-NO237~245
-------------天皇の戦争責任 側近の「内話」ほか---------------

 アメリカが、自国の兵士の流血を防止し、戦闘継続よる莫大な費用を投ずることなく、占領業務を円滑に遂行するために、「天皇の存在を利用する」ことを決して以降、日本人の間でも、表立って天皇の戦争責任を追求する声が大きくなることはなかった。しかしながら、敗戦間もない頃はいろいろ議論があったようである。
「側近日誌」木下道雄(文藝春秋)から抜粋した部分は、天皇の侍従武官を務めた中村俊久海軍中将の考えが、内輪話の中で正直に語られたものであり興味深い。まさに「内話」であるために、世論を誘導する目的で論理的に語られたものではないことが、逆に、実態に即した常識的判断を表出させている面があり、注目に値すると思うのである。彼は海軍の軍人として様々な作戦に関わった立場で、艦隊の作戦行動に関する天皇の戦争責任を中心に語っている。己の与り知らぬことにはあまり触れていないことも、彼の言葉が説得力を持つ所以であると思う。
 「天皇と戦争責任」児島襄(文藝春秋 文春文庫)
からは、鈴木貫太郎内閣書記官長迫水久常や文相安部能成の述懐を含んだ部分を抜粋した。敗戦直後は「天皇も無責任ではあり得ない」という空気があったことが分かる。また、日本人自身が考え
「天皇の戦争責任」と連合国側が考える「天皇の戦争責任」には、ニュアンスの違いがあるということも、ふまえておきたいことである。
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11月8日(木)
 朝食の時、中村武官より内話を聴く。
陛下の戦争責任について
1 戦争準備
2 艦隊の展開
3 艦隊の任務
4 外交交渉成立の場合、艦隊の引き上げ
5 開戦の時期
6 実戦に先だち宣戦のこと
 1~5については御命令もあり、これを御承知になり居たるも、6については実戦に遅るること40分、これは打電翻訳に時間を要したによる。要するに戦争について御責任はあり。則ち一国の統治者として、国家の戦争につきロボットにあらざる限り御責任あることは明らかなり。ただし、真珠湾攻撃については、則ち実戦をもって宣戦に先だつことについては、御承知なきこと、予期もし給わぬことなりと。

 9時12分東宮、義宮、赤坂離宮より吹上文庫に御参。北入口にて御迎えす。両陛下に一年余の御対面なり。

 ・・・以下略
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                         第一部 天皇と戦争責任

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 ・・・
 天皇の戦争責任問題は、米国政府がうちきったあとも日本の内外でくすぶりつづけた。
 もっとも、天皇の戦争責任を論議する場合、日本の内と外とではニュアンスの違いがみうけられる。
「天皇も無責任ではあり得ない。せめて、退位されるくらいのことは考えねばならぬ。そういう空気が、いまは故人になった政治家、現存している政治家の口から漏れていた」
 とは、終戦時の鈴木貫太郎内閣の書記官長迫水久常(さこみずひさつね)の述懐である。
 幣原喜重郎内閣で憲法改正問題が討議されたさい、文相安部能成(よししげ)が述べたことがある。

「天皇は無答責というが、道徳的にも責任を負わないという意味なのか……承詔必謹といって国民に服従の義務を負わせながら、本体たる天皇が無責任であるというのは、矛盾であると思う」

 安部文相が指摘し、また迫水書記官長もいう天皇の戦争にたいする責任は、いわば敗戦にたいする道義的責任であろう。もし、そうであれば、その点にかんしては、天皇自身も感得しておられたといえよう。
「このさい私としてなすべきことがあれば、何でもいとわない」と、天皇は終戦のさいに述べ、既述したように、戦争犯罪人問題について、自身の退位で回避できないか、との趣旨を木戸内大臣に語っているからである。


 これにたいして、連合国側が指摘する天皇の戦争責任は、開戦責任である。
 戦争犯罪といい、戦争責任というのも、つまりは連合国とくに米国が第二次大戦末期に主唱した「侵略戦争犯罪論」にもとづく。
 第二次大戦開始前には一般化されていなかった考え方である。
 単純化していえば、戦争を仕かけるのが侵略であり、自衛または報復のための戦争は侵略戦争ではない。侵略戦争は平和にたいする犯罪だから、その国家の指導者は戦争犯罪人であり、開戦の責任者は戦争責任者だというのである。
 天皇は、大日本帝国の元首であり、帝国陸海軍の大元帥であった。開戦の詔勅にも終戦の詔勅署名している。
 ゆえに天皇は戦争責任者だ、という主張が、米国および連合国にも一般的であったことは既に既述したが、「東京裁判」においても、おりにふれてその点が問題になりそうになっては消えていった。


 ・・・(以下略)

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天皇の戦争責任 海外の主張------------------

日本の降伏が近づくと、天皇の戦争責任や処罰に関して、アメリカ国内はもちろん、関係諸国からも様々な声があがったようである。ここに、当時の「太平洋問題調査会」(IPR)会議での関係国代表者の発言部分や中華民国「世界日報」紙の報道の一部、アメリカ「ギャラップ社」の世論調査、リチャード・ラッセル上院議員の上院軍事委員会提出決議案、「全米弁護士協会」の主張などの一部を「天皇と戦 争責任」児島襄(文藝春秋 文春文庫)から抜粋する。

 下記に抜粋したような考え方が主流であったにもかかわらず、グルー次官の「日本人を無条件降伏させるには、天皇が必要である。日本人、そして恐らくは日本軍が喜んで従う唯一の声は、天皇の声である。いいかえれば、天皇は数万の米国人の生命を救う源泉である」という主張や連合国軍最高司令官総司令部政治顧問G・アチソンの「…私は(そして連合国の数カ国も強調しているが)天皇は戦争犯罪人だと思う。日本人の中にも、天皇が戦争を中止させた権力(パワー)を持っているのであれば、開戦を防止する権威(オーソリティ)を持っていたと述べる者がいる。そして、私は、日本が真に民主的になるためには天皇制は消滅しなければならない、という意見を、変えていない。しかし、現時点では、多くの情況が第2番目のより消極策を最善としている。すでに、われわれの軍隊の急速な復員はわれわれにハンディキャップを与えている。このような事情の下で、われわれが日本政府を利用して日本改革をつづけねばならぬとすれば、天皇が最も役立つ存在であることは疑いもない。…」、さらには、マッカーサーの「天皇は全日本国民の統合の象徴である。天皇を破滅させれば、(日本)国家が崩壊するであろう……私は、近代的民主主義体制を(日本に)注入する望みは、すべて失われることを確信する……(混乱を鎮めるためには)最低百万人の兵力を必要とし、しかも予測できぬ長年月の駐留が必要となろう……」というような「天皇利用論」がアメリカの方針となり、その後の連合国軍最高司令官総司令部による占領政策が進められることになったのである。そして、それが日本の戦後を方向づけたといえるであろう。 
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                         第一部 天皇と戦争責任
 2

