-NO149~158-
---------------張作霖と楊宇霆 借款鉄道の調印-----------------

 「太平洋戦争への道 開戦外交史1 満州事変前夜」日本国際政治学会 太平洋戦争原因研究部編(朝日新聞社)
の第1巻付録に町野武馬(張作霖顧問)談として、借款鉄道の調印に至る生々しい証言が取り上げられていた。満州における日本の役人や軍人の振る舞いは、張作霖の側近、楊宇霆(ヨウウテイ・日本の陸軍士官学校出)をして「満州で日本の役人や軍人がやり出していることは、高利貸や野盗のような振舞いである」と言わしめたが、条約の内容は、それ以上に屈辱的なものであったことが窺われる。「苦労した借款鉄道の調印」の部分を抜粋する。
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                               張作霖という男
                                                           町野武馬(談)
 苦労した借款鉄道の調印

 昭和2年、田中義一が総理大臣になったときに、俺に頼みがある、
満州は日本の生命線だ、張作霖に借款鉄道を申し入れて、彼に名をあたえて、日本が実をとる。ぜひ、これを張作霖に承知させてくれというんだ。俺は即座に断ったよ。いま、そんなことしたら、張作霖が失脚してしまう。全支18省のうち、現在南の4省を残して14省を握っている。あと2年待ってくれ、そうしたら望みどおりにしてみせる。といったら、田中総理が、それでは日本陸軍の内部がおさまらん、借款鉄道がすぐできんのなら、兵力をもって、満州を占領するといってきかんのだ。
 
 そんなことをしたら、日本は亡びると俺はいったよ。ちょうど、銀座街頭で、しずしずと歩いている美女に暴力を加えるようなもんだ。その暴漢は、すぐクリカラモンモンに組み伏せられる。そして、これを見た良民たちも、クリカラモンモンに加勢して、その男を、さんざんな目にあわすだろう。日本を敵とする国も、日本に味方する国も、世界中がみんな敵にまわり、日本は亡びてしまうぞといったんだ。ところが、田中総理が、いや、もう待っておれんのだ。それがダメなら、満州を武力占領するといって、引き下がらん。

 日本のためとあれば、やむをえん、張作霖にかけあおうと答えた。そうして、山本条太郎がまもなく満鉄総裁になって、やって来た。田 中も、山本も、返事はまだかまだかと、矢の催促だ。俺も弱ったな。とうとう、あすは山本が北京に来て、張大元帥に拝謁を乞うという事 態になった。

 俺は進退きわまって、夜半の12時に、江藤豊二をつれて宮中にまかり出た。江藤は満鉄の社員で山本の子分だ。シナ語がうまい。張大元帥と俺との通訳は、いつもは実業大臣するんだが、今夜は秘密が洩れてはいかんというので江藤をつれていった。

 山本が来るのは、この要件ですと、借款鉄道の条約案をみせた。張作霖はそれを見ると、顔色を変えて、こんなものが呑めるかといって、いきなり、条約案の紙を投げすてて、すたすた寝所の方へ歩き出した。俺は、待ってくれといって、張作霖の肩をつかまえて、「あすは、お別れか」といった。

 生死を共にしようと誓った俺が、「お別れか」というのは、これは重大な意味がこもっているんだ。張作霖は黙って寝所へ入っていった。それから、江藤と俺と、長い廊下を渡って、玄関から門へ歩いていった。途中は、池あり、山あり、野あり、門まで2キロもあるんだ。ところどころに、衛兵が立っている。この道中は、幾度も幾度も血が流れたところだ。清朝時代には、何十人という高官の命がここで失われている。江藤は、山本親分に会わす顔がないといって、しょんぼりしている。あの晩の道は長かったな。

 そうして謁見の朝を迎えた。山本は朝9時に北京駅に着いて、旅装を解き、約束の10時、宮中の謁見の間はいった。ところが、張大元 帥が出て来ない。10時半になっても出て来ない。11時なっても、来なかったら、俺は心ひそかに決するところがあった。ちょうど、11時、張作霖は頭に白い布をかぶって入って来た。「大元帥は発熱中」と俺は山本の耳にささやいた。

 張作霖は人を迎えるときは、大声で「待ってました」と相手の手をにぎって大きく振る人だ。それが、まるで、ゆうれいのように、声も小さく、ひっこめるような恰好で山本の手を握った。山本は大柄で、これが仁王様のように突っ立って、大元帥の手を大きく振りおった。そして、「大元帥、これで喧嘩のしおさめをしましょう」といって、条約書をさし出した。

 ところが通訳の江藤が、2分たっても、5分たっても、通訳をしおらん。「「江藤ッ!山本さんの言葉をよく伝えろ」とうながしたが、たった2秒かそこらの日本語を10分以上も考えてから、シナ語で張作霖に話した。俺はどうなることかと、見守っていたら、「楊宇霆をして良きに取り計らわせい」と吐き捨てるようにして座を立った。

 そこで、別室で会談がはじまった。楊宇霆は、日本の陸軍士官学校を卒業して軍人になった。これも稀に見る偉才で頭の切れる男だ。山本から条約案をみせられて、「私は常々、日本の恩誼を感じているし、いつかは、これに酬いたいと思っていた。ところが最近、
満州で 日本の役人や軍人がやり出していることは、高利貸や野盗のような振舞いである。しかし、これは小役人だからと、気にもかけなかったが、今日、日本政府の要求を見て、私も日本に対する考えが、ただいま、しっかり変わりました」と悲憤慷慨するんだ。そしてら、山本が、即座に「同感」と声を張り上げた。楊宇霆が目を丸くして、気を呑まれたようだった。

 それえから、山本が、借款鉄道は日本に莫大な利益をもたらし、これによって満州の物資が日本に入ってくるが、8千万人に満たない人口では、到底消化できるものではない。これをアメリカに送り、また大連、営口から南シナに送らざるをえない。そうなれば、南シナの飢饉は昔話になるというようなことを説いて、とうとう調印にこぎつけた。

 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、必要に応じ空行を挿入していることもあります。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。 


--------------満蒙懸案解決交渉 山本・張協定(密約)--------------

 田母神氏に講演依頼が殺到しているという。彼にはぜひ歴史の事実を無視したり歪めたりしないで、自説を語ってほしいものだと思う。 繰り返してはならに理不尽なことが、過去の大戦ではいろいろあった筈である。下記に抜粋するものも、その一つであると思う。すでに、
「太平洋戦争への道 開戦外交史1 満州事変前夜」日本国際政治学会 太平洋戦争原因研究部編(朝日新聞社)の第1巻付録「町野武馬(張作霖顧問)談」から、山本・張作霖協定ともよばれる密約の同意に至る生々しい証言の一部を抜粋した。ここでは、その本文の中から 密約の内容の一部と同意に至る裏取り引きの部分を抜粋する。排日運動が高揚する中で、無理矢理同意させたものであることが分かると思 う。
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                         第3編 満州事変前史
                                                   関 寛治(東京大学名誉教授)
二 満蒙懸案解決交渉と山本・張協定

 山本・張作霖密約

 田中内閣の成立直後、田中は、張作霖顧問・町野武馬に対して満蒙鉄道問題を解決したいからと協力を依頼した。町野は「絶対できない。もしやれば張作霖に対する内乱になる」と述べたが、田中がさらに
「できなければ兵力を用いなければならぬ」と語を継いだため、町野も「仕方がなければやるが、動乱を覚悟しなければならないから総理みずからが責任をもって張作霖に談判に行くべきだ」と答えた。結局山本条太郎・政友会幹事長が満鉄社長に任ぜられて、副社長松岡洋右とともに田中に代わって張作霖と直接交渉を行うことになった。

