-NO221~228
-------SCAPIN 677 日本の定義と独島/竹島(竹島領有権問題17-------

 SCAPIN(Supreme Command for Allied Powers Instruction Note)とは、簡単にいうと連合軍最高司令部(通称GHQ)が、日本政府宛てに出した訓令。公式には連合軍最高司令部訓令と訳されるものである。内容は様々で、多岐に渡るようであるが、竹島領有権問題の議論の中でしばしば取り上げられるのは、その中の、第677号(SCAPIN677)である。竹島領有権を主張する日本は、当然のことながら、その第6項を重視するが
「独島/竹島 韓国の論理」金学俊 訳:Hosaka Yuji(論創社)には、下記のような記述がある。
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                        第8章 日帝が敗北し、独島の原状が回復する

 3 若干の周辺地域を統治上、行政上日本から分離させることに関する覚書き

 ところで独島の帰属問題と関連して、この三つの文書(※)より遙かに重要な文書は、連合国最高司令官であるマッカーサー元帥が1946年1月29日に日本政府に送った「若干の周辺地域を統治上、行政上日本から分離させることに関する覚書き(Memorandumfor Governmental and Administrative Separation of Certain Outlying Areasfrom Japan)」である。これを通常、SCAPIN (Supreme Commander for the Allied Powers Instruction)第677号と呼ぶ。

※ 3つの文書とは、文書1-「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」、文書2-「日本の占領管理のための連合国最高司令官に対する降伏後の初期の基本的指令」、文書3-「連合国の日本占領の基本目的と、連合国によるその達成の方法に関してマッカーサー元帥の管下部隊に送る訓令」である。


リアンコール列岩(=竹島)の除外──

 ところで、なぜこの文書を前に考察した3つの文書より遙かに重要だと見るのか。そのわけは次の3つである。

 第1に、この文書はポツダム宣言及び降伏文書の規定を実施するために、連合国最高司令官が日本政府に送った文書だからである。具体的に言えば、降伏文書の調印によって日本の天皇及び日本政府の国家統治機能は、降伏条項を実施するために適当と認める措置を取る連合国最高司令官の制限の下に置かれるようになったので、連合国最高司令官が「日本帝国政府(the Imperial Japanese Government)」に送ったこの覚書きは「日本帝国政府」に対して直接の法的拘束力を持ったからである。


 第2に、この文書は第3項で「日本の定義(the definition of Japan)」という表現の下に、日本に含まれる地域を明示し、日本から除かれる地域をそれぞれ以前の文書より遙かに具体的に明示したからである。この部分をそのまま引用すれば次のようになる。 
 
For the purpose of this directive, Japan is defined to include the fourmain islands of Japan (Hokkaido, Honshu, Kyushu and Shikoku) and the approximately1.000 smaller adjacent islands, including the Tsushima Islands and theRyukyu (Nansei) Islands north of 30.North Latitude (excluding KuchinoshimaIsland);and excluding (a) Utsuryo (Ullung) Island, Liancourt Rocks (TakeIsland) and Quelpart (Saishu or Cheju Island), (b) the Ryukyu (Nansei)Islands south of 30. North Latitude (including Kuchinoshima Island), thelzu, Nanpo, Bonin (Ogasawara) and Volcano (Kazan or lwo) Island Groups,and all other outlying Pacific Islands (including the Daito (Ohigashi orOagari) Island Group, and Parece Vela (Okinotori), Marcus (Minami-tori)and Ganges (Nakano-tori) Islands, and (c) the Kurile (Chishima) Islands,the Habomai (Hapomaze) Island Group (including Suisho, Yuri, Akiyuri, Shibotsuand Taraku Islands) and Shikotan Island.

<翻訳>
 この指令の目的のために、日本は日本の4つ本島(本州、北海道、九州、四国)と、そして約1000個の小さな隣接した島々(ここには対馬諸島と北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島除外)が含まれる)を含むことと定義される。そして除かれるものは(a)鬱陵島、リアンコール列岩(竹島)と済州島、(b)北緯30度以南の琉球(南西)諸島(口之島含む)、伊豆、南方、小笠原島とボルケーノ(火山または琉黄)群島、そして大東諸島、沖鳥島、南鳥島、中之鳥島などを含んだその他全ての周辺の太平洋諸島、そして、(c)千島列島、歯舞群島(スイショウ、ユリ、アキユリ、シボツ、タラクを含む)そして色丹島などである。


 第3に、この文書は第4項でコリアが、「日本帝国政府の統治上、行政上の管轄(the governmental and administrative jurisdiction of the Imperial Japanese Government)」から除かれると明示的に明らかにした。これはカイロ宣言とポツダム宣言、及び日本の降伏文書などに照らして見る時、自明な措置である。しかし日本の領土から鬱陵島と独島、及び済州島を初めて明示的に除いたこの文書がコリアを同時に日本の領土から明示的に除外したという点で特別な意味を付与している。

 集団分類(Grouping)の重要性

 SCAPIN 第677号でもう一つ重要なこととして指摘されなければならないのは、集団分類である。日本の領土から統治上、行政上の管轄から除かれなければならない地域を(a)(b)(c)の3つの範疇に集団分類しながら、(a)集団の中に鬱陵島と独島、および済州島の3つの島々をその順に含めたのである。
 前に指摘したように、この文書は同時にコリアを日本の領土から統治上、行政上の管轄から除外した。これは(a)集団に括って入れた3つの島々が、コリアの領土という認識を反映したものと見られる。
 この内容で私たちは、しばらくの間、日本陸軍参謀本部陸地測量部が1936年に製作した『地図区域一覧図』を検討する必要がある。この地図よれば、済州島は勿論、鬱陵島と共に独島を「朝鮮区域」に含めている。連合国最高司令部が問題のSCAPIN第677号を作る時、この地図を一次的に参考にしたものと推定される。言葉を変えて言えば、連合国最高司令部は日本が既に独島をコリアの領土と認めているという認識を持っており、そういう認識がSCAPIN第677号を作る時に、上述した集団分類を可能にしたのである。


 第6項に対する解釈

 しかしこの覚書きでは、第6項で「この指令の中の如何なる規定も、ポツダム宣言第8項に言及された”小さな島々”の最終決定に関する連合国の政策を表示したのではない」(Nothingin this directive shall be construed as an indication of Allied policyrelating to the ultimate determination of the minor islands referred toin Article 8 of the Potsdam Declaration.)」という規定を含んでいる。ところでこの規定を想起させながら、日本政府は1952年4月25日にこの覚書きが日本領土に関する最終決定ではないと主張した。

 そしてその証拠に、この覚書きによって日本政府の統治上または行政上の権威の行使が停止される特定地域として含まれていた「北緯30度以南の西南諸島」の中で、北緯29度以北に関しては、1951年12月5日付けの連合国最高司令部の覚書きによって日本政府に行政権が返還され、奄美大島も日本の行政管理下に委譲されただけでなく、やはり日本政府の統治上または行政上の権威の行使が停止される特定地域に含まれた琉球と小笠原などの諸島に対しても、日本の残存主権(residualsovereignty)が認められていたという点を提示する。
 日本のこのような主張に対して、李漢基教授は自分の『韓国の領土』(266ページ)で次のように反論した。一番よく整理された反論なので、全文をそのまま引用する事にする。

 しかし上記のSCAPIN 第677号第6項は、連合国が日本の領土の処理に関して、決して何も決めなかったということではない。ただ最終的決定ではないということだけである。実質的に独島を含んだ諸小島の帰属を明確にしながらも、ただその後の連合国がこのような決定を修正することができる可能性を留保したに過ぎない。それゆえ若干の諸小島が日本に返還され、若干の島嶼に関する残主権も認められたのである。
 しかし一応分離が確定された独島に対しては、その後如何なる措置も取られたことはない。日本領に帰属させるという積極的決定もなく、また独島に対する日本の残存主権を認めるという宣言もなかった。
 したがって独島はSCAPIN 第677号によって日本領から分離したそのままの状態で、対日平和条約の締結を迎えたのである。このように見る時、対日平和条約が独島を日本領域に含めるという積極的規定を置かない限り、やはり独島は対日平和条約でも日本領からの分離が確定しているものと考えなければならない。


