-------------陸軍登戸研究所 南京出張 人体実験-------------
元陸軍登戸研究所所員伴繁雄氏は、その著「陸軍登戸研究所の真実」伴繁雄(芙蓉書房出版)の中で、人体事件のために南京に出張したことを、下記の通り報告している。しかし、田母神論文の中には「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである」 とある。日中戦争で日本軍が何をしたのか、真摯に問い直すことなく、平和な国際関係をつくることは不可能だと思う。現在の日本は、戦争の大失敗を、日本国憲法の中に明記し、180度方向転換をしてスタートしたのである。
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飲んでも疑われない毒物の開発に成功
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登戸研究所の毒物研究は、終戦まで毎年研究者が増員され、瀧塚旬郎薬剤大尉(千葉医大付属薬専卒。後に薬剤少佐)、杉山圭一技大尉、小堀文雄技少尉(後に大尉)、そのほか技手、雇員多数が研究に携わった。
二科三班の研究目標としていた新規の独創的毒物は、無色、無味、無臭の水溶性毒物の合成だった。飲食物に混入しても疑いを持たれない謀略用毒物が求められたのである。
滝脇技手は、土方班長の技術指導のもと、それまで犯罪に使用されていた青酸カリ、青酸ソーダおよび両者の混在品を研究し、謀略毒物としての欠点を調べながら、新しい青酸化合物の開発に成功した。
青酸カリ(シアン化カリウム=KCN)は無色の粉末で、水に溶けるがアルコールには溶けにくい。致死量は約 0.15グラム。飲むと胃酸と 反応して致死量約
0.06グラムという猛毒の青酸(シアン化水素)を発生させ、呼吸作用を止める働きをする。青酸ソーダ(シアン化ナトリ ウム=NaCN)も、酸、二酸化炭素と化合して青酸を発生させる無色の結晶である。しかし、青酸は苦扁桃臭という独特の臭いがする。水に溶かして飲ませようとしても、独特の舌を刺すような刺激的な味で相手に気づかれることがあり、これをうまく隠す巧妙な手際の良さが要求される。
新製品は、青酸の溶剤のアセトンを主原料とし、炭酸カリを加えたもので、この青酸化合物を登戸研究所では、アセトン・シアン・ヒドリン(青酸ニトリール)と呼んでいた。
アセトン・シアン・ヒドリンの化学式と分子構造は次の通りである。(略)
アセトン・シアン・ヒドリンは無色、無味、無臭といってよく、青酸カリに比べ安定している特長があった。青酸カリが固体なのに対し、水にもアルコールにもよく溶けて飲食物に混合しやすい液体である。そのままでは青酸が揮発するため氷で冷却する必要があるが、注射用のアンプルに封入すれば保存と運搬が容易、という謀略毒物として優れた性質を備えるものだった。胃液の中で、青酸が遊離して青酸ガスを発生させ、中枢神経を刺激してマヒが起こる青酸中毒死であるのは青酸カリと同様である。青酸カリ、青酸ソーダの分子中の
CN が等しく、症状は全く同一「だが、もし、原液を注射液として使用すれば、数倍の効果があるであろうことも予想された。
人体実験のため南京に出張
昭和16年5月上旬、二代目の二科長畑尾正央中佐(後に大佐)を長として、一班長で当時技師の私、三班長土方技師と三班の研究者、技術者の計7名は、篠田所長から南京出張を命ぜられた。参謀本部の命によるものだった。
出張の目的は、試作に成功し動物実験にも成功を収めた新毒物の性能(毒力)決定、すなわち人体での実験を行うことであった。
この実験にあたって篠田所長は、関東軍防疫給水部(昭和16年8月から秘匿名・満州731部隊に改称)の石井四郎部隊長(当時軍医少将)と参謀本部で接触し、実験への協力に快諾を得ていた。関東軍防疫給水部は日本軍の極秘細菌戦部隊として設けられたが、薬理部門では青酸化合物などの研究も行われていたからである。
そこでの取り決めは、実験場所を南京の国民政府首都守備軍(指令長官・康生智将軍)が遺棄した病院とし、実験期日は南京の中支那防疫給水部が指定する。実験期間は約1週間を見込み、実験者は同給水部の軍医で、実験には登戸研究所からの出張員が立ち会うというものだった。実験対象者は中国軍捕虜または、一般死刑囚15、6名、とされた。
6月17日、登戸研究所員らは、長崎港を出発、海路上海を経由して南京に到着すると、支那派遣軍総司令部参謀部に出頭し、出張申告を行った。
実験のねらいは、青酸ニトリールを中心に、致死量の決定、症状の観察、青酸カリとの比較などだった。経口(嚥下)と注射の2方法で 行われた実験の結果は、予想していた通りで、青酸ニトリールと青酸カリは、服用後死亡まで大体同様の経過と解剖所見が得られた。また、注射が最もよく効果を現し、これは皮下注射でよかったことも分かった。
青酸ニトリールの致死量は大体1CC(1グラム)で、2,3分微効が現れ、30分で完全に死に至った。しかし、体質、性別、年齢などによって、死亡までに2,3時間から十数時間を要した例もあり、正確に特定はできなかった。しかし、青酸カリに比べわずか効果が現れる時間が長いが、青酸カリと同じく超即効性であることには変わりがなかった。
捕虜・死刑囚に対して行われたとはいえ、非人道的な悲惨な人体実験が行われたのである。戦争の暗黒面としてこれまで闇の中に葬り去られてきたが、いまこのいまわしい事実を明らかにしたいと書き綴った。歴史の空白を埋め、実験対象となった人びとの冥福を祈り、平和を心から願う気持ちである。
------------陸軍登戸研究所 風船爆弾攻撃命令「ふ号」作戦------------
「陸軍登戸研究所の真実」伴繁雄(芙蓉書房出版)によると、ソ連軍陣地攻撃の目的で、気球を等高度飛行させて、遠隔地距離を爆撃する、というアイディアは、陸軍では昭和8年ごろからあったという。そして、昭和14年には和紙をコンニャク糊で張り合わせた気球が多
数製作されており、在満州気象連隊のなかに、この兵器研究教育を専任とする部隊が編成されていたという。
登戸研究所では、当初、謀略宣伝兵器としてこの気球の研究が進められていたが、昭和19年10月、戦況の悪化に伴い、決戦兵器として風船爆弾による米本土攻撃作戦の準備を開始した。秘匿名「ふ号」作戦である。密かに爆弾や焼夷弾を装着した約9,000個の気球が発射され、、数百個がアメリカ本土に到達していた。日本では「特殊攻撃ニ関スル意図ヲ軍ノ内外ニ対シ秘匿スル」ため「黎明、薄暮及ビ夜間等ニ実施スルニ勉ム」などと命令された。一方アメリカでも、緻密な防衛作戦が練られ、防火隊が組織されるとともに、様々な危険を想定して資材が要所に集積されたが、「日本からの気球兵器到達に関して絶対に情報を漏洩させるべからず」と厳重な報道管制が布かれ、ラジオ、新聞、雑誌等に箝口令が出された。したがって、戦後も噂話程度で、詳しいことはあまり語られていない感がある。そこで元登戸研究所所員、伴繁雄氏の上記著書から、「第六章 風船爆弾による米本土攻撃 二、攻撃命令」の研究陣容の部分を除き抜粋する。
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約9千個の風船爆弾を発射
参謀総長は19年9月30日付で、次の攻撃命令を下達している。
大陸指第2198号
命令
一、気球聯隊ハ主力ヲ以テ大津、勿来付近ニ一部ヲ以テ一宮、岩沼、茂原、及ビ古間木付
近ニ陣地ヲ占領シ概ネ10月末迄ニ攻撃準備ヲ完了スベシ
