-NO139~148
-------------満州事変に至る周辺事情と問題の論文------------

 田母神前航空幕僚長の更迭の理由は、空幕長という立場にありながら、政府見解と異なる論文を無断で発表したということであり、文民統制下の組織として問題があるということである。しかし、論文に事実ではないと考えられる内容が含まれていることは、具体的にはあまり問題にされていない。たとえば彼の論文には「我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている」とある。それが事実に反することは、少し調べればすぐに分かることだと思う。関東軍の謀略工作であった柳条溝事件勃発の際の朝鮮軍の越境も、条約はおろか、政府の不拡大方針をさえふみにじる独断的行動であった。当時の朝鮮軍参謀神田陸軍中佐の下記の証言も、それを裏付けるものであるといえる。また、満州事変そのものも、起こるべくして起こった侵略的軍事行動であったといえる。張学良の易幟は、日本の特殊権益を守り拡大しようとする政府や日本軍、とりわけ関東軍の姿勢と対立していたことを示している。そうしたことと関わる証言や事実をいくつか「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)より抜粋する。
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柳条溝事件の真相
 社会不安と「国防」思想

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 鈴木禎一(当時参謀本部軍事課員・中佐)談
 「軍事的側面からみると、列強の植民地政策は盛んになり、ことにソ連の脅威から日本を守るために『国防』という考えが新しく出てきた。政治家は、国防ということに関してはなにもわからなかった。第1次世界大戦で武器の飛躍的進歩がみられ、わが国でも急速に軍の近代化をはからねばならなかった。また大戦中多くの観戦武官を欧州の戦場に送り、研究させた結果、若い将校たちの間に、不勉強な幹部を馬鹿にする風潮が生まれ、幹部またこれを押さえることができなかった。ここに下剋上の風潮がおきた。

 近代的軍備拡張の要請と同時に、出てきたのが戦後の軍縮の問題。これに不況がからんで官吏の減俸問題や農村の疲弊が著しく、社会不安のもととなった。ことに軍では兵隊の供給源を農村に仰いでいるため、農村の不安は直接国防の不安もつながる。このため青年将校は次第に既成の政治体制に不信と反感を抱き、昭和初年にかけて国家改造思想が生まれてきた。荒木教育総監本部長より、青年将校の思想善導に当たるよう命を受け、今田新太郎など青年将校を家に呼んで話したりしたのも、このころだったと思う」
 このような国内情勢から人々の眼は満蒙にに向けられ、国防国家を建設して満蒙問題を解決し、”日清、日露戦争の尊い血であがなった特殊権益”を守りぬこうという風潮が強まっていった。


 危機に立つ日本の生命線

 1929年(昭2)、蒋介石が、旧軍閥の打破と中国大陸の中央集権化をめざして北伐の進撃を開始すると、各地で民族主義の勃興がみられ、排日運動の火の手は全中国に広がっていった。28年(昭3)張学良は易幟を行い、満州に青天白日旗をひるがえし、激化した排日は抗日、蔑日へと進展していった。
 張学良の易幟は(張学良が、北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石率いる国民政府の旗である青天白日旗に旗を換え、国民政府に従うことにしたことを指す)日本側に危機感を醸成したが、日本を最も刺激したのは満鉄包囲線の建設と胡廬島の築港問題であった。胡廬島は大連に対抗して、東部・西部・中部大線の鉄道網の起点、終点をなすもので、新鉄道網によって、北満の大豆なども、満鉄を避けてトウ昮線ー四トウ線ー打通線のルートで南満に運ばれるようになった。満鉄の経営は苦境に陥っていた。日本の対満投資の63パーセントを占める満鉄の収入は、30年度(昭5)には前年度の三分の一を下まわるという、創業以来の不成績を残した。

 こうした情況にたいして、軍部や政友会はもちろん幣原外交を非難したが、毎日や朝日などの大新聞も、満蒙の収益擁護を強硬に主張しはじめた。
 この逼迫した日中関係の中で在満邦人は「我が権益の前途を気遣い此の侭にて経過すれば満鉄の金州半島内部への後退も遠からず」(当時関東軍参謀中野良次『満州事変の真相』みすず書房刊『現代史資料』=続満州事変)という危機感を抱いていた。平和外交では満州問題は解決のチャンスは到来しない。ことここにいたれば、つくり出すしかない、という気持ちであった。関係者たちは、みんな何かがおこることを望んでいた。事変勃発後、満鉄3万の社員が、軍同様の働きをした理由もそこにあった。


 山口重次(当時満鉄営業課員)談
 「満人側の日鮮人迫害や鉄道侵害事件などが年中行事化していた。奉天鉄道事務所管内だけでも、1年間の被害は30万を越え、電話線を切られたり、線路をはがされたり、はては日本守備兵が拉致される事件までおこった。
 総領事は『厳重抗議』をしたというきまり文句を繰り返すだけで、『厳重抗議』は370件もたまっていた。軍も傍観しているだけだった。だから日本人会で、青年連盟の岡田猛馬君が
『関東軍は刀の抜き方を忘れたか。腰の軍刀は竹光か』と名演説をぶって全満をうならせたものだ。そして、在満邦人は、”国民外交”と称して直接行動をはじめるようになった。

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 神田正種(当時朝鮮軍参謀・陸軍中佐)談
 「席上、満州問題が討議されたが、結局、小磯、永田が主流の中央部では、満州問題解決の目標を昭和10年におき、それまでに国政を革新し、国防国家体制を整備し、軍備拡張を行おうという考えであった。その手始めに軍が中心となって満州問題の解決の必要性を国内にPRしようというものであった。
 積極的政策という点では異存はなかったが、時期尚早を唱えたり、杉山次官など、やや躊躇を示したりで、早期解決の手段は講じられないことがわかった。
(陸軍中央では「満蒙問題解決方策の大綱」で、向こう1年は隠忍自重し、万一に紛争が生じたときは、局部的に処置することに留めると結論していた)解散後、二次会場に残ったわれわれ部課員は『中央の命を待っていたのでは到底だめだから、出先でやってしまえ。やったあとはおれ達が頭を働かす』ということでわかれた」
 このように中央と現地軍の間には、著しいズレがあった。関東軍は現地情勢に危機感を持ってのぞみ、だれの意見にも耳を傾けた。


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 同年7、8月ごろのものと思われる関東軍参謀本部の「情勢判断ニ関スル意見」には、満州問題解決について、中央とはあまりにもかけはなれた強硬論につらぬかれていた。
 その「説明」の部分には
 「(2)一挙解決何故ニ不利ナルヤ、満蒙ノ解決ハ第三国トノ開戦ヲ誘起スヘク我勝テハ世界思潮ハ問題ニ
    アラサルヘシ

  
(3)好機会ノ偶発ヲ待ツハ不可ナリ機会ヲ自ラ作ルヲ要ス」とある。

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 神田正種談
 「関東軍は満州問題の前面解決のために、朝鮮軍を糾合して二軍協同の軍事行動によって中央を引っ張ろうとしていた。そこで関東軍の決起が中途で挫折し、その謀略がもれれば陸軍だけでなく国家の重大事となる。そこで私はいま国を救う道は戦果を拡大することだと司令官に朝鮮軍の独断越境をお願いした。そのかわり、朝鮮統治のために間島くらいお礼にもらってもよいと思った」

