-NO197~205

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ハーグ密使事件と日本の対韓処理方針極秘文書------------

 「ハーグ密使事件」とは、韓国の高宗皇帝がオランダの首都ハーグでひらかれる第2回万国平和会議の場で、韓国における日本の統監統治を告発し、国際世論に訴えて国権の回復を図ろうと親書と信任状を託して密使を派遣した事件である。日本政府は、日本の保護権を拒否するとはけしからんと、この事件をきっかけにして韓国併合へさらに大きな一歩を進める。
「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)からの抜粋である。
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8 保護条約反対の運動

    ハーグ密使事件と皇帝の譲位

 1907年(明治40年)6月オランダの首府ハーグでロシアのニコラス2世の招集する第2回万国平和会議がひらかれたのであるが、この会議に、朝鮮の使節として元議政府参賛李相卨(リソウカ)、前平理院検事李儁(リシュン)前駐露公使館参事官李琦鐘(リキショウ)の3名があらわれ、議長であるロシアの委員ネフリュードフに韓国皇帝の信任状を示し、平和会議に出席を要求した。これがハーグ密使事件である。

この事件は、宮廷の御雇教師であったハルバートと李太王の甥趙南昇が画策して、李相卨、李懏の両名が李太王の信任状をもらって、まずロシアの首府セントペテルスブルグにいたり、ここに滞在していた前駐露公使の李範晋に託して、ロシアの皇帝ニコラス2世につぎのような要旨の親書を伝達してもらった。


 朕今日ノ境遇愈々艱難ニシテ四顧之ヲ訴フル所ナシ。唯々陛下ニ向ツテ之ヲ煩陳センノミ。弊邦振興ノ期全ク陛下ノ顧念ニ係ル。今ヤ幸ニ万国平和会議ノ開カルルアリ。該会議ニ於テ弊邦所遇ノ実ニ理由ナキヲ声明スルヲ得ム。韓国ハ曾テ露日開戦ノ前ニ於テ中立ヲ各国ニ宣言シタリ。是レ世界ノ共ニ知ル所也。現時ノ状勢ハ深ク憤慨ニ堪ヘス。陛下弊邦ノ故ナクシテ禍ヲ被ルノ情ヲ特念セラレ、務メテ朕カ使節ヲシテ弊邦ノ形勢ヲ将ツテ該会議開催ニ際シ説明スルヲ得セシメ、以テ万国公然ノ物議ヲ致サバ、則チ之ニ因リテ弊邦原権庶クハ収回スルヲ得ム。果シテ然ラハ朕及ヒ我カ韓全国ハ感激シテ陛下ノ恵沢ヲ忘レサルヘシ。前駐韓貴国公使回去ニ際シ願望ノ深衷ヲ付陳シ、該公使ニ託スル所アリ、唯垂諒アランコトヲ望ム。

 それから李範晋の息子で前駐露公使館参事官の李琦鐘を一行に加え、直ちにオランダのハーグへ向かった。ハーグについた一行は平和会議の委員に面会を求めた。
 しかしポーツマス条約で日本の朝鮮支配をみとめていたロシア、アメリカ、イギリスは、この韓国皇帝の派遣した代表との面会を断った。オランダ駐在の都築公使から外務省にきた報告によると、小国の代表は概して朝鮮のいうことには同情していたが、大国はこれを取り上げなかった、といっている。 
 このハーグ密使事件のことは、都築公使から外務省にすぐに電報がきた。政府はただちに閣議をひらき、つぎのような方針をきめて、朝鮮にいた統監伊藤博文に通知した。この方針のなかにもう併合の計画がでてきていることは注目していい。


  
   韓国皇帝ノ密使派遣ニ関連シ廟議決定ノ対韓処理方針通報ノ件

 明治40年7月12日  第141号(極秘)
 西園寺総理大臣ヨリ
外務大臣宛57号貴電ノ件ニ関シテハ元老諸公及閣僚トモ慎重熟議ノ末左ノ方針ヲ決定シ本日御裁可ヲ受ケタリ即チ帝国政府ハ現下ノ機会ヲ逸セス韓国内政ニ関スル全権ヲ掌握セムコトヲ希望ス其ノ実行ニ付テハ実施ノ情況ヲ参酌スルノ必要アルニ依リ之ヲ統監ニ一任スルコト

若シ前記ノ希望ヲ安全ニ達スルコト能ハサル事情アルニ於テハ少クトモ内閣大臣以下重要官憲ノ任命ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行ヒ且統監ノ推薦ニ係ル本邦人ヲ内閣大臣以下重要官憲ニ任命スヘキコト前記ノ主旨ニ基キ我地位ヲ確立スルノ方法ハ韓国皇帝ノ勅諚ニ依ラス両国政府間ノ協約ヲ以テスルコト
本件ハ極メテ重要ナル問題ナルカ故ニ外務大臣韓国ニ赴キ親シク統監ニ説明スルコト
   以上


本件ニ付キテハ陛下ヨリ閣下ニ対シ特ニ優渥ナル御言葉アリ委細外務大臣ヨリ御伝達致スヘク同大臣ハ来ル15日出発貴地ヘ直行ノ筈
    処理要綱案
 第1案 韓国皇帝ヲシテ其大権ニ属スル内容政務ノ実行ヲ統監ニ委任セシムル
      コト
 第2案 韓国政府ヲシテ内政ニ関スル重要事項ハ総テ統監ノ同意ヲ得テ之ヲ施行シ且施政改善ニ付キ統監ノ指導ヲ受クヘ
      キコトヲ約セシムルコト
 第3案 軍部大臣度支部大臣ハ日本人ヲ以テ之ニ任スルコト
    第2要綱案
韓皇帝ヲシテ皇太子ニ譲位セシムルコト
将来ノ禍根ヲ杜絶セシムルニハ斯ノ手段ニ出ルモ止ムヲ得サルヘシ  
但シ本件ノ実行ハ韓国政府ヲシテ実行セシムルヲ得策ト為スヘシ国王扜政府ハ統監ノ副署ナクシテ政務ヲ実行シ得ス(統監
ハ副王若クハ摂政ノ権ヲ有スルコト)
各省ノ中主要ノ部ハ日本政府ノ派遣シタル官僚ヲシテ大臣若クハ次官ノ職務ヲ実行セシムルコト
    賛否情況
                              山県    寺内    多数
 1 韓皇日本皇帝ニ譲位            今日ハ否  今日ハ否  否
 2 韓国皇太子ニ譲位              今日ハ否  今日実行  否
 3 関白設置(統監)                可       可      可
 4 各省ニ大臣又ハ次官ヲ入レル        可       可      可
 5 顧問ヲ廃ス                   可       可      可
 6 統監府ハ幕僚ニ限リ他ハ韓政府ニ合併  可       可      可
 7 実行ハ統監ニ一任ス             可       可      可
 8 外務省ヨリ高官派出統監ト打合(外相)   可       可      可
 9 勅諚説                      否       否      否
10 協約説                      可       可      可
11 協約ニ国王同意セサルトキハ合併ノ決心  可       可      可
   (即チ(1)ヲ実行ス)

 これはかなりの強硬方針であったが、伊藤博文もこれとはべつに独自の強硬方針をとっていた。彼は密使事件の報告をうけると、7月3日に練習艦隊乗組将校とともに参内した際、ハーグ事件に関する電報の写しを皇帝に見せ、将校の謁見が終わって退出する際皇帝に対して、「かくの如き陰険なる手段を以て日本の保護権を拒否せんとするは、寧ろ日本に対して堂々宣戦を布告せらるるの捷径なるに若かず」といい、「其ノ責任全ク陛下一人ニ帰スルモノナルコトヲ宣言シ、併セテ其ノ行為ハ日本ニ対シ公然設意ヲ発表シ、協約違反タルコトヲ免レス。故ニ日本ハ韓国ニ対シ宣戦ノ権利アルモノナルコトヲ総理大臣ヲ以テ告ケシメ」た(同書、伊藤博文の西園寺首相宛電報)。



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太皇帝(前高宗皇帝)は毒殺されたのか?--------------

民族挙げての独立運動が始まった3月1日早朝、東大門と南大門などの主要な地域に「ああ、わが同胞よ!君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する。 隆煕13年正月  国民大会」という壁新聞が張り出されたという。日本の支配に不満を募らせていた朝鮮民族が太皇帝(前高宗皇帝)の急逝を日本人による毒殺と見なして不満を爆発させ、起ち上がったということを示しているようである。
 前段は「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)、後段は「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。

「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)-------------------------------
                              第10章 抵抗
 1 3・1蜂起

  前皇帝の毒殺

 日韓併合後、絶対的専制君主の大権を背景にした10年間にわたって寺内正毅の残酷で野蛮な朝鮮総督府の圧政に苦しんだ朝鮮民族は、ロシア革命と、アメリカ大統領ウイルソンが提唱した民族自決主義に刺激され、独立を目ざして決起した。
 王妃を日本の公使一味に殺害された後も、日本の野蛮な家臣絶えず威嚇され、ついに「ハーグ密使一件」を口実に、皇位を追われた悲劇の高宗皇帝(李太上皇。退位後の高宗皇帝の称号)が、1919年1月22日急逝した。数千の群衆が徳寿宮の門前にひれ伏して慟哭した。毒殺されたという噂が流れた。総督府の回し者によって毒殺されたことは、李方子氏の『流れのままに』(啓佑社)によっても事実のようである。
 
 ロシア革命の勝利によってロシア帝国の植民地だった国々が次々と解放されていた。日本は当然、この歴史の波が自主独立を志向する朝鮮人民を鼓舞激励することをおそれ、厳重な警戒態勢を布き、武装した日本人をさらに大量に移民させた。この大量の移民が肥沃な土地を略奪し、朝鮮民族を亡国の民にして流浪に追いやった。


