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------------牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)と台湾出兵------------

 「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)には、牡丹社事件のかなり詳しい顛末が記されている。
 その事件は、1871年秋に発生した。宮古、八重山の春立船4隻(宮古船2隻、八重山船2隻)が首里王府に年貢を納め終え帰途についた時のことである。4隻とも12端帆の当時としてはかなり大きな船であったようであるが、台風に遭遇し、まるで木の葉のように波にもて遊ばれ離ればなれになって、宮古船の1隻だけが宮古島にたどり着いたという。八重山船の1隻は行方不明のままであり、結局、残り2隻は漂流の後、台湾に漂着したのである。八重山船は西海岸に漂着したため、すぐに台湾府に保護されたが、宮古船は、台湾の南端、八瑤湾(ハチョウワン)に漂着し、言葉の通じない「牡丹社」というパイワン族の村落に迷い込んで、54名もの人たちが殺害されることになったのである。
 
 八瑤湾(ハチョウワン)に漂着した宮古船には、頭職仲宗根玄安を含む19人の役人と、従内と称する士族の随行者11名、供と称する平民の随行者21名及び船頭を含む乗組員18名の合計69人が乗っていたが、まだ波荒く危険な状況の中、我先に伝馬船に飛び乗り上陸しようとしたため、3人が波にさらわれ、溺死することになったようである。

 無事に上陸を果たした66人は、何という島かも分からないまま彷徨い、2人の男に出会っている。そして、言葉が通じないために、意思疎通がうまくできないながらも、彼等を案内人としてしばらくついていったようである。しかしながら、持ち物を略奪されるなどしたため、途中で案内を断っている。そして、その2人が「西の方に行くと耳の大きな人が住んでいて人の頭を切り取る風習がある。だから南のほうに行く方が良い」と指摘していたにもかかわらず西の方へ向い、野宿をしながら進んでいる。

 たどり着いた村は、当時の蕃社の一つで、『高士沸(クスクス)』(現牡丹郷高士)といわれる首狩りの風習が残るところであったという。ここで食事を与えられ救助されたものと思っていると、まもなく持ち物をほとんど奪われる。異常な様子の村人や蕃刀を持つ男の挙動に不信をいだいた漂着者たちは再び逃げ出す。そして「凌老生(リョウロウセイ)」という言葉の通じる老人に出会い保護されるが、追ってきた高
士沸社と牡丹社の人々は凌老生に引き渡しを迫まる。凌老生は命がけで漂着者達をかばったようであるが、蕃社の人々は、次々に漂着者達を連れ出し殺害したようである。異常な事態に気づいた漂着者達は再び四散して逃げた。そこでも、凌老生は素早く9人をかくまっている。蕃社の人々の首切りは、凌老生が2樽の酒を出せなかったために始まったという。酒に代わるものをいろいろ提示して哀願したが次々に連れ出され殺害されたというのである。

 逃げ出した漂着者のうちの3人が、「鄧天保」という人の家に逃げ込み助けられている。鄧天保は3人から事の次第を聞き、すぐに生存者の捜索に当たり6人を保護している。そして、統捕に急行し、通事の「林阿九」に事の次第を話し保護を求めたのである。林阿九は早速救助にかかり、保力庄の総頭「楊友旺」に事件の報告をして保護を求めた。楊友旺は、9人を保護するとともに、残る人々の捜索に出かけて 、さらに2人を救助したのである。また、宮古人が蕃社の人に捕らえられ留置されているという情報を得て楊友旺はすぐに駆けつけ、私財を投じて救出したという。その後12名の人々を自宅に40日間保護し、衰弱している体力の回復を図る一方で、台湾府城へ送り届ける準備を進めたのである。

 その後遭難者達12名は、楊友旺の長男に付き添われて保力庄を出発、車城に至り、車城からは海路楓港に向かい、楓港からはまた陸路で鳳山県に向かったのである。鳳山県の役人に引き渡すまで漂流者達を世話した楊友旺は、大変な負担を引き受けたことになる。漂流者達は鳳山県を出発した後は、途中で一泊して台湾府城に到着しているが、ここで、台湾の西海岸に漂着し、季成忠という人に救助された八重山船の一行と合流している。そして、その後琉球館の保護を受け、約7ヶ月半後の明治5年6月2日福州を出発して6月7日那覇に戻ったという。

 この牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)の報告を受けた鹿児島県参事官大山綱良は、すぐ明治政府に事件の詳細を報告するとともに、台湾の生蕃を征伐したいと申し出ているが認められていない。さらに、54名もの人々が殺害された琉球藩からは、できるだけ穏やかに事件の処理をしてほしいとの嘆願書が出されていた。にもかかわらず、日本は2年以上が経過した1874年に台湾に出兵(征討軍3000名)するのである。まさに帝国主義的領土拡張の口実に利用されたとしか考えられない。「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)より、そのへんの事情を考察した部分を抜粋する。
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                               第2章 台湾征伐
 第3節 征韓に代わるもの

 西郷などが征韓論に敗れ、政府の主導権争いから下野して後に政府の頭痛の種は不平士族の問題であった。その解決策の一つとして、外征に依る下級武士の救済が必要欠くべからざる事となっていた。外征に依って下級武士を軍人として雇用することに依り彼等の経済的窮状を救うことが出来るのである。加えて農民や職人及び商人等の不満の目をそこに向けさせ、その間に政府の足腰を鍛えておき権力基盤の確立を図る。そのための外征が必要であった。政府がここで着目したのが台湾征伐である。


 明治4年11月の宮古島島民遭難事件に端を発して、早くも明治5年には大山綱良等旧薩摩藩士や長州藩士、土佐藩士等の間に台湾征伐論が台頭してきた。特に鹿児島県の士族達の間には征台について熱心な者が多く、大山綱良に至っては自ら兵を率いて台湾征伐をしたいと政府に申し出る有様で、実に好戦的でさえあった。鹿児島県参事たる大山綱良にとっては一つには鹿児島県内の下級武士の救済がその目的であり、琉球藩民は鹿児島県から見れば彼等の支配下にある者達である。それを54名も殺されて黙っている訳にはいかないと言う訳である。

 ところが、琉球藩は、清国との交流が長く続いており、親しい間柄であるため、清国に対する配慮からことを穏やかに納めたいという思いがあった。琉球藩からは鹿児島県に対して又日本政府に対しても『生存者達は清国政府関係者によって厚遇された上に送りかえされて来たのだから、出来るだけ穏やかに事件の処理をしてほしい』という嘆願書が出されていた。政府は琉球の特殊事情を知っており、加えて清国との国交関係の悪化を恐れて、大山等に対し出兵を許可しなかった。しかし、この際、琉球の帰属ついては政府は断固たる意思表示をしなければならない時期でもあった。清国に対して早晩その事についてはっきりさせなければならないということは政府の基本方針となっていた。

 従来、琉球国は日清両属の国であった。すなわち慶長14年、薩摩の琉球国に対する武力侵略以来約300年間、琉球は薩摩の植民地的支配の属国となっており、国政全般に亘って薩摩の監督下に置かれていた。薩摩は侵略直後に検地を行い、琉球国全体の総石数を算定してそれをもとに課税し、毎年膨大な年貢を薩摩に納めさせていた。一方、薩摩の侵略はるか以前から代々中国との交易を行い、琉球国王は清国皇帝に依って代々冊封を受けて来た。そのため清国は琉球国にとっては親国的な存在であった。

 薩摩は侵略後も琉球と清国との関係はそのまま維持させ、その交易に依る収入を全て吸い上げるという寄生虫的支配を行って来た。もっとも薩摩の琉球侵略の目的の第1が、この清琉貿易の利益の略奪であった。寄生虫どころか強盗にも等しい所業に依って琉球住民を吐炭(塗炭?)の苦しみに追いやっていた訳である。

明治政府は、そうした諸々の事情から琉球は日本の領土であるとして維新後は琉球国を吸収合併するための諸々の施策を講じてきた。明治5年には琉球国を琉球藩と強制的に改めさせ、琉球国王尚泰を琉球藩王と改めさせた。
 こうして琉球国はその帰属をだんだん日本側に移されて行き、明治12年には一方的に琉球処分を行い、琉球藩をして沖縄県となし、正式に日本の一部として併合した。


