-NO246~253
------------文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問その5-----------

 外務省は尖閣諸島について「
1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」というが、その事実を公にする正式文書がないようである。閣議決定の記録が尖閣諸島の領有を示す正式の公文書であるというのでは、国際法的にも通用しないのではないかと思う。閣議決定の内容は、閣議決定をもとめた内務省の「請議案通り」ということなのである。領有を閣議決定したら、それを受けて関係省庁が領有することとなった島々の名称、位置(経度や緯度)、区域、所管庁、地籍表示、領有開始年月日などを官報に掲載し公示するとともに、文書をもってその事実を関係国に通告する必要もあるはずである。尖閣諸島に関しては、そうした文書がないのである。

 内務省の請議案には「久場島」「魚釣島」の名称が使われている。おまけに周辺の他の島は入っていない。当然のことながら、尖閣諸島という名称も使われてはいないのである。同月21日に内務大臣から沖縄県知事に「標杭建設ニ関スル件請議通リ」という指令が出ているが、これはあくまでも標杭建設の指示で、領有を公にする文書ではない。1970年に琉球政府が「
明治28年1月14日の閣議決定をへて、翌29年4月1日、勅令第13号に基づいて日本の領土と定められ、沖縄県八重山石垣村に属された」としたが、その「勅令第13号」には、「久場島」「魚釣島」という名称さえ書かれておらず、尖閣諸島領有に関わる言葉や文面は、下記の通りまったくない。やはり、日清戦争のどさくさに「窃取」したために、きちんとした手続きに基づいた証拠書類を残せなかったと考えざるを得ない。

 明治天皇の特別命令で大本営の会議に列席し、意見を述べた伊藤博文の「…
あらかじめここを軍事占領しておくほうがいい…」というような戦略論によって、日清戦争の最中に尖閣諸島の領有が決定されたとすれば、それは台湾割譲と切り離すことはできないと思う。「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋である。
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13 日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である

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 朝日新聞の社説「尖閣列島と我が国の領有権」(1972年3月20日)は、もし、釣魚諸島が清国領であったならば、清国はこの地の日本領有に異議を申し立てるべきであった、しかるに「当時、清国が異議をもうしたてなかったことも、このさい指摘しておかなければならない。中国側にその意思があったなら、日清講和交渉の場はもちろん、前大戦終了後の領土処理の段階でも、意思表示できたのではなか
ろうか」という。


 しかし、日清講和会議のさいは、日本が釣魚諸島を領有するとの閣議決定をしていることは、日本側はおくびにも出していないし、日本側が言い出さないかぎり、清国側からはそのことを知るよしもなかった。なぜなら例の「閣議決定」は公表されていないし、このときまでは釣魚島などに日本の標杭がたてられていたわけでもないし、またその他の何らかの方法で、この地を日本領にすることが公示されてもいなかったから。したがって、清国側が講和会議で釣魚諸島のことを問題にすることは不可能であった。
 
 また、第2次大戦後の領土処理のさい、中国側が日本の釣魚諸島領有を問題にしなかったというが、日本と中国との領土処理は、まだ終わっていないことを、この社説記者は「忘れて」いるのだろうか。サンフランシスコの講和会議には、中国代表は招請されるということさえなかった。したがって、その会議のどのような決定も、中国を何ら拘束するものではない。また当時日本政府と台湾の蒋介石集団との間に結ばれた、いわゆる日華条約は、真に中国を代表する政権と結ばれた条約ではないから──当時すでに中華人民共和国が、真の唯一の全中国の政権として存在している──その条約は無効であって、これまた中華人民共和国をすこしも拘束するものではない。すなわち、中国と日本との間の領土問題は、まだことごとく解決されてしまったわけではなく、これから、日中講和会議を通じて解決されるべきものである。それゆえ、中国が最近まで、釣魚諸島の日本領有に異議を申し立てなかったからとて、この地が日本領であることは明白であるとはいえない。

 明治政府の釣魚諸島窃取は、最初から最後まで、まったく秘密のうちに、清国および列国の目をかすめて行われた。1885年の内務卿より沖縄県令への現地調査も「内命」であった。そして外務卿は、その調査することが外部にもれないようにすることを、とくに内務卿に注意した。94年12月の内務大臣より外務大臣への協議書さえ異例の秘密文書であった。95年1月の閣議決定は、むろん公表されたものではない。そして同月21日、政府が沖縄県「魚釣」、「久場」両島に沖縄県所轄の標杭たてるよう指令したことも、一度も公示されたことがない。それらは、1952年(昭和27年)3月、『日本外交文書』第23巻の刊行ではじめて公開された

 のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。標杭がたてられたのは、じつに1969年5月5日のことである。すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、この地の領有権が日中両国間の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、長方形の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた。これも法的には日本国家の行為ではない。

 
つまり、日本政府は、釣魚諸島を新たに日本領としたといいながら、そのことを公然と明示したことは、日清講和成立以前はもとより以後も、つい最近まで、一度もないのである。「無主地」を「先占」したばあい、そのことを国際的に通告する必要は必ずしもないと、帝国主義諸国の「国際法」はいうが、すくなくとも、国内法でその新領土の位置と名称と管轄者を公示することがなければ、たんに政府が国民にも秘密のうちに、ここを日本領土とすると決定しただけでは、まだ現実に日本領土に編入されたことにはならない。

 釣魚諸島が沖縄県の管轄になったということも、何年何月何日のことやら、さっぱりわからない。なぜならそのことが公示されたことがないから。この点について、琉球政府の1970年9月10日の「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」は、この地域は、「明治28年1月14日の閣議決定をへて、翌29年8月1日、勅令第13号に基づいて日本の領土と定められ、沖縄県八重山石垣村に属された」という。
 これは事実ではない。「明治29年勅令第13号」には、このようなことは一言半句も示されていない。次にその勅令をかかげる。


 「朕、沖縄県ノ郡編成ニ関スル件ヲ裁可シコレヲ公布セシム。
    御名御璽
 明治29年3月5日
                   内閣総理大臣侯爵  伊藤博文
                   内 務 大 臣   芳川顕正
   勅令第13号
 第1条 那覇・首里区ノ区域ヲ除ク外沖縄県ヲ盡シテ左ノ五郡トス
  島尻郡  島尻各間切、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島
  鳥島及ビ大東島
  中頭郡  中頭各間切
  国頭郡  国頭各間切及ビ伊江島
  宮古郡  宮古島
  八重山郡 八重山諸島
 第2条 郡ノ境界モシクハ名称ヲ変更スルコトヲ要スルトキハ、内務大臣之ヲ定
  ム。
    附則
 第3条 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム。」


 ・・・(以下略)

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「尖閣諸島」原田禹雄著の疑問点(尖閣領有問題その6)----------

 古来「標識島」として以上の価値があったとは思えない無人島の領有意識が、現在の尖閣諸島領有にとって、それほど決定的で重要であるとは思わないが、きちんとその歴史をふまえることは必要であると思う。そういう意味では「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」原田禹雄著(琉球国榕樹書林)に学ぶことは多い。しかし、全体的には、あまりにも「井上」憎し(「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」第三書館の著者井上清)の感情が強いために、冷静な論理的批判になっていない面があるように思われる。