 日本の虐政に皇位を追われてからも怒りをもちつづけていた高宗太上皇は、パリで開かれたヴェルサイユ講和会議(1919年1月)に、皇国日本の武断専制政治を告発し、国際世論の力により国権の回復を図ろうとして、使節を派遣する準備を秘密裏にしていた時の急逝であった。毒殺の条件は揃っていた。

・・・(以下略)

「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」---------------------------
                   Ⅴ 光武帝(高宗皇帝)の主権守護外交・1905~1907
 5 主権守護外交の終焉と復活:ハーグ密使派遣・急逝・独立運動


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 前述のようにハルバートは、1906年の親書伝達の密旨の結果によっては、皇帝の声明が奪われるおそれがあること危険な勅命だと知っていた点を明らかにした。とすれば光武帝自身は、1907年の特使派遣で所期の目的を獲得できなかったばあい、自身に危害が及ぶことを予想しないで、ハーグ特使を派遣したであろうか。この問いには、当時の光武帝自身の意事後の対策について知り得ない現在の状況では、だれも確実な答えを出せない。けれども1905年、日本外交権譲渡の要求について、皇帝自身の考えを明確に披瀝したことがある。伊藤が日本の帝(みかど)の親書を奉呈しながら、条約の締結を強制したとき、次のように答えている。

 この条約を許認することは、すなわち亡国同然であるから、朕はこの宗社で殉ずることがあっても、決して許認することはできない。


 このように「宗社で殉ずる」覚悟は決してたやすく変えられるものではない。この覚悟が変わっていたら、勒約強制10日後に、どうして米国の介入を要請する緊急電文を発送することができるだろうか。また、勒約文書の「朱肉も乾かぬうち」の2ヶ月後に、どうして条約の無効を宣言し、駐在官の派遣に反対する国書を、外信記者をとおして満天下に知らせようとしたのか。国書密送の7ヶ月後に、条約が無効であることを宣言し、事態の収拾のために国際裁判所に提訴する親書を、どうして発送することができたであろうか。その後、万国平和会議にどうして特使を派遣することができたであろうか。
 伊藤の脅迫に対する皇帝の回答は、自身の運命をすでに予見した言葉である。1919年1月、彼の急逝は、あくまで文書に皇帝の御璽 を押させることで、条約が批准されたかのように外見をとりつくろうとした、奸臣らの陰謀と無関係ではない。尹徳栄などの奸臣らは1918年の末まで、いわゆる1910年の合併文書に欠けた皇帝の御璽を押すことを執拗に迫った。これは1907年に李完用が、乙巳勒約文書にない皇帝の御璽を遅ればせながらでも押させようとしたことと同じである。数日後、太皇帝(高宗皇帝)は突然崩御した。毒殺であるといういろいろな証拠が出たが、太皇帝の死は「完全犯罪」として、永遠の未解決事件として今日まで残されている、太皇帝の崩御についての疑問点は一つや二つではなかった。大韓帝国の法統を継承した上海臨時政府は、そのような疑問点を次の4つに要約して整理した。


 (1)崩御後、即時に玉体に紅斑が瞞顕し糜爛した。
 (2)侍女二人が同時に致死した。
 (3)尹徳栄、尹沢栄は当日、晨4時に諸貴族を宮廷内に請激し、日本人が弑殺したのではないという証書に捺印しようと
   する運動に尽力したが、朴泳孝、李戴完の両人の反駁によって証書がならなかったのはなぜか。
 (4)閔泳綺、洪肯燮が玉体を歛襲するとき糜爛が早すぎるのを不審に思い、これを外に伝えたところ日本人警官がただ
   ちに右の2人を拿致、詰問して激論した。


 臨時政府の文書でとくに注目すべき点は、尹徳栄の行動である。彼は事後に、合邦文書を批准された外交文書に仕立てる工作の先頭にたった。そればかりでなく、日本側が太皇帝を弑殺しなかったということを、進んで証明しようとした。したがって、弑殺説をたんなる巷のうわさとして片付けるには、あまりに疑問点が多い。太皇帝の側近は、彼の急逝の裏には日本の陰謀か指嗾があった、と固く信じていた。たとえば、義親王がそのように確信していた代表的な人物である。彼は厳妃の干渉がなければ帝位を継承する位置にあった。彼は1919年11月、大同団の手引きで臨時政府に参加しようと出国を試みた。彼の臨時政府への合流意図は、日本警察の迅速な妨害工作によって安東県駅で捕らえられて中止された。しかし彼が出国するのに先立って7月9日、次のような諭告を送り、自身が光武帝の密旨をうけて、機会をうかがっていたさなかに太皇帝が弑殺されたことを明らかにした。

 (前略)先年、先帝の陛下の密旨を奉承してただちに発とうとしたが、荆延刺壁の掣刺を考えてこれを隠し、未だ遂行できていないが、稀世の大凶漢は先帝をその毒手で弑害した。(後略)

 義親王の諭告の発表や第2の独立宣言文作成への参加の試みなどは、すべてが光武帝生存時にある種の密旨をうけ、それをなんらかの形で成就させる機会をうかがっていたことを物語るものである。とくに、光武帝の上海徳華銀行の独立運動資金口座通帳を義親王が所持していたことは、なんらかの具体的な構想があったことを示している。なぜなら、光武帝が上海銀行に預託した資金は、密使の海外派遣の際に使われる資金であるからだ。ここで注目すべき点は、太皇帝の死因にかかわる疑惑、とくに巷に急速に広まった毒殺説が事実とは関係なく、朝鮮人民の意識のなかに潜在していた反日感情を表出させるうえで直接的なきっかけになったことである。
 ・・・(以下略)

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高宗皇帝の信任状と親書(乙巳条約無効宣言)------------

 乙巳条約(第2次日韓協約)締結前後、高宗皇帝は朝米修好通商条約の条項を根拠に、アメリカの協力を得ようと様々な働きかけをした 。しかしながら、そのときすでに日本に傾いていた大統領の方針のために黙殺されたり、公式ルートではないとの理由で受けつけてもらえなかったりして、協力を得ることができなかったのであるが、条約締結直後のハルバート宛緊急電文も乙巳条約(勒約)に対する高宗皇帝の不同意の意志が明確に表現されている。
 乙巳条約(第2次日韓協約)が国際法的に無効であるという論拠はいくつかあるが、下記の信任状や親書はその最も重要な一つである。条約締結の最高責任者ともいうべき高宗皇帝が、自ら威嚇・強要・脅迫を理由に条約の無効を宣言しているからである。「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
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                   Ⅴ 光武帝の主権守護外交・1905-1907年

 2 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書

 
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 期待していた米国の協力がない状態で11月18日に勒約が締結されると、皇帝はこれが無効であることをただちに明らかにするために、芝罘経由で26日に次のような電文をハルバートに緊急に送った。

 朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であることを宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。
                                                 大韓帝国皇帝

 ・・・(以下略)
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 4 勒約無効、国際裁判所提訴の要請:1906年6月22日親書

 
・・・
 朕、大韓皇帝はハルバート氏を特別委員に任命し、我が国の帝国皇室と政府にかかわるすべての事項について英国とフランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギーおよび清国政府など各国と協議するよう委任した。この際ハルバート氏に親書を各国に伝達するようにさせており、各国皇帝と大統領、君主陛下に対して、この親書で詳細に明らかにされているように、わが帝国が現在、当面している困難な状況を残らずに聞き入れてくれるように望むものである。
 将来、われわれはこの件をオランダのハーグ万国裁判所に付しようとするものであり、これが公正に処理されるよう各国政府は援助してくれることを願う。
  大韓開国515年6月22日
  1906年6月22日
                                                     漢城にて

   御璽

 
・・・(以下略)
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         親書
 大韓国大皇帝は謹んで拝し
大ロシア大皇帝陛下に親書を差し上げます。
 貴国とわが国は長い間、数回にわたって厚い友誼をを受けて参りました。現在わが国が困難な時期に直面しているので、すべからく正義の友誼をもって助力してくださるものと期待しております。
 日本がわが国に対して不義を恣行して、1905年11月18日に、勒約を強制締結しました。このことが強制的に行われた点については、3つの証拠があります。
 第1に、わが政府の大臣が調印したとされるものは、真に正当なものではなく、脅迫を受けて強制的に行われたものであり、
 第2に、朕は政府に対して調印を許可したことがなく、
 第3に、政府議会について云々しているが、国法に依拠せずに会議を開いたものであり、日本人が大臣を強制監禁して会議
      を開いたものであります。
 状況がこうであるため、いわゆる条約が成立したというのは公法に反するため、当然、無効であります。
 朕が申し上げたいのは、いかなる場合においても断じて応諾しなかったということであります。今回の不法条約によって国体が傷つけられました。ゆえに将来、朕がこの条約を応諾したと主張することがあっても、願わくは陛下におかれましては信じたり聞き入れたりせず、それが根拠のないことをご承知願います。
 朕は、堂々とした独立国がこのような不義で国体が傷つけられたので、願わくは陛下におかれてはただちに公使館を以前のようにわが国に再設置されるよう望みま。さもなくば、わが国が今後この事件をオランダのハーグ万国裁判所に公判を付しようとする際に、わが国に公使館を設置することによって、わが国の独立を保全できるよう特別に留意してくださることを望みます。これは公法上、真に当然なことでしょう。願わくは、陛下におかれては格別な関心を寄せられるよう期待します。
 この件の詳細な内容は、朕の特別委員であるハルバートに下問してくだされば、すべて解明してくれるだろうし、玉璽を押して保証します。
 陛下の皇室と臣民が永遠に天のご加護がありますよう、厳かに祈ります。併せてご聖体の平安を希求いたします。
   大韓開国515年6月22日
   1906年6月22日
                                           漢城において、李煕・謹白