同じ主旨で愼鏞廈教授は自分の『独島:貴重な韓国領土』(189~190ページ)で、次のように論理的に主張している。やはり全文を引用する価値がある。

 この事実は連合国最高司令部指令第677号第5条(下記SCAPIN 677 全文参照)に、「この指令に含まれた日本の定義はそれに関して他の特定の指令がない限り、本連合国最高司令部から発する全ての指令・覚書き・命令に適用される」としてあり、この指令の「日本の定義」に変更を加えようとする時には、必ず連合国最高司令部がそれに関する「他の特定の指令」を発しなければならないし、そうでない限り、この指令の「日本の定義」が未来にも適用されることを明らかにした所でもよく分かる。すなわち連合国は、この指令が最終決定でないためこの指令に異議を提起して修正することもできるが、この指令で規定した「日本の定義」に修正を加える時には、連合国最高司令部がそれに関する「別途の特定の指令」を下さなければならないように規定したのであった。
 例えば連合国最高司令部は、1946年1月29日に連合国最高司令部指令第677号として独島を鬱陵島及び済州島と共に日本領土から除外したが、もし未来にこれを修正して独島を日本領土に含めようとする場合には、連合国最高司令部(または連合国)が日本領土から除いた独島を修正して日本に付属させるという内容のそれに関する「別途の特定の指令」を発しなければならないし、そうでない限りこの指令は未来において全て有効だというのである。
 連合国最高司令部または連合国は、1946年1月29日の連合国最高司令部指令第677号で独島を日本領土から除くという指令を下した後、日本が完全独立するまでにこれを修正する指令を下したことがないので、この連合国最高司令部指令第677号によって独島はこの時に日本領土から完全に分離・除外され、韓国領土として永久に返還されたのである。


 同じ主旨で金炳烈教授は自分の『独島か竹島か』(207~208)で次のように書いている。やはり全文引用する。

 第6条の意味を明確にするために、指令第5条を吟味して見る必要がある。この指令第5条をみると、「この指令に含まれた日本の定義は、それに関して他の特別な指令がない限り本連合国最高司令部から発する全ての指令・覚書き・命令に適用される」と規定している。第5条の意味は、他の特別な指令があればこの指令によって規定された日本の領域を変更することができるが、そうでない限り続けて有効だという意味である。すなわちこの指令に含まれた日本の領域を変更するためには、別途の特定の指令を発しなければならないということを意味しているのである。
 これを第6条とともに解釈すれば、「この指令が変更不可能な最終的なものではないが、この指令を変更するためには別途の特定の指令を発しなければならない」と言う意味になる。すなわち1946年1月29日付け連合国最高司令部指令第677号によって鬱陵島、済州島と共に、独島を日本の領土から除外したが、これらの中で一つをまた日本領土にするためには、そうするという明示的な別途の指令がなければならないというのである。連合国最高司令部は1946年1月29日以降、独島をまた日本領土にするという別途の指令を下したことがないので、この指令によって独島は韓国に永遠に返還されたのである。


資料────────────────────SCAPIN 677 全文─────────────────────

AG 091 (29 Jan 46) GS 29 January 1946( SCAPlN- 677)
MEMORANDUM FOR : IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
THROUGH : Central Liaison Office, Tokyo.
SUBJECT : Governmental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan.

l. The Imperial Japanese Government is directed to cease exercising, orattempting to exercise, governmental or administrative authority over anyarea outside of Japan, or over any government officials and employees orany over persons within such areas.

2. Except as authorized by this Headquarters, the Imperial Japanese Governmentwill not communicate with government officials and employees or with anyother persons outside of Japan for any purpose other than the routine operationof authorized shipping, communications and weather services.

3. For the purpose of this directive, Japan is defined to include the fourmain islands of Japan (Hokkaido, Honshu, Kyushu and Shikoku) and the approximately1,000 smaller adjacent islands, including the Tsushima Islands and theRyukyu (Nansei) Islands north of 30. North Latitude (excluding KuchinoshimaIsland);and excluding (a) Utsuryo (Ullung) Island, Liancourt Rocks (TakeIsland) and Quelpart (Saishu or Cheju Island), (b) the Ryukyu (Nansei)Islands south of 30. North Latitude (including Kuchinoshima Island), thelzu, Nanpo, Bonin (Ogasawara) and Volcano (Kazan or lwo) Island Groups,and all other outlying Pacific Islands (including the Daito (Ohigashi orOagari) Island Group, and Parece Vela (Okinotori), Marcus (Minami -tori)and Ganges (Nakano-tori) Islands, and (c) the Kurile (Chishima) Islands,the Habomai (Hapomaze) Island Group (including Suisho, Yuri, Akiyuri, Shibotsuand Taraku Islands) and Shikotan Island.

4. Further areas specifically excluded from the governmental and administrativejurisdiction of the Imperial Japanese Government are the following: (a)all Pacific Islands seized or occupied under mandate or otherwise by Japansince the beginning of the World War in 1914, (b) Manchuria, Formosa andthe Pescadores, (c) Korea, and (d) Karafuto.

5. The definition of Japan contained in this directive shall also applyto all future directives, memoranda and orders from this Headquarters unlessotherwise specified therein.

6. Nothing in this directive shall be construed as an indication of Alliedpolicy relating to the ultimate determination of the minor islands referredto in Article 8 of the Potsdam Declaration.

7. The Imperial Japanese Government will prepare and submit to this Headquartersa report of all governmental agencies in Japan the functions of which pertainto areas outside ofJapan as defined in this directive. Such report willinclude a statement of the functions, organization and personnel of eachof the agencies concerned.

8. A11 records of the agencies referred to in paragraph 7 above will bepreserved and kept available for inspection by this Headquarters.

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竹島問題 アメリカ大使館 秘密書簡(竹島領有権問題18)----------

 1946年1月29日に発せられた"SCAPIN 677"(GHQ指令第677号)を受けて、サンフランシスコ講和条約の第5次草案までは、竹島=独島は、日本が放棄するものとされていた。しかし、第6次草案では、その竹島=独島の記述が消え、逆に日本の保有領土の項に竹島=独島を明記した案が作成されたりして二転三転した後、最終案では、日本の保有領土の項からも竹島=独島は消えることとなったようである。
 「竹島=独島論争 歴史資料から考える」内藤正中・朴炳渉(新幹社)には、その経緯を明らかにする一つの資料として、アメリカ大使館の秘密書簡が取り上げられている。その中には「アザラシの繁殖地であるリアンコール岩は、ある時期、朝鮮王朝の一部であった」(The rocks, which are fertile seal breeding grounds, were at one time parof the Kingdom of Korea.)という一文があるが、これは、日 本の竹島=独島の領土編入が違法であったとする考え方につながるものであり、重要であるといえる。日本政府は、竹島=独島が、かつて朝鮮王朝の一部であったという事実を認めていない。「……無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク……」ということで、日本の領土に編入したのである。しかしながら、アメリカ国務省は一度ならず竹島=独島の歴史を精査し(The history of these rocks has been reviewed more than once by the Department……)、「ある時期、朝鮮王朝の一部であった」と秘密書簡で結論づけていた。「竹島=独島論争 歴史資料から考える」内藤正中・朴炳渉(新幹社)から、その解説と秘密書簡原文を抜粋する(訳は省略)。
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3 アメリカ大使館の秘密書簡
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1 解説

 この資料は、なぜ、サンフランシスコ講和条約において竹島=独島が記述されなかったのか、その経緯を明らかにする資料として注目されます。条約にリアンコール岩(竹島=独島)が記載されなかった理由として、駐日アメリカ大使館は下記のように日韓双方の主張をあげました。

