-NO206~214
---------竹島領有権問題その2(諸地図や独島統治政策の変遷……)--------

 「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>には、はしがきや目次の前に、カラーの古い地図が何枚か入っている。
 はじめは1822年に製作されたという<海左全図>(李燦所蔵)であるが、鬱陵島の東に独島(竹島)が正確に記されてあり朝鮮の領土であることを示している。
 次は<八道全図>(別名東覧図)で、1530年に編纂された<新証東国輿地勝覧>の始めの部分の全国地図であるという。それには于山島(独島)が鬱陵島より近くに記されているが、朝鮮領土としていることが重要だというわけである。
 同じく<東国地図>の写本の江原道地図も、于山島を鬱陵島の東に記しているが、鬱陵島が江原道に属するということは、当然于山島も朝鮮領土という意識で記したと考えて間違いはないというわけである。
 次は19世紀の<東国全図>(湖厳美術館所蔵)である。この地図の于山島の位置は正しく記されている。そして、朝鮮の領海に色をつけ、于山島(独島)をその領海内に記しているのである。
 次には、日本の林子平の<三国接壌地図>も取り入れられている。朝鮮を黄色で示し、日本は緑色で示しているのであるが、独島(竹島)の位置は確かに黄色である。そして、地図上に”朝鮮ノ持ニ”とあることも確かにはっきり読み取ることができる。
 次の18世紀の日本の<総絵図>は、朝鮮、日本、中国の領土を色分けしているが、これも鬱陵島と独島(竹島)は位置は黄色で朝鮮領土の色である。
 最後に、日本人染畸延房の<朝鮮国細見全図>(1873年)(ソウル大図書館、国立中央図書館所蔵)である。朝鮮を道別に色分けしたこの地図では、鬱陵島と独島(竹島)は江原道と同色で、蔚珍の横に記し江原道に属する島であることを示しているというわけである。
 日本は1905年1月28日の閣議で「別紙内務大臣請議無人島所属ニ関スル件ヲ審査スルニ、…無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク…」として島根県への編入を決定したが、これらの地図を見ただけでも、竹島を「無主地」と断定することは難しいと思われる。下記は、鬱陵島と独島(竹島)のとらえ方や様々な統治政策に関する同書からの一部抜粋である。
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                     第2章 512年に鬱陵島、独島は韓国領土になった
1 鬱陵島と独島の新羅国編入

 独島(トクト)と鬱陵島(ウルルンド)が韓国の領土になったのは、はるか昔、三国時代の512年に于山国(ウサンコク)が新羅に服属したことにさかのぼる。
 《三国史記(サムグックサギ)》新羅本紀智證王(チジュンワン)13年条には”この年の夏、6月に于山国が降伏した”と次のように書かれている。



 「13年6月に于山国が服属し、毎年貢物を献上することとなった。
 于山国は溟州(ミョンジュ)(今の江陵)の真東にある、海の中の島国で、またの名を鬱陵島という。その地域は100里(訳120㎞)ほどの距離で、地形が険しく、なかなか降伏しようとしなかったので、伊飡(イチャン)(新羅時代の17等の中の2番目の官職)の異斯夫(イサブ)を阿瑟羅(アスラ)州の軍主とし、この地を服属させることにした。……于山国の人々は恐れをなして降伏した。」


 《三国史記》列伝の異斯夫の条でも阿瑟羅州の群主・異斯夫が伽耶・加羅(カラ)を征服した後、続いて13年に于山国を併合するため出陣し、于山国を新羅に組み入れたと記されている。

 ここではっきりしていることは、512年に新羅の将軍・異斯夫が派遣され、于山国が滅び新羅に組み入れられたという事実である。つまり独島は512年に于山国が新羅に併合された時から韓国の固有の領土になったのである。

 ・・・(以下略)
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2 独島が于山国の領土であったという文献上の証拠

 512年に新羅に併合された于山国が鬱陵島だけでなく独島も含まれ、独島が于山国の領土であったことを示す一番古い記録に、《世宗実録(セジョンシルロク)》の地理誌(1432年編纂)がある。ここでは、于山島(ウサンド)(独島)と武陵島(ムルンド)(鬱陵島)の二つの島が天気の良い日には肉眼で見えることや、かつて新羅時代には于山国と呼ばれていたことなどが記されている。
 また独島が于山国の領土であったことをはっきり証明する文献として、《万機要覧(マンギヨラン)》の軍政編(1808年編纂)がある。この資料には”「与地誌(ヨジジ)」によると、鬱陵島と于山島はすべて于山国の地であり、于山島は倭人の言葉では松島”と記されている。


 すなわち、この資料は鬱陵島と于山島が共に于山国の領地であることをはっきり示している。そして、この于山島が現在の独島であれば、独島が于山国の領地であったことは明白である。
 ところで、この資料には”于山島が日本人の呼ぶ松島である”と記されている。
 1808年当時日本人は鬱陵島を”竹島”と呼び、独島を”松島”と呼んでいたが、このことは、日本人の独島研究者も認めている。

 ・・・(以下略)
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第3章 高麗王朝の鬱陵島、独島に対する統治政策

1 五段階統治

 統一新羅を継承し、韓(朝鮮)半島で新王朝を樹立した高麗王朝は、やはり前王朝に引き継ぎ、于山国の領土であった独島(竹島)および鬱陵島を領有し、政治的な統治権を行使した。その内容は5段階に分けられると思う。

 第1段階は高麗の太祖・王建が鬱陵島の住民からの謁見と貢物を受け、その見返りとして彼らに高麗の官職を与え、鬱陵島、独島に対する統治権を再確認した時期である

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 当時、鬱陵島では多数の住民が漁労に従事していたので、当然于山国の一部であった独島に出かけ、漁労活動を行ったであろうことは十分に推測できる。

 第2段階は顕宗(ヒョンジョン)(在位1009~1031年)の時代で、鬱陵島の住民は女真族の一派である東北女真の侵略を受けた。農地を破壊され、本土に避難してきた住民たちに農機具を与えるなど高麗の王朝が対策に頭を痛めた時期である。

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 第3段階は徳宗(トクジョン)(在位1031~1034年)の時代で、鬱陵島を羽陵城(ウルンソン)と呼び、羽陵城主を置き、中央政府の積極的な支援のもと、自力で防衛できる能力を養おうとした時期である。
 この時期は、異民族の侵略を防ぐために、鬱陵島を要塞化すべく努力したのが特徴である。


 第4段階は仁宗(インジョン)(在位1122~1146年)の時代で、鬱陵島、独島を中央政府が直接統括せず、行政の権限を地方官に移譲し溟州(ミョンジュ)(今の江原道)に属するよう指導した時期である。この頃には東北女真族の侵略も昔話となっていたが、鬱陵島の住民数は激減し、中央政府は直接関与する必要性をあまり感じなかったらしく、鬱陵島、独島を江原道に編入させたのであろう。

 第5段階は毅宗(ウイジョン)(在位1146~1170年)の時代で、鬱陵島に百姓を移住させる政策、すなわち移民政策を実行した時期である。

 ・・・(以下略)
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2 11世紀の日本の文献にみる鬱陵島と独島

 高麗中期からは、日本側にも鬱陵島に対する記録が載り始めた。《権記》という資料によると、1004年(寛弘元年)に”高麗の藩徒である鬱陵島人が漂流してきた”(高麗藩徒芋陵島人漂至)とあり、漂流してきた11名を本国に送還しながら、高麗の藩徒の中に新羅の国の鬱陵島の人がいる”(高麗藩徒之中有新羅国迂陵人)と述べた。