二、陸軍中央気象部長ハ密ニ気球聯隊ニ協力スベシ
三、企図ノ秘匿ニ関シテハ厳ニ注意スベシ
10月6日、「『ふ』号ニ関スル技術運用委員会」が開かれた。10月25日、気球聯隊長に対して下された攻撃実施命令は、次のよう
なものであった。
大陸指第2253号
命令
一、米国内部攪乱ノ目的ヲ以テ米国本土ニ対シ特殊攻撃ヲ実施セントス
二、気球聯隊長ハ、左記ニ準拠シ特殊攻撃ヲ準備スベシ
(一)実施期間ハ、11月初書ヨリ明春三月頃迄ト予定スルモ、状況ニ依リ之ガ終了
ヲ更ニ延長スルコトアリ
攻撃開始ハ概ネ11月1日トス。但シ11月以前ニ於テモ気象観測ノ目的ヲ以
テ試射ヲ実施スルコトヲ得。試射ニ方リテハ、実弾ヲ装着スルコトヲ得
(二)投下物料ハ、爆弾及ビ焼夷弾トシ、其概数左ノ如シ
15瓩爆弾 約 7,500個
5瓩焼夷弾 約 30,000個
12瓩焼夷弾 約 7,500個
(三)放球数ハ、約15000個トシ、月別放球標準概ネ左ノ如シ
11月 約500個トシ、5日迄ノ放球数ヲ努メテ大ナラシム
12月 約3,500個
1月 約4,500個
2月 約4,500個
3月 約2,000個
放球数ハ更ニ1,000個増加スルコトアリ
(四)放球実施ニアタリテハ、気象判断ヲ適性ナラシメ、以テ帝国領土並ビニ「ソ」領
ヘノ落下ヲ防止スルト共ニ、米国本土到達率ヲ大ナラシムルニ勉ム
三、機密保持ニ関シテハ、特ニ左記事項ニ留意スベシ
(一)機密保持ノ主眼ハ、特殊攻撃ニ関スル意図ヲ軍ノ内外ニ対シ秘匿スルニ在リ
(二)陣地ノ諸施設ハ上空並ビニ海上ニ対シ極力遮断ス
(三)放球ハ気象状況之ヲ許ス限リ黎明、薄暮及ビ夜間等ニ実施スルニ勉ム
四、今次特殊攻撃ヲ「富号試験」と称呼ス
攻撃開始は11月3日の明治節が選ばれた。当日は午前3時より放球準備にかかり、午前5時一斉に発射した。
直径10メートルの風船爆弾は千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の三基地から放球された。一宮海岸では順調に発射できたが、勿来では、器材準備室が、また大津では発射陣地二ヵ所で同時に地上爆発を起こし、見習士官以下数名の死傷者を出した。
十分な安全整備は施されていたが、取扱いの不慣れが原因であった。そのため一時、攻撃は頓挫したが、急ぎ資材およびその組立に改善を加え、安全装置も二重にするなどの措置をとり、11月7日、再び攻撃を開始した。その後攻撃は順調に継続され、よく20年4月上旬までの発射総数は約9,000個で、全部がA型気球であった。
昭和20年に入ると、米軍の日本本土空襲は激甚の度を加えた。「ふ号」に必要な水素の輸送も遅れがちとなり、水素を製造していた川 崎市の昭和電工、気球を製作していた工場なども爆撃を受けるようになった。時には試射気球を揚げた瞬時に、米艦載機に撃墜されたこともあり、しだいに「ふ号」「作戦の実行は困難となった。4月になると、米本土攻撃に適しない西風の時期となり、攻撃は中止された。
冬期八千メートルから一万メートルの上空を吹く偏西風に乗って、この決戦兵器は時速二百キロ以上のジェット気流に乗り、太平洋を飛翔してアメリカ本土を直撃した。
戦果は小さかったが、心理作戦としては成功
登戸研究所の風船爆弾開発の最高責任者であった草場少将は、風船爆弾は戦力としてはほとんど認むべき効果はなかったことを素直に認めていた。しかし、数百個の気球はともかくも八千キロの太平洋を翔破してアメリカ本土に到達したことは、明白な事実であった。 風船爆弾の被害は、アラスカ、カナダ、アメリカ本土、からメキシコにいたる広範囲に及んでいた。
風船爆弾の落下場所、件数の多かったのは合衆国西海岸オレゴン州の40件を筆頭に、モンタナ州で32件、ワシントン州で25件、カ リフォルニア州で22件、ワイオミング州、サウスダコタ州、アイダホ州が8件づつ、あとは6件以下であったが、すべての州に最低1件の事故があった。
カナダでは、西海岸ビリティッシュ・コロンビア州の38件を筆頭に、アルバータ州の17件、サスカチュワン州8件マニトバ州6件ほか北方ユーコン地区、マッケンジー地区にも5件、風船爆弾が到達していた。アリューシャン列島をふくむアラスカでは30件を数えた。
爆撃当初は、原因不明の爆発事故、山火事が相次ぎ、不発気球確保が各地報告されて人心を極度に攪乱し、心理作戦としては成功したのである。アメリカの政府や軍部は緻密な防衛作戦を練り、日本からの長距離爆撃に備えなければならなかった。
アメリカ西海岸防衛参謀長ウイルバート代将が、戦後「リーダーズ・ダイジェスト」誌に発表した著述によれば、これらの事故、事件に
対する防衛のため防火隊が組織された。また回収された浮力回復用砂のうなど得体の知れないものには間違いなく化学兵器か細菌戦の媒体が使われていると推察し、防毒資材や細菌剤が要所に集積されていたとのことである。
「日本からの気球兵器到達に関して絶対に情報を漏洩させるべからず」と厳重な報道管制が布かれ、ラジオ、新聞、雑誌等に箝口令がでた。
それはアメリカ合衆国の最高命令であった。国内に報道することも、国民の人心攪乱を担っていると予想される日本の心理作戦の術中に嵌ることを避けるためであった。さらにそれが外国の情報機関から日本政府や軍部に伝われば、ますます気球攻撃に拍車をかけることになってしまうからである。
攻撃当時、厳重な報道管制でこうしたアメリカの成果を得ることができなかった。実害は小さかったが、心理的には大きな成果があった といえる。
--------------陸軍登戸研究所 偽札量産 杉工作と松機関--------------
陸軍登戸研究所が偽札を作っていたことはよく耳にするが、実際はどうであったのか、「陸軍登戸研究所の真実」元陸軍登戸研究所所員伴繁雄(芙蓉書房出版)より、その目的や計画、実施の状況に関する細部を抜粋する。「第7章 対支経済謀略としての偽札工作」の一部である。
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一、偽造紙幣の開発
昭和14年、陸軍省、参謀本部は対支経済謀略実施計画を作成した。
その方針、目的は「蒋政権の法幣制度の崩壊を策し以てその国内経済を攪乱し同政権の経済的戦力を潰滅せしむ」というものである。
実施要領は次のようなものであった。
一、本工作の秘匿名を「杉工作」と称し、偽札の製作は登戸研究所に於いて担当し、必要に応じ大臣の許可を得て民間工場
の全部又は一部を利用することができる。
二、登戸研究所に於いて製作謀略資材に関する命令は、陸軍省及び参謀本部担当者に於いて協議の上、直接登戸研究所
長に伝達するものとする。
三、支那における本謀略の実施機関を「松機関」と称し、本部を上海に置き支部又は出張所を対敵の要衝地域並びに情報
収集に適したる地点におくことができる。
四、本工作は敵側に対し隠密かつ連続的に実施し、経済謀略を主たる目的とする。これがため法幣を以って通常の商取引に
より軍需、民需の購入を原則とする。
五、獲得した物資は軍の定むる価格を以って各品種に応じた所定の軍補給廠に納入し、得たる代金は対法貨打倒資金に充
当するが、別命あるときはこの限りでない。
六、「松機関」は松工作資金並びに獲得した資材を明確にし、毎月末資金並びに資材の状況を陸軍省及び参謀本部に報告
するものとする 。
七、「松機関」は機関の経費として送付した法幣の2割を自由に使用することができる。