①リアンコール岩は、ある時期、朝鮮王朝の一部であった。
②日本は、日本の領土に編入し、ある県の行政下においた。

 アメリカは日韓双方の主張に考慮し、竹島=独島の領有権を明確にしなかったことが、この書簡からうかがえます。なかでもアメリカの「竹島=独島は朝鮮王朝の一部であった」という認識が文書により明らかになった点は特に重要です。
 書簡は、アメリカ軍による第2次竹島=独島爆撃事件を機に、駐日アメリカ大使館により作成され、国務省へ送られました。書簡の背景を明らかにするために「第2次竹島=独島爆撃事件」の概要を尹漢坤氏の文から左記に引用します。なお、書簡は、アメリカの韓国史研究者であるロブモ氏により発見されました。


 1952年9月25日午前11時ころ、米極東軍司令部所属の爆撃機が独島上空に出現し、独島を2回旋回した後、4個の爆弾を投下して南へ飛んでいった。当時、独島には20余名の船員と海女が操業していたが、幸いにも人命被害はなかったようだ。
 ちょうど、国土究明事業で韓国山岳会の第2次鬱陵島・独島学術調査団一行36名が9月18日に鬱陵島へ来ていたが、この時、(1948年についで)再度起きた独島爆撃の消息に接するようになった。一行は関係当局に電文を送り、この消息を伝え、調査団の安全な航海を保証してくれるよう要求した。しかし、一行が9月22日、2回目に独島(ママ)を出発し、午前11時ころ、独島付近2キロの海上に接近したとき、突然4台の飛行機が現れ、海上に爆弾を投下した。結局、再び上陸ができず、鬱陵島に帰還することになった。

 
2 書簡の口語訳(省略)

3 書簡の原文

FROM :AMEMBASSY,TOKYO,October 3,1952
TO :THE DEPARTMENT OF STATE WASHINGTON
SUBJECT :Korean on Liancourt Rocks.


In the constant clash of interests which continues exacerbate relationsbetween Japan and Korea, there has recently occurred a minor incident whichmay achieve larger proportions in the near future, and which may introducerepercussions affecting the United States.The incident concerns the disputedterritory known as the Liancourt Rocks, or Dokto Islands, the sovereigntyto which is in dispute between Korea and Japan.


The history of these rocks has been reviewed more than once by the Department,and does not need extensive recounting here. The rocks, which are fertileseal breeding grounds, were at one time part of the Kingdom of Korea. Theywere of course, annexed together with the remaining territory of Koreawhen Japan extended its Empire over the former Korean State. However ,duringthe course of this imperial control, the Japanese Government formally incorporatedthis territory into the metropolitan area of Japan and placed it administrativelyunder the control of one of the Japanese prefecture. Therefore, when Japanagreed in Article Ⅱ of the peace treaty to renounce "all right, titleand claim to Korea, including the islands of Quellait, Port Hamilton andDagelet",the drafters of the treaty did not include these islandswithin the area to be renounced. Japan has, and with reason, assumed thatits sovereignty still extends over these islands. For obvious reasons,the Koreans have disputed this assumption.


The rocks, standing as they do in the open waters of the Japan Sea betweenKorea and Japan, have a certain utility to the United Nations aircraftreturning from bombing runs in North Korean territory. They provide a radarpoint which will permit the dumping of unexpended bomb loads in an identifiablearea. Being uninhabited and providing a point of navigational certainty,they are also ideal for a live bombing target. Therefore, in the selectionof maneuvering areas by the Joint Committee implementing Japanese-Americansecurity arrangement, it was agreed that these rocks would be designatedas a facility by the Japanese Government and would serve the purposes mentionedabove. They were turned into a bombing target, were declared a danger area,and have been posted as out-bounds on a 24-hour 7-day a week basis.


Imformation to this effect was disseminated throughout the Far East Commandand presumably throughout the subordinate comands of the Far East Air Forceand the Naval Forces, Far East. Very recentry the imformation has beenpassed on to the Commander-in-Chief of the Pacific Fleet at Pearl Harbor,in order that he may give it formal dissemination in the form of a hydropac,or notice to mariners.


Despite this, the United Nations Naval Commander in Pusan (CTG 95.7) apparentlywas unaware of the dangers existing on these rocks, and when he receiveda request from the Chief of Naval Operations of the ROK Navy to permitthe dispatch of a scientific expedition to the rocks, he granted that permissionon September 7,1952 and the expedition departed from Pusan on September12, 1952.The purpose of the expedition was not made cear, but its intenthas obviously been to establish claim to Korean sovereignty over the rocks.It also appears that Korean fishermen have been regularly using the rocksfor fishing purpases and have been probably capturing seals in the vicinity.


When the aforementioned "scientific expedition" reached the islands,they apparently passed their time in area without incident. However uponreturn, the leader of the expedition reported that a fishing crew gatheringsea shells in and around the rocks on the 15th of September, had been bombedby a United State plane, and had fortunately escaped injury by retreatinginto the caves.


The original permission granted by CTG 95.7 for the scientific expeditionto travel to the rocks had been brought informally to the attention ofthis Embassy (Enclosure 1.) The Embassy took action with the Far East Command,and through that Command with the Naval Forces Far East, to advise CTG95.7 to refrain from granting any further permits of this type. It wasnot until after this action had been taken that the bombing incident hadtaken place.


It is considered that the recent reassertion of the danger zone on theserocks should suffice to prevent the complicity of any American or UnitedNations Commanders in any further expeditions to the rocks which mightresult in injury or death to Koreans. However, owing to the crude implementationof Government controls in Korea, it is questionable that all independentKorean fishermen can be dissuaded from continuing their expeditions intothese rocks. There therefor exists a fair chance that some time in thenear future American bombs may cause loss of life or other incidents whichwill bring the Korean effort to recapture these islands into more prominentplay, and may involve the United States unhappily in the implications ofthat
effort.


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「鬱陵島から竹島は見える」梶村秀樹(竹島領有権問題18---------

 「梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人」梶村秀樹(明石書店)には、竹島=独島についておもしろい推論がある。現在の竹島=独島は、江戸時代には日本では「松島」と呼んでいた。そして鬱陵島を「竹島」ないし「磯竹島」と呼んでいた。松が生えない岩礁をなぜ「松島」と呼んでいたのか、という謎についての推論である。まず「竹島」の呼称の方が先にあって、それと対になる名称として後から「松島」なる名称が生まれたと考えられるというのである。そして、それは日本側も韓国側同様に、当時、竹島=独島を鬱陵島の属島ないしは兄弟島としてとらえていたことのあらわれだろうというのである。

  梶村秀樹著作集第1巻の竹島関連の記述は、固定観念を持って断定的に書かれたものとは異なり、客観的で公平であると思う。ところどころに、朝鮮史を知り尽くした人ゆえであろうと思われる鋭い指摘がある。川上健三説と比較すると、無理のない判断に基づいて書かれていることは、下記の抜粋部分からも感じられるのではないかと思う。(ただし、文献や史料の紹介が少ないことがやや残念ではある)
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                               Ⅳ 日本人と朝鮮人

 竹島=独島の地理的位置


 ・・・
 歴史的経過についての論争と関連する大きな論点として、鬱陵島から竹島=独島が見えるかどうかという問題がある。日本側は一貫して見えるはずがないと強調してきた。特に川上健三前掲書(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1996)は数式まで掲げてその主張を詳論している。
 川上によれば地球が球体であることから、地上の二点間の絶対的物理的視達限界は次の公式で表されるものとなるという。