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 ここで興味をひくことは、日本では鬱陵島を宇流麻と呼び、漢字で「宇流馬島」、「芋陵島」、「迂陵島」などと表記されている事実だ。
 この資料は、高麗王朝、穆宗(モクジョン)7年(1004年)に起こった事実を記録したもので、当時の日本人は鬱陵島人が高麗の藩徒であることをはっきりと理解しており、また「新羅宇流麻島人」という記述からは彼らが高麗の藩徒になる前は新羅に属していたことも知っていたことが伺える。

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 しかし、日本の鬱陵島に関する最初の記録である《権記》は鬱陵島が新羅に属していたが、その後、高麗に属したとはっきり記録している。独島が鬱陵島の付属の島であり、于山国の領土であったことから、日本のこの資料も昔の于山国の地(鬱陵島と独島)が新羅から高麗
王朝の統治に変わったという事実を当事者は知っていたことを示すものである。

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第4章 朝鮮王朝の鬱陵島、独島領有と統治政策

 2 太宗(テジョン)の鬱陵島に対する空島政策

 朝鮮王朝第3代太宗は、臣下と鬱陵島住民に対する対策を論じた結果、1416~1417年(太宗16~17年)に鬱陵島に人が住まないようにさせる空島政策を実施することに決めた。

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 ここで注目すべきことは、空島政策の核心は鬱陵島への倭寇の侵入を防ぐことであり、また鬱陵島に移り住む動機が、本土での軍役から逃避するためだという事実である
・・・(以下略)
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3 独島=于山島の再確認

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 ところが、金麟雨(キムインウ)が鬱陵島の第1次調査から本土に戻ってきた直後の朝廷の重臣会議で、太宗は”武陵等処”という用語を使わず”于山・武陵”、”于山・武陵等処”という用語を使った。
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 従って今日の独島が朝鮮朝廷で”于山島”という名称に確定したのは太宗17年(1417年)のことといえる。
 ・・・(以下略)
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4 世宗とその後の鬱陵島、独島政策

 太宗の後を継いだ世宗(セジョン)は、父の空島制策をそのまま踏襲した。しかし当時の封建的搾取のひどい時代では、人民は土地を失ったり逃亡したりする場合が多く、朝廷の空島政策にかかわらず鬱陵島に逃げ込み、農業や漁業で生計を立てる者がいても不思議なことでは無かった。

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 世宗は1425年(世宗7年)8月、金麟雨を再び「于山・武陵等処按撫使(ウサン・ムルンドンチョアンムサ)に任命し、”発卯年(1425年)に金己之(キムウルチ)など、男女28名が本島(鬱陵島)に戻った事実を指摘して”兵を派遣して連れ戻すよう命じた。
 この一件を記録した《世宗実録》甲戌(カップスル)条(世宗7年8月)には特に注目すべき事実が二つある。
 ひとつは、世宗が金麟雨を太宗の”武陵等処按撫使”ではなく、”于山・武陵等処按撫使”として任命した事実である。
 これは、武陵島(鬱陵島)だけではなく、于山島(独島)も金麟雨が按撫(行政管理)しなければならない地域に格上げされたことを示している。
 ほうひとつは、この記録では武陵島を二度にわたって”本島”と記している点である。これは世宗とその担当の臣下が鬱陵島が本島で、それに所属する島もあるということをよく認識していた事実を物語っている。

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 于山武陵等処按撫使・金麟雨は第2次調査の時、兵船2隻で鬱陵島に上陸し、居住人20名を連れて戻ってきた。その時、礼曺参判(規律・教育などを司る省の次官)が国王に連れ戻された島民を処罰すべく進言したところ、王は”彼らは外国へ行ってきたのではなく、また以前にも一度許してやったことがあるので今回も処罰することはよくない。兵曺(ピョンジョ)(軍事を司る役所)に命じて彼らを忠清道の山奥に送り、逃げられないようにして、3年後に復戸(賦役が免除される)させるように”と命じたと記録されている。
 ・・・(以下略)
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5 《世宗実録》地理誌による独島領有の再確認

 朝鮮王朝・世宗が独島と鬱陵島の空島政策を実施しながらも、それらの島が朝鮮の領土であることを明瞭に規定している記録がある。
 《世宗実録》地理誌(1432年および1454年編纂)江原道蔚珍県条の次の記録である。

 于山と武陵の2つの島が県(蔚珍県──著者)の真東の海にある。2つの島はそれほど離れておらず、空が澄みきった日には、かすかに見える。新羅時代は于山国と呼んだ。またの名を鬱陵島という。2つの島の距離は100里である。

 ここで重要なのは、《世宗実録》地理誌が世宗の統治する領土、つまり朝鮮王朝の領土に対する地誌だということである。この地誌は独島と鬱陵島の2つの島が朝鮮の領土であることを如実に証明している。

 それではここに記録された于山島が、現在の独島であると断言できる根拠は何か?
 鬱陵島の周辺にあるいくつかの小さな岩の島(例:三仙岩、観音島、竹嶼)は鬱陵島の海岸から皆、近いところにあってそれぞれよく見え、空の澄みきった日だけかすかに見える島は独島しかない。島がほとんどない東海(日本海)であるので、この記録からだけでも于山島が今日の独島であることは明らかだ。
 それに《万機要覧(マンギヨラン)》軍政編と《粛宗実録》《増補文献比考》では于山島が倭人の呼ぶ松島(独島の当時の日本側の名称)であると念を押して記録しているので、于山島が今日の独島であることは疑う余地がない。

 ・・・(以下略)
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6 《東国輿地勝覧(トングッヨジスンラン)》の独島領有規定

 朝鮮王朝は長期にわたる編纂作業の末、1481年(成宗12年)に《東国輿地勝覧(トングッヨジスンラン)》を完成させた。また1531年(中宗(チュンジョン)26年には《新増東国輿地勝覧》を編纂した。
 前者は伝えられておらず、その内容はわからないが、後者は蔚珍(ウルチン)県条に”于山島(ウサンド)と鬱陵島(ウルルンド)は武陵(ムルン)とも于陵(ウルン)ともいう。この2つの島は蔚珍県の真東の海上にある”と、于山島(独島)と鬱陵島が別々の島であり、蔚珍県の真東の位置にあると規定し、その地形を説明している。


 ここで注目すべきことは、《新増東国輿地勝覧》という書物が持つ特徴である。この書物は単純な官撰の地理書ではなく、朝鮮政府の”朝鮮の領土・地理解説書”である。そしてこの書物を通じて、朝鮮王朝は領土に関する情報を整理し、広く世に知らしめることによって朝鮮の領土を明確に規定したのである。
 この本では、于山島と鬱陵島が蔚珍県条に記載されているが、これはこの2つの島が行政区域としては江原道の蔚珍県に属し、朝鮮王朝の領土であることをはっきりと証明するものである。
 また、《新増東国輿地勝覧》は付属地図を製作し、付け加えているが、この書物の<八道総図(バルトチョンド)>と<道別道(トビョルド)>
(江原道地図、1481年製作)では共に鬱陵島と于山島が異なった島として東海の真中に描かれており、朝鮮領土と表示されている。

・・・(以下略)


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竹島領有権問題その3(芝峰類説や隠州視聴合記から……---------