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第3科は印刷班、製紙班、中央班の3班から構成されていた。秘匿を要した登戸研究所のなかでも第3科の秘密保持は厳重をきわめ、所内でも印刷班は南方班、製紙班は北方班と呼ばれていた。第3科の構成員は、次の通りである。
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かくして製作された偽札の流通は、支那の金融を攪乱して法幣の信用を失墜させただけでなく、偽札使用によって現地での物資の調達に大いに寄与した。
二、ニセ札の量産と「松機関」
昭和19年に入ると、登戸研究所への米機の襲撃回数は頻繁となった。鉄筋コンクリート建て研究室のガラス窓や、急増の木造建物もところどころ損害を受けるようになった。研究所の第1科、第2科、第3科は分かれて疎開せざるを得なくなった。
第3科は福井県武生市に疎開し、当時原料不足で稼働していなかった加藤製紙工場を借り上げ、印刷工場の約半数に担当する機材とともに技術者が疎開した。しかし、受け入れの工事は遅々として進まず、資材はスムーズに搬入できず、完成と稼働を迎えないうちに終戦となった。
日中戦争当時、中国大陸では、国民政府の通貨である「法幣」と、共産党軍が解放区で発行する「辺区券」、さらに日本軍の軍票などが、通貨戦争を演じていた。しかし、大半の地域では法幣が圧倒的に優勢で、物資の現地調達は法幣でなければ困難であった。このため泥沼状態の戦局打開に悩む陸軍は、経済戦の一環として「偽造券による法幣崩壊工作」の構想を進めた。その実務を命ぜられたのが第3科長山本主計少佐であった。
偽造ニセ札作戦は試作に失敗を重ね、試行錯誤の連続を経てようやく量産体制を整え、製品を「杉機関」に渡すまでには長時日を要したのである。
偽札工作の宰領には、陸軍中野学校の出身者があたり、毎月2回ほど長崎経由で海路上海へ届けられた。
現地では「松機関」が流通工作を担当した。機関長は陸軍参謀の岡田芳政中佐だったが、実質上の責任者は軍の嘱託で阪田誠盛という実業人であった。阪田氏は、流通工作のため上海を中心とする暗黒街を支配していた秘密結社「青幣」の幹部の娘と結婚して協力をとりつけ、青幣の首領で蒋介石の腹心でもあった杜月笙の家に「松機関」の本部を置いていた。
敵側の偽札に対する摘発、妨害はなく消極的であったばかりか、偽札の横行に対し「流通過程に於いて、むしろ適当であったと思える」 との発言も関係者側にあった。とくに香港占領後、第3科は敵側の印刷機、資材を入手して偽造工作をしていたが、国民政府としても真贋判別ができない以上、黙認して、逆に偽造を利用してインフレ防止に役立たせていたという判断が適切であった。(以下略)
--------------陸軍登戸研究所 電波兵器「怪力線」の研究--------------
「陸軍登戸研究所の真実」元陸軍登戸研究所所員 伴繁雄(芙蓉書房出版)には、著者の浜松高等工業高校の後輩で、昭和10年から終戦まで電波研究に携わった「山田愿蔵の手記」が紹介されている。そのごく一部を抜粋する。
同書には、このほか、登戸研究所2科6班の植物謀略兵器の研究「松川仁の手記」や、2科7班の動物謀略兵器の研究「久葉昇の手記」なども紹介されており、731部隊や100部隊との研究協力や任務分担にも触れている。さらに、秘密インキや秘密通信用紙、自然発火アンプルや缶詰爆弾など破壊・放火謀略器材、憲兵用装備器材など多方面にわたる研究がなされていた事実が明かされている。
「あとがきにかえて 伴和子」に著者の「平和への思い」が読み取れる。
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第5章 電波兵器の研究
「山田愿蔵の手記」
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「く」号は、戦局を一挙に絶対優位に導く極秘兵器、つまり決戦兵器として研究に莫大な予算がつぎ込まれたが、結果は期待に反し兵器としてはついに実用化を見なかった。戦後、登戸研究所についていくつかの雑誌記事や書籍が出されたが、「く」号研究については、わずかの記事しかない。ここで、50年前の記憶を頼りに、強く印象に残っていることを主に書き残すこととした。
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昭和11年12月3日付の「陸軍科学研究所第72号」で決定した研究項目は、次のとおりであった。
科く号電波ニ関スル研究/大阪帝国大学教授八木秀次
科く号放射線ニ関スル研究/大阪帝国大学教授八木秀次 同菊地正士
科く号衝撃波ニ関スル研究/航空研究所所員 抜山大三
科ら号ニ関スル研究/京都帝国大学教授鳥養利三郎、同助教授林重憲
科き号ニ関スル研究/航空研究所所員 抜山大三
このうち、「く」号が、殺人光線とも呼ばれた「くわいりき(怪力)線」である。当初、怪力線の研究は電波と、衝撃波、サイクロトロンを使った放射線の三種で進められた。だが、あとの2つは間もなく中止され、強力超短波を使った研究が研究途中の副産物を期待されたこともあり、最終目標として終戦まで継続された。
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情勢はさらに悪化し、B29が本土に来襲するようになった。昭和20年春から登戸研究所は長野県各地と兵庫県下に分散して疎開移転することになった。
長野県北安曇郡有明村(現穂高町)の北安曇分室に移った。「く」号研究グループは、80センチ波(375メガヘルツ)、1000キロワットの強力電波で、超低空で飛来するB29のエンジンをストップさせることを目的に研究を急いだ。安曇野の北にある送電線から大電力を得、実戦を兼ねて実際に飛行機に対して効果をみよう、ということだった。もし敵が本土に上陸しても最後まで研究を続ける決意だったのである。直径10メートルの反射鏡も、終戦直前には完成したが、ついに一度も使用することがないまま、敗戦をむかえてしまった。
----------------日本軍 無断のチモール島占領-----------------
田母神論文には驚きとともに恐怖を感じました。「旧日本軍の思想が自衛隊の中で生き延び、戦後63年を経た今甦りつつあるのではないか」そんな気がしています。
新しい歴史教科書をつくる会の歴史認識や動きも気になりますが、沖縄戦「集団自決」の軍命を、高校教科書から削除するようにいう文 科省の検定意見も、何か田母神論文と通じる歴史認識であるように思います。大浜長照石垣市長の、「県民にとって歴然とした実相だが、来年度から使用される高校の教科書から沖縄戦の事実が消されそうになっており、沖縄県民は強い危機感をもっている」との声明が報道された時、それをコピーした覚えがありますが、文科省も、そうした沖縄県民の声には耳をかたむけず、「不都合な事実はなかったことにしようとする」姿勢なのではないでしょうか。
田母神論文の「日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない」という部分は理解できます。しかし、村山談話にある「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して、多大の損害と苦痛を与えました」という歴史的事実の謝罪を認めず、軍人が政治をほしいままにしたあの軍国日本の所業を含め、「すばらしい国だ」というのは、日本に謝罪を求めた多くの国々と戦争の続きをやろうとするに等しい姿勢だと思います。日本を真に誇りの持てる国にするためにこそ、「国策の誤り」は認めなければならないと思うのです。