 かくて21日、林軍司令官は中央部に「関東軍ハ吉林方面ニ行動ヲ開始スルニ至リ著シク兵力ノ不足ヲ訴ヘ朝鮮軍ノ増援ヲ望ムコト切ナル重ネテノ要求ヲ接受シ義ニ於テ忍ビズ在新義州混成旅団ヲ越境出動セシム」と通知し、ついに独断越境を開始した。……(以下略)


------------独ソの一方的条約破棄と日本の対ソ参戦準備------------

 1945年8月8日、ソ連は突然日ソ中立条約の破棄を宣言し、日本に対し宣戦を布告しました。そして9日午前零時を以って戦闘を開始し、南樺太や千島列島及び満州国等へ侵攻したのです。この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃であったといいます。私は、子どもの頃から、ソ連の条約違反を非難する言葉を何度も耳にしてきました。しかしながら、日本と同盟関係にあったドイツも、ソ連との不可侵条約を破ってソ連に侵攻しました。また、日本も御前会議で、情況が有利に進展した場合は、日ソ中立条約があるにもかかわらず参戦する計画を立てていたことが分かっています。自国軍の都合で、相手国との合意なしに条約(約束)を破棄し侵攻する、それが戦争(殺し合い)なのだと思います。関連部分を「国際スパイゾルゲの真実」NHK取材班下斗米伸夫(角川文庫)より抜粋します。
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第二章 日本情報を送れ

 バルバロッサ作戦

 情況はさらに進展していく。1940年12月9日、ゾルゲの新たな電報が、モスクワに届いた。
「ドイツから来日した軍人はみな、ソビエトの政策に影響を与える目的で、ドイツはルーマニアを含めた東部国境に約80個師団を配備し ていると話している。もしソビエトがドイツの利益に反する行動に積極的に出れば、ドイツはすでにバルト諸国で行われたように、ハリコフ、モスクワ、レニングラードの線にそって領土を占領することができよう」
 確実な政策決定を示す情報ではないものの、ドイツがソビエトを攻撃するというゾルゲから送られた電報はソビエト指導部を驚かせた。 電文を受け取った赤軍参謀本部の書き込みには、「再確認の必要あり」「疑わしい電報」など、内容に疑いの目を向ける書き込みがなされている。不可侵条約を締結したドイツが、そう簡単にはソビエトを攻めることはないと考えていたソビエト指導部の、当惑した様子がう かがえる。
 しかし、この時期ドイツでは、ソビエト侵攻計画への準備命令がヒトラーによって発令されていた。
「バルバロッサ作戦」である。
 スイス国境に近い南ドイツの町フライブルク。この町は、かつて、パプスブルク家の支配下にあったことで栄え、古い街並みが残されている。
 この町に、ドイツの連邦軍事資料館がある。ここにはドイツの軍事史に関する一次資料が保管されている。近代的な高層建築の研究棟と3棟の資料保管庫が、敷地内には設けられている。
 1940年12月18日、ヒトラーより発せられた総統指令第21号「バルバロッサ作戦」の実物は、この軍事史料館の特別金庫の中に保存されていた。

 総統兼国防軍最高司令官
                                                            総統司令部1940年12月18日
 指令第21号「バルバロッサ作戦」
 ドイツ国防軍は、対英戦終了以前にもソビエト連邦を電撃戦により蹂躙する準備を進めるばし。(バルバロッサ作戦)

 (略)

 指令書には、国境周辺のソビエト空軍基地を占領し、ドイツ領土への攻撃を不可能にすること、またウラル地方の工業地帯を空軍に寄って攻撃することが記されている。さらにこの目的を実行するために、部隊に対して細かい作戦面の指示も行われている。


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 10ページにおよぶ、この「バルバロッサ作戦」の指令書は、薄い黄土色の紙に黒いインクでタイプされている。文末には、あのヒトラー直筆のサインが記されている。そして何人かの司令官が、これを読んだ確認のために、指令書のスペースにサインを書き込んでいる。それは赤や青や緑のインクを使って書かれているため、資料そのものに何か不気味な華やかさが感じられた。
 この指令書が、全世界をさらに激しい戦争に巻き込んでいったのである。

 ゾルゲは、この指令の直後に、日本においてすでにヒトラーの計画に気づいていたことになる。さらに、翌41年(昭和16)3月、ゾルゲはドイツから送り込まれた伝書使の言葉をモスクワに報告する。
「将来日本をソビエトに対する圧力として使うという考えが、ドイツ国内、とくに軍部内でかなり強まっている」というのである。日本がソビエトを背後から脅かす役割を果たすように、ドイツ側が期待していることを伝えている内容である。ソビエトはこうした情勢を受けて、日本との関係改善を急いでいた。1941年4月13日、モスクワにおいて松岡、モロトフ両外相による日ソ中立条約の締結がそれである。


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第三章 動き出したゾルゲ諜報網

  
松岡外相、対ソ攻撃を言明

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 日独伊三国同盟と日ソ中立条約をともに締結した松岡外相は、独ソ開戦の可能性を最後まで低く考えていた一人だが、いったん戦争が現実のものとなったあとは、日ソ中立条約より三国同盟を優先させて対ソ参戦を強硬に主張したことで知られている。オットがドイツ本国へ送っていた電報によると、6月22日、対ソ開戦を伝えたオットに対して、松岡は個人的見解とことわりながらも、日本は中立をつづけることはできないと言ったという。また6月25日の会見では、松岡はオットに自分は対ソ参戦を主張する派であると明言したという。どち
らも、警察訊問調書でのゾルゲの発言と符合するように思われる。
 当時松岡外相の秘書官だった加藤俊一氏は、この点に関して、興味深いエピソードを語ってくれた。
「ソ連の大使が来ました。スメターニンという、ぼーっとした男でしたけど、それがやって来て、今度は大変なことになったと言うんですよ。
独ソ不可侵条約というものがあるのに、ヒトラーは奇襲をしてきた。けしからんって言ってね。そして日本は中立条約というものがあるんだから、これを厳重に守ってくれということを言うわけですよ。
 そうすると、松岡さんは、日本はソ連との間に中立条約を作った。しかし、三国同盟というのもあるんだと。どっちのほうが日本にとって重要かというと、それはこの二つが衝突しなければよい。
衝突した場合には、三国同盟のほうが優先するんだよと言ったんですよ。その ときのスメターニンの顔といったら、ほんとうに体を震わせてね、ガタガタ体を震わせて帰っていきました」
 ・・・(以下略)

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  7月2日、御前会議

 1941年(昭和16)7月2日、宮中東一ノ間で、「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」を議題に御前会議が開かれた。


