-NO131~138
------------日本の都合でチモール占領 戦後は独立妨害か?------------

 日本軍が占領するまで、東チモールはポルトガル領であった。ポルトガルによる様々な収奪はあったようであるが、ポルトガルは第2次世界大戦中、一貫して中立の立場を通した国である。まして、東チモールの人々は世界の物質文明から取り残さたような原始的な生活を送っていたのであり、日本軍に占領されなければならない理由はなかった。第48師団の師団長土橋勇逸中将は、チモール人について、
「全く未開そのままで、土人は黒ん坊。男も女も髪はボーボ、一寸見ても見分けがつかぬ程なり。男女ともに腰巻き一つで男はクルスという短い刃物を腰にブラ下げている。予は恐く神武天皇東征時代の大和の状態といえば、あたらずとも遠からず」と報告しているとのことである。そんなチモール人の住む島を日本軍の都合で占領し、陸軍は「富機関」、海軍は「鳳機関」などによる宣撫工作を利用しながら、連合軍との戦争の惨禍に巻き込んでいったのである。また、9.11以降状況は変化しているようであるが、戦後もチモールの独立を妨害するという問題があったことが、「チモール知られざる虐殺の島」田中淳夫(彩流社)「ナクロマー東ティモール民族独立小史」古沢希代子 (日本評論社)などであきらかである。下記は「チモール知られざる虐殺の島」からの抜粋である。今後その詳細を追求しなければならないと思う。
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残された傷跡

 ポルトガルは、第2次世界大戦中を通して中立の立場を貫き通したが、戦争被害がなかったわけではない。ポルトガルの歴史教科書には、次のごとく記述されている。
 「チモールは最初オーストラリア軍(19411年)、次いで日本軍(1942年)と2度も侵略を受けた。日本軍は3年間チモールを占領し、手当たりしだいに何千人ものポルトガル人と原住民を殺戮したが、それでもポルトガルと日本の外交関係は断絶しなかった」
 「日本軍の侵入は平和的とはほど遠く、それどころかあらゆる暴力と大量破壊をもたらした。各地でオーストラリア人、チモール人、さらには多くの入植者、白人政治犯まで加わったゲリラ戦が始まり、それは大戦終了まで続いた。1945年日本軍が同島を撤退するまで、本国出身の多くの白人を含め何千、何百という人々が戦死し、あるいは日本軍の爆撃、あるいは刑務所で死んだ。ディリその他の集落は破壊され、領土全体は破壊的な戦争で荒廃した」(「世界の教科書ー歴史」ポルトガル3)
 また国連の発行している「 DECOLONIZATION 」には
 「日本の占領は特に野蛮で、苛酷な食料収集の政策は、国土を荒廃させ、推定4万人の死者を出した責任を負っていると思われる」
 4万人という数字は、オーストラリアのジェームズ、ダンという人の書いた『 Timor,a people betrayed 』で詳しくふれている。
 

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 人間だけではない。これらの資料によると、ディリを始めとする町村はひどい破壊を受け経済的にも廃墟と化していたという。
 「コーヒー、ココア、そしてゴムのプランテーション──植民地の最も繁栄した経済分野──は、ほとんど全ては棄てられ、大部分は叢林地に退化していた。一方チモールの家畜数は、戦前のレベルの三分の一以下に減少していた。首都は、侵略者の存在による爆撃によってほとんど廃墟と化し、道路は通行不能であった」

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 著者は、上記にいくつかの点で事実誤認を認め、疑問を呈しつつも、「しかし、全く否定もできない」として、続けている。
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 特に飢餓は確かに起こった。2万人以上の青年男子が島に居すわり、補給もとだえたのだ。物理的に食料は不足する。しかし、東チモールだけで4万人から6万人の人口減があり得たであろうか。〔注・オランダ領チモールだけの人口統計はなく、チモール全島の数値は出せない〕
 日本軍に飢餓が起きたのは1944年以降である。また45年は苦しかったものの自給策が実り好転しつつあった。その点はチモール人も準じていると考えていいだろう。
 地域的には東ほどひどく、特に日本軍が密集していたラウテン付近で約80人が栄養失調と病気で死んだ。
 さらにチモール人は、単に食べる物がないだけでなく、そこに強制労働が重なった。岩村中尉の証言のように、道路工事に際して毎日死者を出した地区もある。強制労働の延べ動員数は転進時も合わせて約8万人。岩村中尉は6000人を動員して、仮に3ケタの死者を出したとすると、全強制労働における死者は単純計算で数千人と推測できる。
 虐待・拷問死もあっただろう。その多くが通敵行為の疑いにより行われた。だがなかには誤解も多かった。焼畑の煙を、連合軍に連絡する狼煙と勘ちがいしたり、言葉・慣習のちがいから来るものも数多くあった。捕虜なども軍法会議にかけずに始末したケースはいくつもあったようだ。
 貴島少尉は、ディリで特務機関員がチモール人を生きたままノコギリで挽いていた事実を同僚から聞いたという。
 富機関の長である富木大尉は、終戦時にはアロール島にいたのだが、そこで、部下の犯した残虐行為の責任をとって戦犯になっている。彼自身は大学で法律を専攻していただけあって、みすみす戦犯になるような行為はしなかったというが、末端の兵に国際法の精神が伝わっていたとは思えない。
 松機関でも、前田利貴少尉がサワ島に渡った時に敵スパイを殺したことが戦犯に問われて処刑されている。
 また大規模な虐殺としては、東チモールのプアラカやスアイ、リキサ、ツツアラであったという話を、戦後チモールを訪れた京大調査隊の高橋徹氏が聞いてきた。
……(以下略)
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1 植民地最前線

ラモス・ホルタは訴える

 1985年2月、東チモールのホセ・ラモス・ホルタが来日した。沖縄で開かれたCCA(アジアキリスト教協議会)のアジア平和会議に出席するためである。その帰途、大阪、広島、呉、東京とまわり、市民団体などと交流集会を行った。各地でホルタは何を訴えたのか。
 「東チモールは、現在インドネシアの侵略をを受けています。そして日本はインドネシアを支持し、東チモール人民の大虐殺に手を貸しているいるのです」

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 年々増えてきているようであるが、東チモールの情報は少ない。しかし「大虐殺に手を貸している」と言われたら、そのわけを追求しないわけにはいかない。


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張作霖爆殺の真相 奉天総領事館主席領事の証言-----------

 田母神論文に、
『日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。』とある。しかし、歴史の事実は謀略に基づく侵略であったことは、「張作霖爆殺事件」や「柳條溝事件」「廬溝橋事件」などの事実を調べれば疑いようがないと思う。また彼は「1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった」という。しかし、その資料は、誰が、何時、どのように作成したのか、その客観性や当時の状況との整合性はどうなのか、誰がどのように検証したのか、発掘の経緯はどうなのか、そうしたことがまったく分からないし、受け入れられてもいない。ここでは、当時日本軍の独断専行に苦慮しながら、直接外交交渉に当たっていた外交官の著書「陰謀・暗殺・軍刀…一外交官の回想…」森島守人(岩波新書)から、張作霖爆殺に関連する結論部分のみを抜粋する(当時の情勢と切り離すのは危険であるが)。様々な立場の人間の証言が含まれており、根拠不明の一片の文書では動かし難いと思う。
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 二 張作霖、楊宇霆の暗殺