私が今まで抜粋してきた証言や報告その他はすべて、「国策の誤り」または、国策の誤りに起因するといえるものですが、さらに、田母神論文に対する反論のひとつになるのではんないかと思う事実を、「真珠湾・リスボン・東京 -続一外交官の回想-」森島守人(岩波新書)から、抜粋することにしました。歴史的に深い交流もあり、極めて親日的であった中立国ポルトガルとの関係の問題です。
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11 日本軍のチモール島占領
日本ではみぎのように、情報基地としてのリスボンを重視していたが、このリスボンでの活動を中止しなければならなくなるかも知れぬ と憂慮された要因が二つあった。一つは日本軍のポルトガル領、チモール島占領であり、他の一つは華南のポルトガル領マカオに対する日本軍の高圧的態度であった。陛下もこの上敵国をふやしたくないとのお考えから、日葡関係を深く憂慮しておられるとの確報もあり、私は両国国交の調整には全力をつくした。
日本軍のチモール島占領 チモール島はオーストラリアの前面に位する一島嶼で、東半がポルトガル領、西半がオランダ領となっている。この島はオーストラリア攻略の基地として、軍事的価値があったため、昭和16年の12月、濠、蘭軍がまずポルトガル領を占拠した。ポルトガルはイギリスへ抗議し、ついに両国間の重大問題となり、当時対英断交説さえ擡頭した。交渉の結果、ポルトガル本国からの派兵をまって、濠、蘭軍が撤退することに話し合いがまとまった。ポルトガルが本国兵派遣のため日本とのあいだに、戦闘地域を通過する際の航路の選定などについて、具体的に話し合いを進めていたやさき、日本は、翌17年の2月、無断でチモール島を占領してしまった。日本は「軍事上の必要にもとづく自衛行為で、ポルトガルの主権や領土権はあくまでも尊重する、軍事上の必要が消滅し次第撤兵する」と声明したが、ポルトガルは、領土主権および中立権の侵害だとして、厳重に抗議した。その上現地の日本軍が通敵または利敵行為を行ったとの理由で、土着民やポルトガルの官吏を、勝手に逮捕、監禁、処罰したため、問題を一層紛糾させてしまった。その真最中に、日本軍は無電臺を押収、管理して、通信主権侵害の問題までひき起こした。
しかしポルトガルの首相兼外相のオリヴァーサラザール博士は、戦争を否認する独自の政治哲学上の見解と、中立維持の実際政治上の方針から、領土主権侵害という原則上の立場と、この問題の実際的処理とは、別個の問題としてとりあつかう方針にでた。さしあたり日本の誓約に信頼して、主権と行政権とが有名無実にならない以上、現地の日葡両国官憲のあいだに、不必要な摩擦を起さず、双方の融和的接触によって、チモール原住民の平和的生活を確保しようとの方針にでた。これがため、ごうごうたる輿論の攻撃を排して、対日反感の激発を抑えつつ、日本公使館とのあいだに、根気よく交渉をつづけてきたのであった。
交渉停頓と対日感情の悪化 ・・・
しかし、そのうちにオーストラリア船でチモール島から避難したポルトガル官民がオーストラリアへ着くと、オーストラリア発の新聞電報や、本国の親戚、知人にあてた私信によって、日本軍の残虐行為が頻々として伝わり、日本軍は土人を先頭に立てて、これを掩護物として敵軍を掃蕩しているとの記事まで大袈裟にでた。対日感情の悪化したことは当然であった。
アゾーレス協定の成立 このような険悪な空気のうちに、何とか交渉再開の糸口を見つけたく、好機の到来を待っていたところへ、翌1 8年の夏、イギリスとポルトガルとのあいだに成立したアゾーレス協定が、この機会を提供してくれた。アゾーレス群島の軍事的価値は前に一言した通りだが、ポルトガルは、英米両国と長い交渉をとげたあげく、アゾーレス群島中の一つの島を空軍基地として使用することをイギリスに対して承認した。
私は訓令によって、右協定の中立違反について、厳重な抗議を申し入れた。これに対してサラザール外相は、「公然ポルトガルの主権と行政権とを侵害し、中立権を蹂躙している日本は、道義的にも、法律的にも抗議を提出し得べき立場にない。もし日本政府から、公文で抗議があれば、ポルトガル政府は、チモール島で行われている日本軍の行為について、いちいち公式に抗議せざるを得なくなるだろう」と述べて日本の申し入れを容認しなかった。……
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ポルトガルの撤兵要求 視察報告がリスボンに着いた後、私はサラザールに対して、右視察の結果にもとづいて、善後措置を協議することを申し入れた。これに対しサラザールは「全島は日本の誓約に反し、純然たる日本軍の軍政下にあり、ポルトガルの主権と行政権とは完全に無視されている。オーストラリアへ避難した者の通信中には、誇張にすぎたものもあったが、日本軍の残虐行為は相当なものだ。しかし視察報告の結果にもとづいて、いちいち問題をとりあげて、この際貴下と議論しても、問題の根本的解決に資するところはないであろう。また、太平洋方面の戦局の現状から見ると、日本はオーストラリアへの侵攻を放棄したように観察され、日本軍のオーストラリア攻略の前進基地として、チモール島のもつ軍事的価値はいまや消滅したように判断される。したがって、あくまで、日葡国交の正常化を計るためには、この際むしろ根本にさかのぼって、日本軍のチモール島撤退について、考究すべき段階に達したと認められる」との重要な発言をなした。
-----------------マカオの澤機関と福井領事射殺事件---------------
戦時マカオはポルトガル領であり、ポルトガルは歴史的に日本と深い交流のあった極めて親日的な中立国であった。しかしながら、そのマカオで、大戦末期、福井領事射殺事件が発生した。旧陸軍のマカオでの主権侵害行為が背景にあったようである。「真珠湾・リスボン・東京 -続一外交官の回想-」森島守人(岩波新書)から、抜粋する。
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12 マカオをめぐって
福井領事射殺事件 昭和20年初冬、中国南岸のポルトガル領、マカオ駐在の福井保光領事が、早朝市内で中国人一団のため、射殺された事件が起きた。私は外務省から、ポルトガル政府に対して、(一)正式謝罪、(二)犯人の逮捕ならびに処罰、(三)治安維持に関する将来の保障および(四)損害賠償を要求すべしとの訓電を受けとった。
後に判明したところによると、福井は毎朝、在留邦人のあいだに行われていたラジオ体操に参加した後、領事館へ帰る途中、中国人の襲撃に会い、拳銃で射殺されたのであった。私の奉天在勤中、福井は奉天総領事館の新民屯分館の主任として、2、3年間勤務していたが、在留同胞にも親しまれ、中国官民間の気うけもよく、温厚、篤実な人となりで、けっして中国人から個人的怨恨を受けるような人柄ではなかった。私としてはその射殺の背後には、何らか政治的動機が潜在しているように、感じざるを得なかった。
ポルトガル側との交渉 日本側の要求項目中、私としては前の三項については、異存はなかったが、(四)の損害賠償については、考えさせられるところがあった。革命騒ぎをくり返し、暴動沙汰の頻発する国に対しては、平素から政府が国内の治安を維持する能力を欠いているものと見なして、この種の事件についても、これを政府の責任に帰して、損害賠償を要求した事例は少なくなかった。昔のシナがこの適例であった。しかし通常の文明国に対しては、この種の事件は、その国の官憲側に故意または怠慢のないかぎり、普通の刑事事件としてとりあつかうことが、当然だった。