 例えば、下記の抜粋部分でいえば、「小琉球」・「鶏籠」は現在の台湾であり、当時中国領土とはされていなかったと断定し、台湾を中国領とらえている井上の主張は「完全に虚構である」という。しかしながら、当時そう断定できるほど強くてはっきりとした領土意識で台湾を他国領として切り離して考えていたのかどうか、疑問に思われる。また、他国領だと意識されていたとしても、それでは、「界スル」という言葉をどのように理解するべきか、どことどこを「界スル」と読むべきなのか、きちんと論じなければならないと思う。

 また、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(チュウカイズヘン)に、中国領ではない鶏籠山(台湾)が描かれているから、尖閣諸島がそこに描かれていても、井上がいうように中国領とはいえないと主張する。だとすれば、逆に、倭寇に対峙した中国の名将胡宗憲が、なぜ他国領である鶏籠山(台湾)を倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した『籌海図編』に書き入れたのか、を説明しなければならない。そうしたことを何も説明せず、井上の主張は根拠がなく虚構である言い張るのは、論理的批判ではなく、感情論であると思う。

 さらにいえば、井上清の「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」(第三書館)は、過去の文献だけではなく、「尖閣諸島」領有の閣議決定にいたる歴史的背景やその手続き上の問題点を詳細に明らかにして、「日本帝国主義の再起の危険」を論じているのである。いくつかの文献解釈のみで、井上の主張は「完全に虚構である」と全面否定してしまう姿勢に、問題を感じざるを得ないのである。

 下段は、李鼎元(リテイゲン)が「中外ノ界」という意味の溝(郊)の存在を否定した冊封使録『使琉球記』の中の一部であるが、著者は、この李鼎元の「…深くて静かな教養に満ちた文章の中へ、井上清が土足で踏み込んできて…」と主張し、「…どちらが異常かわかっていただけよう。…」という。では、彼の前の冊封使のみでなく、彼の後の冊封使も「中外ノ界」を認めたのはなぜかということ、特に「徐葆光」が「渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、とくに中国人専門家をつれて」きて琉球の専門家を相談相手とし、8ヶ月間研究を重ねて書いた『中山傳信録』の中に、姑米島(クメジマ)について「琉球西南方界上鎮山」とあることについては触れていない。李鼎元の文章がどんなに美しかろうが、やさしかろうが、そうしたことに触れることなく、下記の文章をもって、それらを全面否定することには無理があると思う。

 つけ加えるならば、尖閣諸島(釣魚諸島)は、中国大陸からはり出した大陸棚の南のふちに東西に連なっている。列島の北側が水深およそ200メートルの青い海であり、南側には水深2000メートル前後の海溝がある。そして黒潮が西から東へ流れているのである。したがって赤尾嶼付近の南側が深海溝の黒潮の色であり、大陸棚の海の色との対照があざやかであるという事実、また沿岸流と黒潮の流れがぶつかることによって海があれるため、海難よけの祭り「過溝祭」が行われたという事実、そして、汪楫などがそこを「溝」あるいは「郊」または「黒溝」、「黒水溝」などとよび「中外ノ界ナリ」と明記している事実について、それを覆す事実を提示することなく、釣魚島の近くで「過溝祭」をやったという李鼎元の文章のみによって、それらを全面否定することはできないと思うのである。下記は、「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」原田禹雄(琉球国榕樹書林)からの一部抜粋である。
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3 明代の尖閣諸島

 井上は、明代の冊封使録に、赤緒嶼が中国領の東のはしの島、そして次の久米島が、最初の琉球領であると主張している。そして、その根拠として、陳使録の、

 (嘉靖13年 1534)11日の夕方、古米島(クメジマ)が見えた。つまり、琉球の領土である。

と、いう記述と、郭使録の、

 (嘉靖40年、1561)閏5月1日釣(魚)嶼を通過した。3日赤嶼についた。赤(尾)嶼、琉球地方を境する島である。更に1日の風で、姑米島(クメジマ)があらわれるはずであった。

と、いう記述を引用している。そして、井上は、次のように主張する。


 なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球でないだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう1日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。

 念のために、郭汝霖の通過した標識島を使録からあげると、東湧山、小琉球、黄茅、釣嶼、赤嶼である。東湧山は中国固有の領土であることを、私もまた認める。しかし、小琉球=台湾が、明代に中国固有の領土であることを私は認めない。『明史』巻323の列伝210の外国4に、「鶏龍」がある。この鶏龍こそが、今、いうところの台湾なのである。従って郭の通過した小琉球は、井上のいうような「中国領であることは自明の島」では、断じてない。従って、明代の尖閣諸島に対する井上の主張の根拠は、完全に虚構なのである。

 井上は、更に、『籌海図編』をとりあげて、『籌海図編』に描かれている島々は、中国領以外の地域は入っていないので、尖閣諸島が、そこに描かれているから、尖閣諸島は中国領なのだ、と主張している。本書に、『籌海図編』の相当する部分を付録しておいたが、図の中に鶏籠山が描かれている。鶏籠山は台湾そのものである。従って「中国領以外の地域は入っていない」という井上の主張は根拠を失う。井上はここでも虚偽を述べている。
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10 李鼎元(リテイゲン)『使琉球記』(1802年序)6巻

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 5月11日壬辰。曇
 丁未の風に単乙の針路をとった。赤尾嶼から現在位置までの航行は計14更。
 午の刻、姑米島(クメジマ)があらわれた。島には8つの嶺があり、それぞれの嶺には、おのおの一つ二つの峰があって、断続している。舟の人々の歓声に、海がわきあがるばかりであった。

 10月6日乙卯。小雪、晴れ。
 この日、介山(正史の趙文楷の号)とともに、酒肴をととのえ、従客を招待して飲んだ。酒たけなわとなって客のひとりが言った。
  「海は、西に黒水溝をへだてて閩海と界されているときいております。昔は滄溟とも東溟ともいったそうです。琉球人はそれ
  を知りません。このたびの旅行でも通過しなかったのですが、どうしてでしょう」。
 私は言った。
  「渡航する者は多いが、本を書く者は少ない。乗船して船酔いもせずに、毎日、将台に坐って、自分の眼でみたままを自分
  で書くということは、滅多にあるものではない。誰かが言うと、人々はそれと同じことをいうのだが、ききかじりの話をどうして
  まにうけてよいものであろうか。琉球の人は毎年一航海しているのに黒溝を知らない。とすれば、黒溝はないのだといえよ
  う。」


 10月25日甲戌。
 海面をみると深い黒色で、天と水と遙かかなたで接している。これがいわゆる黒溝なのであろうか。そもそも、ここへ来たものは、みな他人からきいただけで、だれも経験なく、自分で見つめる勇気もなく、はてはみだりに不思議の思いを生ずるのであろうか。まったくわからないのだが、私の目撃したところでは、何のかわりもありはしない。


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「日本の領土」田久保忠衛著(尖閣諸島問題その7)---------