 D=2.09×(√H+√h)(ただし、Dは視達<海里>距離、Hは対象物体の海面上の高さ<メートル>、hは観測者の眼の高さ<メートル>

 
 この公式から川上は、海面上に浮かぶ船上から観測して竹島=独島の最頂部が見える限界は約30海里と算出し、49海里離れた鬱陵島からは見えないと説く。この計算自体は正確であるが、川上は、鬱陵島の海抜0メートルの浜辺から眺めると仮定している。しかし、鬱陵島の最高峰聖人峰は海抜985メートルもあり、李漢基氏が反論しているように山に登れば同じ公式を使っても視達距離は全く異なってくる。竹島=独島の最高峰を174メートルとして計算したばあい、49海里離れた鬱陵島からでも、海抜120メートル以上の所からなら見えることになる。ただし、120メートル地点からでは、頂上の一点が点として見えるにすぎない。竹島=独島の海抜50メートル以上の部分が面として視認できるのは、鬱陵島の海抜284メートルの地点である。また海抜200メートルの地点からなら、約96メートル以上の部分が見えることになり、少なくとも竹島=独島の西島頂部の三角形が見えることになる。つまり鬱陵島の、200~300メートルの高度の東南がひらけた場所からなら、竹島=鬱陵島は水平線上に小さくではあるがとにかく見える。そうした視達可能地点は地図を開いてみれば鬱陵島には随所にあることが分かる。川上氏もこういう単純な事実に気づいていないわけではなく、そこで、「往時の鬱陵島は全島密林におおわれていたから高所に登ること自体困難であり、たとえ登っても樹木にさえぎられて見えなかったにちがいない」と説くのだが、これはやはり無理な推論であろう。985メートルの所まで登らねばというならともかく、300メートルまで登ればいいのだから、それ以上の高度の地点は無数にあるのだ。実際、1438年に空島政策が最終的に実行されるまでは少なくても、公式的にも鬱陵島には多くの朝鮮人が定住していた。つまり当然漁業だけでなく農業を行っていたと推定されるのだが、鬱陵島もやはり海岸部は概して急峻で、むしろ200~300メートルの台地上に比較的平坦な開墾適地が多く、現在もそんな土地に少なからず人家があり畑がひらかれている。特に旧時の火田式農耕なら、そんな土地がまず開墾された可能性が高いはずなのである。従って、密林にさえぎられてどこからも見えなかったとはどうしても考えられない。

 なお、以上の議論は空気の明澄度は一応度外視してのもので、気象条件のよい時なら見えるということである。現に東京から富士山までの絶対距離は、鬱陵島と竹島=独島の間よりかなり遠いが、我々は冬の晴れた日に東京から肉眼で難なく富士山を見ることができる。もっとも水平線部分ほどもやがたまりやすいから、高度が低いほど視認条件が悪くなることは確かだが、スモッグの東京より日本海のどまん中の方が空気が澄んでいることも確かであろうから、空気の明澄度ゆえに肉眼視認が絶対不可能と論ずることは無理があろう。なお、真偽は定かでないが18世紀の日本側史料に、隠岐の島北部の山頂からさえ竹島=独島が視認できたとする記述がある。鬱陵島に何百年も定住し、農耕も営んでいながら、竹島=独島の存在に全く気づかなかったろうと推論することは、朝鮮人民をよほどぼんやりした人々とみなす偏見に基づくことだ。


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竹島の「実効的経営」梶村秀樹(竹島領有権問題19)-----------

 現在、日本において「竹島」と呼ばれている島は、かつては韓国の鬱陵島のことであった。そして、今日の「竹島」は、その時「松島」と呼ばれていた。ところが、鬱陵島にその「松島」という名をあてたシーボルトの日本図が逆輸入されたために、名称の混乱が起こり、島名の入れ替わり問題が発生したのである。そのことに関しては、韓国・朝鮮の研究者も日本の研究者も同じように理解しており、異論はないようである。しかしながら、17世紀の竹島(鬱陵島)渡航の史実をもって、あたかも、日本が現在の竹島を「実効的経営」してきたかのごとく主張する論者があることを「梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人」(明石書店)は指摘している。17世紀の「竹島」の実効的経営は、現在の竹島のそれではないのである。「推論に推論をかさねて、あたかも恒常的な「松島経営」があったかのように描き出しているのはフェアな態度ではない。」というわけである。下記は、その「実効的経営」に関わる項の抜粋である。
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                              Ⅳ 日本人と朝鮮人

 17世紀の実効的経営

 大谷・村川家のいわゆる「竹島経営」は、1617年たまたま村川の商船が遭難して鬱陵島に漂着し、その物産の豊富なのに着眼して幕府に渡航許可を申請したのが発端で、朝鮮側の空島政策のおかげで、この17世紀の80年間だけ続いた。それは具体的には、春に数隻数十人の船団を組織して鬱陵島に渡り、1~2ヶ月採取活動を行って、順風を待って帰って来るということであるが、当時の技術からしてやや冒険的な事業であり、渡海免許当初の数十年間は、毎年恒常的に渡航していたかどうか疑問である。しかし1650年代から約40年間はかなりしばしば往来していたと認められよう。採取活動の主眼は、桐・センダンその他の価値ある銘木におかれていたようで、付随的にアワビとアシカの油などの順序であったと思われる。後者だけを目標とするには渡航はあまりにも冒険的すぎた。こうした一時的な「経営」の事実に「先祖が血と汗を流して築いた」というような形容詞をつけて誤ったイメージを与えることは犯罪的でさえある。それなら歴代の朝鮮人民が鬱陵島で流した血と汗はどうなるのか?そもそもこの時期の「竹島経営」の対象はもっぱら鬱陵島であって決していまの竹島=独島ではなかった。だから「竹島経営」の事実を論拠に日本固有領土論をごり押ししていけば、「それなら日本がまず領有を主張すべきは竹島=独島よりも鬱陵島である。そのかわり朝鮮は対馬を経営した事実があるから対馬は朝鮮領だ」というような八方破れの反論が出ても不思議はないのである。


 こうした「竹島経営」と全く別途に、「松島(いまの竹島=独島)だけを対象とする船団が組織され「経営」が行われたと考えるのは無理がある。いかなる理由からか1661年に大谷・村川両家が、「竹島」とは別個に「松島渡海」の免許を得ている事実はあるようだが、それ以前もそれ以後も「松島」だけのために恒常的に出漁したとは思えない。アワビは、隠岐でも鬱陵島でもいくらも採れたろうし、アシカの油はまださほどの商品価値をもつものではなかった。「松島」には将軍様がよだれをたらしてほしがるような銘木もなかった。川上前掲書の提示する諸史料を総合すれば、当時の日本人の「松島」利用状況は次のごとくであろう。まず第1に、鬱陵島への航行の目標としては必ず利用した。しかし常時は沖合を通り過ぎるだけで、必ず寄港するということはなかった。はしけならともかく、大きな帆船が安全に接岸できるような地形ではなかったし、わざわざ上陸するメリットも、別になかったからである。だが、時には、風待ちの都合、またゆきがけの駄賃的な意味で小船をおろして上陸し、多少のアワビとアシカを採取することもあった。日本側が、直接にはこの程度のそれも一時的な事実を物語る史料をもとに、推論に推論をかさねて、あたかも恒常的な「松島経営」があったかのように描き出しているのは、フェアな態度ではない。

 ところで、こうした大谷・村川両家の朝鮮政府の空島政策の間隙をついた「竹島経営」は、ついに1693年にいたり、やはり集団的に慶尚道方面から鬱陵島に出漁していた朝鮮漁民安龍福らとの大規模な争闘事件をひきおこした。安龍福自身の供述によれば、この時かれは鬱陵島も竹島=独島も朝鮮領土であることを主張して日本人を追い払い、93年と96年の2回にわたって追撃して日本に渡り(1回目について日本側の記録は人質として連行したと称する)、朝鮮政府の架空の官名を自称して独断で外交交渉を行い、丁重なもてなしを受けた。川上前掲書などが、安龍福の豪胆な行動をつとめて卑小に描き出そうとしているのを読むと、気恥ずかしい思いがする。ともかくかくして、問題は江戸幕府と李朝政府の公式外交ルートにのせられ、紆余曲折の後、1696年にいたり江戸幕府は「竹島(鬱陵島)」が朝鮮固有領土であることを確認して、日本人の渡航を一切禁ずる措置をとった。