私は右の見地から、ポルトガル政府に対して、賠償要求をもちだすべきでないのみならず、軽々しく賠償をもちだすと、かえってチモー ル島における日本軍の暴虐行為について、ポルトガルの賠償要求をひきだすおそれが多い。せいぜいポルトガル政府が、自発的に見舞金をだすように、私の思いつきとして勧めてみるくらいが、適当だと考えた。
外務省もけっきょく私の意見を容れたので、外務次官とのあいだに、話し合いにはいった。……(以下略)
陸軍のマカオ占領計画 この話し合いの際、次官はマカオ方面の治安に関連して、つぎの通り打ちあけて、暗に日本政府の注意を求むるところがあった。
「マカオへは日本の陸軍が、政庁に無通告で、澤大佐なるものを派遣しているが、同人は公然澤機関なるものを設けて、勝手に中国人を逮捕、監禁、処刑している。明らかにポルトガルの主権侵害だが、政庁では現地の日葡関係を考慮して、今日まで黙認してきた次第だ。」
私は右の打ち明け話を聞いてはじめて、福井領事射殺の謎が解けたと思われた。マカオ領事館からの電報によると、領事の射殺につづいて、日本領事館に対する発砲や、中日両国の便衣隊の武力衝突など、いろいろな事件が頻発した。また現地では、アメリカ軍が香港などへ進攻する場合には、マカオの治安をマカオ政庁だけに委しておけない。速やかにマカオに出兵して、居留邦人の現地保護にあたるべきだとの議論が盛んになっていた。南京の駐華日本軍司令部から、強硬な出兵論が具申され、岩井英一領事さえ、これを支持していた。そして、でさきの軍は、昭和14年夏天津で行ったイギリス租界封鎖の故智にならって、マカオの封鎖を断行した結果、30万の中国民衆は食料の暴騰と入手難とのため、日常生活上、至大な痛苦をなめていた。……
・・・
……福井も陸軍自身の手によって倒れたのではないが、けっきょく陸軍の謀略の犠牲となったわけで、まことに気の毒に堪えない。……
(以下略)
---------------真珠湾のスパイ「森村正」の暗号電文----------------
「東の風、雨 真珠湾スパイの回想」吉川猛夫(講談社)は、「森村正」を名乗って領事館に勤務していた諜者(スパイ)の回想である。著者吉川猛夫は、昭和8年11月海軍兵学校を卒業し、遠洋航海を終えた後、巡洋艦「由良」の暗号士、横須賀水雷学校を経て、霞ヶ浦
飛行練習隊に入ったが、病気のため軍令部第3部第8課に転じ、第5課長からハワイ行きを命ぜられスパイとなった人である。真珠湾奇襲攻撃に備え、気象情報を含め様々な情報を、あらゆる手を尽くして収集し、暗号文書(発信者は喜多総領事名)を送り続けたのであるが、その2,3を抜粋する。どこの戦場でも「スパイ」の存在はあまり明らかにされていないが、彼は奇襲攻撃を決定するために極めて重要な任務を負わされていたことがわかる。
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起案第一信
○発ホノルル 喜多総領事
宛 東京 外務大臣
1941・5・12
11日真珠湾在泊艦艇左の通り
一、戦艦11隻(コロラド、ウェストヴァージニア、カリフォルニア、テネシー、アイダホ、ミシシッピ、ニューメキシコ、ペンシルバニア、
アリゾナ、オクラホマ、ネヴァダ)
重巡5(ペンサコラ型2,サンフランシスコ型3)
軽巡10、駆逐艦37、駆逐母艦2,潜水母艦1、潜水艦11、輸送船その他合わせて十数隻
二、空母レキシントンは駆逐艦2隻を伴いオアフ島東岸沖を航行中
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しかし、彼はこの頃にはまだ真珠湾攻撃があることを知らず(何も知らされていなかったので)、アメリカ艦隊が真珠湾を出港して、日 本ないし南方に進撃すると思っていた。そして、「いかなる兵力が、いかなる目的をもって、どのような行動をおこそうとしているか」を先見すべく、情報を収集したという。その彼が、半信半疑ながら真珠湾攻撃を察知したのは、下記の電文が彼の元に届いたときであった。
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○発 東京
宛 ホノルル
1941・9・24
厳 密
今後、貴下はでき得るかぎり次の線に沿って艦艇に関する報告をされたし。
一、真珠湾の水域を五小水域に区分すること(貴下が出来るだけ簡略にして報告されても差し支えなし)
A水域(フォード島と兵器庫の間)
B水域(フォード島の南及び西、Aの反対側)
C水域(東入江)
D水域(中央入江)
E水域(西入江及びその通路)
二、軍艦、空母については、錨泊(at anchor)中のものを報告されたし。
埠頭に繋留中のもの、浮標繋留したもの、入渠中のものは、左程重要ではないが報告されたし。
三、艦型、艦種を簡略に示すこと。
四、2隻以上の軍艦が横付けになっているときは、その事実を記されたし。
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6日には立て続けに電報を打っているが、絶好の攻撃チャンスを的確にとらえていたことが分かる。
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(一)6日午前真珠湾在泊艦船左の通り。
戦艦 8隻 2列にA地区に繋留
空母 2隻 B地区
重巡10隻 C地区錨泊
軽巡 3隻 駆逐艦17 C地区
その他軽巡4、駆2入渠中
(二)艦隊には異常の空気認められず、臨戦準備態勢にあらず。
(三)阻塞気球なし。
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開戦6時間前に東京に届いた彼の最後の電報(第一信以後177通目の真珠湾情報)が下記である。彼は、同書の中でハワイ発信の暗号が解読されたのは、真珠湾合同調査委員会の聴取書によると3通に過ぎなかったと報告している。そして、マニラの暗号が54通解読されていたことと考え合わせ、アメリカは日本の攻撃が南方であると予想し、真珠湾を対象としていたことは充分把握していなかったのではないかと分析している。
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○12月6日
発 ホノルル喜多総領事
宛 東郷外務大臣
第254番電
(一)5日夕刻入港せる空母2隻、重巡10隻は6日午後全部出港せり。
(二)六日夕刻真珠湾在泊艦船は、
戦艦 9隻(註 練習戦艦ユタを算入)
軽巡 3隻 4隻入渠中
駆逐艦 17隻 2隻入渠中
潜水母艦 3隻
その他多数
(三)艦隊航空へ威力では航空偵察を実施していないようである。
---------------真珠湾 残置諜者”オットー・キューン”---------------
「東の風、雨 真珠湾スパイの回想」吉川猛夫(講談社)には、著者のいやな思い出として日本側残置諜者ことも報告されている。それは、ドイツ人のオットー・キューンである。スパイの生々しい活動の一端を知ることができる。まるでスパイ映画そのもののようであるが 事実のようである。
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オットー・キューン