 「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>に取り上げられている李睟光(イスグァン)の「……倭奴(ウェノム)が磯竹島を占拠したというが、磯竹島とはまさに鬱陵島のことである」という言葉や、東萊府使・朴慶業が、訪れた日本人に向かって言ったという「……現在のところ空島政策をとっているが、外国人の出入りは絶対に許すわけにはいかない」、という言葉からは、強い領土意識が読み取れる。「無人であったから編入した」という日本の言い分が通用するか疑問である。
 また、日本の雲州の藩士、斉藤豊山の「……この2つの島は無人島で、高麗の国を前にするのは、雲州が隠岐を前にするのと同じである。 ……」を素直に読めば、鬱陵島と独島の2島は高麗の領土、隠岐島が雲州(日本)の領土と受けとめらなくはない。竹島に最も近いといえる雲州の藩士が、そのような意識であったということを考えると、「竹島は日本固有の領土である」とは言いにくい。上記の「史的解明 独島(竹島)」からの抜粋である。
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第4章 朝鮮王朝の鬱陵島、独島領有と統治政策

7 壬辰倭乱(イムジンウェラン)(文録慶長の役)直後の日本側の鬱陵島(ウルルンド)、
  独島(トクト)政策

 朝鮮(チョソン)王朝の領土である鬱陵島(ウルルンド)と于山島(ウサンド)=独島(トクト)は壬辰倭乱(イムジンウェラン)(1592~1597)の間に日本軍に占領され荒らされた。
 李睟光(イスグァン)の
《芝峰類説(ジボンユソル)》は、この時の様子を断片的に次のように伝えている。
 
「鬱陵島は別の名を武陵(ムルン)・羽陵(ウルン)といい、東海の中にあって蔚珍県と向かいあっており、島の真中に大きな山があり、土地の端から端までの距離は100里である。……壬辰倭乱の後、島に住みつくために渡った者もいたが、倭人の略奪を受け、二度と渡る者はいなかった。最近、聞くところによると、倭奴(ウェノム)が磯竹島を占拠したというが、磯竹島とはまさに鬱陵島のことである」


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 翌年の1615年(光海君7年)にも、日本の船2隻が朝鮮にやって来て、”磯竹島(鬱陵島)の地形を調査したい”と要請した。
 東萊府使・朴慶業は”昨年、朝鮮政府が外交文書で明らかにしたように、鬱陵島は朝鮮の領土であり、そのことは《東国輿地勝覧》にも記述されている。また新羅、高麗の時代から特産物の貢物を受け取ってきたし、朝鮮王朝時代にも何度も島民を本土に連れ戻した記録がある。現在のところ空島政策をとっているが、外国人の出入りは絶対に許すわけにはいかない”と断固彼らの要求をはねつけ、返書を持たせて追い返した。

 しかし徳川幕府は、朝鮮政府と何らの協議なしに、1618年(光海君10年、日本では元和4年)、米子の町人である大谷甚吉と村川市兵衛に鬱陵島への渡航免許を与えた。
 この渡航免許は、外国へ行って通商ができる免許であった。したがって、徳川幕府は鬱陵島を外国領土として認めていたが、人が住まない空島であるのを口実にして、2人の町人が、鬱陵島で漁労や伐採などができるように取り計らったのである。
 万一朝鮮政府が抗議してくれば、この許可状は”渡航免許”で外国との通商許可状に過ぎないと白を切ればいいわけである。
 そういうわけで、大谷甚吉と村川市兵衛は朝鮮政府の許可なしに鬱陵島に入り込み、思う存分、漁労と伐採に精を出した。独島にも途中何度か立ち寄ったことであろう。
 大谷家は1656年に徳川幕府から独島渡航免許を受けた。その間、約80年間も朝鮮政府を無視したまま、鬱陵島、独島は2人の日本人の一族によって侵犯されたことになる。

 ・・・(以下略)
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8 日本の文献による独島(トクト)は高麗(コリョ)の領土

 日本の調査によると、日本の文献の中で、鬱陵島(ウルルンド)と一緒に独島(トクト)が最初に登場するのは、1667年に編纂された《
隠州視聴合記》である。
 この本は編者の斉藤豊山が出雲・雲州の藩士として藩主の命を受けて1667年<寛文7年、朝鮮では顕宗(ヒョンジョン)8年>の秋に隠岐島を旅しながら観察したことを報告したものである。
 この本に次のような文がある。

 「隠州は北海の中にある。だから隠岐島と呼ぶ……戌亥の間(北西)に1泊2日の航海をすれば、松島(独島)に着く。またもぅ1日で竹島(鬱陵島)に着く。(別名、磯竹島というが竹と魚とおっとせいが多い、神書にあらわれるいわゆる五十猛であろうか)
 この2つの島は無人島で、高麗の国を前にするのは、雲州が隠岐を前にするのと同じである。だから、日本の西北の境地はこの隠州と思う。」


 この本では日本の隠岐から西北に船で2日行くと独島があり、独島から1日のところに鬱陵島があるとしてその位置と距離から想像して独島を松島と呼び、鬱陵島を竹島と呼んでいる。そして、距離的に2つの島から高麗国を見ることは日本の雲州(今の島根県)から隠岐島を見るのと同じだとしている。それ故に、日本西北の国境は隠岐島とみなすとしている。
 日本で一番古い独島に関する記録が、独島は高麗の領土であり、日本の境界の外にあるという事実を明らかにした。

-------------竹島領有権問題その4(安龍福の証言ほか…)-------------

 現在は竹島の領有権が問題になっているが、歴史的には対馬藩が鬱陵島(かつて日本人はこの島を竹島と呼んだ)の領有権を得るために画策したこともあったし、日本人が知って知らずか、約束を破って鬱陵島に侵入することが、たびたびあったようである。下記は、そうしたことに関する「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>からの抜粋である。
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第5章 鬱陵島(ウルルンド)、独島(トクト)領土論争と安龍福(アンヨンボク)

1 17世紀末の日本による鬱陵島、独島侵奪の試み

 朝鮮の東海(日本海)と南海沿岸の漁民たちは、鬱陵島にこっそり行っては漁労や造船に励んだ。一方、徳川幕府は1618年、大谷と村川の両家に”鬱陵島渡海免許”を与えていたので両国の漁民は時々衝突した。
 1693年(粛宗19年)の春には、鬱陵島で魚をとっていた東萊(トンネ)、蔚山(ウルサン)の漁民40名と、鬱陵島に漁業にやってきた日本人漁民たちの間で衝突事件が発生した。
 数的に優勢であった日本人漁民たちが、朝鮮の蔚山(ウルサン)のボス格である
安龍福(アンヨンボク)・朴於屯(パ
クオドン)らにゆっくり話し合おうと、うまく持ちかけて隠岐島へ連行した。
 安龍福は隠岐島主に鬱陵島は朝鮮の領土であることを訴えた。そして”朝鮮人が自分の国の地に入っただけなのに何故に拉致したのか”と抗議した。隠岐島主は上司である伯耆藩の藩主に安龍福を引き渡した。そこでも安龍福は堂々と朝鮮領土であることを主張した。そして日本は日本人漁民が国境を越えて出漁するのを取締まるべきだと要求した。
 当時の伯耆藩の藩主は鬱陵島が朝鮮の領土であることを知っていたので、安龍福を江戸幕府に引き渡した。
 江戸幕府は審問した結果、彼の主張に一貫性があり、事実を述べていることを認め、”鬱陵島は日本の領土ではない”(鬱陵島非日本界)という外交文書を伯耆藩の藩主に書かせ、安龍福らを江戸から長崎、対馬を経て朝鮮に送り返そうとした。
 しかし安龍福らが長崎に着くと、対馬島主は彼らを再び捕縛し、対馬へ連行し、そこで鬱陵島は日本の領土ではないと書いてある外交文書を奪い、彼を、日本領土である鬱陵島を侵犯した罪人あつかいにし、朝鮮の東萊府で朝鮮側に不法な要求をつきつけて彼を釈放した。
 要するに、対馬島主は安龍福を事件を逆に利用して幕府の全権大使のように振舞いながら、橘真重を使節に任命し、人の住まない鬱陵島を対馬藩所属の島にしようと画策したのである。