   御璽

 
・・・(以下略)

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乙巳条約(第2次日韓協約)無効論の論拠-------------

 韓国併合へと至る道筋をつけたという意味で極めて重要な乙巳条約(第2次日韓協約)が、法的に無効であったという学説がある。そして、それは単なる過去の問題ではなく、日韓はもちろん、日朝にとっても、極めて現代的な問題としてあるという。それは、1965年の日韓条約締結の際に、最大の係争点の一つであったが、日韓条約では有効・無効の判断を下すことなく、対立点を残したまま調印されたからである。1991年に始まった日朝国交正常化交渉では、それが、今なお交渉進展を阻む対立点の一つになっているというのである。
 伊藤博文は、日本の「立憲体制の生みの親」であり、「明治の元勲」であると教えられたわれわれには、乙巳条約無効論の論拠は衝撃的である。「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
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Ⅰ 研究の現状と問題点

 2 脅迫による協約締結

 
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 交渉の経過については本書収録論文以外にも多くの論文があるので省略し、ここでは、協約の無効を証拠づける武力的威迫、脅迫的言辞、不法行為を列挙するにとどめよう。

<武力的威迫>
① ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、17,18両日は王城前、鐘路付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した。

② 17日夜、伊藤は参内に際し、長谷川韓国駐劄軍司令官、佐藤憲兵隊長を帯同し、万一の場合ただちに陸軍官憲に命令を発しうる態勢をとった。『大韓季年史』によれば、「長谷川好道及其部下各武官多数、歩兵、騎兵、憲兵与巡査及顧問官、輔佐員、連続如風雨而馳入闕中、把守各門・漱玉軒咫尺重重囲立、銃刀森列如鉄桶、内政府宮中、日兵亦排立、其恐喝気勢、難以形言」という。要するに王宮
(慶雲宮、のち徳寿宮と改称)内は日本兵に制圧され、その中で最後の交渉が行われたのである。

③ 17日午前11時、林公使は韓国各大臣を公使館に招集して予備会商を開いた後、「君臣間最後ノ議ヲ一決スル」ため御前会議の開催を要求し、午後3時ごろ閣僚に同道して参内した。その際、護衛と称して逃亡を防止するため、憲兵に「途中逃げ出さぬやうに監視」させた。事実上の拉致、連行である。


<脅迫的言辞>
④ 15日午後3時、皇帝に内謁見した伊藤は、恩着せがましく「韓国ハ如何ニシテ今日ニ生存スルコトヲ得タルヤ、将又韓国ノ独立ハ何人ノ賜ナルヤ」と述べ、皇帝の対日批判を封じた後、本題の「貴国ニ於ケル対外関係所謂外交ヲ貴国政府ノ委任ヲ受ケ、我政府自ラ代ツテ之ヲ行フ」ことを申し入れた。これに対し回答を保留する皇帝に向かい、伊藤は「本案ハ……断シテ動カス能ハサル帝国政府ノ確定議ナレハ、今日ノ要ハ唯タ陛下ノ御決心如何ニ存ス。之ヲ御了承アルトモ、又或ハ御拒ミアルトモ御勝手ナリト雖モ、若シ御拒ミ相成ランカ、帝国政府ハ已ニ決心スル所アリ。其結果ハ果シテ那辺ニ達スヘキカ、蓋シ貴国ノ地位ハ此条約ヲ締結スルヨリ以上ノ困難ナル境遇ニ坐シ、一層不利ナル結果ヲ覚悟セラレサルヘカラス」と暴言を吐き、威嚇した。

⑤ 同席上、逡巡する皇帝が「一般人ノ意向ヲモ察スルノ要アリ」と述べたのをとらえ、伊藤は、その言は「奇怪千万」とし、専制君主国である韓国皇帝が「人民意向云々トアルモ 定メテ是レ人民ヲ扇動シ、日本ノ提案ニ反抗ヲ試ミントノ御思召ト推セラル。是容易ナラサル責任ヲ陛下自ラ執ラセラルルニ至ラン」と威嚇した。

⑥ 17日夜、韓国閣僚との折衝の席上、「断然不同意」、「本大臣其折衝ニ当リ妥協ヲ遂クルコトハ敢テセサル」と拒否姿勢が明確な朴斉純外相の言葉尻をとらた伊藤は、巧妙に誘導し「反対ト見做スヲ得ス」と一方的に判定した。他の4人の大臣のあいまいな発言もすべて伊藤により賛成とみなされた。歪曲である。とくに協約書署名者である朴斉純外相が反対者であることを認めなかった。

⑦ 同席を終始主導した伊藤は、韓主卨参政、閔泳綺度相の2人の反対のほかは6人の大臣が賛成と判断し、「採決ノ常規トシテ多数決」による閣議決定として、ただちに韓参政に皇帝の裁可を受けるよう促し、拒否するならば「予ハ我天皇陛下ノ使命ヲ奉シテ此任ニ膺ル。諸君ニ愚弄セラレテ黙スルモノニアラス」と恫喝した。しかし、あくまで反対の韓参政は、「進退ヲ決シ、謹テ大罪ヲ待ツノ外ナカルヘシ」と涕泣しながら辞職を漏らし、やがて退室した。韓参政の辞任を恐れた伊藤は「余リ駄々ヲ捏ネル様ダッタラ殺ッテシマヘ、ト大キナ声デ囁イタ」という。肉体的・精神的拘束を加えて上での威嚇である。

<不法行為>
⑧ 17日午後8時、あらかじめ林公使と打ち合わせた計画に従って参内した伊藤は、皇帝に謁見を申し入れ、病気と称して謁見を拒否した皇帝から「協約案ニ至テハ朕カ政府大臣ヲシテ商議妥協ヲ遂ケシメン」との勅諚を引き出し、閣僚との交渉を開始した。これは、韓国閣議の形式をとったので、閣議に外国使臣である伊藤、林らが出席、介入したことは不法である。もともと日本政府の正式代表ではない伊藤の外交交渉への直接参加も違法である。

⑨ 協約書への韓国側署名者は「外部大臣朴斉純」、調印は「外部大臣之章」と刻まれていいる邸璽(職印)であるが、その邸璽は、公使館員らによりもたらされた。23日付け『チャイナ・ガゼット』によれば、「遂ニ憲兵隊ヲ外部大臣官邸ニ派シ、翌18日午前一時、外交官補沼野ハ其官印ヲ奪ヒ宮中ニ帰リ、紛擾ノ末、同1時半日本全権等ハ擅ニ之ヲ取極書ニ押捺シ」た、とのソウル発電報を掲載している。 
 『大韓季年史』もまた「使公使館通訳員前間恭作、外部補佐員詔(ママ)野、往外部、称有勅命而求其印、須知分斯即与之、無数日兵環囲外部、防其漏失、日本公使館書記官国分象太郎、預待於漱玉軒門前、仍受其印、入会議席遂捺之、時18日(旧暦10月21日)上午一点鐘也」と述べ、日本公使館員による邸璽入手の経緯が詳しく述べられている。前間恭作は二等通訳官、沼野安太郎は外交官補、国分象太郎は二等書記官である。
 伊藤の復命書である「日韓新協約調印始末」では「朴外相ハ其官印ヲ外部主任者ニ持来ルヘキ旨電話ヲ以テ命シ」たとしか記していないが、前述の2資料の記述は具体的であり、日本人が強奪するようにして邸璽を持ってきた事実は否定できない。

 以上の事実は、いずれも韓国代表者個人に対して加えられた脅迫的行為または強制である。それが条約無効の根拠となることを前述したが、当時もっとも権威ある概論書として流布した東京帝国大学法科大学教授高橋作衛『平時国際法論』(1903年、日本大学)も述べている。
「主権者又ハ締結ノ全権ヲ有スル人ガ、強暴又ハ脅迫ヲ受ケ、為メニ条約ニ記名スルニ至リタルトキハ、該条約ハ有効ニアラス。斯ル場合ニ於テハ、国家ノ名ニ於テ条約ヲ為ス個人ハ、強迫ヲ受ケ、為メニ自由決定ノ能力ヲ失ヒタルモノナルヲ以テ、其条約ハ拘束力ヲ生スルモノニアラス」



------------------堤岩里(ジェアムリ)事件--------------------

 日本統治時代の1919年3月1日に始まった朝鮮の独立運動(独立万歳運動・万歳事件)は、都市から農村各地に広がるとともにしだいに激しくなっていった。土地調査事業などによって土地を失ったり、米を収奪された農民が、日本の武力による弾圧に、農具で武装し命懸けで抵抗するようになっていったからだという。そして、地方都市では、周辺の農村から人々が集まり、市場が開設される「市日」が蜂起の日にあてられるようになった。堤岩里(ジェアムリ)虐殺事件もそうした流れの中で起こった。時の長谷川総督も「検挙班員及軍隊ノ行為ハ、遺憾ナガラ暴戻ニ渡リ、且ツ放火ノ如キハ明カニ刑事上ノ犯罪ヲ構成スルモ……」と認めざるを得ない犯罪行為であった。事件に関する下記の文書のやり取りからも、できるだけ事実を隠蔽し、責任を転嫁しようとする姿勢が窺われる。「万歳事件を知っていますか」木村悦子(平凡社)からの抜粋である。
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第3章 70年を遡る

  信心へ下された重い鉄槌
 
・・・
 「水原・堤岩里事件」の発端も、市日に合わせて行われた近隣の「万歳」デモである。
 3月21日、水原郡郷南面の発安場の騒動の訓戒をしたい、と堤岩里の住民を教会に呼び集め、教会堂を封鎖し、石油を撒いて火を放ち、逃げまどう者には発砲し23名を虐殺したのである。
 この時、なぜ堤岩里だったのか──。
 発安場の「万歳」デモに堤岩里の住民が多数参加していたことは紛れもない事実だが、この近辺で、堤岩里はキリスト教徒の最も多い村だったのである。