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 最終決定をみた「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」は、その方針説明の中で、自存自衛の基礎を確立するため「南方進出ノ歩ヲ進メ、又情勢ノ推移ニ応ジ北方問題ヲ解決ス」と述べ、南北両面に備えることを示している。そして「要綱二」で、既定の諸方策に従って「南方進出ノ態勢ヲ強化ス」として南部仏印進駐を決め、そのためには「対英米戦ヲ辞セズ」とされた。独ソ戦に関しては、「要領三」で次のよう に記されている。
「独ソ戦ニ対シテハ三国枢軸ノ精神ヲ基調トスルモ、暫クコレニ介入スルコトナク、密ニカ対ソ武力的準備ヲ整エ、自主的ニ対処ス。コノ 間モトヨリ周密ナル用意ヲ以テ外交交渉ヲ行ウ。
独ソ戦ノ推移帝国ノタメ有利ニ進展セバ、武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北辺ノ安定ヲ確保ス
 つまり、独ソ戦に対しては不介入の立場をとり、その間にソビエトに対する軍事的準備を整える。そして、もし情況が日本に有利に進展 した場合のみ、対ソ参戦する、と確定されたのである。

 ・・・(以下略)


--------------リットン調査団 目的は日本の脱退回避----------------

 満州事変の現地調査に入ったリットン調査団のリットン卿は、連盟、英国、日本の三者の立場を相互譲歩の形で何とか取り纏めよとしたようです。また、当時の松岡外相は、楠山義太郎元毎日新聞特派員に
『どうせ日本も悪いことをしているのだから頬ぺた位は、なぐられても頬被りで通すべきだ』と語ったといいます。国際連盟が発表した「リットン報告書」は、必ずしも日本に不利な内容ではなかったにもかかわらず、さらには、英国外相サイモンが、リットン報告書発表後向こう5カ年間、日支直接交渉で問題解決を図る案を出したこともあったにもかかわらず、日本は国際連盟を脱退したというのです。関係国の思惑や提案を考慮することなく、傲慢な姿勢を貫き連盟を脱退したとすれば、大戦の責任は重大だと思います。「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)から、関連する部分を抜粋します。
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                        第3章 満州建国の舞台裏

 連盟脱退とリットン卿の役割
                                                     元毎日新聞特派員 楠山義太郎

   調査団の国際的背景

 これでは日本は連盟にいたたまれなくなる。日本が連盟から除名されるか、或いは脱退するか、いずれかの道を選ばなければならなくなる。その結果は日本の困ることは論外としても、連盟の方も大困りだ。東洋の代表格である日本を失っては世界平和機構としての連盟が半身不髄になる。理屈を弄ぶ新聞記者や比較的無責任な小国の理論派外交家は別として、世界平和の実質的保障を念願とした英仏代表団では、非常に気をもんだ。その時のフランスの代表は首相兼外相のボンクールであり、英国からは外相サージョンサイモンが来ていた。今の首相イーデンは、政務次官として外相サイモンの鞄持ちであった。サイモンやイーデンには、私も屡々面接したが、英国側の対策は一言にして言えば日本流の『自衛権発動説』をそのまま認めると、剥ぎ取り強盗勝手次第ということになって、世界の秩序が保てない。さりとて小国の理論外交では日本を連盟から失うことになる。その場合には厖大なる英国の在支権益もどうなるか判らない。何とかして、一方では連盟の顔を立て、同時にその反面また日本も連盟内にとどまれるような巧妙なる妥協案をと考えあぐんでいた。この点では
英国と日本では一脈通ずる共通点がないではなかった。
 こうした雰囲気の中で出来上がったのがリットン調査団である。現地調査を行って、日本の言い分にも無理からぬ点のあることを、日本全権の口からではなく、連盟派遣の調査団の手を通して発表されれば、反日感情の鎮静剤にもなるだろうというのがその狙いであった。それには、実質的には英国が中心であっても、あくまで表面は連盟代表とすることにし、フランスやイタリアなどの代表を加えることにした。その上に米国は連盟に加入していなかったが東洋に関係が深いというので、その代表をも一団に加えて世界的陣容を整え、満州事変の現地調査に乗り出すことになった。団長はリットン卿であって主導権は英国に握られていたから、裏からこれを見れば無言の裡に日英なれ合いの一幕であったと言えないこともない。それなのに軍閥全盛の当時の日本では、この調査団を連盟派遣のスパイ団か或いは懲罰機関か何かのように敵視したことは、外交事情を咀嚼し切れなかったからでもあろうが、今から見ると残念なことである。



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リットン調査団を欺く関東軍------------------

 国際連盟の脱退もさることながら、日本が国際連盟から派遣されたリットン調査団をさまざまな方法で欺いていたとすれば、ことはさらに重大であると思います。
「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)から、関連する部分を抜粋します。
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                         リットン調査団を欺く関東軍
                                       元関東軍特務機関員 アムレトー・ヴェスパ
 リットン委員会

 5月1日に私はハルビに帰ったが、それはリットン委員会がハルビンに到着する僅か10日前であった。それより1週間前に種々の警察 機関は、国際連盟委員会へ
何かの訴求を提出しようとする「希望を持っている疑いがある」人物を全部逮捕して監禁せよ、という命令を受けた。

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 日本軍当局の命令に従えば、逮捕を受けた「被疑者」は皆、国際連盟の委員団が出発してしまうまでは投獄して置かれることになっていた。彼等は盗賊や匪賊や麻薬中毒者と一緒に地下牢に投じられた。大多数の者は委員団が立ち去って後、3,40日間も放免されなかった。
 リットン委員会の到着する1ヶ月前に、日本軍は著名な中国人、ロシア人多数に、国際連盟代表に対し「訴願」を提出せよと命令した 。
かかる「訴願」はいずれも日本人が作り上げたもので、ロシア人や中国人はこれに署名しさえすればよかったのである。「訴願」に書い てあったことが「満州国」の輝かしい現在と将来とに対する限りなき讃美と渇仰とであったことは、今さら言うまでもないであろう。
 接待委員会が非常な注意を払って作られた。この委員会の委員全部に対し礼儀作法が教えられた。彼等は何をどう言うべきであるかということを暗記せねばならなかった。もし教えられたことより一言でも多く、または一言でも少なく喋ったら、また、もし言っていることを 空にするようなことをちょっとでもしたら、それがために生命を失わねばならぬぞ、と警告された。