張作霖爆死の真相

 張作霖爆死の直後、6月4,5両日にわたって中日両国の共同調査が行われたが、真相は明らかとならず、ようやく6月12日に至り、陸軍省は大要次のような趣旨を公表した。

 「張作霖の帰奉に際し、京奉、満鉄両線の交叉点に中国憲兵を配置、警戒したき旨6月3日中国側より申出があったので、わが守備隊ではこれを容認したが、中国側の満鉄線路上の憲兵配置はこれを拒否して、陸橋上は日本守備隊で警戒した。4日午前3時頃怪しい中国人3名が密に満鉄線鉄道堤に上らむとしたので、誰何したところ、爆弾を投擲せんとしたので、わが兵は直ちに2名を刺殺したが、1名は逃亡した。死体から爆弾2個と3通の通信が出たが、1通は国民軍関東招撫使の書信の断片だった点から考察して、南方便衣隊員なること疑いなく、4日夜明け我が警戒兵の監視中、京奉線の東行列車が交叉点に差しかかると、一大爆音と共に陸橋附近に黒煙及び砂塵が濛々として立ち上がった。」
 
 事件発生当時、中国新聞はもちろん英字紙も、事件の背後に日本陸軍のあることを報道したが、日本内地でも満州の現地でも、この怪死が日本人の手によるものとは一般に考えていなかった。ところが時日の経過と共に、関東軍が怪しいとの噂がだんだんと広がるに至り、後日判明したところによると、2名の中国人が刺殺せられ、1名が逃亡したことは事実に相違なかったものの、彼らが国民党から派遣された便衣隊だというのは、全然虚構であった。爆破事件の前夜、
関東軍の手先が何処からか阿片中毒の浮浪人3名を拉致して、奉天の満鉄付属地内に居住していた浪人の安達隆成のところへ連れて来た。(同人は昭和7年1月錦州攻撃の際、大毎の茅野特派員と共に、軍に先駆けして錦州1番乗りを決行し、茅野と共に惨殺せられた。)3人の浮浪人は付属地内の邦人経営の浴場で一風呂浴び、新しい着物に身なりを整えて早暁外出したが、2名は列車爆破現場で刺殺せられ、中1名が辛うじて逃亡したのであった。当時吉林省長の要職にあり、鉄道問題の交渉などに関連して、公私共に日本側と接触の多かった劉哲が、森岡正平領事に内話したところによると、刺殺をまぬがれた1名は、張学良の下に駆けつけて、ことの顛末を一部始終訴えたので、学良としては、張大元帥の横死が日本人の手によったものであることは、事件直後から万々承知していたわけである。ただ親の仇とは倶に天を戴かないという東洋道徳の観念から、一度学良自身の口から日本人による殺害の事実が洩れると、学良自ら日本側との接触に当たり得ないので、万事を胸の奥深く秘めていたに過ぎないとのことであった。

 中国では阿片やヘロイン、モルヒネを常用する悪習があり、中毒者は恥も外聞もなく、麻薬の入手に狂奔するので、私たちの中国勤務中には、中毒者が金銭的誘惑に脆い点につけ込んで、よく情報集めなどに利用したものだったが、3名の浮浪人の如きは、利用すべく恰好の囮だったわけだ。
私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、当時奉天方面に出勤中だった朝鮮軍工兵隊一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐(当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。爆破列車に張作霖と同車していた顧問、嶬峨誠也少佐(華北事変発生後少将として冀東防共自治政府顧問となり唐山に在勤中病死した)が負傷したままで飛びおり、又町野顧問が天津で下車したところから、関東軍全体の仕業だろうとの憶測もあったが、嶬峨が全然関知していなかったことは事実で、爆破関係者は関東軍中の2,3名に止っていた。当時張の現役顧問は土肥原賢二大佐と嶬峨の2人であったが、土肥原が陰性的な性格のため、とかく敬遠され勝ちだったのに反し、嶬峨は明朗な人となりのため、東三省官場内の信頼を一身に集めていた。しかし中国側の信頼が厚かっただけ関東軍参謀間の評判が悪かったことは事実で、列車の爆破も国家の大事の前には、嶬峨一人位犠牲にしても已むを得ないとて、決行せられたのであった。私は在満当時から嶬峨と昵懇にしていたが、昭和12年華北事変発生後唐山で会見した折、その後軍部の気受けはどうなったかと尋ねたところ、この頃ようやくお叱りも疑惑も解けたらしいと苦笑していた。

爆破計画者のもくろみは、単に張の殺害のみに止まらなかったと思われる。列車の爆破、張の死亡に伴う治安の紊乱に乗じて出兵を断行し、引いて大規模な武力衝突を招致し、一挙に満州問題の武力解決を狙ったものであった。列車の爆破に引きつづいて城内の日本人居留民会など数カ所に次々と爆弾が投げられたが、何れも出兵の口実と誘因とを作るため、陸軍の手先の行ったものに外ならなかった。旅順に関東軍司令部があり、満鉄の沿線各地には、守備隊が配置せられていたが、平常時には自由勝手に関東州外や付属地外に出動することは許されず、付属地外へ出動するためには、緊急突発事件の場合は別として、平時には関東長官から軍司令官に出兵の要請をすることが必要で、満鉄沿線の各地では、領事からの出兵要求をまつこととなっていた。列車の爆破、居留民会への爆弾投下等の不祥事件が続発すると、軍側から総領事館に対して「出兵の必要はないか、治安は警察だけで大丈夫か。」としきりに電話がかかったが、総領事館は冷静沈著に警察力だけで付属地内の治安の維持並びに居留民の保護に当たり、出兵を狙っていた一部参謀連の策動に乗ぜられなかった。昭和6年柳條溝鉄道爆破を口実として総領事館の出兵要請を待たず、関東軍限りで出兵を断行したのは、張爆死の際の失敗をくり返さないとの配慮に出たものと見られる。



