-NO187~196
--------------朝鮮植民地支配-笞刑令と職員任用制限-------------

  「日本は侵略国家であったのか」と題した田母神俊雄論文の冒頭に「ア メ リ カ 合 衆 国 軍 隊 は 日 米 安 全 保 障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。」とある。では、韓国併合前後から敗戦に至るまでの日本のさまざまな朝鮮政策をどのように説明するのだろうか。例えば、下記の朝鮮人にのみ適用されたという笞刑令やあからさまな官吏採用差別、また、賃金差別は侵略の結果でなくて何であったというのだろうか。「外交文書で語る日韓併合」金膺龍(合同出版)からの笞刑令抜粋である。
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 2 朝鮮笞刑令と職員任用制限

 笞刑は李王朝時代まで最も残酷な刑罰と拷問である。罪人を腹這いにさせ両肘をのばし、脚と膝の関節を縄で縛り、臀部ををあらわにし、刑の執行人が細い鞭で叩くのである。最初の一打ちで、皮膚が裂ける強烈なもので、昔、両班どもが下人や奴婢を気儘に打ち、苦しみ叫ぶのを見て楽しんだという。
 朝鮮総督府寺内正毅はこの笞刑令を出して朝鮮人にだけ適用した。この笞刑令に寺内の野蛮で、獰猛で、残酷な人間性がうかがわれる。

    制令第13号朝鮮笞刑令 1912年3月発令
  第1条 3ヶ月以下の懲役又は拘留に処すべき者は、其の情状により笞刑に処すことを得
  第2条 2百円以下の罰金又は科料に処すべき者、左の各号の一に該当するときは其の情状により笞刑に処すことを得
       1、朝鮮内に一定の住所を有せざるとき
       2、無資産なりと認めたるとき
  第3条 百円以下の罰金又は科料の言い渡しを受けたる者、其の言い渡し確定後5日以内に之を完納せざるときは、検事
       又は即決官署の長は、其の情状に依り笞刑に換うることを得
  第4条 本令に依り笞刑に処し、又は罰金若しくは科料を笞刑に換うる場合に於いては、1日又は一円を笞一に換算す。そ
       の1円に満たざるものは之を笞一に計算す。但し笞5を下ることを得ず
  第5条 笞刑は16才以上60才以下の男子に非ざれば之を科することを得ず
  第6条 笞刑は笞を以て臀を打ち、之を執行す
  第7条 笞刑は笞30以下にありては之を1回に執行し、30までを増す毎に1回加ふ笞刑の執行は、1日1回を超ゆることを
       得ず
  第8条 笞刑の言い渡しを受けたる被告人、朝鮮内に一定の住所を有せず、又は逃走の虞れあるときは検事又は即決官
       署はこれを留置することを得
  第9条 笞刑の言い渡し確定したる者はその執行の終るまで、之を監獄又は即決官署に留置す第3条の規定に依り換刑
       の処分を受けたるもの亦同じ
 第10条 笞刑は監獄又は即決官署に於いて秘密に之を執行す
 第11条 本令は朝鮮人に限り之を適用す(前掲『入門朝鮮の歴史』)

 警務部長は大掃除の監督権までもち、検査に来たとき塵一つでもあったものなら、巡査はサーベルの鞘で家人を打擲した。大掃除(朝鮮では清潔という)とは怖い1日であった。
 また、憲兵隊と警察署が裁判所であった。これまで全国に113ヶ所あった区裁判所を廃止して、その職務を警察署と憲兵隊分遣所に移管した。


 3 朝鮮人不採用の職員任用制限(但し不文律)

1、できるかぎり朝鮮人を官吏に登用しないこと。
2、やむを得ない事情により朝鮮人を任用する場合は、科学技能をもつものは必ず排除すること。また職務上の権限をもたせないこと。
3、朝鮮人は重要な地位に任用しないこと
4、朝鮮人高等官の俸給は1百円に止め、判任官の履歴者が俸給30円になれば必ず退職せしめること。
5、裁判所、検事に朝鮮人を任用しないこと。

 268名いた判事検事のうち、朝鮮人判事は10名だけで、検事は1人もいなかった。監獄の典獄(所長)と看守は全部日本人であった。
 次の表は、当時朝鮮人と日本人雇員給与(月俸)である。(前掲 『韓国併合資料3』)。
  朝鮮人看守       10円~15円
  日本人看守       15円から50円(ほかに住居手当10円加算)
  朝鮮人判任官      13円~30円
  日本人判任官(最下級) 50円
  朝鮮人(憲兵巡査補助員) 9円~13円
  日本人巡査(最低)   30円

 憲兵巡査補助員には、なり手がなくて乞食とならず者をかり集めたといわれている。私が幼年の頃、巡査(補助員)を見ると「乞食が来た」と言っていた大人の話を聞いた記憶が残っている。
 ちなみに1935年頃の平均賃金は、日本人男子1円83銭。朝鮮人男子90銭。日本人女子1円6銭。朝鮮人女子49銭で、朝鮮人は日本人の半分であった。これに日本人には役付き手当が支給された。(『太平洋戦争史2』歴史学研究会、青木書店)

  官庁用達から締め出し

 官公需品取扱業は、朝鮮人には許可されなかった。鉄道駅前での旅館業と食品の販売業も日本人が独占した。軍隊の馬草の納入業者さえできなかった。併合詔書で明治天皇が、「民衆ハ直接朕ガ綏撫ノ下ニ立チテ其ノ康福ヲ増進スベク」といったのは何であったのか。

 ・・・(以下略)


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朝鮮総督の暴政---------------------

日韓併合(1910年8月)後の朝鮮半島が、1945年8月15日まで、およそ36年間、朝鮮総督の暴政のもとにあったことが、下記の「朝鮮鉱業令」や「朝鮮漁業令」の条文からも察せられる。すべて朝鮮総督の手中にあるのである。「日本帝国主義の朝鮮支配 下」朴慶植(青木書店)からの抜粋である。
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                     朝鮮鉱業令[抜粋](1915年12月制令第8号)

第1条 本令ニ於テ鉱業ト称スルハ鉱物ノ採掘及之ニ附属スル事業ニ謂フ

     本令ニ於テ鉱物ト称スルハ金鉱、銀鉱、銅鉱、鉛鉱、蒼鉛鉱 ……(中略)ヲ謂フ
     本令ニ於テ鉱業権ト称スルハ鉱区ニ於テ許可ヲ受ケタル鉱物ヲ採掘シ及之ヲ取得スル権利ヲ謂フ   
     本令ニ於テ鉱区ト称スルハ鉱業権ノ登録ヲ得タル土地ノ区域ヲ謂フ
第6条 帝国臣民又ハ帝国法令ニ従ヒ成立シタル法人ニ非サレハ鉱業権ヲ享有  スルコトヲ得ス
第7条 鉱業ヲ為サムトスル者ハ願書ニ鉱区図ヲ添ヘ朝鮮総督府ニ出願シ其ノ許可ヲ受クヘシ鉱業出願人ハ出願地ニ其ノ
     採掘セムトスル鉱物ノ存在スルヲ証明スヘシ但シ砂金、砂錫又ハ砂鉄ニ付テハ此ノ限ニ在ラス
第10条 公益ヲ害スルモノト認ムルトキ又ハ鉱業ノ価値ナシト認ムルトキハ鉱業ノ出願ハ之ヲ許可セス
第24条 朝鮮総督ハ鉱業権者ヲシテ施業案又ハ鉱夫ノ保護取締ニ関スル規程ノ認可ヲ受ケシムルコトヲ得
     朝鮮総督必要ト認ムルトキハ前項ノ規定ニ依ル施業案又ハ規程ノ変更ヲ命スルコトヲ得
     鉱業権者第1項ノ規定ニ依ル施業案又ハ規程ヲ変更セムトスルトキハ朝鮮総督ノ認可ヲ受クヘシ
第25条 鉱業上危険ノ虞アリ又ハ公益ヲ害スルノ虞アリト認ムルトキハ朝鮮総督ハ鉱業権者ニ其ノ予防又ハ鉱業ノ停止ヲ
     命スヘシ
第26条 朝鮮総督ハ鉱業権者ニ技術ニ関スル管理者ノ選任マタハ解任ヲ命スル コトヲ得
第27条 朝鮮総督ハ部下ノ官吏ヲシテ鉱業ニ関スル書類、物件ヲ検査シ又ハ坑内其ノ他ノ場所ニ臨検セシムルコトヲ得
第29条 朝鮮総督ハ左ノ場合ニ於テ鉱業権ヲ取消スコトヲ得
    1 鉱業公益ヲ害スルモノト認ムルトキ
    2 正当ノ理由ナクシテ鉱業権設定ノ登録ノ日ヨリ1年以内ニ事業ニ着手セス又ハ着手後1年以上休業シタルトキ
    3 第22条マタハ前条ノ規定ニ依リ命セラレタル鉱区ノ訂正ノ出願ヲ為ササルトキ 
    4 第24条ノ規定ニ依リ施業案ヲ定メタル場合ニ於テ之ニ依ラスシテ鉱業ヲ為シタルトキ
    5 第25条ノ規定ニ依ル命令ニ従ハサルトキ
    6 鉱産税又ハ鉱区税ヲ納付セサルトキ
第32条 鉱業ノ為必要アルトキハ朝鮮総督ノ許可ヲ受ケ他人ノ土地ヲ使用又ハ収用スルコトヲ得
      前項ノ許可ヲ受ケタル者ハ使用又ハ収用スヘキ土地及許可ノ年月日ヲ直ニ関係人ニ通知スヘシ
第44条 鉱業権有セスシテ鉱物ヲ採掘シタル者又ハ詐欺ノ所為ヲ以テ鉱業権ヲ得タル者ハ2年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ
     罰金ニ処ス
     過失ニ因リ鉱区外ニ侵掘シタル者ハ500円以下ノ罰金ニ処ス
     前項ノ場合ニ於テハ採掘シタル鉱物ハ之ヲ没収ス既ニ之ヲ譲渡シ又ハ消費シタルトキハ其ノ価額ヲ追徴ス