 山本は、田中と合意のうえで8月12日、外相官邸を訪問し折から田中と会談中の出淵次官に向かって、満蒙に関する外交問題に満鉄社長を参与させることを要求したが、出淵はすでに芳沢公使に交渉させている、とだけ答えた。

 張作霖が排日運動に責任のあった莫奉天省長を劉尚清に代えて、田中首相の面子を保持させた5日後の10月8日に山本は大連の満鉄本社から北京に向かった。町野や江藤豊二による事前の対張作霖および対楊宇霆交渉からえられた情報にもとづいて、山本独特の鉄道交渉が開始された。10月10日、11日の張作霖との劇的な交渉で、山本はちょうからの同意をえた。山本は新聞記者に向かっては「交渉は芳沢公使においてなされている」と、カムフラージュを行ないいながら、
反対者を買収するために約500万円を張作霖に送った。15日になって、山本・張作霖協定ともよばれる密約がようやく成立したが、この密約は敦化(とんか)──老道溝(ろうどうこう)───図們江江岸線、長春───大賚線(だいらい)、吉林──五常線 洮南(とうなん)──索倫線(そろん)、延吉──海林線の満蒙五鉄道の建設を満鉄が請負い、その代金を借款とする、という趣旨のものであった。この五鉄道はどれも日露戦争の日中関係の展開のなかに、その歴史的起源をもつ鉄道であった。その反面、打通線の通遼以北延長の禁止、開通──扶余線(ふよ)の建設禁止も密約のなかにふくまれていた。山本は、また、日満経済同盟と攻守同盟とを提案して交換公文を成立させた。


----------------謀略 日本軍の手による排日運動で派兵--------------

 計画的であったが故に、柳条湖事件(1931年9月18日夜10時半頃勃発)の翌日には、関東軍は奉天、長春を占領し、21日には吉林をも占領した。また、間島やハルビン、チチハルにも進出をはかった。それらはほとんど満州占有を目指す日本側の謀略と言掛りで進められた。ハルビン出兵に関し、繰り返し不拡大方針を指示する政府や陸軍中央部に対する関東軍板垣征四郎参謀の電報の内容は、好戦的な関東軍の姿勢を如実に示している。いったんは阻止されたが、翌1932年2月5日関東軍第2師団はハルビンを占領した。「太平洋戦争への道 開戦外交史2 満州事変」日本国際政治学会 太平洋戦争原因研究部編(朝日新聞社)からの抜粋である。

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                          第1編 満州事変の展開
                                                         島田俊彦

 第2章 間島・ハルビン出兵中止

1 作られた危機

 お手製の排日運動
 北満のハルビンでは、9・18事件発生後も、中国側の警戒が厳重であったため、しばらく平静が保たれていた。しかし9月20日の夜になって、中国人街で激越な内容の排日伝単がまかれるようになり、さらに翌21日夜には、日本総領事館、朝鮮銀行、日本人経営の哈爾賓日々新聞社などに爆弾が投ぜられ、急に不安と緊張の空気がハルビンをおおった。
 ところで、
これらの排日運動の一切は、ハルビン特務機関長・百武晴吉中佐を中心に、かつての大杉栄・暗殺事件の下手人、元憲兵大尉・甘粕正彦や予備役中尉・吉村宗吉らの手による謀略であった。お手製の排日暴動の中に出兵理由を求めるという、出先陸軍の常用手段が、ここでも例にもれず採用されたのである。

 そして、こうして製造された不安と緊張は、関東軍によって、ハルビンは「北満唯一我ガ経済的根拠地ニシテ、シカモ我ガ満鉄ノ培養地 タル、ハルビンヲ失ワンカ、強硬ナル政府ナラ別問題ナルモ、軟弱極マリナキ現政府ヲ以テセバ、アルイハ将来ツイニ一挙ニ既得ノ我ガ利権ヲモ覆滅セラルベキヲオソレ、マタ4千ノ同胞ガ営々トシテ築キタル努力モ水泡ニ帰ス」という出兵理由に利用された。

 しかも、ハルビンでは大橋忠一・総領事がまったく軍側の同調者・協力者の立場に立ち、製造されたハルビンの不安を理由に、しきりに 中央部にたいして出兵を求めた。その点でハルビンは、なにかにつけて出先の軍・外務の両官憲が対立した奉天、吉林、チチハルなどの場合とは、まったく反対の情勢であった。たとえば21日に、大橋総領事が奉天の林久治郎・総領事あてに発した稟請電の内容は次のとおりであった。(第199号電)
 ……万一当地ニオイテ事件発生ヲ見ルニオイテハ、ワガ居留民ハ自衛力ナキヲモッテ、全滅ノ危機ニアルニツキ、今シバラク情勢ノ推移ヲ見タル上、必要ノ場合ニハ軍隊ノ派遣方ヲ申請スルコトアルベキニツキ、右、オ含ミ置キノ上、シカルベク御準備アリタシ。
 右、軍司令官ニモ御伝達アイナリタシ。

 ハルビンが北鉄(東支鉄道)に関する権益に関連して、帝政ロシアの満州における重要な根拠地であったことはいうまでもない。
 その事情は、ロシア革命とともにかなり変化したものの、関東軍が同地に進出するならば、当然、対ソ関係を度外視することは許されない。
……

 ・・・


 陸軍中央部が不拡大方針(情勢判断・第1段階)採用と関連して、ハルビン出兵阻止をあえてしたのは、当時の日本の支配層、すなわち陸軍と財界の一部を除く天皇、重臣、政府、政党(ことに民政党)、そして海軍に対する関係からであった。

・・・

 一方20日に東京から陸軍省兵務課長・安藤利吉大佐が飛行機で奉天に飛び、事件を現在以上に拡大しないという陸相の意図を関東軍に伝えた。
 このような中央部の動向にたいし、関東軍は板垣参謀の名で、20日、陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐へ
 イタズラニ消極的宣伝戦ニ没頭スルコトナク、千載一遇ノ好機に乗ジ、敢然トシテ満蒙問題解決ニ邁進スルヲ要ス。少ナクモ満蒙ノ天地ニ新国家ヲ建設シエバ、区々タル悪宣伝ノゴトキ毫末モオソルルニタラズ。
 と打電すると同時に、軍司令官も中央部に左記を打電した。
 参謀総長・第39号電オヨビ次長・第42号電敬承。小官モオオムネ同意ナルモ、ハルビン、吉林方面不安ニ陥リ、スデニ、ハルビン総 領事ヨリ出兵ノ要アルコトヲ稟請セル由ニテ、軍ハ応急ノ変ニ違算ナカランコトヲツトメアリ。貴方ニ於テモ小官ノ苦衷ヲ了トセラレ、賢察モッテ適宜ノ処置ヲ講ゼラレンコトヲ切望ス。


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関東軍チチハル出撃 嫩江鉄橋実力修理 --------------

