-NO229~236
--------------戦後補償───朝鮮人戦犯(李鶴来さん)の証言-----------

 日本の侵略戦争によるアジア諸国の被害は多大であった。したがって、その賠償や補償は大変なものになるはずであった。しかしながら、戦後の東西対立(冷戦)の激化にともなって、日本を占領下においていた連合国最高司令官総司令部が東側に対する西側陣営の強化のために、日本の再軍備や経済復興に力を入る占領政策を進めた。日本の民主的改革や賠償・補償の戦後処理は、当然のことながら、そうした占領政策を補完するものでなければならなかった。結果、日本社会に様々な問題が残ることとなった。朝鮮人戦犯に対する補償の問題は、戦争中の日本の不正義が、戦後も変わることなく続いているが如き理不尽なものである。日本の加害責任の償いは解決してはいないと思う。
 下記の
「釈放を求めて───朝鮮人戦犯」は「戦後補償から考える日本とアジアー日本史リブレット」内海愛子(山川出版社)からの抜粋である。また、朝鮮人軍属で捕虜監視員であった李鶴来(イハンネ)さんの証言の部分は「今なぜ戦後補償か」高木健一(講談社現代新書)からの抜粋である。
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釈放を求めて───朝鮮人戦犯

 戦後補償裁判のなかで、特異な裁判がある。軍属だった旧植民地出身者の戦犯が起こした裁判である。
 「ポツダム宣言」を受諾した日本は、戦争犯罪人の処罰も受けいれた(10項)。連合国は、極東国際軍事裁判(東京裁判)とはべつに、BC級裁判で「通例の戦争犯罪」をおこなった「日本兵」を裁いている。この裁判の被告は5702人を数えた。この「日本兵」のなかに、戦争に動員された朝鮮人と台湾人がいた。元日本兵として裁かれた朝鮮人戦犯は148人、台湾人戦犯は173人。BC級裁判で有罪になった者(4403人)の7パーセント強が旧植民地出身者となっている。主に、捕虜収容所の監視員だった軍属である。


 
日本政府は平和条約で、東京裁判とBC級裁判の「判決」を受諾し、「日本国民」である戦犯の刑の執行を引き受けている。(第11条)。刑の執行を引き受けた戦犯のなかには、これら元日本兵として裁かれた朝鮮人・台湾人も含まれていた。

 平和条約が発効した日に、朝鮮人や台湾人の「日本国籍」がなくなったことは、先の民事局長通達のとおりである。「日本国民」でもないのに、なぜ拘束されるのか。当事者の訴えに弁護士が支援にのりだした。1952年6月14日、人身保護法にもとづき、巣鴨刑務所に拘留されていた29人の朝鮮人と台湾人1人が釈放を求めて、東京地裁に提訴した。もっとも早い戦後補償裁判ともいえるものである。

 
 人身保護法による裁判は、場合によっては最高裁が直接判決をくだすことができる。その年の7月30日、最高裁の大法廷が開かれ、訴えは却下された。却下理由は、日本政府は刑の執行の義務を負っているのであり、刑を受けたときに日本国民であり、その後引き続き拘禁されていた者については、条約による国籍変更があっても刑の執行の義務に影響を及ぼさない、というものであった。

 「日本国民」として、かれらは巣鴨刑務所で拘留され続けた。最後の朝鮮人戦犯が釈放されたのは1958年である。すでに第1次岸信介内閣ができていた。かれらは巣鴨刑務所のなかでは「日本国民」だったが、巣鴨刑務所から出ると「日本国民」ではなくなり「外国人登録」をさせられた。指紋押なつもさせられている。また、外国人として在留資格が決められた。一時は「特別未帰還者給与法」(52年4月28日)で未帰還者手当を受けとることもできたが、これも53年7月31日には打ち切られた。日本国籍がないというのが、その理由であった。なお、巣鴨刑務所を出所した日が、「引揚げ」の日となっている。

 朝鮮人で戦犯として死刑になったのは23人である。かれらはマニラ、シンガポール、ジャカルタなど海外で刑が執行された。遺骨は処刑された日本人の遺骨と一緒に日本に送りかえされ、厚生省が保管していた。生き残った朝鮮人戦犯たちは、遺骨を家族のもとにかえす努力をしてきた。遺骨送還にあたって、厚生省は慰霊祭をひらいてはいるが、補償はない。1万円の香典、これが刑死した朝鮮人軍属に対して、日本政府が出した「弔慰金」だった。「戦犯」にされた旧植民地出身者は巣鴨刑務所の内でも出所後も、国籍条項によって援護から排除されてきた。

 戦犯であっても日本人の場合には、軍人恩給は復活し、「戦傷病者戦没者援護法」も適用された。しかし、朝鮮人・台湾人戦犯たちは、こうした措置からはずされた。交渉によって出所後の住宅や生業資金の貸付などはおこなわれたが、長期間の拘留や刑死への補償はなかった。なお、戦犯として刑死した朝鮮人たちは、日本人の場合と同じように「法務死」扱いとなっており、靖国神社に合祀されている。

 1991年11月、日本政府の扱いに対して朝鮮人・韓国人戦犯たちは謝罪と補償を求めて提訴した。99年12月20日、最高裁は「立法措置が講じられていないことに不満を抱く心情は理解し得ないものではない」と述べたものの、解決は立法府の裁量的判断に委ねられるものと、かれらの請求を棄却した。BC級戦犯たちにとっては、最高裁での2度目の棄却である。

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朝鮮人が戦犯となり、日本が刑を執行する

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 【証言】「私は何のために、誰のために死んでいくのか、死への理由が見当たらなかったのです」──李鶴来(イハンネ)さん

 私は1925年2月に、韓国の寒村で農家の長男として生まれました。小学校を卒業したのは14歳でした。家の用事を手伝いながら、日本の家の書生もしていました。郵便局に勤務したこともあります。
 ある日、1期ぐらい先輩の友人から、「南方で、捕虜監視の募集がある。契約は2年間。そして給与は50円くれるんだ」という話を聞きました。
 郡庁で簡単な筆記試験、あるいは口頭試験を受けて、後日合格通知をもらって、42年の6月の半ばに、釜山の野口部隊に入隊したのです。

 朝鮮全土から3000人の青年が当時入隊をしていました。捕虜を監視するための教育は一切ありません。「日本軍人の精神を徹底的に入れてやるんだ」とのことで初年兵教育と同じ厳しい訓練を2ヶ月受けて、南方の各地に派遣されたのです。
 私が最初に着いたのはサイゴンでした。それからバンコクに行き、そこで「タイ捕虜収容所」に配属されました。泰緬鉄道、これはノンプラドックを基点にしてビルマのタンビザヤまでの425キロにもおよぶ鉄道で、インパール作戦のために軍の命令で早くつくれ、という方針のもとに着手したわけですが、当時シンガポールが陥落して大勢の捕虜がいて、その捕虜を使って泰緬鉄道工事をするというのです。


 私が着いたその翌年の2月頃、150キロメートル地点のヒントクというところに派遣されまして、私ら仲間6人と、イギリス、オーストラリヤ、オランダの捕虜たち、約500人を連れてそこに行って、仕事をしたわけです。日本人の下士官もいることはいましたけれども、私が主として労役つまり労務作業割り出しや総務的な仕事、あるいは事務所との連絡、こうしたことをやっておりました。その当時の状況は極めて厳しいものでした。まず施設が悪い、雨がもる、食糧が十分でない。それから医薬品がない。ないないずくめです。そういったなかで鉄道建設をしなければならない。そこへもってきて赤痢、マラリヤ、コレラなどのような病気が発生してまいります。そうしますと十分な栄養もとれないで働かされる捕虜は疲れてきます。大勢の捕虜が亡くなったのです。

 8月15日、現地除隊ということになりました。「連合運の捕虜を虐待した者は、厳罰に処する」といった布告が出ました。けれども、私たち自身捕虜を虐待したというような覚えは感じてないわけです。ある日、船の待合所で帰る船を待っていたところ、私も入れて50人ばかり首実検にひっかかりました。
 そして、タイ国の刑務所に入れられました。そこに数ヶ月おりまして、翌年の4月頃、あの有名なシンガポールのチャンギ刑務所に収容されました。行くとすでに仲間たちが大勢来ていました。本当にチャンギ刑務所というところは生き地獄なのです。入ったら食物はくれない、虐待はする、炎天下で強制体操はさせられるなど、大変苦労しました。

