぐにゃりと垂れ下がり、身体が動く度にある種の液体が火ぶくれの内側で動いて、それを揺り動かしていた。火ぶくれができた部分の皮膚は、非常に白く見え、その縁はやや黄色がかって、しわがよっていた。2人にとってより危険なことは、火ぶくれが両腕・両足・腹部それに最もひどいものが背中にあることだった。1人の顔には火ぶくれが破れたところに大きな赤色・黒色・こげ茶色の斑点があらわれていた。小隊副長のこの男は非常な痛みを訴え、私たちが背中の大きな火ぶくれを見ることができるようにするために座るとき、注意して起き上がらなくてはならなかった。彼は全く食欲がなく、頭痛と熱を訴えた。

 彼は、宜昌市の外側にある飛行場を見おろせる高台である東山寺付近を攻撃中に負傷した、と私に語った。日本軍は頑強に抗戦したが 、日本軍の機関銃が激しくなり攻撃が止まるまで、時々攻撃が繰り返され、大隊長はその位置を死守するように命令した。集団はその地点に一昼夜とどまり、10月8日、日本軍はガス弾を撃った。その地区の26人のうち、8人が生きて救出された。ガス攻撃の間、多くの者が視力を失い、幾人かが咳き込み、幾人かはしゃべれなくなった。一人の分隊長は呼吸ができなかった。最初、彼は自分の症状を真剣に考えなかった。彼の目はひりひりと痛み、傷つき、彼は少し泣いた。1時間半後、皮膚がかゆくなり、25分後、身体は火ぶくれができはじめ、大層痛みだした。2時間後、無感覚で半分意識喪失の半まひ状態になった。彼は、約6時間後、自分の手足を正常に動かすことができなかった、といった。

 何が一番痛かったかと言うと、火ぶくれの中の液体が動くことが一番痛かった、と彼はいった。ガスに対して、中国軍兵士は何ができたか、と聞くと、『そこにとどまって死ぬ以外なにもできないよ』と彼は答えた。」


 米陸軍参謀第2部は、ベルデン記者の証言や中国戦線から回収した不発弾の内容の調査結果などの証拠から日本軍の毒ガス使用を確認。米軍記録「中国における日本の毒ガス使用」のなかで、「日本軍は必要な時、利益があると判断した時は、間違いなくいつでもどこでもガスを使うだろう」と結論づけた。
 また、中国人民解放軍の内部研究書「化学戦史」は、この戦闘で1600人あまりが被毒し、うち約600人が死亡した、と記述している。
 

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日本軍の毒ガス戦 無辜の被害者 地下道の悲劇----------

中央大学の吉見義明教授は、ワシントンの国立公文書館で見付けた米軍極秘文書や米太平洋陸軍参謀第2部の報告書などによって、日本軍の毒ガス製造の全容が、ほぼ明らかになったという。そして、日中15年戦争時に日本軍が製造した毒ガス兵器は、致死性のイペリットやルイサイトを含み、実に746万発に達するというのである。また、旧陸軍造兵廠の記録の一部からだけでも、200万発の製造が確認できるという。
 ここでは、そうした日本軍の毒ガス兵器によって被害を受けた人たちの、悲惨な被害状況の一例を「日本軍の中国侵略と毒ガス兵器」歩平著ー山辺悠喜子・宮崎教四郎監訳(明石書店)から抜粋した。こうした毒ガス兵器の使用が、下記にあるように「晋警察冀軍区司令部は6月26日、全国の同胞、全世界の人びとに向け、日本軍の北疃村における残虐行為を打電公表」され 、国際的に知られることとなったと思われる。(但し、村名で・に変わってしまった文字は田へんに童である)
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                               第8章 無辜の被害者

 河北定県北疃(ペイトワン)村事件

 1942年5月下旬、日本軍第110師団は訳1500名の兵力を動員し、河北省安平県安平北の滹沱(トウオホ-)河と瀦龍(チューロン)河の間で「冀(チー)(河北)中侵略作戦」を展開した。日本軍は大量の毒ガス兵器の使用より、定県北村疃の地下道に避難していた農民を虐殺、800余の無辜の市民を毒ガスによって窒息死させるという事件を引き起こした。

 1942年5月26日、日本軍は主力をもって中国八路軍のゲリラ隊を包囲攻撃、27日払暁、付近の東城、西城、東湖、太平湖、解家荘の五か村の全農民を北疃村に追い詰めた。1000余名の農民は地下道に避難。戦闘は払暁から正午まで間断なく続いたが、中国軍は弾丸が尽き、日本軍が部落を占拠すると、定県大隊の副政治委員・趙曙光率いる一個中隊と民兵が、地下戦を行った。日本軍は八路軍との地下道戦に苦しみ、形勢が不利になると、狂ったように地下道を探す。すでに人心を失した日本軍は、地下道口を見つけるとまず、両端をふさぎ、なかに向かって毒ガス弾を投擲した。大量の「あか筒」と「みどり筒」に点火後、地下道にほうり込み、同時に柴草に火をつけて入り口に投げ入れ、すぐにふとんで入り口をふさいだ。地下道内では毒ガスがすぐに充満し、煙が立ち昇ることによって、たくさんの穴の存在が日本軍に知れ、さらに多くの毒ガス弾が投入された。地下道に隠れていた人びとは、まずヒリヒリする刺激臭、火薬臭、甘い臭いを感じ、やがて涙とくしゃみが止まらず、呼吸困難に陥った。まもなく地下道内は混乱をきたし、人びとは出口を求めて逃げ惑い、叫び声、罵り声、うめき声がうずまいた。まもなくそれらの阿鼻叫喚は次第に弱り、うめき声とあえぎ声を残すだけとなり、人びとは苦しみに土壁に爪をたて、つかみ、ころがり、5人10人と窒息して息を引き取っていった。死体のなかには、頭を地面に突っ込んだもの、自分の服をずたずたに切り裂き壁に頭をぶつけているもの、満面唾液と吐物にまみれたもの、子どもを抱いた母子や父子など無残な姿が見られた。