 ──ところで、
 グルー次官を中核にして米政府、軍当局が、日本にたいする勝利政策と戦後政策の焦点として天皇と天皇制に視線を集中しはじめたとき、ほかにもこの問題に関心をそそぐグループがいた。
 とくに目立ったのは、1945年1月25日、ホットスプリングスで開かれた「太平洋問題調査会」(IPR)会議である。
 この会議では、日本を中心にして戦後のアジアの政治、経済問題が討議されたが、米、英、カナダ、オーストラリア、フランス、インド、タイ、フィリピン、朝鮮の代表が参加した。
 タイ、フィリピン、朝鮮は、日本占領下または支配下にあるので民間人代表だけであるが、他の各国は政府関係者をふくめていた。
 中心議題である日本については、なお日本は抗戦能力を維持していると判定するとともに、戦後処理として、敗北後のナチス・ドイツと同等の処遇、戦争犯罪人の処罰、憲法の改正などが提案された。
 ただ各国代表の間では、たとえば英国代表は、新しい平和路線を保持することを条件にして皇室、財閥の存続を認めたのにたいして、米国代表は現在の支配階級の一掃を主張し、インド代表は、米英両国が勝利に乗じて日本およびアジアを「日露戦争以前」の「未開状態」にひきもどさぬよう求め、微妙な意見の相違が記録されている。
 天皇および天皇制については、英国代表は「日本に任せる」、米国と中華民国代表は「天皇制排除」、一部の代表は、「利用したあとに捨てる」という見解を表明した。
 とりわけ明確な意見は、次のようなものであった。


▽オーウェン・ラティモア(米国、元蒋介石顧問、米戦争情報局極東部長)
「どのような事情下でも天皇を利用すべきではない。そうすれば、われわれが天皇の権力を認めることになる。天皇および皇室典範で規定された後継者を中国または別の場所に移し、皇室財産は没収して公共の利用に提供すべきである」

▽胡適(中華民国 元駐米大使)
「中国人の多くは天皇制廃止に賛成である。個人的見解だが、私は、天皇はロンドンに転居すればよいと思う。そこには別の名目的な主君(英国王)もいて、住み心地が良いはずだ。この考えは日本人にもいけいれられると思う」

▽ハーバート・ノーマン(カナダ、『日本における近代国家の成立』その他の著書で知られる。カナダ外務省極東部員)
「占領軍は天皇をひそかに葉山に移し、摂政または摂政委員会を設けたら良い。摂政には過去の侵略政策に無関係な有名人が必要だ」


▽邵毓麟(しょういくりん)(中華民国、国民党軍事委員会秘書)
「日本人自身に天皇制を放棄させるべきだ。いますぐに天皇の信頼を失わせるように宣伝を開始し、われわれが東京に入ったときに、日本国民が天皇制を廃棄しやすいようにすべきだ」

▽サー・ジョージ・サンソム
(英国、駐米大使館極東問題顧問)
「どうも天皇問題が誇大視されている。退位させて摂政を置くのが最善かどうかはわからない。われわれとしては、自然に天皇制が衰退する政策をとるべきだし、そうなると思う」

 以上の意見は、当時の連合国の識者の平均的な発想といえる。そして、これらの天皇にたいする所見は、米国務省の考え方にも影響を与えることになる。

 ・・・(以下略
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4 

 この時期に、天皇問題に関心を示していたのは、中華民国であった。
 ドイツが降伏する前日、5月6日、重慶の「世界日報」紙は、天皇を「日本人戦争犯罪人第1号」と呼び、激しい語調で主張した。
「中華民国はヒロヒトを許すことはできない。彼は裁かれ、処刑され、その死体は南京の中山路に曝(さら)されるべきだ」
 つづいて、5月11日、外交部長宋子文(そうしぶん)は、サンフランシスコで、中華民国は天皇をどうするつもりか、と記者団に質問されて、応えた。
「その問題は、われわれが彼に近づく前に、片づいていると思う」

 ・・・(以下略)
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 米国の世論調査社「ギャラップ」は、6月はじめ、ひそかに天皇にかんする世論調査をこころみた。「戦争のあと日本の天皇をどう処置すべきか」というテーマであり、設問にたいする回答は次のようなものであった。


 ▽殺せ。拷問し餓死させよ     36%
 ▽処罰または流刑にせよ      24%
 ▽裁判にかけ有罪なら処罰せよ   10%
 ▽戦争犯罪人として扱え       7%
 ▽なにもするな           4%
 ▽傀儡として利用せよ        3%
 ▽その他              4%
 ▽わからない           12%


 米国民の77%が天皇の処罰を要求していることになる。
 この「ギャラップ」調査は、公表されなかったが、政府には報告された。
 6月18日、「ホワイト・ハウス」で軍関係首脳会議がひらかれた。
 7月15日にポツダムで開催が予定されている米英ソ首脳会議にそなえて、米国の対日作戦のメドを確定するためである。
 これまでに日本を屈服させる方策については、海軍は「空襲と海上封鎖」で降伏させ得ると述べ、陸軍は「日本本土上陸」以外あり得ないと主張している。」そして、国務省はグルー次官が提言したように、「政治的手段」で降伏をうながし得る、と考えていた。
 会議では、参謀総長マーシャル元帥が、一刻も早く日本本土に上陸するのが、米国民の生命を救い日本を降伏させる早道だ、と強調した。
 「日本人は最後まで戦う。だから、戦争を早くやめさせるには、早く最後まで戦わせるほうがよい」
「味方も損害をうける。しかし、血を流さず戦争に勝つことはできない。これは憂鬱な事実だ」
 マーシャル参謀総長の発言にたいして、陸軍長官スチムソンは、日本の「潜在的平和勢力」による降伏は考えられないか、といい、大統領顧問W・リーヒ海軍大将も、指摘した。
「なにも日本を無条件降伏させなければ、こちらが敗けるわけではない。無条件降伏以外の降伏でもいいではないか。無条件降伏に固執して日本人を自棄的心境においこみ、われわれの戦死者名簿を厚くしては意味がない」
 だがほかに適切な対案もなく、陸軍の日本本土上陸作戦が承認されて、会談は終った。 
 この会議の5日後6月21日、沖縄は陥落した。
 そして、この沖縄陥落は、米国の対日政策、とくに天皇と天皇制にたいする姿勢を転換させるきっかけになった。

 ・・・(以下略)
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13  

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 外部でも、天皇を戦争犯罪人に指定せよという動きが激化していたが、9月18日上院議員リチャード・ラッセル(ジョージア州 民主党)は、上院軍事委員会に決議案を提出した。
「米合衆国(第79)議会は、ここに米国政府の政策として、日本天皇ヒロヒトを戦争犯罪人として裁くことを宣言する……」
 ラッセル議員は、この決議案を上下両院合同決議にすることを要求して、声高らかに2回朗読した。そして、提案理由を陳述した。
「ドイツにたいして振りあげられた”鉄の手”が、日本にたいしては”皮手袋”になるのは、どうしてか。
 ヒロヒト天皇は日本軍国主義の頭であり、心臓である。彼は史上最大の侵略者の一人である。ヒロヒト天皇は、戦争終結のメッセージ(詔書)の中で、一言も降伏または敗北という言葉を使っていない。日本国民は、おかげで、天皇は連合国のために戦争をやめてやったのだとの印象をうけている。
 天皇を裁判にかけることは、天皇がまとっている神格性のベールをはぎとり、日本国民の眼を開かせるとともに、日本国民自身に敗北を認識させるのに役立つはずである」
 ラッセル議員の熱弁は、拍手と歓呼の声を招来した。が、決議案は反対多数で否決された。
 