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                   朝鮮漁業令[抜粋](1911年6月制令第6号)
 
第1条 本令ニ於テ漁業ト称スルハ公共ノ用ニ供スル水面ニ於テ営利ノ目的ヲ以テ水産動植物ヲ採捕シ又ハ養殖スル業ヲ
     謂ヒ漁業権ト称スルハ朝鮮総督ノ免許ヲ受ケ漁業ヲ為スノ権利ヲ謂フ

     本令ニ於テ漁業者ト称スルハ漁業ヲ為ス者及漁業権ヲ有スル者ヲ謂フ
第2条 漁具ヲ定置シ又ハ水面ヲ区画シテ漁業ヲ為スノ権利ヲ得ムトスル者ハ朝鮮総督ノ免許ヲ受クヘシ其ノ免許スヘキ
     漁業ノ種類ハ朝鮮総督之ヲ定ム
第3条 水面ヲ専用シテ漁業ヲ為スノ権利ヲ得ムトスル者ハ朝鮮総督ノ免許ヲ受クヘシ前項ノ免許ハ漁業ノ経営又ハ維持
     ノ為必要アル場合ヲ除クノ外之ヲ与ヘス
第4条 前ニ条ノ外免許ヲ受ケシムル必要アル漁業ノ種類ハ朝鮮総督之ヲ定ム
第5条 第3条ノ規定ニ依リ免許ヲ受ケタル漁業権者ハ従来ノ慣行ニ依リ其ノ漁場ニ於テ漁業ヲ為ス者ノ入漁ヲ拒ムコトヲ得ス
     前項ノ漁業権者ハ入漁者ニ対シ地方長官ノ認可ヲ受ケ入漁料ヲ徴集スルコトヲ得
第6条 漁業権ノ存続期間ハ免許ヲ受ケタル日ヨリ10年以内トシ朝鮮総督之ヲ定ム但シ漁業権者ノ申請ニ依リ之ヲ更新スル
     コトヲ得
     第10条ノ規定ニ依リ漁業ヲ停止シタル期間ハ漁業権ノ存続期間ニ之ヲ算入セス
第7条 朝鮮総督ハ免許ヲ与ヘタル漁業ノ為保護区域ヲ設クルコトヲ得
     保護区域内ニ於テ漁業ノ妨害ト為ルヘキ行為ノ制限又ハ禁止ハ朝鮮総督之ヲ定ム
第8条 漁業権ハ相続、譲渡、共有、抵当又ハ貸付ノ場合ニ限リ之ヲ権利ノ目的ト為スコトヲ得但シ相続ノ場合ヲ除クノ外朝鮮
     総督ノ許可ヲ受クヘシ
第9条 朝鮮総督ハ必要アリト認ムルトキハ漁業ノ免許ヲ与フルニ当リ之ニ制限又ハ条件ヲ附スルコトヲ得
第10条 左ノ場合ニ於テハ朝鮮総督ハ免許シタル漁業ヲ制限シ、停止シ又ハ免許ヲ取消スコトヲ得
   1 水産動植物ノ蕃殖保護、船舶ノ航行碇泊繋留、水底電線ノ敷設若ハ国防其ノ他軍事上又ハ公益上必要アルトキ
   2 所定ノ期間内ニ漁業税ヲ納付セサルトキ
   3 前条ノ規定ニ依ル制限又ハ条件ニ違反シタルトキ
   4 本令又ハ本令ニ基キテ発スル命令ニ違反シタルトキ
第11条 左ノ場合ニ於テハ朝鮮総督ハ免許ヲ取消スコトヲ得
   1 錯誤ニ因リ免許ヲ与ヘタルトキ
   2 免許ヲ受ケタル日ヨリ1年以内ニ漁業ニ着手セス又ハ着手後1年以上休業シタルトキ但シ朝鮮総督ノ許可ヲ受ケ
     タルトキハ此ノ限リニ在ラス
   3 第3条ノ規定ニ依リ免許ヲ受ケタル者所定ノ漁業経営ヲ為ササルトキ又ハ漁村ノ維持上水面ヲ専用セシムル必要
     ナキニ至リタルトキ
第12条 捕鯨業又ハ「トロール」漁業ハ特ニ朝鮮総督ノ許可ヲ受クルニ非サレハ之ヲ為スコトヲ得ス
      前項ノ漁業ニ付テハ前3条ノ規定ヲ準用ス
第13条 鯨ヲ処理スル為根拠地ヲ設定セムトスル者ハ1根拠毎ニ朝鮮総督ノ許可ヲ受クヘシ
第14条 朝鮮総督ハ水産動植物ノ蕃殖保護又ハ漁業取締ノ為必要ナル命令ヲ発スルコトヲ得
      前項ノ命令ニハ犯人ノ所有シ又ハ所持スル採補物、製品及漁具ノ没収竝ニ其没収スヘキ物件ノ価格ニ相当スル
      金額ノ追徴ニ関スル規定ヲ設クルコトヲ得
第15条 海軍艦艇乗組将校、警察官吏、税関官吏、税務官吏又ハ朝鮮総督ノ特ニ指定シテル官吏ハ漁業ノ監督上必要
      アリト認ムルトキハ船舶、店舗其ノ他ノ場所ニ臨検シ帳簿物件ヲ検査スルコトヲ得
      前項ノ官吏臨検ニ際シ漁業ニ関スル犯罪アリト認ムルトキハ捜査ヲ為シ又ハ犯罪ノ事実ヲ証明スヘキ物件ノ差
      押ヲ為スコト得
第16条 一定ノ地域内ニ居住スル漁業者ハ朝鮮総督ノ許可ヲ受ケ漁業組合ヲ設クルコトヲ得
第22条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
    1 免許ニ依ラスシテ第2条又ハ第4条ノ漁業ヲ為シタル者
    2 免許ノ条件又ハ漁業ノ制限ニ違反シタル者
    3 漁業ノ停止中漁業ヲ為シタル者
第23条 捕鯨又ハ「トロール」漁業ニ関シ左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ3千円以下ノ罰金ニ処ス
    1 許可ヲ受ケスシテ漁業ヲ為シタル者
    2 許可ノ条件、漁業ノ制限又ハ漁業取締ニ関スル命令ニ違反シタル場合
    3 漁業ノ停止中漁業ヲ為シタル



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平頂山事件------------------------

 最近、戦後の歴史教育を根本的に見直そうという動きが活発である。そして、それに合わせるように「自虐史観」という言葉をよく耳にし、目にするようになった。見直しの観点が「自虐史観」の克服のようだから当然といえる。先頃、軍命による沖縄集団自決の教科書からの削除問題や従軍慰安婦問題などがマスコミをにぎわしたが、「自虐史観」を克服しようとする人たちの活発な活動のあらわれであろう。しかしながら、日本の侵略戦争の事実や人道に反する数々の行為を正しく認識し、その反省の上に新たな歴史教育が展開されるのでなければ、「誇りうる日本」はつくれないし、近隣諸国との関係も本質的には改善されないと思う。不都合な事実から目を背けたり、事実そのものをなかったことにしようとする姿勢では、信頼される日本はつくれないと思うのである。そういう視点で、戦争の真実を学び続けたいと思う。今回は、いわゆる「平頂山事件」について学んだ。

 「平頂山事件」という村民皆殺し事件が多くの日本人に知られるようになったのは『中国の旅』と題する本多勝一記者の現地取材記事が朝日新聞に連載されてからであるという。「本多勝一集14中国の旅」(朝日新聞社)を読むと、彼は撫順革命委員会外事組の関係者から撫順の歴史や現状を聞くとともに、平頂山事件の奇跡的な生存者(3人)や、その他中国側関係者から、直接事件の詳細な事実を聞き取り、図や写真を活用して事件をできるだけ証言通り正確に伝えようとしたことが分かる。