 対馬島主は1693年11月に安龍福らを送り返す時に、橘真重を派遣し、東萊府使を通じて朝鮮側に書状を送りつけた。 
 その書状では東海に鬱陵島ではなく竹島という日本領土が存在するかのような表現法を使い、”これからは日本領土である竹島に朝鮮の船が入るのを絶対に許さないので、朝鮮側も竹島での漁労を厳しく取り締まってほしい”というとんでもない要求をつきつけてきた。

 対馬島主は、鬱陵島がすなわち竹島であることを知りながらも、朝鮮政府から竹島が日本領土であることを認める公文書を手に入れた後、鬱陵島=竹島を領土紛争地として争い、最終的には対馬島に帰属させよう、という戦略があったに違いない。


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 下記は日本側の「竹島での漁労を厳しく取り締まってほしい」との要求に対する朝鮮政府の回答であるが、竹島が鬱陵島であるということを知りながら、知らないふりをし、竹島が鬱陵島とは別の島であることにして回答したものであるという。
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2 朝鮮政府の穏健派による対応

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……つまり、朝鮮政府は鬱陵島が朝鮮の領土であることだけを明確にして、日本側の書状に書かれてある竹島が鬱陵島であるとしりながら、知らないふりをして竹島での朝鮮漁民の出漁を禁じる次のような返事の書状を橘真重から対馬島主に伝えさせた。

 「わが国の東海沿岸の漁民に外洋に出るのを禁じたのは、たとえわが領地の鬱陵島とはいえ遠方の故、勝手に行ったり来たりするの許していないのであるが、いわんやそれ以上の遠方においては。この度、わが国の漁船が貴国の境地である竹島に入り込んだため領送(送還)という手間をとらせ、また書状まで持たせてくれて本当に隣国同士の親善の交誼に感謝するものである。」

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 東萊倭館(トンネウェグァン)で待機していた橘真重は”貴国の境地である竹島……”と書いてある回答文で半分、目的を達成したのも同然であったが、”わが国の境地である鬱陵島”という字句が、鬱陵島の侵奪の妨げになると考え、”書状に竹島という名だけで済むことなのに、鬱陵島という名があるのはどういうことか”と抗議し、鬱陵島の名を削除することを要求した。

 橘真重は回答文の受け取りを15日間、拒否し続けたが、結局断念してそのまま回答文を携えて対馬に帰国した。その時、もし朝鮮政府が”わが国の境地である鬱陵島”という字句を削除していたら、日本は鬱陵島を竹島の名で自国の領土に組み入れられる朝鮮政府の書状を手に入れることができたというものである。
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3 強硬派の執権と日本の侵略企図撃退

 対馬からの使者・橘真重が、朝廷からの回答文に不満を抱き、相当ごねた挙げ句、帰国したという噂が朝鮮朝廷に伝わると、穏健派に対する批判と糾弾の声が一挙に高まった。
 そして、ついに穏健派は退陣し、南九万(ナムグマン)らの強硬派が執権するに至った。


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 粛宗国王も領議政・南九万(ナムグマン)の意見を取り入れ、前回の回答書(上記)を取り戻すように命じた。
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 ……そこで、南九万(ナムグマン)領議政は前回の回答書を取り消し、新しい回答書の作成に取りかかった。その要旨は鬱陵島がまさに竹島であり、朝鮮の領土であると明確にしたことであった。
 また日本人が鬱陵島に入り込み、安龍福らを日本に連行したことは、朝鮮領土への侵入であり干渉である(侵渉)とした。
 また朝鮮人を朝鮮の領土から連行(拘執)したのは重大な過ちであると指摘し、このことを江戸幕府に伝え、二度と日本人が鬱陵島に入り込まないように対策を講じてほしいと要求した。
 対馬の使節は、この修正された回答書を受け取り、”侵渉”と”拘執”を他の表現に直すことを要請し、また対馬島主の2回目の書状に対する返書を要求したが、これらすべてを朝鮮朝廷は拒絶した。
 朝鮮朝廷は三陟僉使(サムチョクチョムサ)(従三品の武官)・張漢相(チャンハンサン)を1694年9月から10月にかけて鬱陵島に派遣し、そこを調査させた。張漢相の報告を受けた領議政・南九万は移住政策を実施するより、1年から2年に一度ずつ島に対する探査をするのが賢明であると進言し、王から許しを受けた。之によって1694年以降は、朝鮮朝廷の定期的な探査(捜討)政策が実施された。

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4 徳川幕府の将軍による鬱陵島、独島の朝鮮領土再確認

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 1696年(粛宗22年、元禄9年)1月に(対馬島主宗義真が)将軍に対面した時、伯耆藩藩主ら4名が居並ぶ中、将軍から鬱陵島問題について宗義真に質問があびせられた。
 
将軍以下、幕府の協議を重ねて検討した結果、鬱陵島を朝鮮の領土と認めざるを得ない結論に達し、日本人の鬱陵島出漁を以後一切禁止することに決定した。
 その時の質疑応答と将軍が最終的に下した結論と、対馬島主に命じた事柄の要旨は次のようなものである。


① 鬱陵島は日本の島根県から160里の距離であるのに対し、朝鮮からは40里
  ほどの距離で朝鮮に近いことから、朝鮮の領土とみなす方が自然であること
② 日本人の鬱陵島への渡航を禁止すること

③ このような内容を対馬の島主が朝鮮に伝えること
④ 対馬島主は対馬に戻れば、刑部大輔(裁判官)を朝鮮に派遣し、この決定を朝
  鮮に知らせた後、その結果について将軍することであった。
 
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5 安龍福の活動

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 《粛宗実録》によると、安龍福は1696年(粛宗22年)の春に万全の準備をして蔚山に行き、そこで鬱陵島に行けば海産物がどっさり手にはいると宣伝し、順天の松慶寺の商僧・雷憲と李仁成、劉日夫(船頭)、劉奉石、金吉成、金順立ら16名とともに鬱陵島に船を向けた。
 鬱陵島には、すでに日本の船がたくさん停泊していた。そこで安龍福が彼らに怒鳴りつけた。


 ”鬱陵島はもともとわれわれの島であるのに、日本人がなぜ国境を越えて入ってくるのか。お前たちは皆、捕らえられるべきだ”と
 日本人がこう答えた。
 ”われわれはもともと松島(于山島・独島)に住む者だが、たまたま魚を追ってここに来たのであって、すぐ帰るつもりだ。”
 安龍福はこれに対して
 
”松島は于山島で、やはりわれわれの島だ。どうして松島に住んでいるのか”(松島即于山島比亦我国地汝敢住比島)と言い返した。
 そして次の日、于山島に行ってみると、昨日の漁夫たちが釜で魚を煮ていたので棒切れで追っ払ったところ、皆、船に乗って日本へ帰って行った。