 「水原・堤岩里事件」に関して、憲兵隊司令官兼総督府警務部長・児島惣次郎は4月28日、総督府政務総監・山県伊三郎と拓殖局長官・古賀廉造に宛てて、以下の報告を送っている。

     堤岩里騒擾事件

 歩兵第79聯隊附中尉有田俊夫ハ、京畿道水原郡発安場ノ守備ヲ命セラレ4月13日同地ニ到着セリ。当時、発安場地方ハ騒擾ノ余禍ヲ受ケ未タ民心ノ安定ヲ見ルニ至ラス。即チ、3月下旬ヨリ4月初旬ニ亘リ同地方ニ於テハ官公署ノ破壊焼却セラレタルモノ尠カラス。殊ニ花樹、沙江ノ両地ニ於テハ巡査ヲ虐殺シ且其ノ死屍ヲ陵辱セリ。其ノ他所在内地人被害頻々トシテ起リ、民心ノ恐慌憤怒一時其ノ極ニ達セリ。発安場ニ於テハ3月31日市日ニ際シ、約一千名ノ暴民太極旗ヲ押立テ路上演説ヲ為シ、内地人家屋ニ投石暴行シ、終ニ白昼小学校ニ放火シテ万歳ヲ高唱スル等ノ横暴ヲ逞ウシ、翌4月1日晩ヨリ発案場周囲ノ山上80余箇所ニ篝火ヲ焚キ、示威ヲ以テ、内地人ノ退去ヲ迫リ、為ニ内地人婦女子43名ハ幾多ノ危険、困難ヲ排シ三里隔ツル三渓里ニ避難セリ。一面居住民男子9名ハ孰レモ武装シ駐在巡査6(内地人2、鮮人4)及歩兵4名ト共ニ、連夜徹宵警戒ニ努メ恰モ適中ニ在ルヲ感セシメタリ。而シテ兵力ノ増加ニ伴ヒ、漸ク避難民ノ復帰ヲ見タルカ如キ実況ニアリタリ。

 一般ノ情況斯ノ如クシテ諸種ノ流言飛語尚其ノ跡ヲ絶タス。此ノ時ニ当リ有田中尉ハ、同地方騒擾ノ根源ハ堤岩里ニ於ケル天道教徒並基督教徒ナルコトヲ聞キ、之カ検挙威圧ノ目的ヲ以テ、部下11名ヲ率ヒ4月15日午後3時半発案場出発。巡査及巡査補ト同行シ、途中暴民ノ逃亡ニ備フル為、巡査ニ兵2名ヲ附シ、小隊主力ノ反対方面ニ行動セシメ、堤岩里ニ到着スルヤ巡査補ヲシテ天道教徒及耶蘇教徒二十有余名ヲ、耶蘇教会ニ集合セシメ、先回ノ騒擾及将来ノ覚悟ニ関シ、2、3質問ヲ試ミツツアリシ間、1名ノモノハ逃亡セントセシニヨリ之ヲ防止セルニ、他ノ1名ト共ニ打掛リ来リシヲ以テ、直チニ之ヲ斬棄テタリ。此ノ景況ヲ見ルヤ鮮人全部ハ暴行ノ態度ニ出テ、其ノ一部ハ、木片又ハ腰掛等ヲ以テ反抗シ来リシオ以テ、直チニ出テテ、兵卒ニ射撃ヲ命シ、殆ント全部ヲ射殺スルニ至レリ。此ノ混乱中、西側隣家ヨリ火ヲ発シ、暴風ノ為メ直チニ教会堂ニ延焼シ、遂ニ20余戸ヲ焼失スルニ至レリ。
 中尉ハ兵ヲ二分シ、当地人民ノ避難及家財ノ運搬ニ従事セシメ、自ラハ兵2名ヲ以テ背後ノ山上ニ至リ、警戒ヲ為セリ。
 要スルニ、有田中尉ノ行動ハ強烈ニ過キタルヲ免レスト雖、当時ノ実情之ヲ然ラシメタルモノアリタルカ如シ


 以上が憲兵隊司令官にして総督府警務総長の通牒である。
 京畿道水原郡発案場の守備を命ぜられ、軍警の指揮に当たった有田俊夫中尉の措置は、「騒擾」後の実情からみて、万やむを得ぬ手立てであり、必然の帰結であった──と。


 ・・・

 …
内閣総理大臣・原敬は、朝鮮騒動に関して”訓令すべき趣旨”を閣議で相談の上、朝鮮総督・長谷川好道に対し以下のような訓電を発している。
 「今回の事件は内外に対し極めて軽微なる問題となすを必要とす。然れ共、実際に於て厳重なる処置を取りて、再び発生せざる事を期せよ。但、外国人は最も本件に付注目し居れば、残酷苛察の批評を招かざる事。十分の注意ありたし」

 ・・・

 水原・堤岩里事件後(4月22日)、総督・長谷川好道は総理・原敬に宛てて以下のような報告をしている。

 3月下旬、京畿道水原安城両郡地方ニ暴民盛ニ暴行シ、官公署及ビ民家ヲ破壊焼棄シ、日本人巡査2名殺害セラレ、殊ニ内一人ハ言フニ忍ビザル惨殺ヲ加ヘラレタリ。此地方暴民ニ対スル威圧ト犯人検挙ノ為メ、稍有力ナル検挙班ヲ派遣シ、4月2日ヨリ同月14日ニ至ル間、64部落ニ亘リ大検挙ヲ行ヒ約800ヲ検挙シタリ。此検挙中、暴民死10、傷19ヲ生ジ、火災発生17部落、焼失戸数276ニ及ベリ。又之ト同時ニ 該地方ニ兵力ヲ分散シ、前記検挙ニ協力スルトコロアリシガ、偶々水原郡発案場ニ派遣セラレタル歩兵中尉以下12名ハ4月15日、付近駐在巡査ヲ同行シ、堤岩里基督教会堂ニ基督、天道両教徒約25名ヲ集メ、訊問訓戒ヲ加ヘントシタル際、教徒等、反抗セシタメ、殆ンド全部ヲ射殺シ火ヲ放チタルニ、強風ナリシ為、28戸ヲ焼失シタル事実アリ。

 前述検挙班、コウナコウ(ママ)地方ニ於テ火災ヲ生ゼシハ、取調ノ結果、一部ハ夜間混雑ノ結果失火シタルモノナルモ、他ノ一部ハ暴民ノ獰悪ナル行為。殊ニ巡査2名ノ惨殺ニ報復心ヲ起シ居タル検挙班員ノ放火ナル事ヲ確メタリ。又、堤岩里ノ殺生及ビ放火ハ、嚮ニ発案場(堤岩里ヨリ半里ノ距離)ニ於テ、同地小学校ヲ焼キ暴行ヲ為シタルモノハ、堤岩里基督、天道両教徒ナル旨、同村内地民ヨリ訴ニ接シ、且彼等ヲ掃滅セラレタシト部落民ノ懇請ヲ受ケ、前述ノ処置ニ出デタルニ、却テ反抗シタルタメ、斯ノ如キ行為ニ出デタルモノノ如シ。以上、
検挙班員及軍隊ノ行為ハ、遺憾ナガラ暴戻ニ渡リ、且ツ放火ノ如キハ明カニ刑事上ノ犯罪ヲ構成スルモ、今日ノ場合、正当ノ行為ヲ公認スルハ、軍隊並ビニ警察ノ威信ニ関シ、鎮圧上不利ナルノミナラズ、外国人ニ対スル思惑モアレバ、放火ハ凡テ検挙ノ混雑ノ際ニ生ジテル失火ト認定シ、当事者ニ対シテハ、孰レモ其手段方法ヲ得ザル廉ニヨリ、其指揮官ヲ行政処分ニ付スル事トセリ。
 堤岩里付近ノ状況ハ、京城在住ノ外国人ニ宣伝セラレ、英国総領事代理、米国領事、及ビ外国宣教師、一部現状ヲ視察シタリ。御参考迄


----------------高宗皇帝と「晋」王子の死は毒殺?----------------

 昭和天皇のお妃候補として噂されていた日本の皇族梨本宮守正の第一王女「梨本宮方子」は、日韓併合後のいわゆる「内鮮一体」の方針の流れの中で朝鮮「李王家世子」(朝鮮の皇太子)である李垠(イ・ウン)と結婚し「李方子(イ・バンジャ)」となった。明らかに政略結婚であったが、2人は励まし合い、助け合って様々な困難に対した。
 彼女の著書「流れのままに」には、野蛮な政争の具として扱われる怒りを、懸命に押し殺しつつ生きた皇族「李垠」と「方子」夫婦の思いが綴られている。日本の皇族に、単なる風評が情報として伝えられることはないであろうから、高宗皇帝の死や李垠・方子夫婦の子「晋」第一王子の死は、いずれも毒殺に違いない。しかしながら、彼女にはそれを追求したり明らかにしたりすることが許されず、戦後もその時の思いを「……」の中に込めてふり返るしかなかったのであろう、「流れのままに」で「……」が多用されている理由は、そんなところにあるのではないかと思う。
 下記の「晋」の死に至る経過を読めば、素人でも、それが毒殺であろうことが想像される。下記は
「流れのままに」李方子(啓佑社)からそうしたことに関連した部分の記述を抜粋したものである。正しい歴史認識のために、そして、歴史の教訓として今後に生かすことができるように、今からでも高宗皇帝や晋の死の真実をきちんと明らかにしてほしいと思わざるを得ない。それが毒殺された2人に対するささやかな償いにもなるのではないかと思う。
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第3章