 明治5年に大山綱良に依って提出された上陳書によって日本政府は琉球宮古島民の台湾遭難事件を知った。しかし、当時の日本国内は諸々の国内情勢に依り征台の挙に出ることは出来なかった。しかし、明治6年になると、下級武士達の処遇の問題や、国内の不平不満民衆の宣撫の為にも何等かの手を打って国民の目を国外にそらす必要に迫られていた。その他、対清国との外交問題が続出し、清国との交渉等で苦慮していた。政府は、ここで弱腰をみせる訳にはいかぬと腹を決め、強気の外交に転ずることになる。琉球藩民殺害事件は、まさしく良い口実を与えることになる。政府は清国に対し、この事件に関する問罪の師を派遣することを決議した。

 明治6年3月9日、明治天皇は副島種臣に勅語を賜り、問罪の為の全権大使として清国に派遣し、その審理をを行わしめた。……

 ・・・(以下略)

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霧社事件(台湾山地原住民の抗日蜂起)--------------

 霧社事件とは、日本統治時代の台湾における山地原住民の「抗日蜂起」といえる事件である。それは台湾統治も日本の植民地政策の成功例ではなかったことを示している。いや、むしろ日本のアジア諸国に対する差別的植民地支配を象徴する事件であると思う。

 1930年(昭和5年)10月27日、日本人児童が通う霧社尋常小学校と地元民児童が通う霧社公学校および蕃童教育所の連合運動会に参集した数百名に、山地原住民が襲いかかり、日本人を狙って136名を殺害したのである。その中に、日本人の装いをしていたためにあやまって殺された4歳の子どもと、山地原住民に暴行を加えた四ツ倉商店の店員の2人の漢民族が含まれていたが、大勢の人たちが逃げまどう大混乱の情況の中で誤殺は事実上たった一人であったわけである。極めて計画的で組織的な抗日蜂起であったことが分かる。

 下記は、「昭和5年 台湾蕃地 霧社事件史」(台湾軍司令部編刊)よりの抜粋である。日本人だけを狙ったことに触れていない点や「…蕃人壮丁約300名突如トシテ暴動ヲ起シ…」とか「兇蕃…」などの表現が気になるところであるが、霧社事件の事実経過は簡潔にまとめられていると思う。
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                         昭和5年 台湾蕃地 霧社事件史

 第1章 概説(附図第1第5参照)

事件勃発ノ地タル霧社ハ台中州能高郡下ノ蕃界ニシテ有名ナル日月潭ノ東北ニ位シ附近ハ海抜数千尺ニ達スル所謂能高ノ高山地帯ナリ

霧社蕃ハ本島蕃界中蕃童教育ノ最モ進歩セル所ノ一ニシテ他蕃ニ於テハ僅ニ蕃童教育所ト称スル不完全ナル教育機関ヲ有スルニ過ザルモ同地ニ於テハ本島公学校令ニ依ル霧社公学校ヲ設ケ孜々児童ノ教化ニ努メ来タリ特ニ毎年一回慣例的ニ学芸会及運動会ヲ盛大ニ催スヲ例トセリ

事件勃発ノ当時10月26、7ノ両日ハ恰モ学芸会及運動会ノ開催日ニシテ能高郡ヨリ群守以下視学等前日ヨリ出張滞在シアリ26日無事学芸会ヲ修了シ27日ハ運動会ノ当日トテ早朝ヨリ附近在住ノ内台人ハ勿論各蕃社ノ蕃人等老幼男女数百名参集シ学校及霧社警察分室職員等ハ午前8時開会ノ予定ヲ以テ之カ準備ヲ整ヘアリシカ軈(ヤガ)テ定刻ニ至リ開会セシ刹那「マヘボ」「ボアルン」「ホーゴー」「ロードフ」「タロワン」「スーク」ノ6社ノ蕃人壮丁約300名突如トシテ暴動ヲ起シ「マヘボ」頭目「モーナルダオ」之ヲ指揮シ会場内ニ闖入シ(兇行蕃人ノ多クハ当初ヨリ参観シアラス)居合ハセタル内地人官民並学童ノ大部分ヲ銃器、蕃刀又ハ竹槍ヲ以テ虐殺シ同時ニ霧社警察分室ヲ始メ学校、郵便局並各職員宿舎及民家ヲ襲ヒ職員、家族ヲ殺戮スルト共ニ分室ニ在リシ銃器、弾薬、糧食、家具、衣類等全部ヲ掠
奪セリ此間兇蕃ノ一部ハ附近ノ通信機関及橋梁ヲ破壊シテ外部トノ連絡ヲ遮断シ同日未明ヨリ午後ニ亘リ霧社附近13箇所ノ駐在所ヲ襲ヒ其大部ヲ焼却シテ霧社同様ノ暴虐ヲ恣ニシ世人ヲシテ近代未聞ノ惨劇ニ驚愕惜ク能ハサラシメタリ

此報一度伝ハルヤ時ヲ移サス州下警官隊先ツ埔里ニ応急出動シ同時ニ軍司令官ハ州知事及総督ヨリ出兵ノ要求アリシニ依リ警察官憲支援ノ目的ヲ以テ直ニ台中大隊ヨリ歩兵1中隊ヲ埔里ニ派遣スルト共ニ飛行隊ヲシテ霧社附近ノ状況ノ捜索ヲ命シ更ニ花蓮港ノ歩兵1中隊ヲ能高峠確保ノタメ急行セシメタリ然ルニ其後状況漸次判明シ兇蕃ノ兵力意外ニ優勢ニシテ霧社一帯ノ内地人悉ク惨殺セラレ多数ノ兵器、弾薬モ亦其手ニ帰シメタリトノ情報ニ接シタルヲ以テ将来討伐ノ必要ヲ顧慮シ翌28日更ニ山砲1中隊(1小隊欠)、歩兵通信班ヲ出動シ埔里ニ増遣セリ

29日警官隊及支援歩兵中隊相踵テ霧社ニ到達ス而シテ軍ハ此日夕遂ニ台中大隊ノ主力ヲ出動セシムルト共ニ守備隊司令官ヲシテ此等諸部隊(台中大隊[1中隊欠]、花蓮港ノ歩兵1中隊、歩兵通信班、山砲中隊[1小隊欠]、及出動飛行隊)ノ指揮ニ任セシメタルモ尚飽クマテ警察官憲支援ノ関係ヲ保持シ翌30日ニ至リ守備隊司令官埔里ニ到達スル頃軍司令官ハ全般ノ状況ヲ通観シ断然兵力ヲ以テ反徒平定スルニ決シ総督ノ同意ヲ求メ同日夜ニ入リテ此旨ヲ守備隊司令官ニ電命セリ

爾来軍ハ幾多特殊困難ニ遭遇シツツ断乎トシテ武力平定ヲ敢行シ軍隊ノ勇敢ナル攻撃ハ出動数日ニシテ敵蕃ヲ悉ク「マヘボ」渓谷内ニ壓迫シ更ニ異常ナル苦心ト努力トヲ以テ之ヲ掃蕩シ遂ニ克ク兇徒ヲ膺懲シテ復タ起ツ能ハサルニ至ラシメ是ニ軍ハ出動ノ目的ヲ達成シ一部隊ヲ同地ニ残置シテ警官隊ノ支援タラシメ主力ハ11月30日ヲ最後トシ原駐地ニ撤退セリ

幸ニシテ今次ノ暴動ハ霧社蕃族ノ一部ニ限ラレ爾餘ノ蕃界ニ波及スルコトナカリシヲ以テ島内各地ノ蕃情ハ一般ニ平穏ニ経過セリ


 ・・・以下略

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霧社事件(台湾山地原住民の抗日蜂起)の真相-------------

 「戦争を語り継ぐ」のMLで「日本人は負け戦の悔いはあっても、反省がない」という主張や「戦争の後始末をきちんとすることは、平和と民主主義を掲げる国の基本である」という主張があることを知った。さまざまな戦後処理を「パンドラの箱」と扱う限り戦後は終わらない、という。その通りだと思う。そうしたことと同じような意味で、「霧社事件」の真相もしっかりとらえ直さなければいけないのではないかと思う。