 戦後60年の夏、
東條由布子編・渡部昇一解説の「大東亜戦争の真実」という本がワックス(株)より出版された。東京裁判東條英機宣 誓供述書が中心である。その中で東條元首相は「1941年(昭和16年)12月8日 に発生した戦争なるものは米国を欧州戦争に導入す るための連合国側の徴発に原因しわが国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争」と主張し、「東亜に重大なる利害を有する国々(中国自身を含めて)がなぜ戦争を欲したかの理由は他にも多々存在します」と述べている。結論はすでによく知られているが「断じて日本は侵略戦争をしたのではありません。自衛戦争をしたのであります」ということである。「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである」という田母神論文も同じような自衛戦争論である。もちろんそういう側面はあったかもしれないが、多くの日本人関係者の証言や資料基づく事実が、それを否定している。下記「嫩江(ノンコウ)鉄橋実力修理」もその一例である。

 満州において関東軍は、21ヵ条の条約等によって得た権益を土台に、いたるところで謀略により軍を進め、言い掛かりをつけて軍を進 め、無理難題を押しつけて軍を進めた。チチハル占領もその典型的な事例の一つなのである。洮遼鎮守使の張海鵬を懐柔し、黒竜江省へ進出させ、黒竜江省軍が防衛目的で嫩江鉄橋を破壊するや、その権益保護を根拠に、不可能な期限を設けて復旧工事を強制し、出来ないと判明するや軍を伴って自ら鉄橋の実力修理を行い、ひとたびトラブルが発生すると主力部隊を急派し、追撃するのである。当時政府や陸軍中央部は不拡大方針を繰り返し伝え、臨参委命(参謀総長が天皇から受けた委任命令権を行使して出す命令)まで発しているが(資料1,2)、関東軍は、強硬に自らの方針を押し通すのである。
「太平洋戦争への道 開戦外交史2 満州事変」日本国際政治学会 太平洋戦争原因研究部編(朝日新聞社)より、関連部分の一部抜粋である。
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                        第1編 満州事変の展開
                                                         島田俊彦
 
第3章 関東軍チチハル出撃

1 嫩江鉄橋の破壊 

 北満進出の条件完備
 さきに関東軍はハルビン進出をはかって中央部から阻止された。しかしこんなことで関東軍が北満進出を断念するはずがなく、やがてなんらかの形で再挙をはかるであろうことは、およそ中央部一般の推測するところであった。はたして1931年11月をむかえ突然チチハル方面への進出となって、それは現実化された。

 この方面を指向する軍事行動の第1歩は、9月22日の一部部隊の鄭家屯進出であり、第2歩は、同24日の装甲列車の洮南前進であった。これと平行して
関東軍は満鉄・洮南公所署長・河野正直、関東軍司令部付・前張学良顧問・今田新太郎大尉、予備役中尉・吉村宗吉らを通じて、洮遼鎮守使・張海鵬と連絡し、ひそかにその懐柔をはかった。その結果、張海鵬は10月1日辺境保安司令と称して、張学良と絶縁し、関東軍の後援下に北方を目ざして黒竜江省への進出をはかることになった。

 一方、当時北平にいた黒竜江省長・兼東北辺防軍副司令・万福麟は、10月7日黒竜江省主力をチチハルに集中するよう命令し、翌8日、黒河警備司令・歩兵第3族長・馬占山をその総指揮に任命して、黒竜江省を確保しようという態勢をしめした。これらの情勢について関東軍参謀長は参謀次長にたいし、10月8日次のような報告をした。(関・第668号)。
 張ハ自ラ辺境保安司令ニ就任シ、屯墾軍ヲ懐柔シテ独立ヲ宣シ、種々の口実ヲ設ケテ黒竜江省ニ進入セントシツツアリ。マタ黒竜江省軍ハ張ノ進攻説ニオビヤカサレ、泰来、チチハルナドニ兵力ヲ集中中ニテ、馬占山コレガ指導ニ任ジアリ。

 張海鵬は10月15日早朝から北上をはじめた。しかし
黒竜江省軍は泰来および江橋北方の鉄道橋(嫩江に架橋)を焼き払って、これに備えたので、張軍はたちまち北上不能に陥った。この黒竜江省軍による鉄橋破壊は、いままで張海鵬軍の影武者として存在した関東軍を、一躍立役者にする絶好の機会となった。なぜなら、この鉄橋のかかっている洮昮線は日本の利権鉄道の一つであるばかりでなく、当時はまさに北満地方特産物の出回り時期であったので、鉄橋の破壊をそのままにしておくと、満鉄として約五百万円の損害となるので、関東軍はここに日本の権益保護という大義名分のもとに、兵力を用いて鉄道の復旧作業ができるからである。
 10月22日午後、参謀本部は関東軍司令官から次の電報を受取った。
(関参・第806号)
 21日洮昮沿線情況偵察ノタメ、洮南ヲ経テ、チチハル方向ニ向イシ我ガ飛行機ハ、江橋ニオイテ黒竜江軍ノタメ射撃セラレタルヲモッテ、敵陣地ニ対シ、数発ノ爆弾ヲ投下セリ。
 我ガ借款鉄道タル洮昮線ノ橋梁ヲ焼却シ、我ガ飛行機ニ挑戦セシナド、黒竜江軍ノ暴挙ニ対シテハ我ガ領事館ヲ通ジ、厳重抗議セシムルハズナリ。
 

・・・以下略


 ソ連へのおもわく
 一方チチハルでは、10月19日付で新設のチチハル特務機関長に任ぜられた林義秀少佐が26日同地に着任し、翌日、黒竜江省政府主席代理・馬占山(馬は11日張学良からこの地位を与えられた)に、遅次の要求書を提出した。
 在奉天関東軍司令官ハ、黒竜江省政府ニ対シ、速ヤカニ嫩江ノ橋梁ヲ修理スベキコトヲ要求ス
修理ノ期間ハコレヲ1週間トシ、ソノ第 1日ヲ昭和6年10月28日、第7日ヲ11月3日トス。
 コノ期間ニオイテ黒竜江省政府ガ工事ニ着手セザルカ、モシクハ着手スルモ同期日マデニ未完成ノトキハ、以後ハ日本側ニオイテコレヲ修理スベシ。シカルトキハ情況ニヨリ、工事援護ノタメ実力ノ発動ヲミルコトアルベシ。


 この要求はまったく林少佐のいいがかりにすぎなかった。林少佐は
満鉄がこれを修理するとしても約2週間を必要とすることを承知していたのだが、「関東軍ガナンラカノ名目ヲモッテ日本軍ヲ黒竜江省内ニ進ムルノ機会ヲ発見セントツトメアルヲ承知シアリシト、黒竜江省 側ノ不誠意ナル場合、結氷前ニ満鉄ヲシテ修理ヲ完了セシムルヲ要セシト、カツ事ヲ遷延スルハ支那一流ノ宣伝ニ乗ゼラレ、不測ノ禍ヲ受クベキコトアルヲ顧慮」して、ことさら1週間の期限しかつけなかった。

・・・以下略


 
鉄橋の実力修理
 ・・・
 ……
こうして11月1日、歩兵第16連隊長の指揮する嫩江支隊主力は、長春および吉林を出発して翌2日夜、泰来付近に兵力を集め 、一方、この日、軍司令官は馬占山と張海鵬に、満鉄の行なおうとする鉄橋修理につき、次のように通告した。
 1、以後嫩江橋梁ヲ戦術的ニ利用スルヲ許サズ
 2、11月4日正午マデニ両軍ハ橋梁ヨリ10キロメートル以外ノ地ニ撤退シ、修理完成マデ10キロメートル以内ノ地ニ入ルヲ許サズ。 
   修理完成ノ期日ハ見込ミツキシダイ通告ス。
  右要求ニ応ゼザル者ニ対シテハ、日本軍ニ敵意アルモノト認メ、適法ノ武力ヲ行使ス。右警告ス。