 「日本の領土ーそもそも国家とは何か」田久保忠衛(PHP研究所)は、尖閣諸島の問題だけではなく、北方領土問題や竹島の問題も取り上げている。尖閣諸島の問題に関しては、政府見解を正しいものとして、「尖閣は日本の領土という証明」と題して政府見解をそのまま掲載している。その根拠を問う必要はないとの考え方のようである。そして、「尖閣諸島は日本の領土である」という前提で、「尖閣諸島
を巡る日台中の三つ巴」
と題して現況を考えたり、「尖閣諸島に海底油田が噴き出す日」・「尖閣諸島問題の鍵を握るのは誰か」・「日本の領土・主権を質す人 答える人」などと題して尖閣諸島問題を論じている。大陸棚論争の記述などから、さらに調べるべき課題があることは分かったが、下記のような「閣議決定」に基づく日本の領有そのものの疑問については、何も解決されなかった。そこで、改めて同書から政府見解に関する部分を抜粋し、その疑問点を整理しておきたい。
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 尖閣は日本の領土という証明

 尖閣諸島の領有権についての日本政府の基本的見解は次のように明快だ。
「尖閣諸島は、1885年以降、政府が沖縄県当局を通ずるなどの方法により再三にわたり、現地調査を行い、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配がおよんでいる痕跡がないことを慎重に確認のうえ、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って正式にわが国の領土に編入することとしたものです。

 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づき、わが国が清国より割譲を受けた台湾および澎湖諸島には含まれていません。

 したがって、サンフランシスコ講和条約においても、尖閣諸島は同条約第2条に基づき、わが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971年6月17日署名の『琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)』により、わが国に施政権が返還された地域の中に含まれます。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明確に示すものです。

 なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サンフランシスコ講和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対して従来なんら異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国の場合も台湾当局の場合も、1970年後半、東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するにおよび、初めて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです。

 また、従来、中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的・地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点は、いずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえません」

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1 「再三にわたり現地調査を行いという。この文面は何度目にし耳にしたか分からない。しかし、誰がいつどのような調査
  を行ったのか、どのような記録があるのかについては、まったく見たことも聞いたこともない。なぜ、もう少していねいに、現
  地調査の内容を明らかにしないのか。
2 無人島の無主地先占にあたって、周辺国の歴史や領有意識の確認をせず、現地調査だけで「無主地」と断じてよいのか。
3 領有を決定した1895年1月14日の閣議の前に、閣議を要請した内務省から外務省への文書「秘別第133号」(朱書)と
  その別紙(「右閣議ヲ請フ」という文書)が、秘密文書であったというが、なぜなのか(清国の抗議をおそれたのではないの
  か)。
4 閣議決定がなされたならば、それを受けて関係省庁が「領有することとなった島々の名称や位置(緯度・経度)、所管庁や
  地籍」などを発表(告示、関係国への通告、官報に掲載など)することによってはじめて、正式にわが国の領土に編入され
  ることになるのではないか。そうした文書がないのに、「正式にわが国の領土に編入」したといえるのか。
5 閣議決定当時「尖閣諸島」という名称はなかった。閣議決定は、内務省の請議を受けて、「請議案通り」としたものであり、
  請議案は具体的に「久場島」「魚釣島」の島名をあげて「…上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス」としたものである。したがっ
  て、閣議決定は「久場島」「魚釣島」に標杭を建設してよいという決定であるはずで、それが、どうして「尖閣諸島」の正式な
  わが国への領土に編入になるのか。尖閣諸島には「久場島」「魚釣島」のほかにも、いくつかの島々があるのではないの
  か。
6 外務省は、「中華人民共和国も台湾も、東シナ海の石油資源の埋蔵が知られてから領有権を主張し始めた」というが、日
  本が標杭をたてたのは、中・台との領有権問題が表面化してから(1969年5月5日石垣市)であったのはなぜなのか。
  なぜ標杭建設の閣議決定が直ちに実行されなかったのか。やはり、日清戦争勝利が確定的となり(閣議決定3ヶ月後に
  は下関条約による台湾割譲があった)もはや必要なしと判断したのではないのか。だとすれば、「下関条約第2条に基づき
  わが国が清国より割譲を受けた台湾および澎湖諸島には含まれていません」とはいえないのではないか。
   沖縄県令西村捨三は、山県有朋に宛てた内務省の内命に対する上申(1885年9月22日)で、標杭建設には清国との
  関係で懸念があると記しているが、これはどのように理解すべきか。
   関連して、明治天皇の特別命令で大本営の会議に列席した首相伊藤博文は、下記のような戦略意見を提出した(1894
  年12月4日)という。

「北京進撃は壮快であるが、言うべくして行うべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損なうだけの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよと言う声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがいい。」(春畝公追頌会編『伊藤博文傳』下)

  だとすれば、1895年の閣議決定は、沖縄県令の懸念を考慮する必要がなくなったことによる軍事占領の一環ではないの
  か。領有に関する正式文書が存在しない理由も、そこにあるのではないのか。

   「尖閣諸島は中国の領土である」という論にもいくつかの疑問を感じるが、少なくても「尖閣諸島に領土問題は存在しな
  い」という日本の姿勢は、明治期の帝国主義的な領土拡張政策の継続ではないかと思うのである。

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「図解 島国ニッポンの領土問題」(尖閣諸島問題その8)----------

 「図解 そうだったのか!日本人なら知っておきたい基礎知識ー島国ニッポンの領土問題ー激怒する隣国、無関心な日本(日本を揺るがす最新ニュースの真相がすぐわかる!)」中沢孝之/日暮高則/下條正男(東洋経済新報社)は、その表紙が内容をよく表していると思う。尖閣諸島のみならず、竹島や北方領土などの領有をめぐる関係国との対立点について理解を深めようとするのではなく、日本の国益を守るために、どのように考え、どのように対応すべきかを解説したものであるといえる。したがって、当然外務省見解が前提である。「尖閣諸島問題その7」で列挙した6つの疑問に関わる内容の記述はないので、疑問は何ら解決されない。
 
 「尖閣諸島は日本の領土~外務省見解」と題した文章の中に<補足して日本側の見解を説明するとこうである。明治政府が、占有者のいない土地、国際法上のいわゆる「無主地」と認識して領有を宣言したのであり、その領有の方法は「無主地先占」で国際法上一点の問題もなく、その領有宣言に対して、その後、清国側が明確なクレームを付けていないではないか、としている。>とある。しかし、周辺国の歴史や文献、領有意識などを確かめることなく、「無主地」と断定していいのかどうかということ以上に「…領有を宣言したのであり…」が問題なのである。領有の宣言はしていないのではないか。「領有宣言」といえる文書を見たことも聞いたこもないがなぜなのか。

 外務省見解と同じような根拠で、共産党や社民党まで「尖閣諸島は日本の領土である」としているが、領有を宣言した文書はどこも示していないし、誰も示そうとしない。ほんとうはないものと思われる。そのような宣言文書のない領有が「国際法上一点の問題もなく…」といえるのかどうか。したがって、領有宣言(公示や通告や官報掲載など)のない閣議決定に、清国はクレームの付けようがなかったのではないか。そして、その3ヶ月後に、下関条約よる台湾割譲があったが、「尖閣諸島問題その7」で取り上げた伊藤博文の戦略意見は、台湾割譲を視野に入れていた当時の日本の軍事占領の一環であることを示しているのではないか。10年間、再三現地調査を繰り返していたのではなく、実は清国が抗議できなくなるのを待っていたのではないか。そして、日清戦争勝利が確定的になったために、領有宣言は必要なくなったということではないのか。