 そういう厳しい状況の中で、私も1回取り調べを受けただけです。たいした取り調べじゃありません。「患者が多く死んだのは知っているか」という程度です。2、3日たって起訴状を持って来ましたけれど、私はそうした責任の地位にない、施設が悪い、食糧がない、医薬品がない状態で、患者を強制的に収容したというのも、私個人のしたことではない、私は関係ないと否定したところ、彼らは帰りました。
 また3日後、同じ起訴状を持って来て、「お前が受けようが 受けまいが、この起訴状で裁判する」ということなんです。1ヶ月位経って、その起訴状は却下になりました。釈放され、復員船で帰る途中で、また呼び戻されました。今度の起訴状も、捕虜を強制的に収容させて死亡させた、と書いてあるだけでした。裁判は1時間でした。こちらが何を言おうと、向こうは聞く耳をもちません。


 絞首刑の判決を受けました。1947年3月20日でした。獄に入ると、15,6人いました。死刑の判決を受けても、もうくるところまできたんだ、これ以上悪くはならない、と思ったんですが、やはりこれはつかの間でした。日がたつにつれて、自分の国は独立をして国民が歓喜にあふれている。ところが、私は連合軍捕虜を虐待したということで死刑囚になった……。
 私が一番悩んだのは、国の独立に協力できなくて死刑囚となって殺されること、もう一つは、この知らせを聞いた時に、親兄弟がどれだけつらい思いをするだろうか、ということです。あと一つは、私は何のために、誰のために死んでいくのか、死への理由が見当たらなかったのです。

 日本人の場合は お国のため、あるいは天皇陛下のために死んでいくんだ、というあきらめがあったでしょうが、私や私の友達の場合は、そうした慰めが全然ありません。戦後、戦犯として私の仲間が14人、全部で23人が死刑を執行されているんですが、みんなが切ない気持ちを抱いて死んでいったわけです。
 私はその後20年の減刑になり、巣鴨に送還され、釈放されてこうしておりますけど、自分の責任でない責任を負って、戦犯になったわけです。


 釈放後も苦難の生活

 彼らは、釈放されても援護措置を何ひとつ受けられないまま、日本社会に放り出された。仮釈放であるため祖国への帰還も許されず、日本に身内や親族、友人もいないため、生活の基盤はまったくなかった。3年余りの軍務と10数年の拘禁生活を課せられ、釈放時に支給されたのは数着の軍服と千数百円の旅費だけだった。出所しても生活ができないからと出所を拒否する人、出所後の生活苦のために自殺した人、精神障害で入院した人などが続出した。

 ・・・(以下略)


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GHQ指令「軍人恩給廃止の件」と軍人恩給復活--------------

 太平洋戦争の終結に際して、ポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP) は、その真偽のほどは別としても、日本から国家主義と軍国主義を一掃し、日本を民主化することを目的として、次々に「連合軍最高司令部訓令」を発した。下記「恩恵及び恵与」や「軍人恩給廃止の件」もその一部であるが、軍人恩給制度については、「この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである」と指摘し、「惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない」として、軍人恩給を廃止させたのである。しかしながら、その軍人恩給がサンフランシスコ講和条約締結直後に復活する。大本営や参謀本部の高官、政府内の軍人・要人、軍国主義団体の指導者その他、先の大戦を指導した旧軍人や戦争を煽った関係者と彼等を支えた人たちが、戦後の日本社会でもその思いを持ち続け、力を温存させていたことを窺わせる。『「戦争の記憶」その隠蔽の構造』田中伸尚(緑風出版)からの抜粋である。
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                                軍人恩給をめぐる攻防

 GHQ覚書と「勅令第68号」


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 敗戦間もない1945年11月24日、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP。以下GHQ)は日本政府に対して一通の覚書を出した。「恩恵及び恵与」という。
 「(前略)左の各号に該当するすべての人物に対するあらゆる公私の年金その他の給与金、補助金の支払を停止するために必要な措置を講ずること。

A退職金又はこれに類するボーナスや手当を含む軍務に服したることによる支給金、但し労働能力を制限するような身体的
 廃疾者[原文のママ]に対する補償金を除くが、この補償金は非軍事的理由から起きた同程度の身体的廃疾者[同]に与え
 られる最低のものより高い率であっては成らぬ
B連合国最高司令官の命令の結果として解散又は停止された協会、団体その他の会員であり、或いはここに就職したという
 理由によるもの
C連合国最高司令官の命令の結果、如何なる官職又は地位からでも追われもの
D連合国最高司令官の命令の結果として抑留又は逮捕されたもの拘禁又は逮捕期間中の支払又はその後有罪判決を受け
 た場合は永久的(以下略)」(原文の片仮名を平仮名に直した)


 翻訳された原文は分かりにくいが、要するに日本政府に対して軍国主義を支えた「恩典・恵与」をことごとく除去せよ、と命じていたのだった。照準は軍人恩給の廃止である。GHQは日本占領の目的として「民主化」と並んで「非軍事化」を柱にしていたが、「覚書」はその具体的政策の一つで、翌年の1946年2月1日までにその実施を求めていた。GHQ渉外局はこれに続けて翌日、「軍人恩給廃止の件」を発表し、その目的、根拠、実態・評価、代替措置などについて細かい説明を行った。少し長いが一部を省略して紹介する。
 まず覚書のねらいについてこう説明した。


 「今回の命令は日本の軍国主義が他の国民に負わしめた巨大な負担を軽減する目的への新しい重要な措置である」

 それではなぜ軍人恩給の停止が負担の軽減になるのか。

 「1945年9月30日までに陸軍の支払った退職手当は総額10億6000万円、海軍のそれは22億4100万円に上っており、その後両者合わせて15億円の退職手当の支払が予定されていた。因みに以上の金額は、現金及び証書の双方を含むものである。軍人恩給の廃止によって復員終了後年額15億円の経費の節減が期待できる」


 しかしGHQは、節減した資金を被害国への補償へ回そうとしたわけではない。ついで、軍人恩給の実態について次のようにのべている。

 「軍人恩給の最低額は、退役後における俸給の3分の1で、将校は13年、下士官、兵は12年の勤務を経て恩給を受けとる資格を生ずる。然しながら、日本軍人は多くの場合、僅か1年の勤務に対して2、3年また4年勤務したと認められる。在外勤務の1年は国内勤務の4年と計算され、航空機搭乗員は1年を3年に、潜水艦乗務員は1年を2年に計算されていた。
 日本側の情報によると、25歳以下の若い軍人で恩給を受けていた者が少なくなかったといわれ、また、民間の教師や官公吏が俸給の2%を恩給の基礎として払込まなければならないのに対し、軍人は僅かに1%を払込むだけでであった。更に、軍人以外の恩給が公の俸給額に基づいているのに対し、軍人の基準は俸給額よりも遙かに高いところにおかれ、例えば陸軍少尉の年給は860円であるのに対し、1400円を基準に計算されていた」


 そして、こう結論を下す。

 「日本における軍人恩給制度は他の諸国に類をみない程大まかなものであったが、この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである」

 最後に、社会的な困窮者に対する社会保障の必要性を認めつつ、軍人恩給の特権的性格を批判して廃止の必要性を説いている。

 「もっともわれわれは不幸なる人々に対する適当な人道上の援助に反対するものではない。養老年金や各種の社会的保障の必要は大いに認めるが、これらの利益や権利は日本人全部に属するべきであり、一部少数のものであってはならない。現在の惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が他の犠牲において極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない。われわれは、日本政府がすべての善良なる市民のための公正なる社会保障計画を提示することを心から望むものである」

 軍人恩給が、他の社会保障制度に比べて特段の優位にあり、それが軍国主義を支えたという指摘は、極めて重要だった。軍人恩給はたしかに、侵略戦争を「繰り返さない」ためには、戦後政府がどうしてもメスをいれなければならない制度の一つだった。しかも、GHQは最後の部分では、日本政府に対して、軍人恩給に代わる公平な社会保障制度の創設まで示唆していたのである。日本側はさまざまな形でこの覚書の緩和を求め抵抗したが、結局、1946年2月1日付けで軍人恩給の停止・制限を含んだ「恩給法の特例に関する件」という勅令を公布した。これが末広氏の言った「勅令第68号」である。この勅令によって軍人恩給はもちろん、恩給法に基づく戦没者遺族への公務扶助料も廃止された。しかし、ここで記憶されたいのは、軍人恩給は廃止されたが、1923(大正12)年制定の恩給法本体は生き残ったという事実である。このため同法にあった「国籍条項」もそのまま存続し、それが他の援護法にも影響し、今日の戦後補償において国籍による差別をもたらしたのである。同時に恩給法本体の存続は、将来の軍人恩給の復活をにらんでいた。GHQは、軍人恩給の「廃止」を指示していたが、日本側は一時停止で抵抗し、それが奏功したのである。