 前途への不安

 
・・・
 しかも、それから日ならずして、私は李太王様の薨去が、やはりご病死でなかったことを人づてに聞き、身も心も凍るおそろしさと、いうにいえない悲しみにうちひしがれてしまいました。
 ご発病が伝えられた1月21日の前夜、李太王さまはごきげんよく側近の人々と昔語りに興じられたあと、夜もふけて、一同が退がったあと、お茶をめしあがってからご寝所へお引き取りになってまもなく急にお苦しみになり、そのままたちまち絶命されたとのこと。退位後もひそかに国力の挽回に腐心されていた李太王さまは、パリへ密使を送る計画をすすめられていたそうで、それがふたたび日本側に発覚したことから、
総督府の密命を受けた侍医の安商鎬が、毒を盛ったのが真相だとか。また、
「日本の皇室から妃をいただければ、こんな喜ばしいことはない」
とおっしゃって、殿下と私の結婚に表面上は賛意を表しておられたものの、じつは殿下が9歳のおり、11歳になられる閔閨秀というお方を妃に内約されていたため、内心では必ずしもお喜びでなかったのです。おいたわしい最後となったのではないでしょうか。
 毒殺、陰謀───
 もはや前途への不安は漠然としたものではなく、私ははっきりと、行く手に立ちふさがっている多難と、それにともなう危険をさえも、覚悟しなければなりませんでした。みずから求めた道でなくても、すでに私の運命は定められていて、どうのがれようもないのです。
 けれども、
「私だけではないのだから……」
 立場はちがっても、殿下もおなじお身の上なのだと思うと、ようやく勇気もわき、これからの苦難の道を共に歩むお方をしのんで、思いは遠く、まだ見ぬ京城の空にとんでいきました。
 しかし、事態はさらに悪化することになってしまったのです。李太王さまの死を毒殺と知った民衆は、これを発火点として、併合への根強い反感を爆発させ、ご葬儀2日前の3月1日を期して
「祖国朝鮮を日本の帝国主義から解放しよう。独立朝鮮万歳!」
 と、全鮮一斉に蜂起しました。これがいわゆる「万歳事件」と名づけられている独立運動で、武力をもたないこの人々の抵抗運動は、ただちに鎮圧されたとはいえ、激しい対立反抗の現れをまざまざと示していました。


 殿下と私との結婚についても、梨本宮家あてに発信人不明の反対の電話や電報が殺到し、殿下のほうへは、前々から猛反対があったことを知りました。
 動乱の中で揺れ動く殿下と私の立場を思うとき、一生をこうした波乱の中に生きていくふたりの姿が目に見えるようで、「日鮮融和のためになるなら」という気負いも、ともすれば崩れがちでした。
「しっかりしなければ……」
 と、自分をはげましてみても、相つぐ不祥事に直面して、年若い私にはわれながらおぼつかなく、消え入るようなたよりなさに思われてなりませんでした。
 3月3日、李太王さまの国葬の日は、お写真を飾り、黙祷をして、終日、悲しく複雑な思いで部屋にこもっていました

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第5章

 突然訪れた晋の死


 ・・・
 殿下は軽く、けれど満足そうに、笑い声をたてられました。
「晋にも、やがてもの心つくようになりましたら、このたびの帰国のことは、よくよく話しきかせてやろうと思います」
「そうだね、あの小さな大礼服は、大きくなった晋にとっていい思い出となるだろう」
 殿下にも、私にも、紗の桃色の小さい大礼服を手に、目をかがやかして話に聞き入る晋の姿が、いまから目に見えるようでした。
「ただ、父上さま母上さまに若宮をお目にかけられないのが……」
「私もそれが残念だ。どんなにか喜んでいただけただろうに……」
 好意と愛情につつまれた毎日をふりかえるにつけても、東京を立つまえに、私の身辺の危険を心配する空気があって、東京からつれてきたお付きの者も、はじめのうちは食べものなど、それこそ毒味までする気のつかいようだったのですが、なにか申しわけないような気がして、心がとがめられてなりませんでした。
 滞在中の朝夕に、閔姫さまのことも決して思わなかったわけではありませんが、私には関わりのないこととして、心をそらすようにしてきました。一刷きの雲のように、それだけが心のどこかにわだかまっているとはいえ、初の帰国がよい思い出だけでつづられるのを、感謝したい気持ちでいっぱいでした。


 やがて、車はすべるように石造殿へ到着、その車がまだ停車しきらないうちに、つぶてのように車窓へ体当たりしてきた桜井御用取扱が、ほとんど半狂乱になって、
「若宮さまの容体が!」
 ついいましがたより、ただならぬごようすで……というのを、みなまでは聞かず、殿下も私も、無我夢中で晋のもとへかけつけました。私たちが晩餐会へ出る直前まで、あんなに機嫌がよくて、なにごともなかったしんが、息づかいも苦しげに、青緑色のものを吐きつづけ、泣き声もうつろなのを、ひと目みるなり、ハッと思い当たらずにはいられませんでした。出発前の悪い予感がやはり適中したことに、おののきながらも、気をとり直して、ただちに随行してきた小山典医を呼び、総督府病院からも志賀院長、小児科医長が来診されました。

「急性消化不良かと思います」
 との診断で、応急の処置がとられましたが、ひと晩じゅう泣きつづけ、翌9日の朝があけても、もち直すどころか、ときどきチョコレート色のかたまりのようなものを吐いて、刻々と悪化していくさまが目に見えるようでした。
「原因は牛乳だと思います」
 母乳のほかに、少量の牛乳を与えていました。いい粉ミルクがない時代でしたから、起こり得ることだとしてもこうも突然に、こうも悪性にやってくるものでしょうか。しかも、京城を立つ前夜になって……。万一の場合を考えての細心の警戒が、最後にきて緩んだのを、まるで狙っていたかのような発病……。それを、どう受けとめればいいのか……。
 東京から急ぎ招いた帝大の三輪博士もまにあわずに、5月11日午後3時15分、ついに若宮は、はかなく帰らぬ人となってしまいました。

 石造殿西側の大きなベットに、小さな愛(かな)しいむくろを残して、晋の魂は神のもとへのぼっていったのです。父母にいつくしまれたのもわずかな月日で、何も罪のないに、日本人の血がまじっているというそのことのために、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子……。
もし父王さまが殺された仇が、この子の上に向けられたというなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか……。
 冷たいなきがらを抱いて、無限の悲しみを泣きもだえたその日の夕方、ひどい雷鳴がとどろいたことを、幾歳月へだてたいまなお耳底(じてい)に聞くことができます。

----------------皇太子妃方子の子「晉」第1王子の---------------

 「朝鮮王朝最後の皇太子妃」本田節子(文藝春秋)には、李王家世子(大韓帝国皇太子)李垠と方子(梨本宮守正王第一王女)の子「晉」第一王子の死について、恐るべき説の存在が取り上げられている。それは、李方子が「流れのままに」の中で書いている理解とは正反対ともいえるものである。すなわち、「晉」の毒殺は、高宗皇帝毒殺の仕返しなどではなく、「李王家断絶を意図した日本人による毒殺である」、という説である。当時の日韓関係を考えれば、あり得る話であるだけに、真実を闇に葬むれば、「閔妃、高宗、晉と李氏朝鮮王朝の3人が、次々に日本人によって殺害された」と受けとめる韓国人と、今や、そうしたことは想像もしない日本人の溝は、永遠に埋めることができなくなるのではないかと懸念せざるを得ない。いずれにせよ、真実が明らかになれば乗り越えることは可能であろうが、謎として残れば乗り越えようがないと思うからである。そうした意味で「方子を診察した医師3人は殺された」は、聞き捨てならない。
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      第6章 王子「晉」の死
 8ヶ月の生命


 ・・・
 韓国では、幼くて逝った場合、葬儀をせず埋葬だけするのが古来からの習わしである。だが、晉の場合は、成人親王の資格で葬儀が執り行われた。そして、祖母厳妃の墓所、清凉里永徽園(チョンリャンリヨンヒウオン)の峰続きに埋葬された。 私がお参りしたとき、盛り土を被う芝の中に一輪のねじり花が風に吹かれていた。

 晉の死因については、「毒殺です」と言下に答える人、「真相はわかりませんが、毒殺に違いないと思います」という人、ほとんどの答えがこのどちらかであった。
 理由は、李太王の仕返しが一番多く、閔甲完側の怨恨説をいう人が何人かあった。その中の数人の人から恐ろしい話を聞いた。その内容を総合すると、方子が天皇家でなく李王家に嫁入りが決まったのは方子が石女(うまずめ)
<不生女(子を産めない女)>だから、というのである。ところが晉が生まれてしまい、方子を診察した医師3人は殺された。だから、晉の死も、李太王や閔家の仕返しなどといわれているが、真実は李王家の血筋を絶やすために日本側がとった処置である、というものであった。
 韓国のある大学の理事長もこの説であり、誰もがこれをいう時声をひそめた。
 石女の診察のことを方子に尋ねると、
「結婚前の私がそんな診察を受ける訳がありません」
 とんでもないという表情であり、語調であった。


 ソウルの街角の立話で聞いた話は毒殺説を全く否定するものであった。その時は帰国の時が迫っていて、くわしい話を聞く時間がなく、改めて問い合わせの手紙を出した。ソウル在住の森田芳夫にである。
「晉殿下のこと──私が直接承ったのは、ソウル(当時京城府)南山町で開業しておられた池田小児科病院院長池田秀雄氏からです(当時私は学生)。『生まれて8ヶ月の赤ちゃんを連れて長い旅行をされ、慣れない土地で大きな行事に参列されたのは赤ちゃんに無理だった。疲労からくる消化不良だよ』と断定されました。池田先生は当時、小児科の開業医として名声の高かった方なので、危急の時に呼ばれて他の医師と共に診察に当たられたのでした」