 一方「追跡 平頂山事件ー満州撫順虐殺事件」田辺敏雄(図書出版社)は、中国から事件の首謀者と断定された川上精一大尉(当時の撫順守備隊長)の親族が、その汚名を晴らすべく、あらゆる関係者の話を聞いてまわり、事件を丹念に調べ上げて、川上大尉には直接的な責任がなかったことを明らかにするとともに、冤罪で処刑された関係者があったことも明らかにした著作である(「中国の旅」にはK陸軍大尉とあるだけで、川上精一という実名は出てこない)。著者は、いくつかの点で本多勝一記者の取材内容の矛盾を指摘し、本多勝一記者の記者としての姿勢や裏付けのない記事をそのまま報道をした朝日新聞を批判しているが、その批判はさて置いて、下記のような村民皆殺し事件の事実そのものはあったのである。 著者が問題にしているは、その時村を離れていた村民が相当数あったのではないかということ、また、3千人という人数に誤りがあるのではないかということ、そして、その虐殺の責任の所在である。当時村にいた老若男女が皆殺しにされたという事実は否定しようがないのである。
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                          平頂山事件──満州撫順虐殺事件
 
 昭和7年3月1日、日本軍部の主導により、清朝最後の皇帝溥儀をいただいて、現在の中国東北部に新国家が誕生した。満州国である。満州国の誕生は、かねてより日本の進出に反対する勢力を勢いづかせ、いわゆる反満抗日活動を活発化させた。各地で出没するこれら”匪賊”に日本軍は手を焼く。
 前年に起きた満州事変から1周年にあたる9月18日を前にして、満州全土で匪賊の一斉蜂起がつたえられ、その攻勢が頂点に達していた。
 石炭の露天掘で名高い撫順も例外ではなかった。厳戒のなか、撫順炭鉱を数百の匪賊が急襲した。昭和7年9月15日、深夜のことである。炭鉱は紅蓮の炎につつまれ、逃げまどう日本人で大混乱におちいった。
 一夜明けた翌日、炭鉱の守備に責任をおう撫順守備隊は、匪賊の急襲に手をかしたとして、近くの平頂山村の住人を1ヵ所に集め、機関銃で皆殺しにする。その数3千人という。
 南京虐殺事件とともに、日本軍が引きおこした残虐行為の一つとして、中国政府は現地撫順に殉難同胞遺骨館を建立し、今なお告発しつづけている。『平頂山大屠殺惨案始末』として、中国の記録にとどめられている。

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                            第16章 証言による事件の再現

 一夜明けて

 一夜明けても興奮は収まらず、炭鉱員は皆いきり立っていた。三上安美氏は早朝、他の数人と近くの村に行き、腹いせに鶏めがけてピストルを撃ったという。途中不審な現地人を数人、殺害する炭鉱員を目撃している。この遺体は放置したままだったが、翌日(?)炭鉱の指示により埋めたという。


 ・・・

 井上中尉は隊員を前に、これから工人部落に行き、全員抹殺するとの明確な指示を与えたと藤野氏は証言する。中尉がこの指示を与える前に、憲兵隊長、警察署長、防備隊長、それに炭鉱次長などと協議したかどうかは定かでない。集まる時間の余裕があったかどうか、また電話が切断されたりして、連絡がつけられる状態かどうかも、今ひとつはっきりしない。おそらく、これは埋まることのない疑問だろう。事情を知り得る立場にいた人の生存は、まず期待できないからである。……(以下略)

 ・・・

 弾薬庫から銃弾をトラックに積んだ初年兵を主力とする40余名は重機1、軽機3を携行し、3台のトラックに分乗し、中尉の意図する殺害予定地へと向かった。そこは谷あいになっていて、以前採砂場だった所である。そこで重機を中心に、左右に間隔をおいて軽機を据えつけ、茶系統のカバーをかけ、隠しておく
 中尉はその場で部落民を連行するように命じ、兵士は中尉と少人数の隊員を残し、徒歩で部落に向かった。写真を撮るという理由をつけ、部落より外に追い出したと藤野氏は記憶している。
「たくさんいるなあ」と藤野氏は思った。部落民の後方に立ち、銃剣で追うように約5百~千メートル離れた現場に連れて行く。明るい太陽に照らされた人影が、くっきりと大地に映しだされていた。このとき、住民はすでに騒ぎはじめていた。だが、連行中、殺傷等の行為は一切なかった。連行せよとの命令を兵は忠実に守った。一ヵ所に集められた住民はそこに座らされる。そして、中尉の「撃て」のピストルの合図により、カバーをはずし重軽機の射撃になったという。


 この模様を野村弥助上等兵(仮名)はつぎのように書いている。
「翌日楊柏堡であろう場所に私は居ました。しかも6月1日付で上等兵になり、日浅いのに分隊長となり、兵7名を従へ現地に恐らく先頭に居た様です。守備隊の兵力は1ヵ少隊かそれ以下の様でした。何時住民が1ヵ所に集められたものやら、2百人位の住民がウツ伏せており前面は切り立ち、後は平地の様でした。昨夜、匪賊の襲撃を受けた折、その手引きをしたのでミナゴロシにするのだという。私は無抵抗の人間を殺すのかと思いながら、分隊長の責任において……」撃ての命令に従ったのだという。


 上官の命令は陛下の命で、それに従わざるを得なかったと書く。上官の命令は絶対であったと書いて寄こした隊員はほかにもある。

 ・・・(以下略)


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平頂山事件は井上中尉の独断専行か---------------

 「追跡 平頂山事件ー満州撫順虐殺事件」田辺敏雄(図書出版社)を読んで、平頂山事件の概要は、本書によってほぼ明らかにされているのではないかと思ったが、「平頂山事件 消えた中国の村」石上正夫(青木書店)は、その村民皆殺しの命令や指示に関する結論部分に疑問を投げかけている。日本軍の体質的問題としてとらえる必要性があるかも知れないと考え、ここに抜粋することにした。
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                               第3章 平頂山事件

 兵士たちの証言

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 小隊長の井上清一中尉が襲撃現場にあって、人より異常な積極性をもって虐殺命令をくだした事実は、井上小隊の複数の隊員の証言の一致するところである。井上中尉の現場責任は、田辺氏(「追跡 平頂山事件ー満州撫順虐殺事件」の著者)が指摘するように最も重い。この事実は動かしがたいものがある。が、現場にいなかった満鉄職員も、戦後調査した者も、一致して井上中尉の「独断専行」を強調するところに、一つひっかかるものが私にはある。井上中尉には自刃した烈婦夫人を背負った特異な人として噂され、噂に根拠をもつ「人物評価」の根深さが、いつもつきまとっている。
 
 関東大震災のさなか大杉栄ら3人を殺害した甘粕正彦憲兵大尉は、「独断専行」の罪をかぶったがために、逆に出獄後には軍から優遇され、満州において「闇の帝王」の地位についた。
 張作霖大元帥を爆殺した関東軍高級参謀・河本大作大佐も、同じく「独断専行」の罪をかぶりながら、恫喝によって軍事裁判を逃れ満鉄理事の地位を獲得した。
 井上清一中尉についても、「独断専行」の名のもとに同中尉一人を断罪することで、累が軍上層部に及ばぬよう画策されたのではないか、という疑念がつきまとうのである。

 国際連盟において中国代表が平頂山事件を指弾したさい、武藤信義満州国大使・関東軍司令官(兼務)は、内田康哉外務大臣にあてて次のように返電し、事情説明をしている。事件後76日たった11月28日の外務省電においてである。

  「……9月15日夜約約2千ノ兵匪及不良民ハ撫順市外ヲ襲撃シ、且各自ニ放火セルノミナラス、我独立守備隊ヲ襲エリ。之等兵匪及不良民ノ徒ハ、千金堡及栗家溝ヲ根拠トセルヲ以テ、井上中尉ノ率ユル1小隊ハ、16日午後1時、千金堡ニ至リ部落ノ捜索ニ着手セル処、却テ匪賊ノ発砲ヲ受ケ、我軍ハ自衛上迫撃砲ヲ以テ之ニ応戦セリ。交戦30分後村落ノ掃討ヲ終ヘタルカ、村落ハ交戦中発火シ大半焼失シ、又匪賊及不良民350名仆レタリ。右ハ支那側ガ大袈裟ニ宣伝スルカ如キ、多数無辜ノ民ニ対スル残虐行為ニ非ス。我軍ノ自衛処置ニ過キヌ……」