 
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 委員会の主要な人々が宿泊することになっていたハルビンのホテル・モデルンは、包囲されてしまった。委員連の占めるはずの部屋の近くには、通常の泊まり客を装った政治警察員であるロシア人や日本人が宿泊していた。3名の刑事が事務所に番頭として配置され、その他の連中は中国人の給仕、部屋係、その他となった。3人の日本少女が警察に雇われて、女中となって働いていた。沢山な刑事が食堂にも、読書室にも、その他ホテル中にうろうろしていた。他のホテル、例えばグランド・ホテル、ノヴイ・ミールなど委員会の他の連中が宿泊しうそうなところにも、同じような用心がされていたのである。
 委員団の連中が立ち寄りそうだと日本人が考えた主要な商店、料理店、一流の劇場には、店員、番頭、給仕、案内人として警察のスパイが全部配置された。
 正確な数字をあげると、1361名の中国人、ロシア人、朝鮮人並びに9名の日本人が、リットン委員会に対し満州国に敵意ある宣伝を 行う「虞れあり」との「嫌疑」をかけられて逮捕され、ハルビンを距たる6キロの、松花江の対岸にある孫北の収容所に容れられた。同様 に、委員会が刑務所を参観したいと申し出ることも考えられたから、
全ての政治犯、すべてのロシア市民、英語または仏語の喋れる囚人は皆、刑務所から孫北の収容所へ移された。
 あらゆる病院についても同じ用心がされた。
疑わしい患者は全部、委員会の人達が訪問しそうもない日本人の病院へ移された。
 次は、民衆が全部「満州国」に寄与していると委員会の人々に印象づけるように、民衆の随喜渇仰を捏造することであった。
 おびただしい「満州国」の小国旗と執政薄儀の安物の肖像とが、小旗は3銭程、肖像は2銭程で作製され、ハルビン在住の中国人、ロシア人、朝鮮人ばかりでなく、鉄道沿線の住民は全部この
小旗と肖像とを各々1円で買わせられた。「小旗と肖像」1組を売り歩く商人隊は、いずれも中国人またはロシア人の商人1人と2人の日本人護衛兵と1人の日本人会計とから出来ていた。この商人隊は、家々を戸別訪問して強制的に一組ずつ買わせ、もし委員会の滞在期間中これを扉や窓に飾って置かぬと全家族を逮捕するぞ、と強迫した。2円の代金も払えないような極貧者は、15日以内に警察へ代金を持参せよと命ぜられた。

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 150名以上の中国人と50名以上のロシア人とが、 ホテル・モルデンの付近をうろうろしていたというだけの理由で逮捕された。
 逮捕するぞと脅迫されて、親達は子ども達を示威運動や行列に参加するために外へ出してやらねばならなかったし、子ども達は行列に加わって
熱狂的な万歳を叫び、「満州国」の旗を振らなければならなかったのである。
 政府に雇われている中国人も、事務員も工場労働者も起つことの出来る者は皆、中国人であろうとロシア人であろうと、「満州国」の旗 を無理やりに買わされ、行列に参加させられた、そして誰も彼も、あらん限りの声を張り上げて「満州国万歳」を絶叫せねばならなかったのである。



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関東軍謀略工作の暴露( ヴェスパ)と国際連盟------------

 アムレトー・ヴェスパは、関東軍のリットン調査団を欺くための工作について明らかにしました(「リットン調査団を欺く関東軍」)。ここでは、ヴェスパの満州事件以来の関東軍謀略工作の暴露が国際連盟に与えた影響と、ヴェスパに対する関東軍の仕打ちに関する部分を「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)から抜粋します。インドでは、独立運動を率いたボースを怒らせ、東チモールでは中立を守っていたサラザールを怒らせた日本軍の現地人無視の姿勢が共通だと思います。

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特務機関員・ヴェスパの満州脱出
                                                   元満州日報支配人 太原要
 
    ヴェスパ銃殺の決定
 1936年9月。関東軍特務機関員アムレトー・ヴェスパの軍用機による満州脱出は内外に衝撃を与えた一大事件であった。しかも彼によって関東軍の満州事件以来の謀略工作が英国の代表的新聞紙上において暴露され、国際連盟がこれをとりあげるに至って、満州国が日本の傀儡政府なることを実証することになった。当時、この事件は軍によって報道を禁ぜられ、そのまま今日まで未発表となっている。
 「参謀部会議は君を抗日軍の内通者として銃殺と決定した。一刻も早く満州から脱出しなければならない。君はまだ軍の証明書を持って いる筈だ。すぐ飛行場へとんでいって飛行機をつかまえ給え」
 ヴェスパが参謀部のR大尉からこんな通報に接したのは1936年9月3日の未明であった。彼は即刻、市内に潜伏している抗日軍将領張作舟大佐に家族の保護を頼んで大連へ飛び、そこから海路、上海へ着いた。これを知った関東軍は跡を追うヴェスパの妻子を青島で逮捕、ハルビンに押送投獄する一方、満鉄情報部嘱託チャールズ・キーナンを上海に急派して、

「貴君が関東軍の内情を公表するようであれば、家族はこの世から消されるでしょう。だが、貴君はそんな馬鹿なことはなさらんと信じます。貴君は中国に帰化されたが生まれはイタリア人です。イタリアと日本とは盟邦です。もし日本に不利なことを発表されるとイタリアの不利を招くわけですから」

 と説かせた。だがヴェスパは関東軍が強制徴用の4年半の間、幾度か生命の危険にさらされる仕事を強いながら約束の報酬を逃亡を防ぐため払わなかったうえ、家族を人質同様の扱いをし5万ドルに値する財産を押えた。今なお同じ圧制下に苦しんでいる諸外国人や過去半生を送った愛する満州のため、関東軍の謀略行為を発表して世界の世論に訴えるのが私の義務だ、と耳をかさない。
 そこで、当時、悪名の高かった憲兵隊の中村通訳にロシア人凶徒団を率いて上海に潜行させ、ヴェスパの暗殺をはかったが成功しなかった。それのみか、張作舟が捕虜とした関東軍将兵取り戻しのため、ヴェスパの家族釈放の余儀なきに至ったのであった。しかも、関東軍の満州における謀略工作は、排日紙マンチェスター・ガーデヤンに「中国侵略秘史」と題して暴露されてしまった。
 アムレトー・ヴェスパは在満30年。新聞記者仲間では中国名の鳳弗斯(フオヴス)で通っていたが、彼に会った者は少ない。何故かというと、彼の活動は夜陰に限られ、張作霖との会見の場合も黒の中国長衿に黒眼鏡、黒い中国帽という黒装束で裏門からであったからだ。
 私は仕事の関係上、彼と知り合いであったが、彼自身の語ったところによると、22歳のとき故国イタリアをとび出してメキシコのマデラ将軍の革命軍に投じた。そこで負傷2回、大尉に昇進した。1912年に退官しフリーランスのジャーナリストとしれ米、濠、仏印、中国、東部シベリアをを歴遊した。
 1916年、第1次大戦中、連合軍の諜報機関に属し日本軍に従いアムール、バイカル、ニコライエフスクにも潜行した。戦後、彼の国際知識と優れた語学や諜報の才能に着目した張作霖に招聘されてその私設特務機関に入り、満州政治の裏舞台での有力者となった。爾来張の帷幕にいること8年余、信任ことのほか厚く、張の寝室に入ることができたのは、彼と黒竜江省長呉俊陞の2人だけであった。
 彼は寧ろ親日家であった。日満協約による武器密輸取り締まりでは、母国軍艦密輸のものさえ押収し、上海のイタリア総領事館に捕えられ暗殺されんとした。また、満州関係の日本人高官中に多くの知友ををもち、武藤元帥の崇拝者であり、満州在留邦人の勤勉さに讃辞を惜しまなかった。それなのにどうして反逆するに至ったか。
 それは、張政権時代のライバルであった土肥原賢二大佐に対する私怨と、大佐が張作霖爆殺の黒幕だとしての報復が主な原因のようだ(彼はハルビン特務機関長白武中佐の洩らした一言で、土肥原大佐が張爆殺の主謀者だとの確信を得たと私に語った)。では何故、土肥原がハルビン特務機関長に就任早々、ヴェスパを徴用して外人諜報班主任にしたか。それには2つの理由があった。第1は、ハルビンは所謂満州の上海で十数カ国の外国人雑居の国際都市であるから、その統治は容易ではない。それに財力の豊かなこの都市から軍資金調達という重大な役目があった。
 それにはこの内情に通じ、在留外人に信用のあるヴェスパを利用する必要があった。第2は、その頃梟雄馬占山は板垣参謀と駒井総務長官の決的な海倫(ハイロン)のり込みで、満州建国に参加させることに成功したものの、李徳、丁超、張作舟ら10万余の抗日軍の蠢動甚だしく、鉄道地域外へ一歩でも離れると危険で、関東軍守備隊の損害は夥しかった。それに彼等のバックには東支鉄道管理局クズネツオフがおり、武器弾薬を与えて扇動していた。
 過小な関東軍の力ではとても早急な鎮撫は不可能であった。ところが、ヴェスパは彼等将領とはみな張政権以来の旧知である。そこでヴェスパを使って説得帰順させようというのである。だが、それだけにこの大物を使いこなすのはひと仕事で、また逆効果をもたらす危険が感じられた。そこで家族に厳重な監視をつけ、かつまた、約束の報酬を払わず逃亡を防いだ。だが、それはヴェスパに多大の恥辱と反感をいだかせることとなった。
 一方、ヴェスパの活動で憲兵隊の悪事が次々に摘発されると、特務機関と憲兵隊の確執は昂じ、その結果、ヴェスパ一身に糾弾の矢が集中されるようになった。そこへ、彼の部下の馬賊頭目建基が憲兵隊の弾圧に堪えかね、関東軍の軍用金輸送列車を襲って、それを強奪するという事件がおき、彼が内情を知ってのうえのこととの疑惑をうけたのである。
 事ここに至るまでには、いろいろの問題があったが、関東軍参謀会議がヴェスパ銃殺を判決した直接の原因は、かれが関与した横道河虐殺事件隠蔽のためであった。