 田中内閣遂に挂冠

 張の爆死は、その後も疑惑につつまれたまま、解けざる謎として迷宮裡にあった。翌4年1月の議会では民政党は永井、中野の両代議士を先頭に立てて、某重大事件に関してわが国が蒙っている疑惑を一掃すべしとて、痛烈に内閣の責任を糾弾したが、田中首相は調査中の一語をもって終始した。事実首相は事件発生当初からかりそめにも日本軍が関係しているなどとは信ぜず、陛下にも日本軍の無関係であることを上奏し、万一日本軍が関係している事実があれば、軍法会議に附して厳重処罰すべき旨を上奏していた。ところが、この極秘中の極秘たるべき陰謀の真相は、爆破関係者の夢想だもしなかった些細なことから世上の噂に上るに至った。
爆破当日の朝方、前記の浴場の主人が好奇心に駆られて現場に行くと、前の晩自分のところに来た中国人の浮浪人2名が晴衣を着て刺し殺されているのを見て一驚し、前夜からの顛末をそのまま、付属地内の関東庁警察に通報した。若し憲兵隊へ報告していたら、当時の隊長三谷清少佐は関東軍と昵懇の間柄だったから、その話も恐らく握り潰しになり、中央への報告とはならなかったであろう。ところがあいにく拓務省系の関東庁警察(制度上総領事館警察をかねていた)に報告されたため、東京へそのまま伝わり、やがて、東京や満州で話題に上るに至った。当時の奉天特務機関長秦眞次少将(後の憲兵司令官)は、浴場の主人の話を中央に報告したむねを聞き込むと、「軍に不当な疑いを与えるものだ」と警察に怒鳴り込んだ一幕もあったが、当時関東軍の出動と同時に、奉天に出張中だあった関東庁の三浦義秋外事課長(後のメキシコ公使)は、秦の怒鳴り込みの一件を聞くと同時に、爆破と軍の関係を直感したと内話していた。軍についてとかくの噂が伝わるに至ったので、田中首相は陛下に対する上奏の関係もあり、調査のためとくに東京から憲兵司令官峯幸松少将を現地に派遣したが、同少将の着奉さきだちすでに朝鮮内で朝鮮工兵隊の爆薬装置など一連の事実が確認せられた。首相はさきに陛下に上奏した通り、軍法会議に附して厳正な取調と処罰とを断行せんとしたが、如何せん、陸軍部内には軍法会議を開けば事件の内容を公表する結果となり、日本軍の信用引いては日本の国際的信用を毀損するとて反対論が強かった。その上自分の統率する政友会の有力者も軍の意見を強く支持したので、進退に窮し、陛下に対してあらためて行政処分案を上奏すると、陛下は首相の態度豹変にすこぶる立腹せられ、一言の御言葉もなく、首相はここに陛下の御信任を失ったため、昭和4年の7月、内閣の総辞職を決行したのであった。


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柳条湖事件の真相--------------------

 満州事変の起きる前から、日満関係は重大な局面に立ち至っていた。そんな折、中村震太郎大尉の殺害事件が発生し、日満関係は悪化の頂点に達したという。総領事館では、関東軍が決起する恐れがあり、早急に事件の解決をすべく交渉に臨んだという。事実、軍部は密かに奉天城内に向けて大砲を設置していた。また撫順の守備隊が、奉天城を占領するという想定で軍事演習を計画するなどの動きがあったため、事前防止の措置も講じられたが、注意を促す文書が参謀の手に押さえられ、司令官に届かないうちに柳条湖の鉄道爆破が起きたのである。下記は、当時日本軍の独断専行に苦慮しながら、領事館にあって直接軍や中国側と交渉に当たっていた外交官の著書
「陰謀・暗殺・軍刀…一外交官の回想…」森島守人(岩波新書)からの一部抜粋である。一部抜粋では分かりにくいが、柳条湖事件勃発に至る経過は、事件が突発的なものでないことを物語っており、事実上満州を占領する計画があっての事件であることが分かる。
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四 陰謀の産物 満州事変

 柳条湖事件の発生

 陸軍側との打ち合わせは私が引き受けていたし、また私としては建川少将の所在をも突きとめたいとの考えもあったので、軍側の諸機はもとより、奉天中のおもだった旅館や料亭などには洩れなく連絡したが、土肥原特務機関長の上京中、中村大尉事件の衝に当たっていた花谷少佐を捉え得なかった。林総領事は当夜友人のお通夜に行っていたため、わたしは独り官邸に残っていたところ、10時40分ごろ、突然特務機関から柳條溝で中国軍が満鉄線を爆破した、軍はすでに出動中だから至急来てくれとの電話があった。私は大きくなると直感したので、総領事に対する伝言を残すとともに、館員全部に対して徹夜の覚悟で至急参集するように、非常召集令を出して、特務機関へ駆けつけた。特務機関内では、煌々たる電灯の下に、本庄司令官に随行して奉天を離れたはずであった関東軍の板垣征四郎高級参謀を中心に、参謀連が慌しく動いていた。板垣大佐は「中国軍によって、わが重大権益たる満鉄線が破壊せられたから軍はすでに出動中である」と述べて総領事館の協力を求むるところがあった。
私から「軍命令は誰が出したか」と尋ねたところ、「緊急突発事件でもあり、司令官が旅順にいるため、自分が代行した」との答であった。私は軍が怪しいとの感想をいだいたが、証拠のないこととてこの点には触れず、くり返し外交交渉による平和的解決の必要を力説し、「一度軍の出動を見た以上、奉天城の平時占領位なら外交交渉だけで実現してみせる」とまで極言したところ同大佐は語気も荒々しく「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と反問し、同席していた花谷の如きは、私の面前で軍刀を抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」とて、威嚇的態度にさえ出た。こんな空気では、もとより出先限りで話のつけようもないので、一応帰館した。そして、一切を総領事に報告した上、東京への電報や居留民保護の措置にとりかかった。

 同夜のうち、東三省の最高顧問、趙欣伯博士(明大出身)から再三電話で、「中国側は無抵抗主義で行くから、日本軍の攻撃を即時停止してもらいたい」との要請があったので、その都度総領事や私から板垣に伝達したが、何ら反応はなかった。沿線の領事館に電話連絡すると、各地でも一様に軍の動きがあり、事件は局地に止らず、拡大の形勢にあることは疑うべくもなかったので、総領事館の体制も即時非常時体制に入ることとしルーティンを全部停止し、司法事務まで暫時延期して、全員こぞって事件関係の事務にあたることとした。私は専心対第三国関係と陸軍との折衝に当たり、館内の事務は挙げて柳井恒夫領事(後のコロンビア公使)が主宰することとなった。当時国際連盟の会議も開会中であったので、ジュネーブやロンドン、ワシントンなどへも、刻々情報を直接電話することとしたが、電報事務の輻輳は想像にあまりあった。
……(以下略)


 総領事館に対する軍の空気

 9月20日の深更のことであった。前後2日間家にも帰らず、全然睡眠をとらなかった私は、比較的早く家に帰って早目に臥床したとこ ろ、夜半突然「軍の使だ、早くあけろ」とて軍刀をちゃらつかせながら、非常な力で扉をたたくものがあった。妻が取次に出ると酒気を帯 びた花谷少佐のただならぬ剣幕だったので、官邸にとりつけてあった領事館警察の非常ベルを押したため、官邸は武装警官で取り囲まれた。私が寝衣のままで応対すると、花谷は威丈高に「政府が朝鮮軍の越境を差し止めたのは、総領事館から中国軍は無抵抗だとの電報を出したためだ。こんな有害無益な電報を出すなら、いますぐ一小隊の兵を持って来て無電室を打ち壊す、閣議の席上で幣原外相から中国軍は抵抗していないから、わが軍も攻撃を中止すべきだとの意見が出たが、右は総領事館の誤った電報の結果だ。出先で強いてことを荒立てるのも面白くないから、平素なじみの自分がとくに君のところへ使いにきたのだ」との話だった。右にたいして私は「趙欣伯から再三中国側は無抵抗主義で行くから、至急日本側の攻撃を止めて貰いたいとの電話があったから、そのまま電報した。右は板垣に伝達した通りだ。現に彼我両軍の間に交戦が続いている現状から見て、中国軍が無抵抗のままで、交戦していないとの電報を出すようなことは、常識上から考えても想像できないじゃないか」と撫めて、念のため総領事にも引き合わした上帰した。