 この時、江戸幕府は「松島(いまの竹島=独島)」についても同様に渡航を禁じるのかどうかを明示しなかった。このため、「竹島」と「松島」を一体とみる通念からして、当然同様に禁じたとみる韓国・朝鮮側と、明文で禁じていないのは渡航を許していたということだとする日本側の主張が水掛け論になっている。だが、江戸幕府が「竹島」と「松島」の扱いを意識的に区別していたことを積極的に証明する史料は全くなく、逆に一体と通念されていた史料の方が多い。ただ一つ、1836年の石州浜田の回船問屋会津屋八右衛門の「竹島密貿易事件」の判決文に「松島へ渡海の名目をもって竹島にわたり」という浜田藩家老の言が引用されているものが検討に値するくらいだが、それ自体当時の少数説だし、この事件は、「松島」渡航の可否自体に判断をくだす性質のものではなかった。事実問題として、「竹島(鬱陵
島)」渡航禁止以後、独自の経済的価値のない「松島」だけのために渡航することも、幕末まですっかりなくなっていたことは確かである。「松島」単独渡航を積極的に証明しうる史料は一つもない。


 この間朝鮮側でも空島政策が続いており、鬱陵島はともかく、竹島=独島の「実効的経営」がどの程度進行したかは定かでない。ただ安龍福のような行動半径をもつ漁民があとを断つはずはないから、民間の知見はいくらか拡がったかもしれない。それを反映してか、『正宗実録』1796年の項に、突然可支島の名があらわれる。この島名は明らかに可支魚(カジェ=アシカ)に由来するもので、韓国・朝鮮側では、いまの竹島=独島をさすとしているのに対し、川上前掲書は鬱陵島と竹島=独島の間を3日間で往復するのは不可能として、鬱陵島東北部とみなしているが、順風に乗れば3日間の往復も必ずしも不可能といえないし、記述と照合すれば川上の比定に合うような小属島は見当たらない。「実効的経営」の証明にはならないが、可支島を竹島=独島とみなすこと自体はそう無理ではないと思われる。

----------「竹島の帰属意識」梶村秀樹(竹島領有権問題20)-----------

 日露戦争最中の1905年(明治38年)1月28日、海軍大臣など11名参加の閣議で竹島の領土編入が決定された。その際、「…… 無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク、……」と、無主地の先占取得を根拠とした。しかし、その時すでに韓国は鬱陵島の空島政策を廃し、1900年10月25日に勅令第41号を発して、その第2条で、「郡庁は台霞洞(テハドン)に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること」と規定していた。韓国はこの石島を現竹島=独島であると主張している。だとすれば、日本の無主地先占取得による竹島の島根県編入は成立しない。また、「実効的経営」の面でも、竹島=独島に関しては、ほとんどその事実がないとのことである。「梶村秀樹 著作集第1巻 日本人と朝鮮人」(明石書店)からの抜粋である。
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                              Ⅳ 日本人と朝鮮人

 竹島=独島の帰属についての意識

 以上のように、前近代における竹島独島の「実効的経営」の実態は、日朝両国とも、それを継続的なものと主張するほどのものではなかった。その利用の程度は時期によってむらがあり、17世紀を中心とする時期には確かに日本側の方が高かったとみられるが、それは「竹島経営」と関連する一時的な性格のことがらであった。この絶海中の無人島は、基本的には、アシカの天国たるにとどまり続けていたのである。しかし、その存在自体は、少なくとも17世紀からは、日朝双方に明確に認知されていた。では、当時の人々はこの無人島が両国のいずれに帰属すると意識していたのか?


 まず、朝鮮側には、安龍福の件についての『粛宗実録』(スクジョンシルロク)、の記述のように明白に朝鮮に属するというものがあり、「いうまでもなく鬱陵島と一体」とみるのが通念であった。少なくとも積極的に朝鮮に属することを否定する文献は全くない。一方、日本側には、日本に属するとみなす文献と、朝鮮に属する、ないし少なくとも日本固有の領土とは異なるとする文献とが並存するが、前者はむしろ少なく断片的であり、後者になかり近いところに通念があったとみられる。

 例えば、北园通菴編『竹島図説』(18世紀なかばのもの)における「隠岐国松島」という表現は確かに前者といえよう。しかし、日本側では前者の例証としている文献の中には、すなおにはそう読めないものがある。前掲『隠州視聴合記』の表現は韓国側の指摘のように、隠州を日本の境域の限界とのべたものと解すべきであろう。また、矢田高当『長生竹島記』(1801年)の、「松島(いまの竹島=独島)」沖を「本朝西海のはて」とのべた記述は、「松島」を日本領とみていた証拠にはならず、逆に日本領でないとみていた証拠である。領海観念のない当時としては、もし「松島」が日本領なら、「本朝西海のはて」は松島のてまえではなくて、鬱陵島のてまえでなければならない。また17世紀中、大谷・村川両家がしばしば、「松島」やさらに「竹島(鬱陵島)」をまで、幕府から「拝領」したと表現している事実があるが、幕府側は、両家に両島への「渡海免許」を与えたにすぎず、両島を両家に所領として与えた事実はなく、両家のあつかましい拡大解釈にすぎない。ないしは、正確には「渡海免許状の拝領」というべきことの省略語とみるべきであろう。逆に、「渡海」という文言自体、国外への渡航を意味する(内国の離島への渡航には別に「渡海免許状」はいらない)から、「松島」への「渡海」を免許したこと自体、幕府が日本領ではないとみなしていたことを意味する。なお、特定の限定された国外渡航の免許はほかにも例があるとおり、決して全般的鎖国体制と矛盾することではない。「拝領」という字句の表面的な印象を利用して「固有領土」キャンペインをしてきたジャーナリズムは、日本国民の認識を誤らせている。大谷・村川両家は、「松島」以前に「竹島(鬱陵島)」を「拝領」したと称しているのである。

 このような混乱した日本側の認識状況、竹島=独島を日本領とみない通念は、明治初年まで続いた。明治初年の海外渡航ブームの中で、再び、物産豊富な鬱陵島への渡航・開拓許可を政府に願い出る者が、1876~78年の間に続出した。明治政府はこれらを一切却下したのだが、前述したこの時期の島名の混乱の中で、ある者は鬱陵島を「竹島」と呼び、ある者は「松島」と呼び、また鬱陵島と別の島のように見せかけた申請もあったりしたので、関連して「松島(いまの竹島=独島)のことも論議せざるをえなくなった。この時の外務省内の論議では、ある者は、「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮鬱陵島ニ属スル于山ナリ」といい(公信局長田辺太一の文書)、ある者は「ホルネットロックスノ我国ニ属スルハ各国ノ地図皆然リ」(記録局長渡辺洪基。ただしそんなことはない)といい、大勢は「版図ノ論今其実ヲ視ズ」(前記田辺文書)つまりははっきり分からないから、まず調査しなければならないという結論であった。「実効的経営」が江戸時代以来一貫してきたのなら、中央集権的な明治政府の外務省の見解がこんなにあやふやであるはずがない。明治初年には、「いうまでもなく竹島=独島は日本の固有領土」というような観念はまだなかったのである。

 ところで、明治政府のこうした公式態度にもかかわらず、改良された造船技術によって朝鮮人より一足先に船足をのばした日本人は、明治10年代頃から再び非合法に鬱陵島にわたりはじめた。1881年鬱陵島捜討官李奎遠の報告によってこのことを知った朝鮮政府は、直ちに日本政府に抗議するとともに、従来の空島政策を一転させ、朝鮮本土から住民を移住させて(83年)積極的な経営政策に乗り出した。日本政府はこの抗議に対して陳謝するとともに、1883年には鬱陵島在留邦人254名を全員引き揚げさせる措置をとった。以後、明治20~30年代にかけて公式には鬱陵島には日本人は一人もいないことになっていたが、実際にはこっそりと渡航する者は絶無ではなかったようである。しかし、それは10年代に比べれば小規模なものであった。明治10から20年代を通じて、渡航の主目的はやはり伐木が第1で、アワビ・テングサを目的とする漁民も若干いたが、アシカとりはいなかった。この間、いまの竹島=独島について、鬱陵島への往復の途中で立ち寄った例は1,2あるが、それ自体を目的とする渡航は依然絶無であったことが確認される。

