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------------川上健三の著書には?(竹島領有権問題11--------------

 川島健三は、韓国との竹島領有権論争の当初において、日本側を代表する学者であった。彼の著書「竹島の歴史地理学的研究」で、彼が竹島領有権に関わるあらゆる文献にあたっていることがよく分かる。しかしながらその内容に入る前に「竹島の歴史地理学的研究」を手にとって気になることが2つあったことに触れておきたい。
 一つは彼の経歴である。京都帝国大学文学部史学科卒、台湾で一時教職。その後、「参謀本部、大東亜省へ勤務」とある。そして、戦後、外務省条約局参事官などとして、日本の竹島領有権主張をリードしたのである。彼は先の大戦における日本軍の戦争行動をどのようにふり返り、外務省条約局参事官の仕事をしたのだろういという疑問を持ったのである。
 二つめは、その彼が同書の「はしがき」で、ノモンハンやポートモレスビー、ガダルカナルその他で、作戦参謀などとして無謀な作戦指導を強要し、多くの犠牲者を出したとされている陸軍大佐「辻正信」(当時衆議院議員)とともに、海上保安庁の巡視船「ながら」で竹島を視察したことに触れていることである。彼の立場は、竹島の領有権について研究する以前に決まっていて、都合のよい資料を使い、都合のよいように解釈したのではないかと思ったのである。
 日本の竹島領有権を主張する川島健三の主な論点の一つは、資料1に代表されるような日本人による竹島(独島)認知と、「(竹島は)本朝西海のはて也」や「隠岐の松島(現竹島)」というような表現の中にある領有意識の存在の証明である。
 二つめは資料2のような「鬱陵島=于山島」の一島説で、韓国側の主張する「古来より于山島は鬱陵島の附属島として認められてきた」という二島説の否定、すなわち、朝鮮人の竹島(独島)認知と領有意識の否定である。
 三つ目は、安龍福の備辺司に対する供述は、基本的に罪を逃れるための彼の作為に基づく虚構であるというものであるが、安龍福に関わる部分は(竹島領有権問題12)とし、後で取り上げたい。「竹島の歴史地理学的研究」川上健三(古今書院)からの抜粋である。
資料1------------------------------------------------
第1章 歴史的背景

第2節 竹島に関する知見とその経営

1 日本人の竹島認知

(1) 文献に現れた松島・竹島


 ・・・
 また、享和元年(1801年)の大社の矢田高当の著『長生竹島記』にも、次のような一節がある。この書物は、元禄年中隠州から竹島(鬱陵島)に渡海した竹島丸の水主から伝え聞いた大社仮宮漁師椿儀左衛門の話をとりまとめたものであり、当時竹島丸の鬱陵島渡航に際しては、松島(今日の竹島)を途中の寄港地として常に利用していた様子を知ることができる。これでもまた松島をもって「本朝西海のはて也」としているのである。

 されば隠岐島後より松島は方角申酉の沖に当たる卯方より吹出す風2日2夜・り 道法36丁1里として海上行程170里程の考なり 山なり嶮岨形りと云 土地の里数5里3里にあらんと云ふ 古語のことく18公の粧ひ万里に影を移し風景他に何らす 乍去如何なる故歟炎天の刻用水不自由なるとかや 竹島渡海之砌竹島丸往き通ひにはかならす此島江津掛りをなしたると云 当時も千石余の廻船夷そ松前行に不量大風に被吹出し時はこれそ聞伝ふ松島哉と遠見す 本朝西海のはて也」
 なお 文政11年(1828年)の自序のある因府江石梁編述の『竹島考』には、「松島ハ隠岐国ト竹島トノ間ニ有小嶼ナリ 其島一条ノ海水ヲ隔テテ二ツ連レリ 此瀬戸ノ長サ弐町幅五拾間程アリト云 此島ノ広サ竪八拾間横弐拾間余アリト或図ニ見エタリ 両島ノ大サハ均シキニヤ 未ソノ精証ヲ得ス」


とあって、島の描写は一層詳しくなっている。松島の2島間の狭少な水道を、長さ弐町、幅50間としているのも実際に近い。さらに、天保7年(1836年)の竹島密貿易事件の主謀者たる石州八右衛門の聴取書にも、次のように述べられている。松島におもむくのに、隠岐から北に向かって航行したようにいっているのは若干思い違いであるとしても、松島付近に達してから西寄りに航路を転じて竹島に到ったと述べているところや、望見した島の様子の描写などからみて、これは明らかに実際にこの付近を航行したものの陳述である。

 ・・・

 このように、諸文献からみて、わが国では元禄9年(1696年)の竹島渡海禁止令以前はもちろん、その後においても、松島・竹島の名称のみならず、両島に関する正しい地理的知識も相当後年に至るまで継承されていたことが知られるのである

(2) 地図に現れた松島・竹島

 略

(3)松島・竹島の経営
  
 (ロ)竹島渡海免許  このような日本人の鬱陵島開発に一時期を画することとなったのが元和4年(1618年)の竹島渡海免許である。この年、伯耆国米子町人大谷甚吉、村川市兵衛は、藩主松平新太郎を通じて幕府から竹島(鬱陵島)渡海の免許を受け、爾来連年同島に渡海して、あわびの採取、みち(あしか)の猟獲、檀木や竹の伐採等に従事し、その漁獲したあわびは串あわびとして、将軍家および幕閣に献ずる例となった

 大谷九右衛門の『竹島渡海由来記抜書控』『大谷家由緒実記』その他の大谷家文書によれば、米子で廻船業を営んでいた大谷甚吉は元和3年(1617年)越後から帰帆の途次難風に遭って竹島(鬱陵島)に漂着し、同島を踏査したところ、無人の孤島で天与の宝庫であることが判明した。
 あたかもこの年7月、それまで米子城主であった加藤左近大夫偵泰は、伊予国大州に転封となり、松平新太郎光政があらたに因幡伯耆両国をあわせ32万石を賜り、国替の際であったので、阿部四郎五郎正之が幕府からの監使として米子城に在番中であった。このため甚吉は、阿部四郎五郎に対して同人と懇意であった村川市兵衛とともに竹島の状況を上申するとともに、同島への渡海免許を賜るようその斡旋を依頼したが、その尽力によってあらたに領主となった池田新太郎光政を通じて、大谷、村川両名に対して、幕府から竹島渡海免許の奉書が下された。


 従伯耆国米子竹島江先年船相渡之由に候 然者如其今度致渡海度之段米子町人村川市兵衛大屋甚吉申上付而達上聞候之処不可有異儀之旨
被仰出候間被得其意渡海之儀可被仰付候 恐々謹言  
                                       永井信濃守
                                       井上主計守
                                       土井大炊頭
                                       酒井雅楽頭

   松平新太郎殿
 
 かくて日本人による竹島(鬱陵島)の開発は、幕府公認の下に本格化することとなるが、この竹島への渡航の道筋に当たっていたのが、当時松島の名で呼ばれていた今日の竹島で、同島が竹島往復の途次の船がかりの地として、またあしかやあわびの魚採地として利用されるようになったのは、当然のなりゆきであった。
 (ハ) 松島渡海免許 この松島に対しても、竹島の場合と同じく大谷・村川両家が幕府から渡海免許を受けたことは、先に掲げた延宝9年の大谷九右衛門勝信の請書元文5年および寛保元年の大谷九右衛門勝房の文書等からも明らかである
。……
 ・・・(以下略)     
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 川上健三は、日本人の竹島(独島)認知が正確であったことを、「隠岐州視聴合記」や松平伯耆守綱清が「竹島の所属」に関して幕府の問い合わせに答えた回答書なども取り上げて詳しく解説している。たしかに、竹島(独島)認知に関してだけを考えれば、朝鮮人よりは日本人の認知が正確であったかも知れないと思う。また、上記「長生竹島記」「本朝西海のはて也」という言葉があることや、「竹島図説」などに「隠岐の松島」と呼ばれていたことが記録されていることなども明らかにしている。しかしながらそれらをもって日本の竹島(独島)領有権の根拠にするには無理があると思われる。なぜなら、鳥取藩の幕府にたいする回答書には、「竹島は因幡伯耆の附属ではありません」という文言があり、わざわざ、「竹島松島其外両国の附属の島はない」と言い切っているのである。そして、それが幕府の渡海禁止令に至ったことを考えれば、竹島(独島)を認知していた日本人が、「本朝西海のはて也」と表現したり、「隠岐の松島」と表現したとしても、それは私的な意識を表現したものと考えざるを得ず、領有権に関わる判断では、幕府の決定が重いと考える。1837年(天保8年)の2回目の渡海禁止令には「…以来は可成たけ遠い沖乗り致さざる様乗り廻り申すべく候…」とあり、竹島渡海を禁じるのみならず、 遠い沖乗りも禁じている。これは、上記の「竹島松島其外両国の附属の島はない」から考えて、当然松島付近を含むと考えるのが自然であると思う。竹島は渡海禁止になったが、松島渡海は禁じていないと解釈することには無理があろうと思う。