昭和16年11月の末、東京は、開戦と同時に、われわれが逮捕監禁せられて、情報源がなくなることを慮って、ひそかに、ハワイに残 置諜者をのこそうとした。その間の事情は、語らないことにする。白羽の矢は、ラニカイ海岸に住む元ドイツ海軍士官キューンであった 。彼に金を持っていく段になって、喜多総領事は、はたと困惑した。この仕事は危険である。もし捕まることがあれば、一網打尽に逮捕せられる。館員の中には、誰も引き受け手がない。喜多さんは私を呼んで、
「じつは、森村君、こういう仕事で、キューンという家へ、金を持って行くのだが、きみ一つ行ってくれないか?」
「残置諜者を、おくことなどは、 私は初耳です。この間の事情を話して下さい」
「いや、説明はきかないでくれ給え。またこの新聞紙に包んだ札束の金額も、聞かないでほしいし、また、きみも見ないでくれ給え」
「それでは、一切の事情が分かりかねます。……他人が工作したことは、私は、手をかしません。危険だからです。工作した御本人が、持っていけば宜しいでしょう」
「……」
「諜者は、ひとりひとり独立して、互いに関連して仕事をもつべきではないと、いつもおっしゃっていたのは、総領事、あなた御自身でありましょう」
「うん。だが、森村君、お互いに、お国の為の仕事なんだ。きみをおいて、他に適当な人がいないんだ。なんにも、きかないで行ってくれ ないか。たのむ。……」
総領事の顔は、脂汗で、テカテカ光っていた。二人は、沈黙して、机の前に立ちつづけた。
「総領事、参りましょう……」
と私は、つぶやいた。彼は立ち上がって、私の手をとった。私は、これが最後だと思った。8ヶ月の間、FBIにも感づかれないできた諜報活動も、これでおしまいだ。行手には、きっと、FBIが、手ぐすねひいて、待ちかまえているにちがいないと思ったのである。
総領事は、やおら、一片の紙片を執り出して、
「相手が、この紙片の半切れを持っているから、互いにくっつけて符合すれば、その相手は、本ものだから、うまくやってくれ」
といった。
紙片には、Kalama と書いてある。相手の持っている紙片と合わせると、Kalama となると教えられた。
ラニカイ海岸で車を降りた。私は、スポーツズボンにアロハシャツのかっこうで、左手に新聞紙の金包みを下げた。目的の家は、りっぱ であった。家の周囲を一周してみたが、FBIらしい人影はない。私は、玄関からつかつかと入って「ハロー」と叫んだが、誰もでてこない。家の中はシーンとしている。誰か、かくれているな、と六感が知らせた。もはや、ひくにひかれない。意を決して、食堂らしい建物の前のポーチまで進んで、
「ちょっと、おたずねしますが……」
あたりを見廻しながら、大声をあげた。すると返事もしないで、小柄な、目のするどい男が、もさもさっと出てきた。
「今日は、ええと、ええと、このあたりにキングさんという方は、この近くに……教えてくれませんか……あの方は、ええと……あなたのお宅の…得Tんナンバーは……」
てな調子で、紙片をもてあそんだ。私は彼の目を見た。たしかに反応があった。私は、こいつに間違いない、と思って、彼の目の前にず いと、紙片をつきつけた。彼は動揺した。右のズボンのポケットから、同じような紙片を取り出して、台の上に拡げて、つぎ合わせる。
Kalama と読めた。彼の手は、ワナワナと震えていた。
「あちらで、お話し申しましょう……」
といって、広い芝生のある裏庭の片隅にある、小亭を指さした。小亭は、日本風の東屋で、腰かけがあるだけで、上半身は、外から見えるようになっていた。彼はキョロキョロ見廻しながら語った。
「あなたは、たしかな人らしい。途中の道中は、だいじょうぶであったか。なにか持ってきたか」
という。彼の英語は、ドイツなまりがあって、ききとりにくい。2、3度、ききかえした。
「なにもかもだいじょうぶだ。心配するな」
といって、金包みを手渡した。彼は、無言のまま、中を調べもしないでポケットに入れた。
「さて、それで、どういうことになるんだ。君の返答は?」
と追求した。彼はオドオドして、口ごもりながら、
「この状態は、たいへん危険だ。やるとすれば……、シグナル、私の家から、自動車、サイン……規約……決定しない……、いつか日をあらためて……ええと……」
といいだすので、一向要領を得ない。私は、確実な返答が欲しいのであせった。どうも、彼の英語は、苦手だった。そこで、私は、
「きみが、返事を書く間、待つから、早く書け。私は、二度もここに来るのは好まない。その方が、お互いに安全ではないか」
といったら、彼は、
「では、こうしよう。一週間、以内に、私が出ていく。日時、場所は、こちらから、他の適当な方法で知らせる」
と力強くいった。
「OK、返事を待つ」
私は、彼のあおい目をみつめていって、夕闇せまるラニカイ海岸にさまよいでた。高いユーカリの梢に、落日の光が、かがやいていたのを覚えている。
さて、それからどうなったのか当時、私は、ここまでのことしか知らなかったが、戦中戦後を通じて知ったことはこうである。
このドイツ系米国市民キューンは、早くからハワイに移住していて、表面、砂糖黍畑などを経営していた。私が使いに行って、2,3日してから、約束を守り、ハワイ付近の艦艇報告を、燈火、自動車のヘッドライトを利用して、附近に待機する日本潜水艦に、知らせようと計画したのだ。彼は、ある人から依頼され、2万ドルでこの仕事を引き受けた。金を受けとってから間もなく、彼は、ある人に規約を書いたものを手渡した。そのある人は、喜多総領事の名において東京へ暗号電報した。今、その電報を要約すると、
○1941・12・2発信
発 ホノルル総領事
宛 東京
一、八信号の意味次のとおり。
偵察及び警戒部隊を含む戦艦群
出撃準備中 ……1
空母多数出撃準備中 ……2
戦艦群1~3日に全部出港 ……3
空母1~3日に数隻出港 ……4
空母1~3日に全部出港 ……5
戦艦部隊4~6日に出港 ……6
空母数隻4~6日に出港 ……7
空母全部4~6日に出港 ……8
ラニカイ海岸に夜間、右の通り、家に燈火を点ず。
日中ラニカイ湾で、ヨットの帆に”星”のマークがあれば、信号5678を示す。
日中カラマハウスの古典的な窓に燈火があるときは、345678を示す。(以下省略)
ところが、この暗号は、12月11日、米海軍に傍受解読せられた。
かねてから、キューンの金廻りのよいことに不審をいだいていた(銀行に7万ドル?の預金があることまで内偵せられていた。)FBI は、直ちにオットー・キューンを逮捕した。キューンは、自白した。見知らぬ男(私のこと)から、金を受けとったことまで、しゃべった。戦時中、彼は20年の刑を受けて獄舎につながれた。私はアリゾナに軟禁中、このことについてFBIの峻烈な尋問を受けた。……(以下略)
・・・
……私は、幸いにも(相手が文明国である故に)拷問に会わなかったが、拷問に会ったとしたら、人間は、どこまでたえられるだろうか。一思いに、死地にとびこむことはできるが、長時間の苦痛には堪え得ないのでは、ないだろうか。
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戦後、彼は妻子を田舎に帰し、平和条約が結ばれ戦犯追及が終わるまで逃亡生活を続けた。闇屋もし、出家遁世も経験したという。
----------------真珠湾奇襲攻撃暗号解読の謎----------------