 ・・・(以下略)

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天皇の軍隊の約束’軍人恩給’と自衛戦争論---------------

日本政府の戦後補償と援護行政をふり返ると、旧軍人・軍属(戦争加害者)およびその遺族を厚遇し続けてきたことが分かる。例えば、原告が日本国籍以外の69の戦後補償請求裁判や日本の民間人戦争被害者補償請求裁判の判決は大部分「棄却」であるが、講和条約締結後の国会では、戦傷病者戦没者遺族等援護法や恩給法改正法(軍人恩給の復活)をはじめ、旧軍人・軍属・戦没者遺族に対する経済的援護法案が、次々に承認された。その結果、旧軍人・軍属および戦没者遺族に対する援護費用は、すでにその総額が50兆円を超えているといわれている。アジアを中心とする多くの戦争被害者や日本の民間人戦争被害者を置き去りにしたまま、戦争加害者ともいうべき旧軍人・軍属とその遺族に、いたれりつくせりの手厚い援護が続けられてきたということなのである。そうした援護の考え方の根底には日本遺族会の細川発言に対する下記抗議声明にみられるような戦争観「自衛戦争論」があると思われるので、関係する部分を『「戦争の記憶」その隠蔽の構造』田中伸尚(緑風出版)から抜粋する。
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3 軍人恩給の復活

 復活した「天皇の軍隊」の「約束」

 橋本龍伍氏が厚相時代にてがけて制定された旧軍人優先の遺族等援護法は、その後の援護施策を方向づける重要な施策になった。遺族等援護法は強制的に兵として徴集された人びとだけでなく、職業軍人の死傷者とその遺族をも対象にしていた。つまり同法の本当の狙いは、吉武厚相が答弁しているようにアジア諸国の民衆や日本の民間人に戦争の災害をもたらした責任の重い軍人、とりわけ職業軍人への恩給復活のための突破口として用意されたのであった。すでに遺族等援護法が成立する1ヶ月前の3月25日、恩給法特例審議会設置法が成立し、軍人恩給復活のための準備が始まっていた。


 軍人恩給の復活には、日本遺族厚生連盟も組織を上げて運動した。軍人恩給は「天皇の軍隊」の軍人の階級に基づき、勤続による年金制を採り、生きても死んでも生活を保障するという「約束」によって民衆を戦争へと動員するシステムとして機能した。したがって、軍人恩給の復活は、旧体制下の「天皇の軍隊」の「約束」を実行することであった。ここでは、詳しい経過を省くが、軍人恩給は敗戦から丸8年1953年8月1日恩給法改正の公布によって復活した。こうして「天皇の軍隊」への恩給を停止させた「勅令第68号」はようやく失効した。(この勅令は、占領の終息と同時に失効するが、直ちに軍人恩給復活ができなかったために、政府は53年7月まで同勅令が有効との措置を執った)。軍人恩給の復活によって、遺族等援護法が援護の対象にしていた旧軍人・軍属やその遺族の大部分が恩給法の対象に移った。

 旧軍人・軍属やその遺族そして戦傷病者らへの国家の経済的援護は、恩給法と遺族等援護法を中心に進められ、それは毎年のように増額されていった。だが、遺族らへの経済的処遇はこれだけではなかった。たとえば「特別給付金」や「特別弔慰金」を支給する新法が60年代にぞくぞく整備され、戦没者の妻、父母、兄弟などへ拡げられかつアップされていった。以下でこれら一連の援護法が提案された際の政府側の説明をみよう。

 「戦没者等の妻であった方々につきましては、一心同体ともいうべき夫を失ったという大きな心の痛手を受けつつ今日に至ったという特別の事情があると考えられます。したがいまして、この際、このような戦没者等の妻の精神的痛苦に対しまして、国としても、何らかの形において慰藉することが必要であるものと考え、これらの方々に特別給付金を支給することといたします」(戦没者の妻への特別給付金支 給法案。第43国会。1963年3月制定)

 「戦傷病者等の妻につきましては、戦傷病者と一心同体ともいうべき立場において、久しきにわたり、夫の日常生活上の介助及び看護、家庭の維持のための大きな負担に耐えつつ今日に至ったという特別の事情があると考えられます。したがいまして、この際、このような戦傷病者等の妻の精神的痛苦に対しまして、国としても、何らかの形において慰藉することが必要であるものと考え、これらの方々に特別給付金を支給することといたします」(戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法案第51国会。1966年7月)

 この大戦により、すべての子又は最後に残された子を亡くされた戦没者の父母並びにこれらの父母と同様の立場にある孫を亡くされた祖父母については、その最愛の子や孫を国に捧げ、しかもそのために子孫が絶えたといういいしれぬ寂寥感と戦って生きてこなければならなかったという特別の事情があるものと考えられます。したがって、この際、このような戦没者の父母及び祖父母の精神的痛苦に対して、国として、何らかの形において慰藉する必要があるものと考え、これらの方々に特別給付金を支給する」(戦没者の父母等に対する特別給付金支給法案。第55国会。1967年6月制定)

 同じような文言で「特別」が強調されているが、国家として二度と同じ思いをさせないという反省をこめた意思はない。この三種の「特別給付金」は、いずれも国債として交付され、10年あるいは5年毎に継続かつ増額されてきた。たとえば戦没者等の妻への「特別給付金」は、制定時は20万円の国債だったが、増額を重ねて1993年には180万円になった。

 「特別給付金」のほかにも、「特別弔慰金」というのがある。戦没者などの遺族には、軍人恩給の公務扶助料や遺族等援護法による遺族年金が支給されているが受給者が死亡したり、成年に達したなどで受給権を失うケースが出てきた。しかし国家はこれによって援護を打ち切るのではなく、他の親族に特別弔慰金を支給するという(転給)法を制定したのである。(1965年6月)たとえば遺族年金などをもらっていた戦没者の妻が亡くなった後で、その子が受けとる「墓守料」である。当初は3万円の国債(10年償還)でスタートし、その後10年ごとに増額改正され、敗戦50年の1995年には40万円になった。支給の範囲も子から戦没者の兄弟姉妹にまで広げられた。

 これらの戦没者遺族らへの経済的援護制度の新設、拡大、増額は、日本経済が高度成長へと離陸を開始した60年代からで、それは「繁栄」と「成長」の道だった。にもかかわらず、いやだからこそ日本侵略による他国の戦争被害者の存在は忘却され、彼ら彼女らへの責任意識は、政府レベルだけでなく一般でも希薄になった。その一方で戦犯やその遺族への援護は早くから始まり、遺族等援護法制定と恩給法改正のそれぞれの翌年には遺族年金、公務扶助料、恩給が、支給されるようになった。この事実こそ戦後国家の援護施策を支える思想を最も端的に表していよう。国内の原爆や空襲被害者は置き去りにされ、原爆死没者についてわずか10万円の「特別葬祭給付金」を盛り込んだ「被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)ができたが、1994年末だったのは、記憶に新しい。しかも被爆者援護法では原爆投下まで戦争を続行した国家の責任を自覚し、謝罪し、反省する意味での「国家補償の責任」は明記されなかった。国内においても、「加害者」が救われ被害者が放置されるという構造ができあがっている。政府の援護行政は、二重の意味で戦争の「加害者」を厚遇し続けているのである。その結果、他者の忘却と自己の「繁栄」の中で、「戦争の記憶」は懐旧と苦労だけが語られてきた。繰り返し──。その始まりが1952年であった。