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 「SWNCC/3」を承知しての発言であるが、カーペンター大佐がいう米国の新聞は、当時は連日のように天皇を戦争犯罪人として裁けという声を、伝えていた。
 たとえば、その代表例としては、「全米弁護士協会」の動議が注目をあつめていた。
 同協会は、トルーマン大統領に書簡を送り、米英ソ中華民国の代表を集めて速やかに日本人戦争犯罪人を裁く国際軍事法廷を開設せよ、と建議したが、天皇も裁け、と主張した。
 「天皇は戦争を計画し遂行した第一の責任者であり、降伏を申し入れた当事者である。ナチス・ドイツの降伏を申し入れた海軍大将カール・デーニッツは、戦争犯罪人として裁判を待っている。天皇も戦争犯人に指定されるべきである」
 この「全米弁護士協会」の主張は、予想以上に支持を集め、あらためて「SWNCC」メンバーをふくむ米政府内にも、天皇戦犯論が強調された。

 ・・・(以下略)

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天皇の戦争責任と15回の御前会議----------------

 「御前会議」は、戦争にかかわる重要な国策を決定した会議であったが、大日本帝国憲法には天皇の統帥大権が国務から独立した大権であるという規定はなかった。しかしながら、憲法制定以前に発せられた「陸海軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)では、天皇の統帥権が例外的に国務大臣の輔弼責任外にあるとされていたため、最重要な国策が、大部分の国務大臣の参画なしに決定されていくこととなったのである。そして、閣議は御前会の議決定事項を追認するだけの機関になっていった。それだけに、天皇の戦争責任は重いといわざるを得ない。
 上段は「昭和天皇の十五年戦争」藤原彰(青木書店)から、下段は「御前会議ー昭和天皇15回の聖断」大江志乃夫(中央公論社)からの抜粋である。
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                           V 太平洋戦争と天皇

1 連絡会議と御前会議

 日中戦争が全面化した1937年11月20日、宮中に大本営が設置されて以来、重要な国策の決定は大本営政府連絡会議で行われてきた。この連絡会議は、第1次近衛内閣のときの1938年1月15日に、中国との交渉打ち切りという重大決定をし、翌日の「国民政府を対手とせず」という声明によって戦争長期化の大原因をつくった。また第2次近衛内閣成立直後の1940年7月27日には、「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」という、武力行使を伴う南進政策を決定し、対米英戦争の遠因をつくった。


 不定期に、重要問題のあったときにだけ開かれていた連絡会議にかわって、第2次近衛内閣の時の1940年11月28日からは、定期的に(週1回、問題があれば毎日でも)連絡懇談会が開かれることになった。この連絡懇談会は、1941年7月12日まで、39回にわたって開かれているが、第3次近衛内閣が成立した後の7月21日からは場所を宮中に移して連絡会議の名に戻っている。そして小磯国昭内閣が成立した直後の1944年8月5日、名称を最高戦争指導会議と変更しているが内容にはほとんど変化はなかった。連絡会議(連絡懇談会)の構成メンバーは時によって変動があるが、基本的な構成員は内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長であった。閑院宮、伏見宮が両統帥部長だったときは、参謀次長、軍令部次長が出席した。それに必要に応じて企画院総裁や大蔵大臣などの閣僚、陸軍省、海軍省のそれぞれの軍務局長、参謀本部、軍令部の作戦部長、内閣書記官などが加わる場合もあった。

 連絡会議(連絡懇談会)は閣議ではない。連絡会議の構成員でない大部分の国務大臣には、会議の内容は知らされなかった。「連絡懇談会設置の趣意」という文章には、「本会議に於テ決定セル事項ハ閣議決定以上ノ効力ヲ有シ戦争指導上帝国ノ国策トシテ強力ニ施策セラルヘキモノトス」(『杉山メモ……大本営政府連絡会議』上)として、閣議以上の権限をもつものとされていた。

 この大本営政府連絡会議を、天皇の「御前」で開くのが御前会議であり、最高国策を決定するもっとも権威あるものとされたのである。ほかに大本営だけの会議に天皇が出席するのを大本営御前会議といって、1937年11月24日に第1回が開かれたが、これは天皇への戦況説明であった。38年2月16日の大本営御前会議では戦面不拡大の方針が決定された。
 御前会議と名づけられた会議は、大本営設置以後対米開戦まで、次のように開催された。


 第1回 1938年1月11日「支那事変処理根本方針」(国民政府が和を求めてこないときは、これを対手にせず、新政権を
      樹立するという方針)を決定
 第2回 1938年6月15日 武漢、広東作戦実施を決定(『戦史叢書・支那事変陸軍作戦(2)』で御前会議と書かれている
      が、内容からみると大本営御 前会議であったかもしれない)
 第3回 1938年11月30日「日支新関係調整方針」(東亜新秩序の建設のため日満支の提携と、華北と揚子江下流域の
      特殊地帯化方針)の決定
 第4回 1940年11月13日 汪政権との間の「日華基本条約」締結の決定
 第5回 1941年7月2日「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(北方問題の武力解決を準備するとともに、南方進出のため
      の対米英戦を辞せず)の決定
 第6回 1941年9月6日「帝国国策遂行要領(10月下旬を目途として対米英蘭戦争準備を完成)の決定
 第7回 1941年11月5日「帝国国策遂行要領」(対米交渉を甲乙両案で行うとともに、12月初旬武力発動を決意)の決定
 第8回 1941年12月1日「対米英蘭開戦の件」の決定


 対米開戦決定にいたるまでの重要決定をしたのは、第5回から第8回までであるが、第2次近衛内閣のときの7月2日の御前会議は「対米英戦を辞せず」として南進の続行をきめたものの、まだ開戦を決定したのではない。告いで第3次近衛内閣になってからの9月6日の御前会議は、10月下旬を目標とする戦争準備の完成を決めると同時に、対米交渉において「10月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英・蘭)開戦ヲ決意ス」という、開戦決意に期限をつけたきわめて重要な決定を行った。この決定があったので、10月上旬になってなお交渉をつづけようとする近衛首相と、「目途」がないから直ちに開戦を決意すべきだとする東条英機陸相が対立し、10月16日の近衛内閣総辞職、10月18日の東条内閣成立となるのである。

 東条内閣は、一応は国策の再検討をするが、11月5日の御前会議では、すでに12月初旬という開戦の時期を決め、日本の要求案を甲、乙の両案にまとめ、これが容れられないときは既成方針どおり戦争に突入するという決定であり、12月1日には、11月5日の決定にもとづき、対米開戦を最終的に決めたのである。