 川島健三は、大谷・村川両家の渡海免許が
 「幕府から官許を得たというよりは、むしろ公務として命ぜられたというべきものであった。鳥取藩としては、その経営には直接参加しておらず、したがって、両人の参府拝謁のことも、藩を経由せずに寺社奉行の手を経て行われていた。
……
 
・・・
 この故に鳥取藩としては、竹島については次のように述べて、それが同藩の所属でないとしているのも、けだし当然であった。
……
と、いかにも苦しい説明をしている。また、「(2)地図に現れた松島・竹島」では、いくつかの地図をもとに、日本人の竹島(独島)認知が正確であったことを印象づけているが、鬱陵島と竹島(独島)を朝鮮領土に色づけした地図は問題にしていない。
資料2-------------------------------------------------
2 朝鮮側古文献にみる今日の竹島

 ・・・
 以上通覧してきたように、鬱陵島は李太祖の時代までは、芋陵、羽陵、蔚陵、武陵等種々に呼ばれていたが、その使用の文字のいかんにかかわらず、もっぱら一島名として伝えられ、その国名としては、「于山」として知られていた。しかし太宗時代になってそれが島名に転用されて、于山島なる呼称が行われるようになるとともに、于山武陵(茂陵)と重ねて呼ばれることになった。この場合于山の漢字音が武陵、茂陵、鬱陵等のそれと異なっていたところからそれが地理的知識の欠乏と相俟ち、やがて『世宗実録地理史』にあるような2島説を生むことになったものと思われる。

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 これを要するに、前掲の崔南善氏の論文にもあるとおり、鬱陵島については「最初は、国名として于山、島名として欝陵が『三国史記』に載録されただけであったところが、降って高麗時代に至り、同一の原語に対する異形の対字と雅称とが種々に使用され、武陵、羽陵、陵、・陵、蔚陵等の別名があるようになった。」のである。一方国名として呼ばれていた于山も、李朝太宗時代に至って島名に転用されるようになり、ここに2島説が生まれる素地を作ることとなったのである。

 ・・・

 なお最後に『新増東国輿地勝覧』中に載せられている「八道総図」や「江原道の図」について一言するに、これらの地図には、于山・鬱陵両島がえがかれている。しかし、両島の大きさはほぼ同じで、しかも、于山島が鬱陵島よりも朝鮮半島寄りに位置しており、実際の位置関係とは逆になっている。このことは、地理的知識に最も具体的に表現している地図をみても、当時の于山・鬱陵二島説がまったくの観念的なもので、なんら実際の知識に基づいたものでないことを端的に示しているものといえよう。さらに、これより時代が降って哲宗12年(1861年)には、朝鮮人自身の手に成る代表的な地図として知られる金正浩の「大東輿地図」が刊行されたが、この最も権威ある朝鮮地図などには、鬱陵島のみがえがかれていて、竹島に当たる島名の記載はない。
 ・・・(以下略)
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 川上健三は、上記のように1島2名説をとり、朝鮮人は竹島(独島)を認知していなかったとしている。確かに「竹島の歴史地理学的研究」を読むと、様々な混乱や間違いがあったことが分かる。しかし、鬱陵島と竹島(独島)の2島説のすべてが間違いであり、竹島(独島)は認知されていなかったとすることもまた無理と言わざるを得ない。
 韓国側は、『世宗実録』に「于山及び武陵の両島は、本県の正東方向の海中にあり、かつ、両島の距離は距たること遠くなく、故に晴天には互いに望見し得る」とあり、『新増東国輿地勝覧』に「于山島及び鬱陵島……この両島は本郡の正東方の海中に位置する……」とあることなどを根拠に、竹島(独島)は鬱陵島の附属島として認知されていたと主張しているが、川上健三のこの部分に関する反論もまた極めて苦しいものである。
 難しい計算式をもとに、竹島(独島)から鬱陵島は見えるが、鬱陵島から竹島(独島)は見えないというのである。そして、計算式に基づけば、竹島(独島)を島として認め得るのは、鬱陵島(最高部聖人峰985メートル)で200メートル以上のぼる必要があるが、かつて鬱陵島は密林におおわれ、高所にのぼることが困難であった上に、視界がひらけていたかどうかも疑わしいというのである。『世宗実録』「于山及び武陵の両島は、本県の正東方向の海中にあり、かつ、両島の距離は距たること遠くなく、故に晴天には互いに望見し得る」を否定するには、あまりにもその根拠が薄弱である。「竹島(独島)を見るのには困難があったから、見ていないはずである」という憶測で2島説を否定できるものかどうか…、と思う。また、「……鬱陵島を基地として竹島に行く場合は、隠岐から竹島に行くよりも40マイル近いが、朝鮮本土で最も近い蔚珍附近から竹島に直航するとなれば、隠岐よりも約30マイル遠いことになる。この場合、実際に航行するには、航行技術が幼稚な時代にあっては、その距離の遠近だけでなく、特に目標物がみえるかどうかが重大な関係がある。」という説明にも引っかかるものがある。朝鮮本土からと比較するなら、隠岐島からではなく、日本本土からでなくてはならないはずである。「純然たる歴史地理学的立場から書いた」ことを完全否定するものではないが、結論が先にあったことが疑われる論理であり、社会科学的研究とは言い難い面があると思う。


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川島健三「安竜福 供述虚言・虚構論」(竹島領有権問題12)---------

竹島領有権論争において、江戸時代に2度来日した「安竜福(アンヨンボク)」(川上健三の著に従い竜の字を使う)の供述が重要であることは誰しも認めるところである。日本の竹島領有権の主張をリードした川上健三は、安竜福の供述の主要部分が虚言であり虚構であると「竹島の歴史地理学的研究」の中で繰り返し書いている(資料1)。しかしながら、川上健三の虚言説を根底から揺るがす重要文書、「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が、2005年5月16日に島根県隠岐郡海士町村上助九郎邸宅で発見された。それには

「一 安龍福申候ハ 竹嶋ヲ竹ノ嶋と申 朝鮮国江原道東莱府ノ内ニ欝陵嶋と申嶋御座候 是ヲ竹ノ嶋と申由申候 則八道ノ図ニ
   記之所持仕候
 一 松嶋ハ右同道之内 子山と申嶋御座候 是ヲ松嶋と申由 是も八道之図ニ記申候」
                                                 
(http://www.viswiki.com/ja/村上家古文書) 

と記録されていたのである。安竜福の供述の疑問点がすべて判明したわけではないし、確かに官名を詐称し虚勢を張ることがあったようであるが、韓国側が主張する安竜福の供述の最も重要な部分が、日本側の記録によって裏付けられることとなった。彼は、「朝鮮之八道図」を持参し、鬱陵島だけではなく、「子山」(安竜福のいう子山は独島・現竹島のことであり、当時の日本人は松島と呼んだ)の領有権も主張していたのである。
 また、川上健三が安竜福の虚言のなかで、「そのうちでも最も決定的、かつ、明白な虚言は、彼が僧雷憲等を語らって鬱陵島におもむいたところ、同島には『倭船亦多来泊』と述べている点である。しかしこの年元禄9年(1696年)には、大谷・村川両家は、いずれも鬱陵島には渡航していないのである。」と言っている部分についても、そうではないことが、この文書からわかるという(資料2)。
 安竜福の来日の時点では、未だ渡海禁止令は伝達されていなかったというのである。資料2は「史的検証 竹島 独島」内藤正中・金柄烈(岩波 書店)から抜粋の抜粋であるが、他は「竹島の歴史地理学的研究」川上健三(古今書院)からの抜粋である。  
資料1-------------------------------------------------
第3節 竹島一件