それにしても、国家の戦没者遺族らへの、このいたれりつくせりの手厚い援護施策はどうしてなのか。たとえば「今日、わが国が戦前にもみなかった繁栄の途をたどりつつあるのにつけましても……尊い犠牲となられた戦没者」(同特別弔慰金支給法案提案理由)の遺族の範囲をどんどん拡大してまで、原爆被爆者をはるかに上回る「特別」の給付を続けるのはなぜか。日本人へのいわば「戦後補償」は、これらの旧軍人・軍属の遺族に関わる援護がほとんどで、その金額は1995年度までに約40兆円にも達するとみられる。戦後賠償などによる対外支払いは、1兆円だった。これらの戦没者遺族に対する厚遇は、後で詳しくみる日本遺族会の存在と国家の論理が一致していたからである。
 「戦没者およびその遺族に対する国家補償の充実こそ国民の防衛意識の向上の基礎である事をご認識いただき、……」
 日本遺族会は、毎年戦没者遺族の処遇改善、つまり公的扶助料や遺族年金の増額要求をしているが、これは1984年度の政府予算への要望書の一節である。

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11 日本遺族会の戦争観と宗教的性格

 細川発言と遺族会の反発


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 ──先の戦争をどう認識しているか。
 「私自身は戦略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」(93年8月11日付『朝日新聞』朝刊)


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   <声明>
 細川総理はさる8月10日の記者会見において、「さきの大戦は戦略戦争であった。間違った戦争であった」と断言した。
 顧みるに大東亜戦争の様相は、その戦場となった中国、東南アジアの諸地域の特性、また、終戦時のソ連不法進攻などそれぞれの経過、評価を異にするものがある。それを総て「侵略」と断定するところに歴史の認識に欠けるところがあり、言外に「戦没者を侵略者に荷担した犠牲者である」と決めつけた英霊冒とくのこの発言は一国の総理として他国に類を見ない極めて軽率な言辞であり、その見識を疑わざるを得ない。

 戦没者遺族は今日までわが身をかえりみることなく一途に祖国の安泰と繁栄を願って、尊い生命を捧げた肉親に誇りをもって、茨の道をひたすら生きてきた。しかるに総理のこの暴言は、この心の支えを根底から踏みにじったものであり、われわれ戦没者遺族は、断じてこれを容認することはできない。
 大東亜戦争は国家、国民の生命と財産を護るための自衛戦争であった。東京裁判を執行したマッカーサー元帥でさえ、ウエーキ島でのトルーマン大統領との会談(1950年5月3日)で「日本が第2次大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障(自衛)のためであった」と表明している。細川総理は、この歴史的事実を承知しているのであろうか。
 また、イギリス、フランス、アメリカなど欧米列強の国々がアジア、アフリカ等の諸国を植民地化していた時代があったが、これらの国々が謝罪したことは一国としてない。
 しかるに、細川連立内閣は戦争責任の反省と謝罪のための国会決議の愚挙を行おうとしている。
 我々戦没者遺族は細川総理の東京裁判史観に毒された自虐的侵略発言に対して猛省を求めるとともに、侵略、さらに国会決議発言を今臨時国会の場において撤回することを表明するよう、ここに断固要求する。
  右声明する。
  平成5年10月1日

                                                         財団法人 日本遺族会

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創氏改名-熾烈なる要望?-------------------

麻生太郎元総理が、総理になる前
「創氏改名は、朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのが始まりだ」というようなことを言って、批判を浴びたことがあった。戦後、いろいろな人たちによって、同じような発言が繰り返されてきている。しかしながら、それが事実に反することは、下記の抜粋からも明らかである。
 創氏改名は、単に名前を変えるだけではなく、「氏」の創設によって、男系血族集団を表す「姓」や一族の始祖発祥地名に関わる「本(本貫)」を基にし、夫婦別姓をとる朝鮮に、日本の家族制度を持ち込もうとしたものであり、朝鮮の親族構造や家族制度のあり方を変えようとする植民地政策であったという。
 また、
「創氏改名は強制ではなかった」などという発言も繰り返されているが、期限までに「氏設定届」を出さなかった場合には、戸主の姓を自動的に「氏」にするという「法定創氏」によって法的問題に対処したことや、「学校・警察・行政機関・裁判所などを通して、様々なかたちの強制がなされた」という訴えを、無視することはできないと思う。「創氏改名」宮田節子・金英達・梁泰昊(明石書店)からの抜粋である。 
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第3章 創氏改名の実施過程
                                                              宮田節子
 2月11日

 1940年2月11日から創氏改名の届出が実施された。輝ける皇紀2600年の紀元節に、天皇陛下の温かい思召しによって、朝鮮人も日本式氏を名のることが許されたという名文で。
 総督府の御用紙『京城日報』は、「けふぞ晴れの創氏の日」という見出しで、この日の様子を、次のように報じている。


 「いよいよ11日、けふ紀元の佳節は2300万半島同胞にとっては、皇国2600年の興隆を寿ぎ奉る佳き日であると同時に、待望してやまなかった”創氏の日”だ。既に手具脛ひいてけふを待ちかねてゐた人は、それぞれ熟慮勘考の末、心ぎめした新しい氏を天下晴れて名乗り出るのだ。─略─ この日は官庁が大祭で休みだが、この栄光の日を延ばしてなるかと全鮮府邑面事務所では、午前9時一斉に受付を開始することになった。京城府戸籍課では課内に『創氏相談所』を設けて、呉課長自ら所長となり、専任係書記3名がつき切りで、このうれしい相談相手になることになった」

 このように鳴物入りで宣伝し、紀元節の休日を返上して、全朝鮮の行政機関が、それこそ手具脛ひいて届出を待っていたにもかかわらず、この日の届出はわずか48件にすぎなかった。せっかくの休日を返上して待機していた府・邑・面の職員達はどれほど所在なかったことだろうか。

 創氏届出の趨勢

 2月11日の届出が象徴しているように、創氏改名は決して南総督が言明しているように、朝鮮人からの「熾烈なる要望」に応えて実施されたものではない。その事実は次の創氏届出の月別の統計が何よりも雄弁に物語ってくれるだろう。

(創氏戸数月別表略)

 以上の統計でもわかる通り、戸籍総数428万2754戸のうち、2月中に創氏を届出した戸数は、わずかに1万5746戸、全体の0.36%にすぎない。3月も届出戸数は4万5833戸で1.07%である。届出期間(2月11日から8月10日まで)6ヶ月の半分にあたる5月20日に至っても、届出総戸数は32万6105戸で、総戸数のわずか7.6%という惨憺たる状況であった。

 これではいかに総督府が、内外にむかって、創氏改名は「一視同仁ノ御聖旨ニ基キ内鮮一体ノ理想ヲ具現シタルモノトシテ、頗ル好評ヲ以テ迎ヘラレ、各新聞ハ一斉ニ之ニ関スル記事ヲ掲ゲ、総督府今回ノ改正ハ半島志願兵制度ノ設置、朝鮮教育令ノ改正ト共ニ内鮮一如ノ精神ヲ実現シタルモノ」(大野文書、「第75議会擬問擬答」)だと自画自賛しても、不評の事実をおおいかくすことは出来ない。そこで総督府は自らの威信をかけ、親日知識人を徹底的に利用し、法律の若干の手直しを行い、さらに当時はほとんどすべての朝鮮人を組織していた国民精神総動員朝鮮連盟を通して、強制の度を強め、ついに後半の3ヶ月で実に約300万戸を創氏させ、全体で創氏戸数は320万116戸、創氏率79.3%を達成するに至ったのである。
 ・・・(以下略) 
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第4章 「創氏改名」の思想的背景

                                                               梁泰昊
 両班(ヤンバン)と族譜

 理由は何であれ法の施行からわずか6ヶ月という短い期間に、全世帯の8割が新しい創氏名を届け出したとは驚くべき行政効果と言わざるを得ない。もとよりそれが尋常な手段で達成できるはずもなく、そこには激しい弾圧と強制が働いていた。たとえばそれは、次のようなものであった。(文定昌『軍国日本朝鮮強占36年・下』)。


 ① 創氏(ここでは日本式の氏を設定することをさしている。以下同じ、筆者)をしない者の子女に対しては各級学校へ入学、
   進学を拒否する。
 ② 創氏をしない児童は日本人教師が理由なく叱責、殴打するなどして児童の哀訴によってその父母が創氏するようしむ
   ける。
 ③ 創氏をしない者は公私を問わず総督府の機関に一切採用しない。また現職者も漸次免職措置をとる。
 ④ 創氏をしない者に対しては行政機関にかかるすべての事務を一切採用しない。  
 ⑤ 創氏をしない者は非国民もしくは不逞鮮人と断定して、警察手帳に登録し査察、尾行を徹底すると同時に、優先的に労
   務徴用の対象者にする。あるいは食料その他物資の配給対象から除外する。
 ⑥ 創氏しない朝鮮人の名札がついている荷物は鉄道局や丸星運送店(日本通運のことか?筆者)が取り扱わない。