 ところが翌21日の昼には、片倉大尉が前に一言した本庄司令官にあてた林総領事の私信に言及して、「総領事館は軍事行動を妨害している。柳條溝の爆破を軍の行為に帰している」とて、直接総領事のところへ捻じこんできた。右の私信は本庄司令官に渡さず、参謀限りで開封したものらしく、軍の陰謀を棚上げして、日本政府が関東軍の行動を牽制せんとするのを、すべて総領事の差金によるものだとなす口吻であった。

 軍側の総領事館に対する空気は、右の一,二の例でも分かる通り険悪をきわめていたが、他方軍の手先である浪人連は内地から続々奉天に集まり、昭和4年の春城内爆破事件で退去処分を受けた小日向権松派もすでに来奉中だからとて、警察から私の身辺について特別の注意があり、林総領事と私の二人は、護衛なしに外出することを差し止められた実情であった。

 他方長春で軍用列車がハルピンへ出発準備を整えているとの電報が東京の満鉄支社に入ったが、右は木村理事の策動だとて、若手参謀連の木村に対する激昂は絶頂に達し、木村を葬れとの声も高く、巷間には軍法会議説さえまことしやかに伝えられていた。木村は軍の強硬方針を排除して、熱心に鉄道交渉を進めていたが、ことに事件発生の二,三日前、新任の内田満鉄総裁が来奉した機会に、満鉄、軍、総領事館の関係者が一堂に会し鉄道交渉の件を協議した際の如き、該博な海外の知識と氏一流の論法をもって、若い参謀連をやり込めたことがあった。木村排撃はそれ以来の軍の反感が爆発したものと思われた。12月林総領事はブラジル大使に転任のため満州を去り、木村もこれと前後して東京に引き揚げたが、両氏の離満は中央の政府が出先の軍に押された何よりの証拠で、満州事変処理に対する中央の無気力と無方針とを如実に反映したものであった。


 首謀者は誰か

 事件発生当時、私は建川少将は事件をたきつけに来たものとのみ想像していたが、その後の情報を総合すると、日本政府では関東軍の不穏計画に関する聞込みを得たので、差し止めのため建川を派遣したものであった。元来首謀者のあいだでは、9月18日に事を起こす計画はなく、9月28日を予定していたといわれるが、事が東京に洩れた上は一刻も遅延を許さない。即日決行に如かずとて、18日午後来奉した建川を一料亭に缶詰めにした上、同夜決行したので、建川としては強いてこれを阻止する意向はなかったらしい。同夜総領事館の会議後、私が百方軍側関係者との連絡に手をつくしたにもかかわらず、その所在を突きとめ得なかったことは前に一言したが、私がせっかく探していた折柄関係者は謀略に専心していたわけであった。

 世間では同夜関東軍の命令で、いち早く出動した守備隊長の島本正一中佐や、平田連隊長をも同類の中に加えている者もあったが、計画は板垣ら二,三の人のあいだ限りで進められたもので、東京にも参謀本部の重藤千秋大佐や橋本欣五郎大佐等の連絡者がおり、事は黒龍会方面から洩れたというのが真相らしい。島本、平田両人にとっては出動命令が寝耳に水であったことはその名誉のため特記しておく。18日の晩、付属地内の大和ホテルで東拓の招宴があった。私ら総領事館員は同日午後の会議が長びいたため出席し得なかったが、島本はこの宴会に出席した後、微酔臥床中、予期しない命令に急遽出動したのであった。なお
鉄道爆破の下手人については、今日まで世上に明らかにされたものはないが、特務機関附の今田準太郎大尉(後に少将となり、先般病死)が満鉄保線掛りを帯同し、手動車で現場に赴いて爆破を命じたところ、職務に忠実な保線掛りが「自分の任務は鉄道の保護であって、破壊はできない」と抗議したため、抜剣、威嚇の上、爆破せしめたのが真相で、爆破の距離がきわめて短距離だったのも右のけっかであった。
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 事件と同時に奉天だけでなく、満鉄沿線全体にわたって軍の蹶起があり、遠く離れた吉林でも軍事行動があったという。さらに、2日後 には土肥原が奉天市長に就任するという手際のよさであった。後に、著者は関東軍が信頼していた邦人の一人(森田福松開業医・日本人居留民会長)から、極秘書類を内密に入手し、満州全土の軍事占領の計画を知ったと書いている。


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廬溝橋事件と二個師団増派の措置問題-------------

 田母神論文に
『日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」』とある。しかし、このようなほとんど知られていない書籍から、その結論部分だけを持ち出して、広く受け入れられ、歴史的常識となっている事実をひっくり返そうとする論法は極めて危険であり、彼の立場を考えると悪質であると思う。(書名でから予想できるが、岩間弘という人物は、いわゆる「大東亜戦争肯定論者」であるという)
 田母神論文に関しては様々な指摘があるが、地道な調査や事実の検証、科学的分析などを抜きにして、「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党」などといいふらす人物を空幕長としていた組織や関係者の浅学非才も疑われていると思う。
「陰謀・暗殺・軍刀<一外交官の回想>」森島守人(岩波新書)からの一部抜粋である。
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十二 運命の7月7日 廬溝橋事件

 廬溝橋事件は出先の陰謀か

 廬溝橋事件は、わが華北駐屯軍が北京の近郊、廬溝橋の附近で演習中、一兵士が行方不明になったのに発端する純然たる局地的事件であった。後に判明したところによると、右の兵士は生理的要求のため隊伍を離れていたに過ぎなかったが、部隊ではただちに宛平縣城内に入って捜査方を要求し、縣長がこれを拒否したため、ついに中日両国間の発砲事件となったもので、私が北京に到着したころは北京の特務機関長松井太久郎大佐や、大使館附武官補佐官今井武夫少佐、第29軍の顧問として中国側に働いていた櫻井徳太郎大佐の如きは、昼夜を分かたず現地解決のため涙ぐましい努力をつづけていた。また部隊の方面では、河辺正三旅団長も牟田口廉也連隊長も純粋な武人型の人で、けっして平地に波瀾を起こす型の人ではなかった。また天津に本拠を持っていた華北駐屯軍の田代司令官も橋本群参謀長も、華北の経済開発にきわめて熱心であったが、武力の行使には賛成せず、その平和的実現方について外務省ともかねがね話合を重ねていた。廬溝橋での武力衝突後、北京から連隊旗を現地に送った際には、もともと陸軍の遣り方からすれば、連隊旗を先頭に堂々と進軍すべきところであった。しかし連隊旗に対する発砲などからかえって事を荒だてることを危惧して、箱に納めたまま携帯したような実情で、この点のみから見ても、現地部隊の事態不拡大の気持ちを察知し得るであろう。現地部隊の遣り口には、事情を十分に調査しないで、宛平縣城内の捜査を要求するなど、軽率な行為のあったことは否定し得ないが、けっして事を起こす口実をつくるために仕くんだ芝居ではなかった。世間でとかくの観測はあるが、私は廬溝橋事件の発端は柳條溝と全然事情を異にしているを確信して疑わない。