 2千名のゲリラが撫順を襲撃したというところだけ正しく、その他はすべて虚偽の作文である。中国側の調査や生存者の証言、作戦に参加した兵士の証言に照らしても、その作為は歴然としている。その作為歴然の報告書に「井上中尉ノ率ユル1小隊ハ」が出てくる。武藤関東軍司令官は、とくにここを強調しても不自然ではなかろう。
 川上中隊長の在・不在にかかわらず、1小隊の「独断専行」で行えるような小さな作戦ではなかった。川上中隊長は直属上官としての責任はまぬかれないが、第二大隊長と関東軍司令官こそ現地駐留軍の最高責任者ではないか。中隊長の責任を問えば、さらに上層部への責任追及の危険を残す。井上中尉の「独断専行」でけりをつければ、問題はそこで終わる。国際問題に発展したさいを考慮しての深慮と思われるが、どうか。

 関東庁は天皇の命令、勅令によって設置され、満州国をつくりあげてからは、関東庁長官は関東軍司令官と満州国駐剳特命全権大使を兼ねていた。前掲の作為にみちた報告書は関東軍司令官の名で作成されたものである。司令官は天皇の直属であるから、満州侵略の一環のなかで発生した兵頂山事件は、国際問題になれば日本の国体自体が責任を問われかねない性格のものであった。武藤司令官の報告にはそうしたことへの配慮があったと思われる。
 絶対服従の軍隊のなかにあって、上層部に責任がおよばぬように常時さまざまな作為が行われていた。日本軍の構造的特質である。



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平頂山事件と「国家無答責」の判決----------------

 事件発生から64年も経過した1996年、平頂山事件訴訟が中国人戦後補償問題の一つとして東京地方裁判所に提訴された。「平頂山事件とはなんだったのか──裁判が紡いだ日本と中国の市民のきずな」平頂山事件訴訟弁護団(高文研)には、弁護団の結成から提訴に至までの経緯やその後の裁判の取り組みが詳しく綴られている。
 平頂山事件訴訟に対する東京地裁や東京高裁の「国家無答責」の判決および最高裁の上告棄却の決定は、日本のあらゆる戦後補償問題に対する姿勢を象徴するものではないかと思う。
 敗戦後の日本は、表面上の民主化とは裏腹に、アメリカとの取り引きによって、様々なかたちで戦前の体制を温存させた。アメリカも事実上「国体護持」を認め、天皇の戦争責任を免責することによって、戦争責任の追求を曖昧にしただけではなく、米ソ対立の激化に合わせて、日本の再軍備を急ぎ旧軍関係者を甦らせた。ポツダム宣言で永久に公職追放されたはずの旧軍将校が、再軍備が進むと追放を解除され、自衛隊に入隊したり、国会議員となったりして活動を再開したのである。
 旧日本軍細菌戦部隊(731部隊)関係者などは、その極秘情報のアメリカ軍への提供によって免責され、全く訴追されることなく、戦後も要職に復帰し、アメリカ占領軍に従属しながら、旧支配体制温存の一翼を担った。すなわち、敗戦後の日本は、天皇や皇族、旧軍関係者、旧中央官僚などが、アメリカ占領軍に従属するかたちで、その支配力を相当程度維持したと考えてよい。
 日本が、戦争責任の追及を有耶無耶にし、戦後補償の問題にきちんと取り組まないのは、そうした旧支配層が今も変わらず力を持ち続けているからではないかと思うのである。残念ながら、平頂山事件の一審・二審の判決や最高裁の決定は、裁判所も決して旧支配層と無縁ではないことを示したものといえるのではないかと思いつつ、同書から抜粋した。
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                  第3章 手探りで始まった裁判──「国家無答責」の壁に挑む

 一審判決「国家無答責」で敗訴──2002年6月28日

 判決の勝利を信じて、原告を代表し楊宝山さんが来日した。2006年6月28日に出された東京地方裁判所民事第10部(裁判長菊地洋一)判決は、弁護団が提出した証拠に基づき、「この(撫順炭鉱)攻撃事件の直後、日本側守備隊は、中国側自衛軍の進軍経路上にあった平頂山村の住民が自衛軍と通じていたとして、同村の住民を掃討することを決定し、同日朝、独立守備隊第2大隊第2中隊等の部隊が平頂山村に侵入した。旧日本兵らは、同村住民のほぼ全員を同村南西側の崖下に集めて包囲し、周囲から機関銃などで一斉に銃撃して殺傷した後、生存者を銃剣で刺突するなどして、その大半を殺害し、同時に村の住家に放火して焼き払った」などとして、1932年9月16日の平頂山事件の日本軍による住民虐殺の事実をほぼ、原告の主張どおりの内容で認めた。


 しかし、原告らの求めていた損害賠償請求については、国家賠償法が制定施行される以前におけるわが国の法制度は、「権力作用に基づく損害について国又は公共団体は賠償責任を負わないとする国家無答責の法理が採用されていた」として「本件加害行為(住民虐殺行為)は、旧日本軍の中国における戦争行為・作戦活動に付随する行為であり、これらの行為はわが国の公権力の行使にあたる事実上の行為」であるから、「いわゆる国家無答責の法理により損害賠償責任を負わない」として、原告らの請求を棄却した。

 判決は、国家無答責の法理とは、「(国の)損害賠償の根拠となる法律が存在しなかったから、損害賠償責任を負わない」とする法理であると判示した。しかし、戦前においても民法の不法行為の規定は存在しており、国の権力行為について、なぜ民法が適用されないのかについては、判決は直接的に理由を述べなかった。
・・・(以下略)
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                  第4章 信頼と和解──裁判が結びつけた人びとの絆

 二審判決「国家無答責」で敗訴──2005年5月13日

 事件から73年、最後の望みを裁判に託した原告たちの痛切な願いと、これを支援した日中の人びとの期待は、2005年5月13日、東京高等裁判所第10民事部の下した判決により、木っ端微塵に打ち砕かれた。またしても敗訴。またしても国家無答責の法理であった。

 判決は、「当該行為(本件の日本軍による平頂山住民虐殺行為)は、旧日本軍の戦争行為、作戦活動として行われたものであることは否定しがたい」「軍事力の行使は、国家の権力作用の最たるものであり」、それゆえ「責任の有無の判断は、国家主権の正当性の存否にもかかわる」から、「市民社会に共通して適用される私法の規律にかからしめることができないことは明らか」と断じた。


 これは「軍隊の行為についてはその当否を問えない」とする戦前の明治憲法体制下の司法判断となんら変わらない考え方であった。個人の人権を最高価値とする現行憲法は、人権の最後の守り手としての裁判所の任務を定めている。東京高等裁判所の判決は、憲法の規定する司法の任務を放棄することを高々と宣言したに等しく、まさに司法の自殺行為といえる判決であった。
 ・・・(以下略)
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                  第4章 信頼と和解──裁判が結びつけた人びとの絆

 最高裁上告棄却──2006年5月16日

 2006年5月16日、最高裁判所第三小法廷(上田豊三裁判長)は、平頂山事件で日本軍に肉親を虐殺された楊さん、方さん、故莫さんら原告の、日本政府に対する損害賠償請求につき、原告らの上告を棄却し、上告審として受理しないとの決定を行った。

 平頂山事件弁護団は、全体弁護団と協力し、「国家無答責の法理」の適用を否定した戦後補償裁判の判決の到達点と、行政法、民法などの学者による最新の研究成果に基づき、詳細かつ最先端の理論を展開して不当な高裁判決を覆すべく争った。しかし、最高裁は、上告理由書等の提出からわずか4ヶ月足らずで、まともな審理も行わず、何らの根拠を示すことなく、上告を棄却し、上告を受理しないとの三行半の決定を下した。

 ・・・(以下略)


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江華島事件(明治政府の対朝鮮威圧外交の開始)------------

 「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)は、木戸孝允(桂小五郎)が、1868年(明治元年)12月14日、岩倉具視に宛て、朝鮮を攻め日本国内の反政府気勢を海外へ向けるとともに、朝鮮領土に勢力を広げ利益をあげようという内容の建議をしたことを、文書を示して明らかにしている。また、翌年には、大村益次郎に宛て、「天皇の陸海軍だけで、朝鮮の釜山付近を開港させる以外に天皇の国を万代も長く栄えさせる道はない」と朝鮮攻略を仔細に指示したことも明らかにしている。

 日本の朝鮮に対する侵略的姿勢や韓国併合まで続く武力を利用した威圧外交は、明治政府がそのスタート時点から日本の外交路線としたようである。下記は、明治政府威圧外交の端緒ともいえる江華島事件に関する部分の抜粋であるが、事件の顛末や木戸建議などを考え合わせると、日本側の「自作自演」に違いないことがわかる。
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江華島事件勃発