2 鬱陵島の所属をめぐる日鮮交渉

 鬱陵島が完全な空島と化し、朝鮮国政府によって事実上放棄されるや、同島への日本人の出漁はようやく繁きを加え、文禄役後約百年にわたって日本人の完全な魚採地と化すようになった。これに伴い、江戸時代初期以来同島の所属をめぐって日鮮両国の間で交渉が行われることとなった。その交渉の時期は必ずしも明らかでないが、慶長9年(光海君6年=1614年)7月、朝鮮国東萊府使尹守謙はわが対州藩主宗対馬守義智に書を致し、さきに宗氏が磯竹島の日本領有を主張したことに反駁して、次の通り主張した。


 ・・・

 すなわち、尹はその書において、磯竹島は来使のいうところによれば、慶尚江原両道の洋中に在るとのことであるが、それはわが国のいわゆる鬱陵島であり、載せてわが輿図にあると断ずるとともに、日鮮両国は古くからその境界には区別があり、往来あるときはただ一路をもって門戸としており、そのほかはみな海賊をもって論断すべきを警告するところがあった。
 しかし、宗氏は磯竹島が碇泊に便なることを述べて、重ねてその開放を求めた。これに対して同年9月、尹守謙に代わった新任の東萊府使朴慶業は、重ねて前府使の主張をくり返すとともに、前日の書この大概をつくしているにもかかわらず、またその船を泊し纜をとくの便をもって重ねて鬱陵島の開放を求めるは、わが朝廷をかろんじ、道理に眛いといわざるをえない、との相当強い語調をもってこれを反駁
した。
 しかしながら、この時の交渉は、この応酬以上には発展することなくして終わった模様である。
……
 その後80年近くは、別に朝鮮との間に問題を生ずることなく、大谷・村川両家による竹島(鬱陵島)出漁が平穏のうちに続けられていたところ、元禄5年(粛宗18年=1692年)に至って、同年渡海の順番に当たっていた村川の者は、多数の朝鮮人が鬱陵島に出漁しているのに遭遇した。……

 ・・・

 右の顛末は直ちに藩庁に報告されたが、藩丁はまた事の重大なるを慮ってこれを幕府に報告し、その指示を仰いだ。しかし、この度は特に日鮮間に問題をひき起こしたわけではなく、幕府としては、朝鮮人も船の修理ができ次第鬱陵島より早々に退去したものと判断し、取り立ててこれを問題とはしないことに決した。

 ・・・

 さて、翌元禄6年(1693年)には、前年の村川家に代わり大谷の手代等が、3月17日に鬱陵島に渡航したところ、すでに多数の朝鮮人が来島して魚猟に従事しているのを発見した。大谷家の漁夫たちは、そのままに捨ておくときは、ついにこの所務の地を彼等によって奪われることをおそれて、漁猟をせずに専らその動静を探り、安龍福、朴於屯の両名を質としてとらえ、18日に鬱陵島を退去、4月27日には米子に帰着した。

 ・・・

 米子の家老荒尾修理より報告に接した藩丁は、とりあえず事の趣を江戸に報じてその指示を仰ぐとともに、その指示あるまで安龍福等2名の朝鮮人は米子の大谷九右衛門勝房方にとどめ、大和組のうちより作廻人を申し付け、足軽両名を附添わせて警固に当たらせた。

 ・・・

 5月29日に至り、江戸より飛脚が到着、両名を長崎に護送するように指示があったので、陸路これを送る手筈を定め、5月29日に米子を発足、6月1日には鳥府に到着した。同日米子城主荒尾大和の別宅に一泊、翌日からは本町二丁目の会所に移された。次いで6月7日、山田兵衛門、平井甚右衛門を護送役として鳥府を出発、6月30日に長崎に到着し、翌7月1日には無事長崎奉行所に両名を引き渡した。
 長崎奉行所に引き渡された安龍福および朴於屯の両名は、対馬藩留守居役浜田源兵衛に預けられ、同地で取調を受けた後、8月14日対馬よりの使者一宮助左衛門に引き渡され、9月3日対州に到着、府中「御使者屋}に宿泊した。続いて、以下述べる竹島一件の交渉の使者正官多田与左衛門の一行に帯同されて釜山着朝鮮側に引き渡された。
 
(2) 元禄6年以降の交渉

 今回の事件について、幕府は安龍福、朴於屯の両名を、朝鮮に送還するとともに、自今朝鮮漁民の竹島(鬱陵島)渡海禁制を朝鮮政府に要求することとし、対馬藩主宗義倫に対してその交渉を命じた。宗氏はこの命を領し、多田与左衛門を正使として釜山に派してその交渉を開始せしめた。


 ・・・

 すなわち、前年来朝鮮漁民は日本側の制止を聞かずに竹島に入漁したので、そのうち2名を捕らえて一時の証としたことを告げ、今後は朝鮮政府においてこれを制禁にすべきことを求めた。
 この宗氏の書契に述べられている竹島が鬱陵島を指していることは明白であったが、朝鮮側は、議政府左議政睦来善、右議政閔黯黯の意見に基づき、鬱陵島はもと朝鮮の版図ではあるが、事実上放棄されている現状であり、かかる空島の問題で日本と隙を生ずることは長計ではないとして、日本領たる竹島には出漁を禁ずる旨の返書を発することに決した。


 ・・・

 すなわち、この書契では、一応竹島と鬱陵島とを区別して、漁民の「貴界竹島」に入るのを禁ぜんといい、表面上は宗氏の要求を容れたようであるが、他方「敝境之鬱陵島」と雖もまた遼遠の故を以て任意性を許さず、況んや其外をや、との一句で鬱陵島が朝鮮領土であることを暗示し、あたかも日本領竹島と朝鮮領鬱陵島とが別にあるかのごとくに故意にみせかける苦肉の策をとったのである。
 多田与左衛門は、これを不満として強硬にその刪改を求めたが、朝鮮側はこれに応ぜず、交渉は蔚4ヶ月に及び、ついに解決をみないままに与左衛門は帰国した。


 ・・・(以下略) 

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3 安竜福問題

(1) 安竜福の因伯渡航

 しかるに、多田与左衛門に伴われて元禄6年(1693年)に朝鮮に送還された安竜福は、同9年(1696年)初夏に至り、母を省せんがため蔚山におもむき、たまたま行き逢った僧雷憲等に頃年往来した鬱陵島の海産豊富なことを告げて、彼等を誘って同島に渡り、次いで隠岐を経由して伯耆国に渡来した。
 『因府年表』、『御在府日記』、『竹島紀事』等の日本側資料によれば、安竜福等の一行は、この年5月20日隠岐国に突如現れた。代官後藤角右衛門は、その手代中瀬弾右衛門、山本清右衛門等をして渡来の仔細を尋ねしめたところ、この度朝鮮の船32隻が竹島に渡海し、そのうちの1隻が伯耆国に訴訟のため渡来したとのことであった。


 ・・・

 安竜福等の因幡渡来の報を受けた対馬藩は、通詞派遣の命によって、鈴木権平、阿比留惣兵衛、通詞諸岡助左衛門等を因幡に派遣することとしたが、宗氏としては、他方この年の1月に、幕府の方針として竹島渡海禁止を決定したことについて朝鮮側にまだ通告していないことが憂慮された。すなわち、朝鮮側でこの竹島渡海禁止を安竜福の訴訟の結果、幕府が聴許したとみなすことともなれば、将来重大な禍根を残すこととなるのはもちろん、日鮮間の交渉は一切対馬を経由して行うとの従来のしきたりを破ることとなるおそれももあった。このため、宗義真は急使賀嶋権八を江戸に派して、大久保加賀守、阿部豊後守に対して対馬の立場を説明するとともに、意見を具申するところがあった。ここにおいて幕閣では評議の結果、朝鮮人を長崎に回送せしめ、その訴えるところを調査せしめようとしていた当初の方針を改めて、直ちに帰国せしめることに決し、この旨を7月24日付をもって、松平伯耆守に通達した。

・・・

 かくて安竜福の一行は8月29日に帰鮮し、江原道襄陽県に到着しとらえられた。江原道監司の報告に接した政府は、事、辺情に関するのみならず、またみだりに日本に渡海したというので京獄に拿致し、備辺司において事情を査問せしめた。……

(2) 安竜福の供述に関する検討

 さて、韓国政府は、前掲の『粛宗実録』および『増補文献備考』の安竜福の言動に関する記事を引用して、彼は「朝鮮の版図の不可分の一部である鬱陵島及び独島(今日の竹島)の水域を日本国民が侵犯しないように護った。」と称し、また、「前記の一連の事件の後当時の日本政府は、古来から于山国の領土として韓国に属していた鬱陵島及び于山島(日本人は松島と呼んでいる。)に対する韓国の領有権を固く確認した」と断じているのである