 ただこれらの御前会議の議事の次第はあらかじめ準備されていた。そこで決定される国策は、事前の連絡会議で成文化され合意されていた。そして御前会議の前に、成文化された国策は、首相および両総長によって内奏され、天皇はそれにかんして詳細に「御下問」を行い、納得がいくまで「奉答」を求めた。その経緯は、『杉山メモ』をはじめとして、『木戸幸一日記』や近衛の手記『平和への努力』が明らかにしているところである。
 
 連絡会議も御前会議も、大日本帝国憲法には何の関係もない機関である。憲法には天皇の統帥大権が国務から独立した大権であるという規定はない。ただ慣行として統帥権が独立の大権であるとされ、統帥権の範囲が次第に拡大した。そして大本営政府連絡会議では、大元帥である天皇の』帷幄の補佐機関としての大本営側が国務の補佐機関である内閣と対等、あるいはそれ以上の権限をもち、最重要な国策を決定していったのである。正規の国務の責任機関である国務大臣の大部分は、戦争国策の決定過程になんら参画させられなかった。戦争は連絡会議を経て御前会議が決定したものであり、閣議はこの結果を追認させられただけである。閣議が開戦を決定したのであって、天皇は責任機関としての閣議決定を却下することができなかったのだというのは、戦後になって作り出された神話である。
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 上記の第8回御前会議以後も御前会議は開かれた。「御前会議ー昭和天皇15回の聖断」大江志乃夫(中央公論社)によると、「ポツダム宣言受諾」を決定した御前会議までを合わせると15回の御前会議開かれたという。しかし、その内容は上記とやや異なっている。
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                        Ⅳ 昭和天皇の最高戦争指導

 15回の御前会議


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第1回  38・ 1・11 支那事変処理根本方針        第1次近衛内閣 
第2回  38・11・30 日支新関係調整方針          第1次近衛内閣
第3回  40・ 9・19 日独伊三国同盟条約          第2次近衛内閣
第4回  40・11・13 支那事変処理要綱に関する件ほか 第2次近衛内閣
第5回  41・ 7・ 2 情勢の推移に伴う帝国国策要綱   第2次近衛内閣
第6回  41・ 9・ 6 帝国国策遂行要領           第3次近衛内閣
第7回  41・11・ 5 帝国国策遂行要領           東条内閣
第8回  41・12・ 1 対米英蘭開戦の件           東条内閣
第9回  42・12・21 大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針 東条内閣
第10回  43・ 5・31 大東亜政略指導大綱         東条内閣
第11回  43・ 9・30 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 東条内閣
第1回御前最高戦争指導会議 
     44・ 8・19 今後採るべき戦争指導の大綱ほか  小磯内閣
同第2回 45 ・6・ 8 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 鈴木内閣
同第3回 45・ 8・ 9 国体護持を条件にポツダム宣言受諾 鈴木内閣
同第4回 45・ 8・14 ポツダム宣言受諾           鈴木内閣

 御前会議という名称でひらかれた会議が合計11回、大本営政府連絡会議が最高戦争指導会議と名をあらためたのち、「御前における最高戦争指導会議」の名称でひらかれた御前会議が4回、つごう15回の御前会議がひらかれている。


 ・・・

 憲法の明文のうえでは軍隊の統帥権もこの制度の例外ではなかったが、憲法制定以前に発せられた「陸海軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)に天皇の絶対意思の表明として、天皇みずから大元帥として軍隊を直接統率し、臣下には委任しないという原則が宣言されていたので、統帥権は例外的に国務大臣の輔弼責任外にあるとされ、大元帥の幕僚長である参謀総長(陸軍)、軍令部総長(1933年以前は海軍軍令部長)がそれぞれに統帥を輔翼する制度になっていた。
 参謀総長や軍令部総長は補弼責任のある地位ではなく、したがって決定権も決定の執行権もなく、大元帥の軍事的助言者つまりあくまでスタッフであり、この点が閣議決定権をもち、行政上の執行権をもち、憲法上の責任を負うラインに属する国務大臣とはちがっていた

 ・・・(以下略)

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天皇の戦争責任 開戦の「聖断」----------------

 ドイツと比較して、日本の戦後処理には様々な問題があるが、その一つに天皇の戦争責任の問題がある。事実が意図的 に隠蔽されたり、歪められたりして、天皇の戦争責任は不問に付された。しかし、いくつかの側近者の日記やメモを読めば、昭和天皇の戦争責任も否定しようがないことが分かる。「天皇は平和主義者である」として、ポツダム宣言受諾の「聖断」ばかりが論じられる傾向があるが、 ポツダム宣言受諾に至る経過や”開戦の「聖断」”も客観的に認知されなければならないと思う。
 多少の譲歩をすれば、外交成立の目途があるという豊田外相や近衛首相の主張を受け入れず、「駐兵問題などは考慮の余地なし」とする東條陸相を、次期首班に任命したのは天皇なのである。閣議よりも統帥部を優先させた天皇が「立憲政治に拘泥しすぎて、戦争を防止できなかった」と言えるのかどうか…。下記は「昭和天皇の十五年戦争」藤原彰(青木書店)からの一部抜粋である。
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                               Ⅴ 太平洋戦争と天皇

 開戦の「聖断」

 それでは天皇は、閣議決定についての上奏はともかくとして、統帥部はじめ関係機関の上奏を、黙ってただ裁可していただけなのだろうか。立憲政治を守るように心がけたために、戦争に反対でありながら、その意志を表明することをためらったのだろうか。

 連絡会議の重要事項や、御前会議決定の前には、必ず首相、両総長などの責任者が、決定されるべき事項の内容に関して内奏を行い、天皇との間に「御下問」「奉答」をくりかえし、正式の允裁を受ける前に、必ず天皇の納得をうることになっていた。また開戦にいたる陸海軍の作戦計画、開戦準備のための陸海軍の行動のすべては、天皇の允裁を受けた大命によっていた。そのさいも、内容について詳しく「御下問」「奉答」がくりかえされていたのであって、決して天皇の意に反する大命が出されていたわけではない。


 ・・・

 「御下問」と「奉答」が意味のある例をあげると、期限つきの戦争決意をきめた9月6日の御前会議決定の「帝国国策遂行要領」は、9月3日の連絡会議で若干の修文のうえで決定したものである。そしてその内容について近衛首相が9月5日に内奏すると、天皇は統帥上の問題について懸念を示したので、近衛はそれでは今直ちに両総長をお召しになってはと奏上すると、天皇は「それでは直ぐに両総長を呼べ、尚総理大臣も陪席せよ」と命じ、杉山、永野修身が、近衛立会いのもとで、御前会議前日夕の「御下問」「奉答」をすることになった。『杉山メモ』や近衛の日記はその問答を記している。