 下記は「昭和5年台湾蕃地 霧社事件史」(台湾軍司令部編刊)から「第1節 事件ノ原因」の部分を抜粋したものである。その大部分が「蕃地ハ剽悍ニシテ闘争ヲ好ミ…」とか「馘首闘争ヲ敢テスル奇怪ナル習癖…」とか「世ヲ呪ヘル数名ノ不良蕃…」、「労役ヲ好マサル傾向…」、「性質不良ノ為…」、「性兇悪ニシテ酒ヲ好ミ…」「素行常ニ治マラス…」、「兇行ノ本能的衝動ニ燃エ…」、「昔日ノ放肆ナル生活ニ憧憬シ…」等々、山地原住民の習癖や個人的性格、個人的事情に事件の原因があったかのように考えていたことが読み取れる。
 事件につながった日本側の問題としてあげているのは、木材の運搬にあたっては、引き摺ってはいけない、と命令をしたこと、賃銀支払が遅れたこと、また、事件の中心的人物「モーナルダオ」の妹と結婚した巡査が妻を捨てて行方不明になったことの3つと、吉村巡査殴打事件に絡む問題を合わせて4つである。しかしながら、「証言 霧社事件 台湾山地人の抗日蜂起 アウイヘッパハ」解説-許介鱗(草風館)を読むと、真実はかなり異なるものであったことが分かる。そして、そのとらえ方の違いの中に、当時の日本人関係者の台湾山地原住民に対する差別意識や人権無視の実態が透けて見える。台湾軍司令部の文書の中にはない「事件の原因」の主なものを、アウイヘバハの証言の中から拾うと、下記の通りである。

1 銃の押収と貸与制度
  狩猟と農業を生業とする山地人にとって「銃は男の魂であった」という。台湾総督府は、山地人からその銃を押収し、官によ
 る貸与制度を実施したのである。しかも、貸与するか否かの決定権は巡査の手に握られた。巡査は容易には銃を貸してくれ
 なかったという。今まで狩猟によって得られたもので日用必需品を手にしてきたが、それが出来なくなって生活が行き詰まっ
 たというのである。そして、巡査の任意の決定権が、様々な問題を発生させたようである。

2 出迎えの強制
  駐在所に警察の上級の偉い人が巡視に来るたびに、山地人は呼び出され、整列させられ、出迎えをさせられたという。ど
 んなに忙しいときにも呼び出され、自分の仕事ができなかったというのである。また、接待のご馳走のために、山地部落の
 ニワトリなどが持って行かれたともいう。大切な財産を取られても、我慢するしかなかったというのである。

3 山地女性の差別的利用
  台湾総督府は通訳の必要性と理蕃政策推進のために、警察官吏に山地女性と結婚させる政策をとり「蕃婦関係」を官の
 政策の一環に組み入れた。しかし、それは正式な「婚姻関係」とはみなされないので「蕃婦関係」と称されたようである。そし
 て、多くの山地人女性が捨てられた。同書には、山地人女性を捨てた何人かの巡査の実名があげられている。また、籍を
 いれてもらうことができなかったために、生まれた子は法律の適用を受けることができなかったという。それだけではなく、
 巡査の強姦や強姦まがいの行為によって生まれた私生児が、山地のあちこちにいたともいう。

4 巡査の暴力
  巡査は短気で手がはやく、ちょっとしたことでも鼻血が出るまでぶったという。吉村巡査殴打事件では、「酩酊セル頭目ノ長
 男”ダダオモーナ”ハ旧知ノ間柄ナルニ依リ来リテ執拗ニ酒ヲ奨メタルカ”ダダオ”ノ手ハ豚ノ血ニ塗レ不潔ナリシヲ以テ之ヲ断
 リシコトヨリ遂ニ父子3名ニテ同巡査ヲ地上ニ捻チ伏セ殴打セル事件ナリ」とあるが、事実は、タダオモーナが血のついた手
 で差し出したドブ酒と手掴みの豚肉の饗応を、吉村巡査が所持するステッキでたたき落としたために、その好意と尊厳が傷
 つけられたタダオモーナが殴りかかったという。(この事実は「台湾の霧社事件-真相と背景-」森田俊介著(台湾の霧社事
 件刊行会)
「樺沢巡査部長の陳述要旨」にも記述されている)

5 義務出役と無賃労働
  下記には、山地人は賃銀支払いの遅延に不満をもったとあるが、駐在所の建築や道路の補修などでは、各戸順番の割り
 当てがあり、義務出役、無賃労働が多かったという。おまけに大事なときにも自分の仕事を後回しにせざるを得ず、困ったよ
 うである。また、巡査による賃金のピンハネや意図的な支払い操作があり、支払われる賃銀に差がつけられたりもしたとい
 う。さらには、巡査の妻も家事を手伝わせることがあったという。

 下記は、事件の背景にあるこうした事実に触れていない。そこに、日本の「理蕃政策」の問題や台湾統治の問題があるのだと思う。
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                            第3章 出兵ノ経緯

第1節 事件ノ原因(附図第2参照)

蕃地ハ剽悍ニシテ闘争ヲ好ミ且伝来ノ迷信ニ依リ吉凶禍福等極メテ簡単ナル日常ノ事象ニ関シテモ馘首闘争ヲ敢テスル奇怪ナル習癖ヲ有シ一度其性癖勃発シ更ニ群集心理ノ之ニ雷同スルヤ意外ノ結果ヲ惹起ス又蕃人ノ生活状態ハ今尚原始的ナル血族団体ヲ基調トシ彼等カ自社以外ノ者ニ対スル関係ハ普通ノ個人的関係ヨリモ、寧ロ直ニ蕃社全体トシテノ問題タルコト多シ今回ノ事件ノ如キモ其惨害比較的甚大ナリシハ右ノ理由ニ基クモノトス
事件ノ直接原因トナリシモノハ予テ官憲ニ快トセス且世ヲ呪ヘル数名ノ不良蕃丁等カ謂ハハ出草(首狩り)ノ道連トシテ当時小学校宿舎用木材運搬ノ苦痛カ各社蕃人ヲ通シ相当不満ノ因トナレルヲ巧ニ利用シタルコトカ頑迷ニシテ反抗心ニ燃エタル「マヘポ」社頭目「モーナルダオ」ノ意志ニ合シ突発的ニ犯行ノ挙に出タルモノニシテ短時日ノ間ニ談議実行セラレタルモノノ如ク其主ナルモノヲ挙クレハ左ノ如シ

一、建築材料運搬ノ苦痛並賃銀支払遅延ニ対スル不平
  兇行ノ原因トシテ出役ノ苦痛ハ各蕃人ノ共ニ愬フル所ニシテ最近一年間ニ約九件ノ出役工事アリ就中最近ニ於ケル小学
  校宿舎用木材ノ運搬ハ端ナクモ彼等ニ兇行ノ動機ヲ与ヘタルモノノ如シ蕃人ハ元来勇猛ヲ以テ誇トナシ労役ヲ好マサル傾
  向アルト工事ノ関係上彼等ノ生業 繁閑ヲノミ顧ミルコト能ハサリシ事情アリ加フルニ木材運搬ニ際シテ蕃人ハ之ヲ引摺ル
  習慣ナルニ拘ラス材料ノ損傷ヲ慮リ担送ヲ命令シタルコトアリ又賃銀支払モ遅延勝ナリシヲ以テ蕃人ノ間ニ漸次不平ノ念ヲ
  抱カシムルニ至レリ