 森田は当時、池田医師宅に下宿していた。

 母伊都子妃の自伝には、
「帰国を前日にして、消化不良の自家中毒という電報ではありましたが、毒殺以外には考えられませんでした。それをなんとか防ぐ方法はなかったものだろうか。侍女から乳母まで日本人を連れて行って用心はしていたであろうに……。だが、遺体解剖ができない以上、晉の死はやはり永遠の謎として葬り去られる運命にあったのです」
 と書かれている。


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3・1独立宣言全文---------------------

 3・1独立宣言文には、「威力の時代は去り道義の時代がきた」とある。しかしながら、総督府はこの独立運動を弾圧するために、軍隊や憲兵はもちろん、警察、鉄道援護隊、在郷軍人、消防隊まで動員したようである。運動が終息するまで続いた武力による弾圧は、当然多くの死傷者出すことにつながった。「道義」の時代は来なかったのである。そして今なお、アメリカやロシアをはじめとした大国が多くの核兵器を所有しながら、イランや北朝鮮の核開発を禁じる世の中である。

 韓国では、毎年3月1日独立運動を偲んで大勢の人々が集うという。「道義の時代」を迎えるために、独立宣言文からを学ぶべきことは多い。下記独立宣言全文は「万歳事件を知っていますか」木村悦子(平凡社)からの孫引きである。
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                                  独立宣言全文
 宣言書
 われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自由民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を克明し、これをもって子孫万代に教え、民族自存の正当なる権利を永遠に有せしむるものである。半万年の歴史の権利によってこれを宣言し、二千万民衆の忠誠を合わせてこれを明らかにし、民族の恒久一筋の自由の発展のためにこれを主張し、人類の良心の発露にもとづいた世界改造の大機運に順応し、並進させるためにこれを提起するものである。これは天の明命、時代の大勢、全人類の共存同生の権利の正当な発動である。天下の何ものといえどもこれを抑制することはできない。旧時代の遺物である侵略主義、強権主義の犠牲となって、有史以来幾千年を重ね、はじめて異民族による箝制の痛苦を嘗めてからここに10年が過ぎた。彼らはわが生存の権利をどれほど剥奪したであろうか。精神上の発展にどれほど障礙となったであろうか。民族の尊厳と栄光をどれほど毀損したであろうか。新鋭と独創によって世界文化の大潮流に寄与、裨補(ひほ)できる機縁をわれらはどれほど遺失したであろうか。

 ああ旧来の抑鬱を宣揚せんとすれば、時下の苦痛を擺脱せんとすれば、将来の脅威を芟除せんとすれば、民族的良心と国家的廉義の圧縮、銷残とを興起、伸長せんとすれば、各個人の人格の正当な発達を遂げんとすれば、憐れむべき子弟たちに苦恥的な財産を遺与せざらんとすれば、子々孫々永久、完全な慶福を尊迎せんとすれば、その最大急務は民族の独立を確実なものにすることにある。二千万人民のおのおのが方寸の刃を懐にし、人類の通性と時代の良心が正義の軍と人道の干戈とをもって援護する今日、吾人が進んで取ればどんな強権でも挫けないものがあろうか。退いて事をなせばどんな志であれ、のばせない志があろうか。

 丙子修好条規以来、種々の金石の盟約を偽ったとして、日本の信のないことを咎めようとするものではない。学者は講壇で、政治家は実際において、わが祖宗の世業を植民地的なものとみなし、わが文化民族を野蛮人なみに遇し、もっぱら征服者の快楽を貪っている。わが久遠の社会の基礎と卓越した民族の心理とを無視するものとして、日本の少義を責めんとするものではない。自己を策励するのに急なわれわれには、他人を懲弁する暇はない。今日われわれがなさねばならないことは、ただ自己の建設だけである。決して他を破壊するものではない。厳粛な良心の命令によって自家の新運命を開拓しようとするものである。決して旧怨および一時的な感情によって他を嫉逐、排斥するものではない。旧思想、旧勢力に束縛され日本の為政者の功名心の犠牲となっている、不自然でまた不合理な錯誤状態を改善、匡正して、自然でまた合理的な正経の大源に帰そうとするものである。当初から民族的な要求として出されたものではない両国併合の結果が、畢竟、姑息的威圧と差別的不平等と統計数字上の虚飾のもとで、利害相反する両民族間に永遠に和合することのできない怨恨の溝を、ますます深くさせている今日までの実績をみよ。勇明、果敢をもって旧来の誤りを正し、真正なる理解と同情とを基本とする友好の新局面を打開することが、彼我の間に禍いを遠ざけ、祝福をもたらす捷径であることを明知すべきではないか。憤りを含み怨みを抱いている二千万の民を、威力をもって拘束することは、ただに東洋永遠の平和を保障するゆえんでないだけでなく、これによって、東洋安危の主軸である4億の中国人民の日本に対する危懼と猜疑とをますます濃厚にさせ、その結果として東洋全局の共倒れ、同時に滅亡の悲運を招くであろうことは明らかである。今日わが朝鮮の独立は朝鮮人をして正当なる生活の繁栄を遂げさせると同時に、日本をして邪道より出でて東洋の支持者としての重責を全うさせるものであり、中国をして夢寐にも忘れえない不安や恐怖から脱出させるものである。また東洋の平和を重要な一部とする世界の平和、人類の幸福に必要なる階梯となさしめるものである。これがどうして区々とした感情の問題であろうか


 ああ、新天地は眼前に展開せられた。威力の時代は去り道義の時代がきた。過去の全世紀にわたって錬磨され、長く養われてきた人道的精神は、まさに新文明の曙光を人類の歴史に投射しはじめた。新春は世界にめぐりきて、万物の回蘇をうながしつつある。凍氷、寒雪に呼吸を閉蟄していたのが一時の勢いであるとすれば、和風、暖陽に気脈を振るいのばすこともまた一時の勢いである。天地の復運に際し、世界変潮に乗じたわれわれは何らの躊躇もなく、何らの忌憚することもない。わが固有の自由権を護り、旺盛に生きる楽しみを享けられるよう、わが自足の独創力を発揮して春風に満ちた大界に民族的精華を結紐すべきである。

 われわれはここに奮起した。良心はわれわれとともにあり、真理はわれわれとともに進む。男女老少の別なく陰鬱な古巣から活発に起来して、万民群衆とともに欣快なる復活を成し遂げようとするものである。千百世の祖霊はわれらを蔭ながらたすけ、全世界の気運は、われらを外から護っている。着手がすなわち成功である。ただ前方の光明に向かって邁進するだけである


   公 約 3 章

一、今日われわれのこの挙は、正義、人道、生存、尊栄のためにする民族的要求すなわち自由の精神を発揮するものであっ
   て、決して排他的感情に逸走してはならない。
一、最後の一人まで、最後の一刻まで、民族の正当なる意思を快く発表せよ。
一、一切の行動はもっとも秩序を尊重し、われわれえの主張と態度をしてあくまで
   光明正大にせよ。

    朝鮮建国4252年3月1日
    朝鮮民族代表

    (孫秉煕ほか32名の署名略


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竹島領有権問題その1(日本の資料は……)------------

 昨年末(12月28日)読売新聞は、その社説で文部科学省を痛烈に批判した。新学習指導要領の解説書で「竹島」問題に触れなかったからである。「将来を担う世代に、自国の領土や歴史をきちんと教えていくのは、大切なことだ」というわけである。その通りだと思う。しかしながら、いくつかの日本の資料が「竹島は歴史的にも国際法上も我が国固有の領土」であるという考え方に疑問を抱かせる。わが国の目先の利益のために、真実から目を背けてはならないと思い、「史的検証 竹島・独島」内藤正中・金柄烈(岩波書店)から抜粋する。

 まず資料1は、阿部豊後守が調査に基づいて1696年1月28日に発した「渡海禁止令」に関わるものである。老中阿部豊後守の質問に対し鳥取藩は明確に「竹島は因幡伯耆両国に附属する島ではない」と回答しているのである。そして、竹島(現鬱陵島)ばかりではなく松島も(現竹島)についても同様に、因幡伯耆両国に附属する島ではないと回答しているのである。

 資料2は「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」である。安龍福(アンピンシャ)が地図を持参し、鬱陵島と竹島は朝鮮のものだと抗議に来たというものである。持参したという朝鮮八道の名の江原道の下に、確かに「此ノ道ノ中ニ竹嶋松島有之」とある。

 資料3は、幕府によって再度「渡海禁止令」が出されたためか、「海国兵談」で有名な林子平の「三国接壌地図」でも、鬱陵島及び竹島は朝鮮領として色づけされているというものである。

 資料4は、朝鮮に開国をせまる明治政府から朝鮮視察を命ぜられた役人の「朝鮮国交際始末内探書」という報告の中に、「竹島松島朝鮮附属ニ相成候」との記述がみられることである。この部分は「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)からの抜粋である。

 資料5は、近代的な日本地図と地積図を作成するに当たって、島根県が問い合わせてきたことに対し、「竹島外一島のことは本邦に関係をもたないものと心得べき事」と太政官で決定し、内務省を通じて島根県にその回答が伝達されたものである。

 資料6は、そうした過去の歴史的事実に目を向けることなく、「隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ム形跡ナク」と無主地先占論によって、「自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントス」という内務大臣の提案を受け、竹島の島根県編入を閣議決定したものである。しかし、編入に当たって、中央政府での編入告示や官報掲載をせず、さらには日本海に面する国々に対する通告もなく、島根県知事に管内告示をするように指示だけであったという。この秘密裏に近い編入は、日露戦争の最中であり、日本海においてバルチック艦隊を迎え撃とうと計画中の時期であったことと考え合わせれば、軍事目的であったであろうことが想像される。