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満蒙武力占有強硬論と二つ事件-----------------

 万宝山事件と中村大尉事件の二つの事件に対する関東軍には、「何が何でも満蒙を占有せん」とする姿勢がうかがえる。張作霖爆殺後、父の跡を継いだ張学良は、関東軍の予想に反して蒋介石と手を握り、易幟(エキシ)を断行して反日姿勢を明確に打ち出したという。そして満鉄と平行する鉄道を次々に新設し満鉄包囲網を構築したため、満鉄の収益は激減したというのである。その時すでに世界大恐慌のただ中にあったため、満蒙武力占有の強硬論が日本国内でも声高に叫ばれるようになった
。「満蒙は我が国の生命線である」という松岡洋右ことばは、流行語であったという。そうした背景の中で、謀略と武力による関東軍の暴走がいよいよ本格的になっていったのである。「満州国と関東軍」(新人物往来社)よりの抜粋である。
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                      主要事件でつづる関東軍の興亡
                                                 平塚柾緒(ジャーナリスト)
                                                 森山康平(太平洋戦争研究会)

③満州事変と傀儡政権

  万宝山事件と中村大尉事件

 
万宝山事件とは、昭和6年(1931)5月、長春の西北方約30キロ付近にある万宝山の開墾地で、満州東部の間島地方から入植してきた朝鮮人農民と地元の中国人農民の間に起きた対立抗争事件である。事件は吉林省の地方公安局の巡警と、日本の領事館警察の対立へと発展し、奉天林久治郎総領事は、日本政府の訓令にもとづいて吉林省省長の張作相に「このままでは対抗手段として我方駐屯軍出動説起こり、領事としても之を阻止する力なきに至るやも計り難い」と脅しをかける。張作相は軍警の引き揚げを約束、6月5日にその一部が撤退した。
 日本はこの事件を、朝鮮人の反中国感情をかきたてる恰好の材料と見て、韓国国内に一方的な情報を流した。韓国の各新聞は日本の情報を信じて「万宝山で多数の同胞が負傷!」といった報道を号外まで交えて行ったために、朝鮮各地に在住する中国人への報復暴動が起こったのである。
 当時韓国には約9万人の中国人が居留していたが、各地で中国人襲撃事件が起こり、連鎖反応的に全国に拡大していった。そして凄惨を極めたのは平壌で、5日夜、数千人の群衆が突如中国人街を襲い、暴行、略奪、破壊、放火とあらんかぎりの暴力行為を繰り返したのである。こうして7月2日にはじまった事件は、9日までに中国人109人が殺され、生死不明63人、負傷者160人余という大惨事に発展したのだった。

 万宝山事件が一地域紛争から国家間の紛争へと発展しつつあるとき、
中村大尉事件が起きた。

 昭和6年5月、参謀本部は対ソ戦争に備えて興安嶺方面の兵要地誌調査のため中村震太郎大尉を北満に派遣した。身分を「東京黎明学会主事、農学士」という農業技師に偽装した中村大尉は、ハルビンを通り、万宝山で農民同士が対立していた6月6日、東支鉄道西部線エレクテ(伊爾克特)駅を出発し、洮索地方を経て洮南に向かった。道案内の同行者には、チチハルの南方昂昂渓で旅館「昂栄館」を経営している騎兵の予備曹長・井杉延太郎とロシア人ハミタイシ・ローコフ、それに蒙古人の包某の3人であった。

 予定では6月下旬には洮南に姿を見せるはずになっていた。しかし、予定期日を過ぎても一行は姿を見せない。当時、洮南地方の抗日運動は激しく、また日本人の立ち入り禁止地域でもあったから、関東軍司令部や特務機関の関係者はその身を案じていた。そして7月3日頃になると「殺されたらしい」という噂が流れはじめた。事実中村大尉の一行は、すでに6月27日に索倫の東方にある蘇鄂公府で殺されていたのである。
 ちょうどそのとき、関東軍では参謀旅行の真っ最中で、石原完爾中佐ら幹部は、行く先々で中村大尉の消息を尋ね回る。やがてハルビン特務機関から中村大尉いっこうの足跡が判明したという一報が入る。最近、蘇鄂公府から帰った日本人女性の話では、6月下旬に日本人2人と中国人、蒙古人の4人が殺され、緘口令が敷かれているというのだ。殺したのは玉爺廟にある屯墾軍第3団の関玉衡団長代理(中佐)だという。