二、「ピホサッポ」及「ピホワリス」等ノ画策
  「ホーゴー」社蕃丁「ピホワリス」(推定20歳)ハ少年ノ頃ヨリ性質狡猾ニシテ官命ニ従順ナラス嘗テ其従兄「ピホナウイ」カ
  家庭ノ不和ヨリ萬大社蕃童ヲ馘首セル廉ニ依リ極刑ニ処セラレタルヲ憤リ常ニ反官的態度ヲ示シ長スルニ従ヒ益々兇暴ヲ
  振舞ヒ大正14年3月萬大社蕃人ノ出草セルニ加ハリタル廉ニ依リ労役30日ニ処セラレ又昭和3年自ラ出草ヲ企テ露見シ
  テ処罰セラレタルコトアリシカ数年前萬大社蕃婦ト入夫婚姻シ既ニ5歳ノ長子アルニ拘ラス性質不良ノ為其妻トノ折合思ワ
  シカラス同社ニ居堪ラス事件2日前「ホーゴー」社ニ帰リ悲観懊悩ノ日ヲ送リツツアリタリ又「ホーゴー」社蕃丁「ピホワリス」
  (推定31歳)ハ前記「ピホナウイ」ノ従兄ニシテ性兇悪ニシテ酒ヲ好ミ其一家ハ明治44年頃官ニ抗シタル廉ニ依リ全部極
  刑ニ処セラレタルモ当時彼ハ麟家ニ在リテ処分ヲ免レタルモノニシテ成長スルニ及ヒ官憲ヲ恨ムコト甚シク機会アラハ内
  地人ヲ鏖殺(オウサツ)セント豪語シ居レル模様ナリ而モ素行常ニ治マラス家庭不和ニシテ妻ハ之カ為縊死スルニ至リ社衆ノ
  信用ヲ失フコト甚シク自棄的態度トナレリ(蕃人ハ女性ノ信頼ヲ繋キ得サルカ如キハ最大ノ恥辱トス)    
  此等失意ノ蕃人ハ兇行ニ依リ其鬱憤ヲ晴ラスヲ常トシ最モ警戒ヲ要スヘキモノニシテ事件勃発前両名ハ極度ノ精神的苦
  悩ニ堪ヘス兇行ノ本能的衝動ニ燃エ居リシハ蔽フヘカラサル所ナリ尚「ホーゴー」社ニハ右両名ノ外数名ノ不良蕃丁アリ
  何レモ労働ヲ厭ヒ木材運搬等ニ就貴不平不満ヲ漏シ10月24日後述ノ如ク「ピホサッポ」ノ家ニ落合ヒ酒興ニ委セテ慷慨
  中血気ニ逸リ兇行決行ノ議ヲ進メテ遂ニ「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」ヲシテ事ヲ擧ケシムルニ至リシモノナリ


三、「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」ノ反抗心
   「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」(推定48歳)ハ兇行ノ総指揮官ニシテ性兇暴傲岸ニシテ争闘ヲ好ミ17,8歳ノ頃ヨリ剽
  悍ヲ以テ附近ニ名アリ父「ルーダオパイ」ノ死後頭目ヲ継承シテヨリ勢力隆々トシテ霧社蕃中之ニ比肩スル者ナシ明治44
  年内地ヲ観光セルモ頑迷ニシテ時勢ヲ解セス昔日ノ放肆ナル生活ニ憧憬シ内地人ヲ駆逐シ官憲ノ覇絆ヲ脱セント企図シ
  居リシモノノ如ク大正9年及同14年ノ両度自ラ主謀者トナリテ反抗ヲ企テタルモ事前ニ発覚シ事ナキヲ得タリ又其妹ハ曩
  ニ巡査某ノ妻トナリシカ其後同人カ妻ヲ捨テテ行衛不明トナリシ事等ノ関係ニ就キテモ反感ヲ抱キ居リシ模様ナリ更ニ
  「モーナルダオ」ノ決ヲ速ナラシメタルモノハ吉村巡査殴打事件ニシテ彼ハ其非ヲ悟リ酒一瓶ヲ駐在所ニ贈リテ謝罪ノ意ヲ
  表シタルモ聴カレヅ今後如何ナル処罰ヲ受クルヤモ計ラレスト私ニ危惧シ居リシモノノ如シ


 附記 吉村巡査殴打事件トハ事件約20日同巡査カ小学校宿舎木材製材所ニ向フ途次「マヘボ」社ヲ通過スルヤ時恰モ同社ニ於テハ一蕃丁ノ結婚式ニテ蕃人約40名集合シ酒宴中ニシテ酩酊セル頭目ノ長男「ダダオモーナ」ハ旧知ノ間柄ナルニ依リ来リテ執拗ニ酒ヲ奨メタルカ「ダダオ」ノ手ハ豚ノ血ニ塗レ不潔ナリシヲ以テ之ヲ断リシコトヨリ遂ニ父子3名ニテ同巡査ヲ地上ニ捻チ伏セ殴打セル事件ナリ

而シテ既ニ述ヘタルカ如ク「マヘボ」社ハ製材地ノ入口ニ当リ出入蕃人ハ悉ク同社ヲ通過シ木材運搬ノ苦痛ヲ訴フルヲ目撃シ一層反抗心ヲ昂メ此ノ如クニシテ「モーナルダオ」一家カ懊悩焦心ノ状態ニ在リタル際「ホーゴー」社蕃丁「ピホサッポ」「ピホワリス」等ノ運動会ヲ機会ニ内地人ヲ殺戮セントスルハ謀議ヲ受ケ機乗スルヘシト為シテ之ニ同意シ大事ヲ惹起スルニ至レルカ如シ
 


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”霧社事件”天皇の「ご下問」と政府極秘文書-------------

 「霧社事件 台湾高砂族の蜂起」中川浩一・和歌森民男編著(三省堂)によると、霧社事件に関わる政府極秘文書があるという。それは霧社事件の実態と原因調査を目的として拓務省が派遣した生駒管理局長による報告書であり、その内容は総督府の『霧社事件の顛末』の内容とは全く異なる。

 極秘の印を押した生駒管理局長による『台湾霧社事件調査書』によって、政府関係者は、山地原住民が日本人を狙って136名を殺害した(ただし、その中に日本人の装いをしていたためにあやまって殺された4歳の子どもと、山地原住民に暴行を加えた店員の2人の漢民族が含まれている)霧社事件の真相をかなり正確につかんでいたことが分かる。また、この霧社事件が契機となって台湾総督府も「理蕃事業」の方針を改めたようではあるが、公式的にはあくまでも台湾総督府「石塚英蔵」名による『霧社事件の顛末』に基づいた対応がなされ、自らの非を認めることはなかった。そうした意味では、真相の把握が決定的な意味を持たなかったということである。

 事件後、味方蕃(帰順していた山地原住民)を動員し、馘首にたいして懸賞金までかけて報復ともいえる「討伐」が行われた。そして、それは第二霧社事件につながっていく。昭和初期のできごとである。山地原住民に対する差別や偏見に基づく不当な理蕃政策(当時野蛮人というような意味で蕃人とか蕃族とよばれた台湾山地原住民に対する大日本帝国政府による強制的な開化政策)が、「蕃地警察」の手によって展開された事実や理不尽な討伐によって多くの人たちの命が奪われたことを忘れてはならないと思う。
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Ⅲ 霧社事件その後

 3 真相をかくした台湾総督府

 ごまかす総督、疑う天皇


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 事件の発生からほぼ3ヶ月、蜂起を鎮圧した台湾総督府では、石塚総督が経過報告のため上京し、参内して天皇に拝謁した。そのおりに石塚総督は”一巡査の問題に端を発し、遂に彼如き事件を発生するに至りしは誠に恐懼に堪えず”と説明し、事件のとりつくろいに努めたという。
 そのことに対して天皇は、直接的にはなんの言及もしなかったが、総督の退出後、内大臣としての牧野伸顕に向かい、”右は一巡査の問題に非ず、由来、我国の新領土に於ける土民、新付の民に対する統治官憲の態度は、甚だしく侮蔑的圧迫的なるものあるように思われ、統治上の根本問題なりと思ふが如何”と下問したと、牧野からの話しを木戸が聞き書きしている点である。


 天皇の認識は、霧社事件は偶発事件ではなく、植民政策の失敗に基づく変事ととらえたもののようである。皇太子当時の台湾巡歴にさいして、山地原住民を呼称するに「生蕃」あるいは「蕃人」の語を用いるのは侮蔑の極地ゆえ、これを「高砂族」と改めるよう指示したといわれる挿話が真実であるならば、総督府官憲の失政に事件は起因するとの考え方に天皇が帰着したのは、当然ありうる判断となる。