資料 -------------------+---------------------------- 
1 参謀総長から関東軍司令官へ第108号電
 関参・915電ミタ。鉄橋修理援護ノタメ電報報告ノ兵力使用ハ本職ニオイテ同意ス。シカレドモ前電105ノ主旨ニノットリ、右目的達成後ハ速ヤカニコレヲ撤退セシムベシ。要スルニ内外ノ大局ニカンガミ、嫩江ヲ越エテ遠ク部隊ヲ北進セシムルハ、イカナル理由ヲ以てスルモ、断ジテ許サレザルモノトス。 

2 関東軍司令官へ臨参委命・第1号(第120号電)
 1、現下ニオケル内外ノ大局ニカンガミ、北満ニタイシスル積極的作戦行動ハ、当分コレヲ実施セザル方針ナリ。
 2、嫩江橋梁補修援護部隊ハ、最小限度ニソノ任務ヲ達成スルタメ、ソノ行動ハ、大興駅付近ヲ通ズル線ヲ占領スルニトドムベシ。 
 
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1931年11月 5日嫩江支隊と黒竜江省軍大興付近で戦闘開始
          6日黒竜江省軍を撃退し大興付近占領架橋援護開始
         19日第2師団チチハル占領


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ティモール島 日本軍占領の傷痕-----------------

 「戦争を語り継ぐ」というMLから「東ティモールの日本軍性奴隷制被害者に関する要請書」(あて先: mm3k-frsw@asahi-net.or.jp (東ティモール全国協議会/古沢)というメールが届いた。東ティモールといえば、当時中立国ポルトガルの領土であったが、日本軍が無断で占領したオーストラリアに近い南半球の島である。占領中も、また日本の敗戦後にもさまざまな悲劇が発生した忘れてはならない島である。
「ナクロマ東ティモール民族独立小史」古沢希代子・松野明久(日本評論社)からの抜粋である。
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                               第5章 日本と東ティモール
 日本軍占領時代
 
 1942年2月、日本軍は英連邦(オーストラリア)・オランダ領の駐留下にあるティモール島に上陸した。そして英蘭軍を圧倒して全島を支配下においたが、1年後には、連合軍(オーストラリア軍)の巻き返しによってティモール島の周辺の制海・制空権を失った。その結果、2万の兵士は、連合軍の空爆にさらされながらティモール島に閉じこめられた状態となった。

 ポルトガルは、日本軍の進駐をポルトガルの領土主権と中立を侵害するものとして、外交ルートを通じ日本に抗議したが、「ポルトガル の主権を尊重し、英蘭軍の掃討という進駐目的の達成後には撤退する」という日本側の説明に押し切られ、国交断絶にはいたらなかった。むしろ、東ティモール人のポルトガル政庁に対する反乱が頻繁したため、総督みずから日本軍にポルトガル人の保護を申し入れることになった。日本側は、①ポルトガル人は、日本軍が指定した一定の場所において治安回復のときまで集合自活生活をする(ただし、総督、市長は日本側との折衝のためディリに残留 ②英(濠)蘭軍との協力、利敵行為を今後絶対にしないこと ③ポルトガル側の武器弾薬が英(濠)蘭軍に利用されるのを防ぐため、自衛上の所要分を除き治安が回復するまで日本軍が保管する、という3条件の承諾を前提にその要望を受け入れた。

 このようにして終戦まで3年半日本軍の占領が続くなかで、東ティモールにはさまざまな傷痕が残された。ポルトガルやオーストラリア では、日本軍占領時代に数千人のティモール人が殺され、さらに多くの人が飢えで死んだと伝えられている。近年、日本側からも占領の実態に関する証言が出はじめた。たとえば、バギアで軍用道路の建設と地区の警備を担当していた岩村正八は、軍の徴用した人々に食糧を与えず、自弁のトウモロコシの粉と水だけで重労働にたずさわる人々から餓死者が出たこと、自分たちの食糧や弾薬輸送用の馬は人々から強制的に供出したこと、同じ部隊の将校が「試し切り」と称して日本刀で捕虜の首を切ったこと、部隊の者がキサル島から女性を連行して「慰安所」を開設したりしたことを報告している。島東端の漁村からラウテンを経て、内陸部の高地アビスに進駐した揚田明夫もまた、強制労働と慰安所開設について語っている。

 「進駐してまず始めたことは飛行場や道路の建設、敵の上陸に対しての陣地の構築であった。現地の住民が動員され、作業には痛々しい老人から5,6才ぐらいの子どもまでが駆りだされた。……島の女たちは乏しい食糧のなかから、毎日のようにヤシの葉で編んだ袋に、畑で取れた果物や豆などを入れて背負い、軍の経理部へ納めていたが、代金は払うあてのない紙屑同然の軍票であった。……こうして最前線にも慰安所が開設された。キサル島から『アビスで食堂の給仕をさせる』と偽って連れてこられた娘たちであった。敗戦直前、ティモール島から撤退する際、彼女たちは『こんな体になって恥ずかしくて島へは帰れない。ジャワでも日本でもどこでもよいから連れていってくれ』と泣いて懇願したという。」

 プアラカという石油の産地には、日本軍がティモール人を虐殺して埋めたという長方形の穴があると伝えられている。日本軍は異常な関心をこの地に払い、「石油情報を敵に渡した」という理由で多くのティモール人を殺した。

 生き残ったオーストラリア人兵士は、インディペンデント・カンパニーという抗日戦線を組織した。彼らに協力するティモール人およびポルトガル人は「抗日分子」として日本軍に追われ、逆に日本軍に協力したティモール人には、大戦後ポルトガル支配が復活すると、さまざまな制裁が加えられた。

 敗戦とともに日本軍は、連合国側、とりわけオーストラリアの介入を嫌うポルトガルの意向を尊重し、すみやかに武装解除をすませ、ポ ルトガルに行政権を移譲した。この結果、占領中ティモール人が多大な損害を被ったにもかかわらず、ポルトガルから日本へ賠償請求は行われなかった。

 外務省の幹部たちはインドネシアの東ティモール侵略問題に対して日本が原則的な態度がとれない言い訳として、「日本は大戦中アジア諸国にたいへんな迷惑をかけたので、それらの国の人権問題について大きな口をきく立場にない」ことをあげる。これらを解釈すると、「お互い都合の悪いことには口をださない」ということになるのだが、彼らは東ティモール人もまた日本軍占領の被害者であることをすっかり忘れている。



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重慶に至る日本軍の無差別爆撃の始まり--------------

 1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議においてハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)は採択された。 その第25条は
「無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず」である。しかし、1935年10月、イタリアは戦闘機などもたないエチオピアを一方的に爆撃した。ジュネーブ議定書で禁止されている毒ガスも使ったという。1937年4月には、ドイツ空軍コンドル軍団が無防備都市ゲルニカの無差別爆撃を行った。それは、ピカソの大作「ゲルニカ」によって広く世界中に知られることとなった。ところが、それらよりかなり以前に、日本軍によって無差別爆撃は開始されていた。それは、錦州爆撃である。「戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶-広島への軌跡」前田哲男(朝日新聞社)よりの抜粋である。
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                         第1章 重慶爆撃への道(1931-37年)