 しかしながら、その論拠となっている備辺司の取調べに対する安竜福の供述について検討するに、はなはだしく虚構と誇張に満ちている。そのうちでも最も決定的、かつ、明白な虚言は、彼が僧雷憲等を語らって鬱陵島におもむいたところ、同島には「倭船亦多来泊」と述べている点である。しかしこの年元禄9年(1696年)には、大谷・村川両家は、いずれも鬱陵島には渡航していないのである。

 ・・・

 さらに元禄9年(1696年)には、正月28日付奉書をもって竹島(鬱陵島)渡海禁制が在府中の松平伯耆守に達せられ、大谷・村川両家はもとより、他の漁民竹島には全然出漁していない。


 ・・・

 一体、安竜福としては、彼の鬱陵島渡航がそれ程重大問題となることは予想もしていなかったが、彼の送還を契機として対馬藩と朝鮮政府との間に竹島(鬱陵島)の領有をめぐって交渉が開始され、当時の朝鮮政府としてその処理に苦悩していることを帰国後初めて知ったわけである。ここにおいて彼は、さきの元禄6年の来日の際の知見や今次の体験等真偽をおりまぜて、自己の再渡航の非をつくろうとともに、政府に迎合するような作為をした供述を行ったのである。……
 次に彼はその供述の中で、鬱陵島から玉岐島(隠岐島)を経由して因州に渡航した旨述べているが、これについては、わが方のの記録とも一致している。しかしながら、続いて彼は、隠岐島主に対して先年入来の節、鬱陵于山等島をもって朝鮮地界と定め、それについて関白の書契を受けたにもかかわらず、さらにまたわが境を侵犯したことについて難詰した、と陳述しているのは、なんら根拠のあるものではない。

 ・・・

 その関白書契自体が安竜福の作為である以上、彼が鳥府において島主(伯耆太守)と庁上に対座して島主の問に答えて、さきの関白書契を先年来日の際に対馬の島主によって奪取されたので、今回対馬の罪状を関白に上疏しようとするものであると述べたところ、島主(伯耆太守)はこれを許したが、対馬島主の父が懇請したので目的を達することができなかった、しかし日本側は、さきに朝鮮の国境を犯した日本人15名を処罰した、と供述していることは、すべて虚構であることは明白である。

 ・・・(以下略)

 なお韓国政府は、「この朝鮮人は、朝鮮の版図の不可分の一部である鬱陵島及び独島の水域を日本国民が侵犯しないように護ったものである」と主張して、あたかも元禄9年の安竜福の来日によって幕府が日本人の竹島(鬱陵島)渡海禁止を決定したかのごとくに述べているが、一行の来日の5ヶ月も以前にすでにその措置がとられていたことは、さきに指摘したとおりである。 

 ・・・

 以上検討してきたとおり、安竜福の備辺司に対する供述のうちで、彼が鬱陵島から隠岐を経由して因伯に渡航したこと、および加路から鳥取に行く際に轎に乗り、その他のものが馬に乗ったことだけは日本側の記録と一致しているが、他はいずれも彼の作為にかかる全くの虚言にすぎないことが了解される。
 ・・・(以下略)
資料2-------------------------------------------------
第2部 独島の歴史

3 安龍福のための解明

2 元禄9年の調査記録(「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」のことである)で確認された内容


 また、この文書は、1969年の鬱陵島における安龍福(「史的検証 竹島 独島」は龍の字をつかっている)らと日本人漁夫の遭遇の真偽についても明らかにしてくれる。1696年1月28日付で鬱陵島への渡海が禁止された。その日から日本人は鬱陵島に渡海していない、それなのに安龍福は鬱陵島で日本の漁夫に会い、彼等を懲らしめたという、だから安龍福の話は全くの虚構だ、というのが日本の学者の主張である。しかしこの文書はよく見てみると、それが妥当性を欠いた主張であることがわかる。幕府の奉書は確かに1月28日付のものだが、禁止令が鳥取藩に伝達され、大谷・村川両人が請書を提出したのは8月1日であった。したがって、禁止令のために、1696年には日本人は一人も鬱陵島に渡海していなかったとする説は成立しないのである。当然に安龍福らが隠岐に来た5月には、そうした禁止令がだされていることは代官役人は誰も知っていなかったのである。もし隠岐島にも渡海禁止を知らせる奉書が伝達されていたら、取調べの報告書に「安龍福らが竹島と松島を朝鮮の地だと言っています。それで、これらの島はすでに1月28日付の奉書をもって渡海が禁止されていたので、そのような事実を教えてやりました云々」といったくらいの記述が入るのが自然ではなかったろうか。
 ・・・(以下略)
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 資料2について付け加えるならば、もし、安龍福の言うとおり日本人が鬱陵島に渡航していたら、渡海禁止令に違反していることになり、渡海した者は処罰の対象となる。しかしながら、安龍福の証言にかかわらず、取り調べ後も安龍福が鬱両島で遭遇したという日本人漁夫の処罰のことが問題にされた様子はない。したがって、安龍福が自ら来日した時点では、代官役人はもちろん、大谷・村川両家も渡海禁止について知らされておらず、出漁をくり返していたと考えるのが自然であろうと思う。「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」の発見は、安龍福の証言が虚言でないことを裏付けるものになったようである。


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韓国中学校教科書の竹島(独島)記述(竹島領有権問題13)---------

 下記は、国立公文書館内閣文庫所蔵「外務省記録」「竹島考證」の末尾に「参考史料」として取り上げられている「韓国の学校でどのよ うに教えているか、実際の韓国教科書で独島(竹島)の記述部分を翻訳して掲載した。参考にして頂ければ幸いである」とあるページの転載である。
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独島と間島

 日本は、わが国を侵略する際、独島を強奪し、間島を清に渡した。
 その後、粛宗の時に鬱陵島へ行った安龍福は不法に侵犯した日本漁師を退け、日本に渡ってわが国の領土であることを確認させたこともあった。
 しかし、日本の漁民は密かに鬱陵島の木材を伐採したり魚をとったりするなど、ここを頻繁に侵犯した。そこで鬱陵島の巡察に当たったわが国の官吏たちはこうした事実を知り、朝鮮政府は日本に抗議した。その後、政府は鬱陵島への移住を奨励し、官庁を置いて独島も管轄した。しかし、日本は日露戦争の時、強制的に独島を日本の領土へ編入してしまった。
 その後、日本は満州の侵略のため南満州鉄道に対する利権と交換する条件で、間島を清に渡す間島条約を締結した(1909)。

参考教科書
国史 中学校 下
1990年3月1日、初版発行1993年3月1日発売。
著作権者・教育部。
編纂者・国史編纂委員会、1種図書研究開発委員会。
発行人・ソウル特別市瑞草区草洞1361-5
大韓教科書株式会社、印刷所・大韓教科書株式会社

【注】日本名竹島。島根県に属する。江戸時代以来の係争地。1905年1月28日、日本政府は閣議決定により「本邦所属」とし、島根県は同年2月22日告示第40号によりこの島を竹島とした。


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大熊良一「竹島史稿」は?(竹島領有権問題14)-------------

 大熊良一の「竹島史稿」(原書房)は、日本の文献だけではなく、多くの朝鮮古書に当たり、竹島問題に関わる部分を取り上げ紹介している(下記はその一部)。その分析は比較的客観的であり、学ぶことが多い。しかしながら、彼もまた川上健三同様、元禄9年(1696年)1月28日の渡海禁止令によって、大谷・村川両家はもちろん、日本人は誰も鬱陵島には渡航していないにもかかわらず、安龍福は欝両島で多くの日本人に遭遇し、越境侵犯に抗議したと述べていることから、安竜福の供述の主要部分が虚言あると判断ている。その判断を覆すともいえる事実が、次の2つである。

 その1つは、安竜福が欝両島で多くの日本人に遭遇したという時点では、未だ大谷・村川両家に渡海禁止令は伝達されていなかった。「史的検証 竹島・独島」内藤正中・金柄烈(岩波書店)によると、両家に渡海禁止が達せられたのは1696年8月1日であり(鳥取藩『御用人日記』)、安龍福が日本人に遭遇する可能性は否定できないというのである(朝鮮側への通知はさらに遅れて、1696年10月16日だという)。したがって、安龍福の供述に虚言が含まれているとしても、全てを否定することはできないのである。