 いつもは政府に批判的な共産党や社民党も、下記のように外務省見解とほぼ同じような見解を表明している(インターネットで検索し一部抜粋した)。それに異をとなえるメディアも国内にはないようである。国益にかかわるゆえに、「大本営発表」同様、疑うことが許されないかのようである。中国の主張にもいくつかの疑問はあるが、日清戦争最中の日本の尖閣諸島領有が、ほんとうに平和的で合法的な領有であったとはとても思えない。
 
 帝国主義的領土拡張を始めていた当時の「沖縄県と清国福州トノ間ニ散在セル無人島」に関する内務卿山県有朋と外務卿井上馨のやり取り、内務大臣野村靖と外務大臣陸奥宗光の交換文書、首相伊藤博文の大本営会議提出の戦略意見などを総合的に理解して、なお尖閣諸島が平和的・合法的に領有されたというのであれば、もはや……。 
共産党------------------------------------------------
日本の領有は正当
尖閣諸島 問題解決の方向を考える

 沖縄の尖閣(せんかく)諸島周辺で今月、中国の漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、漁船の船長が逮捕されたことに対し、尖閣諸島の領有権を主張する中国側の抗議が続いています。日本共産党は、同諸島が日本に帰属するとの見解を1972年に発表しています。それをふまえ、問題解決の方向を考えます。

歴史・国際法から明確

 尖閣諸島(中国語名は釣魚島)は、古くからその存在について日本にも中国にも知られていましたが、いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。
1895年1月に日本領に編入され、今日にいたっています。

 1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。

 所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議がとなえられたことは一度もありません。
日本の領有は、「主権の継続的で平和的な発現」という「先占」の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。

社民党-------------------------------------------------
                 尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件について(談話)
                                                   社会民主党党首
                                                   福島みずほ

 去る9月7日に、中国のトロール漁船が、沖縄県の尖閣諸島にある久場島付近の領海内で違法操業をしており、海上保安庁の巡視船の停船命令を逃れようとして衝突した。この事件で、海上保安庁は公務執行妨害容疑で漁船を拿捕するとともに船員を逮捕した。

 一般船員は13日に釈放したものの、船長を引き続き勾留し19日にはさらに勾留期限を延長し取り調べを継続した。

 発生から17日経った9月24日になって、那覇地方検察庁は、中国人船長を処分保留で釈放することを決めた。

 尖閣諸島は、歴史的にみて明らかに日本の領土であり、沖縄県石垣市に属する島である。領海内で他国の漁船が操業することは、特段の取り決めがない限り断じて認められないことであり、海上保安庁が取り締まることは当然である。


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「尖閣諸島」原田禹雄の論と台湾出兵(尖閣諸島問題その9)---------

中国漁船衝突事件のビデオ映像が流出したため、尖閣問題はさらに複雑な要素を加えて日々ニュースの対象となっている。しかしながら、相変わらず日本の尖閣諸島領有に関する歴史的事実の多くが、ほとんど語られていない。「尖閣諸島は日本固有の領土」を前提として、中国を敵視するような危うい報道が続いているが見解の相違を明らかにし、平和的に歩み寄る姿勢がないと、却って失うものが大きいのではないかと心配である。
 外務省は尖閣諸島について「1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」としているが、古賀辰四郎が土地貸与を願い出たのはそのおよそ10年前の1885年である。そのころ内務省がこの島を領有しようとして、沖縄県に調査するよう「内命」を発している事実は、ほとんど無視されているようである。
 沖縄県令西村捨三は、この「内命」に対し、「…既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称モ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間…」と「国標取建テ」について清国との関係で懸念がある事実を内務卿山県有朋に上申している。この沖縄県令西村捨三の上申は「1885年に古賀の尖閣諸島(釣魚諸島)貸与願いをうけた沖縄県が、政府に、この島を日本領とするよう上申した」とする外務省見解とは矛盾するものである。

 沖縄県令西村捨三の上申にもかかわらず、すぐに領有しても差し支えないだろうと判断した山県有朋は、外務卿井上馨に宛て「たとえ久米赤島などが『中山傳信録』にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が針路<ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見ヘ申サズ>また<名称ノ如キハ彼ト我ト各其ノ唱フル所ヲ異ニシ>ているだけであり、かつ<沖縄所轄ノ宮古、八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニコレ有リ候ヘバ>実地踏査の上でただちに国標を建てたい」と持ちかけている。これに対し外務卿井上馨は、下記のように答えているが、この返書は、閣議決定における日本の領有の問題点を明らかにするものとして、極めて重要であると言わざるを得ない。(「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)から再度抜粋)

10月21日発遣
  親展第38号
                                                   外務卿伯爵  井上 馨
     内務卿伯爵  山県有朋殿
 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第83号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周囲モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候
 且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。

 右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。


 清国の疑惑を招くので、「他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候」というのである。清国が黙っていないことは、台湾出兵から日清戦争に至る日清の関係をふり返れば当然のことといえる。清国は琉球や台湾、朝鮮と朝貢国を次々に奪い取ろうとする日本に対する反撥を強めていたのである。そして、およそ10年が経過し、朝鮮に対する宗主権をめぐって日清戦争に突入、日本の勝利がほぼ確定的となった1895年、日本が「久場島」「魚釣島」の領有を閣議決定したのである。まさに外務卿井上馨のいう「他日ノ機会」がおとずれたということであろう。平和的に「無主地」の領有が決定されたのではないことは、この外務卿井上馨の内務卿山県有朋宛て文書が示しているのではないか。だから、領有することとなった島々の名称や位置(経度や緯度)、区域、所管庁、地籍表示、領有開始年月日などを記した公式文書(告示や通告、官報掲載文書)が存在しないのではないかと思うのである。

 さらに、ここで「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」原田禹雄(琉球国榕樹書林)の問題点を追求し、尖閣諸島領有に対する正しい歴史認識を持つために、領有の議論が持ち上がった1885年から、10年あまり遡って台湾出兵問題について、取り上げたい。

 その理由は、井上清の著書「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」(第三書館)を痛烈に批判する原田禹雄が「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」(琉球国榕樹書林)で、「小琉球」・「鶏籠」は現在の台湾であり、当時中国領土とはされていなかったと断定、台湾を中国領とらえている井上の主張は「完全に虚構である」と主張、また、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(チュウカイズヘン)に、中国領ではない鶏籠山(台湾)が描かれているから、尖閣諸島がそこに描かれていても、井上がいうように中国領とはいえないと主張している。すなわち、原田禹雄の井上批判は、台湾と中国を完全に切り離してとらえるところにその根拠があるといえる。しかしながら、日本の台湾出兵が清国の琉球被害者への見舞金で決着したことや、当時の清国政府関係者に下記のような考え方が存在することを考えれば、原田の論じている時代とややずれる部分はあるが、清国と台湾の関係に関する原田のとらえ方には明らかに問題があると言わざるを得ない。下記は「台湾出兵-大日本帝国の開幕劇」毛利敏彦著(中公新書)からの抜粋である。

 なお台湾出兵の発端となった琉球民遭難事件(牡丹社事件)とそれに対応する閣議決定「台湾蕃地処分要略」の第1条に関する部分も合わせて抜粋した。
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                               第3章 台湾遠征