 同年(1975年)9月19日、漢城(現在のソウル)入口江華湾を航行中の「聖なる日章旗」が砲撃されるという大事件が起きた。明治政府は天地がひっくり返ったように騒ぎたて、内心ほくそ笑んだ。この江華島事件は、閔(ミン)王妃殺害事件(1895年。後述)とともに、朝鮮民族の進歩を半世紀にわたって遅らせたうえ、今日なお国家分断に苦しむことになった根源の事件である。また、皇国日本を東洋平和を口実にして戦争に明け暮れさせ、アジア諸国の人々と日本国民にはかり知れない災難をおよぼした根源である。

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 事件の顛末は次のようなものである。
 江華湾は首都防衛の要塞地帯であった。1875年9月20日軍艦雲揚は朝鮮側から攻撃、撃沈されることを期待して、飲料水を求める口実で無断で湾内に入り、ボートを降ろした。ところが期待に反してボートが第1、第2砲台を通りすぎても砲撃がなかった。ボートは奥深く第3砲台まで遡って、砲台の内部を事細かに偵察していた時、朝鮮側から空砲による警告を受けた。
 しびれを切らしていた雲揚はこの警告をきっかけに一斉に砲門を開いたのだ。後に引用する雲揚の井上艦長報告でわかるように、永宗島を占領して砲台を打ち壊し、戦利品として38門の砲を分捕り、民家を焼きはらい、裸で川を泳いで逃げる朝鮮兵を片っ端から撃ち殺した。朝鮮側の砲台がたとえ多少でも応戦していたら、第3砲台付近は狭いうえ、ちょうど上げ潮時で潮の勢いが強くて引くに引けなかったといっているから、ボートは沈められたはずである。
 飲料水を求めるボートを降ろしたというが、それなら建物と城兵の数までわかるほど接近し、偵察をして通り過ぎた第1砲台で何故水を求めなかったのか。艦長報告によればボートは漢江まで遡っている。これが朝鮮と日本の近代史のなかで特筆すべき江華島(湾)事件勃発の真相である。

 木戸孝允は、自分を事件処理に弁理大臣に任命してくれという上申書のなかで、故なくして日本帝国の旗章に向かって暴撃をしたとして朝鮮の「罪」を責め、しかるべき「処分」を求めて日本の名誉を守ると主張した。百歩譲って朝鮮側から先に発砲があったとしても、江華湾は日本でいえば東京湾の品川沖である。東京湾に比べると奥行きが遙かにない。他国の軍艦が日本沿海を測量し、東京湾に侵入して要塞施設を偵察し、たとえば隅田川の永代橋まで遡って来ても、日本は黙視しただろうか。朝鮮側からの発砲はなかった。かりにあったとしても、無断で他国の湾内深く侵入し、測量や偵察をした主権侵害とスパイ行為は正当化できるものではない。
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 各国公使に釈明

 江華島事件発生と同時に各国公使から明治政府に真相の説明を求める抗議があった。説明は雲揚の井上艦長がしている。

   朝鮮国トノ通交ニ関スル件
   10月9日 寺島外務卿ト英国公使トノ対話書
   江華島事件経過ニ関スル件 第138号
   明治8年10月9日於本省寺島外務卿英国公使ハークス応接記
  「雲揚艦船将井上氏御着ノ趣朝鮮戦争ノ詳説承ケタマワリ度ク候」(ハークス)我ガ雲揚牛荘辺ヘ通航ノ砌リ9月20日
 朝鮮江華島ノ近傍ニ碇泊シ、飲料ノ水ヲ得ルタメ端船ヲ卸シテ海峡ニ入ル。第1砲台・周囲凡我2里(8キロ)周囲ニ城
 壁ヲ築キ4門開ケリ。城兵凡5百余名。城中ノ家屋ハ皆兵営ノ様子ナリノ前ヲ過ギ第2砲台ノ前ニ至ル。
  第1砲台ト第2砲台トハ遙ニ遠ク離レ、第2砲台ト第3砲台トハ、第1ト第2砲台ノ中間ホド離レタリ。第2砲台ハ空虚ノ様
 子ニシテ人影ヲ見ズ。
  第3砲台ハ巨大デ、牆壁ヲ築キ壁ニ砲門ヲ開キタリ。備ウル所ノ大砲ハ凡12~13斤位ニシテ真鍮砲ナリ。小銃ハ我ガ
 2~3匁位ニシテ火縄打チナリ。城兵ノ柵門ヲ出入スルヲ見ルモ、本艦ハ見エズ。船近ヅクノ時小銃ノ声ヲ聞キタルモ他
 事ノ砲声ト想イ敢テ気ニセザリシニ、復一声ヲ聞ク(弾丸ハ来ラザル由)ト斉シク大小砲ヲ列発シテ我ガ端船ヲ襲撃ス。端
 船応戦スル能ハズ退カントスルニ折アシク満潮(上げ潮のことだろう)狭隘故、潮勢甚シクテ退クヲ得ズ、止ムヲ得ズ小
 銃ヲ発シテ本艦ヘ合図セリ。本艦コノ号砲ヲ聞キテ直ニ進ミ来レリ。(中略)且ツ砲台ヲ毀シ民家5,6軒アルヲ以ツテコレニ
 火ヲ放チテ焼ク。コレニヨツテ城中動揺シテ走ル。然ルニ其遁路万世橋ニハ我兵ヲ率イテコレヲ守ル。逃ルニ道ナク、 衣
 ヲ脱シテ水ニ投ズル者幾許ナルヤヲ知ラズ。我兵追ツテコレヲ狙撃セリ。我レ全勝ヲ得テ後、彼ノ囚人(捕虜)ヲ使役シテ
 旌旗ト金及ビ大小砲37門ホド分捕リテ本艦ニ帰ル(後略)(日本外交文書第8巻)


 江華湾の第3砲台付近の干満の差は9メートルもあって、満ちる時、引く時は小汽船では下ることも上ることもできない。井上艦長の説明によれば、朝鮮の砲の射程距離は6,7丁(7、8百メートル)ほどだといっている。「本艦ハ見エズ」といっているから、朝鮮砲台の砲ではとても対抗できなかったので、朝鮮兵は「走ル(逃げた)」。
 井上艦長の説明によれば、砲台内の様子がわかるほどボートは接近していた。川幅が狭くて上げ潮の勢いが強いので、引くに引けなかったといっているから、砲撃されたのが本当なら、いくらちゃちな朝鮮の鉄砲でも近くに来たボートくらいは沈めることができたはずである。ボートが無事であったということは、朝鮮側の発砲がなかったからである。
 江華島事件は、朝鮮を開国させるための日本側の一方的攻撃で起こったもので、昭和期に入っての満州と支那事変と同じデッチ上げの手法であった。イギリスのほかアメリカ、ロシア、フランス、イタリアなどいくつかの国の公使にも説明しているが、いずれも植民地支配者としての同じ穴のムジナだから、これらの国からこれといった強い抗議はなかった。

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 「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)は、飲料水を求めて江華湾の奥深くに入った雲揚艦が「9月20日に江華島沖をはなれて、同月28日には長崎まで途中飲料水を補給せず帰っている」ことから、飲料水不足は口実であろうことを指摘している。


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日清戦争「開戦」と「朝鮮王宮占領」の真実---------------

 歴史的には日清戦争に至るそれなりの必然性があったのかも知れないが、今その経過をふり返ると随分酷い話である。「朝鮮の独立」を口にしながら、実質的には朝鮮を属国扱いし、日清戦争開戦の道具に使ったのである。もし、朝鮮と日本の立場が逆であったら、これを許す日本人は一人もいないのではないかと思う。
 『歴史の偽造をただす ── 戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』中塚明著(高文研)からの抜粋である。
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                 1 日清戦争がなぜ朝鮮王宮占領から始まるのか

 最初の武力行使=朝鮮王宮占領

 日清戦争は「朝鮮の独立」のために戦われた戦争であったと、学校で教わった人は多いだろう。日清戦争の宣戦の詔勅にも、「朝鮮は帝国がその始に啓誘(けいゆう)して列国の伍伴に就かしめたる独立の一国」である、それなのに清国は「朝鮮をもって属邦と称し陰に陽にその内政に干渉し……帝国が率先してこれを諸独立国の列に伍せしめたる朝鮮の地位」と「これを表示するの条約」をないがしろにしている、この清国中国の非望ののために日本はやむなく戦争をせざるを得ないのだと述べていた。
 朝鮮を「独立国」とする日本と「属国」とする清朝中国とが戦った戦争、朝鮮を「属国」とする清朝中国は「野蛮国」であり、日本は「文明国」である、日清戦争は「野蛮」に対する「文明」の戦争であったと喧伝された戦争であった。

 宣戦の詔勅は、日本国としての戦争目的を内外に明らかにしたものである。また、開戦後、朝鮮政府と結んだ「大日本大朝鮮両国盟約」(1894年8月26日調印)には、「この盟約は清兵を朝鮮国の境外に撤退せしめ朝鮮国の独立自主を鞏固にし日朝両国の利益を増進するをもって目的とす」(第1条)とうたわれていた。さらに日清講和条約(下関条約)では、第1条に「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す……」と明記されたことはよく知られている。