 
この意味で廬溝橋事件は、性質上現地限りで解決し得る純然たる局地的問題だったにかかわらず、日本政府が中央において軍の一部のものの策謀に乗ぜられて、過早に2個師団増派の不賢明かつ不必要な措置をとった結果、事態を拡大、中日両国の全面的抗争から、太平洋戦争にまで追い込めたものであった。

 満州事変は出先の関東軍が、ちゅうおうの不拡大方針を裏切って、遮二無二、既成事実を作りあげて、中央を引きずったものであったが、華北事変はこれと正反対に、中央政府が現地の不拡大と局地解決の努力を否認して、政略的出兵に出て、かえって事態を拡大したもので、奇妙な対照を形成している。

 日本政府の政略的出兵

 関東軍は満州国の育成、強化のため、華北においてもわが方の実勢力下に立つ政権の樹立を策し、好機をとらえて強圧的態度に出んと、虎視眈々としていたことは前述した通りだ。
 この関東軍が廬溝橋事件の起きた翌7月8日、ただちに、

 「暴戻な第29軍の挑戦に基因して今や華北に事端を生じたわが関東軍は多大の関心と重大な決意を保持しつつ、厳に本事件の成行を注視する」

との声明を、独断で公表したことは注目に値する事実であった。日本政府は9日不拡大方針を堅持し、早急に現地で問題の解決を計るべきことを決定したのだから、爾後の施策でも、冷静慎重、事件の本質や真相を究明し、不拡大方針に適応した措置を講ずべきであったにもかかわらず、事実はこれに逆行していた。
 政府は11日、事件を「華北事変」と称するむねを発表して、自らこれを拡大したのみならず、同日から近衛首相自ら陣頭に立って政界 、財界、言論界を総動員して輿論を煽り、最後に現地の意見を徴することもなく、独自の情勢判断から華北出兵を決定して内地から2個師団動員の内命を出したのだった。

・・・(以下略) 


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「スパイ狩り」専門のヤマ機関------------------

「ヤマ}とは、陸軍中野学校や陸軍登戸研究所のサーポートを受けながら、極秘裏に活動した「スパイ狩り」専門の対敵防諜機関秘匿名である。秘密機関であるため、全貌をつかむことがきわめて難しいわけであるが
『昭和史発掘 幻の特務機関「ヤマ」』斎藤充功(新潮新書)の著者は、生き残りの関係者をたどり、様々な事実を明らかにしている。「ヤマ機関」の本部(東京)は5班で編成されており、甲班は主に内外要人の監視・外国公館、ホテル等の監視を任務とし、乙班は内外電信・電話の窃聴・通信傍受、丙班は内外郵便物の開緘、税関荷物の検査、丁班は要監視者の荷物奪取、窃取、戊班はスパイの謀殺・偵諜等を任務としたという。著者は長崎支店(「支店」とは偽装したヤマ機関の分室)開設のため単身長崎市に赴任した友源治郎(副支店長)にたどりつき、「友」が口述で長男に書き残させた記録を手にしてえいる。同書の「友」の記録より、秘密機関の長崎支店やその任務分担に関する部分を中心に一部を抜粋する。
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ヴェールが剥がされたヤマ機関の実像

「長崎支店」に転任


……
 ヤマ機関は、その存在を隠すために防諜工作を実行するときは、諜報員全員が身分を商社マンに偽装していた。そして、東京本部を「本店」と称し、長崎のような地方機関を「支店」と呼んでいた。
 では、この「長崎支店」はいかなる目的で作られた地方機関だったのか。
 長崎がヤマの西の工作拠点に選ばれたのは、上海線、釜山線、そして香港線の3航路の発着港になっていたほどの国際都市であったこと、そのうえ艦船を主に建造していた三菱長崎造船所が置かれていた関係からであった。当然、憲兵隊や警察の監視が厳しい都市でもあった。このように軍警の目が光っていた長崎で、ヤマ機関の工作担当者は変名で活動していたわけである。
 そして、友の記録には

 <長崎支店の開設(長西田中佐の下で副支店長)。関係部員は全員身分を秘匿し特別要務専従者は氏名を変更(変名)自分は山本源治郎を常用した。自己の秘匿のみならず家族近親まで自らの防衛(秘密)を必要とされ実施した。(中略)勤務は支店長西田中佐の副長として甲乙丙丁戊工作を自ら実践した>

 とある。組織の編成や仕事の内容も具体的に詳述していた。

   <支店長  西田中佐(熊本県出身)
    工作主任 山本源治郎(私の秘匿名)
    店員   約30名(中野学校出身特技者、通訳官、雇員等) 
    重点目標 支那領事館、フランス領事館、長崎ホテル
    拠点   雲仙ホテル、長崎郵便局、長崎税関
    容疑者  長崎カトリック教会関係、同系学院関係、米系邦人(クラバ)一味、その他英米系容疑内外人>


・・・

 また友は、長崎における甲、丙班の活動状況も次のように記している。(同書の順序を変え、東京の乙班や丁班も挿入)
 <支那領事館・日時を選択し、午前1時から同4時頃迄に工作班が潜入し重要書類金庫の開緘に成功毎月一会乃至2回文書の盗写を遂げ、文書はその軽重を詮議した上そのまま東京本店に提報した。
 フランス領事館・領事引き揚げのため留守館員の動き、邦人家政婦を懐柔し出入関係者、文書の窃写等手を尽くしたが、仏の活動は低調であった。(中略)
 長崎税関・税関上部の配意を取りつけ税関検査とは別に指名外人公館員の着発荷物の開閲に連続協力を得た。(中略)
 長崎カトリック教会・邦語堪能な牧師数名(外人)の外宣教師の動向諜知のため部員を信者に擬装、2、3名潜入させた。尚、土着の信者を懐柔し、学院関係邦人宣教師等の動向を正確に諜知し得た>


 
 <甲班
 政治、経済、外交、社会の高度情報の諜知調査、内外要人……文書、文献、諸統計、特に内外通信、出版関係等に注目を入れ諜報 (防諜)資料の高度監察に資す。
 その一例 新聞、言論界、評論家、文化人、学者、財界、主導官民、特に外交官、郵信関係者(中枢部)の高級官公人に目安を置き関係拠点に、或いは住所に、諜者を設定、又外交機関、外人居留地、別荘地帯、内外ホテル、旅館、料亭等には諜報網を布設(目・耳・写真・窃聴設備等)する等高等工作を実施した。


   
乙班
  ……
乙班の電話と電信の窃聴は重要な仕事で、根気のいる孤独な作業であった。東京市内を中心とする内外容疑者に対して、電話線を引き込んでの窃聴を行い、日本語は要点抜録(その場でメモ)。外語はテープレコーダーで録音した。その全国リストは、日本の上級官庁から外国商社、公館、政界の要人をくまなく網羅していた。
 その他、めぼしい主要拠点を選び出し、国際電話や内外公私電話からも窃聴し、容疑者の選別を専務とした。その窃聴室は、牛込区内の元陸軍病院裏山、旧陸軍戸山学校の西隣りにあり、建物は延べ数百坪の半鉄筋木造2階建て2棟を使い、窃聴室の外に分析室、統計室等、計20室が設置されていた。長、佐官1(大坪中佐)、附尉官下士官軍属、嘱託、通訳官等合計120名。