2 日清関係の緊張

 清政府の反応

 日本政府が台湾遠征を画策していることは、清政府にも伝わっていた。西郷従道が台湾蕃地事務都督に任命されたのは4月4日であったが、同月16日付け上海の新聞『申報』は、日本が台湾に出兵するとの噂がとびかっていると紹介し、「日本が出兵する意図は、ただ報復を加えるためだけであろうか。それともほかに何か下心があるのだろうか」と疑惑をしめしつつ、もし日本に台湾領有意図があるなら、「わが大清国が自ら開拓した領土を、どうして一朝にて他国に譲ることができようか」と、当局者の奮起を促した
。…
 日本の遠征軍主力が長崎を発航したのは5月2日であったが、9日後の5月11日、清朝総署大臣恭親王らは、台湾は「中国の版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発し、6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参した。
 また西郷都督が廈門領事に赴任する福島九成に託した出兵通告書を受け取った閩浙総督李鶴年も、同じ5月11日付けで、琉球も台湾も清国に属しているし台湾への出兵は領土相互不侵越を約束した日清修好条規違反であるから撤兵されたいとの回答を西郷に送った。
 清政府の態度は、日本政府の予想以上に強硬であった。6月24日、清皇帝は、日本の出兵は修好条規違反だから即時撤兵を要求せよ。従わない場合は罪を明示して討伐せよ、と李鶴年らに勅命をくだした。

 ・・・
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3 日清対決へ

 日本は仮想敵国


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 日本軍の「蕃地」占拠を自力では排除できないと分かったとき、総署大臣恭親王らは、皇帝に「彼[日本]の理が非なのを明知しつつ、しかもわが備えが虚しいのに苦しむ……、一小国の反逆にすら防御の策がないのに苦しむ」と上奏して苦衷を訴え、こうなれば「ただ内外上下、局中局外心を一にして……自強の実をあげ」るほかはないと論じて、国力増強政策に踏み切るようにと皇帝の決断を促した。
 そして、日清会談の大詰めでウェード調停案を飲まざるをえないと覚悟した恭親王は、勅許を乞う上奏において、
「本案は日本の背盟興師(ハイメイコウシ)に発したものだが、わが海彊の武備が恃むに足るものであったら、弁論の要もなく、決裂を虞れる事もなかったであろうに、今や彼[日本]の理由を明知し、わが備えの不足を悲しむ」と悲痛な文字を連ねた。「背盟」とは盟約にそむくこと、「興師」つは軍事行動を起こすこと、詰まり日本の台湾出兵は日清修好条規に違反した不法行為だと糾弾しながら、にもかかわらず「わが備えの不足」のために阻止どころかみすみす償金を出さねばならないところにまで追いこまれた無念さを吐露したものである。……

 ・・・

 清政界実力者の直隷(現在の河北省)総督李鴻章の場合は、一段と深刻であった。かれは、日清修好条規を推進した清側の中心人物であり、1871年に同条規が締結された際には全権代表として調印した。李は、政府内に根強かった反対論を説得して締約にもちこんだのだが、その論拠は日本と条約を結んで味方に引きつければ欧米列強と対抗するうえでの「外援」にできるというものであった。ところが、台湾出兵で日本は「外援」どころか敵対者として立ち現れた。李は飼い犬に手を噛まれたような心境だったであろう。かれは、日本政府の背信に怒っただけでなく、それみたことかという反対派の非難から自己の政治生命を守るためにも、日本に対して必要以上に強硬姿勢をとらないわけにはいかなかった。

 出兵事件のさなかの1874年7月、赴任早々の駐清日本公使柳原前光が旧知の李鴻章を表敬訪問したところ、李は、日本は200余年もの長期にわたってわが国(清)と条約関係がなかったのにもかかわらず、一兵もわが領域を犯したことはなかったのに、いま初めて条約を結んだところ、たちまちわが国に軍事行動をしかけてきたが、これは許せない不信行為であるし、余は皇帝ならびに人民にたいしてまったく面目がたたないと、歯に衣きせずに心中の不満をぶちまけた。この話しを北京で柳原から聞かされた樺山資紀は、「(李は)強論大言を吐き、卓を叩いて激傲の挙動に及びしと」と、李の激昂ぶりが尋常でなかったことを日記に書きとめている。

 李鴻章は、同治帝から台湾を犯している日本軍を討伐するにはどうしたらいいかと「諮問」されたとき(前述)、「もし先にあらかじめ備えておけば倭兵[日本軍]もまた敢えて来なかったであろうに」と上奏して、軍備充実が先決だと強調したが、「倭兵」という用語にまだ日本軽視意識が残っていた。しかし、事件妥結後、李の対日観は格段に厳しくなり、明治維新をきっかけに着々と近代化を進めている日本はいまや強国へと育ちつつあり、清国にとって恐るべき脅威になろうと予言するにいたった。すなわち「泰西[欧米列強]は強大だといってもなお7万里以上の遠くだが、日本は戸口のところにいて、われわれの虚実をうかがっている。まことに中国永遠の大患である」と。
 ・・・
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                              第1章 台湾問題の形成

1 琉球民遭難事件

 事件の発端


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 1871年11月30日に琉球の那覇を出帆69人乗りくみの宮古島船が航海中に嵐で遭難し、12月17日台湾南端に漂着したところ、上陸のときに3人溺死、残り66人は「牡丹社」と呼ばれる台湾先住部族の襲撃略奪にあい、54人が殺害されるという痛ましい事件がおきた。かろうじて逃れた12人は、現地の清国人官民に保護され、翌1872年2月24日、清国福建省福州に置かれた琉球館に引き渡され、7月12日、出帆以来7ヶ月半ぶりに那覇に帰還した。

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 そのころ、外務大丞兼少弁務使柳原前光は、日清修好条規改定交渉のために清国天津に滞在していた。
 かれは、たまたま1872年5月11日付け『京報』に現地福建省の責任者から北京の清朝廷にあてた遭難琉球民処置の伺書が掲載されているのを見た。そこで、5月19日付けで、外務卿副島種臣にあてた報告書の末尾に「琉球人が清国領地台湾において殺害された事件についての閩浙総督より清政府への伺書を京報紙上で一見した。おのずから鹿児島県の心得になるかも知れないから、訓点を付して送付する」と付記して、当該『京報』を同封した。
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                                 第3章 台湾遠征

1 遠征敢行

 軍事力優先路線

 閣議決定した「台湾蕃地処分要略」の第1条は次の通り。
  台湾土蕃の部落は清国政府政権およばざるの地にして、その証は従来清国刊行の書籍にも著しく、ことに昨年、前参議副島種臣使清の節、彼の朝官吏の答にも判然たれば、無主の地と見なすべきの道理備われり。ついては我が藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは日本帝国政府の義務にして、討蕃の公理もここに大基を得べし。然して処分にいたりては、着実に討蕃撫民の役を遂げるを主とし、その件につき清国より一二の議論生じ来るを客とすべし。

 すなわち、「無主の地」として清国領土外とみなす台湾先住民地域(蕃地)にたいして、琉球民遭難への「報復」の「役」(軍事行動)を発動することが基本方針であった。


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 また「要略」では、出兵にともなう清国との外交問題の処理は「客」つまり副次的事項だと位置づけられた。軍事が優先し外交はそれに従属するというわけである。

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琉球処分と台湾出兵(尖閣以前の領土拡張の動き)------------