 ここで天皇は、外交と戦争準備は、外交を先行してやるようにと指示したが、戦争の場合の見とおしについては、詳細に疑念のある点を問い質した。そして『杉山メモ』によれば、最後に「絶対ニ勝テルカ(大声ニテ)」と質問し、杉山の答えに、「アア分ッタ(大声ニテ)」と承知した。杉山の所感は、天皇は南方作戦について相当の心配があるようだとしているが、ともかくも翌日の御前会議の議題について諒承したのである。


 9月6日の御前会議決定は、期限つきの開戦決意に他ならないものであった。この会議で決定された「帝国国策遂行要領」の中、対米戦に関する部分は、次のようなものであった。

 1 帝国は自存自衛を全うする為、対米(英・蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す
 2 帝国は右に並行して米・英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む
   対米(英)交渉において帝国の達成すべき最小限度の要求事項並びに之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
 3 前号外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合においては直ちに対米(英・蘭)開戦を決
   意す


 この決定は、10月上旬を期限とし、そのときになっても交渉で日本の要求が通る見込みがないならば、対米(英・蘭)戦争を決意したものであった。
 そして、日米交渉にさしたる進展が見られないまま、御前会議決定の期限である10月上旬はたちまちやってきた。陸軍内部の強硬論を代弁し、中国からの撤兵に反対する東条陸相は、もはや要求貫徹の「目途」がないから、「開戦を決意」すべきだと主張し、開戦には反対で、交渉継続を主張する近衛首相と対立した。10月12日近衛首相、東条陸相、及川古志郎海相、豊田禎次郎外相、鈴木貞一企画院総裁の荻外荘会談が行われたが、首相、陸相の対立は変らず、10月14日の閣議も同様で、10月16日近衛内閣は総辞職した。開戦決意か、交渉継続かをめぐる閣内不統一が原因であることは明瞭である。


 近衛の辞表には、辞職の原因が、交渉に「今尚妥協の望みあり」とする首相と、「開戦に同意すべきことを主張して已ま」ない陸相との意見の不一致であることが明記されていた。その辞表を受理した天皇が、東条を次期首班に任命したことは、どうみても天皇が東条を支持し、開戦論を支持したことにならざるをえない。……

 ・・・(以下略)

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天皇の戦争責任 無視された新庄(対米諜報員)レポート---------

 御前会議(1941.9.6)において期限つきの開戦決意を決定した後、日米交渉について「今尚妥協の望みあり」とする近衛首相と開戦に踏み切るべきだとする東条陸相が対立した。天皇は、意見の不一致を理由に提出された近衛首相の辞表を受理するとともに、局面打開のために皇族内閣をつくろうとする動きを封じ、東条を次期首班に任命した。天皇は「開戦すれば日本は負ける」と明言した対米諜報員 、新庄陸軍主計大佐の報告を事実上無視するなど、冷静な判断ができなくなっていた戦争指導部の面々と、彼等を代表する開戦論者の東条陸相を支持したのである。天皇と政府首脳や重臣(首相経験者)との対米交渉(対米開戦)に関する懇談では、重臣の「3分の2が対米忍苦現状維持、3分の1が対米開戦まむなし」(「杉山メモ」)であったという。「日米開戦五十年目の真実ー御前会議はカク決定ス 」斎藤充功(時事通信社)から新庄レポートの一部と関連部分を抜粋する。
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                         第8章 「対米諜報員ニ任ズ」

 9月4日の陸軍省課長会議で、佐藤賢了軍務課長は「元来外交交渉(対米)は今春以来某経路を通じ実施あり。これについては陸軍においても、相当の批難の声あり」(前掲 陸軍省業務日誌)と発言しているが、その某ルートの交渉とは前述のように前軍事課長、岩畔豪雄陸軍大佐と産業組合中央金庫理事の井川忠雄が、非公式に米国側のウォーカー郵政長官と米国メリノール派海外伝道教会のウォルシュ司教とドラウト神父の3人に接触して、水面下で日米了解案の交渉を進めていたことを指摘したものだが、岩畔は東条の選任で、野村吉三郎駐米大使(海兵26)の補佐役として昭和16年(1941)3月10日、日本郵船の竜田丸で米国へ出発した。


 そして、その同行者のなかに別の使命を帯びた45歳の主計将校がいた。それが新庄健吉主計大佐で、かれは前職の陸軍経理学校教官を前年12月に免ぜられ、新たに参謀総長直々の命令で、「米国陸軍駐在員」を命ぜられた。が、辞令には「対米諜報員ニ任ズ」と極秘のスタンプが押されてあった。
 新庄はスパイとして米国に派遣を命ぜられたわけだが、目的は軍事スパイというよりも、リサーチが主な仕事で米国の国力分析をすることであった。


 ・・・

 新庄がニューヨークに滞在した期間は、昭和16年(1941)4月8日から10月5日までの181日間であったが、調査したデータは7月中に第1次報告として「米国国力見積」が完成していた。その間休むことなく働きづめであったというが、ニューヨークを離れる前日、支店(三井物産ニューヨーク支店)の日本人社員日本倶楽部に招待して慰労したそうだ。そして新庄は講演している。

  「新庄さんのあの時の講演は、調査の結論を話したんですね。それは、日米の国力差は”1対20”だと確信のある言葉でした。その数字の根拠は、われわれもデータ集計でお手伝いしていたので理解できましたが軍人の新庄さんが、開戦すれば日本は負けると明言したわけですから驚きました」

 新庄の対米認識は次のようなものであった。
 「日米両国の工業力の比率は、重工業において1対20、化学工業において1対3、である。戦争がどのように進展するとしても、この差を縮めることが不可能だとすれば、少なくともこの比率は常時維持されなければならない。そのためには
戦争の全期間を通じ、米国の損害を100パーセントとし、日本側の損害は常に5パーセント以内にとどめなければならない。日本側の損害がもしそれ以上に達すれば、1対20ないし1対3の比率をもってする戦力の差は絶望的に拡大する」

 ニューヨークでの半年間の生活は、新庄の肉体を蝕み、体力は限界に達していた。日本倶楽部での講演を終えた翌日からは、エンパイアステートビルに出勤することもなく、宿舎のオルリータ・マンションに引きこもる日が多かったという。だが、10月以降の新庄の行動はミステリアスであった。
 7月に完成した新庄レポートは、日米了解案の交渉を担当した前出の岩畔に託され、参謀本部に届けられた。岩畔談話速記録には、「昭和16年8月、ワシントン発帰国の途についた私に託された彼の第1次調査結果の要点は次のようなものであった。ここに掲げる数字は新庄大佐の報告書から抜粋したものである」
 報告の一部とは次の数字であった。


   主要項目          米国         日本の比率
   鉄鋼生産量         9500万トン       1対20
   石油生産量        11000万バーレル   1対数百
   石炭生産量        50000万トン      1対10
   電   力           1800万キロワット  1対6
  アルミニューム計画量     85万トン      1対3
               実績量  60万トン      1対6
   航空機生産機数        12万機       1対8
   自動車生産台数       620万台       1対50
   船舶保有量         1000万トン      1対2
   工場労働者         3400万人       1対5