日本軍の暗号がアメリカ軍によって解読されていた事実は、「秘録陸軍中野学校」畠山清行[著]保阪正康[編](新潮文庫)に詳しい。そして、ルーズベルトが日本に戦争を仕掛けさせるよう追い込み、日本の攻撃計画を把握していながら、「奇襲攻撃」を装って反撃に出たということも、様々な文献から、ほぼ間違いのない事実のようである。しかしながら、暗号解読の詳細(解読暗号電文数や解読所要日数等)から、アメリカは真珠湾ではなく、日本軍の南方攻撃を予想していたのではないかという真珠湾のスパイ吉川猛夫-秘匿名”森村正”-の分析も説得力がある。「東の風、雨 真珠湾スパイの回想」吉川猛夫(講談社)からの抜粋である。
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開戦前の日本暗号
日本が真珠湾に爆弾を落とす以前の4ヶ月間に、外務省の極秘軍事情報が、108通もアメリカ側に解読せられていたということは、実に驚くべきである。
もっとも知ったかぶりをする人は、日本の情報は、すっかりアメリカ側の手に入っていて、真珠湾奇襲なんて、まんまと日本がアメリカの謀略にひっかかったのだと解釈する人が、今日多いことを知っている。しかし、それらの人々はなにを根拠にし、かくいうのであろうか、と私は反問したいのである。
20年を経た今日になっても、アメリカ首脳部は、真珠湾奇襲を知っていて、日本に手を出させたのだとする説と、アメリカは、全く知らなくて不意打ちを食ったのだという説があって、互いに論争を交えて依然として謎であるが、私はアメリカ側が傍受解読した暗号電報を基礎として、新しい研究を試みたいと思う。
・・・
まず結論をいうと、アメリカは「日本は南方を攻撃するにちがいない。だから南方情報には最大の注意をしよう」……これがアメリカ、即ちルーズベルトの肚であったと考えられる。
ここで、私は、ルーズベルトの立場に立って推理を試みよう。
なるほどハワイは太平洋艦隊の大根拠地だ。ここをやられるのは痛い。太平洋艦隊が潰滅するようなことがあれば、これは一大事だ。しかし、日本は、長駆ハワイを攻撃するようなことが果たしてできるだろうか。太平洋艦隊に戦を挑むには、日本は全艦隊を率いて来なければならぬ。果して日本にそれだけの軍艦、飛行機、タンカー等の余裕があろうか。なおかつ2千浬の大洋を渡って、のこのこ来る間には、ミッドウェイ、ウェイキの哨戒線を越えねばならない。たとえアメリカ艦隊が四分六分の勝負をしても10ヵ所の陸上航空基地をもっている我が方の勝算大なり。日本は、かかる冒険はやらない。実利の伴わない冒険は、貧乏国の日本がやるはずがない。それならば、日本の攻撃目標は、南方だ。むろん、フィリピン、グァムはやられるが、これはこちらにとってあまり痛くない。まきぞえを食らって、香港、シンガポール、蘭印は蹂躙されるだろうが、そうなれば、英、蘭と協力し得られるではないか。しかし、まてまて、日本が南方に手を出すとすれば、その前にやらねばならぬことがある。っそれは情勢判断のために、日本の暗号解読に力を入れねばならぬ。東京、在外公館の動きを見ておれば、こちらも最小の被害で、日本に手を出させる目的を達成できるではないか、と。これがおそらく、アメリカ首脳部の考えていた真相であっただろう。
・・・
アメリカは、この3つの方法(通信傍受、写真撮影、暗号書取得)を、陸海軍、外交官、FBIの三者がそれぞれ分担して、昭和16年8月1日から12月8日までの間に、108通、開戦後、24通の外務省暗号を解読した。
これを地域別に区分してみると、
地名 開戦前 開戦後
東京発信 15 (3)
ハワイ発信 3 (8)
パナマ発信 20 (6)
マニラ発信 54 (5)
東南アジア
米西海岸発信 15 (3)
計 108 (25)
総 計 132
この数字は、真珠湾合同調査委員会聴取書によった。これは、アメリカの委員会発表のもので、真珠湾の責任を追及するために調査されたもので、明確に、本文、日付、翻訳官、暗号種別を記載してあるから、一応、信をおくにたるものと思われる。アメリカへ筒抜けだったといわれるハワイ情報はただの3通を解読せられたにすぎないが、マニラ、東南アジア合わせて70通が翻訳されているのは、果たしてなにが原因か。
・・・
いずれにしても、アメリカはマニラ情報入手に万全の措置を講じていた事が窺われる。これに反して、ハワイには、さ程厳重な解読努力が払われていなかった、と推論するわけである。
・・・
次に電文を紹介する。
(1)
発 東京(外務大臣)
宛 メキシコ
1941・6・23
<紫>
パナマ運河及び附近の地図入手の計画に関しては、本職の木原大使館付武官をパナマへ公務出張せしめられたし。
(吉水秘書官を同行せしめたが良いかも知れぬ)
地図を飛行機で持ち出したら、佐藤海軍武官が帰朝の際東京へ持参せしめられ度し。
又、彼等が我が暗号を一部解読してあるかの疑いも若干ある。従ってこの仕事の遂行には最善の留意を払われんこと
を望む。……
米海軍翻訳 1941・6・24
東京が6月23日に打って、6月24日には解読せられている。
・・・
(7)
発 マニラ
宛 東京
1941・11・13
<紫>
第757番電
1 当方第753番電の重巡は、ポートランドであった。
2 13日朝デフェンダ型の英駆逐艦入港。
3 当方第742番電の潜水艦9隻のうち8(又は4?)隻は129級であることを確認した。これ等は最近当港に入港
したが、正確な日時は不明である。
米海軍解読 1941・11・13
この(7)番電は、即日、解読せられたことが、重大な意味を持つ。……
・・・
さて、ハワイの通信はどうであったかと検討すると、8月から12月8日までに、8通を解読されているにすぎない。その中、5通は、東京からの指令電報で、ホノルル発信のものは、3通解読されたにすぎない。そして、解読所要日数は、15日乃至19日を要し、内5通は12月5日以降になって、解読しているから、ハワイ攻撃に備える準備ができなかったのではないかと推察される。
東京ホノルル間の解読された電報のほとんどは、解読日数16日乃至19日である。南方通信に比べて3倍の長さである。このことからして米国は、ハワイ通信に注意しつつも、特別な関心をよせていなかった事が看取される。……(以下略)
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この説に従うと、ルーズベルトが真珠湾奇襲攻撃の被害の大きさに愕然としたといわれていることが容易に理解できる。
-----------------チモール島占領と旧日本軍の圧政----------------
田母神論文に「しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマ で、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多 くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある」とある。しかし、下記に抜粋した文を読めば、それがウソであることが分かる。現地住民に告発され戦犯として処刑された者も少なくないのである(チモールのクーパンで処刑された者だけで6名だという)。そして、このような事実はいたるところにある。日本の空幕長が大嘘つきであることが情けないし、恐ろしい。