資料1-------------------------------------------------
                         第1部 竹島の歴史──内藤正中
3 竹島一件と安龍福
 4 釜山倭館での日朝交渉

 ・・・
 ところが、12月24日(1695年)になって、老中阿部豊後守は鳥取藩に対して7項目の質問を行い、鳥取藩は翌日直ちに回答する(詳述は後述)。質問の第1は「因州・伯州の領地とされる竹島は、いつ頃両国のものになったのか」というものであり、これに対して鳥取藩は、「竹島は因幡・伯耆に所属する島ではありません」と回答する。この回答が決定的な要因となって、阿部豊後守の竹島への認識を
改めさせることになった。こうして阿部老中は、対馬藩の家老平田直右衛門を招いて、直接に以下のような結論を述べるのであった。1696年1月9日のことである。


 竹島のことについては、たしかなことはわかっていない。伯耆国から渡海して漁をしているそうで、松平伯耆守殿に尋ねてみたところ、因幡、伯耆に所属する島ではないという。先年米子町人の両名が渡海したいとの申し出があったので、その時の領主である松平新太郎殿より案内があったように、渡海してもよろしいと奉書で申し渡した。……以上のようなことで渡海し、漁をしたまでのことであって、朝鮮の
島を日本に取ろうというわけではない。島には日本人は住んでもいない。島への距離は、伯耆から160里、朝鮮へは40里ほどであるので、それは朝鮮国の鬱陵島のようである。

 それと日本人居住者がいるのなら、こちらに取るべき島であり、いまさら渡し難いところであるが、、そのような証拠もなく、こちらからは構えていいださないようにしては如何であろうか。
 ……もともと鮑を取りに行ったまでで、無益な島であるところにこの件が決着し、年来行われてきた通交が絶えてしまうのもどんなものだろうか。御威光あるいは武威をもって談判に及ぶのも、筋違いのことといえるので事を進めるわけにはいかない。
 竹島の件は、きっぱり進めないことにした。例年行かないことになった。異国人が渡海してくるので、重ねて渡海しないように申し渡すようよう老中土屋相模守殿から申し渡され、基本的に禁止することにした。無益なことにいつまでもかかわるのは如何なものか。

 ……以上のように申し渡した口上の趣は、覚のため書付をを残すようにとのことで、覚書を渡されたので受け取って拝見したところ、只今の意向があらまし書かれているように思える。
 そうであれば、以後日本人は竹島へ渡海してはいけないとの意向かと伺ったところ、如何にもその通りである。重ねて日本人は渡海しないようにとの意向で、お上の決定がなされたとのことなので、竹島の件は、返しつかわされるのでもないのかと申し上げたところ、そのこともその通りである。元々取っていた島ではないので、返すという筋でもないのである。こちらからは構えて申し入れる以前のことで、当
方より間違ってもいわないことである。……
(『公文録』所収、「日本海内竹島外一島地籍ニ編纂方伺」附属文書第1号、元禄9年正月28日)

・・・(以下略)
  --------------------------------------------------
 5 竹島一件と竹島渡海禁止令

 ・・・
 その年10月には、前述のように対馬藩主が江戸に来て、老中阿部豊後守に対して朝鮮国との交渉の経過を報告して、「いますでに3年になろうとする。朝鮮側は竹島は鬱陵島であり、自分の領地だと主張して、自分たちのいうことを聞かない状況である。どうしたらよいか」と幕府の指示を仰いできたのである。決断を迫られた幕府としては、竹島に関係を持つ鳥取藩の意向も、聞いてみる必要があるとして、12月24日付で「御尋の御書付」という質問状を鳥取藩に発した。

      
一 因州伯州へ付けている竹島は、いつから両国に附属することになったのか、先祖が両国を領地とする以前からのことか、
   その後のことなのか。
一 竹島はおおよそどれほどの島なのか、人は住んでいないのか。
一 竹島に漁業に行くようになったのはいつ頃であるか、毎年行っているのか、あるいは時々なのか、どのような漁業をしてい
   るのか、多数の船でいっているのか。
一 3~4年以前に朝鮮人が来て漁ををしていた時、人質として両人を捕らえてきた。それ以前からも来ていたのか、そうでは
   なく、その節両年続けてきていたのか。
一 ここ1~2年は来ていなかったのか。
一 先年来ていた時の船数、人数はどうであったか。
一 竹島の外に因伯両国に附属する島はあるか。また両国の者が魚を取りに行っていたのか。
 右の様子を知りたいので書付を送ってほしい。以上
     12月24日


 これに対する鳥取藩の回答は、翌日の25日に江戸藩邸~直ちに幕府に提出された。翌日に回答しているところをみると、国元にも連絡してある程度の調査をして準備していたものと思われる鳥取藩の回答書は次の通りである。

一 竹島は因幡伯耆の附属ではありません。伯耆国米子町人の大屋九右衛門、村川市兵衛と申す者が渡海していたのは、
   松平新太郎が因伯両国に封ぜられた時、御奉書をもって許可されたと承っている。それ以前にも渡海していたこともあ
   ったように聞いているが、そのことはよくわからない。
一 竹島は周囲が8~9里ほどある由、人は住んでいない。
一 竹島に漁に出かける時節は2月3月の頃、米子を出船して毎年出かけていました。島では鮑、みちの漁をしており、船数は
   大小2艘でいっていた。
一 4年以前の申年に朝鮮人が島に来ていた時、船頭たちが出会ったことについては、その時にお届した。翌酉年も朝鮮人が
   来ており、船頭たちがそのうち2人を連れて米子に帰ってきた。そのこともお届申し上げ長崎へ送った。戌年は風のために
   島に着岸できなかったことをお届した。当年も渡海したところ、異国人が多数見られましたので着岸せず、帰途松島で鮑を
   少々取ったと申している。右のこともお届申し上げた。
一 申年に朝鮮人が来た時は、11艘のうち6艘が強風にあい、残り5艘が島に来て、人数53人がいた。酉年は船3艘、人数
   42人が来ていたと申していた。当年は船数余多で人も見えたが、着岸していないのでその詳細はわからない。
一 竹島松島其外両国の附属の島はない。  以上


 見られるように、幕府の「御尋」では「因州伯州へ付けている竹島」といって、幕府としては竹島が因伯両国の鳥取藩に属する島とばかり思っていたことがわかる。しかし鳥取藩はこれに対して「竹島は因幡伯耆両国に附属する島ではない」と回答した。そして第7項目目の質問として、竹島の外に両国に附属している島はないかというのに対しては、竹島松島その外に両国に附属の島はないと明言した。鳥取藩が竹島だけでなく幕府の質問にはなかった松島についても、因伯附属の島ではないといったのである。松島というのは現竹島のことである。両島ともに因伯に附属する島ではないということは、日本の領土ではないということになる。
 ただここで、竹島に加えて幕府が承知していない松島についても記してあったため、幕府は鳥取藩に対してあらためて松島についても照会した。鳥取藩は25日にすぐ回答し、松島について伯耆国からの距離、鳥取藩領でないこと、竹島渡海の途中に立ち寄って漁をすること、因伯以外の国の者が漁に出かけることはないと付け加えた。幕府は併せて松江藩にも竹島渡海のことを問いただし、出雲隠岐の者は竹島渡海に関係ないことを26日付の回答書で確認した。

 こうして、前述の老中阿部豊後守がいっているように、「因幡、伯耆に所属する島ではない」「渡海し、漁をしたまでのことであって、朝鮮の島を取ろうというわけではない」「島には日本人は住んでもいない」「元々取っていた島ではないので、返すという筋でもない」などという認識を持たないわけにゆかず、幕府としても、日本人の竹島への渡海を禁止することを決定するのであった。
 ・・・(以下略)

資料2 ------------------------------------------------       
                        第2部 独島の歴史──金柄烈
 3 安龍福のための解明
   2 元禄九年の調査記録で確認された内容

 2005年5月16日、島根県隠岐郡海士町の村上助九郎氏の邸宅で、1696年の安龍福関連古文書が309年ぶりに発見された。安龍福の第2回目の渡日の際の取り調べ記録で、渡日の目的などが書かれている。

 この文書の表題は、「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」で、表紙を含む8枚つづりになっている。1696年5月23日付の記録である。安龍福が隠岐島に到着した5月20日に、安龍福らの渡来の報告を受けた石州御用所の代官・後藤角右衛門は部下の中瀬弾右衛門と山本清右衛門を隠岐島に派遣して安龍福一行の取調べを行った。そのとき作成された報告書の写しが村上家に保管されていたものと思われる。ところで、誤字が多数ふくまれているが、文書の作成過程で発生した誤字なのか、あるいは村上家で書き写す過程で生じた誤字なのかは確かでない。
 この記録によると、安龍福は当時1654年(甲年)生まれの43歳で、水精貫子付の冠のような黒い笠をかぶり、薄い木綿の上着を着て、通政太夫として東萊に居住していると書かれた札を身に付けていた。
 鬱陵島及び竹島の領有権にかかわって重要なのは、安龍福一行の人的事項の取り調べ記録に続く、安龍福一行が朝鮮八道図をもっていたという次のような記録である。


 右安龍福 雷憲 金可果三人江在番人立会之時 朝鮮八道之図ヲ8枚ニシテ所持仕候ヲ出申候則八道ノ各ヲ書写 朝鮮ノ詞ヲ書付申候

 当時の朝鮮は、外国の侵略に利用されるかもしれないという心配から地図を国家機密として管理していた。安龍福一行のような一介の漁師たちが所持できるようなものではなかった。それにもかかわらず、安龍福一行は朝鮮の八道のそれぞれが詳細に描かれている地図をもっていえt、取調べにあたっていた人に提出したのである。これは、安龍福一行が鬱陵島と竹島の領有権を主張しようと、わざわざ朝鮮八道地図を持参して日本に渡ったことを意味する。
 しかも安龍福は次のように、竹島は(現在の鬱陵島)は間違いなく朝鮮の鬱陵島だと言い切った。