 そして、新庄が三井物産の協力を得て、心血を注いでまとめたレポートは、岩畔の手で戦争指導部に報告された。
 彼の調査成果は、彼の委嘱にもとづいて私が昭和16年8月中旬から下旬にかけて近衛総理、陸軍首脳部、海軍首脳部、宮内省首脳部(内大臣、宮内大臣、侍従長、および侍従武官長)、豊田外務大臣らに直接面会して披露すると同時に、宮中で開催されていた大本営連絡会議(ママ)に出席して、約1時間半にわたって委細説明したのであるが、新庄大佐によって調べられた資料が、私の無力なせいもあって、文武首脳者の頭を切換えさすに至らなかったことは、かえすがえすも痛恨の極みであった」


 だが、岩畔が述懐しているように、戦争指導部は新庄レポートに耳を貸そうとはしなかった。特に軍部は、対米戦に傾斜していく姿勢を強めていたがため、米国の国力評価などより、日本の物資動員計画を気にしていたのである。

 ・・・(以下略)

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古文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問--------------

 日本の外務省は、尖閣諸島について「外務省・アジア 尖閣諸島の領有権についての基本見解」 として
 「尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。
 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。」

と表明しています。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/
 また、共産党まで2010年9月20日(月)「しんぶん赤旗」で、日本の領有は正当として
「尖閣諸島(中国語名は釣魚島)は、古くからその存在について日本にも中国にも知られていましたが、いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。1895年1月に日本領に編入され、今日にいたっています。
 1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。
 所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議がとなえられたことは一度もありません。日本の領有は、「主権の継続的で平和的な発現」という「先占」の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。」

と書いています。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-23/02_02.html)
 しかしながら、日本が領有を閣議決定した1895年は、不平等条約の典型ともいえる下関条約調印の年でもあります。
 したがって、先ず1つ目は、尖閣諸島の領有が、日本の帝国主義的な領土拡張(侵略行為)の流れとは別の、正当な国家行為ととらえることができるのかという疑問です。
 なぜなら、日本の琉球処分(1871年)に反撥していた中国(清)が、琉球処分を受け入れざるを得なくなったのは、日清戦争の敗北によってであり、日本は日清戦争後の講和会議(1895年4月17日)で調印された下関条約によって、遼東半島、台湾および澎湖諸島など付属諸島嶼の主権も得ているのです。尖閣諸島だけは帝国主義的な領土拡張(侵略行為)とは別で、平和的に「無主地先占」されたものであり、問題はないといえるのかという疑問です。

 2つ目に、「無主地先占」が現地調査だけでなされてよいのかという疑問です。日本が領有を閣議決定した時、中国名「釣魚(チョウギョ)諸島」に「尖閣諸島」という日本名はなかったといいます。「尖閣諸島」と日本名で呼ばれるようになったのは、日本の領有が閣議決定されてから5年後の1900年だというのです。にもかかわらず、中国名「釣魚諸島」を中国や台湾、および琉球の人たちの領有意識、また、中国や台湾、および琉球の過去の文献にあたって調査することをせず、「無主地」と断定できるのかという疑問です。無人島といえども、領有意識があっても不思議はないのであり、領有意識があれば無主地と断ずることはできないのではないかという疑問です。

 3つめは、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』や陳侃の後の冊封使、郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』、また、同時代の倭寇と対した名将、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本)の下記のような記述を、無視できるとする根拠は何かということです。以下は「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋です。
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 三 釣魚(チョウギョ)諸島は明の時代から中国領として知られている

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 16世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、1534年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』がある。それによれば使節一行の乗船は、その年5月8日、福州の梅花所からに外洋に出て、東南に航し、鶏龍頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、10日に釣魚嶼などを過ぎたという。

 「10日、南風甚ダ迅ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目按スルニ暇アラズ。(中略)11日夕、古米(クメ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」

 琉球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使である。彼以前の10回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、── それ以外の航路はない ── その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらはもともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に1562年の冊封使となった郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
 その郭の使録には、1562年5月29日、福州から出洋し「閏5月初1日、釣嶼ヲ過グ。初3日赤嶼ニ至ル。
赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再1日ノ風アラバ、即チ姑米(クメ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。

 上に引用した陳・郭の2使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深2000メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は、琉球地方を界する山だというのは、同じ事を、ちがった角度から述べていることは明らかである。 

 そして、前に一言したように琉球の向象賢(コウショウケン)の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖(カセイ)甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に5月10日と11日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派の激しい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の既述がそのまま採用されていることは久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領でないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことをしめしている。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはない」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領でないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。

 なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというときその「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう1日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。

 こうみてくると、陳侃が、、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の既述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなど、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。

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 おそくも、16世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(1561年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。
 本書の第1巻、「沿海山沙図」の「福七」~「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」「黄尾山」「橄欖山」「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当たるか、いちいちの考証はは私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
 この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の第1巻は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。


 ・・・(以下略)

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古文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問・その2---------

 尖閣諸島沖の漁船衝突事件以来、政府は一貫して「尖閣列島に領土問題はない」という姿勢で事に当たっています。そして、それを全面的に肯定し前提とした報道が毎日のように続いています。中国側の対応にも様々な問題があるのではないかとは思いますが、「尖閣列島に領土問題はない」という姿勢では、この問題の平和的解決は難しいのではないでしょうか。そこで、原点に戻って考えるために「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)から問題と思う部分を抜粋すます。
 同書によると、明朝の文献のみならず、清朝の文献にも釣魚諸島は中国領であることを示す記述があります。また、日本の文献では、林子平が『三国通覧図説』の「付図」で、釣魚諸島を中国領として色づけしています。同書には、カラーの「琉球三省并三十六島之図」が添付されており、そのことが分かります。清朝冊封使の過溝祭の記述を読み、中国領として色づけされた尖閣諸島(釣魚諸島)の地図を見る限り、中国大陸からはり出す大陸棚の南のふちにある尖閣諸島(釣魚諸島)を勝手に「無主地」とすることには、やはり無理があったと考えざるを得ません。
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4 清代の記録も釣魚諸島は中国領と確認している

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 ところが、清朝の第2回目の冊封使汪楫(オウシュウ)は、1683年に入琉するが、その使録『使琉球雑録』第5巻には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、とつぎのように明記している。

 「24日(1683年6月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻彭佳山ヲ過ギ酉刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……25日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風濤大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、5斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ刀を抜いて)舷ニ伏シ、敵ヲ禦グノ情ヲナス。之ヲ久シウシテ始メテヤム。」
 そこで、汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。」(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。
「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。
 汪楫は重ねて問うた。
「界ハ何ニ於テ辨ずるや。」(その界はどうして見分けるのですか)相手は答えた。
「曰ク懸揣(ケンズイ)スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」


 右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出したその南のふちに、ほぼ東西に連なっている。列島の北側は水深200メートル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百から2千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざやかである。