 8月17日、奉天の林総領事は奉天省長・臧式毅も張学良の参謀長・栄臻を訪れ、中村大尉殺害の事実を告げ、責任の所在をはっきりさせるように申し立てた。しかし中国側が事実を認めようとしないため、関東軍は「軍部ノ威信ヲ中外ニ顕揚シ、テ国民ノ期待ニ答ヘ満蒙問題解決ノ端緒タラシムル為絶好ノ機会ナリ」ととらえ、関東軍自ら実力調査も辞さないという強固な態度を見せはじめた。だが、幣原外相はあくまでも外交路線によって解決すべきであり、「本件ヲ以テ満蒙問題解決ノ契機トナスコトナク、又調査ノ為我兵力ヲ使用スルコトナシ」として、関東軍の独走を牽制する訓令を発した。
 関東軍の参謀たちは不満であった。ことに石原完爾作戦参謀は強固で、永田鉄山軍事課長に長文の手紙を送っている。石原は手紙の中で、外務当局の抗議くらいで迅速に事件が解決するなどとは絵空事に過ぎないと切り捨て、「成ルベク第一線ノ意見ヲ尊重シ、其活動ニ委セラルルコト国軍ノ為最モ必要ト存候」と説教し、解決は関東軍に任せるべきだと主張した。そして返す刀で「若シ第一線ノ人物ヲ信頼シ難キ時ハ、速ニ適当ノ人物ヲ配置セラルルコト満蒙ノ形勢上目下第一ノ急務ト存ジ候 生等徒ラニ現位置ニ恋々タルモノニ御座無ク候」と、脅しさえかけた。

 石原の”脅し”が効を奏したかどうかはさておき、8月24日、陸軍省は、「中村事件に関する処理案」を外務省に送付し、中国側があくまで殺害を否認する場合は「洮索地方ノ保障占領ヲ断行スルコトヲ要ス」と軍事行動をほのめかしたのだった。
 9月に入り、林総領事から詳細な事件報告を受けた臧式毅
(ゾウシキキ)と栄臻(エイシン)は、はじめて事の真相を理解し、屯墾軍第3団長代理の関玉衡中佐をはじめとする関係者を奉天に連行し、本格的に取り調べを開始したのである。そして、9月18日、栄臻参謀長は訪れた森岡正平領事に対し、事件の責任者は関玉衡であることを確認した旨伝え、さらに調べを進めることを確約したのだった。
 だが、その夜、関東軍は板垣・石原らの画策で柳条湖の満鉄線を自ら爆破し、それを中国側の反日行為だとして奉天軍の兵営を攻撃、一挙に戦線を満州全土に拡大していったのである。



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関東軍独断の錦州爆撃----------------------

  張作霖爆殺から錦州爆撃に至る経過を辿ってみると、関東軍をリードした一部幹部将校にとって「満州問題」というのはいったい何であったのか、と考えさせられる。日本の利権をいかに確保し拡大するかということ以外は、何も考えていなかったかのようである。外務省や領事館職員を含む政府関係者はもちろん、参謀本部の命令さえ無視した関東軍にとっては、国際連盟の動きや外交交渉など、それこそ「関係ねえ」ということだったのかも知れない。「満州問題解決策案」の中の、「国防外交は……日本帝国に於いて掌理し、交通通信の主たるものは之を管理」するという案を、立場を変えて考えてみる想像力が働かなかった事実は、忘れてはならないと思う。「満州国と関東軍」(新人物往来社)より抜粋する。

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                        事件でつづる満州事変
                                                     平塚柾緒(ジャーナリスト)

③拡大する戦線 錦州爆撃からチチハル攻撃

日本政府に衝撃を与えた錦州爆撃

 吉林占領を終えた関東軍に対して参謀本部は9月24日、
事変不拡大の命令を与えた。その内容は①ハルビンと間島への出兵は事態が急変しても行ってはならない ②吉林の部隊も情況が許せばなるべく速やかに撤退すること ③軍の主力は満鉄線上に配置して動かないようにすることなどであった。要するに、軍事的行動が一段落したのだから付属地内へ引き揚げよという命令であった。

 関東軍はこの命令に対して表向きは反対しなかった。しかし、実際はすでに全満州に対する軍事行動以上のことを計画し、南陸相や金谷参謀総長に電報を打っていた。「
満州問題解決策案」というのがそれである。9月22日関東軍の三宅参謀長、板垣大佐、土肥原大佐、石原中佐、片倉大尉らが集まって作成したもので、「東北四省及蒙古を領土とせる宣統帝を頭首とする支那政権を樹立」して「国防外交は……日本帝国に於いて掌理し、交通通信の主たるものは之を管理」するというものであった。陸相や参謀総長にこの案が打電されたのも、天津の香椎駐屯軍司令官宛に日本租界にいる宣統帝溥儀を保護下に置くように打電されたのも同じ22日であった。

 新政権樹立の計画については幣原外相を擁する若槻内閣はもちろん反対で、陸相もこれに同調して関東軍司令官に「
此の種運動に干与することは厳に之を禁止」するとの電報を打った。この電報は2日間ほど片倉大尉が握りつぶしていたという情報にも見られるように、関東軍は初期の目的完遂のために、なにがなんでも突っ走る覚悟を固めていたのである。

 その最初の反撃が10月4日の
関東軍の声明であり、10月8日の錦州爆撃であった。関東軍声明とは、自らが画策して独立を宣言させた各地の動静を「今や政権樹立の運動各所発生し庶民斉しく皇軍の威容を謳歌するも旧頭首を推戴せんとする風微塵もなし」と自画自賛し、新政権樹立を正面きって内外に宣言したことである。

 突然実施された錦州爆撃は声明以上の衝撃を政府に与えた。錦州には瀋陽を追われた張学良が仮政府を設けていたが、ここを八八式偵察機6機、ポテー機5機で25キロ爆弾75発を投下して辺防軍司令部が置かれていた交通大学や東大営(70万坪)などを破壊した。満州事変は「日本の侵略行為」として中国によって国際連盟に提訴されていた。そして日本軍の撤兵と撤兵監視のオブザーバーの派遣が提案された。それに対して日本政府は鉄道付属地内への日本軍の自発的撤収と中国政府との直接交渉による解決を再三にわたって主張した。9月30日、日本軍の速やかな撤収を勧告する案が総会ではなく理事会で決議されるに止まったのは、一応、日本政府の誠意を信頼しようというものであった。錦州爆撃はその国際的信義を見事に裏切った形となった。幣原外相の協調外交から脱して武力による満蒙問題の解決をめざす関東軍にとって、幣原が外交場裡から退場するのが望ましい。事実、幣原外相の信頼はおおきく失われたのである。まさに関東軍の思うつぼだったといえよう。



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奉天 吉林 チチハル 次は錦州占領----------------

 謀略と進軍、武力行使。わが国の権益を守り拡大するためには「何でもあり」であったのか、と愕然とするような侵略行為がここにはある。しかし、当時のほとんどすべての日本兵は、そんなことは何も知らず「お国のために」と命をかけて戦ったのであろう。繰り返してはならない馬鹿げた話であると思う。
「満州国と関東軍」(新人物往来社)からの抜粋である。
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                       事件でつづる満州事変
                                                   平塚柾緒(ジャーナリスト)
③拡大する戦線
 錦州爆撃からチチハル攻撃へ