 こうした天皇の下問にたいして、牧野伸顕の側からは、”我国の新領土の人民に対する統治方針は、度々仰出され居るごとく一視同仁たるべきは疑いなきところなるが、其の事実は往々にして侮蔑的なる態度に出るものあるは多年の病弊にして誠に遺憾とするところ”と言上したとされている。

 牧野伸顕が、霧社事件は失政にもとづく不祥事と判断した根底には、霧社事件の実態と原因調査を目的として拓務省が派遣した生駒管理局長による復命を目にし、あるいは耳にする機会を持ちあわせたためと判断される。
 生駒管理局長による報告書と称される資料は、極秘の印を押した『台湾霧社事件調査書』であり、これは山辺健太郎が国立国会図書館憲政資料室において「牧野伸顕文書」のなかから発見し、『現代史資料』22・台湾2(1971年)の刊行にあたってこれを収載している。もっとも、戴国煇によると、生駒管理局長による復命所は、「牧野伸顕」文書とは別の構成をもつ『霧社蕃騒擾事件調査復命書』として存在するとのことである。

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総督府主張を否定した政府極秘文書

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 霧社事件が、積年の搾取・酷使にたいする抵抗運動としての側面を色濃く持っていたことは、疑う余地がない。けれども、『霧社事件の顛末』は右の事実を認めず、”勇猛を以て誇りと為し労役を好まざる伝統的傾向”を有するにもかかわらず、不慣れな担送を命じたうえ、”賃金支払も遅延勝ちの状況”にあったことが、”不平の念を醸成したるもの”と書くにとどめてしまう。これにたいして『霧社事件調査
書』は、

  一頭目一族の私怨、一蕃丁の私行的出草、かかる事実は従来共屡々現れたる事象にして決して今回に始まりたるものにあらず、と記して、これを事件の主因とする見解を退けている。
 このような性格をもつ『霧社事件調査書』が重視したのは、”出役問題”としてとらえた搾取と酷使にかかわることがらであった。それが極秘文書であり、一般の目にふれる気づかいはなかったという条件があったにしても、総督府側の見解などは”一種の漫談に過ぎざるもの”ときめつけた事実に注意しなければならない。
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 蕃地に於ける此種工事に関しては従来共各種忌はしき風説を耳にすること屡々なり、殊に所謂蚩々蠢々たる蕃人使役の一条に至っては世人の批難最も濃厚なる所にして、或いは蕃人に対しては所謂義務出役と称して其の労役に対し何等労銀支払の事実なしと云ふものあり、或いは蕃人従来の慣習を無視して上述の如く之に担送其他過酷なる使役を課し、苟も従はざるものに対しては常に厳重なる制裁を加へつつありきと云ふものあり(目下尚工事中なる霧社小学校の材料運搬に際して彼等に担送を強いたることが凶変の主要原因の一つなりと迄論ずるものあり)或いは蕃地に於ける労役は大は道路橋梁の修築より小は駐在警官の日常家事に至る迄凡て蕃人をして之に当らしめつつある一面に於いて、最近工事頻に起り、イナゴ駐在所あり、霧社小学校あり、霧社公学校あり、之に続くに霧社倶楽部あり、此の如く矢継ぎ早に来る過酷なる労役が遂に蕃人をして所謂自暴自棄に陥らしめたるなりとい云ふものあり、或は蕃人に対しても時に金品の支給を為したる事実なきにあらざれども、そは殆ど往返に日を要すべき遠路難路の運搬に対しても僅かに2,30銭を給する等極めて僅少のものに過ぎざるなりと云ふものあり、更に或は担当警察官の死蔵せる現金2万円を発見したりと云ふものある等巷説誠に紛々たり。然れども本件の如きは今回の凶変に対して最も緊密なる関係を有するものと認むるを以て、本調査に於いては一切の風説を排して一に事実の根本を究むることに力め、而も其の関係数字の如きは、決して適当に渉らざることに注意せり。故に是等の数字より推して苟も不条理不穏当と目すべき廉ありとせば事実の真相に伴ふ不条理不穏当は決してより少き程度のものにあらざるを断言し得るの確信を有す。督府当局は利に敏なる蕃人に対して所謂上前をはぬる等のことはあり得べからずと声明せり。只吾人の知る所に依ればタイヤル族は威武必ずしも屈すべからず、利益必ずしも□はざるべからざる一種のプライドを有すと聞けり、而も仮に当局の言の如く彼等果たして利に敏なりとせむか、之を使役するに相当の支給を為したりとせば決して其の怨恨を買ふべき筈なきと同時に、若し反対に利を伴ふことなく而も其の最も苦痛とする労役を強ふることに依て其の不平怨恨を買ひ得たること亦極めて当然の帰結なり
督府当局の声明の如きは此の厳然たる数字と事実を無視したる一種の漫談に過ぎざるものと云ふべきなり。

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政府極秘文書『台湾霧社事件調査書』が明かす真相-----------

 「現代史資料22台湾2」(みすず書房)の中に「霧社事件」に関わる政府極秘文書が入っている。同書編者の山辺健太郎は、「最後に入れた『台湾霧社事件調査書』というのは、極秘という印をおしたプリントで、国会図書館の憲政資料室にある牧野伸顕文書のなかから私の見つけたものである。この筆者は、事件調査のために、拓務省から生駒管理局長が派遣されていることから、おそらく生駒局長であろう」と書いている。台湾総督石塚英蔵の名による『霧社事件の顛末』や、台湾軍司令部編刊の「昭和5年 台湾蕃地 霧社事件史」と読み比べると、現実に発生した「霧社事件」の理解が、立場によってこれほど違うのか、と驚かされる。『台湾霧社事件調査書』を読めば、「証言 霧社事件 台湾山地人の抗日蜂起 アウイヘッパハ」解説-許介鱗(草風館)の中で、アウイヘバハが証言していることは、ほぼ事実に違いないことが分かる。日本人の首をはねたという霧社事件は、事件そのものも恐ろしいが、そこに至る過程も、また事件後の解釈や対応も、劣らず野蛮で恐ろしいと思う。
 以下『台湾霧社事件調査書』から、総督府の見解を批判的にとらえているところや、出役・使役の実態にふれ、特に「イナゴ駐在所移転改築工事」の「労銀」に関わって、「其の不条理なること言語道断なり」と断じている部分、および「…我が殖民史上中外に対する一大汚辱たり」と結論している部分を抜粋する。こうした文書が正しく評価され、日本のその後の政策に生かされていれば、悲惨な戦争は避けられたのではないかと思われる内容である。
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                           25 牧野伸顕文書

霧社事件調査書

第2章 原因

 彼等兇蕃は前章述ぶる如き悲壮なる決意の下に彼の戦慄すべき残虐を敢えてし而して此の頑強なる抵抗を継続す。惟ふに少なくも彼等に取りて余程重大なる原因なかるべからず。今此の機に於て其の真相を究むることは将来に於ける理蕃政策上寔に重要なる意義を有すべきことに属するを以て当局は勿論吾人と雖も飽迄其の闡明に努むるの責務あるを感ぜずんばあらず。


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 以上両発表を閲するに何れも甚だ冷々淡々として恰も些々たる一突発事件を取り扱うが如き態度あるに止まり、斯かる一大兇変の原因として吾人を首肯せしむべき何等の事実を発見し得ざるの憾あり。殊に2日の発表中「賦役回数の増加」の項に於て「……然るに最近各蕃社共(註、此の「各蕃社共」は多分「各蕃界駐在所共」の意味ならん、若し然らざれば各蕃社自ら進んで其の陋習改善に力めつつ而も之に含む所ありとは自家撞着なるを以てなり)争つて其の改善に力むる傾向あり。其の結果として勢ひ出役回数の増加するは免れざる所にして之に含む所ありたるものと推せらる」と説明しあり。然るに、18日の発表に於ては「……肩が痛い等と云つて居た、是等は極めて普通のことで特に彼等の恨みを深くしたような事はない」と言明して此の労役問題を原因中より排除しあり。今此の労役問題を原因中より除外することは本事変を何処迄も一の突発事件として処理する上に於ては極めて都合好きことに属すべしと雖も、事実は決して然らざるのみならず此の労役問題而も最近に於ける苛酷なる使用事件こそ寧ろ今回兇変の直接原因と認むべき事情あり。今重なる原因と目すべきものを仮に部分的原因及一般的原因の2項に分かちて詳述する所あらんとす。