   石原完爾の錦州爆撃

 真田紐で爆弾を吊して出撃

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 関東軍独立飛行第10中隊を主力に実施された石原中佐立案になる錦州爆撃は、このような状況下、地上軍をもってはなし得ない敵行政府所在地に対する長距離機動を敢行して、張学良軍に衝撃を与えるとともに、強力な既成事実を東京の中央政府と軍中央に叩きつけ、事変不拡大を訓令する「軟弱外交」をも併せて爆撃す秘めていた。爆撃行は10月8日午後、八八式偵察機6機、中国軍から鹵獲したポテー25型軽爆撃機5機の11機編隊で行われ、石原参謀は旅客機に乗って編隊に同行、上空より爆撃の成果を逐一観察した。中国側に戦闘機は1機もなかったので、空から攻撃を受ける心配は無用であった。

 八八式偵察機には、爆弾照準器も爆弾懸吊装置も装備されておらず、攻撃隊は各機、瞬発信管つき25キロ爆弾4発ずつを真田紐で機外に吊し、目標上空に達すると目測によって紐を緩め、爆弾を投下した。この日錦州市街に投じられた爆弾は75発、威力はTNT1.8トン分であったと記録されている。やがて本格化する「戦政略爆撃」の規模から考えると、じつにささやかで泥縄式の出発と見ることもできるが、しかし中国側に恐慌を引き起こすという戦略目的と、東京政府の不拡大政策に対抗して「あとに退けぬ情勢」を強要する政略目的をもって判定するなら、真田紐から放たれた75発の25キロ爆弾は、寸分の狂いもなく目標に命中したというべきであろう。

 飛行隊は10月8日正午、奉天飛行場を離陸、午後1時40分錦州上空に達し、高度1300メートルのところから、張学良の軍政権所在地と推定された交通大学(市西北部)28師兵営(東部)などに爆弾を投下した。交通大学には張学良の東北辺防軍司令部がおかれていた。機上観測による爆撃効果は、交通大学に対しては命中弾10、兵営に向けた分は命中弾22を得たとされる。(戦史叢書「満州方面陸軍航空作戦」)。

 
 無照準投弾による当然の結果だとはいえ、日本側の判定によっても半分以上が目標を逸れて爆発した。錦州駅近くにも落下弾を生じ、死傷者をだした。中国人の初めて体験する都市への空襲であった。中国外交部は、日本軍機からの投弾と機銃掃射によって、ロシア人教授1人、兵士1人、市民14人の死者、20人以上が負傷と発表した。翌年現地入りした国際連盟派遣の調査団報告(リットン報告)の記述によると、爆弾の多くは市内至るところに落下し、病院や大学の建物にも命中したとされた。日本側のいう、爆撃区域は制限されていたという主張には疑問の余地があり、また兵営はともかく(軍政権)政庁の爆撃を正当化はできない──リットン報告は、無差別爆撃を示唆した
・・・(以下略)


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重慶 日本軍による無差別爆撃----------------

 昨年の末から今年のはじめにかけて、イスラエル軍はパレスチナ自治区ガザを連日空爆した。一連の空爆による死者は、1300人以上、負傷者は6000人を超えると報道された。その多くが、女性や子どもを含む非戦闘員の一般市民であるという。空爆に怯える女性や子ども達の映像もたびたび流された。どんな理由があろうと許されない所業であると思う。国際連合などの組織が、ハーグ条約をはじめとする(誰が考えても当たり前の)国際法を、すべての国に守らせることができないのはなぜなのか。こうした空爆が二度と起きないようにすることこそ、国際社会の最優先課題だと思う。 
 ところで、そうした無差別爆撃を、日本軍が1930年代にエスカレートさせたことを忘れてはいけないと思う。
 1931年10月錦州に始まった日本軍の無差別爆撃は、政府による「対支膺懲」声明(1937年8月15日)が発表されると、急速にエスカレートしていったようである。国際社会の非難や国際連盟の非難決議を受け入れることなく、陸軍中央自ら毒ガスの使用さえ許容し、重慶では、軍事目標とはほど遠い重慶市街の中央公園を爆撃目標とする命令が下された。当然、多数の非戦闘員が、その犠牲となった。
「戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶-広島への軌跡」前田哲男(朝日新聞社)よりの抜粋である。
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南京渡洋爆撃

 国際連盟の対日非難決議とルーズベルトの対日非難演説

 日本はこの時期すでに国際連盟を脱退して久しかったが、その国際連盟でも、中国への都市爆撃問題は取り上げられ、1937年9月28日、総会は23国諮問委員会の対日非難決議案を全会一致で可決した。全文は以下の通りである。

「諮問委員会は、日本航空機に依る支那に於ける無防備都市の空中爆撃の問題を緊急考慮し、かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損害に対し深甚なる弔意を表し、世界を通じて恐怖と義憤の念を生ぜしめたるかかる行動に対しては何等弁明の余地なきことを宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す」

 それより一週間後、ルーズベルト米大統領はシカゴにおいて「隔離演説」として知られるようになった対日非難演説を行う。

「世界の国の9割は、一般的に認められる法と道義の標準にしたがい、平和な生活をしたいと力めているにもかかわらず、残りの1割の国は極めて好戦的で、他国の内政に干渉しあるいはたこくの領土に侵入することにより、世界の秩序及び国際法を破壊しつつある。現に宣戦の布告もせず、何等正当な理由もなくして婦女子を含む非戦闘員を空爆により無慈悲に殺害しつつある状態である。これは特定の条約違反などという問題ではなく、国際法及び人道の世界的問題で、いかなる国も無関係ではあることはできない」 

・・・(以下略)
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                              漢口W基地の建設

   重慶爆撃計画が浮上

 同床異夢だとはいえ、国共合作もなった今、蒋介石が膝を屈することなどあり得ようはずもなかった。手詰まりを一気に打破する起死回生の手段として、「蒋介石の都」重慶爆撃計画が浮上してくるのは、このような情勢下においてであった。
 対重慶戦略爆撃の企図を明確に示した天皇の名による最高指示、「大陸命第241号」が参謀総長・閑院宮戴仁親王名をもって現地軍司令官(杉山元・北支那方面軍司令官、畑俊六・中支那派遣軍司令官、安藤利吉・第21軍司令官)に奉勅伝宣されたのは1938年12月2日のことである。「戦政略爆撃」はここに石に刻まれた文字となる。

  1、大本営ノ企図ハ占拠地域ヲ確保シテ其安定ヲ促進シ堅実ナル長期攻囲ノ態勢ヲ以テ残存抗日勢力ノ制圧衰亡ニ勉
    ムルニ在リ
 こう基本目標を設定した上で、
  5、中支那派遣軍司令官ハ主トシテ中支那北支那ニ於ケル航空進攻作戦ニ任ジ特ニ敵ノ戦略及攻略中枢ヲ制圧攪乱ス
    ルト共ニ敵航空戦力ノ撃滅ニ勉バシ 密ニ海軍ト協同スルヲ要ス

 と、航空進攻作戦においてはその目的が敵の戦略・政略中枢撃滅にあることを明らかにしていた。
 この大陸命を承けて、同日、参謀総長戴仁親王名による作戦指示、大陸指第345号が現地軍3司令官に下されるが、そこでは航空進攻作戦に関する指示を冒頭においていた。

 大陸命第241号ニ基キ左ノ如ク指示ス
 1、全支ニ亘ル航空作戦ノ実施ニ関スル陸海軍中央協定、別冊ノ如ク定ム
   敵ノ戦略及政略中枢ヲ攻撃スルニ方リテハ好機ニ投ジ戦力ヲ集中シテ特ニ敵ノ最高統帥及最高政治機関ノ捕捉撃滅
   ニ勉ムルヲ要ス