 もうひとつは、2005年5月16日に島根県隠岐郡海士町村上助九郎邸宅で「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が発見され、そこに、安龍福が鬱陵島のみならず竹島の領有権も主張していたことが書き留められていたという事実である。日本側役人の取り調べ記録に、「安龍福が申すには」ということで、竹島(欝両島)はもちろん松島(現竹島)も朝鮮国江原道に属すと供述したことが記録されていたのである。

 安龍福の供述の主要部分が虚言でないとすると、大熊良一の竹島論も根本的見直しが必要になる。
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                                      第2章

 朝鮮古書にある鬱陵島と”磯竹島”


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 しかし、ここで注目しなければならないのことは、この「東国輿地勝覧」(トングッヨジスンラン)にもでてくる李氏朝鮮国の世宗(1419年~1450年)の時代の官撰の実録が、王の孫にあたる端宗の2年(1454年)3月に完成し、この実録のうちに地理志8巻8冊が上梓されていることである。この「世宗実録地理志」は当時の15世紀中葉の朝鮮八道の地理歴史のみでなく行政・社会・財政・経済・軍事・産業・交通にまで広くわたって述べており極めて重要な文献であるということだ。この世宗実録(セジョンシルロク)のうちにおいて再び江原道、三陟都護府管轄下の蔚珍県の記録のうちに欝陵島の記事を見出すのである。その記録はさきの「東国輿地勝覧」(1481年撰)と同じ記録であり、この「世宗実録」との関連があるものと考えられる。この「世宗実録」は「東国輿地勝覧」に先立つこと27年前に上梓されているが、宮廷の納庫本とされ、巷間においては、たやすく繙読はできなかったもののようである。ここに、この実録のうちの欝陵島にかんする記録を次に示すこととする。

 于山・武陵ノ二島ハ県ノ正東ノ海中ニ在リ。二島ハ相去ルコト遠カラズ。風日清明ナレバ則チ望見ス可シ。新羅ノ時于山国ト称ス。一ニ云フ欝陵島ト。地方百里、険ヲ恃(たの)ミテ服セズ。智証王12年(511年……注)異斯夫(「三国史記」の列伝にでている……注)何瑟羅州ノ軍主トナル。謂ヘラク。于山ハ愚悍ナリ。威ヲ以テ来ラシムコト難シ。計ヲ以ッテ服スベシト。乃チ、多ク木ヲ以ツテ猛獣ヲ造リ、分チテ戦船ニ載ス。其ノ国ニ抵(いた)リ之ヲ誑(たぶら)カシテ曰ク、汝若シ服セズンバ、則チ即(ただち)に此獣を放ツベシト。国人懼レ来リテ降ル。高麗太宗13年(930年……注)其ノ島人白吉・土豆ヲ使(シ)テ方物ヲ献ゼシム。毅宗13年(1159年……注)金柔立等ヲシテ審察セシメ回(かえ)リ来リテ島中ニ泰山有ルヲ告グ。山頂ヨリ東ニ向ツテ行ケバ海ニ至ル一万余歩、西ニ向ツテ行クコト1万3千歩、南ニ向ツテ行クコト1万5千余歩、北ニ向ツテ行クコト8千余歩ナリ。村落ノ基址7カ所有リ。或ハ石仏像・鉄鐘・石塔有リ。多ク柴胡・蒿木・石南草ヲ生ズ。我太祖ノ時流民逃(のが)レテ其ノ島ニ入ル者甚ダ多シト聞ク。再ビ三陟ノ人金麟雨ニ命ジテ按撫使ト為シ、刷出シテ其地ヲ空クス。麟雨言(もう)ス。土地沃饒ニシテ竹大ナルコト柱(ママ、杠)ノ如ク、鼠大ナルコト猫ノ如ク、挑核升(ます)ヨリモ大ナリ。凡物是ニ称(かな)フト。


 以上朝鮮史書古文献として、「世宗実録地理志」をかかげたが、さらに他の朝鮮の古文献としては17世紀はじめに出版された李睟文の「芝峯類説」(ジボンユソル)(万暦42年=1614年)にも、その第2地理部の項において欝陵島と三峯島の記事がある。そのうちの三峯島が如何なる島であるか、一説にはこれをこんにちの竹島(むかしの松島、リアンクール岩礁)に擬するものがあるが、はたしてどんなものであろうか。三峯島は、じつは、まぼろしの島で欝陵島に他ならないのではないかと推測される。この推論についてはさらに後述することとするが、この「芝峯類説」の記事をつぎに掲げることとしよう。

 欝陵島、一名武陵一名羽陵ナリ。東海中ニ在リ。蔚珍県ト相ヒ対ス。島中ニ大山有リ。地方百里、風アレバ便チ二日ニシテ到ルベシ。新羅ノ智証王ノ時于山国ト号ス。新羅ニ降ツテ土貢ヲ納ム。高麗ノ太祖ノ時、島人方物ヲ献ズ。我ガ太宗ノ朝、按撫使ヲ遣ハシ流民ヲ刷出シテソノ地ヲ空クス。地沃饒ニシテ、竹大ナルコト杠(帆ばしら)ノ如ク、鼠大ナルコト猫ノ如シ。桃核升ヨリ大ナリト云フ。壬辰ノ変ノ後、人往キテ見ル者有リ。亦倭ニ焚掠サレテ復(マタ)人煙無シ。近ク聞ク倭奴磯竹島ヲ占拠スト。或ハ謂フ磯竹ハ即チ欝陵島ナリト。
 三峯島モ亦東海中ニ在リ。成廟(宗ママ)ノ朝、人コレヲ告グル者有リ。朴元宗ヲ遣シテ往キテ探ラシム。風濤ニ因リテ泊ルヲ得ズ。還リテ欝陵島ヲ過グルト云フ。山海経ニ謂フ所ノ蓬萊山ハ溟海ニ有リ。風無クシテ洪波百丈ナリ。惟飛仙ノミ能ク到ル者ナリ。盖シ東北ノ海、風濤甚ダ険ナルヲ以テ故ニ云フ。

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下條正男竹島論の疑問点(竹島領有権問題15--------------

 何か新しい指摘があるかと思い、「竹島は日韓どちらのものか」下條正男(文藝春秋)を読んだ。しかしながら特に目新しい指摘はなく、むしろ、いくつかとても引っかかる部分があった。下條正男竹島論は、歴史的事実や関係する文献を総合的かつ客観的に分析するのではなく、むしろ日本の領有権主張の筋書き作りのために取捨選択し、都合よく解釈しながら記述されているという印象を受けたのである。引っかかった部分をいくつか指摘したい。
その1(p16)----------------------------------------------
                      第1章 ことの発端 17世紀末の領土紛争

1 竹島問題はこうして始まった

 無人島だった竹島は、近代以前は日朝間で領有権問題が持ち上がったことはなかったが、20世紀初めに日本人が海驢(あしか)猟の基地として使い始めてから利用価値が認められ、日本政府は1905年(明治38年)1月28日、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」のないことを確認の上、閣議決定で日本領とし、同年2月22日、島根県知事の松永武吉は「島根県告示第40号」を公示して、島根県に編入した。
 これに対しその翌年5月、朝鮮側では竹島の日本領編入が問題になった。編入が侵略行為と映ったのである。朝鮮半島が日本の保護国となる4年ほど前のことである。

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 ここでは、「近代以前は日朝間で領有権問題が持ち上がったことはなかったが……」の部分である。「近代以前」というのがいつからなのかはっきりしないが、少なくても1905年以前にも、問題になっていたと考えるべきだと思う。鬱陵島と竹島を完全に切り離し、竹島(独島)を鬱陵島の属島としてとらえるとらえ方を完全に無視することによって、安龍福の主張などはなかったことにすれば、「問題が持ち上がったことはなかった」ということになるかも知れないが、日本は、竹島(磯竹島・現鬱両島)の領有権を主張し、朝鮮人の渡海を禁ずるように要求もしているのである。