 日本は、日清戦争は「朝鮮の独立」のための戦争であったと内外にくりかえし宣明し国際的な約束事としたのである。
 その戦争における日本軍の最初の武力行使が朝鮮の王宮占領であったというのは、どういうことなのか、けげんに思われる読者も少なくないのではないか。また、日清戦争の最初の戦闘は1894年7月25日、朝鮮西海岸、仁川沖合での戦闘、豊島沖の海戦であると思っている人も多いだろう。

 しかし、日清戦争における日本軍の最初の武力行使は、ほかならぬその「独立」のために戦うといった朝鮮に、それもよりによって国王のいる王宮に向けてのものであったのである。豊島沖の海戦に先立つ2日前、7月23日の未明から早朝にかけて、日本軍は朝鮮の王宮を占領し、日清戦争の口火をきったのである。「朝鮮独立のための戦争」が、なぜその王宮、景福宮(キョンボックン)の占領から始まったのか。

 「名分」に困った日本政府  略
 
 清韓宗属問題問題を口実に  略

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                            2 王宮占領計画

 「王宮威嚇」の目的

 大鳥公使が最後通牒を朝鮮政府につきつけ、「王宮威嚇」のことが現実問題になった。大鳥公使の意を受けて、7月20日午後1時、本野一郎参事官が第5師団混成旅団長大島義昌少将を訪ねて、朝鮮政府を威嚇するために王宮を囲むことを提案するのである。
 『日清戦史』の草案は、本野参事官の申し入れを次のように書いている。(以下、『日清戦史』草案からの引用は、福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の『明治27、8年日清戦史第2冊決定草案、自第11章至第24章』による)

 ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来たれり。因って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の処置に出でんがため、本日該政府に向かって清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を22日と限れり。もし期限に至り確乎たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君〔李是応(イハウン)〕を推して入闕せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山(アサン)清兵の撃攘を我に嘱託せしむるを得べし。因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。


 この申し入れに対し、南方に陣取っていた清朝中国の軍隊を攻撃するため準備していた大島旅団長であったが、すでに清国軍増派の知らせもあるこの時、南下を延期するのは戦略上、不利なのは言うまでもないが、「開戦の名義の作為もまた軽んずべからず、ことに朝鮮政府に対し日本公使の掌中に在らば、旅団の南下の間、京城の安全を保つに容易にして、またその行進に関しては軍需の運搬、徴発、皆便利を得べし」と、この公使の提案に同意した。

 つまりこの王宮占領は、朝鮮の国王高宗(コジョン)を事実上とりこにし、王妃の一族と対立していた国王の実父である大院君を担ぎだして政権の座につけ、朝鮮政府を日本に従属させ、清朝中国の軍隊を朝鮮外に駆逐することを日本軍に委嘱させる、つまり「開戦の名義」を手に入れる、さらにソウルにいる朝鮮兵の武装を解除することによって、日本軍が南方で清朝中国の軍隊と戦っている間、ソウルの安全を確保し、同時に軍需品の輸送や徴発などをすべて朝鮮政府の命令で行う便宜を得る。こういう目的で遂行しようというのである。


 作戦計画の立案

 大島旅団長は、翌21日、大鳥公使を訪ね「1個大隊」で威嚇するという公使の提案を改め、「手続きを省略し直ちに旅団を進めてこれに従事せしむること」にした。そして歩兵21連隊長武田秀山中佐に作戦計画の立案をひそかに命じた。
 作成された「朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画」は、草案によると次のようなものであった。日本軍の行動が『日本外交文書』や《公刊戦史》の言うところと、どんなに違っているかを知る上で、詳しくなるが全容を紹介する。

  朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画
(省略)

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朝鮮王宮占領(開戦の口実づくり)と対清国宣戦布告-----------

朝鮮を日本の支配下におくため、清国軍を朝鮮から追い出したかった日本は、清国ではなく朝鮮に無理難題を押しつけることによって清国との「開戦の口実」を作った。
 その一つは、「清宗属関係」(保護属邦)の問題である。清宗属関係を認めれば、江華島条約違反であると責めたて、「自主独立」の国であるといえば、朝鮮に出兵している清国軍は朝鮮の独立権を犯しているので、「清国軍を朝鮮から追い出せ」と責めたてようというのである。そして、もし朝鮮にそれができないのであれば、日本軍が追い出すというから恐れ入る。そして、武力で朝鮮を威嚇し、王宮(景福宮)を占領、大院君を入城させ、清宗属関係廃止の通告と清国兵国外追放依頼書を書かせた。開戦のために朝鮮を利用したのである。また、朝鮮国内政改革の問題もあった。内政改革の意志がないときは、強硬手段をとって、実行を促すと言うのである。以下「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)より抜粋する。
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 第2章 日清戦争と朝鮮

 4 内政改革断行ニ付き上申ノ件

 公使の大鳥は、恥知らずにも次のように、無頼漢まがいの方法で朝鮮政府を威嚇して、修好条規の第1款が罠であったことを自ら暴露するのである。

 日清両国兵各々24余里を隔テタル遠地ニ駐屯シ、而シテ其ノ目的モ同一ナラザレバ、幾日ヲ経過スルトモ両兵衝突スベキ機会之ナク、然ルニ我ガ兵追々増加シテ、彼ノ2,3倍ニ達シタレバ、我ガ利ハ速戦ニアルコトハ勿論ナルノミナラズ、内政改革ノ目的ヲ達スルニ於イテモ亦速戦ヲ利益トス可キニ付キ、左ノ順序ニ従ツテ之ヲ決行致ス可キト存ジ候。
 朝鮮政府若シ、我ガ国ハ自主独立ニシテ清国ノ属邦ニアラズト返答シタル時、我ハ朝鮮政府ニ向カツテ然ラバ今清国兵ハ属邦保護ノ為メト称シテ貴境ニ入リシハ、之貴国ノ独立権ヲ侵害セリ。之ヲ退去セシメテ日朝条約(修好条規第1款)ノ明文ヲ全ウスルハ貴国政府ノ義務ナレバ速ヤカニ之ヲ逐イ出スベシ。若シ貴国ノ力ニテ之ヲ為シ能ザル時ハ、我ガ兵ヲ以ツテ貴国ヲ助ケ、之ヲ逐イ払ウ可シト迫ル。
 又若シ朝鮮政府ガ、清国ノ属邦ニ相違ナキ旨返答シタル時ハ、公然朝鮮政府ニ向カツテ彼ガ修好条規第1款ニ背キ且ツ締約以来17年間我ヲ欺キタル罪ヲ責メ、兵力ヲ以ツテ之ニ迫リ、彼ヲシテ謝罪ノ実ヲ挙ゲシメ我ニ満足ナル補償ヲ取ルベシ。
 又若シ朝鮮政府ガ、古来清国ノ属邦ト称セラレルモ内治外交ハ自主ニ任ズル約束ナレバ自主ノ邦国タルニ相違ナシト返答シタル時ハ、朝鮮政府ニ向カツテ、内乱ヲ鎮定スルハ内治ニ属セリ。然ルニ清国ハ属邦保護ノ名義ヲ籍リテ兵ヲ派遣シタルハ、是内治ニ干渉スルコトナリト第1項ノ手続キニ従ツテ韓廷及ビ清国ノ使臣ニ迫ルベシ。 (『日本外交文書第27巻』)


 ・・・(以下略)

 公使が牢破り 

 日本軍がソウルに入れば、清国兵は必ず攻撃してくるものと信じていた。ところが清国は好戦の国ではなかった。日本の期待に反して清国兵は攻撃してこない。開戦の口実をつくらねばならなかった。そこで、戦争を仕掛けるため日本の外交官が牢破りをするのである。
 高宗王に清国軍追放依頼書を書かせるには、王の実父国太公(当時引退した大院君を国太公と呼んでいた)の威光が必要であった。ところが国太公は動こうとしなかった。国太公を説得できるのは、捕管庁に入牢中の鄭雲鵬しかいなかった。そこで、日本国の公使は牢破りをして、国事犯を牢抜きしたのである。


 ・・・(以下略)

 いよいよ開戦

 何が何でも戦争をすることが決まっていたことと、日本軍が不意に先制攻撃した事実を、日本の外務次官が認めている。

 牙山(アサン)の清国兵動かざりしには予期に違いほとほと困却せり。外務大臣の計策はほとんど進行を阻止せられんとす。然るに既に輸送船を徴発して7,8千の兵を動員す。騎虎の勢中止すべからず。依って加藤増雄、本野一郎を派遣し、陸軍の参謀官と牒合して終に牙山に於て清国兵を討つに至れり。(前掲『後は昔の記他林薫回想録』)