   
丙班
 科学諜報(手段のほとんどが非合法)
 写真、封書の開緘、郵政税関公社等の金庫から格納所、ホテル滞留者、往来者の荷物類に目をつけ、時に応じ窃聴器布設、直聴或いは録音をとり容疑資料分析係に送付した。
 開鍵は大、公使館をはじめ、内外要人の別邸、住居、出入料亭等、潜入(使用人、庭師、コック、職人等で)工作を併行して日をかけ時を費やして準備した>


   丁班
   窃取、強奪、スリ専門班
 特定した目標、つまり人、物、場所設備等に対して狙い打ち奪取を専門的に取り行う構成でであった。其の専任者は中野学校卒青年士官でその道の特訓を受けた技術将校とその配下に養成した特技者(此の中には、別にスリ前科の名人なども何等かの方法で登用され)が実績を挙げた訳である。
 計画的、或いは、瞬間的に実行に移ったのであるが、さすがは熟練者、渉外事件(ばれ)などが起きた事例はきかなかった。  

   戊班
   人間抹殺(けし役)

 「高度スパイ」「国際スパイ」「国内スパイ」の内政治的、外交的、その他の角度から探索、検挙等施策の方途が内政的或いは国際的その他の利害から推して、困難で手がつけられず、つまり「生かしておけないもの」を抹殺する班といえよう。
 防諜機関に「殺しのライセンス」を持つ組織が、日本にも存在していたとは驚きである。そして、そのミッションを実行していたのがヤマ機関戊班とは……。
 友は、自らが指揮したスパイの射殺例も残していた。やはり、友の記憶から再現してみる。


・・・(以下略)


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スパイ<ゾルゲ>とヤマ機関------------------

 
リヒャルト・ゾルゲ率いるスパイ組織「ラムゼイ機関」のメンバー逮捕に動いたのは憲兵隊であるが、その指示はヤマ機関から出されたといわれる。重要な諜報活動はヤマ機関から指令されヤマ機関に集約されて分析判断がなされた上、実行すべき結論がでると、その結論に基づいて憲兵司令部などが動いた。しかし、ヤマ機関は秘密組織であり、全ては秘匿されたというのである。「昭和史発掘 幻の特務機関『ヤマ』」斎藤充功(新潮新書)から、「『ゾルゲ国際諜報団』摘発の真相」と題された第4章の一部を抜粋する。
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20世紀最大のスパイ事件

 「
ラムゼイ(ゾルゲのコードネーム)機関」は1933年(昭和8年)から足かけ9年間にわたり日本で活動し、帝国政府の国家機密や軍事情報、それに在日ドイツ大使館の極秘情報などを入手して、ソ連赤軍第4本部諜報総局(局長・ヤン・ベルジン大将)に通報していた。
 1942年5月に、事件の概要が司法省から発表されたときは、まだラムゼイ機関がどのような情報を入手し、ソ連に通報していたのか 詳細な内容は解明されていなかった。
 しかし、当局はゾルゲと尾崎秀実を5ヶ月にわたり尋問した結果、両人の自供から驚くべき事実が判明した。それは、「日米戦を想定し て南方進出を決定した御前会議の内容から、独軍のソ連進攻作戦の計画、対ソ作戦計画、日本の戦争遂行能力」など、当時の国家最高機密の多くがソ連につつぬけだったという事実であった。なかでも軍部が予想すらしていなかった「独軍のソ連進攻作戦」の極秘情報は、ゾルゲを最も信頼していた駐日ドイツ大使のオイゲン・オットーから得た情報であった。
 また、ドイツのソ連進攻作戦については、駐独大使の大島浩が直接ヒットラーから得た情報として参謀本部に通電したという記録が残されている。ただ参謀本部で大島情報を分析し、ドイツのソ連侵攻計画を軍事的に検討したのかどうかまではわからなかった。
 それだけに、ゾルゲの自供内容を司法省から知らされた参謀本部第2部の主務者は絶句したという。またラムゼイ機関が入手してソ連に通報した国家機密の内容が具体的に判明するに従い、政府、軍部統帥部に衝撃が走ったことはいうまでもない。
 では、ラムゼイ機関はどのようなネットワークを駆使して、日本の国家機密に接近することができたのか。それは、元朝日新聞政治部記者で近衛内閣の嘱託として政治家、官僚、文化人、学者、外交官などと親密につきあっていた尾崎秀実の幅広い人脈によっていた。加えて、ゾルゲの歴史社会学者としての冷静で事象を的確に判断する優れた分析能力。この2人の知的パワーが合体して、初めて成功した諜報活動であった。もし、この2人の出会いがなければ、ゾルゲは果たしてラムゼイ機関を立ち上げることが出来たかどうか、疑問符をつけざるを得ない。逆に、それだけ2人は思想的に固く結びついていたのである。その思想とは「社会主義革命によって天皇制政治体制を崩壊させ、ソ国ソ連を守る」という高度な政治目標であった。
 またゾルゲは「日本のソ連攻撃を中止させて対米戦に誘導する」という、重大な使命も負っていたのである。


・・・

 こうして5人は昭和8年から暫時、フランス、アメリカ、カナダの各地からそれぞれに身分を偽装して、日本に上陸したのである。しかし、5人の関係とそれぞれの任務を知る人物はゾルゲ、唯一人であった。

・・・

 ゾルゲが東京で最初に手がけた仕事は、駐日ドイツ大使館に接触することであった。ゾルゲの行動は迅速で、来日1週間後には代理大使のエルマン・スドロフにナチス党員の新聞記者として面会して館員スタッフの紹介も受けていた。この時の様子をゾルゲは手記に次のように記している。

 
<私が東京のドイツ大使館に首尾よく入り込んで、大使館員から絶大な信頼を受けたことが、私の日本におけるスパイ活動の基盤になった。この基盤に立たなかったら、私はスパイ活動をすることはできなかったであろう。私が大使館の中心部に入り込んで、それを私のスパイ活動に活用した事実は、モスクワにおいてさえ、史上にその比を見ない驚くべきこととして、高く評価された>

・・・(以下略)
 

 
不法無線を探知せよ

・・・
 
 移動監視隊
(ヤマ機関乙班)は初めからラムゼイ機関をターゲットにした「電波狩り」をやっていたのではなかった。逓信局から不審電 波の情報を聞き、初めて監視態勢を強化したのだ。しかし、それからの監視隊の動きは素早かった。情報を得てから1ヶ月後には、3台の監視車を使って(3点測定法で)目黒を中心とした西ブロック地区を、24時間態勢で固めていき、ラムゼイ機関の周波数を追いはじめた。そしてM・クラウゼンが借家から発信していた周波数と、発信場所が広尾町であることを突き止める。
 その後の処置は、憲兵隊から警視庁に通報がなされて、クラウゼン宅を特高第1課の青山、平本の両刑事が訪ねるにいたったのである。
 しかし移動監視隊の活躍は完全に歴史から消されてしまった。その理由はヤマ機関の極秘性にあるが、高野
(陸軍登戸研究所第1科2班高野泰秋少佐ー「無線の高野」といわれた人物)の証言から監視隊の実像が浮上し、ラムゼイ機関摘発のプロセスが確認できた。これは「昭和史の真相」といっていいだろう。
・・・(以下略)