 ここに明記された通り、来るべき戦政略攻撃作戦は、日本軍の作戦として極めて異例のことに、当初から陸海軍中央協定に基づく協同作戦を建て前としていたのである。兵力の大量かつ集中使用こそ戦略爆撃の要諦であることを参謀本部はよくわきまえていた。
 もう一点、大陸指第345号には恐るべき指示が盛り込まれている。その第6項──。

 6、
在支各軍ハ特殊煙(あか筒、あか弾、みどり筒)ヲ使用スルコトヲ得、但シ之ガ使用ニ方リテハ市街地特ニ第三国人
   居住地域ヲ避ケ勉メテ煙ニ混用シ、厳ニガス使用ノ事実ヲ秘シ其痕跡ヲ残サザルガ如ク注意スベシ

 「特殊煙」とは毒ガスを指し、あか筒、あか弾は砒素系のジェフェニールシアンシルシン、みどり筒は催涙ガスの符号である。日中戦争間、日本軍による毒ガス使用はすでに多くの資料で明白になっているが、それは、この参謀総長命令のもと実施されていたのであり、やがて重慶市民も日本軍の毒ガス攻撃や毒入りタバコ投下のうわさに神経を尖らせるようになる。エチオピア戦線におけるイタリアと同様、日本もまた毒ガスを禁止したジュネーブ議定書署名国でありながら、それに拘束されるつもりは全くないようであった。大陸指第345号は、日本が対中国戦争遂行にあたり、二つの国際法規──「毒ガス等の禁止に関する議定書」および「空戦に関する規則」(とくに第22条「非戦闘員等に対する爆撃の禁止」)──を無視する決意であることを、同一文書によって中国派遣の全陸軍部隊に指示・徹底させるものといえた。

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                         重慶初爆撃

   重慶とゲルニカの共通性

 1938年12月25日17時。漢口飛行基地(W基地)に戦闘司令所をおく陸軍第1飛行団長・寺倉正三少将から隷下部隊に一通の攻撃命令が発せられた。

「飛行団ハ主力ヲ以てテ重慶市街ヲ攻撃シ、蒋政権ノ上下ヲ震撼セントス 攻撃日時ヲ明26日13時ト予定ス」

 第1飛行団長・寺倉陸軍少将にとって、重慶爆撃の任務決行は、べつに驚くにあたらない既定の流れであった。大本営の企図する次の作戦が航空戦力をもってする奥地進攻──四川省要地攻撃となることはあらかじめ知らされていた。その場合、陸軍航空の先陣に立つのが漢口に司令部をおき重爆隊3個戦隊を擁する第1飛行団の任務になるのはわかりきったことだった。寺倉は、大陸命第241号によって戦政略攻撃中心に作戦転換のなされるすでに以前、直属上級司令部にあたる航空兵団司令官・江橋英次郎中将から、遠距離航空撃滅戦と要地攻撃の訓練に5週間でメドをつけ7週間で完成させるよう命じられていて、部下は爆撃、射撃、航法の訓練に寧日ない状態だったのである。

……(以下略)
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                          爆撃目標は街の広場「中央公園」

 寺倉の命令は、爆撃目標、方法に関しさらに細かく言及していた。

  7、飛行第60戦隊及飛行第98戦隊ハ相協同シテ明26日13時ヲ期シ重慶市街ヲ攻撃スルノ準備ニ在ルベシ
 目標ハ
    両戦隊共重慶市街中央公園
都軍公署……公安局県政府ヲ連ヌル地区内トシ副目標ヲ重慶飛行場トス 爆弾ハ百
    瓲以上ノモノヲ使用スベシ



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シベリア抑留 対ソ和平交渉の真実は?--------------

 敗戦前後の軍命による文書の焼却処分で、日本は戦後処理に多くの問題を残した。棄兵・棄民としてのシベリア抑留は、その代表的なものの一つである。シベリア抑留にかかわる「生き証人」といわれた瀬島龍三は、語らずに逝った。したがって、日本政府が関連資料を全て公開し、事実を明らかにするか、ロシア側から決定的な証拠が出てこない限り、棄兵・棄民としてのシベリア抑留の真実は闇の中である。しかし、総合的に考えると、真実は限りなく黒に近いグレーである。戦争に関する様々な書物を残しながら、問われていることには答えなかった瀬島龍三の姿勢が、その真実を物語っているように思われる
。「瀬島龍三 参謀の昭和史」保阪正康(文春文庫)からの抜粋である。
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                            第1章 シベリア体験の虚と実

 瀬島には、まだ歴史上の証人として証言しなければならない重要な問題がのこされている。それは、これまで述べてきたシベリアの悲劇の原点ともいえる、シベリアに連行された軍人、民間人約57万人余の「法的決着」に関わった当事者としての証言である。
「大本営の2000日」で、瀬島は、関東軍総参謀長の秦彦三郎とハルビン総領事の宮川舟夫の3人で、敗戦時にソ連軍との停戦交渉にあたった経緯を話している。ここでの瀬島の証言は比較的長いが、その主要部分をぬきだしてみる。
「それで17日(注・昭和20年8月)に秦総参謀長のお伴をして、ソ連総領事館のあるハルビンへ行きました。わが天皇陛下からこういう命令(注・停戦命令のこと)が出たので、関東軍としてはいち早くソ連極東軍司令官と連絡をとって停戦交渉をしたい、その斡旋をしてくれということを総領事に申し入れて、いったん新京へ戻りました」
「翌日、ソビエトの飛行機をハルビンに入れるから、権限をもった軍使がそれに乗ってくれという連絡があって18日の夕方、またハルビ ンへ行きました。今度は私をふくめて3人の参謀がお伴をしました」
「その晩、総領事の公邸で翌日の交渉のいろんな項目を、ぼくが陸軍罫紙に書く、宮川さんがそれをチェックする、ほとんど徹夜でした。 たとえば、日本軍において軍刀は魂である。拳銃はとりあげても軍刀の佩用はは認めてくれとか、一般将兵、市民はなるべく早く帰国させろとか、いろんなことですな」

 そして19日の夜明けにソ連の輸送機でジャルコーポに行き、ソ連の5人の元帥と停戦交渉を行ったというのが骨子である。瀬島は、交渉場所への道筋や要した時間、交渉相手の5人のソ連軍元帥の名前や職掌などもくわしく紹介しているが、交渉の模様やどのような取り決めがなされたかについては、なにも語っていない


・・・(以下略) 

 シベリアに抑留され、現在、全国戦後強制抑留補償要求推進協議会(全抑協)事務局長をつとめる高木健太郎は、次のように語る。
「わたしたち兵隊は、ソ連に抑留され、酷寒と粗食と重労働で筆舌に尽くしがたい苦労をなめてきました。現にこのわたしも、シベリアの 厳寒で、夏期のコルホーズの炎熱の叢のなかで重労働を強制されました。わたしの作業大隊には千人の抑留者がいたのに、強制労働と飢えと栄養失調で半数以上がバタバタと死んでいきました。死んだ仲間を丸裸にして穴を掘って埋めましたよ……。一説では、われわれ兵隊がシベリアに連行されたのは、終戦のときに
『国家賠償』として連れていかれたというんです。うちの会のある理事は、瀬島さんたちがソ連との話し合いで、それを認めた疑いがある、といっています。瀬島さん、あなたはソ連側との交渉でどのような話し合いをしたのか、一言だけでいいからわれわれに話してください。それがわれわれ抑留者全員の願いなんです。でも瀬島さんはこの件に関してはいまだに一言も話していないんです」