 1872年、明治天皇は琉球国王「尚泰」(ショウタイ)の名代として参内した伊江王子朝直(尚健)に「今、琉球近く南服[南の領域]に在り、気類相同く言文殊なる無く、世々薩摩の附庸たり、而して爾尚泰能く勤誠を致す、宜しく顕爵を予(アタ)うべし、陞(ショウ)して琉球藩王となし、叙して華族となす」と詔し、尚泰を旧公卿や大名なみの
華族に列した。琉球に対する天皇の「冊封」といわれる所以である。しかし、琉球国王への華族宣下には、当時左院の反対があったという。理由は「琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スベカラズ」ということである。すなわち琉球人を日本人と同一に扱ってはならないということであり、琉球人は日本国民ではないという認識があったのある。

 ところが、当時精力的に近代国家体制をつくり上げようとしていた政府関係者井上馨(大蔵大輔)などは、「言語・風俗・官制・地名の相類似スル総て我光被中ニ不洩一証ニ有之」と強硬に主張したという。そして、清国にもそれを認めさせることによって琉球と中国の関係を切ろうと意図したのである。また、それが台湾出兵の名分つくりのためであったという議論があるようだが、琉球民遭難事件(牡丹社事件)に関して清国を難詰し、「生蕃ハ我朝実ニ之ヲ奈何スルナシ、化外ノ野蕃ナレバ甚ダ之ヲ理メザル也」といわせることによって、日本国民である琉球人のために中国化外の生蕃を討つ、との論拠で台湾に出兵したのである。したがって、「日本国民である琉球人」の考え方は、琉球処分や台湾出兵という帝国主義的な領土拡張政策のためには必要不可欠の論であったといえる。
 下記「琉球処分」には、当然のことながら様々な抵抗があった。したがって、政府は軍事力による制圧態度を示して「処分」を行ったのである。「琉球の歴史」宮城栄昌著(吉川弘文館)日本歴史叢書(日本歴史学会編集)からの抜粋である。
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                               第5 県政時代の沖縄

1 琉球処分とその評価

 沖縄県の設置

 征台(牡丹社事件をきっかけとする台湾出兵、征台の役ともいわれる)のあった1874年、琉球藩を外務省下から内務省下に移管し、那覇の外務省出張所を内務省出張所に改称した。琉球問題はもはや対外問題ではなく、内治問題と考えたからであった。そして内務卿大久保利通の処分案に基づいて処分することにした。
 大久保は12月15日太政大臣三条実美にあてて「琉球処分着手ノ儀ニ付伺」を出し、その中で

「琉球藩ノ儀従来本朝・清国ヘ両隣、人民ハ本邦ヨリ保護シ、正朔ハ重ニ清国ヨリ奉ジ来、一昨五年使臣来朝ノ節初テ冊封ヲ賜リ、尚泰儀藩王ニ被為列候ヘ共、清国ノ所管ヲ脱セシムルニ至ラズ、曖昧模糊トシテ何レノ所管ト申儀一定不致、甚不体裁ノ訳トハ存候ヘ共、……今般清国談判ノ末蕃地御征討ハ同国ヨリ義挙ト見認メ、受害難民ノ為メ撫恤銀ヲ差出候都合ニ到リ、幾分我版図タル実跡ヲ表シ候ヘ共、未ダ判然タル成局ニ難至、各国ヨリ異論無之ト申場合ニ到兼、万国交際ノ今日ニ臨ミ此儘差置候テハ他日ノ故障ヲ啓クトモ難計事ニ候」


と述べている。(松田道之「琉球処分」第一冊、琉球処分着手ノ儀ニ付内務卿伺太政大臣指令)。この伺は同年12月同治帝が死去し、翌年光緒帝が即位するにあたり、沖縄では先例にならい慶賀使を派遣するという風評があったのに対し、日本側では強圧を加えて清国との関係を速やかに切断させる目的で出したものであった。そして伺は、清国との関係遮断を主軸に、施設ノ順序」「改革の個条」を説諭するために、琉官の上京を命ずるよう要請している。
 それに基づき、政府は翌1875年(明治8年)1月使節の上京を命じた。沖縄からは三司官池城親方(イケグスクオエカタ)・与那原(ヨナバル)親方らが上京した。


 1月18日使いが内務省に出頭すると、大丞松田道之はこれに応待し、政府の意思を伝達した。池城らは大いに驚いて陳弁これつとめ、「本藩ノ儀皇国・支那ヘ奉属、御両国ノ御陰ヲ以一国ノ備相立、上下万民致安堵居候」と述べ、沖縄側に立って「両属」を認めている。しかしそれは中国の属領であることを強調しておかねばならない情勢下での発言であった。はたしてつづいて、「皇国御奉公、支那ヘノ進貢ハ本藩重大ノ規模、万世万代不相替忠誠ヲ励シ度本願御坐候、……(支那ハ)数百年来親切ニ被取扱恩義厚キ国柄、自然都合取損候テハ信義不相立段ハ勿論、何様ノ難題成立可申哉旁以至極胸痛仕居申候」と述べている(松田道之「琉球処分」第一冊、琉球藩清国関係其他処分条件ヲ定ム付説論顛末)。折衝の結果、伝達した事項のなかに藩王の意向をきかねば返答できないものもあると固執したので、政府もこれを認めて帰藩させた。

 しかし政府は既定方針を貫くこととし、同年6月松田を処分官に任じて琉球に派遣し(途中使節と同船し)、7月14日直接藩王(尚泰病気のため王弟今帰仁王子代理)につぎの命令を伝達させた(松田道之「琉球処分」第二冊、松田内務大丞第1回奉使琉球始末。<『沖縄県史』12>。

一其藩ノ儀従来隔年朝貢ト唱ヘ清国ヘ使節ヲ派遣シ、或ハ清帝即位ノ節慶賀使差遣シ候例規有之趣ニ候得ドモ、自今
  被差止候事
一藩王代替ノ節従前清国ヨリ冊封受ケ来リ候趣ニ候得共、自今被差止候事
一藩内一般明治ノ年号ヲ奉ジ、年中ノ儀礼等総テ御布告ノ通遵行可致事
一刑法定律ノ通施行可致、因テ右取調ノ為担当ノ者両3名上京可致事
一藩制改革別紙ノ通施行可致事
一学事修業時情通知ノ為、人撰ノ上少壮ノ者10名程上京可致事
     (以上明治8年5月29日並に6月3日付太政大臣三条実美より琉球藩宛)
一在福州ノ琉球館廃止可被致事
一謝恩トシテ貴下(藩王尚泰)上京可被致事
一鎮台文営ヲ被置事
      (以上明治8年7月14日付松田処分官による付加)