第1項  部分的原因

 1 蕃婦の差別待遇  略
 2 無理解に基く拘禁 略
 3 ピホサツポ事件  略

第2項  一般的原因
 前項述ぶる所の所謂部分的原因と云ふが如きは実は殆ど対人的事実にして本兇変に対しては只一の導火線的役目を為したるに過ぎず。然れども本項述べんとする所謂一般的原因に至つては即ち然らず。例えば導火線に対する敷設地雷なり、而して其の害や普遍的なり、其の災や甚大なり、一頭目一族の私怨、一番丁の私行的出草、かかる事実は従来共屡々現はれたる事象にして決して今回に始まりたるものにあらず、然るに斯かる有り触れたる蕃界の事例に因りて何故に斯かる爆発が導かれたるか、而も其の爆発が何故に此の如く大なりしか、何故に所在響応の一大事変を惹起せしめたるか、換言すれば此の一般的原因と称するは一面より観れば正に理蕃事業に対する最高政策の当否如何に触るべき問題にして吾人の最も探求に力めむと欲する所なり。


1 出役問題

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 尚此の使役に当たって必ずしも予算面の如き労銀を支給せざりしこと殆ど公知の事実に属するものにして、試みに最近行はれたる顕著なる実例としてイナゴ駐在所移転改築工事を引例せん。

 本工事は昭和5年3月初旬着手同3月31日竣工したるものの如く形式を整へ居れども事実は10月中旬に入りて竣工したるものにして、事務室及宿舎一棟31坪5合5勺、警手宿舎一棟15坪、浴室便所一棟4坪5合、総計51坪5勺を工費1500円(坪当たり29円40銭)にて完成したることになり居れり。而して当初の予算内訳を見るに材料費として164円50銭、労力費として1335円50銭を計上しあるも此の所謂労力費なるものは事実に於て種々なる他の経費に差し向けられ、関係書類に依れば材料費313円25銭、器具費56円45銭、職工費は167円67銭、人夫費762円63銭、合計2000円として辻褄を合わせあり(この予算超過額500円は如何なる方途によりて填充すべき意向なりしや不明なり)。而も右人夫費762円余も実は全部蕃人人夫に支払はれたものにあらざりしことは更に他の証憑書類に依りて明らかとなれり。即ち霧社分室金庫内に発見せられたる出役蕃人仕払い領収証なるもの之れなり。此の領収証には蕃人のものとも見るべき怪しげなる拇印を押捺しけり。其の総計金額は564円40銭にして前記人夫賃より更に約200円の減少なり。尚此の証憑書類に依れば、蕃人1人当たり1日40銭を支給しありて、此の564円40銭は即ち延人員1411人分の支給額に相当す。

 本工事は移転と云ふと雖も実は新築にして其の木材は霧社、バーラン、万大方面の蕃人を使役して遠く濁水渓の対岸より運搬せしめたるものなるを以て、運材其の他の人夫として坪当たり45人以上を要したるものと見るべく(当地附近に於ける類似の工事を検するに埔里武徳殿は建坪65坪にして使用延人員3380余人、即ち坪当たり約52人、又霧社小学校寄宿舎新築工事の設計書を見るに72坪余りに対して人夫3000人を計上し、即ち坪当たり41人強となり、故に今其平均を取りて仮に45人と計算す)、総計約2300人以上の運材人夫を要したるは、勿論なり。果して然らば上記762円余又は564円余の金額は到底一人当たり24,5銭乃至33,4銭以上の支給を許さざる計算なり。更に驚くべきは前掲職工費の名目の下に支出されたる867円余は実際上自ら大工左官等の役割に当りたる付近駐在所職員自身の取得額にして、之が濁水渓越を為せる2300人の人夫賃を超過し居る点にして其の不条理なること言語道断なり。

 蕃地に於ける此種工事に関しては従来共各種忌はしき風説を耳にすること屡々なり。殊に所謂蚩々蠢々たる蕃人使役の一条に至つては世人の批難最も濃厚なる所にして、或は蕃人に対しては所謂義務出役と称して其の労役に対し何等労銀支払の事実なしと云ふものあり、或は蕃人従来の慣習を無視して上述の如く之に担送其他過酷なる使役を課し、苟も従はざるものに対しては常に厳重なる制裁を加へつつありきと云ふものあり(目下尚工事中なる霧社小学校の材料運搬に際して彼等に担送を強ひたることが兇変の主要原因の一なりと迄論ずるものあり)、或は蕃地に於ける労役は大は道路橋梁の修築より小は駐在警官の日常家事に至る迄凡て蕃人をして之に当らしめつつある一面に於て、最近工事頻に起り、イナゴ駐在所あり、霧社小学校あり、霧社公学校あり、之に続ぐに霧社倶楽部あり、此の如く矢継ぎ早に来る過酷なる労役が遂に蕃人をして所謂自暴自棄に陥らしめたるなりと云ふものあり、或は蕃人対しても時に金品の支給を為したる事実なきにあらざれども、そは殆ど往返に日を要すべき遠路難路の運搬に対しても僅に2,30銭を給する等極めて僅少のものに過ぎざるなりと云ふものあり、更に或は担当警察官の死蔵せる現金2万円を発見したりと云ふものある等巷説誠に紛々たり。然れども本件の如きは今回の兇変に対して最も緊密なる関係を有するものと認むるを以て、本調査に於ては一切の風説を排して一に事実の根本を究むることに力め、而も其の関係数字の如きは決して過当に渉らざることに注意せり。故に是等の数字より推して苟も不条理不穏当と目すべき廉ありとせば事実の真相に伴ふ不条理不穏当は決してより少き程度のものにあらざるを断言し得るの確信を有す。

 督府当局は利に敏なる蕃人に対して所謂上前をはぬる等のことはあり得べからずと声明せり。只吾人の知る所に依れば、タイヤル族は威武必ずしも屈すべからず、利益必ずしも(?)はざるべからざる一種のプライドを有すと聞けり、而も仮に当局の言の如く彼等果して利に敏なりとせむか、之を使役するに相当の支給を為したりとせば決して其の怨恨を買うべき筈なきと同時に、若し反対に利を伴ふことなく而も其の最も苦痛とする労役を強ふることに依て其の不平怨恨を買ひ得たること亦極めて当然の帰結なり。督府当局の声明の如きは此の厳然たる数字と事実とを無視したる一種の漫談に過ぎざるものと云ふべきなり。

 2 人事問題    略
 3 郡警分離問題  略

第3章

 第1項 余録
 第2項 結論
 要するに現督府当局は久しく綱紀のの粛正を怠り監督を忽諸にし下僚をして暴戻を恣にせしめ以て蕃界一般に不平反抗の気分を醞醸せしめ、殊に理蕃関係の人事を濫りにし蕃界の事情に通ぜざるものを配置して蕃情の察知を欠き、併せて屡々勃発の動機を作らしめ、更に当局自ら蕃政閑却を暴露すべき軽々しき声明を敢へてし、特に理蕃関係官吏をして過度の弛緩気分、荒怠気分を起さしめ其の結果徒らに事態の重大を馴致せしめたり。換言すれば今次の兇変は如何に粉飾し糊塗せむとするも督府当局の所謂突発事件等にあらざること明瞭にして、既に其の失政に因りて敷設せられ、其の失政に因りて爆発せされ、而して其の失政に因りて拡大せられ、その結果200の無辜を殺戮せしめ、延いて同じく 陛下の赤子たる幾百の新付を族滅せしめつつあり。正にこれ所謂豆を煮るに萁を以てするの悲惨事にして、実に昭和未曾有の一大不祥事なると共に又我が殖民史上中外に対する一大汚辱たり。苟も其の局に当たるものは勿論吾人局外者と雖率直に明白に其の由来する所を究め以て将来の対処に資するの責務あるを感ずるものなり。蓋し此の如きは以て惨禍の幾分を讀ひ得るの方途たると共に、又以て無告の犠牲者に対する弔慰の第一義たるべきを信ずればなり。(昭和5年12月1日)