 安龍福らは彼らを追って日本の隠岐島に上陸した。隠岐島主が安龍福に渡航理由を尋ねると彼は大声で怒鳴った。
 ”何年か前、私が日本に来た時、鬱陵島、于山島などの島は朝鮮の領土の境界に決まり、将軍の書状まで頂いたのに、日本は分別もなく我が領土を踏みにじるのか”
 (傾年吾人来比処以鬱陵島・于山島等島定以朝鮮地界至有関白書契而本国不有定式今又侵犯我境是何道理云爾)

 これに対し、隠岐島主は彼の抗議の内容を伯耆藩主に必ず伝えると約束した。しかしいくら待っても何の消息もなかった。
 安龍福はこれに憤慨し、船で伯耆(島根県)に向かった。


 ・・・
 
 伯耆藩主はこれを承諾したので、安龍福は李仁成をして上訴文を書かせて将軍に手渡すよう求めた。
 この時ちょうど対馬島主の父親が伯耆藩主を訪れて、”もしこの上訴文が将軍のもとに届けば私の息子は必ず処罰され、死を免れないので絶対にこの上訴文を受け取らないでほしい”と要請したのである。そのため、安龍福の上訴文は将軍のもとに届かなかった。
 しかし
伯耆藩主は、鬱陵島に侵入した漁民たちを15名を捕らえ、処断した上でこう約束した。
 ”2つの島はすでに朝鮮の領土なのだから、今後、国境を越え、侵入する者があったり、また対馬島主が不法に侵奪しようとした時は、朝鮮側が国書を携えて訳官(通訳)を定めて日本に派遣したらよろしい。そうすれば必ず厳罰をもってのぞむつもりである”

 (両島既属爾国之後或有更為犯越者島主如或横侵竝作国書定訳官入送則党為重処)


 ここで注目すべきは、安龍福の談判でもって1696年に伯耆藩主が”2つの島、つまり(鬱陵島と于山島・竹島と松島)はすでに朝鮮の領土である”とはっきり認めていることである。
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6 17世紀末に鬱陵島、独島領有権論争は集結した

 韓国側と日本側の資料の日付が正確であれば、安龍福と伯耆藩主との談判は、江戸幕府が鬱陵島問題に対して、鬱陵島が朝鮮の領土であることを認め、日本人漁民の鬱陵島への渡航を禁じた1696年1月以降の何ヶ月間の間にあったものと考えられる。
 この時点で日本側は独島を鬱陵島の付属島とみなし、将軍の1696年1月の鬱陵島問題に対する決定と命令は、鬱陵島と付属島の独島を含めてのことであり、安龍福の活動によって文書化されている。つまり”2つの島(鬱陵島と独島)はすでに朝鮮の領土である”という記録が残されている。

 ・・・(以下略) 
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7 徳川幕府の古地図には鬱陵島、独島が朝鮮領土と表示してある

 ・・・
 ここで注目すべきことは、江戸時代の代表的地図(三国接壌地図と総絵図)が鬱陵島と独島を朝鮮の領土であると明記し、それも”朝鮮ノ島”とせず、朝鮮ノ持ニと記したことである。これは17世紀末の朝鮮と日本との”鬱陵島、独島論争”が解決し、”朝鮮の島に”確定したという徳川幕府の、1696年1月の最終決着がこれらの地図に反映したものとみることができる。
 ・・・(以下略)

-----------竹島領有権問題その5(内務省稟議書と太政官指令)-----------

 
竹島領有権の問題を考えるとき、鬱陵島や竹島(独島)に関わりを持っていた個人・団体・地域・組織などの判断や当時の実態が重要であることはいうまでもないが、国家の最高機関である太政官の「竹島外一島の件に対して、本邦は関係なしと心得るものなり」の指示は、”決定的”であると思う。また、文書の中に、「…元禄5年朝鮮人(安龍福を指す)入島以来…」とあることから、竹島外一島の「一島」が松島(現竹島)であることを否定することも難しい「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著 >韓誠<訳>(インター出版)からの抜粋である。
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第6章 明治政府の独島、朝鮮領有の再認識

2 日本内務省の独島、朝鮮領土再確認


 ・・・
 内務省は1876年に日本国土の地籍を調査し、地図を製作する過程において、1876年10月16日付の公文書で島根県の地図に鬱陵と独島を含めるべきか、含めるべきでないかについて、島根県当局から質疑書を受け取った。
 ・・・

 日本海内竹島外一島地籍編纂方伺

 竹島所轄之儀ニ付島根県ヨリ別紙伺出取調候処。該島之儀ハ元禄5年朝鮮人入島以来別紙書類ニ摘採スル如ク元禄9年正月第1号舊政府評議之旨意ニ依リ2号訳官ヘ達書3号該国柬4号本邦回答及ビ口上書等之如ク則元禄12年ニ至リ夫夫往復相済
本邦関係無之相聞候得共版図ノ取捨ハ重大之事件ニ付別紙書類相添為念此段相伺候也。
                    明治10年3月17日
                           内務卿 大久保利通代理
                           内務少輔 前島密
        右大臣 岩倉具視殿


───上記の口語訳───
 日本海内竹島外一島の地籍編纂に対する伺書

 竹島所轄の件に対して島根県から別紙の稟議書が回ってきて調査したところ、該島の件は、元禄5年朝鮮人(安龍福─著者)が入島して以来、別紙書類に抜き書きしたように元禄9年正月の第1号の旧政府の評議の主旨によると、第2号訳官に与えた達書(たっしがき)(通達)、第3号該国から来た公簡、第4号本邦回答及び口上書などと同じであり、すなわち元禄12年になって双方からの書状の交換が終了し、
本邦に関係がないと聞いていますが、版図の取捨は重大案件である故、別紙の書類を添付し、指示をお伺いします。
                    明治10年3月17日
                           内務卿 大久保利通代理
                           内務少輔 前島密
        右大臣 岩倉具視殿


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3 太政官による独島、朝鮮領土再確認

 国家の最高機関である太政官(右大臣・岩倉具視)は内務省の稟議書を検討した結果、1870年3月20日付けで、”稟議趣旨の竹島外一島に対して本邦(日本─著者)は関係なしと心得る”と次のような指令文を作成し、決定した。

 ・・・

明治10年3月20日
大臣 印 本局 印 印
参議 印
卿輔 印
別紙内務省伺日本海内竹島外一島地籍編纂之件。右ハ元禄5年朝鮮人入島以来舊政府該国ト往復之末逐ニ本邦関係無之相聞候叚申立候上ハ伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉。此叚相伺候也。
御指令接
伺之趣竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事

───上記口語訳───
明治10年3月20日
大臣 岩倉具視の印
別紙内務省稟議の日本海内竹島外一島地籍編纂之件

 右の件は元禄5年朝鮮人(安龍福─著者)が入島以来、旧政府と該国(朝鮮─著者)との往復の結果、本邦とは関係なしと聞き、申し立ての稟議の趣旨を聞き、次のような指令を作成し、この件に対し稟議する。

 指令案


 稟議趣旨の竹島外一島の件に対して、本邦は関係なしと心得るものな


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竹島領有権問題その6(空島政策廃止と勅令第41号)------------