 創氏改名が朝鮮への植民地支配の中でも際立って「暴政」であったことを象徴するできごととして、「柳健永、薜鎮永のように自ら生命を断ち、あるいは文昌洙のように法廷闘争のすえ獄につながれるという深刻な個人的抵抗も行われ」たことが伝えられている(渡部学『朝鮮近代史』)。

 柳健永の遺書には、次のように書かれていた。「悲しい。柳健永は千年古族である─。とうに国が滅びるとき死ぬこともできず、30年間の恥辱を受けてきたが、彼らの道理にはずれ人の道に背く行いは、聞くに耐えず見るに忍びず──いまや血族の姓まで奪おうとする。同姓同本が互いに通婚し、異姓を養子に迎えて婿養子が自分の姓を捨てその家の姓を名乗るとは、これは、禽獣の道を5000年の文化民族に強要するものだ。──柳健永は、獣となって生きるよりはむしろ潔い死を選ぶ」(文定昌、前掲書)。
 ここにおいて柳が、名前を変えることそのものより、家制度の導入に抗議していることは明らかであろう。自分は伝統ある立派な血筋なのに、他姓の血が混じる恐れが出てきたと嘆いているのである。

・・・(以下略)

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創氏改名に抗議の自殺-柳健永-抗議文と遺書------------

下記は、柳健永(ユコニョン)が朝鮮民事令改正(創氏改名)に抗議し、朝鮮総督府に送りつけた抗議文と、毒を仰いで自決した際の「遺書」である。柳健永の男系血統継承を絶対視する考え方に異論がないわけではないが、この抗議文と遺書を読むと、朝鮮における日本の創氏改名政策が、朝鮮人の名前を日本式の名前に変えるというだけの単なる改姓・改名の問題ではなく、朝鮮の家族制度や親族構造を揺るがす大問題であったことがよく分かる。「創氏改名の法制度と歴史」金英達著作集(明石書店)からの抜粋である。
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3 柳健永(号 石田)の抗議文、遺書

柳健永(ユ・コニョン)の略歴
 1883年4月12日生まれ~1940年7月24日死(旧暦と思われる)。
 号、石田(ソクチョン)。出身全羅南道谷城郡梧谷面梧枝里369番地
 崔益鉉と奇宇萬の門下で修学。崔益鉉が義挙した義兵闘争に参加。
 義兵闘争に敗れ、韓国が併合された後は、故郷で青年子弟を教育。
 1940年、創氏改名に反対し、総督府、経学院(成均館)、中枢院に抗議書を送
 り、毒を仰いで自決(1940年7月24日)
 1977年に韓国政府より建国褒章を追叙される。


柳健永『石田遺稿』(死後の1942年に門弟らによって編まれた遺文集)

「総督府に抵す」

 己卯(1939年)12月9日、朝鮮遺民たる柳健永は謹んで総督府閣下に書をもって是非を糺す。あゝ国は亡ぶとも綱常(三綱五常。三綱=君臣・父子・夫婦の道。五常=仁・義・礼・知・信。)は一日たりと亡ぶべからざるなり。綱常が亡べば、人類は化して禽獣となる。他に何ぞ道あるべからんや。近く、三事(同姓同本婚、異姓養子・婿養子、創氏滅姓)の挙があるといふ。天地に未だあらざりし大変なり。何となれば、同姓同本にして婚するは、則ち夫婦の別が乱る。異姓養子・婿養子するは、則ち父子の親が絶ゆ。氏を創りて姓を滅するは、則ち承先報本の義(祖先を継承して本に報ゆるの義)が亡ぶ。3件(同姓同本婚、異姓養子・婿養子、創氏滅姓)の事を断行すれば、則ち人倫が永久に絶えん。孟子に曰く、人の禽獣と異なる所以は其の人倫を有するを以てす、と。人倫が永久に絶えれば、其の禽獣たらざるを望むこと得らるるや。且つ古より、人なるを奪はるるの国、人たるを絶ゆるの世が、或いはかつてこれ有らんや。滅人の道、絶人の倫に至りて、生霊を禽獣の圏へ駆りたるは、未だこれ聞かざるなり。近く新聞紙上に所載せる此報の記事を見ることを得。甚だ悉く是何をか挙げ措かんや。健永は草野の書生なり。国が亡びて後、含冤の痛みを忍び、苦しみ憂えて田舎に伏し、世事を聞くを欲せず。而して忽ち此報を見ゆ。痛恨に勝へず、閣下が一思されるよう敢えて一言を陳ぶるなり。
 

「遺書」

 あゝ柳健永は千年の古族なり。無才無命にしてもなお倫理中の人なり。国亡びて(日本による韓国併合)死ぬこと能はず、君害されて(国王が廃位されて)死ぬこと能はず、なお身を無一命の霑に委ねる(天命にまかせる)。而して寧ち跡を託して(後人に委せて)漁樵し、なお庶民の事を茲に作す(名利をはなれて民間に暮らす)。30年髡さるる(断髪令から30年もたって)我が人民は我が倫綱を嫌ふにいたりたり。日に聞くに忍ばざるを聞き、日に見るに忍ばざるを見る。これを忍び、又忍ぶ。こひねがわくば、我が父母から生まれたままの身を保ち、我が天地が均しく与えてくれた性を定め、ただ溘然と之かん(ぽっくりと死んでいく)ことを。是を待ちて今日に至る。我が血伝の氏姓を永滅すは、則ち同租麀を聚にする(親子の道徳が乱れる)次第の事なり。国を滅して姓を易へること、いずれの代もこれ無し。なんぞそもそも五千年文明の民族が、かくなる禽獣を用ひて人類を変えるかつてない大変に遭ふかな。あゝ、無国無君無倫無綱の夷として獣して生きるより、むしろ一枕大寐を以て(永遠の眠りについて)古貌古心に帰し〔まっすぐで素朴な古人のような身と心になり)、吾が先王先祖に地下にて見ゆるも亦快ならずや。茲に叫す。天に逋ぶこと非ずして(天の意志に応えることもなく)毒を仰ぎ死に就す。庚辰〔1940年)7月24日なり。
 

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皇民化政策と創氏改名の法令・通牒----------------

 創氏改名の問題は、ただ単に朝鮮人の名前を日本式に変えるという名前の日本化の問題としてだけではなく、それが同時に朝鮮の家族制度を日本化する「皇民化政策」の一つとしてとらえなければならないと思う。新たに「氏」を創る「創氏」によって、朝鮮の家族制度における3大鉄則といわれるもの、すなわち「姓不変」(人の姓は一生変わらない)、「同姓不婚」(同族の者同士は婚姻しない)、「異姓不養」(同族でない者は養子にしない)などは、通用しない社会に変えられることとなった。そして、「内地社会と同じ氏を持ち、古来より伝統の氏の理念に生き、天皇中心の家庭建設に邁進する朝鮮、そこに内鮮一体は無言の裡に成就する」(南総督)と日本の家族制度が持ちこまれたのである。命をかけた反対や抗議も頷ける。「創氏改名」宮田節子・金英達・梁泰昊(明石書店)からの抜粋である。
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                            第1部 研究・創氏改名
 第1章 創氏改名の時代
 「皇国臣民」とは?
 さて冒頭でも述べたが、日中戦争を直接の契機として、朝鮮では「内鮮一体」が唱えられた。「内鮮一体」とは提唱者であった南総督自身の定義によれば、「半島人ヲシテ忠良ナル皇国臣民タラシメル」という一語につきる。そして朝鮮人を「皇国臣民タラシメル」ためのすべての政策が、一般に皇民化政策と呼ばれている。


 ・・・ 

 このように学生時代から筋金入りの皇道主義者であった塩原(学務局長塩原時三郎)によって造語された「皇国臣民」とは、具体的にどのような人間像を意味するのだろうか。
 塩原が会長だった朝鮮教育会が描く「皇国臣民」とは、次のような人間像である。