 また、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」のないことを確認の上で編入したというのであるが、竹島は「日本海に浮かぶ絶海の孤島」「古来、人間の定住を拒み続けてきた島」であるといっておきながら、何を確認したというのであろうか。なぜ、編入前に隣国である韓国に通知し確認しなかったのか。鬱陵島での日本人の条約違反に対応するために発せられ、竹島編入前に韓国官報に掲載された1900年10月25日の大韓帝国勅令第41号の石島(韓国は現独島であるという)が独島(竹島)であるのかどうかの確認を、なぜしなかったのであろうか。さらに言えば、領土編入を隣国である韓国政府に文書で通知しなかったばかりでなく、なぜ島根県告示第40号というかたちで公にしたのか(このような重要な領土問題の決定が、日本の官報に掲載されず、秘密裏に近い状態で編入されたことが、国際法的に問題がないといえるのだろうか)。
 「……確認の上、閣議決定で日本領とし、……」の確認が、確認になっていないのではないか。隣国との確認・調整のない無主地編入がそのまま認められるものなのかどうか疑問だと思うのである。「……確認の上、閣議決定で日本領とし、……」では、韓国人はもちろん領有権について、客観的に判断しようとする良心的な日本人は、納得できないのではないかと思うのである。
その2(p17)----------------------------------------------
 1946年1月29日、GHQ(連合国軍総司令部)の暫定的措置(訓令第677号)で、「日本から除外される地域」に指定されていた竹島は、朝鮮領の範囲を規定した1951年調印の「サンフランシスコ講和条約」の第2条(a)項では、朝鮮領から除外され日本領になっていた。
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 日本領になる経緯については、同書では第4章で触れているが、サンフランシスコ講和条約の第1次から第5次草案までは、竹島は日本が放棄するものとされていた。ところが、日本の外務省の、米国務省駐日政治顧問・連合軍最高司令部外交局長シーボルトへの要請や情報提供(それまでの日韓の論争や経緯を無視したものであったようである)によって、草案の書き換えが行われ、第6次草案で竹島が日本領に入れられたという事実にもここで触れる必要があると思われる。
その3(p20)----------------------------------------------
 一方、日本政府が竹島の領有権を主張した根拠はどこにあったのか。
 それは、安龍福の証言よりも30年ほど前に成立した、出雲藩藩士の斎藤豊仙が、藩命によって著した『隠州視聴合記』(1667年序)である。その「国代記」で斎藤豊仙は、松島(現在の竹島)と鬱陵島を日本の「西北限」の領土として明記している。
 これを根拠に明治政府は1905(明治38)年、それまで松島と呼ばれていた無人島を「竹島」と命名し、島根県に編入したのである。17世紀以降、日本側では竹島をわが国の領土として認識していたことは明らかである。

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 とのことである。しかしながら、これは下條正男竹島論のきわめて問題ある部分で、「史的検証 竹島・独島」の中で内藤教授が書いているように、斎藤豊仙の『隠州視聴合記』には下記のようにあり、「此の州」に関して「鬱陵島」を示すのか「隠岐島」を示すのか意見が分かれているのである。(「此の州」に関しては、『近代日本の国際秩序と朝鮮観 大君外交と「武威」』池内敏(名古屋大学出版会)に、反論の余地がないと思われるほど総合的かつ客観的な分析があるので、別途抜粋をしたい。)

 「隠州は北海の海中にあるので隠岐島という。これより南は雲州美穂関までは35里、東南は伯州赤崎浦まで40里、西南は石州温泉津まで58里、北から東は住むべき地がない。西北に1泊2日行くと松島がある。また1日ほどで竹島がある。(俗に磯竹島という。竹や魚、海驢が多い。案ずるに神話にいうところの五十猛から来ている)。この2島は無人の地である。高麗をみるに雲州より隠州を望むごとくである。しからば即ち日本の西北(乾地)は此の州をもって限りとなす。」

 この文章は、鬱陵島から高麗(朝鮮半島)を見ることが、雲州(出雲の国)から隠州(隠岐島)を望むことと同じである、という比較に読める。その比較の延長で「しからば即ち日本の西北(乾地)は此の州をもって限りとなす」を読めば、「此の州」は、隠岐島を示すと考えられる。少なくとも「斎藤豊仙は、松島(現在の竹島)と鬱陵島を日本の「西北限」の領土として明記している」と断言できるような文章ではないのである。隠州を基点に記述している内容や「此の島」ではなく、「此の州」という言葉を使っていることも考え合わせると、むしろ逆であるといえる、「鬱陵島を日本の領土として明記している」とは、とても断言できそうにないのである。
その4(p74)----------------------------------------------
                      第2章 舞台は朝鮮に──誤解の始まり

 4 安龍福の驚くべき証言

 この証言のうち、安龍福が「鬱陵于山両島監税を僭称」したことと、「安龍福が駕籠に乗り、他の者が馬で鳥取の城下」に入ったこと以外は、すべて偽りである。安龍福が鳥取藩に密航する4ヶ月ほど前1696(元禄9)年1月28日、すでに幕府は鬱陵島への渡海を禁じており、鬱陵島で鳥取藩の漁民たちと遭遇することは不可能である。また、禁を犯して出漁した漁民たちが処罰されたと、いう事実もない。
 ・・・
 事実、安龍福は、「舟を曳いて入った」とする于山島の描写でも、馬脚を現している。于山島では「釜を列ねて魚膏を煮ていた」と供述しているが、大谷家と村川家が海驢(あしか)から膏を採取していたのは鬱陵島である。岩礁にすぎない松島には、燃料となる薪がなく、釜を並べて魚膏を煮ることができる場所や、舟を曳いて進める浜辺もない。于山島に渡ったこともなく、松島もしらないままで安龍福は「松島は于山島だ。これもわが朝鮮の地だ」と証言していたのである。

 ・・・
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 「安龍福」の偽証説は、下條竹島論の根幹をなす部分である。先ず、「1696(元禄9)年1月28日、すでに幕府は鬱陵島への渡海を禁じており、鬱陵島で鳥取藩の漁民たちと遭遇することは不可能である。」の部分に関してであるが、渡海禁止令は、対馬藩の「即時伝達を見合わせてほしい」という求めで、安龍福が鬱両島に渡った時点では、大谷・村川両家をもちろん、鳥取藩にも伝達されてはいなかったのである。「漁民たちと遭遇することは不可能」ではなかった。(この部分についても、『近代日本の国際秩序と朝鮮観 大君外交と「武威」』池内敏(名古屋大学出版会)から別途抜粋したい。)

 次に、日本の竹島領有権を主張する場合、「韓国の文献で于山島と呼ばれている島は、現竹島(独島)ではない」ということを立証することが重要であるが、、その点でも、安龍福の証言は決定的といえる。ところが、「竹島は日韓どちらのものか」が発行された平成16年4月20日の翌年、平成17年5月16日に島根県隠岐郡海士町村上助九郎邸宅で、「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が発見された。安龍福が2度目に来日した際の、隠岐島での取り調べ記録である。安龍福の供述の重要部分が、偽証ではなかった。日本の文献で安龍福が松島(于山島・現竹島)の領有権も主張していたことが証明されることになった。安龍福は鬱陵島のみならず、松島(于山島・現竹島)も朝鮮の領土であり、江原道に属すると「朝鮮八道之図」を示し主張していたのである。位置関係も、ほぼ間違いないという。ということは、下條正男の下記の記述も通用しないことになる。
その5(p102)---------------------------------------------
                       第3章 その後の経過──二つの異なる歴史認識

2 ある朝鮮史書の改竄

 結局、于山島が松島(現在の竹島)だったということも、于山島が鬱陵島の属島だったということも、柳馨遠の『輿地志』に書かれていたのではなく、申景濬から始まっていたのである。
 では、申景濬は何に依拠して「于山島は松島である」と臆断したのだろうか。
 申景濬は按記の中で、「諸図志を考えるに」としているように、当時存在していた文献を勘案しているが、それらは、安龍福の「松島即ち于山島」という証言を無批判に取り入れたものであった。

その6(p120)---------------------------------------------
                      第3章 その後の経過──二つの異なる歴史認識

4 近代における鬱陵島と竹島


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 これらの事実は、佐田白茅がいう松島が、現在の竹島とは無縁であったことの証左である。江戸幕府が渡海を禁じたのは鬱陵島であって、現在の竹島への渡海は禁じていなかったという事実も、日本側が今日の竹島を日本領と認識していたことを裏づける。
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 しかしながら、幕府は1837(天保8)年2月21日付で、「異国渡海の儀は重きご禁制に候」と、2回目といえる渡海禁止令を出した。そこには「……勿論国々の廻船等海上において異国船に出会わざる様 乗り筋等心がけ申すべき旨先年も相触れ候通り弥々(いよいよ)相守り、以来は可成たけ遠い沖乗り致さざる様乗廻り申すべく候」とある。この文面から「江戸幕府が渡海を禁じたのは鬱陵島であって、現在の竹島への渡海は禁じていなかった」と解釈することは難しいのではないか。なぜなら、「遠い沖乗り致さざる様……」といっているのである。松島(現竹島)までなら行ってもよいというのであれば、こういう文面にはならないと思われる。
その7(p127)---------------------------------------------
                      第3章 その後の経過──二つの異なる歴史認識