日本政府が竹島の領土編入を閣議決定し、島根県が「北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島から西北85海里に位置する島を竹島と命名し、今後は本県に所属し、隠岐島司の所管とする」と告示したのは、1905年2月22日である。しかしながら、下記の通り朝鮮王朝は、1882年は鬱陵島空島政策を廃止し、再開拓に着手していた。そして、大韓帝国勅令第41号で鬱陵郡を設置し、郡庁に竹島(独島)も管轄させることとしたようである。その地を、日本政府は「……隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ム形跡ナク……」として、無主地先占論で編入した。そして、現在外務省は「竹島は日本固有の領土である」という。「史的解明 独島(竹島)」 愼鏞廈<著>韓誠<訳>(インター出版)を読むかぎり、無主地先占論も日本固有の領土論も、かなりの無理があると言わざるを得ない。
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第7章 朝鮮王朝の空島政策廃止と鬱陵島、独島再開拓

2 朝鮮王朝の空島政策廃止

 朝鮮政府は1881年5月23日、李奎遠(イギュウオン)を鬱陵島検察使に任命したが、その時点から出発準備をしても伐採の季節が終わってしまうことから、実際に出発したのは翌年、1882年4月10日であった。
 出発にあたって国王に拝謁したが、国王・高宗はその席で鬱陵島と共に独島も調査するよう命じた。


 ・・・

 高宗国王は、1882年6月5日、鬱陵島検察使・李奎遠のこうした報告を受けて、
 ①日本人の侵入と”大日本国松島……”と看板を立てたことに対して、日本側に抗議文書を送り、②鬱陵島空島政策を廃止し、鬱陵島の開拓に早急に手をつけるべきだと強調した。

 国王の勅命を受けた領議政・洪淳穆は、壬午軍乱(イモグンラン)が収拾した直後の1882年8月20日、鬱陵島開拓方針として、
①島に移住を希望する百姓を募集し、開墾を奨励し、5年間は無税とする 
②嶺南(慶尚道)、湖南(全羅道)の人を鬱陵島に行かせて漕運船を造るよう、行政的に許可し、
③検察使の推薦を受けて島長を任命し、
④設鎮(軍事施設を作る)は後回しにして、まず設邑(ソルウップ)(村づくり)を優先しながら開拓をすすめる……などを高宗国王
  に建議し、高宗はこれを受け入れた。
  これによって
朝鮮王朝の空島政策は、事実上廃止され、鬱陵島長に全錫奎(チョンソクキュ)が任命された。
 ・・・(以下略)
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 日本政府は、日本人の鬱陵島不法侵入と伐木に抗議する朝鮮政府の繰り返しの要求に、1882年12月渡航禁止令を出したと回答した。
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3 朝鮮王朝の鬱陵島、独島再開拓

 ・・・
 日本内務省は政府の抗議と、実際に移住政策が実行されるのを見て、1883年9月、役人と巡査31名が乗った越後丸を鬱陵島に派遣し、そこに住む日本人254名をことごとく船に乗せ引き上げたのである。

 ・・・

 そして日露戦争における日本の勝利の後、日本人は公然と鬱陵島で山林伐採を行うようになった。駐韓ロシア公使は、ロシアが大韓帝国から山林伐採権を頂いたのに、日本人が勝手に山林伐採を行うのは許せないと、1899年外交文書で大韓帝国外部(外務省)に抗議してきた。こうして日本人の鬱陵島における山林伐採が外交問題にまで発展したのである。……
 この時期においても朝鮮王朝は、鬱陵島のみならず独島に対しても統治権を行使していた。大韓帝国学部(文部省)では、1898年に刊行した<大韓輿地図>と1899年に刊行した<大韓全図>で鬱陵島の東方の正確な位置に独島を記し、于山島と表記した。
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第8章 大韓帝国の鬱陵島、独島行政区域改正

2 1900年、大韓帝国勅令第41号と鬱陵郡の設置

 大韓帝国政府は積極的対策の一環として、鬱陵島、独島の行政上の地位を独立した郡に昇格させ、島監ではなく郡守を置く改正案を議政府(内閣)に提出し、討議した結果、1900年10月24日、満場一致で議決した。これが1900年10月25日の”勅令第41号”で全6条から成る。鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守に改正する件を公布し、官報にも掲載した。



 勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正した件
第1条…鬱陵島を鬱島と改称し江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制(行政単位)に編入し、郡等級は5等にすること
第2条…
郡庁は台霞洞(テハドン)に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること
第3条…開国504年8月16日、官報の官庁事項内の鬱陵島以下19字を削除し、開国505年、勅令36号、第5条江原道26
     郡の6字は7字に改正し、安峽郡(アンヒョップ)の下に鬱陵島3文字を挿入すること
第4条…経費は5等級として準備し、当面諸般の予算が決まっておらず、また事務管理業務もすべて初めてのことなので、島
     で納税によってまかなうこと
第5条…補足すべき諸条は、本島開拓の進み具合に応じて決めていくこと


     光武4年10月25日
     御押 御璽 奉
           勅 議政府 臨時署理
           賛政 内部大臣 李乾夏(イコンハ)

 
 ・・・
 ここで注目すべきことは、第2条の鬱陵島が管轄する”正域は鬱陵全島と竹島、石島とする”とある部分である。ここで竹島は鬱陵島の真横にある岩島、竹嶼島(チョクソド)を指すものであると、李奎遠の《鬱陵島検察日記》から確認される。そして石島が、まさに独島なのである。
 当時、鬱陵島に住む者の多くは全羅道(チョンラド)出身で、全羅道の方言では”トル(石)”を(トク)(独)と発音し、”トル島”が”トク島”になったことは、よく知られている事実で、大韓帝国政府は漢字に直して”石島”と表記したのである。そして発音通りを漢字に直したのが”独島”である。

 ・・・(以下略)

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中井養三郎-事業経営概要(竹島領有権問題その7)-----------

 1904年、中井養三郎が竹島の「貸下願」を出すまでは、日本でも竹島が韓国領であるという認識は常識であったようである。1903年-明治36年ころから竹島(独島)で海驢(アシカ)猟を始めていた中井養三郎もそう考えて貸下願を出したが、外務省政務局長・山座円次郎(ヤマザエンジロウ)、農商務省水産局長・牧朴真(マキボクシン)、海軍省水路部長・肝付兼行(キモツケケンコウ)などとの話し合いの過程で、日本への領土編入ができるのではないかという考えに変わり、当初とは異なる動きになったようである。中井養三郎は一漁民として貸下願を出したのであるが、日露戦争の最中で、竹島は軍事的にその重要性が高まっていたために、貸下願をきっかけにして関係者が動き、俄に領土編入に至ったということのようである。中井養三郎は、そのことを下記のように正直に書いている。「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>(インター出版)からの抜粋である。
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第9章 日本海軍の独島での監視所設置計画と侵奪

3,日本漁民の独島漁業権申請計画と日本政府の計画変更要求 

 日本海軍省が独島に監視所を設置する計画を実行するなか、島根県に居住する中井養三郎という漁民が(リアンクル島)漁業独占願いの要請をした。独島は韓国領土であるけれど、無人島でもあり、この漁業独占願いの要請にかこつけて独島を日本領土に編入し、海軍の監視所も設置しようとする日本の帝国主義的、侵略的な動きが急速に進んだ。


 ・・・

 彼が1910年に島根県に提出するため作成した履歴書と、彼が直接書いた事業経営概要はその時点で、独島は韓国領土であると知っていたことを証明している。また政府高官に取り入って独島を日本領土に編入する画策を行ったということが、次の文からも伺える。
(独島が1905年2月に日帝に奪われ、その5年ほど後に書かれた文であるので、独島の名前は”リアンクル島”ではなく竹島となっている)