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 要するに、詳細不明でさほど系統的であったかは疑問としても、1881年以降、朝鮮人民の竹島=独島への認識と出漁が、ある程度進んでいた可能性を全く否定することはできない。そしてそうした実態を反映するものとして、1900年10月25日付韓国政府勅令41号第2条の「鬱陵(郡庁を台霞洞におき、その区域は鬱陵島全島と竹島・石島を管轄とす」という文言があると考えうる。この法文中の「竹島」は鬱陵島の小属島である竹嶼のことだろうが、「石島」はもう一つの小属島である観音島をさすとは地形からしても沿革からしても考え難く、いまの竹島=独島をさすと解するのが最も自然であろう。この史料は、従来あまり注目されてこなかったが、「1905年以前に朝鮮政府が何ら竹島=独島に施政を行ったことがないから、島根県編入当時無主地の状態にあった」とする日本側の見解にたいする反証として重要である。

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竹島問題と国際司法裁判所-ICJ(竹島領有権問題21)---------

1977年2月、時の福田首相が「竹島は一点の疑いもなき日本固有領土」という発言をした時、それがきっかけで、一時日韓関係に緊張があった。その竹島=独島問題について、日本は国際裁判で解決しようというのに対して、韓国はこれに反対しているという。したがって、それを知った多くの日本人が、竹島=独島問題を国際裁判により平和的に解決しよう、という日本の提案を受け入れようとしない韓国は、法的に自信がない証拠ではないか、と単純に思い込み、”竹島は国際法上も日本固有の領土”という思いを一層深くしている側面があるように思う。しかしながら、国際裁判による紛争の解決は、それほど単純ではないようである。北方領土は、現在ロシアが占有しており、日本が領有権を主張して返還を求めているが、日本は積極的に国際裁判により解決しようとはしていない。むしろ、ロシアが積極的で、日本はロシアの提案を拒否し直接交渉で解決しようとしている、といわれている。国際司法裁判所(ICJ)にもいろいろ問題があるようである。「梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人」(明石書店)から、国際機関の調停問題の部分を抜粋する。
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                              Ⅳ 日本人と朝鮮

 国際法とは何か?

 ところで、日本では一般に「権威ある国際機関の調停」にも応じようとしない韓国の態度は、不可解・横暴としか受け取られていない。「本当に自信があるならば堂々と裁判をうけたら良いではないか」と。だが、果たしてどうなのか?これに対する韓国側のたてまえは、本来「紛争」ですらなく、韓国固有領土なのだからそうする必要はないということである。だがそれだけではない。自信がないというのではなく現存の国際司法機関への根底的な不信が横たわっていると見るべきである。


 端的にいって、現存の世界に大国のご都合に左右されない「確立された権威」ある国際法慣行などというものはない。帝国主義世界分割の時代に形成された古い国際法体系と新興国の国際法変革の構想とが鋭く対立しているのが現実である。日本が国際調停を強調することは、それだけ既存の帝国主義的国際法を絶対化して楯にとろうとすることを意味し、いきおい意外にも韓国側は変革の論理に基礎をおくことになっているという配置を、我々は認識しておく必要がある。

 そもそも国際法の領域には国内法における憲法等のような成文法体系があるわけではない。あるのは、グロチウス以来主に帝国主義国の学者が構築してきた論理の体系と国際司法機関が残した判例だけで、それも比較的安直にほごにされてきた。現在 UNCTAD 等で作られつつある新国際秩序に関する文書等も、国際司法機関を直接拘束するものではない。国際司法機関の最初のものは、第1次大戦後に設けられた常設国際司法裁判所(PCIJ)であるが、それは帝国主義国同士の領土のぶんどりあいを一々戦争で解決するのは大変だからある程度のルールを作ろうというような感じで生まれたものである。第2次大戦後はその任務が現存の国際司法裁判所(ICJ、在ハーグ)にひきつがれたといえよう。こういうものだから当然PCIJ も ICJ も主権国家に対してたいした権威は持っていない。紛争があっても、これを提訴するかしなかは主権国家の自由であり、また紛争の双方国が提訴に合意してはじめて裁判がはじめられることになっている。従来も、一方の国が提訴しようとしても他方が応じなかった例はいくらでもある。また、たとえば判決がくだされ、それが実行されないばあいでも、ICJには何ら強制力はないから、それなりの非難や報復を覚悟すれば、判決に従わなくても自由ということになる。なお、従来もいまも国際司法裁判所の裁判官はそのほとんどが白人であり、それも「先進国」に属する人であった。かくして、従来、PCIJ ICJ が扱ってきたのは、帝国主義国相互間のそれも比較的些細な事件に限られ、アジアでの事件が扱われた例はほんのわずかである。逆に、インドが提訴などせずにゴアを直接接収した行為は、既存の国際法に従うならこれを肯定しうる論拠はどこにもないが、反植民地主義の直接行動として新興国からは広く支持された。

 ところで、もし竹島=独島問題を ICJ に提訴した場合、1905年の日本編入の評価が大きな争点になろうが、歴史的経過よりも実効的占有ということを重視する現在のICJ が、かりに歴史的事実はすべて韓国の主張どおりと認めたとしても、これを帝国主義的侵略と認めるか実効的占有の手続きとして形式的に手落ちがないと判定するかは、客観的にみて微妙である。帝国主義的侵略という概念には今のICJ はあまりなじんでいない。竹島=独島事件とよく似ているといわれるものに、1953年に判決された英・仏間の「マンギエ並びにエクレホ群島事件」というのがある。マンギエ並びにエクレホ群島というのはフランスのノルマンディ半島のすぐ沖合にある岩礁群で古くはノルマン族の支配下にあったが、13世紀の英仏間の条約で、もとのノルマンディ公の所領はすべてフランスに権利が移ることが規定された時、この島の名は明示されなかった。フランス側は当然フランス領と考えつつ、何の行政措置もとらずにいる間に、19世紀にいたり、その漁業的価値を認めたイギリス人が利用しはじめ、イギリスが種々の行政措置を講じてきた。ICJ は、フランスの歴史的正当性の主張よりも、イギリスの詳細な19世紀以来の実効的占有の例証を重視し、フランスがこれに何ら抗議しなかったことを領有権の放棄とみなしてイギリスを勝訴させたのである。もちろん、竹島=独島問題は、問題となる期間の長さや帝国主義侵略途上の事件である点で、この事件とは大きく異なっているが、もし裁判官にこの差異を見分ける感覚がなければ、マンギエ・エクレホのこの判例に従って、朝鮮人が領有権の維持をおこたったことにされてしないかねないのである。

 ICJ が扱った唯一のアジアの事件であるタイと旧カンボジアの間のブレ・ヴィヘル寺院事件は、いわば乱暴なアジア人蔑視の判例といえる。1904年にタイ王国が当時の仏領インドシナと国境確定条約を結んだ時、条約文上は分水嶺のタイ側にあるこの寺院はタイ領となったが、タイ王の委任で付図を作成したフランス軍人が、故意か偶然か、カンボジア領に入れておいたことから、後に紛争が起こった。ICJはタイ王がこの付図の訂正を申し出なかったうえ、後に自らリプリントして配ったりしていることを、タイ側が付図を黙認したものととらえ、カンボジア勝訴の判決をくだした。タイ側にすれば、条約文に正しく記載されているのだから問題ではないし、些細な誤りを別にすれば便利な地図だからというつもりで配布したのかもしれないが、いわば、自ら地図の誤りを訂正する能力もなくぼんやりしている国は罰を受けても当然というのが、ICJ の見解だったのである。条約正文より付図の方を重視した点は、従来の判例のつみかさねを一挙にひっくりかえしたものであった。