 
ラムゼイ機関VSヤマ機関

・・・

 ラムゼイ機関検挙のそもそもの”道筋”を付けたのは、警視庁特高第1課の宮下弘警部補であった。宮下が当時、日本共産党の幹部だった伊藤律を目黒署で尋問している時に、伊藤の口からラムゼイ機関の協力者「アメリカ帰りのおばさん」こと北林トモの名前が出て、北林の線から画家の宮城与徳の名前が割れたのである。後はいもづる式に尾崎秀実、ゾルゲ、ヴーケリッチ、クラウゼンの名が上がり、ラムゼイ機関は摘発される……。


・・・

 だが、クラウゼンを捕捉したのは宮城や尾崎の自供ではなく、ヤマ機関乙班の移動監視隊の手柄であった。アジトを発見できたのは移動監視車のおかげで、3点測定法で電波の発信源を割り出していた。そしてその場所は広尾町というピンポイントだったのである。
 情報は直ちに東京憲兵隊特高第1課(注は略)に通報され、第1課から警視庁特高第1課と外事課に連絡がなされた。そして、警視庁がクラウゼンの身柄を押さえたというのが真相であった。


・・・(以下略)


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張作霖爆殺 河本大佐義弟の証言----------------

 田母神論文に「1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。」とある。しかし、現在知られている数々の資料や複雑に絡み合った多くの関係者の証言から構成された歴史認識は、ソ連情報機関の資料(情況認識の錯誤に基づくものか、自身の活動を誇示するための作り話ではないか)発掘が事実であったとしても、全体がひっくり返るような貧弱なものではないといえる。ここに抜粋する
「戦争放火者の側近」と題された河本大作大佐義弟平野零兒の一文もそのことを証明するものの一つである。「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)から、義弟の河本大作との関係をうかがい知ることの出来る部分、また、爆殺に至る関係者の動きや思想に関する部分の一部を抜粋する。
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戦争敢行者

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 今年の夏、私は中国で戦犯として拘留6年、敗戦前から数えて14年振りに帰国した。その数周の後、私より一足先に遺骨となって帰った河本大作の埋骨式が行われた。敗戦前後から、山西省太原で彼に運命を托し、14年間彼のアクセサリーとして、寄生虫として彼が太原戦犯管理所内で病死するまで、形影相伴ってきた私としては、実に感慨無量であった。

・・・

 解放になって2日目、河本は西北公司の総顧問の机を整理し、解放当局の接収組に引き継ぎをやているところを、太原公安局第3科に連行された。第3科は戦犯や、反革命者の取り調べを受けるところで、後には審訊科と名まえが変わった。その後1ヶ月ほど経って、私は3科の科長から、私が書いた「河本大作伝稿」の提出を求められた。これはかつて私が河本の口述を基として筆録したもので、その一部分は私の不在中、その稿本のプリントの一部が、当文藝春秋誌上に河本大作手記として『私が張作霖を殺した』という一文となって、発表されたことを帰国してから知った。当時私はこの記録を、主として張作霖爆死事件を秘録として書いたので、そのコピーは、伝記の依頼者であった昭徳興業株式会社の重役で九州大学医学部教授故高岡達也医学博士に一部と河本の家族のもとに一部、そして太原へは私が一部を保存したもので、本誌に掲載された資料は、家族の保存した分を戦後私の友人Oが、これを文藝春秋社に提供したものであったと知れたが、私の保存した分は解放直後に証拠になると思って、私は社宅のカマドで焼却してしまっていた。
 太原公安局で河本は、自己の経歴全部の坦白を命じられ一切を供述して書いたが、その真実を裏付けるため、私が比較的正確な彼の伝記(
河本の口述を基として筆録したもの)を所持していることを申し出たので、公安局は私にその提出方を要求したのであったが、その始末(すでに焼却処分していた)なので、「私は、執筆者として、記憶をたどり改めて書いて出すことにした。そのため私は前後8ヶ月、公安局に拘留を受け、そこでこれを認めた。この時には、私は河本の大きな罪悪の秘密はやはり張作霖事件が最も重大と思っていた。しかし実際は中国にとっては、河本に対して張作霖事件は、あまり問題でなかった。……(以下略)


  河本の大陸雄図

 彼は確かに張作霖事件によって、その存在が世間的に一部には知られたが、陸軍部内の
大陸派として、中国に対しては古くから侵略的野望を抱いていた。それは日本国家のため、東洋の平和のためという盲信のもとに彼は、日露戦争の陸軍少尉として遼陽の戦いで負傷した後、講和後、明治39年、鉄道警備に当たった安奉線陽山の守備隊長からさらに安東守備隊副官となった時代に既にその思想を強く抱いた。

 ・・・

 ……
安東守備隊時代には、日露の戦いの中で、東亜義軍というのを組織して馬賊を率いて暗躍した橋口中佐に憧れていたが、当時橋口と共に有名だった「花大人」の花田中佐の部下で大久保彦左衛門の末孫だという大久保豊彦が、当時間島が朝鮮のものか、中国のものかという問題の帰属が明らかでないのを、武力で占領してしまうほかないが、それには日本の正規軍がやっては面倒だと、3千の馬賊の頭目である楊二虎に占領させる陰謀をはかっている。それの参謀が必要なので、河本を誘いに来た。河本は渡りに舟と、心を躍らせ、宿願なれりと承諾し、詳しい計画を聞くと、軍資金は三道浪頭の銅山と寛旬県孔雀礦山を掠め、武器はドイツのシーメンス・シュッケルト会社から買う密約ができているというのであった。そこで河本は、本渓湖に近い橋頭駅の上流1里半の白雲塞の山塞に行った。彼は日本軍の軍紀に触れねば、そのまま馬賊の参謀になってしまったのだが、守備隊から連れ戻されて失敗に終わった。
 彼の大陸の夢はこの時からの連続で、彼の一生を支配したといってもいい。後に陸軍大学在学中に組織した
大陸会というのも、第2の日露戦争を企図し、蒙古に根拠を置き、いざとなったらシベリア鉄道を破壊しようと、盟約を結ぶ秘密結社を作り、陸軍青年将校を糾合した。そのうちの一人であった、三村豊少尉が、その頃威を張り出した張作霖を殺そうと、奉天小西辺門で、張作霖に爆弾を投じたが失敗した事件もあった。……(以下略)