 40過ぎの王牛児が2人の息子を連れて地下道に入り、10歳の長男、8歳の次男は父親の両膝を枕に死んだ。32歳の李菊は、1歳にならぬ乳飲み子を抱き、赤ん坊は母親の乳をくわえたまま、ともに死んだ。ある50過ぎの女性は、両腕に10歳ぐらいの2人の女の子と手をつないで、仰向けに死んでいた。その光景の悲惨さは、目を覆うばかりであった。比較的強健な人びとはなんとか穴まで這って出たものの、そこに待っていたのは虐殺の刀であった。このように、武器を持たない一般の農民約800余名が日本軍の毒ガスによって殺されたのである。

 同村の生存者の一人、李化民の供述によると、このとき(同村および他の村の)800余人(多くが毒ガスによる被毒)が殺害され、農家36軒が焼かれ、62名の青壮年が錦州炭鉱に強制動員され、後に9名が逃げ帰ったが、その他の者は行方不明のままとなった。事件が起こったのは5月、気候が暑くなったころで、北疃村全体に屍が散乱し、臭気が天を覆った。何の変哲もない平和で活気のあった村が、日本のファシストによって荒らしつくされ、砲火と毒ガスによって、屍の荒野に変わりはてた。

 この悲惨な事件の発生は、全国各界の強烈な義憤を呼び、晋警察冀軍区司令部は6月26日、全国の同胞、全世界の人びとに向け、日本軍の北疃村における残虐行為を打電公表した。世界の公理、公法と正義を守るため、今回日本のファシストが北疃村の800人の無辜の人民を毒殺した極悪非道の罪状を世界の人びとの前に明らかにした。呼びかけの電文には義憤があふれ、日本軍の北疃村における暴行の全貌が記述されていた。

 「日本軍の悪辣な魔の手の下、地下道に避難した無辜の人民800余名は、大部分が、杖を手にした老人や、無抵抗の婦人、子ども、病弱者、乳児であったが、全員が毒ガスによる窒息死を遂げた! 日本のファシストらがこれらの人びとに行った罪行は未来永劫に消し去ることはできない。これは、公理、公法、正義を公然と無視、冒瀆するものだ。すべての正義の民に対する挑戦である!日本ファシストの強盗どもが共産党根拠地の辺境区で行った放火、殺人、強姦、略奪の各種罪行は、すでに枚挙にいとまがない。が、今回の事件は国際公法に違反し、無辜の民衆に毒ガスを放ったのである!その残酷非道のありさまは、人類を敵に回そうという魂胆をますます明白にするものである。この前代未聞の人民に対する大虐殺は、日本ファシストが、すでに世界の公理、公法と正義の最後の垣根を越えたことを、はっきりと証明するものである。世界の公理、公法、と正義を守るため、我々は全世界のすべての正義の人士にあらゆる手立てを使って、これら公理、公法、正義を破壊する日本ファシストの強盗どもに断固たる制裁を加えることを求めるものである」


 同日、「晋警冀日報」は「敵、冀中において毒ガス放射、北坦(疃)の同胞800人が非業死、必ず深い恨みに報復す」と題し、前述の檄文を全文転載し、日本の侵略者が引き起こした北疃村事件に血と涙の告発をおこなった(『細菌作戦と毒ガス戦』467~471ページ参照)。


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Giant Earthquake And Tsunami in Japan 2011.03.11── What can I do ? -----

Giant Earthquake And Tsunami in Japan at 2011.03.11 is called "GreatTohoku Kanto Earthquake Disaster "
I watch the news about the victims of "Great Tohoku Kanto Earthquake disaster" every day.
And I am very sad to watch its predicament of the victims.
I want to do anything and I thought about what I can do.
Now various kinds of Homepage of Japanese language includes many safety informations of persons of a wide area.
And I thought that there are some persons who want to know safety of their blood relationships or their acquaintances or their friends but can't read the Homepage of Japanese language.


I am weak in English. But if things go well,it is possible to inquire intothe confirmation of the safety of your blood relationship or your acquaintanceor your friend instead of you.
I can't write English accurately. But I can read English a little becauseI have my own dictionary. It may be possible for me to inform you of safetyof your blood relationship or your acquaintance or your friend.
If it is possible to help you, I am glad.

3/18 asahi --- This number continues increasing.
The death toll (5,694)
The number of the missing peoples(17,328)
The number of safe shelters(More than 2,000)
The number of refugees(418,827)

I usually study various war crimes of Japan. But Japan is emergency now so I want to do anything.


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