 アジア的感覚からみればこういうことはどこかおかしい。この点、一個人の見解であるが、李漢基氏が ICJ の帝国主義的性格を批判しつつ、「アジア地域国際司法裁判所」(ICJA)」というような機関が生まれるなら、韓国も安心して独島問題をここに付託することができようと論じているのは、注目される。韓国・朝鮮側はやみくもに横車を押すことを望んでいるわけではない。韓国政府についていえば、第3世界の側に立ちきれず、一方では欧米的感覚に受け入れられやすい「実効的占有」の形を作ることに専念しているものといえよう。


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田久保忠衛の竹島論(竹島領有権問題22--------------

 
「日本の領土 そもそも国家とは何か」田久保忠衛(PHP研究所)は、著者略歴に「法学博士」とあり、時事通信ワシントン支局長や外信部長、編集局次長を経て、杏林大学社会科学部教授となり、92年から学部長、と紹介されていたので、何か得るものがあるのではないかと思って読んだ。しかしながら、その内容は竹島領有権問題に関しては、日本側主張の単なる繰り返しであり、結論的には「砲艦外交」にも通じる「気構え必要論」といえるようなものであった。その「まえがき」の一部と竹島問題の一部を抜粋するが、法学博士でありながら、公平な法に基づく問題解決や世界的に受け入れられる法に基づく秩序を志向されていないことが察せられると思う。

 ただし、竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に持ち込もうとする日本側の提案を受け入れない韓国側の姿勢の問題は、すでに
「梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人」から抜粋したように、国際司法裁判所(ICJ)が、かつての列強諸国の植民地主義的領有を認める判例に基づき判断する可能性が大きいからであって、真に公平な裁判を避けようとしているからではないことをふまえておかなければならないと思う。<…端的にいって、現存の世界に大国のご都合に左右されない「確立された権威」ある国際法慣行などというものはない。帝国主義世界分割の時代に形成された古い国際法体系と新興国の国際法変革の構想とが鋭く対立しているのが現実である。日本が国際調停を強調することは、それだけ既存の帝国主義的国際法を絶対化して楯にとろうとすることを意味し…>というようなことを、理解しておかなければならないと思うのである。日本が、北方領土問題を国際司法裁判所に持ち込もうとはしていない理由もそこにあるのではないかと思う。したがって、国際司法裁判所に提訴することを受け入れない韓国を、あたかも不法国家のような言い方をして攻撃する人たちがいることは、とても残念であり、悲しむべきことであると思う。
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 まえがき

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 欲求不満の対象は2つある。関係諸国のあまりの傲慢無礼、執拗、冷淡など、腹に据えかねる思いをさせる態度である。それに、日本政府のはっきりいって生ぬるいとしか考えられない対応である。
 性格は異なるが、沖縄問題もこれに加えないわけにはいかない。大田前沖縄県知事時代の那覇と東京との関係も、領土問題をめぐる外国との紛争に共通する面があった。大田氏の本土政府に対する強烈な要求と、東京側の過度の低姿勢だ。本土側には沖縄の歴史に対する無知がある。少々沖縄の事情を知り始めると、行き過ぎと思われるほどの「かわいそうだ」という同情論が飛び出す。大人同士の交渉にならないのだ。

 沖縄以外の領土問題には、戦後の日本の異常さがつきまとっていると思う。国家とは何か、主権とは何か、の理解が固まっていないのである。国家は支配階級が被支配階級を搾取する機関だから「悪」だ、というマルクス主義的な考え方を無意識のうちに持っている人々がいるせいか、国民は心の中で欲求不満を募らせながら、それが素直に公然と表現できないでいるように観察される。国家とは何かが念頭にない人たちには、サッチャー元英首相がフォークランドに英国の大艦隊を派遣し、「フォークランドの人々よりも重要な国家としての名誉を守るため」に戦うと述べた意味がわからないのではないだろうか。
 いくらボーダーレス時代になったとはいえ、サッチャーの気構えがなければ領土問題を国際司法裁判所に持ち込むキッカケもつくれないと思う。だから、日本が戦後やってきた「平和主義」とやらに基づいて口だけで抗議し、こちらに非があるときは(ときには非がないにもかかわらず)、ひたすら謝罪する以外に方法があるまい。欲求不満をじっとこらえる以外の選択は存在しないのである。

 領土が外国の手によって浸食され、かすめ取られていくのは目に見えている。恐ろしいのは、自主独立の精神の浸食と崩壊が同時に進行することである。これでは日本に明日はない。以上のような問題意識でまとめた次第である。

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                          竹島問題

竹島問題に解決の道はあるのか

「弱い国家はいじめられる」という原則

 かつて米国大統領セオドア・ルーズベルトは、「棍棒片手に猫なで声の交渉を」といった。21世紀を目前にして、おおっぴらに「砲艦外交」を口にし、実施する国は少なくなったが、竹島の領有権をめぐる韓国側の反応には棍棒が見え隠れするようだ。

 韓国世論も「独島はわが領土!」などの新聞見出しは地味な方で、「日本の巡視艦現る!警備隊緊張!」などと、あたかも戦争突入寸前のようなおどろおどろしい記事が出る。日本の国旗を平気で踏みにじり、燃やし、池田外相に似せた人形を蹴倒し、火あぶりにしているのを多くの韓国市民が盛大な拍手で雀躍している様子をテレビで見た日本人は少なくない。日本の一般市民の心の中に嫌悪感を静かに、しかも着実に蓄積していくような運動が一時期つづいた。これらに対して、気の強いことで知られた橋本首相であったが、竹島の領有権は日本にあると当たり前のコメントをしたうえで、「友情をもって話し合いをつづけることが第一だ」と繰り返すだけであった。

 中国の徐敦信駐日大使は、「中国人民は苦しい歴史の中から、自分の国が弱ければいじめられるという教訓を得た」と語ったことがある。19世紀的な砲艦外交がまかり通る中で、日本は世界に類を見ない丸腰の商人国家の道を選んだ。砲艦の代わりになる切り札は金銭以外に何があるのか。国際社会でいじめを受け、泣きつく先が米国で、その米国もいじめる側に身を置き始めているとしか考えられない例があるのは、すでに紹介したとおりだ。いつまでも「棚上げ」や「先送り」ではすまされまい。



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戦後補償裁判一覧---------------------

 ポツダム宣言の第6項に「吾等は、無責任な軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は、平和、安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は、永久に除去せられざるべからず」とある。

 しかしながら、GHQの占領政策の転換によって、永久に追放されたはずの「大本営の高官や参謀本部の高官、政府内の軍人・要人、軍国主義団体の指導者、様々な侵略作戦を立案した作戦参謀」などの多くが、1951年に追放を解除され、自由の身となった。いや、自由の身となったのみならず、アメリカの勢力下に入った日本でも力を得て、戦後日本の再生に深く関わっていった。そして、自らの戦争責任を回避しつつ、様々な部分で戦前・戦中の日本を正当化し甦らせたといってもよいのではないかと思う。日本の戦後補償の訴訟の現実や、軍人恩給(給付額は戦時中の階級によって決定される)の復活などからも、そう考えざるを得ないのである。

 例えば、「戦争被害は国民等しく受忍すべきである」という。では、なぜ軍人にのみ手厚い恩給が支給されるのか。また、戦争犠牲者の援護費の80%を上級軍人と古参兵、並びにその遺族が受け取っているといわるが、なぜなのか。下層兵や民間人は原爆被害者を除いては見捨てられたままであるということはどういうことなのか。戦争責任を考えると援護の仕方が逆なのではないか。

 平和条約が発効して主権を回復するとすぐに、日本政府は旧軍関係者への援護に取り組んでいる。連合国最高司令官は、戦犯容疑者の恩給差し止めはもちろん、1945年11月20日には、戦争を支えた軍人に対する「軍人恩給」そのものの打ち切りを指令した。にもかかわらず、日本政府は1952年4月30日に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を制定し、1953年8月1日には、廃止していた法令を廃止するという形で「軍人恩給」を復活させた。その莫大な費用が軍人恩給ではなく、戦後補償にあてられていれば、下記のような裁判はなかったのではないか。あったとしても、すべて解決していたのではないか。