 1894年(明治27年)7月25日、陸軍は牙山の清国兵を、海軍は黄海の清国の軍艦を攻撃し、致命的損害を与えてから、8月1日ようやく宣戦布告した。以来日露戦争、満州事変と日中戦争、太平洋戦争と、宣戦布告前の不意打ち攻撃は「忠勇無双の皇軍」の伝統的戦術となった。

5 天皇の詔書

 対清国宣戦布告


 天佑ヲ保有シ、万世一系ノ皇祚ヲ践ム(天皇の位を継ぐ)大日本帝国皇帝ハ忠実武勇ナル汝有衆示ス。朕茲ニ清国ニ対シ戦ヲ宣ス。朕ガ百僚有司ハ宜ク朕ガ意ヲ体シ、陸上ニ海面ニ、清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従イ以ツテ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スベシ。
 朕惟ウニ朝鮮ハ帝国ガ其ノ始メニ啓誘(さそってひらく)シテ、列国ノ伍伴(なかま)ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。而シテ清国ハ事毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其内政ニ干渉シ、其内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ国難ニ籍リ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。朕ハ明治15年ノ条約ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ、更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ、以ツテ東洋全局ノ平和ヲ維持セシメムト
欲シ、先ズ清国ニ告グルニ協同事ヲ以ツテ従ハムコトヲ以ツテシタルニ、清国ハ翻ツテ種々辞柄ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ。之ニ因リ清国ニ対シ戦ヲ宣セザルヲ得ザリシナリ。汝有衆ノ忠実武勇ニ依リ速ヤカニ平和ヲ永遠ニ克服シ以ツテ帝国ノ光栄ヲ全ウセヨ。(『日本外交文書第27巻』)


 「帝国ガ其ノ始メニ啓誘」したという江華島条約は、大陸侵攻を国是とする日本が清国に戦争をしかけるために武力攻撃で朝鮮を嵌めた罠であった。
 「東洋全局ノ平和ヲ維持セシメムト欲シ、先ズ清国ニ告グルニ」といっているが、清国軍が朝鮮に到着する以前に対清国との戦争を決めた6月3日の閣議決定を天皇は裁可し、大本営まで設置した。清国と戦争するための出兵に、済物補条約(1882年。『日本外交文書第13巻』)の適用は道理に合わない。また、農民が国政の改革を要求して蜂起したのは禍乱ではないし、日本には無関係である


 ・・・(以下略)

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閔妃暗殺の首謀者はソウル駐在日本公使(三浦梧楼)?-----------

伊藤博文暗殺100年の2009年10月26日、ハルビンや韓国で「抗日の英雄」をたたえる記念式典があったという。日本では、近代国家の基礎をつくったと評価され、千円札にも登場した伊藤博文だが、朝鮮民族にとっては、「侵略の元凶」であり、伊藤博文を暗殺して処刑された安重根は、今も「民族の英雄」であるという。したがって、記念式典は安重根の「義挙100年」の行事なのである。「伊藤博文」という個人を暗殺した安重根が、今なお韓国のみならず中国でも英雄視されている事実に抵抗を感じないわけではないが、江華島事件以来の日韓(朝)・日中の歴史をふり返ると、これからの日本は、さらに深く広く日本の過去の「あやまち」に向き合い、日韓(朝)・日中との関係改善に努めなければならないと思う。
 閔妃暗殺事件もそのひとつであり、極めて野蛮な国家的犯罪であると認めざるを得ない。前段は「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)から閔妃殺害事件の概略を抜粋した。後段は「外交文書で語る-日韓併合」金膺龍(合同出版)から内務省法制局参事官(朝鮮内部顧問)石塚英蔵の末松法制局長宛報告書の一部を抜粋した。
 
「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)-----------------------------------

6 ロシアの進出と日本

 三国干渉と朝鮮における日本の地位

 日本は清国と、朝鮮における支配権をあらそって日清戦争をおこし、清国の勢力を朝鮮から一掃した。ところが、ロシア、フランス、ドイツの三国が、日清講和条約にある日本の遼東半島領有に反対して、これを清国に返還するよう要求した。戦争でそうとう弱っていた日本はとうていこの三国には対抗できないので、この要求に屈服したのである。
 これが有名な三国干渉で、日本はこのため朝鮮で大いにその威信をおとした。かわりにロシアが朝鮮へ進出して、朝鮮の宮廷でも、閔氏の一族はロシアと接近し、日本を排撃しようとしたのである。
 1895年(明治28年)の7月6日、閔氏の一派はソウル駐在のロシア公使ウェーバーと結んで、朝鮮政府から親日分子の朴泳孝、金嘉鎮、徐光範などを追放し、かわりに親露派の李允用、李完用、李範晋らがあらたに入閣し、日本人が訓練した軍隊も解散された。これは宮廷勢力を中心にしたクーデターであったが、これはかねてから日本にたいしてひじょうな反感をもっていた朝鮮の民衆からは支持されていたのである。


 閔妃事件

 そのころソウル駐在の日本公使は三浦梧楼であったが、三浦は、ソウルの日本守備隊長の楠瀬幸彦と共謀のうえ、かねて閔妃と敵対していた大院君をかつぎだし、そのころソウルにいた日本人の大陸浪人たちを手先にして閔妃の暗殺をはかったわけである。

 1895年の10月7日の夜から翌日早朝にかけて、大院君は訓練隊に護衛され、これに日本の守備隊と抜刀した日本人の一隊が随行して景福宮におしいって閔妃を惨殺し、その死体を陵辱したのち石油をかけて焼いてしまった。これまでこの兇行は日本の大陸浪人がやったようにいわれていたが、彼らは直接閔妃に手を下しただけである。主体は守備隊で、たとえば景福宮の城壁をのり越えるための梯子は、兇行の前日に守備隊でつくっており、また広い宮殿のなかで閔氏の行方をさがすために、わざわざ宮殿内の地理にあかるい日本領事館の萩原警部まで連れて行った。

 
 この兇行は8日の未明におこなわれたのであるが、これは当時宮中にいたロシア人のサバチンと王宮警備の親衛隊を訓練していたアメリカ人のゼネラル・ダイも見ていた。それに夜があけてから異様な風体の日本人が王宮から引きあげてくるのを、一般の朝鮮人も見ていたので、ソウル市内は騒然たる有様であったという。

 一方この間に宮廷では、大院君の執政のもとに内閣の改造が行われ、総理大臣金宏集、内部大臣兪吉濬、度支部大臣魚允中、法部大臣張博、学部大臣徐光範、外部大臣金允植という親日派の内閣ができた。


 ・・・(以下略)

「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)-----------------------------

第3章 閔王妃殺害事件

3 遺体の陵辱と処置 


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 石塚英蔵は内務省法制局参事官のまま、朝鮮の内部顧問(日本の内務省相当)に送り込まれた人物である。石塚は次の法制局長宛の報告書の中で、王妃殺害を日本の誰もが考えていたと、報告書の冒頭に書いている。王妃殺害の必要は三浦も早くから感じていたといい、日本の守備隊が主力であったこと、王妃の殺害と遺体の陵辱の状況を仔細に書いている。
 乱暴狼藉の現場を外国人に見られた上、この外国人と口論までしたことと、王城での狼藉を終えて、見苦しき風体をして王城から引き上げるところを、王城前広場に詰めかけた朝鮮人群衆と急ぎ入城するロシア人公使にも見られたと報告している。


 謹啓其後ハ益々御清福ニナサレ、恭賀奉リ候。サテ当地ニ於ケル昨朝ノ出来事ハ既ニ大要御承知済ノ御事ト、察シ奉リ上ゲ候。王妃排除(王妃殺害)ノ儀ハ、モシ時機ガ許セバコレヲ決行シタシトハ、不言不語ノウチニ誰人モ含ミ居リタルコトコレ有候得共、モシ一歩ヲ過ラバ忽チ外国ノ関係ヲ惹キ起シ永ク彼ノ国ニ占ムル、日本ノ地歩ヲ亡失スルハ必然ノ儀ナレバ、深ク軽挙ヲ戒シムベキハ今更申ス迄モ之レ無キ儀ニ御座候。
 今回ノ事ハ小生共最初ヨリ少シモ相談ニアズカラズ、却ツテ薄々其計画ヲ朝鮮人ヨリ伝聞致シ候程ニコレ有リ、段々聞知スル所ニ依ニ、局外者ニシテ其謀議ニ参与シ、甚ダシキハ弥次馬連ガ兵隊ノ先鋒タリシ事実ニ之レ有候。而シテ其方法ハ軽率千万殆ド児戯ニ類スルナキヤト思ワルルモノ之レ無キニアラズ。幸二其最モ忌ワシキ事項ハ外国人ハ勿論朝鮮人ニモ 知ラレテイナイ様子ニ御座候
 現公使ニ対シテハ聊サカ不徳義ノ嫌イ之有リ候エ共、一応事実ノ大要御報告イタスハ職務上ノ責任ト相考候間、左ニ簡単ニ申述候。