 「天皇を中心とし奉り、天皇に絶対従順する道である。絶対従順とは我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなく、小我を捨てて大いなる御陵威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である」

 つまりは己を無にして、天皇のために「笑って殉ずる人間」ということであろう。
 それはとりもなおさず、日本軍兵士の理想像でもあった。すなわち皇軍建軍の基礎は「天壌と共に窮りなき我国運を身命を捧げて扶養し奉る心こそ、取りも直さず我が皇国兵役の根本義」であるからである(朝鮮軍事普及協会編纂『朝鮮徴兵準備読本』1942年)。
 「皇国臣民」とは、同時に「天皇親率の神兵」たるにふさわしい「皇軍兵士」ということであった。


 皇民化政策の構造

 朝鮮人を「皇国臣民」化するために、皇民化政策が展開された。
 まず精神教化のために、神社参拝が強制され、一つの面に一つの神社を設置する計画が進められた。
 37年10月には、塩原が作ったとされる「皇国臣民の誓詞」が制定された。これには児童用と大人用があり、その本質を明確に表している児童用は

一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。
二、私共ハ心ヲ合セテ、天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス。
三、私共ハ忍苦鍛錬シテ、立派ナ強イ国民トナリマス。

というものであった。学校では毎朝朝礼でこれを斉唱し、官公署や職場でも”国民儀礼”として、斉唱が義務づけられた。

 
さらに毎朝の宮城礼拝、国旗掲揚、君が代の普及、志願兵制度の実施、教育令の改正、創氏改名等々が行われた。
 これらはすべて朝鮮人を、より完全な皇国臣民にするために行われたものである。しかしこれらの政策は、単に羅列的、並行的ではなく、政策相互に緊密な関連を持ち、しかもその柱となる政策があった。 
 38年2月に公布された陸軍特別志願兵令と同じ年の3月に改正された第3次朝鮮教育令と40年2月から実施された創氏改名は、三本の柱ともいうべきものであった。

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                             第3部 資料・創氏改名
1 法令・通牒
(1)制令第19号
「朝鮮民事令中改正の件」
 昭和14年11月10日
                                                     朝鮮総督 南 次郎
朝鮮民事令中左ノ通改正ス
第11条第1項中「但シ」ノ下ニ「氏」ヲ、「認知、」ノ下ニ「裁判上ノ離縁、婿養子縁組
 ノ場合ニ於テ婚姻又ハ縁組カ無効ナルトキ又ハ取消サレタルトキニ於ケル縁組
 又ハ婚姻ノ取消」ヲ加ヘ同条ニ左ノ1項ヲ加フ
 氏ハ戸主(法定代理人アルトキハ法定代理人)之ヲ定ム
第11条ノ2ヲ第11条ノ3トシ以下第11条ノ8迄順次1条宛繰下グ
第11条ノ2 
朝鮮人ノ養子縁組ニ在リテ養子ハ養親ト姓ヲ同シクスルコトヲ要セス
 但シ死後養子ノ場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラス
 婿養子縁組ハ養子縁組ノ届出ト同時ニ婚姻ノ届出ヲ為スニ因リテ其ノ効力ヲ生
 ス
 
婿養子ハ妻ノ家ニ入ル
 婿養子離縁又ハ縁組ノ取消ニ因リテ其ノ家ヲ去ルモ家女ノ直系卑属ハ其ノ家ヲ
 去ルコトナク胎児生レタルトキハ其ノ家ニ入ル
第11条ノ9ヲ第11条ノ10トシ同条中「第11条ノ3及第11条ノ4」ヲ「第11条ノ4及第11条ノ5」ニ改ム
  附則
本令施行ノ期日ハ朝鮮総督之ヲ定ム
朝鮮人戸主(法定代理人アルトキハ法定代理人)ハ本令施行後6月以内ニ新ニ氏ヲ定メ之ヲ府尹又ハ邑面長ニ届出ヅルコトヲ要ス
前項ノ規定ニ依ル届出ヲ為サザルトキ本令施行ノ際ニオケル戸主ノ姓ヲ以テ氏トス但シ一家ヲ創立シタルニ非ザル女戸主ナルトキ又ハ戸主
相続人分明ナラザルトキハ前男戸主ノ姓ヲ以テ氏トス


2)制令第20号
 「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」
  昭和14年11月10日 
                                                  朝鮮総督 南 次郎
第1条 御歴代御諱又ハ御名ハ之ヲ氏又ハ名ニ用フルコトヲ得ズ
 自己ノ姓以外ノ姓ハ氏トシテ之ヲ用フルコトヲ得ズ
 但シ一家創立ノ場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラズ
第2条 氏名ハ之ヲ変更スルコトヲ得ズ但シ正当ノ事由アル場合ニ於テ朝鮮総督
 ノ定ムル所ニ依リ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限
 ニ在ラズ



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沖縄の基地問題は天皇の沖縄メッセージから---------------

 沖縄の基地の問題をポツダム宣言にまで遡って、子どもにも理解できるように、きちんと説明できるだろうか。ポツダム宣言の第12条には「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」とある(東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室『世界と日本』国際関係データベースより)。にもかかわらず、戦後65年を経た今も米軍基地が日本に存在する根拠は何なのか。自衛隊が組織され、防衛庁が防衛省になってもなお、莫大な予算が駐留米軍のために支出され続けている理由は何なのか。そして、さらにその米軍専用施設面積の約75%が沖縄に存在するのはどうしてなのか。「昭和天皇五つの決断」秦郁彦(文藝春秋)から、子どもには説明のできないような政治的駆け引きによって、事態が進んだことを示す部分、すなわち、昭和天皇の「沖縄メッセージ」に関連する部分を抜粋する。数え切れない「皇軍兵士」が、「鬼畜米英を撃滅すべく」命を投げ出して戦ったのではなかったのか、との思いがこみ上げてくる。
 後半部分は、「昭和天皇独白録ー寺崎英成御用掛日記」(文藝春秋)から、昭和22年9月19日(金)に、御用掛の寺崎が、天皇のメッセージを総司令部政治顧問シーボルトに伝えたことに関する<注>の抜粋である。
 また、資料として寺崎英成が訪ねたシーボルトのワシントン国務長官宛てと連合国最高司令官総司令部のマッカーサー宛ての文書を添付する。
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第5章 裕仁天皇退位せず
       ────このあとに何が起こるか予見できない
 天皇メッセ-ジと沖縄


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 そのなかで、天皇も政府も前年から伝えられていた対日早期講和の動きに不安を高めていた。講和が成立して米軍が撤退すれば、非武装日本の安全は誰が保障するのか。第9条を盛りこんだ新憲法草案が審議されていた段階で想定されていた国際連合への「バラ色の期待」は、すでに米ソ冷戦の進行で色あせていた。
 22年9月、片山内閣の芦田均外相は、特別協定を結んで、日本の安全保障をアメリカへ依存する代わりに、駐留米軍へ基地を提供し、日本も警察力を増強するという、のちの日米安保条約に近い方式を考案して、一時帰国する第8軍司令官アイケルバーガー中将に託した(前掲『日本再軍備』)。
 第9条の生みの親を自任していたマッカーサーは、とても受けつけてくれる気配がないので、反ソ・反共論者のアイケルバーガーを通じて、ワシントンへ訴える形をとったのである。


 前後して、宮内府御用掛の寺崎が、総司令部外交局に「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため」として、シーボルトを訪ね「天皇は、アメリカが沖縄をふくむ琉球の他の島々を、軍事占領しつづけることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし、日本を護ることになる……」
 と語ったのち、軍事占領の具体的形態として天皇が考えているのは、「日本に主権を残す形で、25年から50年あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)という擬制」であり、「この方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させるだろう」と説明した。

 寺崎はさらに、私見として軍事基地権の獲得は、日米二国間条約で処理されるべきだ、と付け加えたが、シーボルトはすぐにこの会談の要旨をマッカーサーに報告し、本国に伝えている(昭和22年9月22日付シーボルト発マーシャル国務長官宛)。
添付資料