 高木をはじめ全抑協の幹部に話を聞いていくと、事態はきわめて深刻なことがわかってくる。理事の甲斐義也も懇願するような口調で、
「われわれは、瀬島さんが歴史の生き証人として、停戦交渉の協定の内容を話してくれることを心の底からお願いしているんです。ここに書かれている条項を、ソ連側と話し合ったんじゃないですか」
 といって、一枚の紙切れを示した。それは、
「対ソ和平交渉の要綱(案)」のコピーだった。

・・・(以下略)

 外務省の『終戦史録』にも記されているこの要綱(案)は、4項目から成っている。
 第1項は、「聖慮を奉戴し、なし得る限り速やかに戦争を終結し、以てわが国民は勿論世界人類全般を迅速に戦禍より救出し、御仁慈の精神を内外に徹底せしむることに全力を傾倒す」とあり、第2項には、「これがため内外の切迫せる情勢を広く達観し、交渉条件の如きは前項方針の達成に重点を置き、難きを求めず、悠々なる我国体を護持することを主眼とし、細部については、他日の再起大成に俟つの宏量を以て交渉に臨むものとする」とあるたしかに、これでは抽象的すぎる。ソ連との交渉に、このような態度でのぞんでも「具体性に欠ける」と一蹴されても仕方がないかもしれない。
 ただし、第3項の「陸海軍軍備」のロの項には、次のように書かれている。
「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば
当分その若干を現地に残留せしむることに同意す
 
そして第4項の「賠償及其他」のイ項にも、次のような記述がみられる。
「賠償として一部の労力を提供することには同意す」
 日本政府は、ソ連側に、海外にある軍隊は「現地に残留せしむることに同意」し、戦時補償として、「一部の労力を提供することには同意」するつもりでいたのだ。ソ連はこの条項の意味を見抜いていた、というのが甲斐をはじめ全抑協の理事たちの見解であった。
 その後、瀬島らがソ連軍と停戦交渉にはいったときに、ソ連軍はこの条項を日本側に示し、その履行を迫ったにちがいなく、秦総参謀長や瀬島はこれを受けていれているはずだ、というのが全抑協の主張である。


・・・(以下略)

 秦と瀬島、それにハルビン総領事に宮川の3人は、ワシレフスキー元帥と停戦協定を話し合った。ここで秦は、関東軍の一般状況を説明したあとで、とくに「日本軍の名誉を尊重されたい」と「居留民の保護に万全をつくされたい」の2点を訴えている。しかしその話し合いの細部はいまもって正確な記録としてはのこされていない。防衛庁戦史室編の戦史叢書によれば、話し合いの結果、7ヵ条の協定ができあがったとある。この7ヵ条の協定のうち、最後の第7条は、なぜか「略」となっている。なぜ第7条だけを明らかにしないのか不思議なのだが、とにかく戦史叢書に書かれている第6条までには、一般抑留者を国家賠償としてさしだすといった条項は見あたらない。
 全抑協の会員が、秘密協定があるはずだというのは、この
第7条の「略」とある部分が、実はそれにあたるのではないか、と疑い、資料 の公開も要求しているのである。

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国家による棄兵・棄民 シベリア抑留----------------

  日本が「満鮮に残留する邦人を国家賠償としてソ連に差し出した」かどうかは、「対ソ和平交渉の要綱(案)」第3項や第4項を読めば、およそ見当がつく(「シベリア抑留 対ソ和平交渉の真実は?」で抜粋)。また、交渉で作成されたという「7ヵ条の協定」の第7条が「略」とされ伏せられていることは、逆にそれが真実であることを物語っていると考えられる。さらに、そうした労力提供というかたちの国家賠償が、参謀本部の方針であったことが「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」や朝枝繁春の書き残した『回想』によって明らかである。
「検証・昭和史の焦点」保阪正康(文春文庫)よりの抜粋である。
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第17話 大本営参謀は在満邦人をソ連に売ったのか

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 平成5年(1993)8月13日の全国紙、地方紙に〔モスクワ12日共同〕のクレジット入りである記事が掲載された。このことについては私も拙著で一部触れているのだが、要はロシアの軍関係の公文書館で大本営参謀、朝枝繁春名による公文書が発見されたという内容だった。この公文書は正確には「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」といわれ、同記事によれば、関東軍の総司令部にのこっていた報告書がソ連軍にわたったものと推測される、と記されている。

 ここまで読むとすぐにあることが思い浮かぶ。昭和20年8月9日未明に満州国に対して軍事行動を起こした極東ソ連軍は、すぐに新京(現・長春)の関東軍総司令部に入り、制圧した。その折、焼却する暇もなかったため残された関東軍の極秘文書などを多数、一説では貨車28両でモスクワに運んだといわれている。

 当時(1993=平成5年)この話はロシア側の日本研究者から日本のジャーナリストに伝えられていて、私も貨車28両と聞いて驚いたものだった。防衛庁防衛研修所戦史室(現防衛省防衛研究所戦史部)編で発行されている戦史叢書に書かれた、終戦時の関東軍の実相のくだりが、あれほどページ数が短かったことにも、妙に納得したほどだった。
 共同通信モスクワ支局が入手したこの公文書も押収された中の一つだろうということは、ソ連崩壊後、対日関係文書を追いかけている者には容易に想像できた。
 この「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」は、その後私もコピーを入手したので、それに基づいて以下記述する。
 この文書は4部構成になっているが、「今後ノ処置」という項があり、その「一般方針」の中に次のように書いてある。きわめて重大な事実である。
 「内地ニ於ケル食糧事情及思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於ケル在留邦人及武装解除後ノ軍人ハ『ソ』連ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』連側に依頼スルヲ可トス」
 そしてその「方法」の第2項には、

 「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」

 これは何を意味するのか。対ソ戦の停戦後は軍人、軍属、民間人は「ソ連の庇護下に」そのまま満州や朝鮮に土着してもいい、日本国家を離れてもいい、と大本営参謀の朝枝繁春の名で出されていたのである。のちに、この文書こそがシベリア抑留のソ連側の根拠になったと、投じの全国抑留者補償協議会(全抑協)の会長斎藤六郎は主張していた。

 しかし全国紙や地方紙にも掲載されたこの記事のなかで、朝枝は「この文書はわたしの筆跡でなく、偽造されたものだ」と主張し、ただ し8月9日に大本営から関東軍にこれと似た内容の電報を打電したことは認めている。同時に「私の独断で起草、打電した」とも発言し、 「大本営の意向ではない」と釈明している。
 この「朝枝文書」が国家意志なのか、それとも一参謀の案に過ぎないのか、斎藤と朝枝の間では、解釈が対立した。斎藤によれば、朝枝文書のほかにも、「大本営参謀ノ報告ニ関スル所見並ニ基礎資料」と題して、昭和20年8月29日に参謀総長の梅津美治郎の名で出された文書(これは公表されていない)があり、これによると朝枝の案は追認されて関東軍総司令部(すでにソ連の手中にあったが)に伝達されたという。斎藤は一兵士としてシベリアに抑留されたことが納得できず、こうした記録や文書にあたっていた。そのため、当時の大本営参謀が実際にどのような戦略をもって「満鮮への土着」を企図していたかについては、それほど深い関心は持っていなかったようだ。