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霧社事件と毒ガス使用の「蕃人」(山地原住民)討伐------------

「台湾秘話 霧社の反乱・民衆側の証言」林えいだい(新評論)の中に、まさに霧社事件勃発当時(1930年10月27日)、台中州員林郡社頭小学校に教員として赴任していた河口又二の毒ガス使用に関する証言がある。信じがたい証言ではあるが被害山地原住民の多くの証言や当時の報道、軍の記録などが、それが真実であることを物語っている。山地原住民の証言の中には、当時の「蕃地」駐在所巡査の多くが、山地原住民を人間扱いしなかったために霧社事件が起こった、というものが多々あるが、総督府の理蕃政策関係者や台湾軍関係者も、同じように山地原住民を人間扱いしなかったということなのだろうと思われる。下記は、霧社事件後、日本人を殺戮した「蜂起蕃」討伐のために、毒ガスを使用したことを証す中山巡査の話しの部分を抜粋したものである。
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                     まえがき ──── 霧社事件検証の旅

1 霧社事件の生き証人たち

 毒ガス生体実験の真相


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 霧社事件が勃発する半年前の1930年(昭5)4月、河口は台中州員林郡社頭小学校に教員として赴任すると、ブヌン族の卓社(タクシャ)を中心に原住民の民族文化の調査を始めた。その頃、小学校の近くにあった派出所に勤務していた、熊本県出身の中山又雄という同年輩の巡査と親しくなった。
 10月27日午後、中山が背嚢(ハイノウ)を背負い、銃を手にして小学校の職員室にやってくると、「霧社で蕃害(バンガイ)事件が起こったので、いまから出動します」と挨拶した。
 事件勃発で台中州管内の巡査に非常招集がかかり、中山たちが鎮圧のために出動したことを数日後の新聞で河口は知った。
 約1ヶ月後、中山が社頭に帰ってきたと派出所の警手が知らせてくれた。河口は事件の様子を聞くために、派出所の官舎に中山を訪ねた。すると彼は激しい咳をしながら、苦しそうに布団の中に横たわっていた。
「どうしたんだ、その格好は?」
「毒ガスにやられた。どうして俺がこんな目に遭わんといけんのかのう……」
 日頃の中山とは別人のように、弱々しくつぶやくようにいった。手足の布団から出ている部分には水泡ができて、呼吸が困難なほど咳き込んでいた。


 中山の話によると、員林郡の巡査はまずトラックで埔里に送られた。ただちに警察隊が組織され、霧社への攻撃が開始された。霧社を占領すると中山は捜索隊本部付きとなり、水越台中州知事の身辺警護を命じられた。
 まもなく、台湾軍から派遣された鎌田支隊(鎌田少将が指揮をとっていた)が到着して、霧社分室が討伐隊本部となった。分室には鎌田少将、服部参謀、憲兵隊長、水越知事、総督府警務局森田理蕃課長が集まり、蜂起したセーダッカに対する討伐作戦会議が連日開かれた。
 11月初め、中山が参謀室にお茶を持って行くと、服部参謀と水越知事が激論しているところだった。服部参謀は、兇蕃(キョウバン)鎮圧のために、軍側は最後の手段として毒ガス弾を使用するといい、水越知事がそれに猛反対していたのだった。
「貴官らのこれまでの理蕃政策が悪いから、軍の出動という事態になったんだ。反抗する蕃人(バンニン)は一人でも生かしておくいわけにはいかん。毒ガスで皆殺しだ!」
「服部大佐、私は州知事として軍の出動を要請したが、鎮圧の手段として毒ガスを使用することだけは人道上絶対に許せません。それだけは止(ヨ)してください!」
 いまにも互いに掴みかかろうとした時、副官が駆け寄ってきて2人をなだめ、騒ぎは収まった。
 11月中旬、軍側の主力が台北に引き揚げることになり、警察隊と交代した。その頃、マヘボ渓の岩窟に籠って抵抗する蜂起蕃(ホウキバン)に対して、軍が毒ガス攻撃を行っているという噂が飛んだ。まもなく台北陸軍病院から数人の軍医将校が霧社に来て捜索隊が編成され、中山もその一員になった。隊員には奇妙な格好のマスクが渡され、軍医から装着方法の実習を受けた。
「お前たちはこれからマヘボ渓に行くことになった。毒ガスにやられた負傷者を担送して、ボアルン社の野戦病院まで届けてくれ」
 能高郡役所の江川警察課長が命令した。


 中山たち捜索隊員は、味方蕃(ミカタバン)の壮丁(ソウテイ)(蕃地の若者・壮年男性)の案内でマヘボ渓の険しい道を登って行った。倒れて苦しんでいる者を担架に載せると、2人でマヘボ社まで下ろした。休憩すると再び担架を抱え、2時間かけてボアルン社まで運んだ。負傷者は、みな生きてはいるが、全身がただれてもがき苦しんでいた。

 ボアルン駐在所前にある蕃童教育所の前に設置された臨時野戦病院では、3人の軍医がメスを持って待っていた。にわか仕立ての手術台の上に負傷者を載せると、赤い蕃布の胸をはだけてメスを入れた。それは投下した毒ガスの効果を調べるための生体解剖だった。解剖が終わった遺体は、味方蕃の壮丁たちのよって運び去られた。

 そのうち中山は意識不明に陥り、気がついた時は霧社診療所にある救護班のベッドの上だった。顔は腫れ上がり目が見えないほどで、全身に激痛が走り、明らかな毒ガス症状を呈していた。隣のベッドにも捜索隊員が入院していたが、手足に水疱状のものができて苦しんでいた。中山は心配になり、たまたまそこへ知り合いの二水駐在所の公医が派遣されてきたので、治療方法はないのかとたずねた。すると、「原因不明の病気だが、社頭へ帰って休養しておれば自然に回復するよ」といわれた。
 
 宿舎に見舞いに行った河口は、中山の症状を見て、これはただごとではないと思った。手足表面の皮膚が火傷したようにただれ、水疱状のブツブツができていた。河口は子どもの頃、天ぷら油が飛び散って火傷した時、母親が馬鈴薯をおろして金でおろして傷口につけてくれたことを思い出した。さっそく官舎にとって返し、田舎から送ってきたばかりの馬鈴薯を持って官舎へ戻った。馬鈴薯をおろして中山の手足に塗り、その上を包帯で巻いてやった。


 数日後、小学校に台中の憲兵隊から下士官2人が来て、河口を員林警察署へ連行した。
「中山がお前に何を話したか知らんが、このことは一切口外してはならない。お前が命令を聞かないで人にしゃべったら、軍法会議にかけ銃殺する!」
 一人の憲兵は肩から吊したピストルを外すと、河口に銃口を突きつけて激しい口調で口止めした。河口はその時の憲兵の態度と苦しむ中山の症状が、いまも忘れられないという。
 翌日、中山は台中陸軍病院に送られ、それ以後消息を絶った。河口は戦後、台湾から引き揚げたあと、北九州市内の中学校に勤務しつつ、霧社事件の研究を続けた。


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第二霧社事件の陰謀-小島源治巡査部長の告白-----------