 
 河本大佐へのアクセサリー

・・・

 この時彼は私に済南事件の情況を知らせてくれたのを、早速新聞電報にすると、彼は私の電報を見て、『何だ、大新聞記者がこの電報の書き方は………』と自分で筆を加えた。済南事件が一段落して奉天へ回ると、かれは関東軍を奉天に進駐させて、審陽館で、本庄将軍と共に、板垣、石原等の上に高級参謀として画策していたので、私は他社の特派員の入れぬ彼らの部屋に、こっそり出入りして情報をとった。本社から命令で特派員の引き揚げを電報してきたので、相談に行くと、『これから面白いことがあるのだがなア』といった。『何です、聞かして下さい』といったら、『ソンナこと云えるか、しかし社が帰れというなら帰った方がよい』といった。
 私はそれで大連支局員の今尾登に、『河本の行動に気をつけておれ』といい残して引揚げ、
京城についたら、爆死事件の号外が出た。河本の部屋に怪しげな中国人が、しきりに出入りするのを見たが、私はそんな陰謀があるとは思わなかった。彼も私にそのような大事は、新聞記者だから余計に洩らさなかった。


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満州事変へと至るパップチャフ事件と張作霖爆殺------------

 田母神論文が契機となって、「張作霖爆殺事件はソ連の陰謀であり、計画し実行した河本大佐や東宮大尉はソ連特務機関GRUの工作員であった」というようなとんでもない説の存在が知られるようになってきた。しかし、日本には満州をわがものしようとする姿勢が、満州事変以前から存在した。そして、それら侵略の歴史的事実を明らかにした数多くの証言は、中国人でもロシア人でもなく、直接関わった日本人関係者によってなされていることを忘れてはならないと思う。下記は、
「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)の中の、元陸軍少将田中隆吉「私は関東軍を告発する」と題された文章からの一部抜粋である。
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パップチャフ事件と満州独立

 満州独立の運動は大正年間の後期に存在していた。もちろん、それは軍部ならびに民間の一部の人々の間にあった。民間では、大川周明博士であり、陸軍部門にあっては大川博士の盟友であった当時の参謀本部調査班長板垣征四郎中佐であった。板垣中佐は大川博士の満州独立の主張に共鳴していた。その論拠は日露戦争において多大の犠牲、すなわち日本将兵の血をもってロシア帝国の魔の手より解放せる満州を中国人の悪政のもとに置くことは、アジアの盟主をもって任ずる日本にとって忍べからざるところである、というのにある。
 私はまず、何故に一民間人である大川博士が大正の中期から満州の独立を主張したか、その理由を述べなくてはならない。
 元来、大川氏の念願はアジア復興にあった。したがって、長年月にわたり、白色民族の支配下に苦しんできたアジア民族の解放を熱心に主張していた。それは、大川氏の名著『復興亜細亜の諸問題』を一見すればその主張は明白である。満州のどくりつを主張するにいたった動機について、大川氏が私に語ったところによると、大正6年
のパップチャフ事件の失敗がその原因になったとのことである。
 この事件は満州に旧清朝の再建を目的としたものであり、当時旅順にあった清朝の王族の粛親王の発案になるものであった。粛親王は盟友川島浪速氏にこの計画の実現を懇願した。川島氏は明治末期に清朝の顧問として功績があり、その時以来親交があったからである。川島氏はこれを陸軍に依頼した。このため当時中佐であった小磯国昭氏が民間の一浪人の如く葛山という変名で奉天に赴き、この運動を推進することになる。すなわち、当時
満州の主権者として、また軍閥として暴威をふるっていた張作霖を斃し、コロンバイルにあった蒙古人のパップチャフ将軍を新政権の主権者に押して清朝を復活せしめんとするものであった。
 この内乱ともいうべき事件には日本側より多数の旧軍人が参加した。私の同期生の三村豊退役少尉の如きは張作霖を爆殺するため、自ら爆弾を抱き張作霖の馬車に飛び込んで爆死した。また西岡光三郎という退役少尉はパップチャフ軍の砲兵隊長として活躍したが、これらの人々の活躍にもかかわらず、不幸にもパップチャフ将軍が熱河の林西において砲弾により戦死したので、この事件は失敗に終わったのである。
 大川周明氏は川島氏とじっこんの間柄であったから、川島氏より事件の詳細を聞くに及んで満州独立の必要を痛感し、大正8年頃から満鉄の東亜経済調査局主事の余暇を利用しては、満州事変発生の直前まで南は九州より北は北海道まで全国を遊説して歩いた。その目的は満州を独立させて、念願であるアジア復興の礎石たらしめんために日本国内の世論を啓蒙することにあった。



  関東軍と満州某重大事件


 ・・・

 昭和3年6月4日、当時日本で「満州某重大事件」と呼称された事件が起こった。これが後の満州事変の遠因となるから概要をのべる。 大正4年5月25日、大隈内閣が支那共和国に強要して締結したいわゆる21ヵ条の条約は支那の各地に排日、排日貨運動を惹起した。満 州においてもその余波は相当のものがあった。
 当時の満州は馬賊出身の張作霖が主権者であった。昭和2年頃、同氏は中国陸海軍大元帥に就任して、北京にあったが、一方中支・南支に兵力をえた蒋介石の北伐軍は昭和3年4月、張作霖に対して総攻撃を開始、これを徐々に圧迫して5月中旬、早くも北京・天津を包囲する態勢をとった。このため、張氏は全軍に総退却を命じ、自ら京奉線によって奉天に向かった。6月4日朝、張氏の乗った列車は奉天近くの地点を進行中、突如爆破され、同氏は重傷を負い、約5時間後に大元帥服を血に染めて、数奇をきわめた53歳の生涯をを終えた。
この事件は関東軍の高級参謀・河本大作大佐の陰謀であった。
 田中義一大将は組閣するや、対支積極政策をとり、問題になっていた満州(吉林)と朝鮮(全寧)とを結ぶ吉会線敷設の認可を張作霖氏より獲得せんとして、奉天に関東軍の全力と朝鮮軍の混成一個旅団を集結、張政権に対して圧力をくわえていた。これは前述せる大正4年の21ヵ条の条約の締結により、張作霖治下の満州においても排日運動が盛んであったためであった。
 元来張作霖の今日あるのは、馬賊であった彼が、日露戦争で日本軍に協力したためにその後、日本から有形無形の援助を受けたためである。その一例をあげると、大正14年の郭松齢の反乱に際して、日本軍の奉天出兵により危うくも下野せずにすんだこともあった。
 そんな彼が排日運動を盛んにおこなっているのを憤慨したのが関東軍参謀河本大作氏であった。
河本氏の命を受けて北京に来ていた竹下参謀が、張氏の搭乗する特別列車の編成と発車時間の調整を私の上官である建川美次少将(駐在武官)に依頼してきた。このため、建川氏の命により私が実際にこれを調査して竹下参謀に知らせたのである。この報告にもとづき、河本氏が朝鮮の工兵第20大隊の一将校に命じて敷設したダイナマイト600キロは、前記地点で正しく爆発して、いわゆる満州某重大事件となったのである。後年、私が関東軍参謀として新京にいた時、すでに満鉄の理事となっていた河本氏は、張作霖爆殺の目的は新政権を樹立して、満州独立のきっかけを作る計画であ ったと私に語った。


一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。


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