 さて芦田メモと天皇メッセージはどう関連しあっていたのだろうか。
 両者を比較してみると、軍事基地提供という基本的性格は変わらないが、前者が日本全土を想定しているのに対し、後者は長期貸与ながら、対象を沖縄に限定しているから、相互補完というよりも、次元を異にした発想と見た方が妥当だろう。
 社会党政権の時代だったことを思いあわせれば、天皇は芦田メモの構想に不満で、独自の提案を別ルートで試みた可能性が高い。
 では米側は、2つの提案のいずれに感応したのか。ざっと比較すると、芦田メモの方が米側に有利な条件と見えるが、実は進藤栄一が指摘するように、天皇メッセージは「はるかにワシントンの動向と波長の合うもの」(「分割された領土」 『世界』昭和54年4月号)だった。


 この頃、アメリカの外交・軍事当局は、対ソ戦略の観点から日本の新たな位置づけを検討しつつあり、沖縄はアメリカを施政権者とする戦略的信託統治下に置く方針へ傾いていた。
 沖縄について何も触れていない芦田メモに比べると、天皇の提案はストレートに米側の要請を満たすものであり、しかも潜在主権は、信託統治よりもさらに有利な条件であった。


 逆に天皇メッセージは、日本本土の軍事基地化について触れていないだけに、非武装中立論に固執するマッカーサーの支持を得られやすかった。実際にマッカーサーは、翌年3月に来日したケナン国務省政策企画部長に、沖縄の基地を開発して有力な空軍を常駐させ、その傘で日本を防衛する構想を語り、朝鮮戦争が起こるまで、くり返しこの持論を説くようになる。

 昭和23年10月、国家安全保障会議(NSC)は対日政策の全面的転換を打ちだしたNSC13/2を採択した。骨子はケナン報告を基調としたもので、対日講和条約は無期延期され、米軍は少なくともその時点まで日本に駐留することになった。
 NSCー13/2の副産物のひとつは、沖縄の長期保有と基地開発を規定した第5項であった。それまで沖縄は少数の米陸軍が駐留するだけで、ほとんど見捨てられていた形であったが、これを契機に息を吹き返すことになり、翌年から巨額の工事予算を投じた基地拡張が開始され、今もアメリカのアジアにおける最大の軍事基地として不動の地位を占めつづけている。


 天皇の提案は、本土の代わりに沖縄を犠牲にしたという一面を免れないが、それから20数年後に沖縄は全面的に日本へ返還されることになった。軍事基地だけは実質的に長期リースの形態を残して。

 ・・・

 シーボルトは寺崎の言い出した大胆な提言をもう一度かみしめながら、要は中国本土を放棄して、新たな外郭防衛戦でソ連の侵攻と浸透を強力に阻止せよという示唆だな、と理解した。
 寺崎が帰ると、会談内容はすぐにタイプされ、ワシントンの国務長官あてに発信されたが、最後にシーボルトの解釈が付け加えられている。
 「寺崎は個人的見解だと念を押したが、以上は天皇を含む宮中高官の見解だと信ずべき理由がある。更に、この意見には日本の利己的立場──すなわち占領が長引いてもよいからアメリカが日本をソ連から守ってもらいたいという強い要請、更に隣国の中国が日本に強い態度をとれないような弱体のまま推移するのを望むという──が反映しているかもしれない」


 おそらく寺崎と天皇の合作と思われる、この外郭防衛戦戦略がワシントンに受け入れられなかったのは、その後の歴史をみると明白である。
 それから2年近くのち、25年1月12日、アチソン米国務長官は、「アチソン声明」として知られる有名な演説の中で、極東におけるアメリカ外郭防衛戦に触れ、南朝鮮と台湾が除外されていることを公表した。それが共産陣営の誤解を招き、半年後の朝鮮戦争を誘発したというのは、今や外交史学界の定説となっており、アメリカ国務省の研修で、外交官のおかしてはならぬ失策の好例として引用されている
と聞く。
 23年早々という早い時点で、アメリカのアジア戦略の動向を正確に探知して、適切な情勢判断を示した天皇の洞察力には脱帽のほかないが、一面から言えば、それは日中戦争と太平洋戦争で日本が血で購(あがな)って得た教訓でもあった。

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                          寺崎英成御用掛日記

9月19日(金)
  <注>22年9月、芦田均外相は特別協定を結んで、日本の安全保障をアメリカに依存するかわりに、米軍へ日本本土のどこかに基地を提供し、日本も警察力を増強するという案を、一時帰国する第8軍司令官アイケルバーガー中将に託した。マッカーサーがこれを受けつけてくれる気配がないので、反ソ・反共の中将を通してワシントンへの直訴を試みたのである。
 
 ところがこの日、寺崎は重要な天皇の意見をシーボルトに伝えている。それは9月22日付のマーシャル国務長官あての手紙として残されている。
(添付資料)
「天皇は、アメリカが沖縄をふくむ琉球列島を軍事占領しつづけることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることになる」
 つまり、具体的な軍事占領の形態として天皇が考えているのは、日本に主権を残す形で、沖縄の利用をやむなく許すということである。「この方式は、アメリカが琉球列島に恒久的な占領意図をもたないことで、日本国民を納得させることができよう」


 これが、寺崎日記の内容であると思われる。軍事基地提供という点は同じとしても、芦田の日本本土を想定しているのにたいして、天皇は対象を沖縄に限定する。結果論的になるが、アメリカは沖縄限定策のほうに動いた。天皇の卓抜な政略観にびっくりさせられる。

資料--------------------------------------------------
"Emperor of Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands"
Tokyo, September 22, 1947


UNITED STATES POLITICAL ADVISER FOR JAPAN

Tokyo, September 22, 1947.

Subject: Emperor of Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands.

The Honorable, The Secretary of State, Washington.

Sir:

I have the honor to enclose copy of a self-explanatory memorandum for GeneralMacArthur, September 20, 1947, containing the gist of a conversation withMr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, who called at this Officeat his own request.

It will be noted that the Emperor of Japan hopes that the United Stateswill continue the military occupation of Okinawa and other islands of theRyukyus, a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest.The Emperor also envisages a continuation of United States military occupationof these islands through the medium of a long-term lease. In his opinion,the Japanese people would thereby be convinced that the United States hasno ulterior motives and would welcome United States occupation for militarypurposes.

Respectfully yours,

W. J. Sebald


Counselor of Mission
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Enclosure to Dispatch No. 1293 dated September 22, 1947, from the UnitedStates Political Adviser for Japan, Tokyo, on the subject "Emperorof Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands"

General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers

Diplomatic Section

20 September, 1947

Memorandum For: General MacArthur

Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, called by appointmentfor the purpose of conveying to me the Emperor's ideas concerning the futureof Okinawa.


Mr. Terasaki stated that the Emperor hopes that the United States willcontinue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus.In the Emperor's opinion, such occupation would benefit the United Statesand a1so provide protection for Japan. The Emperor feels that such a movewould meet with widespread approval among the Japanese people who fearnot only the menace of Russia, but after the Occupation has ended, thegrowth of rightist and leftist groups which might give rise to an "incident"which Russia could use as a basis for interfering internally in Japan.

The Emperor further feels that United States military occupation of Okinawa(and such other islands as may be required) should be based upon the fictionof a long-term lease -- 25 to 50 years or more -- with sovereignty retainedin Japan. According to the Emperor, this method of occupation would convincethe Japanese people that the United States has no permanent designs onthe Ryukyu Islands, and other nations, particularly Soviet Russia and China,would thereby be stopped from demanding similar rights.


As to procedure, Mr. Terasaki felt that the acquisition of "militarybase rights" (of Okinawa and other islands in the Ryukyus) shouldbe by bilateral treaty between the United States and Japan rather thanform part of the Allied peace treaty with Japan. The latter method, accordingto Mr. Terasaki, would savor too much of a dictated peace and might inthe future endanger the sympathetic understanding of the Japanese people.