 「竹島に海驢(あしか)がたくさん住んでいる事実は鬱陵島近辺の漁民はよく知っていることであるが、……本島(独島─著者)が鬱陵島に属し、韓国領であることを考慮し、将来統監府に行って話し合うこともあるのではないかと思って上京し、いろいろ努力した。そして当時の水産局長・牧朴真氏の助言によって、本島が必ずしも韓国領でないのではないかという疑問が生じた。その調査のためいろいろ動き回った末、当時の水路局長・肝付兼行将軍の判断を求めた。そして本島が全くどこにも属していないという確信を持つようになった。
 そこで事業経営上で必要な要件を全て申し上げ、本島を本邦領土に編入し、そして私に貸していただけるよう、内務、外務、農商部の3大臣にお頼みし、要望書を内務省に提出した。すると
内務当局者は、この時局において(日露戦争中)韓国の領土の疑いがある大海の一滴のような岩礁ひとつのことで、目を光らせている諸外国から日本が韓国に対する領土の野心があると疑われては何の得にもならないので、はなはだ難しい案件だとして却下されるところでした。そこで、ここで引いてはならぬと思って外務省に走り、当時の政務局長・山座円次郎に会い、大いに話し合いました。山座氏は、時局が時局だけに本島の本邦への編入は全く急を用する案件だと答えてくれました。本島に監視所を設置し、無線及び海底電信を通せば、敵艦の動きを監視するのになおさら良いではないか。特に外交上、内務省のように考慮する必要はない。したがって即刻、要望書を本省にまわしておく方がよろしい、と意欲満々でした。
 こういう具合に結局、本島は本邦の領土に編入されたのです。」

<中井養三郎事業経営概要 >中井養三郎 履歴書 附属文書(1910年中井養三郎 作成)《竹島関係資料》第1巻参照



 中井養三郎は1906年3月25日に、独島を日本の領土に編入した後、いかにして自分に貸与されるに至ったかの経緯を奥原福一に述べ、奥原が記録したものがある。これも”中井養三郎はリアンクル島を朝鮮の領土と信じ、日本政府に貸与請願を決意し、明治37年の漁期が終わった後すぐ上京した”と述べており、上京してから海軍省水路局長、外務省政務局長、農商務省水産局長らとの会話のやりとりを比較的詳しく説明している。……(以下略)

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韓国併合後の地図区域一覧図(竹島領有権問題8)-----------

 竹島を日本の領土に編入しながら、韓国を併合した後には、竹島を朝鮮区域に含めた地図を日本陸軍参謀本部陸地測量部などが作成している。《地図区域一覧図》である。”やはり、竹島は鬱陵島の附属島であり、もともと朝鮮の領土であった、という歴史的事実への回帰である”との指摘は無視できない。多分、行政的側面でも、朝鮮区域に含めた方が合理的であるとの判断がなされたのであろうと思われる。
 そして、連合国最高司令部(GHQ)もその地図を指令第677号(日本領土と主権がおよぶ範囲を決定指示)を発令するに当たって活用したようである。指令第677号の発令によって、竹島を日本の領土に編入したという事実は、なかったも同然のこととなった。「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>(インター出版)からの抜粋である。
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第11章 日帝下の独島とカイロ宣言、ポツダム宣言

1 日帝下の独島

 日帝が1910年8月、韓国を植民地にした後、独島は、韓国の領土内の島として扱われた。日本は独島を竹島と呼び、形式上は日本の島根県に属するとしたが、歴史的には朝鮮に属するものと考えていたので、朝鮮領に属する島として扱ったのである。
 ここで独島を朝鮮に属するものとして扱ったいくつかの資料を挙げてみよう。


① 日本海軍省 水路部《日本水路誌》第6巻(1911年)
② 日本海軍省 水路部《日本水路誌》第10巻(1920年)
③ 《歴史地理》第55巻第6号の桶畑雪湖の論文《日本海にある竹島の日朝関係について》
④ 日本海軍省 水路部《朝鮮沿岸水路誌》第1巻(1933年)
⑤ 芝葛盛《新編日本歴史地図》(1933年) 
⑥ 釈尾春芿《朝鮮と満州》(1935年)
⑦ 日本陸軍参謀部 陸地測量部《地図区域一覧図 其一》(1936年)


 この中でも特に注目に値する資料は、日本陸軍参謀本部、陸地測量部の《地図区域一覧図》である。
 日本陸軍参謀部は、1936年3月現在の大日本帝国(日本本州、朝鮮、台湾、関東州、樺太を含む)の《地域一覧図》を同年4月に刊行したのだが、この地図の目的は大日本帝国に属する全域を、本州、朝鮮、台湾、樺太、千島列島、南西諸島、小笠原諸島などにグループ分類することであった。
 日本陸軍参謀部は、この《地図区域一覧図》で、独島を日本本州に含める空間がたっぷりあるのにもかかわらず、独島を鬱陵島と共に”朝鮮区域”に含め、竹島の右側に”朝鮮区域”と”日本の本州区域”を区分する墨で線引きした。


 この《地図区域一覧図》は、日本陸軍省が敗戦など眼中になく、大日本帝国の永遠の存続を信じていた1936年に製作した地域別地図だけに、決定的に重要である。
 この資料で独島が朝鮮と日本のどちらに入れられるかは非常に重大な問題である。なぜならば、もし、大日本帝国が外的圧力によって崩壊するようなことになれば、独島の帰属問題に決定的な影響を与えるからである。
 ところが日本の陸軍参謀本部は、独島を”朝鮮区域”に入れたのである。陸軍省は、独島が鬱陵島の附属島であり、朝鮮領であることをよく知っていたからに他ならない。


 日本帝国主義が1945年8月15日に降伏し、連合国が大日本帝国を解体するにおよんで、この《地図区域一覧》が最も重要な資料のひとつになったことは言うまでもない。
 なぜなら連合国最高司令部がそれまでの大日本帝国領の特定地域に対して、日本政府の政治的、行政的権利の行使およびその停止を命じる最高司令部の命令第677号を公布したとき、特定地域のグループ分類がこの《地図区域一覧》とほとんど100%一致したからである。

 上の資料が教えているように、日帝治下で独島が行政上、島根県に属したとしても、日本国民はもちろん、日本政府さえもが実際、形式的にも実質的にも、独島を朝鮮領とみなしていた。
 いわんや韓国人にとっては、日帝治下においても独島が朝鮮領であることに変わりはなかった。

 ・・・(以下略)

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カイロ・ポツダム宣言領土条項(竹島領有権問題9)----------

 カイロ宣言やポツダム宣言それ自体の中には、独島や竹島についての記述はないが、「日本から返還、また日本が追放されなければならない地域」として、日清戦争以後、日本が中国から奪った地域を含んでいることを考えれば、下記のように、竹島が「日本が暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域」の中に含まれるとすることは、不思議ではない。「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>(インタ ー出版)からの抜粋である。
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第11章 日帝下の独島とカイロ宣言、ポツダム宣言の領土条項

2 カイロ宣言領土条項

 第2次世界大戦の戦勢が連合国に有利に展開し、勝利が目前に迫ってくると、米国大統領ルーズベルト、英国首相チャーチル、中国主席・蒋介石らが1943年11月20日、エジプトのカイロに集まり、戦後処理問題を協議した。このカイロ会談では、日本の敗戦後の、韓国および日本の領土問題について、見解の一致をみたが、その一部をここに引用してみよう。