 この命令に対し沖縄側は全面的に不服であった。特に進貢・冊封は日清両国を父母の国として仕え来ったものとして、その停止は「親子之道相絶候モ同然」と強硬に反対した。


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 松田の再度の派遣にもかかわらず、沖縄側の態度は依然不変であった。松田は2月帰京の途につき、2月14日、前記の琉球処分方法に基づき、速やかに厳重な処分をすべきことを求めた復命書を政府に提出している(松田道之「琉球処分」第3冊、松田内務大書記官奉使琉球復命書)。
 政府は松田の復命に基づき2月18日処分法案を作製し、3月11日松田に三度琉球出張を命じた。
園田安賢警視補以下警部・巡査約160余名が同行し、また鹿児島からは熊本鎮台の波多野少佐が分遣大隊長として、参謀本部特派の参謀益満大尉以下歩兵約400名が加わった。
 前述の如く松田の処分案によれば、軍隊の同時同行は処分が討伐に誤解されるおそれがあったが、政府は敢えてそれを行い軍事力による制圧態度を示した。一行は25日那覇に着き、27日首里城に乗りこんで、「去ル明治8年5月29日幷ニ9年5月17日ヲ以テ御達ノ条件有之処、使命ヲ不恭実ニ難置次第ニ立至リ、依テ廃藩置県被仰出候条、此旨相達候事、明治12年3月11日太政大臣三条実美」の達書を朗読して今帰仁王子に手交し、土地・人民及び一切の書類を引き渡し、藩王尚泰は東京に居住すべきことを命令した。耳を蔽ういとまもない一瞬の出来事によって、幾百年にわたって尚家が握っていた専制的支配権が明治政府の手に移ることになった。4月4日「琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置候条此旨布告候事、但県庁ハ首里ニ被置候事」の布告が全国に発せられ(松田道之「琉球処分」第3冊、松田内務大書記官奉使琉球始末。<『沖縄県史』12>)翌5日鍋島直彬が沖縄県令に任命された。 
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 琉球処分の評価

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 一方松田の言にもみられるように、明治政府が琉球を統合する合法的根拠には1609年(慶長14)以来琉球が薩摩(日本)の属領であったという歴史的事実があった。そのことは琉球側との交渉の至るところで指摘している。確かに薩摩は琉球を植民地支配化する中で日中に両属させ、貿易の利をあますところなく収奪した。そうしておきながら琉球処分にあたっては「両属」の不可を広言し、
「携弐の罪」を責めた。その両属の不可に対し、沖縄側は500年にわたる進貢の事実をあげ、信義を護り通す立場を強調して抵抗したが、つねに「両属ノ体タラシムルハ国権ノ立ザル最モ大ナルモノ」あるいは「清国ヘ対スル臣礼之儀ハ我ガ国体ト国権トニ関スル最モ大ナルモノニ付断然謝絶セシメザルヲ得ザル」もの(松田道之「琉球処分」第2冊、松田内務大丞第1回奉使琉球始末。明治9年6月5日付太政大臣より琉球藩王尚泰への達案。<『沖縄県史』12>として抹殺された。

 ・・・(以下略)

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琉球処分と宮古サンシイ事件(尖閣諸島領有以前)-----------

琉球は長く中国の皇帝から冊封を受け朝貢する独立の王国であった。ところが、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いに出陣して莫大な軍費を支出した薩摩藩が、その財政危機を乗り切るため、また、異国支配の権威を誇示するため1609年2月26日その琉球に3000を超える兵を送り、攻略して植民地的支配を開始した。琉球侵略の主目的が、財政危機を乗り切ることであったため、薩摩藩は徹底した植民地的支配を行いながら、琉球を明の冊封国として独立させておき、対明貿易の利益を独占したのである。そして、琉球は形式的には中国に、実質的には薩摩藩<大和人(ヤマトンチュウ)>に支配される両属の独立王国となった。
 そうした琉球王国の両属のありかたは、薩摩藩によってもたらされたものであったが、明治政府は、抵抗する琉球に対し軍事力による制圧態度をしめして「琉球処分」を行った。琉球は、日清両属の不可、すなわち「携弐の罪」を責められたのである。
 下記は、そうした琉球処分に対する抵抗を象徴する事件であり、「誓約書」の内容は、その抵抗がまさに命懸けであったことを示している。そして、その10年あまり後に尖閣諸島領有の動きが始まる。そうした歴史的事実を学ぶと「尖閣諸島の領有は、”無主地先占”で国際法上一点の問題もなく、平和的に…」などといえるのか、ますます疑問が深まるのである。「琉球の歴史」宮城栄昌著ー日本歴史叢書・日本歴史学会編集(吉川弘文館)からの抜粋である。
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                                第5 県政時代の沖縄

1 琉球処分とその評価

 琉球処分の評価


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※ 宮古のサンシイ事件 廃藩置県の時、首里・那覇の士族の間では、県の命を奉じて官禄を受ける者は首を刎(ハ)ねること、日本に反抗して生命を失うものがあったら共有金でその妻子を救助することを誓約して連署捺印していたが、それが間切(琉球の行政区画)・島の役人間にもひろがった。置県のあった1879年(明治12年)7月、宮古下里村の下地利社(シモチリシャ)が他人のすすめで平良(ヒララ)に新設された警視派出所の通訳兼小使に雇われた。まわりの者は血判誓約を破った不信の徒となし、同月下地をつかまえて惨殺するという事件が起きた。これを宮古のサンシイ事件というが、サンシイは賛成のことで、新しい県政に賛成するという意味である。宮古で押収した誓約書はつぎのような内容であった。

一、大和人御下島、大和へ致進貢候様被申候はば、当島は往古より、琉球へ進貢仕候巳来、段々蒙御高恩申事にて、
   何共御受難段致返答、何分相威し候共、曾而相断可申事
一、右通相断、若御採用無之、刃物等抜出、可切果涯成立候共、此義島中存亡之境節にて、聊身命を不惜可相断事。
一、大和人より押々役職被申付候共、則(タダチ)に相断可申事。
一、大和人と内通の義共一切仕間敷候事。


 右之条々相背者共は、所中にて本人は身命打禿(オトシ)し、父母妻子は流刑可致候。乃而誓約如件

 卯閏3月(明治12年)  何某血判    何某血判

 (幣原担「維新の影響としての沖縄の変遷」<『史学雑誌』9-5>。同『南島沿革史論』参照)  ※返り点など省略

 ・・・(以下略)

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台湾出兵と琉球処分、そして尖閣領有、台湾併合へ-------------

 1874年の日本の台湾出兵については、当然のことながら清国の抗議があった(下段資料1)。しかしながら7月7日の閣議は台湾駐兵の続行を決めた。そして、領土相互不侵越を約束した「日清修好条規」(下段資料2)が結ばれていたにもかかわらず、下記の「宣戦発令順序条目」を定めて、和戦両様のかまえで清国にのぞんだのである。
 また、琉球処分断行にあたった松田処分官には、警官隊160余人、熊本鎮台分遣隊約400人の兵士が同行している。明らかに力ずくの琉球処分-琉球藩の廃止であった。そしてそれらが日本の帝国主義的領土拡張政策によるものであったことを示す関係者の言葉が残されている。したがって、尖閣諸島領有も、そうした歴史的流れの中で理解するべきではないかと思う。「アジア侵略の100年-日清戦争からPKO派兵まで」木元茂夫(社会評論社)の抜粋である。
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                             第1章 日清戦争への道

3 台湾出兵と西郷従道


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 明治政府が成立してまもなく、日本は「日清修好条規」を結んだ。1871年のことである。清国との間には正式な外交関係が結ばれた時、明治政府の首脳が考えたのは、日清両属の形であいまいになっている琉球をどうするかであった。最も強硬であったのは、長州出身で伊藤博文とともにロンドンに留学した経験をもつ、大蔵大輔井上馨である。井上は1872年5月に、次のような建議を行っている。

 「……従前曖昧の陋轍(ロウテツ)を一掃して、改て
皇国の規模御拡張の御措置有之度(アリタク)……彼の酋長を近く闕下(ケッカ)に招致し、其不臣の罪を譴責……速に版籍を収め明に我所属に帰し……」