 また、下記の多くの裁判にかかわる問題として、補償における国籍条項や戸籍条項の問題も見逃すことができない。朝鮮半島や台湾の元軍人・軍属の方々は「かつて日本人として日本のために戦ったのに、なぜ日本人と同じ恩給や補償が受けられないのか」と訴えているという。それを「日本国籍が消滅し、日本人ではなくなったから…」と平然としているようでは、日本は国際社会の信頼を得ることはできないのではないか。

 「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は、1952年4月30日制定されたが、4月1日にさかのぼって適用された。したがって、平和条約が発効した1952年4月28日までは、朝鮮半島や台湾の元軍人・軍属はまだ日本人であり「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の対象である。ところがこの法律に、わざわざ、日本の「戸籍法」の適用を受けない者は当分の間適用されない、と付則が加えられている。
 日本人であるが、内地戸籍にはないことを理由に、朝鮮人や台湾人を排除しているのである。おまけに、占領下では国籍に関係なく支給されていた傷病恩給も、国籍を理由に支給されないことになったという。旧軍関係者には手厚い給付金を支給する一方で、かつて「日本人」として戦うことを強いた植民地出身者はことごとく切り捨てる、これらの差別的な対応は、やはり、日本の「過誤」を認めようとしない旧軍関係者や、自らの戦争責任を回避しようとする当時の責任ある立場の人たちの考え方から出てくるのではないか、と考えざるを得ない。

「戦後補償から考える日本とアジアー日本史リブレット」内海愛子(山川出版社)から、戦後補償裁判一覧の訴訟名と判決・取り下げ欄を抜粋転記する(※印のあるものは裁判終了)。ただし、原告が日本国籍以外のものである。また、韓国や中国での裁判は除かれている。
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                          戦後補償裁判一覧 (2001年10月現在)

 1 「原爆医療法」の在韓被爆者への適用の可否を問う孫振斗手帳裁判 ※ 1978.3.30 認容
 2 台湾人元軍属軍事郵便貯金時価支払請求訴訟※ 1982.10.15 棄却
 3 千代田生命生保支払請求訴訟 ※ 1978.1.26 棄却
 4 国庫債券支払請求訴訟 ※ 1980.3.25 棄却
 5 台湾人戦時貯蓄債権支払請求訴訟 ※ 1984.7.30 認容
 6 台湾人軍票時価払い戻し請求訴訟 ※ 1982.4.27 棄却
 7 樺太残留者帰還請求事件訴訟 ※ 1989.6.15 取下げ
 8 台湾人元軍人・軍属・遺族等戦死傷補償請求訴訟 ※ 1992.4.28 棄却
 9 サハリン残留韓国人・朝鮮人補償請求訴訟 ※ 1995.7.14 取下げ
10 韓国太平洋戦争遺族会国家賠償請求訴訟 2001.3.26 棄却
11 在日韓国・朝鮮人援護法の援護を受ける地位確認訴訟(鄭商根裁判) ※ 2001.4.13 棄却
12 堤岩里事件公式謝罪・賠償義務確認請求訴訟 ※ 1999.3.26 休止満了
13 サハリン上敷香韓国人虐殺事件陳謝等請求訴訟 ※ 1996.8.7 棄却
14 日本鋼管損害賠償請求訴訟(金景錫裁判)※ 1999.4.6 和解 
15 韓国人朝鮮人BC級戦犯国家補償等請求事件訴訟※ 1999.12.20 棄却
16 アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件訴訟 2001.3.26 棄却
17 強制徴兵・徴用者に対する補償請求訴訟(韓国江原道遺族会訴訟) 1996.11.22 棄却
18 金順吉三菱造船損害賠償請求訴訟 1999.10.1 棄却
19 援護法障害年金支給拒否決定取消訴訟(在日韓国朝鮮人 陳石一・石成基裁判)※ 2001.4.5 棄却
20 浮島丸被害者国家補償請求訴訟 2001.8.23 一部認容
21 対日民間法律救助会不法行為責任存在確認等請求訴訟(日帝侵略の被害者と遺族369人の謝罪請求訴訟 
   1999.8.30 棄却
22 対不二越強制連行労働者に対する未払賃金等請求訴訟 ※ 2000.7.11 和解
23 金成寿国家賠償請求訴訟 ※ 2001.11.16 棄却
24 シベリア抑留在日韓国人国家賠償請求訴訟(李昌錫裁判)2000.2.23 棄却 2001.9.21 原告死去 
25 釜山従軍慰安婦・女子挺身隊公式謝罪請求訴訟
26 フィリピン「従軍慰安婦」国家補償 2000.12.6 棄却
27 在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求訴訟(宋神道裁判)2000.11.30 棄却
28 光州千人訴訟 1999.12.21 棄却
29 香港軍票補償請求訴訟 ※ 2001.10.16 棄却
30 在日韓国人姜富中援護法の援護を受ける地位確認訴訟 ※ 2001.4.棄却
31 人骨焼却差止住民訴訟 ※ 2000.12.19 棄却
32 オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求訴訟 2001.10.11 棄却
33 金成寿恩給請求訴訟棄却処分取消請求訴訟 1999.12.27 棄却
34 イギリス等元捕虜・民間抑留者損害賠償請求訴訟 1998.11.26 棄却
35 韓国人元BC級戦犯公式謝罪・国家補償請求訴訟 2000.5.25 棄却
36 鹿島花岡鉱山中国人強制連行等損害賠償請求訴訟 ※ 2000.11.29 和解
37 中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟一次訴訟 2001.5.29 棄却
38 中国人戦争被害者(南京・731部隊)損害賠償請求訴訟 1999.9.22 棄却
39 日本製鉄韓国人元徴用工遺族、未払い金の返還損害賠償請求訴訟 ※ 1997.9.18 和解
40 三菱広島・元徴用工被爆者未払賃金等請求訴訟(韓国)1999.3.25 棄却
41 中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟二次訴訟 
42 劉連仁強制連行・強制労働損害賠償請求訴訟(中国)2001.7.12 一部容認
43 平頂山虐殺事件損害賠償請求訴訟(中国)
44 シベリア抑留元日本兵謝罪・損害賠償請求訴訟 2000.8.31 棄却
45 日本軍毒ガス・砲弾遺棄被害訴訟(中国) 
46 韓国人元女子挺身隊公式謝罪・損害賠償請求訴訟 2000.1.27 棄却
47 731部隊細菌戦(浙江省・湖南省)国家賠償請求訴訟
48 中国人42人対国・企業損害賠償・謝罪広告請求訴訟
49 在日台湾人遺族未払教員恩給支払請求訴訟
50 中国人強制連行・強制労働損害賠償長野訴訟
51 日鉄大阪製鉄所徴用工損害賠償請求訴訟 2001.3.27 棄却
52 西松建設中国人強制連行・強制労働損害賠償請求訴訟
53 台湾出身元BC級戦犯損害賠償請求訴訟 2001.2.23 棄却
54 大江山ニッケル鉱山強制連行・強制労働損害賠償請求訴訟 2001.4.13 判決予定延期
55 在韓被爆者健康管理手当受給権者地位確認訴訟 2001.6.1 一部容認
56 中国人性暴力被害者謝罪損害賠償請求訴訟
57 三菱飛行機場労働者損害賠償請求訴訟
58 崔圭明日本生命の企業責任を問う裁判
59 在韓被爆者李康寧健康管理手当受給権者地位確認訴訟
60 台湾人元「慰安婦」損害賠償請求訴訟
61 中国人被爆者損害賠償請求訴訟
62 北海道中国人強制連行訴訟
63 李秀英南京大虐殺名誉毀損訴訟
64 韓国人徴用工供託金返還請求訴訟
65 中国人強制連行・強制労働福岡訴訟
66 中国人港湾強制労働損害賠償訴訟
67 韓国人元軍人軍属遺族靖国合祀・遺骨返還・損害賠償請求訴訟
68 中国海南島元〔慰安婦〕損害賠償請求訴訟
69 在韓被爆者李在錫健康管理手当受給権者地位確認訴訟




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