台湾霧社において、理蕃政策に抗議し蜂起した山地原住民壮丁(ソウテイ)は、日本人だけではなく、漢民族や山地原住民も大勢が集まっている運動会場を襲い、女・子どもを含む134人の日本人を集中的に斬首するなどして虐殺した。総督府は直ちに台湾全島より警察官約1000名を動員して討伐隊を組織するととに、台湾軍にも出動を要請した。そして蜂起した山地原住民「皆殺し」の討伐に乗り出すが、討伐に手こずった日本側は、その際蜂起しなかった蛮人(山地原住民)を味方蛮として利用した。蜂起蛮(蜂起した蛮人で敵蛮・反抗蛮などとも呼ばれ、投降し保護されてからは保護蛮とも呼ばれた)の首に破格の賞金をかけた日本側の作戦によるこの同族同士の殺し合いが、
第二霧社事件の悲劇へと発展するのであるが「昭和の大惨劇 霧社の血桜」江川博通(森永印刷)には、第二霧社事件を嗾けた小島源治巡査部長の告白文がある。下記、秘録タウツア蛮(味方蛮)保護蛮襲撃の動因の<>内がそれである。
 この本の著者「江川博通」は、当時の事件地を管轄する能高郡警察課長であったという。彼は同書の中で、「第二霧事件と筆者の感慨」と題して「また、飛行機は日に数回波状爆撃を敢行し、焼夷弾、催涙弾、爆弾投下を続行し、その都度家は焼け、巨木は裂け倒れ、人畜にも数十の死傷をだした。斯くの如くして、反抗蛮のせん滅を期したのであるが、かかる威力を有する討伐隊が、なお且つ、いわゆる味方蛮なるものを駆り立てて、彼ら間の怨恨仇敵感を一層増長深刻化せしめ、蛮地に不穏な空気を醸成せしむる必要があるであろうかとも思った。然るにはしなくも、この後者の戦術が第二霧社事件の主因となったのである。」と書いている。

※ 当時、台湾の山地原住民を蛮人(蕃人)とか生蕃と呼んでいた(また彼らの居住地は蕃地などと呼ばれた)が、差別的であ
  るということで、その後、高砂族などと呼ばれるようになった。ただここでは著者の使った漢字(蛮)や言葉遣いに従った。
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                                 第二霧社事件

 昭和6年4月25日、台湾台中州能高郡蕃地霧社地方において、昨秋の霧社事件の際我官憲に強力した、味方蛮中のタウツア蛮が保護蛮(霧社事件の反抗蛮にして、討伐中投降したる男女514名を収容保護中の者)を奇襲して一挙に男女計190名を殺害し、その他縊死者19名行方不明者9名を出した。いわゆる第二霧社事件なるものがぼっ発した。

 ・・・(以下略)
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   秘録タウツア蛮保護蛮襲撃の動因

 私は昭和43年3月14日小島源治氏に対し、昨年9月受領した同氏よりの書簡中、理解し難い点があったので、質問状を書いたところ3月18日回答があった。それはタウツア蛮が、保護蛮を奇襲殺害したと伝聞した瞬間、私の脳裏に走った、もしかしたらと思ったものに対する回答でもあった。則ち次の通り書いてある。


 お手紙によれば、霧社事件のことを「霧社の血桜」という題名で、追想録を著作なされている由。私共33年も在住して本籍地同様の台湾霧社は、桜の名勝で観光地として有名であったが、今日では外国となり淋しさを感ずる破目に落ちたるものを追想されるとは、万感の思い出であります。歴史は幾多の犠牲的精神のこもった昔を振り返り、後生に伝えるべき当然の義務であります。宜敷御願い致します。───と前置きして筆を進めている

 <私が前に霧社事件について終始まで完結同然だと申したのは、同事件のあったことだけを差したのではなく、霧社事件、第二霧社事件にあったことに、思いを及ぼして書いたものであります。御承知の通り、第二霧社事件の原因は、敵蛮ボアルン社、マエボ社、ホーゴー社等の蛮人を桜駐在所附近に収容して、桜社と称し、保護したことに問題があるのです。霧社事件が片付き収容中の敵蛮が耕作農業を開始し、彼らが農作に従事しているところを、味方蛮が襲って馘首するので、官憲としては味方蛮に銃器を貸与しておいては不穏情勢は絶えないとして、味方蛮に貸与銃器弾薬の返納を勧告することとなり、三輪警務部長、宝蔵寺警察課長一行は、警察隊、機関銃隊2個小隊を率いて、タウツア駐在所に来て勧告しました。私がタウツア社頭目勢力者と話し合った結果の蛮情は、今貸与銃を取られたら、われわれは味方蛮として反抗蛮討伐の際、相当の犠牲を出している。敵意はこの後にある。われわれが埔里、または霧社に出入りする際マヘボ社、ボアルン社の蛮人から、何時なんどき殺されるか知れない。貸与銃を取り上げられることは、蟹が足をもぎ取られると同然であるから、平穏になるまで貸しておいてもらいたいとの陳情があった。宝蔵寺さんも困り三輪さんと打ち合わせた結果、本日は考えてみるということになった。タウツアは至難と見た一行は、トロック社を先にすることに変更した。

 このとき宝蔵寺課長は、密かに小島ちょっと来いと駐在所裏に回った。談合はいろいろあったが、詳細は抜きにして要点だけ述べると、極秘密裏に今夜中に、保護蛮を襲撃して鬱憤を晴らさせては如何か、そして其後で銃器全部を提供させるという、内容のものだった。依って小島は、警備員に秘密に駐在所を抜け出し、タウツア蛮頭目勢力者と会い、前記話の内容を示したところ、彼らは喜んで諾し、警備員にかくれて蛮社を出発し、途中警備配置のある道を避け山越えして、夜明前に桜社を襲撃した。タウツア蛮が保護蛮の首級101個を馘首したこと、ご存じと思います。駐在所では、私が職員、警備員にも極秘にしていたため、誰一人としてタウツア社の行動を知れる者なく、桜駐在所の樺沢警部補からの電話通報で始めて知って驚いた。

 トロック宿泊中の宝蔵寺課長の命令で、小島は事件阻止のため、巡査27名を引率して、現場桜社に向かった。途中首を取った者、負傷した者たちの帰社するのに出会った。彼らの中には、桜駐在所の日本人警察から、機関銃で射たれ酷い目に合った。機関銃さえなければと、くやしがる者もあった。現場に着きなお活躍中の者をやめさせ、これを伴い帰途についた。途中まで私を迎えに来た宝蔵寺課長は、私に対し密かに言った。「警察部長さんには蛮人の出草を少しも知らず、申訳ないとあやまって呉れ、それだけでよい。他のことはなにも言わないで、ただあやまれ」と申されたので、三輪さんには申訳ないの連発であった。然し、貸与銃引き揚げは直ちにやれと申されるので、午後1時ごろまでに弾薬並びに銃器一ちょうの残りもなく押収提出した。この事件でタウツア蛮丁は機関銃のため、死者1、負傷者5~6名を出した。

 官憲では、再度の襲撃を憂い極度に恐怖している生存保護蛮の、川中島移住を説得し、1週間も経たぬ間に移住せしめた。その後味方蛮へは、反抗蛮討伐の功績により、トロック蛮にマヘボ、ボアルン両社の耕地を与え、タウツア蛮にはホーゴー社の土地を分割して与え、一部をそれぞれの土地に移住させた。私に残された問題は、タウツア蛮が無断で保護蛮を襲撃した責任者として、不届のかどで罰俸処分を受け、警部補任官も昭和9年4月6日に延期され、昭和11年3月31日依願免官となった。これも、宝蔵寺さん、三輪警務部長さん、坂口警務部長さん、並びに総督府斎藤警部さん方の大変なお骨折りで、懲戒免職にもならず、今日田舎で恩給生活をしています。昔勤めた思い出の多い霧社は、永遠に忘れられません。

 この返事には、ロードフ収容保護蛮襲撃のことは書いていないが、前記馘首した101の首級は、スーク、ロードフ2カ所における合計である。ロードフ収容所襲撃部隊は、スーク襲撃隊と同時にタウツアを出発、文字通り胸突くような険路を、いわゆる草木も眠る丑満ごろ粛々として、蛮路を辿って攀ぢ登り立鷹に到達した。この辺一帯は標高2700メートル以上の連山で、この高地から一気にロードフに馳せ下り、源九郎義経の鵯越逆落としさながらの奇襲戦法で、本意を成し遂げたのである。かくてこの両所襲撃で大戦果を挙げた、タウツア蛮の会心の笑を面のあたりに見る心地がする。これが彼らの哀惜措く能わざる銃器弾薬を、断固全部提出をもたらしたる所以でもあり、また小島源治氏の言う、犠牲的精神発露の成果でもある。


 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。

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