この海の色の対照は、1606年の冊封使夏子楊(カシヨウ)の『使琉球録』にも注目されており、「前の使録の補遺(私は見ていない──井上)に『蒼ヨリ黒水ニ入ル』とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが「溝」あるいは「郊」または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに1756年入琉の周煌(シュウコウ)の『琉球国志略』、1808年入琉の斉鯤(サイコン)の『続琉球国志略』に見えている。

 これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりでなく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。

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 徐葆光は、渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作成のために、とくに中国の専門家をつれていったほどである。かれは琉球王城のある首里に入るとすぐ王府所蔵の文献記録の研究をはじめ、前に紹介した程順則および程より20歳も若いが、彼につぐ当時の大学者──とくに琉球の王国時代を通じて地理の最大の専門家蔡温(サイオン)を相談相手とし、8ヶ月間琉球のことを研究した。
『中山傳信録』は、こうして書かれたものであるから、その記述の信頼度はきわめて高く、出版後まもなく日本にも輸入され、日本の版本も出た。そして本書および前記の『琉球国志略』が、当時から明治初年までの、日本人の琉球に関する知識の最大の源となった。この書に、程順則の『指南広義』を引用して、福州から那覇に至る航路を説明している。それは、従来の冊封使航路と同じく、福州から、鶏龍頭をめざし、花瓶、彭佳、釣魚の各島の北側を通り、赤尾嶼から姑米山(久米島)にいたるのだが、その姑米山について
「琉球西南方界上鎮山」と註している。

 ・・・(以下略)

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5 日本の先覚者も中国領と明記している

 これまで私は、もっぱら明朝の陳侃、郊汝霖、胡宗憲および清朝の汪楫、徐葆光、周煌、斉鯤の著書という、中国側の文献により、中国と琉球の国境が、赤尾嶼と久米島の間にあり、釣魚諸島は琉球領でないのはもとより、無主地でもなく、中国領であるということが、おそくとも16世紀以来、中国側にははっきりしていたことを考証してきた。この結論の正しいことは、日本側の文献によって、いっそう明白になる。その文献とは、先に一言した
林子平の『三国通覧図説』の「付図」である。

 『三国通覧図説』──以下では、略して『図説』ということもある──とその5枚の「付図」は、「天明5年(1785年)秋東都須原屋市兵衛梓」として、最初に出版された。その1本を私は東京大学付属図書館で見たが、その「琉球三省并三十六島之図」は、たて54,8センチ横78,3センチの紙に書かれてあり、ほぼ中央に「琉球三省并三十六島之図」と題し、その左下に小さく「仙台林子平図」と署名してある。この地図は色刷りであって、北東のすみに日本の鹿児島湾付近からその南方の「トカラ」(吐葛刺)列島までを灰色でぬり、「奇界」(鬼界)島から南、奄美大島、沖縄本島はもとより、宮古、八重山群島までの本来の琉球王国領は、うすい茶色にぬり、西方の山東省から広東省にいたる中国本土を桜色にぬり、また台湾および「澎湖三十六島」を黄色にぬってある。そして、福建省の福州から沖縄本島の那覇に至る航路を、北コースと南コース2本えがき、その南コースに東から西へ花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台、黄尾山、赤尾山をつらねているが、これらの島は、すべて中国本土と同じ桜色にぬられているのである。北コースの島々もむろん中国本土と同色である。

 ・・・(以下略)

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古文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問その3-----------

 <古賀辰四郎という人物が、沖縄近海の尖閣諸島(釣魚諸島)で海産物やアホウ鳥の羽毛の採取による事業をすすめるため、1885年に沖縄県に土地貸与を願い出たので、沖縄県が政府に日本領とするよう働きかけた。それを受けた政府が、現地調査の結果「無主地」と判断し、尖閣諸島(釣魚諸島)の領有が1895年に閣議決定された>という話は、下記の「沖縄県令西村捨三」の文書と「外務卿伯爵井上馨」の文書を読むと、とても真実とは思えない。
 沖縄県ではなくて内務省がこの島を領有しようとして、沖縄県に調査するよう「内命」を発しているのである。なぜ「内命」であったのかということが重要であるとともに、沖縄県令西村捨三も外務卿井上馨も尖閣諸島(釣魚諸島)が無主地でないことを意識して対応していたことが分かる。
 特に、直ちに領有を決定しようとする内務卿山県有朋に対する外務卿井上馨の返信には「近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ」と書かれているのである。これを「無主地」として領有を閣議決定したのは、日清戦争の勝利が確定的となり、沖縄県令のいう「懸念」がなくなったからであり、また井上馨のいう「他日の機会」が到来したからであると考えざるを得ない。合法的・平和的に無主地先占されたとは考えられないのである。「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋である。
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11 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を9年間うかがいつづけた

 ・・・
 琉球政府や日共は、85年に古賀の釣魚島開拓願いをうけた沖縄県庁が、政府に、この島を日本領とするよう上申したかのようにいうが、事実はそうではなく、内務省がこの島を領有しようとして、まず、沖縄県庁にこの島の調査を命令した。それに対して、沖縄県令は85年9月22日次のように上申ししている。

 「第315号

  久米赤島外二島取調ノ儀ニ付上申
 本県と清国福州間ニ散在セル無人島取調ノ儀ニ付、先般、
在京森本本県大書記官ヘ御内命相成候趣ニ依リ、取調ベ致シ候処、概略別紙(別紙見えず──井上)ノ通リコレ有リ候。抑モ久米赤島、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ、シカモ本県所轄ノ久米、宮古、八重山等ノ群島ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ付キ、沖縄県下ニ属セラルルモ、敢テ故障コレ有ル間敷ト存ゼラレ候ヘドモ、過日御届ケ及ビ候大東島(本県ト小笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違シ、中山傳信録ニ記載セル釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼ト同一ナルモノニコレ無キヤノ疑ナキ能ハズ。
 果シテ同一ナルトキハ、既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称モ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、
踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間、来ル10月中旬、両先島(宮古、八重山)ヘ向ケ出航ノ雇ヒ汽船出雲丸ノ帰便ヲ以テ、取リ敢ヘズ実地踏査、御届ケニ及ブベク候条、国標取建等ノ儀、ナホ御指導ヲ請ケタク、此段兼テ申上候也
  明治18年9月21日
                                                    沖縄県令 西村捨三
  内務卿伯爵  山県有朋殿」


 ・・・
 沖縄県令の以上のようなしごく当然な上申書を受けたにもにもかかわらず、山県内務卿は、どうしてもここを日本領に取ろうとして、そのことを太政官の会議(後の閣議に相当する)に提案するため、まず10月9日、外務卿に協議した。その文は、たとえ「久米赤島」などが『中山傳信録』にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見ヘ申サズ」、また「名称ノ如キハ彼ト我ト各其ノ唱フル所ヲ異ニシ」ているだけであり、かつ「沖縄所轄ノ宮古、八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニコレ有リ候ヘバ」、実地踏査の上でただちに国標を建てたい、というのであった。この協議書は、釣魚諸島を日本領にする重要な論拠に、この島が沖縄所轄の宮古・八重山に近いことをあげているが、もしも80~82年の琉球分島・改約の方針が持続されていたら、こういう発想はできなかったであろう。
 これに対し外務卿井上馨は、次のように答えている。