 安龍福申シ候ハ竹嶋ヲ竹ノ嶋ト申 朝鮮国江原道東萊府ノ内ニ鬱陵嶋ト申嶋御座候 是ヲ竹ノ嶋ト申由申候則八道ノ図ニ記之所持仕候

 なおこの地図には、竹島(独島)についての正確な記述があると、調査者は次のように記録している。


 松嶋ハ右同道ノ内子山ト申嶋御座候 是ヲ松嶋ト申由 是モ八道之図ニ記申候

 すなわち安龍福は八道地図の中の子山島を指差して、日本で松島と呼ばれるこの島が朝鮮の江原道に属する子山島だといったのである。それによって、当時においても竹島(独島)に対する明確な領土意識があったことを立証している。
 また安龍福は鬱陵島と竹島(独島、当時は松島)を経由して渡来したと陳述している。

 ・・・(以下略)
資料3-------------------------------------------------
                           第1部 竹島の歴史──内藤正中

5 竹島外一島の領有権
 1 天保8年の竹島渡海禁止令

   ・・・
 こうして幕府は、1837年(天保8年)2月21日付で、改めて「異国渡海の儀は重き御制禁に候」といい、特に竹島渡海については、「元禄の度朝鮮国え御渡しに相成り候 以来渡海停止仰せ出され候場所にこれ有り」と述べて、竹島渡海はもちろん、「遠い沖乗り致さざる様」と遠い沖合での航海についても注意を喚起して、浦方村町ともに洩れなく周知徹底を図るように厳命したのである。元禄度に続く2回目の竹島渡海禁止令であった。竹島はいけないが松島は許されると解釈できるようなものではなかったはずである。全国浦方村町あまねくかかげられた「高札」は次の通りである。

 今度、松平周防守元領分 石州浜田松原浦に罷り在り候無宿八右衛門 竹嶋え渡海致し候一件 吟味の上右衛門其外夫々厳科行われ候 
 右嶋住古は伯州米子のもの共渡海魚漁等致し候といえども、元禄の度 朝鮮国え御渡しに相成り候 以来渡海停止仰せ出され候場所にこれ有り 都(すべ)て異国渡海の儀は重き御制禁に候条 向後右嶋の儀も同様相心得渡海致すまじく候
 勿論国々の廻船等海上において異国船に出会わざる様、乗り筋等心がけ申すべき旨先年も相触れ候通り弥々(いよいよ)相守り 以来は可成たけ遠い沖乗り致さざる様乗廻り申すべく候 右の趣御料は御代官私領は領主地頭より浦方村町とも洩れざる様触れ知らすべく候尤も触書きの趣板札に認める高札場等に掛置き申すべきもの也

 2月
 右の通り公儀従り仰せ出され候間 御領分の者共堅く相守るべきもの也
                         浦奉行   (浜田市郷土資料館)


 そのためもあってか、江戸時代後期に作成された地図のほとんどが、竹嶋(鬱陵島)とともに松島(現竹島)を記入しており、両島の存在が日本でも広く知られていることを示している。なかでも林子平による「三国接壌地図」(1785年)では、日本領を緑色、朝鮮領を黄色に塗り分けているが、竹島と松島について黄色に着色した上で、「朝鮮ノ持也」と記されていることが注目される。
 ・・・(以下略) 

資料4-------------------------------------------------
              2 19世紀アジアの情勢と朝鮮開国
  日本との開国交渉

 1869年(明治2年)の9月になって政府は、朝鮮との交際のことは外務省が直接あたることにして、宗氏が勝手に使臣を派遣することを禁じ、同時に外務省出仕佐田白茅、同斎藤栄、同外務少録森山茂に朝鮮視察を命じたのであるが、この3人は翌1870年釜山の草梁館に着いてここでいろいろ朝鮮の国情を調査し、政府に報告している。彼らも大院君治下の鎖国が厳重なことは知ったと見えて、武力を背景に下大使の派遣を政府に建議したのだが、この報告には、いま問題となっている竹島のことにもふれている。明治の初年に外務省が派遣した役人の調査がどうなっていあるかを知るのは、すこぶる興味ふかいので、以下その箇所を引用しよう。


  朝鮮国交際始末内探書

 (前文竹島以外のことは省略)
1、竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末
 此儀ハ松島ハ竹島ノ隣島ニテ松島ノ儀ニ付是迄掲載セシ書留モ無之竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処当時ハ以前ノ如ク無人ト相成竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ人参等自然ニ生シ其余漁産モ相応ニ有之趣相聞ヘ候事
  右ハ朝鮮事情実地偵索イタシ候処大略書面ノ通リニ御座候間一ト先帰府仕候依之件々取調書類絵図面トモ相添此段申上候以上
            午四月
                                  外務省出仕 佐田白茅
                                           森山 茂  
                                           斎藤 栄


 この文書については2,3の説明がいると思うのだが、それは松島、竹島のことである。ここにいう竹島は鬱陵島のことで、松島というのが今の竹島をさしていた。当時はこの両島の名前がしばしば混同され、鬱陵島のことを竹島といったので、いまの竹島を松島といったのであって、このことはいま公知の事実といっていいだろう。
 いうまでもなく、佐田白茅らのこの報告は、公文書として、戦前から日本の外務省の編集した『日本外交文書』にでている。


資料5 ------------------------------------------------
              第2部 独島の歴史──金柄烈
4 日本の軍事的要請による独島編入
 6 無主地の合法的編入として装う

 ・・・
 第一に、独島の領土編入に反対した日本政府官僚もいる、ということである。1876年に日本内務省は各県に県の地図と地籍図を作成して報告するように指示した。近代的な日本地図と地積図を作成するためであった。その時島根県は東海の真中にある鬱陵島と独島はどうすればよいかと内務省に尋ねる。これに対し約5ヶ月間わたって徳川幕府時代の文書等を調べ、鬱陵島と独島は日本領ではないという結論を出した。しかし領土問題は重大事項であるといい、国家最高機関である太政官の最終決定が必要だとして、1877年に太政官署理である右大臣岩倉具視の決済を仰ぐ。(「竹島外一島のことは本邦に関係をもたないものと心得べき事」との案は3月29日の太政官で原案通り決定し、内務省から4月9日に島根県に伝達された)。このような事情があったからこそ、大槻修二が1886年に発刊した『改正日本地誌要略』に「其(隠岐)西北海上ニ松島竹島ノ両島アリ。相隔ル殆1百里ニシテ朝鮮ニテ鬱陵島ト称ス。近来定メテ其国ノ属島トナスト云フ」と記されようになったのであった。また植民史観を反映し1900年に編纂された恒屋盛服の『朝鮮開化史』にも鬱陵島について「大小6島アリ。其中著名ナルヲ于山島(日本人ハ松島ト名ク)、竹島ト云フ」と松島が朝鮮領の独島であることが明示されている。したがって、内務省内での一連の領土確認過程と『改正日本地誌要略』または『朝鮮開化史』等の内容を知っていた内務省の井上書記官は独島日本領土編入にうんといわなかったのである。
 ・・・(以下略)

資料6 ------------------------------------------------
                        第2部 独島の歴史──金柄烈

4 日本の軍事的要請による独島編入
 4 独島の侵奪

 ・・・
 明治38年1月28日 秘乙第337号の内
   無人島所属ニ関スル件
北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ム形跡ナク、1昨年36年本邦人中井養三郎ナル者ニ於テ漁舎ヲ構ヘ、人夫ヲ移シ、猟具ヲ備ヘテ海驢猟ニ着手シ、今回領土編入並ニ貸下ヲ出願セシ所、此際所属及島名ヲ確定スルノ必要アルヲ以テ該島ヲ竹島ト名ケ、自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントス。
右閣議ヲ請フ。


明治38年1月10日
         内務大臣子爵 芳川顕正

内閣総理大臣伯爵 桂太郎 殿


 ・・・(以下略)
--------------------------------------------------
 上記内務大臣の提案について、1905年(明治38年)1月28日に海軍大臣など11名参加の閣議で、下記の通り決定された。ところが内務大臣は、中央政府での編入告示や官報掲載をせず、島根県知事に管内告示をするように指示したのである。この指示を受けた島根県知事は下記の告示第40号を発布しこれを庁内に回覧したというのである。
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                      第1部 竹島の歴史──内藤正中
6 日本領土編入をめぐる問題点
 3 領土編入の手続きをめぐって
 
 ・・・
 別紙(上記)内務大臣請議無人島所属ニ関スル件ヲ審査スルニ、……無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク、1昨年36年本邦人中井養三郎ナル者ニ於テ、漁舎ヲ構ヘ人夫ヲ移シ猟具ヲ備ヘ海驢猟ニ着手シ、今回領土編入並ニ貸下ヲ請願セシ所、此際所属及島名ヲ確定スルノ必要アルヲ以テ、該島ヲ竹島ト名ケ、自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サント謂フニ在リ、依テ審査スルニ明治36年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレバ、国際法上占領ノ事実アルモノト認メ、之ヲ本邦所属トシ、島根県所属隠岐島司所管ト為シ、差支無之儀ト思考ス、依テ請議ノ通閣議決定相成可然ト認ム。
 ・・・(以下略)
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                  第2部 独島の歴史──金柄烈
5 外交権の剥奪後終結と望楼撤去
 2 日本への編入告示と通報

 ・・・
   島根県告示第40号
   北緯37度9分30秒東経131度5分隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル島嶼ヲ竹島ト称シ自今本県所属隠岐島司ノ所管トス。

                                                         明治38年2月22日
                                                       島根県知事 松永武吉

 ・・・(以下略)
  


 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。


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