「上記、連合国の目的は、日本から1914年、第1次世界停戦以後、日本が獲得あるいは占領した太平洋のすべての島を奪還すると同時に、満州、台湾、澎湖島など、日本が中国から奪った一切の地域を中華民国に返還することにある。また日本が、暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域から日本を追い出すことである。
 上の三大国は、朝鮮の民衆の奴隷状態に注意を払い、適当な時期に朝鮮が自由を取り戻し、独立するよう決議した。」


 上のカイロ宣言では、日本から返還、また日本が追放されなければならない地域として3カ所を規定している。すなわち、①米国と英国の立場を反映し、1914年第1次世界大戦以降、日本が獲得あるいは占領した、太平洋上のすべての島、②1894年~1895年、日清戦争以後、日本が中国から奪った満州、台湾、澎湖島など、③日本の暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域である。そしてこの宣言は、次に韓国の独立を約束した。
 ここで韓国の領土は、③の”日本の暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域”の部類に入り、その上限は1894年~1985年の日清戦争時、中国から日本が奪った領土から、日本を追い出さなければならないように、単に1910年からばかりでなく、それ以前においても日本が侵奪した領土があれば、日本は追い出されなければ成らないのである。

 ・・・(以下略)
------------------------------------------------------3 ポツダム宣言領土条項
 
 カイロ宣言は、米国、英国、中国の3大連合国による共同宣言であり、それ自体が日本を拘束するものではなかった。
 ところが、その後1945年7月26日の米国、英国、ソ連の”ポツダム宣言”を日本が8月14日に無条件受諾し、同9月2日には無条件降伏の文書に調印した。ポツダム宣言の第8項目にある”カイロ宣言のすべての条項が実行されるであろうし、日本の主権は、本州、北海道、九州、四国と我々が決定する諸小島に限られるであろう”という規定によって、日本領土を規定する国際的文書になったのである。


 日本は1945年の”ポツダム宣言”、1943年の”カイロ宣言”に拘束されると同時に、またこれらの宣言に対して義務を持つに至った。
 ポツダム宣言によって戦後の日本の領土は”本州、北海道、九州、四国と連合国が決定する諸小島”と明確に限定された。したがって、独島が日本領になるためには、”連合国が独島を日本領と規定すべく”条件がここではっきりと示されていなければならない。
 しかし連合国が独島を日本領と規定したこともないばかりか、むしろ独島を日本が何十年も前に韓国から侵奪した島であるとみなしていたのである。

 ・・・(以下略)

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GHQ指令第677号・第1033号(竹島領有権問題10)----------

 日本の敗戦後、連合国最高司令部は、指令第677号で、”日本領土と主権がおよぶ範囲”を決定し、下記のようにリアンクル島(独島、竹島)の名前をあげて、はっきりと日本領土から除外した。また、指令第1033号第3項で”日本人の漁業および捕鯨業の許可区域(通称マッカーサーライン)”を設定し、その第3項で日本人の独島への接近を禁止した。
 大韓民国は連合国軍の統治を経て、1948年に独立したわけであるが、その時大韓民国政府は、アメリカ軍政庁から竹島(独島)に対する統治権を引き継ぎ、竹島(独島)を慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里1-96番地として管理下に置いたという。
 しかしながら、連合国対日平和条約草案作成段階で、日本の外務省が動いたようである。そして、外務省から情報を得たGHQの政治顧問ウィリアム・シーボルトのアメリカ国務長官宛書信と添付文書が影響して、竹島(独島)が、日本が放棄する島からはずされ、日本領として残る案が作成されたこともあったようである(第6次草案)。結果的には、1952年4月28日に発効した平和条約の領土条項の中
から、竹島(独島)に関わる部分が省かれた。「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>(インター出版)からの抜粋である。
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第12章 連合国最高司令部指令第677号と独島(トクト)の韓国返還

 1 連合国最高司令部指令第677号の”日本規定”

 連合国は、日本が1945年8月15日に降伏し、9月2日の降伏文書に調印すると、GHQ(連合国最高司令部)を東京に置いて、ただちに”カイロ宣言”と”ポツダム宣言”の決議を実行しはじめた。
 連合国最高司令部は、1946年1月29日、”若干の周辺地域を政治、行政面で日本から分離させる問題に関する覚書き”という指令第677号を発令し、日本政府に送った。
 この指令は、日本の降伏文書の決議を実行に移すため、”日本領土と主権がおよぶ範囲”を決定したものである。
 GHQはこれに”日本の規定”という言葉を使ったが、ここには日本の領土と政治的、行政的主権行使の範囲が明確に定義づけられている。
 ここで独島(竹島・Liancourt Rocks)は日本領から分離、除外されているが、第3条ではこうなっている。


 「この指令の目的を実行するために、日本領を次のように規定する。日本の四州(本州、北海道、九州、四国)と、隣接した約1000個の小島を含む、これらに含まれる島は対馬島および北緯30度以北の琉球、南西諸島、である。そこで除かれるのは、(a)鬱陵島、リアンクル島(独島、竹島)、済州島(b)北緯30度以南の琉球諸島(口之島含む)、伊豆、南方、小笠原および硫黄群島と大東諸島、沖ノ鳥島、南鳥島、中之鳥島を含む他のすべての外部太平洋諸島、(c)千島列島、歯舞群島、(小晶、勇留、秋勇留、志葵、多楽島などを含む)、色丹島などである。」

 連合国最高司令部指令第677号第3項により、独島は日本領から明確に除外されたのである。
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3 連合国最高司令部指令の修正条件

 ・・・
 現在の日本政府は独島の領有権論争を始めた直後、連合国最高司令部指令第677号第6条の”これらの指令のどの項目もポツダム宣言第8条に言及された諸小島の最終決定に関する連合国の政策を示すものではない”という条項をとりあげて、これが日本領土を規定したものではないと主張した。
 しかし、連合国最高司令部指令第677号第6条で強調されていることは、複雑に絡んだ連合国の利害関係を考慮して、連合国の一方が仮に異議をとなえた場合、修正する可能性を示唆しているに過ぎず、日本の領土規定であることは間違いないのである。


 この事実は、GHQ指令第677号第5条に”この指令に記されている日本の規定は、これに関する特定の指令がない限り、本連合国最高司令部から発せられるすべての指令、覚書、命令に適用される”とあり、この指令の”日本の規定”に変更を加えようとする時は必ず連合国最高司令部が別途の”特定の指令”を発せねばならず、そうでない限り、この指令の”日本の規定”が未来においてまで適用されることを明らかにしているのである。
 つまり連合国は、この指令が最終決定ではないので、この指令に異議をとなえ修正できるとしているが、この指令でそういう場合は最高司令部がそれに関する”別の特定の指令”を発令しなければならないと規定したのである。

 ・・・(以下略)
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4 連合国最高司令部指令第1033号で独島を韓国領土と再確認

 連合国最高司令部は指令第677号によって、1946年1月29日付けで、独島を駐韓米軍政に移管し、続いて1946年6月22日連合国最高司令部指令第1033号第3項で”日本人の漁業および捕鯨業の許可区域(通称マッカーサーライン)”を設定し、その第3項(b)で日本人の独島への接近を禁止し、次のように述べている。


「日本の船舶および乗務員は今後、北緯37度15分、東経131度53分にあるリアンクル岩(独島、竹島─著者)の12海里以内に接近してはならず、また同島への接近はいかなる場合においても禁止する。

 これは連合国最高司令部が独島を日本の地理的領域から完全に除外し、韓国の領土であることを再び確認したもので、独島をすでに鬱陵島や済州島同様、駐韓米軍政に移管したことを意味するものである。
 ・・・(以下略)


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