「チモールー知られざる虐殺の島」(彩流社)の著者は(田中淳夫)そのあとがきに書いている。『……だから私の旅は、チモールを自 分の膚にする過程だったということもできる。実際にインドネシアとチモールの土を踏み、そこに住む人々と交わり、さらに日本とチモー ルの歴史を追いかけることによって、遠い南の島を身近なものにする──「痛み」を知るための旅だったのだ。今、旅の道程をふり返って みると、少しは「日本とチモール」の姿がみえてきたような気がする。そして「痛み」ととみに、「責任」も浮かび上がってくるのを感じた』と。同書は知る人の少ないチモールに実際に足を踏み入れての貴重な調査報告書であり、歴史書であると思う。同書の中の「Ⅱ 旧日本軍の足跡」の中から、何カ所か抜粋する。
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慰安所と反日チモール人
一般の兵士にとって、休日の最大の楽しみは慰安所だった。
慰安所と慰安婦──ようするに軍が赤線を経営したわけであるが(形式的には御用商人の経営である)、まさに他国に類を見ない制度である。これは日本陸軍に部隊を常に後方と交代させる余力がないことが生み出した醜部といってよい。後方にあるべき歓楽地のエッセンスだけを前線まで持っていったのだ。
チモールにも慰安所は開設された。
公式記録には「朝鮮人50人」とされているが、実際にはジャワ島あたりからどんどん渡っていた。ジャワやマライ半島の軍人が減るに つれて、女たちも最前線へと向かったのだ。(ガダルカナル島へさえ行こうとした記録がある。)
人種的には、日本人慰安婦(沖縄の女性が多かった)は高級将校用となり、朝鮮人やインドネシア人などが一般兵士用だった。
100人足らずの慰安婦に2万人が群がった。とうてい足りないため、チモール人からも集めた。といっても希望する者などまずいない から、酋長に供出を頼む。さすがの親日チモール人も喜んで出したわけではないだろう。
しかも、集めた女たちを軍医が検査するとほとんどが病気だった。100命中2名しか合格しないありさまである。
岩村中尉(1944年5月昇官)が命令によりバギアに慰安所を開設することになった時は、付近の住民の女は全員失格だった。そこで あちこちから中国人やインドネシア人の女が集められたが、その中にキサル島の女たちもいた。キサル島とは、チモール島東端の少し北にある小島である。
この島に討伐にいった小原正大中尉が、ある村の男を皆殺しにし、女たちを連れてきたのだという。〔注・このキサル島討伐については 確認がとれていない……〕
慰安所だけでなく、チモール人部落における強姦事件もところどころで起こっている。
このような日本軍の軍政に対して、立ち上がったチモール人も多くいた。……(以下略)
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道路師団長というニックネーム
第48師団が機械化師団であることは先にふれた。500輛近い車両を持っており、馬は司令部用にわずかにいるだけだった。
もっとも、内実は、装甲車や砲車の牽引車以外は徴発したフォードやニッサンの中古とらっくであり、いささか現代の機械化部隊のイメ ージとはとがう。
ともあれ、2万名の兵力が台湾に近い面積の島に散っているのだから、もし敵の反攻があれば、すぐに上陸地点に部隊を大移動しなければならない。そのような機動力こそ、機械化師団のお家芸なのだ。
ところが、チモールには道路がなかった。西チモールではくーパンから内陸の高原を抜けてアタンブア、そし、海岸のアタンププまで 。東チモールではディリから北岸をバウカウ、ラガ、ラウテンまでのびているのが一応の幹線で、他は道とは名ばかりの、踏み分け跡だった
。特に南北に縦貫している道がなかった。
そこで島の一週道路と南北を連絡する6本の自動車道路の建設が計画された。この決定を下した土橋勇逸師団長はこのため道路師団長というニックネームがつくのだが、それほど師団あげての道路工事であった。
工事の始まったのは、1943年の後半と思われるが、決して楽な作業ではない。雨期と乾期に分かれる気候は自然を激変させた。雨が降れば道は川になり、橋は流される。東チモールだけで延長8キロにおよぶ架橋が行われ、道路延長は1000キロに届こうという代物である。
当然、資材も労働力も軍だけでは足りず、現地住民が動員された。馬や木材も現地調達である。
これらは強制的に割り当てられ、作業中は監視がついた。食料は一応軍で手当するようにしていたが、その量が極端に少なかったり、不足したりすると自前になった。
チモール人の主食はジャゴンと呼ばれるトウモロコシである。一本が日本で普通に見られるものの半分もなく、粒も小さい。それを1日 に5本か6本の割り当てでは足りるはずなかった。しかも強制動員だから、勝手に村へ帰ることもできず飢える者が続出した。
チモール人は、見かけによらず体力はない。もともと収穫の端境期になるとあばら骨が浮き出るような状態の生活だったから、重労働は向いていないのだ。力も、日本人あら片手で持つような石をようやく一つ持つありさまだったという。
いやがる者を、宣撫物資をわたしなだめているうちはよかったが、とうとう餓死者を出すまでに至った。
岩村中尉が大隊副官に任ぜられ、バギアからアリアンバタまでの25キロの道路建設を命じられた時は、6000名のチモール人を動員した。
・・・
時はもう1944年も押しせまっており、食料事情も極端にわるかった。動員した6000人には宣撫物資どころか軍票さえ支払われなかった。すでに軍票の流通は維持できなかったのである。しかも食料は自前であった。
「何度も酋長が来て飢えて死ぬ者が続出していると訴えていた。だが、どうしようもない。完成まで3、4ヶ月かかったが、毎日そんな調子だった」
・・・
建設されたのは道路だけではなかった。陣地構築にもまた膨大な手間と人手をとられた。普通の陣地では爆撃にやられるから、その多くが地下にもぐったのだ。
特にラウテンの飛行場陣地には、延べ数キロのおよぶ洞窟陣地がつくられた他、司令部のあったクーパンにも複郭陣地構築が突貫工事で行われた。地下に野戦病院から発電施設、武器弾薬食料集積所までつくられたのだ。また後には司令部の移されたディリ郊外のチバル──日本軍は千早城と呼んだ──にも最後の拠点陣地が築かれている。
そしてこれらの工事にも多くのチモール人が動員されたのはいうまでもない。
だが、いずれも食料の不足で作業力は半分以下に低下する中での工事だった。また材料もないため、教会まで壊してその資材を利用するありさまだった。
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二万人の島流し
・・・
飢餓は、日本軍の中だけで起こったわけではない。
もともと自然採集に頼るところの多かったチモール人社会に、壮青年男子が2万人もやってきて、やがて補給が途絶えたのだ。
最初は気前よく宣撫物資をばらまいていた軍も、時とともに苛烈な収奪者と変わってきた。
あちらこちらの部落で略奪事件が起きた。チモール人の畑や家畜が荒らされ、供出を命ぜられた。かれらのヤシの実やサゴヤシ、バナナ、トウモロコシなどが対価なく奪われた。
さらに野生の動物も全滅状態まで狩り尽くされた。猿まで獲って食われた。家畜と野生の区別が判然としないチモール人にとっては、これも大変な痛手だったろう。
他、道路や陣地構築に動員された多くのチモール人が飢餓に陥った。
チモール島の2万人は戦線から取り残され、巨大な島流しになったも同然だった。戦況の悪化は誰の目にも明らかで、これまで恭順の意を表していたチモール人にも変化が見え出した。野盗団さえ出没した。島は動き出したのだ。
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