・・・

 ……。
そして朝枝は8月10日から関東軍への出張を申請し、参謀総長以下の了解をもらったとある。(朝枝の書き残した『回想』による)自ら起案した作戦案を示しての申請だったという。
 この作戦案は参謀総長の梅津美治郎が関東軍総司令官の山田乙三らに宛てた文書(軍事機密 
大陸命第1374号で、8項目から成っている。その第8項には「細部に関しては参謀総長をして指示せしむ」となっているのだが、この指示文書(大陸指)は防衛庁戦史室には保存されていない。朝枝は「自分がまとめた細部に関しての指示(文書は残っていない。つまりソ連に押収されたと思われる)を記憶で辿ると、以下のように」なっていると書き残している。この指示は「軍事機密」であったという。
 朝枝の『回想』からその部分を引用しておく。

「大陸命1374号に基づき、関東軍総司令官に対し、その作戦遂行上指示するところ左の如し。
(1)関東軍総司令官は、米ソ対立抗争の国際情勢を作為するため、成るべくソ連をして、速やかに朝鮮海峡まで進出せし
  むる如く、作戦を指導すべし(朝枝註・当時ストックホルム駐在武官小野寺少将がヨーロッパにおいて入手しておった、
  米ソ間のヤルタ協定の情報は作戦課迄は伝わっておらなかった。従って、米ソ間で、朝鮮半島に於いては、38度線の
  縄張り取り決めが存在しておったことは、全く未知であった。もしかかる情報が作戦課迄到達しておったならば、このよ
  うな大陸指は考えられなかったものと信ずるが)
(2)戦後従来の、帝国の復興再建を考慮して、関東軍総司令官は、
成るべく多くの日本人を、大陸の一角に残置することを
  図るべし。之が為、残置する軍・民間人の国籍は、如何様にも変更するも可なり」


 これが作戦課長、作戦部長、参謀次長、参謀総長の諒解を得て、関東軍総司令官に伝えられたのである。ソ連軍を朝鮮半島まで誘導してアメリカとの対立状況をつくれ、大陸(いうまでもないが中国大陸)に日本軍将兵を温存せよ、と大本営は伝えていたわけである。冒頭のモスクワで発見された公文書はまさに「事実」であり、国家意志であったのだ。

 ・・・(以下略)

-----------ソ連の北海道分割占領計画とシベリア抑留-------------

 満州における権益の確保・拡大のために、人の命や人生を物ともしないで、次々に戦線を拡大した関東軍もさることながら、満州に攻め入ったソ連も、質の悪いヤクザか暴力団の如く理不尽な振る舞いをしたように思われる。こんな愚かな戦争のために、数え切れない人達が命を落とし、人生を狂わせられなければならなかったのかと思うとやるせない。「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。(斎藤六郎-満州で軍法会議録事を務めていたが、敗戦後シベリアに抑留される。帰還後、シベリアに抑留された人々の組織化に取り組み、1977年に全国抑留者補償協議会会長に就任。ソ連に滞在し「関東軍文書」を発見・解読、棄兵・棄民政策の背景を暴露した人)
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                             第4章 スターリンの犯罪

 北海道分割占領計画

 斎藤六郎と親交があり、シベリア抑留問題の研究者であるロシア最高軍事検察庁ウラジミール・A・ボブレニョフ法務大佐は、この史実に注目した。なぜなら日本人捕虜のシベリア抑留をめぐって、この前後に相異なる命令が発せられ、両者の食い違いを解く鍵が、
スターリンの北海道分割占領(釧路と留萌を結ぶ線の北半分)の断念にあると見たからだ。ではこのことを事実によって、確かめてみよう。
 ソ連の対日参戦から一週間後の45年8月16日、ワシレフスキーはモスクワから、内務人民委員会ベリア、国防人民委員会ブルガーニン、参謀総長アントノフの3人の連名による次のような暗号電報を受け取った。


 日本・満州軍の軍事捕虜をソ連邦領土に運ぶことはしない。軍事捕虜収容所は可能な限り、日本軍の武装解除の場所に組織されなければならない。収容所は、方面軍司令官の命令によって組織すること。また、収容所の警備と軍事捕虜の警護のために、必要数の軍を選出すること。軍事捕虜の食事は、満州に布陣している日本軍の現在の基準量に準じて現地の物資によりとり行うこと。収容所における軍事捕虜の維持に関係する諸問題の組織化と指導のために、ソ連邦内務人民委員部から内務人民委員部軍事捕虜担当総局長・中将クリベンコ同志が、将校グループとともに派遣される。

 
ところがこの一週間後の8月23日に、日本軍捕虜の取り扱いについて、上記の方針を根本的に覆す「国家防衛委員会決定(No9898)」が発せられた。同委員会議長のスターリンが内相ベリヤやワシレフスキーなど極東戦線の各司令官に宛てたもので、俗に「スターリン極秘指令」と呼ばれており、日本軍捕虜50万人のソ連移送とその強制労働利用を命令していた。このスターリン極秘指令は8月24日にその大要が、9月2日にその詳細がそれぞれ関係各方面に暗号電報で伝えられた。ザバイカル地方のチタには極東ソ連軍の満州進攻作戦を後方で支援する兵站基地があり、兵站機関本部次長ビノグラードフ大将は、同3日にこのスターリン極秘指令(詳細)を受け取った。斎藤六郎が独自に入手したビノグラードフ宛てのスターリン極秘指令はかんり長文だ。だが、シベリア抑留問題を考えるうえで非常に重要な文書なので、本文の末尾にその全文を掲げる。(別に抜粋予定)

 スターリンが対日参戦を構想する過程で、日本軍捕虜のシベリア抑留とその強制労働利用をいつ思いついたか、それを裏付ける具体的な歴史的文書はまだ発見されていない。しかし、斎藤は、スターリン極秘指令の内容を仔細に検討した結果、それが綿密に作成された計画であると断定。「8月14日の日本のポツダム宣言受諾よりかなり早い段階で、日本将兵のシベリア抑留に関する決定が行われたのではないか」と推測している。ただし、日本人捕虜の取り扱いに関する決定が、わずか一週間の短期間で180度転換した本当の理由は、「当時の国家国防委員会の議事録を検討して見ない限り、判然としない」が、現段階では斎藤も含めだれもまだ、議事録の入手に成功していない。

 ボブレニョフは問題の二つの歴史文書を比較検討し、なぜ日本軍捕虜に関する取り扱いがわずか一週間という短期間のうちに180度転換したか、その理由を考えた。このとき着目したのが、この間に北海道の分割占領をめぐってトルーマンとスターリンの秘密外交折衝が行われ、最後はトルーマンの強い反対によって、スターリンの野望が挫折に追い込まれた事実であった。ボブレニョフはこの経過を綿密に点検した結果、スターリンはトルーマンによって北海道の分割占領を阻止された腹癒せに、日本人捕虜のシベリア抑留を決定したに違いないとの確信を持つに至った。ボブレニョフは斎藤の斡旋によって、日本で出版した『シベリア抑留史』の中で、北海道分割占領をめぐるトルーマンとスターリンによる上記の秘密外交折衝の経過を紹介したうえで、こう結論している。

 このように見てくれば、日本人捕虜が東京ダモイ(帰還)から一転してシベリア抑留強制労働に狩り立てられることに至った経緯は明らかである。北海道占領の断念が転じて捕虜の強制抑留に連なったことは歴史の示すところである。結果的に日本人捕虜は北海道本土を自らの労働によって償ったものとみてよい。

・・・(以下略)

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