 「彼の酋長」とは琉球国の国王をさし、「闕下」とは朝廷の意味である。つまり井上は、国王を呼びつけて、明治政府への忠誠を誓わせろと主張したのである。この井上の主張は、朝鮮についての木戸孝允の主張とうり二つである。木戸は「神州の威を振」いと言い、井上は「皇国の規模御拡張」と言った。明治政府の指導者、とりわけ長州閥の面々は、かくも侵略的であった。

 明治政府が実際に行ったのは、井上の建議のような過激な方法ではなく、琉球国の国王・尚泰を上京させて、天皇の前で、「藩主」に命じ、華族の一員に列することであった。1872年9月のことである。同時に琉球国の外交権を外務省に移管した。まさに「皇国の規模御拡張」の第1歩が記されたのである。
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 しかし、7月7日の閣議は、台湾出兵続行と大久保利通を全権大使として清国に派遣することを決定した。和戦両様のかまえで清国にのぞんだのである。日清開戦の場合に備え「宣戦発令順序条目」を決定している。これは、その後の日本の戦争指導の基本となったものなので、重要な事項だけに紹介しておく。

宣戦発令順序条目
 一、宣戦に決したる時はその趣旨判然と詔書をもって布告すべき事[中略]
 一、天皇陛下大元帥とならせられ六師を統率し大阪へ本営を設けられるべきこと[中略]
 一、戦略は大参謀の籌図にするはもちろんたりといえども、その枢軸は、内閣と協議を為すべきこと[以下略]


 清国に派遣された大久保利通は、交渉の結果、賠償金50万両(約75万円)を獲得し、日本軍は12月ようやく撤兵することになった。しかし、清国の北洋大臣威李鴻章は、この台湾出兵を契機として、日本を仮想敵国とする北洋海軍の創設に着手していく。日清の対立は台湾出兵をもって始まり、朝鮮半島の権益をめぐって、激化していったのである。
 台湾蕃地事務局長官であった大隈重信は、台湾出兵の意義を、のちにこう記している。


「征台の役に日本の費やすところ780万円なりしかば、得失相償わざるの感ありといえども、清国は間接に、琉球人が日本の臣民にして、したがいて琉球群島は日本の領土たることを認めたるのみならず、各外国は我が兵力の有効なることを認めたる結果として、英仏二国は、幕末の外人迫害以来、横浜に駐在せしめたる兵を徹したるにより、明治外交の上に受けたる間接の利益は、はなはだ大なりき」(『開国の大勢史』)

 台湾出兵が決着を見ると、日本政府はすぐさま琉球処分に取りかかっていく。この年、琉球関係の事務は外務省から内務省の管轄に移され、那覇の出張所も内務省の所管となった。西郷従道が台湾から長崎に向かっていた12月24日、大久保利通は、琉球と清国の関係を断ち切るよう説得するため琉球藩の首脳に上京を命じている。

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 こうした経過の後、自由民権派のテロリストに刺殺された大久保利通の後を継いで内務卿となった伊藤博文は、処分断行を決定し松田を琉球に派遣する。松田は警官隊160余人、熊本鎮台分遣隊約400人の兵士を率いて琉球におもむき、首里城で処分断行を言い渡した。1879年4月4日のことである。ここに数百年の独自の歴史を持つ琉球国は、日本に併合されるのである。のちに大隈重信は、この琉球処分を「明治時代における帝国膨張の第一程となす」と記した。

 台湾出兵と琉球処分は「皇国の大陵威(オオミイツ)」「国体と国権」にかかわるものとして強行された。そして台湾出兵の戦死者は、陸軍中将西郷従道が祭主を務めた招魂式によって、初の”対外戦争”の戦死者として東京招魂社(現靖国神社)に合祀されたのであった。……
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 「戦争と新聞」鈴木健二(毎日新聞社)に、台湾出兵に同行した従軍記者の戦地報道の一部が紹介されているが、台湾出兵が単に琉球人殺害にたいする処置ではなく、領土(皇国の版図)の拡張にあったという捉え方をしている事実は見逃せないと思う。
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                              第1部 軍国の形成

 第1章 新聞は戦争で育った

 台湾出兵

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 「まず丈夫では居るけれどもなかなか苦しい。大概のところではこれ程の苦しみはあるまい。食う物はなし、食えば高し、うまくはなし、あついあつい、ああ苦しい」 これは台湾出兵に同行した日本初の従軍記者、岸田吟香の戦地報道である。

 …「まず支那領の堺より南なる地に手を下し、これを略取して植民地となし、それよりまた北支那領の堺より南の地に兵を置きて、漸々にこれを開拓し、大木を伐り荊棘を焼き土蕃を教え導きて、以て
わが皇国の版図を広めんとなしたもうの思召しなるべし」(同5月15日)と岸田は書いている。

 ・・・(以下略)

資料1「台湾出兵ー大日本帝国の開幕劇」毛利俊彦著(中公新書)-----------------------

 日本の遠征軍主力が長崎を発航したのは5月2日(1874年)であったが、9日後の5月11日、清朝総署大臣恭親王らは、台湾は「中国の版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発し、6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参した。
 また、西郷都督が廈門領事に赴任する福島九成に託した出兵通告書を受け取った閩浙総督李鶴年も、同じ5月11日付けで、琉球も台湾も清国に属しているし台湾への出兵は領土相互不侵越を約束した日清修好条規違反であるから撤兵されたいとの回答を西郷に送った。
 清政府の態度は、日本政府の予想以上に強硬であった。6月24日清皇帝は、日本の出兵は修好条規違反だから即時撤兵要求せよ、従わない場合は罪を明示して討伐せよ、と李鶴年らに勅命をくだした。


資料2「日中国交文献集」竹内実+21世紀中国総研編(蒼蒼社刊)-----------------------

   大日本国と大清国は古来友誼敦厚なるを以今般一同旧好を修め益(マスマス)邦交を固くせんと欲し、
   大日本国欽差全権大臣従二位大蔵卿           伊達
   大清国欽差全権大臣辨理通商事務太子太保協辨大学士
        兵部尚書直隷総督部堂一等粛毅伯   李
   各(オノオノ)奉じたる上諭(ジョウユ)の旨に遵(シタガ)い、公同会議して修好条規を定め、以て双方信守し久遠替らざる事を
   期す。
   その議定せし各条左の如し。

第1条 此後大日本国と大清国は弥(イヨイヨ)和誼(ワギ)を敦(アツ)うし、天地と共に窮(キワ)まり無(ナカ)るべし。又両国に属した
   る邦土も、各(オノオノ)礼を以て相待ち、聊(イササカ)侵越する事なく永久安全を得せしむべし。
第2条 両国好(ヨシミ)を通ぜし上は、必ず相関切(アイカンセツ)す。若し他国より不公及び軽藐(ケイバク)する事有る時、其知らせ
   を為さば、何れも互いに相助け、或は中に入り、程克く取扱い、友誼を敦くすべし。
第3条 両国の政事各異なれば、其政事は、己国(ココク)自主の権に任ずべし。彼此(ヒシ)に於て何れも代謀干預(ダイボウカンヨ)
   して禁じたる事を、取り行わんと請い願うことを得ず。其禁令は互いに相助け、各其商民に諭(サト)土人を誘惑し、聊違反
   あるを許さず。

 ・・・(以下略)


部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。漢字の読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。

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