東北三省の省都を制圧した関東軍

・・・
 大興付近で馬占山軍と戦っている一方で関東軍は溥儀の天津脱出についてさまざまな策略を巡らしていた。溥儀と2回にわたって直接会見した土肥原大佐は、溥儀の復辟を保証することで都渡満の確約をとりつけた。
11月8日土肥原の策謀で天津に暴動が起こった。金で買収された中国人便衣隊約千人が日本軍が提供した銃やピストルで中国人街を襲撃したのである。中国軍はただちに応戦し、それに対して日本軍も出動する市街戦によって、一般市民にも負傷者がでるという騒ぎになった。溥儀はその混乱に乗じて日本租界を脱出し淡路丸に乗船、13日営口に上陸、旅順のヤマトホテルに入った。こうして関東軍は、天津を自発的に脱出した溥儀が保護を求めたので保護するという名目で、溥儀の身柄を手中にする。
・・・(以下略)

④錦州占領でやっと国から認知された「満州事変」

常に独断専行の関東軍

 チチハル占領から1ヶ月ちょっとたった11月26日夜、支那派遣軍の天津軍兵営が中国軍から攻撃を受けた。もちろん日本軍はただ ちに応戦した。第2次天津事件とよばれるものである。攻撃をしかけられたのが午後8時20分だが、
関東軍の独立守備歩兵第2大隊と 混成第4旅団は翌27日朝には錦州へ向けて北寧鉄道に沿って前進を始めた。理由は「天津の危急を救援するため……山海関に向かい前進せんとす」というものであった。山海関は錦州のはるか南にある。錦州の張学良軍と衝突なしにすむわけがない。関東軍の本当の狙いはその衝突にあった。これでも察せられるように、天津での軍事衝突はやはり土肥原賢二大佐のしかけた謀略であった。錦州攻撃の口実づくりだったわけである。

 しかし、参謀本部は謀略であることをはっきりとは認識していなかった。その証拠に、参謀本部は、遼河以東に引き返せ、という同じ 内容の命令を委任命令権という形で27日中に4回も打電して、ようやく前進をストップさせた。委任命令は奉勅命令とほぼ同じ程度の格式の高い命令である。さすがの関東軍もそれを4回も発せられたのでは従わざるをえなかった。

 参謀本部はもちろん、関東軍が錦州を占領したがっているのは重々承知していたが、その実施には慎重であった。北寧鉄道がイギリス資本のものであることから、その権益を侵すことになる錦州占領は欧米列強の対日不信を強め、へたをするとはっきりした敵対関係に入る恐れが充分にあったからである。陸軍中央部といえども、最終的には国際連盟を脱退してでも満蒙問題を解決するという考えであったことは、関東軍と同じであったが、この時点ではまだ外交という視点を完全に放棄していたわけではない。

 外交という点からみても一つの注目すべき動きがあったのも事実である。それは「錦州からの中国軍の自発的撤退をする条件に、日本はこの地域にたいする日本軍の不侵入・中国行政に対する不干渉を英・米・仏三国に誓約する」といった顧維鈞(南京政府外交部長)の 提案が行われたからである。この提案は11月24日、顧維鈞から南京駐在の英・米・仏各公使に行われ、26日マルテル駐日大使から 幣原外相に伝えられた。第2次天津事件が起こされたのはこの日の夜のことだし、関東軍が錦州へ向けて進撃を開始したのが翌27日である。関東軍の行動をそのまま容認すれば、間接的ながらも英・米・仏に対して宣戦布告を行うようなものである。参謀本部がこれまでになく必至になって、関東軍の前進を食い止めようとしたのは、以上のような事情が生じていたからにすぎない。

・・・(以下略)


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熱河平定作戦----------------------

 熱河平定作戦の経過を辿ると、この作戦の立案に関わった参謀や作戦を展開した司令官の手前勝手は、ここまでひどかったのかと驚かされる。
「満州国と関東軍」(新人物往来社)からの抜粋である。
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事件でつづる満州事変
                                                   平塚柾緒(ジャーナリスト)
⑤強引に進められた
 熱河平定作戦

 熱河平定声明

 熱河作戦が事実上、軍事行動として動き始めたのは昭和7年(1932)6月17日、錦州ー朝楊間を結ぶ錦朝鉄道を走っていた列車から、石本権四郎と(関東軍嘱託)が熱河省の抗日義勇軍に拉致され、行方不明になったことに起因している。

 熱河省を支配していた湯玉麟は、満州国建国宣言にも署名していた一人であるが、北支那から張学良の軍隊の圧迫をうけ首鼠両端を持していた。そもそも熱河というのは、万里の長城によって、支那本土と満州を分離する満州の南西地域である。その熱河地方がなぜ討伐作戦の対象になったかといえば、満州と中国の国境地帯に中国軍が出没することは満州国の国防の上からいって関東軍には具合が悪かった。当時、関東軍の満州国建国の構想の中には、対ソ連構想が大きな比重を占めていた。そのため、背後の
中国軍を長城の向かい側に追い払い、名実ともに満州を中国本土から分離しておく方が都合がよいと考えられていたのである。さらに直接的な理由があった。それは次に掲げる熱河平定作戦についての回想「岡村寧次大将資料」からうかがえる。

 「私どもの着任(昭和7年8月)後の満州の状勢は、治安大いに紊れ、10月には大興安嶺コロンバイルの蘇炳文軍に対する措置(同軍はついにソ連領に脱出し去った)などがあったが、この秋から翌春にかけて治安作戦上の最大問題は、熱河工作と長城線突破の二つであった。
熱河省を領入しなければ満州国とて形を成さないという現地の空気と、熱河省を手に入れる必要はないという、ことに武力を使用して地域を拡大することはよくないという、東京辺りの空気とが、当時なんとなくせりあっていたように憶えている。武藤信義関東軍司令官のもとには、東京の最上層部から私信その他で東京の空気がひんぴんと伝えられてきたように想像され、軍司令官も、現地の必要性をも考えられて相当悩んでおられたようであった」と伝えている。

 石本権四郎拉致事件も、石本が救出されなかったために様々な波紋を投げ、小紛争が続発し、熱河治安に悪影響を及ぼしていた。張学良は、この紛争を利用し、北支那駐在の自軍隊の中から4万名にのぼる精鋭を選抜して抗日義勇軍を編成し、古北口から熱河省に侵入させ、抗日侮日運動を展開していたのである。岡村資料は、”治安大いに紊れ”とはその辺の事情に触れている。

 このような情況の続く昭和8年(1932)1月11日、武藤関東軍司令官は、熱河平定作戦を決定し、
熱河討伐に他の干渉を許さずと声明した。そして2月4日、閑院宮参謀長からの熱河作戦裁可上奏に対して、天皇は「関内に進出せざること、関内を爆撃せざること」の二条件を付して裁可された。また、満州国政府も対熱河総司令部を設け、熱河討伐の声明を出し(2月18日)、関東軍は熱河省内の中国軍隊に対し、24時間以内の撤退を要求(同22日)したが、翌23日、中国側から、この要求を拒絶してきたため、関東軍、満州国軍は連合して熱河侵攻熱河進攻作戦を開始した。