4 近代における鬱陵島と竹島


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 リャンコ島(竹島)での海驢猟は、すぐに過当競争となり、乱獲の弊害が出始めたので、中井養三郎は1904(明治37)年9月29日、リャンコ島の領土編入を願って、その請願書である「リヤンコ島領土編入並に貸下願」を内務、外務、農商務省に提出した。これを受けて明治政府は、1905(明治38)年1月28日の閣議で「他国ニ於テ之ヲ占領シタりト認ムベキ形跡ナク」として、リヤンコ島を竹島と命名し「島根県所属隠岐島司ノ所管」としたのである。
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 この部分の記述も正確ではないと思う。中井養三郎は、自身の『事業経営概要』で「……リヤンコ島を以て朝鮮領土と信じ、同国政府に貸下請願の決心を起こし、37年の漁期を終わるや、直ちに上京して隠岐出身なる農商務省水産局員藤田勘太郎に図り、牧水産局長に面会して陳述する所あり、牧局長亦之を賛し、海軍水路部に就きてリヤンコ島の所属をたしかめしむ、……」と記しており、竹島の領土編入の流れは、中井養三郎によってではなく、日露戦争最中、軍や政府関係者(外務省政務局長山座円次郎、農商務省水産局長牧朴真、海軍水路部長肝付兼行)によって作らたことが明らかになっているのである。中井養三郎の「貸下請願」がきっかけであったとはいえ、編入に至る経緯の軍事的側面や軍および政府関係者の働きを無視してはならない。リヤンコ島で海驢猟に取り組んでいた中井養三郎が、リヤンコ島は朝鮮領と信じていたと自ら述べていることに触れることなく、「…リャンコ島の領土編入を願って…」と記述することは問題だと思うのである。
その8(p173)---------------------------------------------
                       第5章 争点の整理難──何がどうくいちがっているのか

3 「良心的日本人」とは何か


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 また、もう一つ重要な事実がある。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』に描かれた鬱陵島(図では竹島と表示)の右上に、「高麗を見ること、猶雲州より隠州を望むがごとし」という付記があることである。この付記は斎藤豊仙の『隠州視聴合記』からの引用である。この事実から見ても、長久保赤水が鬱陵島を日本領と認識していたことは明らかである。崔書勉氏や堀和生氏は、『日本輿地路程全図』に付記した長久保赤水の見識を無視して、彩色の有無だけを問題にしていたのである。
 『隠州視聴合記』さえきちんと読んでいれば、こうした誤りを犯すはずがない。にもかかわらず堀和生氏が崔書勉氏の説に同調してしまったのは、「竹島は韓国領である」という前提で、竹島問題を論じているからである。
 韓国側が我田引水な文献の読み替えをしている事例は、まだある。
 たとえば、1785(天明5)年に林子平が作成した『三国通覧輿地路程全図』という日本およびその周辺を描いた地図であるが、その日本海の中ほどに竹嶋という島が描かれていて、その島に「朝鮮ノ持也」と付記がなされている。韓国側では、それをそのまま解釈して、その島は今日の竹島であり、林子平も韓国領と認めていた、と主張している。
 だが、今日の竹島が「竹島」と呼ばれるようになるのは、1905年以後のことで、『三国通覧輿地路程全図』中の竹嶋を、文字通り今日の竹島と解釈すること自体無理がある。

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 下條正男竹島論は、安龍福の供述の主要部分が偽証であるとしつつ、斎藤豊仙が
『隠州視聴合記』で、「竹島を日本の西北限と明記した」として、そこから諸文献を眺め、韓国側の主張を批判しているように見える。したがって、現在の竹島にあたる部分に描かれた島が朝鮮領を示す色になっている理由などは、全く問題にしていない。対馬や隠岐島は日本領を示す色なのである。疑問が残るといわざるを得ない。『隠州視聴合記』にいう「此の州」が鬱陵島なのか隠岐島なのか議論があることを考え合わせれば、なおのことである。前述したように、『近代日本の国際秩序と朝鮮観 大君外交と「武威」』池内敏(名古屋大学出版会)を読めば、「此の州」が隠岐島を示していることは疑いようがない。歴史的事実を客観的に分析するのではなく、下條正男氏自身が、「竹島は日本領である」という前提で、竹島問題を論じていると思われるのである。

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池内敏 「隠州視聴合記」の決定的解釈(竹島領有権問題16)---------

 竹島の領有をめぐっては様々な議論があるが、日本の竹島領有権を主張する論者の多くが拠り所としている、「隠州視聴合記」について、『大君外交と「武威」─ 近世日本の国際秩序と朝鮮観』池内敏(名古屋大学出版会)に決定的な記述がある。内藤正中も「史的検証 竹島・独島」の中で、「…最近の池内敏による詳細な検証から、『此州』は隠岐国とみるべきであるとするのが正しいと思うに至った。…」と、自分のそれまでの解釈の誤りを認め、池内敏の詳細な検証による結論を受け入れざるを得ない認識に至ったことを、正直に書いている。

 池内敏は、客観的な解釈のために気の遠くなるような地道な検証作業を通して、誰もが認めざるを得ないかたちで、「此州」が隠州を指すとしか考えられない、という結論に達している。今後「隠州視聴合記」の解釈に関する限り、池内敏の検証に基づく結論を覆す論者は出てこない、と断言してもよいのではないかと思う。したがって、『大君外交と「武威」─ 近世日本の国際秩序と朝鮮観』を読まずして、これまでの竹島領有権主張を繰り返すべからず、ということになる。

 また、同書は、1696年(元禄9年)1月28日の幕府による竹島渡海禁止令に関し、その伝達方法や伝達時期について、対馬藩から幕府関係者に対し、細かい要請があったことも取り上げており(鳥取藩政史料『在府日記』)興味深い。安龍福の供述は虚構であり虚言であるとする論者にとっては、受け入れがたい記述ではないかと思われるが、日本の文献の客観的な解釈による結果であり、新たな研究結果が出て来ない限り、「隠州視聴合記」や安龍福供述虚言説に依拠して、竹島領有権の主張を繰り返すことは、もはやできないと言わざるを得ない。

 『大君外交と「武威」─ 近世日本の国際秩序と朝鮮観』池内敏(名古屋大学出版会)から、関わる部分を抜粋するとともに、「隠州視聴合記」の「国代記」原文の一部と、その口語訳を簡略化して抜粋する。
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                         第9章 東平行一件の再評価
 はじめに

 元禄竹島一件交渉にかかわって、元禄8年(1695)11月以来、江戸で幕閣と協議を行ってきた対馬藩国元家老平田直右衛門は、元禄9年正月9日、老中阿部豊後守正武に呼び出されて日本人の竹島渡海禁止の方針について打診を受けた(第8章)。その席で阿部は、幕府として当初朝鮮人の竹島渡海禁止を求める交渉を命じておきながら、日本人の竹島渡海禁止を命じる、という正反対の指示をおこなうことになっても構わないと述べた。この一件の解決が重苦しくなるくらいなら、当初の意向と違った結果となっても、軽く解決するほうがましだというのである。
 阿部は、以上のような基本姿勢で対馬藩に以下の交渉案を提示する。


①この件については、日本側からはこれ以上問題としない。
②朝鮮から幕府に宛てた返書中にある「鬱陵島」の文字を削除する要求を撤回する。
③日本人の竹島渡海を禁止する幕令を対馬藩から朝鮮側へ伝える。


 以上3点の老中見解をもちかえった平田は、翌々日阿部のもとを訪れ、対馬藩としての態度決定を伝える。老中提案には「今少シ宣敷いたし方も可有之」とも思われるけれども、軽く解決したいという意向にしたがう。当初と今回とでは幕府の意向自体がまるで異なるので、対馬藩から朝鮮側に対する申し入れ内容も異なってしまう(「くい違申気味御座候」)が、そこを敢えて「まげる」ことにしてみよう、という。ただし、まるで異なる内容を文章化して正式に通達するわけにもいかないから、口頭で伝えることとしたいともいう。
 ここで、書面ではなく口頭で伝えることとしたい理由を「書簡ニ而申渡候而ハ急度ヶ間敷罷成候間」と対馬藩側は述べる。「急度ヶ間敷」とは、「厳しい、厳重だ」ないしは「確実に、どうしても」の意となろうか。それまでの交渉を全面撤回する内容を書面で伝達すれば、重大事として受けとめられる。重大事ではないように伝えたいとする対馬藩の姿勢は、ことの決着を曖昧なかたちで済ませたいとする意向を示す。対馬藩は、陶山庄右衛門の提言にもかかわらず、つい先日まで当初方針通りに朝鮮人の竹島渡海禁止を求める交渉を継続を求めていた(第8章[史料10])また、阿部による方針の抜本的変更に対しても、先述の「今少シ宣敷いたし方も可有之」とする評価に明らかなように、批判的であった。書面では伝えないとする対馬藩の姿勢には、今回の幕令に対する不快感が秘められていよう。