  「10月21日発遣
  親展第38号
                                                   外務卿伯爵  井上 馨
     内務卿伯爵  山県有朋殿
 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第83号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周囲モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、
清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候
 
且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。

 右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。」


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 つまり、井上外務卿は、沖縄県の役人と同様に、釣魚諸島は清国領らしいということを重視し、ここを「このさい」「公然」と日本領とするなら、清国の厳重な抗議を受けるのを恐れたのである。それゆえ彼は、日本がこの島を踏査することさえ、新聞などにのらないよう、ひそかにやり、一般国民および外国とりわけ清国に知られないよう、とくに内務卿に要望した。しかし、この島を日本のものとする原則は、井上も山県と同じである。ただ、今すぐでなく、清国の抗議を心配しなくてもよいような「他日ノ機会」にここを取ろうというのである。山県も井上の意見を受けいれ、この問題は太政官会議にも出されなかった。
 ・・・(以下略) 

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文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問その4------------

 尖閣諸島(釣魚諸島)沖の漁船衝突事故に関連するニュースでは、どのテレビ局やラジオ局も判で押したように「日本の領海内で起きた」との言葉を入れており、何か日本国民の合意形成を意図しているかのような感じがする。また、尖閣諸島領有そのものの歴史的経過には触れず、日本が平和的・合法的に領有した尖閣諸島を、周辺の海底に石油・天然ガスが大量に存在する可能性が指摘されたことを契機に、中国や台湾が領有を主張しはじめたと繰り返していることも気になるところである。日本の尖閣諸島(釣魚諸島)領有は、日清戦争の圧倒的勝利を確信し、台湾割譲を重要案件の一つとして検討していた時期に、首相伊藤博文が大本営の会議に列席し(明治天皇の特別命令)提出した「……”あらかじめここを軍事占領しておくほうがいい”……」というような戦略意見に基づいて理解されるべきであると思う。古賀辰四郎の魚釣島(釣魚島)における事業の話は、侵略的窃取を隠すための表向きの話であるというわけである。「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋である。
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11 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を9年間うかがいつづけた

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 この後も、日清両国の関係は、日本側から悪化させる一方であり、日本の対清戦争準備は着々と進行した。その間に古賀辰四郎の釣魚島での事業も緒についた。そして、1890年(明治23年)1月13日、沖縄県知事は、内務大臣に、次の伺いを出した。

 「管下八重山群島石垣島ニ接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀ニ付、18年11月5日第384号伺ニ対シ、同年12月5日付ヲ以テ御司令ノ次第モコレ有候処、右ハ無人島ナルヨリ、是マデ別ニ所轄ヲモ相定メズ、其儘ニ致シ候処、昨今ニ至リ、水産取締リノ必要ヨリ所轄ヲ相定メラレタキ旨、八重山役所ヨリ伺出デ候次第モコレ有リ、カタガタ此段相伺候也」(前掲『日本外交文書』第23巻、「雑件」)


 沖縄県のこの態度は、85年とまったく反対である。今度は清国との関係は一言もせず、県から積極的に、古賀の事業の取締を理由に、日本領として沖縄県の管轄にされるように願っている。このときの知事は、かつての西村県令が内務省土木局長のままで沖縄県令を兼任していたのとはちがって、このときの知事は、内務省寺社局長から専任の沖縄県知事に転出した丸岡莞爾といい、沖縄に天皇制の国家神道を強要し広めるのに努力した、熱烈な国家主義者である。そういう知事なればこそ、釣魚諸島と清国との関係はあえて無視して、古賀事業取り締りを口実に、ここを日本領に取り込もうと積極的に動いたのであろう。
 ・・・(以下略)
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 しかし上記のような上申や古賀の願い出は、許可されることなく繰り返された後、日清戦争勝利が確実になった1894年12月27日内務省から外務省へ下記のような秘密文書が送られた。「其ノ当時ト今日トハ事情ノ相異候ニ付キ」との理由である。
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12 日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った

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  「秘別第133号
 久場島、魚釣島ヘ所轄標杭建設ノ儀別紙甲号ノ通リ沖縄県知事ヨリ上申候処、本件ニ関シ別紙乙号ノ通リ明治18年貴省ト御協議ノ末指令ニ及ビタル次第モコレ有リ候ヘドモ、
其ノ当時ト今日トハ事情ノ相異候ニ付キ、別紙閣僚提出ノ見込ニコレ有リ候条、一応御協議ニ及ビ候也
  明治27年12月27日
                                内務大臣子爵   野村靖
   外務大臣子爵 陸奥宗光殿」

 この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。
「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島、魚釣島ハ、従来無人島ナレドモ、近来ニ至リ該島ヘ向ケ漁業等ヲ試ムル者コレ有リ。之ガ取締リヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄トシ標杭建設致シタキ旨、同県知事ヨリ上申コレ有リ。右ハ同県ノ所轄ト認ムルニ依リ、上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス
 右閣議ヲ請フ」
 
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 外務省もこんどは何の異議もなかった。年が明けて1895年(明治28年)1月11日、陸奥外相は野村内相に、「本件ニ関シ本省ニ於テ別段異議コレ無キニ付、御見込ノ通リ御取計相成リ然ルベシト存候」と答えた。ついで同月14日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月21日、内務大臣から、沖縄県知事に、「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」と指令した。

 85年には、清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有のたくらみは実現できなかった。90年の沖縄県の申請にも政府は何の返事もしなかった。93年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治18年の「其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。
 明治18年と27年との「事情の相違」とは何か。18年には古賀辰四郎の釣魚島における事業は、まだ始まったばかりか、あるいはまだ計画中であったが、27年にはすでにその事業は発展し、「近来同島ニ向ケ漁業ヲ試ムル者アリ」、政府をしてその取締を感じさせるようになったということであろうか。それも、「事情の相違」の一つといえる。しかし、それが唯一の、あるいは主要な「相異」であるならば、その相異はすでに明治23年にははっきりしている。その相違を理由に、沖縄県が、釣魚島に所轄の標杭をたてたいと上申したのに対して、政府は何らの指令もせずに4年以上もすごした。さらに26年11月に、沖縄県が前と同じ理由で標杭建設を上申したのに対しても、政府は返事をしなかった。その政府が27年12月末になって、そのとき沖縄県から改めて上申があったわけではないのに、突如として1年以上も前の上申書に対する指令という形で、釣魚諸島の領有に着手したのであるから、漁業取締りの必要が生じたということは、9年前の今との「事情の相異」の唯一の点でないのはもとより、主要な点でもありえない。決定的な「相異」は、べつのところになければならない。

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 それは、下記の伊藤博文の戦略意見の中にある。日清戦争勝利の勢いに乗じ、より有利な状況の中で台湾の割譲を迫るためである。
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 北京進撃は壮快であるが、言うべくして行うべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損なうだけの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよと言う声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがよい。
 ・・・(以下略
部漢数
字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。漢字の読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
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