W. J. Sebald
(http://hakusanjin.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/201011-60c4.htmlより)

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天皇の戦争指導---------------------

 天皇がどのように先の戦争に関わっていたのか、こうした書籍を手に取るまで、よくは知らなかった。実は、深く深く関わっていたようである。下記に一部抜粋した部分からだけでも、そのことはよく分かると思う。したがって、天皇が戦後東京裁判で裁かれなかっただけではなく、証人としてさえ出廷しなかった事実は、不可解といわざるを得ない。

 支那事変(日中戦争)の最中、「事変」でも大本営を設置可能にする「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定され、1937年11月20日大本営が設置された。大本営は天皇を中心とする最高統帥機関であり、大本営陸軍部と大本営海軍部および侍従武官府によって構成される。大本営の発する命令は、大陸命(天皇が発する陸軍への命令)か大海令(天皇が発する海軍への命令)のいずれかであり、侵略戦争といわれる日本の戦争は、この大陸命と大海令によって進められた。いずれも天皇の名において下される、いわゆる「大命」であるので、事前に天皇の允裁(命令発令の許可)を得なければならない。陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長は、命令の発令者ではなく、作戦の立案・上奏・伝達が任務であるという。参謀総長や軍令部総長といえども、大本営命令を発する権限はなかったのである。

「大元帥 昭和天皇」山田朗(新日本出版社)によれば、1937年11月22日に大陸命第1号が発せられてから1945年9月1日の大海令の発令に至るまで、大陸命が852通、大海令が57通、合計909通が発せられたという。そして、その全てにおいて統帥部は「命令案」とその命令が必要な理由を記した「御説明」を作成して天皇に上奏し、允裁を仰いだということである。統帥部が天皇の納得を得ようとする努力は尋常なものではなかったらしい。戦争指導・作戦指導に関する重要な方針の決定に際しては、「方針案」とその方針をとる理由の「御説明」を文書で作成・提出するだけでなく、さらに、天皇の質問に統帥部幕僚長(参謀総長・軍令部総長)が円滑に回答できるように、重要な上奏に際しては詳細な「御下問奉答資料」が作成されたという。陸軍の場合には、この「御下問奉答資料」とはすなわち想定問答集のことであり、作戦課の起案者が天皇の質問を予想して遺漏がないように課内で質疑応答をおこなって原案を作成し、他の課員の連帯印をうけ作戦課長、作戦部長・次長の決裁をへて完成するというのである。

「大元帥 昭和天皇」山田朗(新日本出版社)から、天皇が主体的に戦争に関与したとされる作戦や方針を列記した部分、および杉山参謀総長と永野軍令部総長が列立して上奏した際、天皇が厳しい言葉を返しているやりとりの部分を抜粋する。
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あとがき───昭和戦争史に果たした天皇の役割とその戦争責任

 戦争への天皇の主体的関与───天皇の戦争指導

 天皇は「御下問」「御言葉」を通じて戦争指導・作戦指導に深くかかわった。天皇は作戦について、統帥部の方針や作戦の進め方を無条件で認めていたわけではない。とりわけ、次の事例において大元帥・昭和天皇の発言は、作戦計画あるいは具体的な作戦内容を左右する大きな影響を与えた。
  ① 熱河作戦の一時差し止め(1933年)
  ② 2・26事件における反乱軍の武力鎮圧方針決定(1936年)
  ③ 日中戦争初期の兵力増強、戦略爆撃実施方針の決定(1937年)
  ④ 張鼓峰事件における武力行使方針の一時差し止め(1938年)
  ⑤ 「昭和14年度帝国海軍作戦計画」の修正(1939年)
  ⑥ 宣昌再確保への作戦転換(1940年)[[
  ⑦ フィリピン・バターン要塞への早期攻撃の実現(1942年)
  ⑧ 重慶攻略の方針の決定と取りやめ(同年)
  ⑨ ガダルカナルをめぐる攻防戦における陸軍航空隊の進出(同年)
  ⑩ ガダルカナル撤退後におけるニューギニアでの新たな攻勢の実施(1943年)
  ⑪ 統帥部内の中部ソロモン放棄論の棚上げ(同年)
  ⑫ アッツ島「玉砕」後における海上決戦の度重なる要求と、海軍の消極的姿勢への厳しい叱責による統帥部ひきしめ
    (同年)
  ⑬ 陸軍のニューギニアでの航空戦への没入(同年)
  ⑭ 「絶対国防圏」設定後の攻勢防御の実施(ブラウン奇襲攻撃後の軍令部の指示など 1943年~1944年)
  ⑮ サイパン奪回計画の立案(1944年)
  ⑯ 沖縄戦における攻勢作戦実施(1945年)
  ⑰ 朝鮮軍の関東軍への編入とりやめ(同年)
 昭和天皇は、軍事に素人などでは決してなかった。天皇は大元帥としての責任感、軍人としての資質・素養は、アジア太平洋戦争において大いに示された。開戦後、緒戦において、あるいはミッドウェー海戦敗北に際しても、天皇は泰然としているかに見えたが、それは総司令官はいかなる時も泰然自若として部下将兵の士気高揚をはからなければならないという、昭和天皇が東郷平八郎から直接・間接に学んだ帝王学・軍人哲学を実践したものであった。しかしガダルカナル攻防戦における統帥部の不手際を目の当たりにして天皇は、次第に作戦内容への介入の度を深める。天皇は並々ならぬ意欲で作戦指導にあたったが、日露戦争の戦訓を引き合いに出して作戦当局に注意を与えたり、目先の一作戦拘泥せずニューギニアでの新たな攻勢を要求したりするなど、軍人としての素養を大いに示した。


 昭和天皇はあくまでも政戦略の統合者として世界情勢と戦況を検討し、統帥大権を有する大元帥として統帥部をある時には激励、ある時には叱責して指導しようとした。また、前戦将兵の士気沈滞をつねに憂慮し、みずから勅語を出すタイミングに気を配っていた。1943年5月にアッツ島が「玉砕」すると、戦争の将来に漠然とした不安を抱いていた天皇は、統帥部に執拗に「決戦」をせまり、その期待に応えられない永野軍令部総長は信頼を失っていく。…(以下略)
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第3章 アジア太平洋戦争における天皇の戦争指導

 永野軍令部総長へ風当たり強く

 杉山参謀総長と永野軍令部総長が列立して上奏した際、天皇の下問は永野に対してことのほか厳しかった。8月24日、ラバウルの確保を心配した天皇は、両総長との間に次のようなやりとりをした。ここでも明らかに永野への風当たりは強い。


  陛下 来年の春迄[ラバウルを]持つと云ふが持てるか
  杉山 第1の通り回答[「御下問奉答資料」の番号と推定される]
  陛下 後ろの線に退ると云ふが、後ろの線之が重点だね。
  杉山 左様で御座居ます 後ろの線が重点で御座居ます 数千粁の正面の防備 これは来春迄には概成しか出来ま
      せん。それ迄の間前方は持たなければなりません
  永野 「ラバウル」が無くなると聯合艦隊の居所は無くなり、為に有為なる戦略態勢が崩れます。「ラバウル」には出来
      る丈永く居たいと存じます
  陛下 それはお前の希望であろうが、あそこに兵を置いても補給は充分出来るのか それならしつかり「ラバウル」に補
      給できる様にせねばいけない。それから其所へ敵が来たら海上で敵を叩きつけることが出来るならば良いが、そ
      れがどうも少しも出来て居ない
  永野 以前は航空が充分働かなかったが、最近は大分良くなりました
  陛下 この間陸軍の大発を護衛して行つた駆逐艦4隻が逃げたと云ふではないか[8月17日の第1次ベラベラ沖海戦
      のことを指している]
  永野 魚雷を撃ちつくして退避しました
  天皇 魚雷だけでは駄目、もっと近寄て大砲ででも敵を撃てないのか 後ろの線に退つて今後特別のことを考へて居るか
  永野 駆逐艦も増加するし、魚雷も増えます。
  天皇 電波関係はどうか 「ビルマ」、「アンダマン」、「スマトラ」はどうするか
  奉答 同時に研究しまして具体的には何れ更に研究の上申し上げます(『大本
      営海軍部・聯合艦隊(4)』428頁)

 (陛下であったり天皇であったり、句読点がついていたり省略されたり、いろいろであるが、前掲書のままである)
  
 天皇と杉山は、「後ろの線が重要だね」、「左様で御座居ます」と比較的息のあったところを見せているが、天皇は永野の言うことにはいちいち批判めいたコメントを加えている。永野がラバウルを確保したいと言えば、補給はできるのか、海上で決戦をしないではないかと切り返し、あげくの果てに陸軍の上陸部隊を護衛していた駆逐艦が逃げたではないかとまで言っている。永野が魚雷をうち尽くした、と言えば、もっと近寄って大砲ででもやれ、と徹底的に海軍の姿勢を批判している。天皇の眼には、ラバウルに固執するわりにはいっこうに決戦を挑まない姿勢が、士気に乏しく極めて消極的、無為無策に映ったのである。

部漢数
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