 王妃排除ノ必要ハ三浦公使モ早クヨリ、感ゼラレタルモノノ如シ、而シテ其ノ今日之ヲ決行シタル所以ハ「危急ノ場合、露ニ援兵ヲ請フノ約束」並ニ宮内省ニ於イテ「訓練隊解散ノ決定」ヲナシタルニ由ルモノノ如シ。即チ訓練隊ヲ利用シタルナリ。
 推察スルニ岡本ハ首謀者(首謀者は三浦公使である)タルガ如シ。大院君ノ入闕ヲ斡旋シタルハ正シク同人ナリ。外ニ柴、楠瀬、杉村ハ密議ニ参与シタリト言ウ。其他ハ少シモ聞知セズ。守備隊長馬屋原ノ如キハ命令的ニ実行ノ任ニ充タラレタルガ如シ。コノ荒仕事ノ実行者ハ訓練隊ノ外守備隊ノ後援アリ。(中略)後援ハ或ハ当ラザルガ如シ。(中略)尚守備隊ノ外ニ日本人20名弱アリ(裁判記録によるだけでも40名いる)。熊本県人多数ヲ占ム。守備隊ノ将校兵卒ハ門警護ニ止マラズ門内ニ侵入セリ。殊ニ弥次馬連ハ深ク内部ニ入リ込ミ王妃ヲ引キ出シ2,3ヵ所刃傷ニ及ビ、且ツ裸体ニシテ局部検査(可笑可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注ギ焼失セル等誠ニ之レ筆ニスルニ忍ビザルナリ。ソノ他宮内大臣ハ頗ル残酷ナル方法ヲ以ツテ殺害シタリト言ウ。

 右ハ士官モ手伝イタリシモ王トシテ兵士外日本人ノ所以ニ係ルモノノ如シ。大凡3時間ヲ費ヤシテ右荒仕事ヲ了ラシタル後、右日本人ハ短銃又ハ刀剣ヲ手ニシ、徐徐トシテ光化門(王城正門)ヲ出テ群衆ノ中ヲ通リ抜ケタリ。時巳ニ8時過ニシテ王城前ノ広小路ハ人ヲ以ツテ充塞セリ。(『末松法制局長宛石塚英蔵書簡』井上馨文書、国会図書館憲政資料室所蔵)


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「日韓議定書」締結目的の買収、脅迫、拉致、抑留------------

 1970年代から1980年代にかけ、連続して発生した北朝鮮による日本人拉致の問題は現在も未解決であり、日本の政府は「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針をとっている。当然であると思う。
 100年以上前のこととはいえ、日本も「日韓議定書」締結のために、同じような野蛮な手段を使った。そして、日韓併合に至り、日本は敗戦まで朝鮮半島を支配した。そうした歴史もきちんと踏まえて拉致問題その他に対応しなければならないと思う。下記は「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)から日韓議定書締結に関わる部分を抜粋したものである。
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7 日露戦争と朝鮮

 日露戦争と日韓議定書


 ・・・(議定書は抜粋済みにより省略-「日韓議定書と第1次~第3次日韓協約条文」または http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/の180)

 この議定書は、もともと秘密条約にするはずであったのが、朝鮮側からその内容がもれて、林公使から「議定書ノ内容ハ前電ノ如已ニ公然ノ秘密トナリ且ツ22日発兌ノ帝国新聞(韓字新聞)ニモ其内容ノ大略ヲ記載シタル為一般ニ承知セラレ居ル次第ニ付御都合次第ニ発表ノ期日ヲ定メ御訓令ヲ乞フ」という請訓を小村外相あてにだしている。その結果、いそいで2月27日の官報に発表することにした。
 またこの条約締結にいたるまえに、林公使と小村外相とのあいだの往復電報でも、「日韓密約」といっていることからも、この条約は、もともと日本政府としては、秘密にしたかったことがわかるだろう。


 しかし私が問題にしたいのは、秘密とか公開とかの点だけではなく、条約締結の経過である。
 この「密約」締結の日韓交渉は、おそらく1903年の末ごろからおこなわれたものらしい。というのは、韓国駐在林公使から小村外相あての報告、「日韓密約締結ノ予想並韓廷ノ懐柔大体成功ノ状況報告ノ件」は1904年の1月11日午後7時に東京の外務省についているからである。この報告で注意すべきは、「目下ノ処ニテハ仮令密約等成文ノモノ出来上ラサルモ韓廷懐柔等ニ関スル帝国政府御訓令ノ趣意ハ大体ニ於テ目的ヲ達セシモノト見テ差支ナカルベク云々」といっていることだ。これでわかるように、ソウル駐在の林公使は韓国政府の高官を買収するために随分暗躍している。

 
 さらに、この報告によると、林が12月ソウルに帰任してから「宮中並ニ政府ノ情況ヲ見ルニ、孰レモ危惧恐怖ノ念ニ駆ラレ不安ノ思ヲ為セルモノノ如ク」だったといい、この議定書に調印した李址鎔については、つぎのようにいっている。「過般送金ヲ乞ヒシ1万円」を彼にわたし、「時々同人ヲシテ本史ニ協議ヲ遂ケシムル筈ナリシモ当人ノ立場トシテ兎角ニ遠慮勝ナルユエ本日塩川ヲシテ全部ヲ同人ニ手交セシメ一ニ同人ノ使用ニ任カセリ。」
 1月16日の「日韓密約ニ関シ韓国要人操縦ノ件」という機密通信では、「本使ガ最近彼レニ加エタル威迫」などによって、李根沢らの意見もかわったと報告している。

 以上は親日派に加えた威迫であるが、親露派の要人にたいしては、これを体よく日本公使館に軟禁したうえで、日本につれてきて、「議定書」に反対する勢力を韓国宮廷から一掃しようとした。このためまず日本からねらわれたのは李容翊(リヨウヨク)である。
 李容翊の議定書反対には、韓国皇帝もよほど動かされたらしく、締結は一時あぶなかった。このため林公使は1月25日小村外相に「日韓密約ノ成立頓挫ト其善後措置」について報告している。


 議定書の成立についてこんな妨害があったが、日露戦争は日本に有利にすすんだので、結局は成立したのである。しかしながら、今後も日本の対韓政策遂行にとって、李容翊らはじゃまになるので、日本に送ることにしたのだが、そのてんまつはつぎのとおりである。
 李容翊らは今後とも日本に反対するだろうから、「李ノ存在ハ甚シキ妨害ノ基トナルヲ以テ此際日本ニ漫遊セシムル様勧告シ御用船ニ便乗セシメテ最近内地ニ出発セシムヘシ又吉永洙ハ第2ノ李容翊トシテ又李学均、玄尚健、畢竟露国ノ間諜ニ斉シキヲ以テ此3人モ李容翊同様漸次内地ニ漫遊セシムヘシ」ということであった。


 この電文写しの欄外には、「上、総、陸、海、四老」と書込みがある。天皇、参謀総長、陸軍大臣、海軍大臣、それに伊藤博文、井上馨、松方正義の3人、あとの一人は山県有朋か樺山資紀であろうが多分山県であろう。
 こうして李容翊は日本にむけて出発したのであるが、これについては林公使2月24日小村外相あて、つぎのように連絡した。

 
 李容翊ノ日本ニ出遊スル件ハ別電ノ如ク陛下モ御同意ニ付キ昨日直チニ仁川ニ下リ御用船旅順丸ニテ明朝仁川ヲ発シ宇品ニ到着スル筈ニ取計置ケリ依テ同人日本著ノ上ハ可然御取計ヲ乞フ時局一変シテ韓国ノ整理付ク迄ハ彼ヲ放任スル時ハ陛下トノ間聯絡気脈ヲ通シ陰謀ヲ企テズトモ限ラズ又閔永喆ハ清国北京ニ公使トシテ赴任シタルト称シ後ノ船便ニテ日本ニ向ケ出発セシムベシ李根沢ニ対シテモ同様ノ手続キヲ取ル筈又吉永洙、李学均、玄尚健ノ3人ニ対シテハ井上師団長ト協議ノ上適宜ノ措置を執ルベシ右等数人ヲ体善ク退去セシメタル上ハ韓人一般ハ勿論内外人ヲシテ一段我ニ信頼セシメ得可ク且ツ韓国ノ整理ニ関シテモ都合能カルベク思考ス

 このようにして、じゃま者を追放し、議定書を締結したのである。さらにこの日本政府の野望をもっともよくあらわしたのが、この年の5月30日元老会議で決定し、これをさらに翌31日の閣議で決定して、6月11日に天皇の決裁をへたつぎの「帝国ノ対韓方針」である。
 

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