『岡村資料』はその間の事情を次のように説明している。
「関東軍は、張海鵬その他の中国要人を介して、
熱河が円満に満州国に入るように工作を重ね大いに努力したが、数ヶ月を費やして成功の見込みなきに至ったので、武藤関東軍司令官も遂に武力を以て熱河を占領することに決心された。しかも、いとも厳重に、断じて長城を越えてはならないと規定され、特に私に口頭を以て、この規定の趣旨を関係各兵団長に内訓するように命ぜられたので、私は熱河作戦開始に先立ち、昭和8年2月20日、21日、奉天、錦州、通遼に飛行して、軍司令官の意図を各兵団長に伝達して歩いた」
 以下、日付を追って作戦経過を見ると、2月25日、関東軍は錦州省の朝楊占領、3月4日熱河省承徳を占領、3月7日長城線に到達。3月10日長城線一帯の総攻撃を開始。3月24日関東軍熱河入城。以上のように熱河作戦は順調に進捗して熱河省を平定した。関東軍はその意図するところの目的を達し、長城線を第一線として守備につくことになった。

 再び『岡村資料』からその後の展開を見よう。
「関東軍は、熱河省を平定し、3月中旬、長城線を第一線として守備についたが、この頃以来、中国は数十個師の大軍を当面に集めてしばしば来攻するようになった。古北口から山海関にわたる約400キロの長城線には、ところどころ破壊して通行自由の部分もあり、わが方は第6師団、第8師団と混成第1旅団を以て、この長大なる第一線を守備するのであるから、敵の来襲に対しては兵力著しく不足し、また応戦に遑あらずという状態であったため、しばしば部分的に反撃に出でて
長城線を越えて進出するの止むなきこともあり、これでは苦労が大変であるから、むしろ一時的に大進攻作戦を決行して、敵に一頓挫を与えるにしかず、という論が軍参謀内部に起こってきた。
 しかし、それは長城線からは一歩も出ないという前記方針に背反するために、軍司令官もなかなか、この論を採用し難いのであった。それで、この点に関し、小磯参謀長(国昭、のちの内閣総理大臣)を上京せしめて、とくと中央部と協議せしめることにされ、同参謀長は、4月12日出発上京され、中央部と協議、5月3日、小磯参謀長が大連に上陸されると同時に、電話連絡の上、
長城線突破進攻作戦の命令が発せられたのであった」

 つまり、
満州国防衛のために中国本土へ侵攻するいうのである。満州事変勃発時と余りにも類似した関東軍の強引な手口であった。

 これより先、4月10日に関東軍は長城線を越えて北支侵攻を開始し、12日には秦皇島を占領するが、4月18日に本庄侍従武官長を通じて関東軍の関内進攻について天皇の意志表示(作戦中止)があったと伝えられ、翌19日関東軍小磯参謀長から全軍に長城線へ帰還命令が出され、23日までに撤退を完了した。

 しかし、前記『岡村資料』に見るように、その後、陸軍中央の同意を得た武藤関東軍司令官は、5月3日、
第2次関内作戦開始の命令を下すのである。その目的は、満州国国境地帯の中国軍の撤退と、華北の中国軍憲を屈服させることにあった。5月6日、参謀本部は「北支方面応急処理方案」を決定し、翌7日、関東軍は再び長城線を越えて中国本部河北省へ南下、進撃行動を開始する。


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停戦 軍命に抗す参謀長-------------------

 「戦争を語り継ぐ」というML(http://www.freeml.com/no_more_war)で、池田幸一さんが「軍隊や軍人があるから戦争は絶えない」と主張されています。最近、私はいろいろな場面や文章でこの主張に共感させらているのですが、下記の文章もその一つです。
「満州国と関東軍」(新人物往来社)からの抜粋です。
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                          8月15日の関東軍首脳たち
                                               草地貞吾(元関東軍作戦班長・陸軍大佐)
藤田参謀長 軍命に抗す

 昭和20年8月16日の深夜であった。南満の通化にいた第125師団参謀長の藤田実彦大佐から私宛に電話がかかってきた。大佐は私より5年の先輩である。ボックスに入って受話器を取ったら少しすわがれたような怒声で前置きも何もなく、きわめて単刀直入に、
「草地君、ワシの師団は関東軍命令はきかないからなあ……」
 ときた。この唐突の電話に私は面食らったが、文句を考える暇もなく、
「つよっと待ってください。軍命令をきかない結果がどうなるかお考えですか。昨日の玉音放送を思い起こして下さい」
 と、声をはずませてやり返した。だが、返ってきた言葉は、
「分かっているよ……なんぼなんでも、停戦や武装解除ができるもんか……師団は玉砕するまでやるだけだ……」
 とものすごい鼻息である。
「それはいけません。日本全部が武器を捨てて、全関東軍が停戦するのに、あなたの師団だけで何ができましょう。また、できたところで 何にもなりません。耐え難きを耐えるのです。大綱の順逆とはここのところです……」
 と思わず私の声ももつれた。この言葉のとぎれを横取りにして大声一番、
「なにッ、いらぬ説法するなぁッ、オレは停戦のために軍人になったのではないッ……」
 私もついに激高した。
「なんだと…軍命令を聞かないとは…スグにも逮捕令を出しますぞ。聞かねば聞かないと、もう一度明言しなさい。あなたがいなくても、 第125師団には今利中将という立派な師団長がおられる」
 と、」一撃をくらわした。
 すると藤田参謀長の声もだいぶ静まった。そのあと、あれこれ2,3の応酬をしたが、結局、
「では、作戦に関して、こういう関東軍命令があった、ということだけは師団全部に伝えることにしよう」
 とまで折れてきた。私もやれやれと一安心し、まずこの分なら師団長やその他の幕僚もいることだし、大抵は大丈夫だろうと思い、
「そうですか、よく考え直してくださいました。どうか、師団長閣下ともお喋りになって、善処方お願いいたします」と言って電話を切った。
 すぐ電話ボックスを出るにしては、私の眼からは、あまりにも不覚の涙が溢れていた。自然に大声をたてた電話のやり取りは、ボックス の外にもひびき渡ったことだろう。きまりわるそうに出た私の顔を二,三の参謀は、”どうしたのですか”と、言わぬばかりに見つめていた。
 私はだまって椅子に腰をおろし、手を拱いた。藤田大佐の気持ちも分からぬではない。
 私自身にしたところで、全く思いも設けぬ停戦処理に奔走したり、武装解除命令を起案伝達するために永い年月を勉強したのではなかった。しかし、それでは個人は立つかもしれないが、全体が立たない。自分だけの気持ちはすむかもしれないが、関東軍や日本全体を危なくする。
 皇威を発揚し国家を保護すべき軍隊が、その武を一すべき終局の大命の存在を、改めて私が確認したのはこのときであった。その点、藤田参謀長は私の恩人とも言えようか。

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「オレは停戦のために軍人になったのではない」の言葉は、池田さんの主張の正しさを裏付けるものであると思いす。軍人は戦争が仕事であり、田母神氏のような人間の出現も、そういう組織があるかぎり,、それほど不思議なことではないだろうと思うようになりました。

 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、必要に応じ空行を挿入していることもあります。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。


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