 口頭で伝える相手は対馬藩主帰国時に合わせて派遣される渡海訳官使である。2月に帰国することとなれば、今年の「秋末冬」には対馬に派遣されてこよう。正月28日、老中列座で日本人竹島渡海禁令を受けた宗義真は、同令を年末に口頭で朝鮮側に伝えることを述べ、同時に鳥取藩へは同令の即時伝達を見合わせるよう老中に求めた。対馬藩から訳官使に伝え終えてからにして欲しいという。日本人の竹島渡海禁令が流布すれば、対馬藩から伝える前に朝鮮側にも知れ渡ってしまうかもしれないから、というのがその理由である。
 ・・・(以下略)
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                       補論5 「隠州視聴合記(紀)」の解釈をめぐって
   はじめに

 寛文7年(1667)に出雲藩士斎藤豊宣(斎藤豊仙の父斎藤勘助)が著した「隠州視聴合記(紀)」(豊仙が補訂したという)の冒頭「国代記」にある記述をめぐり、これまでいくつかの議論が重ねられてきた。それは戦後の竹島/独島をめぐる日韓交渉と密接にかかわるかたちで問題提起されたから、いきおい政治色を帯びた議論ともなった。その焦点は、端的に述べれば「然則日本之乾地、以此州為限矣」とする文中の「此州」が、鬱陵島(江戸時代における竹島)を指すのか、隠岐国を指すのか、というところにあった。日本政府側はこれを鬱陵島とし、韓国政府側は隠岐国を指すとして対立したこともあって、解釈は政治的に引きずられ、厳密な解釈というよりはむしろ恣意に流れる傾向も皆無ではなかった。しかも議論には感情的な応酬も混じり込み、史料解釈としてはテクスト自体から離れゆく傾向が否定できない。そこで本章では、政治的な意図から離れてテクストに立ち戻り、史料に即して解釈するとどのように読まざるを得ないか、について再検討したい。

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1 「隠州視聴合記」の諸本について ・・・(略) 

2 「隠州視聴合記」の構成・内容・用語法


 ・・・
 以上、「隠州視聴合記」における「州」および「島(嶋)」の用例をすべて検討した結果、「隠州視聴合記」における「州」の用例66例のうち、保留してある(A)を除く65例が「国」の意で使用されていることが分かった。また先行する固有島名を受けて指示詞「此」を含む語によって当該の島を再び指示しようとする際には「此島(嶋)」という語を使用していることも指摘した。これは換言すれば、先行する固有島名を再び指示する際に「此州」という語を使用しないということである。
 したがって、これらを踏まえるならば、先に保留しておいた(A)も、「そうであるならば則ち、日本の北西の地は隠岐州(隠岐国)をもって限りとす」としか読みようがない。それは、文章構成の上からもそのようにしか読めないし、用語法上の特徴からも、そのようにしか読めない。

 ところで、巻二・周吉郡の元谷村項では、同村にある八王子社の神と常楽寺社の神とが3年に一度会して祭事(日月の祭)がなされることを述べる。その叙述ののちに按分が付され、「日月の祭」が日本に古くからあった遺制であり、「隠州戌亥之極地也昧暗也」であるがゆえに、そうした遺制がこの地に伝わるのか、と考察している。(第1節に引用した史料[異同5](ヌ)を参照)「隠州戌亥之極地也」(隠州は日本の北西方角の果てである)とするのは「隠州視聴合記」甲本・乙本いずれにも共通する記述である。とすれば、「隠州視聴合記」で隠岐国が日本の戌亥の果てと理解されていたのは明瞭である。
 「隠州視聴合記」には巻頭に付図があり、隠岐国を構成する主要な島前3島と島後1島および周辺の小島を5つほど描く。こうした描き方からすれば竹島(鬱陵島)や松島(竹島/独島)が隠岐国外の存在であると認識されていたことはいうまでもない。

 以上のように、「隠州視聴合記」における「此州」には先述した文章構成上、用語法上の特徴があり、また巻二には隠州が日本の戌亥にあたることを明瞭に述べている事実がある。にもかかわらず(A)における「此州」だけは、「島(嶋)」の意で読み替えて解釈し、竹島(鬱陵島)が日本の戌亥であると理解しなければいけないとするのは、あまりにも無理な話であり恣意的との謗りを免れえない。

3 「此州」を「竹島(鬱陵島)」とする説について ・・・(略) 

   おわりに


 以上の論証にしたがえば、文脈、用語法、本文中にそれと明記されている事実および同時代人による読み取りのいずれからしても「此州」は「隠岐国」としか読めない。にもかかわらず、なお、問題の部分だけは「島」と読み替えて読まなければならないなどというのは、学問的には成りたたない感情論でしかない。
 「隠州視聴合記」の主題はあくまで隠岐国の地誌であり、松江藩に提出された報告書である。報告書の文章が、66カ所ある「州」について、すべて「国」の意で読めるにもかかわらず、しかしただ1カ所だけは「島」の意として無理矢理にも「読み替えなければ理解できない」ような代物だとしたら、どうして報告書自体が書き替えられなかったのだろうか。「隠州視聴合記」には地誌・報告書の類であって思索の書ではない。誰が読んでも一読して内容が明瞭でなければ報告書としての用に立つまい。

 以上を踏まえれば、「隠州視聴合記」による限りは、「隠岐国が日本の北西の果てである」ということとならざるをえない。そうである以上は、竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていた(先に整理した[Ⅱ’]の見解)とするしかあるまい。したがって(Ⅰ’)の見解は当然のごとく成りたたない。

 一方、「隠州視聴合記」では竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていた(=日本の版図外)ということが、すなわち朝鮮領と認識されていた(同じく[Ⅱ’])ということにはならない。[Ⅱ’]は、文意を逸脱した無理な解釈である。「隠州視聴合記」には、日本の版図外とするだけで、竹島/独島が朝鮮の領域に属するとはどこにも書かれていないからである。

 ・・・(以下略)
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「隠州視聴合記 巻之一」の「国代記」原文

 隠州在北海中故云隠岐島、[按倭訓海中言遠幾故名歟]、其在巽地言嶋前也、知夫郡海部郡屬焉、其位震地言嶋後也、周吉郡穩地郡屬焉、其府有周吉郡南岸西鄕豊崎也、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、[俗言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟]、此二島無人之地、見高麗如雲州望隠州、
然則日本之乾地、以此州為限矣。
 ・・・(以下省略)

※返り点は全て省略、[ ]内は二行表示部分

口語訳
・隠岐国は北海中にあるがゆえに(島名を)隠岐嶋という。[按ずるに、倭訓に海中を遠幾(おき)というゆえの名か。]
・(隠岐国のうち)南東になるものを島前というなり。知夫郡・海部郡これに属す。
・(隠岐国のうち)東にくらいする(位置する)を島後という。周吉郡・穏地郡これに属す。
・その(隠岐国の)府は周吉郡南岸西郷豊崎なり。
・これ(隠岐国)より南は、出雲国美穂関に至ること35里。
・(隠岐国より)南東は、伯耆国赤碕浦に至ること40里。
・(隠岐国より)南西は、石見国温泉津に至ること58里。
・(隠岐国より)北から東に至る往くべき地無し。
・(隠岐国より)戌と亥のあいだの方角(おおむね北西方向)へ行くこと2日1夜にして松島あり、
・そこ(松島)からさらに1日ほどで竹島あり。俗に磯竹島という。竹・魚・海鹿、[按ずるに、神書にいういわゆる五十猛か]
・この2島(松島・竹島)は人無きの地、高麗を見ること雲州より隠岐を望むが如し。
・そうであるならば則ち、日本の北西の地は此州をもって限りとす。



 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。漢字の読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。


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